アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

ヒミコのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その3

2021-06-10 09:50:32 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

宇佐豊玉姫 その3

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話は宇佐豊玉姫に戻ります。豊玉姫は東征の途中滞在していた多祁理宮(たけりのみや、

または埃宮えのみやともいう)で病になり 養生していましたがそこで亡くなります。

遺体は安芸の宮島に仮安置されて その後宇佐宮へ運ばれて宇佐家の祖先とともに祀られます。

また遺骨の一部は宇佐宮から見える院内町の奥山に墳墓が作られて葬られたといわれます。

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今の厳島神社です。御祭神を読むとひっくり返ります。素戔嗚の三人娘の多岐津姫、田心姫、市杵嶋姫で

あると書かれています。素戔嗚こと徐福には市杵嶋姫がお産みになった穂屋姫一人しかいません。

この御三方の姫たちは出雲王家第六代大名持の臣津野(国引き王)の皇子吾田片隅が九州宗像地方へ移住して

始めた宗像家の姫たちで 吾田片隅の三人の姫たちであり 徐福の娘たちではありません。

恐ろしく出鱈目な由緒書きです。

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記紀制作者指示たちはこの豊玉姫の記録を読んだと見えて 架空の大王、神武東征にこれを利用しました。

すなわち 多祁理宮(埃宮)は神武が東征の途中で行宮を作り休憩した場所と書かれ、ご丁寧に現在はここに神社が

建てられていて神武顕彰碑なる石碑も建っているということです。

記紀制作指示者は調子に乗って ついでに イクメ王が行宮を作り吉備王国攻撃の拠点とした吉備高島宮も

神武の行宮だとしています。ホンマにずうずうしいですね。

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豊玉姫は宇佐家の祖先神と共に宇佐神宮の本殿に祀られます。

宇佐宮にはもともと 祖先神を祀る本殿一つでした。そこに豊玉姫も祀られました。

しかし現在は本殿は三殿あります。いつの間に本殿が増えたのでしょうか。

それは三韓征伐と息長帯姫、それと彼女が生んだとされる誉田別(ほむたわけ)の君が大いに関係します。

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イクメ大王が苦労に苦労して大和入りして打ち立てた 物部王朝は 残念なことに短命に終わりました。

イクメ大王が支配したのは近畿地方だけでした。

次のオシロワケ大王(のちの贈り名を景行ー大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ)も支配地域が少なく 

それを広げるべく自ら遠征軍を率いて九州に行き 祖先の地日向で父(イクメ)や 祖父(イニエ)の墳墓や神社を築きました。

 戦争に行ってくれる豪族が少なかったから、自ら戦に行かざるを得なかったのです。

 

また関東に出兵するにあたり 出雲王家に協力を求めてきました。旧出雲王家と登美家は相談して

これに応ずることにしました。磯城王朝時代 豊国軍が登美家領地に突然攻め入り 加茂田太彦などを山城へ追い払ったことや、

登美の霊畤や太陽の女神を祀る三輪山を占領し登美家を追い払ったことなどの恨みがあり、イクメ大王に追われて

東国へ逃げた豊国軍を探して攻撃する決意をしたといわれます。

 

出雲軍は三河周辺から東へ豊国軍の残党を探し出しては追い払いながら 関東各地まで進みそこを占領し開拓しました。

それで関東各地の国造は出雲系の人たちで占められ 第二の出雲とも呼ばれました。

相模、武蔵、秩父、安房、須惠、上海上、下海上などの国造家です。

しかし出雲系の国造家の当主たちは 物部系や豊国系の残党たちから 暗殺されることを恐れて 

矛卑家の子孫のふりをしたそうです。

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しかし忍代別(オシロワケ)大王(景行)も直接支配地域を広げることなく 近江の国、高穴穂宮で ヤマトに

帰ることなくこの世を去ります。

次の稚足(わかたらし)大王(成務)も 自ら各所へ遠征に出掛け ほとんど都のヤマトには住むことなくこの世を去ります。

記紀では 短命に終わった物部政権を隠すために また大王自らが 征服戦争に直接出向き大和に

ほとんどいなかったことを隠すために 架空の皇子ヤマトタケルを作り出して

この二人の大王が自ら行った遠征を ヤマトタケルの仕事にします。

 

