アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

「古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて」  諏訪湖地方を開発した出雲族  その3

2020-02-03 07:15:47 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
諏訪湖地方を開発した出雲族  その3
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出雲を原郷とする信濃人
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面白い新聞記事を持っています。

長野県中野市越の越智神社の主祭神は 御穂須須美(みほすすみ)だそうです。古代文字で書いてあるそうです。
場所名からして いかにも越の国とかんけいありそうですね。

松江市にも越の人がたくさん移住してきていたので 古志とか古志原とかいう地名が今もあります。
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御穂須須美(みほすすみ)とは事代主と沼川姫の娘です。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
もちろん出雲族には おなじみの御姫様ですが。

事代主が徐福らに殺された後 松江市美保関に残り父の事代主(八重波津身)を祀り一生を終えられた姫です。
出雲族にとっては なじみの深い御姫様です。

ということはこのあたりに住んで 開拓したのは 建御名方に付き従って諏訪湖周辺へ移り住んだ
出雲族の子孫と考えられます。
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出雲族と御柱のこと
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上社の御柱祭の説明がありました。
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秋宮の御柱です。

諏訪大社の御柱祭について かの岡本太郎氏は「縄文人の血がそうさせるのだ」とほめたたえていました。

しかしそれは違います。

出雲族の血がそうさせるのです。
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これは出雲王の葬儀に墳丘墓に御柱を建てる古代出雲の人たちです。
殯の宮の建設と思われます。なんと似た風景なのでしょう。

出雲族は 古墳築造技術にも 土木工事にも長けていました。土師氏と呼ばれる人たちです。
大和の大王の巨大墳墓は ほとんど土師氏の制作です。

※この写真は出雲弥生の森博物館で私が撮影したものです。
このブログの2014年6月20日の記事に詳しく載せています。
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これは近年発掘された 古代出雲大社の宇豆柱(うずばしら)です。
直径が約1.5mの巨大な丸太材を3本束ねて それを巨大な宇豆柱として 高さ94mの巨大神殿を支えていました。

宇豆柱とは 大社造りの9本の柱のうち正面の妻側の中央の柱で 若干外部へはみ出していてその柱が
棟まで伸びて建物を支えています。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。
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巨大神殿の模型です。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。実際にこの模型も展示してあります。

平安時代のわらべ歌に「雲太、和二、京三 (うんたわにきょうさん)」と歌われていたそうです。
当時の日本一の高さの建物が 雲州の出雲大社(太は太郎の太で一番の意味です)で二番目が 大和の大仏殿、三番目が
京都の大極殿 という意味だそうです。

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この巨大神殿ができたのは 716年で旧出雲王家の向家と神門臣家が資金を出して 大国主を祀る
大神殿を建てました。記紀では 国譲りの代償として 大和王朝が建ててやったと嘘を書いていますが。

御柱を建てる技術や巨大墳墓を造営する土木技術は 出雲王国時代のものです。
その出雲の民の血が 御柱神事をさせるのでしょう。
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出雲王国の国教 幸ノ神三神のこと
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古代出雲王朝の国教は 幸の神三神でした。つまりクナト大神、佐毘売(さひめ)のミコト、それに皇子神の
サルタ彦です。

ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今のヒンドゥーの
「象神 つまり ガネーシャ」のことです。時代が下った古事記などでは 猿田彦などと書かれましたが。
くれぐれも 猿の神ではありません。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか大山寺に集まったヤクザ坊主どもに
「大山(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられてしまいました。須弥山(インドの聖地しゅみせん)の真似をしたのでしょうね。
そして今では「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけにその名前が残っています。

大神山神社の境内奥に 「行者の道登山口」、「三鈷峰登山口」があります。
※2013年6月12日の記事にも大神山神社訪問記を載せています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山(さひめやま)に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」
と書かれていたそうで、何時、何処の馬鹿が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて居ます。

インドに侵入したアーリア人に押し出されて 南インドから移動を開始したドラビダ人の一派は
ゴビ砂漠からバイカル湖へたどり着き、ブリアートモンゴルと混血を繰り返しながら アムール川を
くだり 日本海を南下して 日本に住み着き、砂鉄の取れる斐伊川下流で 王国を築いたといわれています。
(※斎木雲州著 古事記の編集室 他の著書 大元出版)

ちなみにドラビダ人の一部は 海を渡り南のスリランカに移住して北部に住み着きタミール人となり、今も
スリランカの多数人種シンハリ人との間で内戦を続けています。私がスリランカで働いていた1980年代半ば
たびたび内戦が激化して外出禁止令が出て多数の人が亡くなられました。

ドラビダ語にはそのほか 古代製鉄法のタタラ(激しい炎)や カネ(鉄)などがあるということです。
※詳しくは「弥生文明と南インド 大野晋 岩波書店」を参照してください。

出雲王国の春分祭、秋分祭には王国内各地から豪族が集まり 大名持の司祭のもと クナト大神をはじめ
幸ノ神三神に祈りを捧げました。
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松江市内の嵩山から見た 大神山(今のダイセン)です。クナト大神の宿るとされた山です。
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東出雲王家の宮殿のあった松江市大庭町の高台には カラス天狗広場があります。
石碑には「大山大智明大権現」と読めます。

ここは旧出雲王朝宮殿のあった大庭の地にあり、国教の幸ノ神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある広場)だったと思われます。
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佐比賣山です。三瓶山なんて陳腐な名前に変り果てましたが 「四季の宿 さひめ野」なんて国民宿舎の名前に残っていて安心しました。
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出雲市の出雲神奈備神社の鳥居の正面には 猿田彦を祀る鼻高山(はなたかせん)が見えます。
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出雲の古い神社の一つ 意保美神社境内には塞の神と山の神が祀ってありました。塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなりました。

村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して男女和合の神、子孫繁栄の神とされました。

山の神とはクナト大神のことです。クナト大神は伊弉諾尊(イザナギ)のモデルとされましたが 時代が下り大山祇の命(おおやみつみのみこと)とも
呼ばれるようになったという。(谷戸貞彦 幸ノ神と竜 大元出版)

記紀では 大山祇の命は咲くや木花姫(イニエ王との間にイクメ大王を生んだ阿多津姫のことを記紀はこう書き換えました)の父親と書かれた。
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出雲市の長浜神社は第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)を祀る古くて権威ある神社です。

この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)です。

古代出雲王朝では 東出雲王家向家と西出雲王家神門臣家が 主王と副王を交互に出していたのです。

つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのです。
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社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿です。越の国や新羅から 国土を引き寄せたといわれる神です。

この通称くにびき王の時代に出雲王国は領土を最大に広げたといわれて 松江市の大橋川にかかる橋も
くにびき大橋というくらい 出雲人にはおなじみの古代出雲王です。
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この長浜神社の三つ鳥居は古い形の鳥居の一つで 幸ノ神三神を祀る形です。
真ん中がクナト大神、左が佐比賣の命、右が猿田彦大神を祀るといわれています。

そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫皇女で魏書で台与トヨと書かれた三番目のヒミコ)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社
(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の三つ鳥居にもなっているのです。

※檜原神社は2015年1月29日の NO30の記事に載せています。
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右側には 岐(くなと)の神を祀っていると書いてあります。これは道の分岐点や集落の入り口、また峠道に祀られる
道祖神のことです。つまり猿田彦を祀っているのです。
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この石像が上に載っています。この形はなんと信州各地でよく見る道祖神の一つ夫婦神(めおとがみ)の像です。

つまり夫婦和合と子孫繁栄を願う神で 猿田彦の変形です。

猿田彦は幸ノ神三神の中では若くて力強く、そして鼻の形が男性自身が強大になった時を現すと考えられて
夫婦和合、子孫繁栄の神として また悪霊の侵入を防ぐ神として いろいろな形で各地で祀られるようになりました。
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そしてこれも夫婦和合、子授け、安産の神だそうです。男性器と女性器の形の石が置いてあります。
つまりこれも猿田彦大神を祀っているのです。この石をさすりながら お願いしてくださいとかいてありました。
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伊勢一宮 椿大神社

伊勢で一番古く権威のある神社が椿大神社です。伊勢一宮は伊勢神宮ではありません。
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椿大神社の猿田彦と天の鈿女(あめのうずめ)の命

大和の出雲王家分家の登美家から分家した 宇治土公家(うじとこけ)により、はやくから伊勢に「椿大神社」
(つばきおおかみやしろ)が建てられて 出雲のサルタ彦が祀られていました。

その後大和統一が進むにつれて イクメ大王(垂仁)に追われた豊来入姫は 伊勢に逃れ
宇治土公家に保護を求めたという。

豊来入姫は 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコ(宇佐王国の豊玉姫)の娘です。
(※ちなみに魏書に書かれた一番目のヒミコは「その姫皇女(ひめみこ)が女王に立つと長かった戦乱が収まり和国に平和が
訪れた」と書かれたのが 有名なモモソ姫です。磯城王朝第八代のクニクル大王と磯城家のクニアレ姫の娘で
磯城家当主大田田根子の世話で 三輪山の太陽の女神を祀る巫女として司祭し 各地から大勢の豪族が巻向に集まったといいます)

そして魏国の和国駐在武官の張政により豊玉姫(ヒミコ)の後継者に指名されたということは魏に認められた和国の女王ということです。
そして彼女は魏書に書かれた「トヨー台与」のことです。当時和国は魏の属国状態だったので 指名されれば正真正銘の和国女王です。

しかしイクメ大王が和国を統一すると たくさんの土産を付けて 魏国の和国駐在武官の張政を魏へ送り届けて
魏との関係を断ちます。そして邪魔になった異母兄妹の豊来入姫に刺客を放ち殺します。

彼女の亡骸は大和の登美家に運ばれて出雲族の土師氏により ホケノ山古墳(奈良県桜井市)に埋葬されました。
※ホケノ山古墳は2015年1月29日の NO29の記事に載せています。

豊来入姫は宇佐から来られた姫なので 最初は宇佐女(うさめ)の命と呼ばれたが イクメ大王が行方を追っているというので
宇佐女ではまずいので ウズメと呼ぶようになったといわれています。

記紀では天の鈿女の命(あめのうずめのみこと)が 胸を開いて乳房を猿田彦に見せて誘惑し、
猿田彦は彼女を伊勢へ連れて行ったと書かれました。なんのこっちゃ。

※伊勢の国一宮椿大神社は 2015年10月7日の記事に載せています。
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信濃の国の幸ノ神(さいのかみ)のこと
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信州山旅で白馬村の夕方散歩で見かけた白馬村の道祖神です。
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道祖神の説明看板です。
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田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは先ほどの出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。そっくりですね。
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こちらは佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。
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信濃の道祖神の写真については 沢山の写真と解説が 「幸ノ神と竜 谷戸貞彦 大本出版」
に詳しく載せられています。
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※諏訪大社の分霊は のちに建御名方の生まれ故郷の出雲に里帰りしました。
出雲市斐川町名島の御名方神社です。
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