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息長帯比売(おきながたらしひめ)は ワカタラシ大王(成務ー物部王朝第三代大王)の皇后でした。

息長姫は朝鮮の辰韓王子ヒボコ(1世紀半ばに渡来した)の子孫です。

息長姫が皇后となり、暫くして朝鮮半島で辰韓が滅び その家臣により新羅が起こりました。

その時息長姫は新羅に対して 自分は辰韓王家の子孫だから 辰韓の財産相続を請求したという。

しかし話がまとまらず、武力で朝鮮へ行こうというときに相談した夫君のワカタラシ大王に断られて 

落胆した息長姫は ワカタラシ大王とは疎遠となります。

その後ワカタラシ大王は豊前の国、岡県主に攻められて若くして戦死されました。

息長姫皇后は朝鮮出兵の準備のため 筑後国に香椎の宮を建てそこに住んで準備を始められました。

それため彼女は北部九州に支持を広げられました。

 

そして皇后は朝鮮出兵を次に豊前中津彦に相談しますが 彼にも断られ 中津彦も長門の国で若くして戦死したという。

つまり豊前中津彦は 息長姫の夫君や大王ではなく、息長姫皇后の単なる部下、臣下なのです。

しかもほとんど仕事らしい仕事はしなかった。

記紀はかってに息長姫皇后の部下の中津彦を大王(仲哀)に仕立て上げています。

架空の皇子ヤマトタケルの思い付きといい、皇后の臣下の中津彦の大王への格上げといい また九州のイニエ王を

大和の大王にするというでっち上げも 短命に終わった物部王朝を 隠して引き延ばす作戦が見え見えですね。

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この後 息長姫皇后は朝鮮出兵を 日向襲津彦王に相談されます。襲津彦王は武内宿祢の子孫です。

 

イクメ大王の放った刺客から逃れて 出雲王家に匿われた 武内宿祢は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号の

臣を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

彼の息子の武内臣波夛は九州八代に移住して 武内臣八代と呼ばれます。

武内臣八代の娘 久米マイト姫は日向に移住して 襲津彦を生みます。

襲津彦は成長して 西都原の王となり、日向襲津彦王と呼ばれます。

 

息長姫は その日向襲津彦王に朝鮮出兵、新羅征伐を相談されたのです。

日向襲津彦王は息長姫の遠征話を快諾し、息長姫と一緒に住みます。

襲津彦王は 出雲王家の血、高倉下の血と共に 物部の血も持っていてネットワークに自信があったのでしょう。

中津彦が何者なのか詳しくはわかりませんが 中津彦と違い 襲津彦王の人物スケールの大きさが感じられます。

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襲津彦王は 祖先の出身地の紀乃国や海部家、尾張家などへ協力を呼び掛けますが、各地の豪族たちも

協力を約束します。

襲津彦王と息長姫たち遠征軍は 襲津彦王を最高司令官として、和国の各地から集まった大船団を率いて新羅へ向かいます。

 

新羅に到着すると 新羅王は海上を埋め尽くした大船団におじけづき 戦わずに降伏し、

財宝を差し出して 年貢と人質を差し出すことを約束します。

遠征軍はそのまま 百済に向かい、百済も同じように戦わずして降伏し年貢を納めることを約束します。

そのあと同じように高句麗にも攻め入り 同様に征服します。

これが三韓征伐です。

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三韓征伐の立役者 襲津彦王は大和に凱旋し 摂津の国住吉郡桑津村に住まわれました。

その地に住吉神社を建てた後 葛城地方に移り長江に宮を建てて住まわれたので

長江襲津彦王と呼ばれました。

 

※摂津の国住吉郡桑津村は 今の大阪市東住吉区桑津で近鉄南大阪線北田辺駅とJR大和路線東部市場駅の間の地域です。

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三韓征服に成功した息長姫は 長門の国に住吉神社を津守連に建てさせました。

この神社の御祭神は後に摂津の国住吉郡の住吉神社に移されました。

その主祭神は 上筒の神、中筒の神、底筒の神の三神ですが 筒とはその形から

男神とされています。つまり息長姫とかかわりのあった御三方 つまりワカタラシ大王、中津彦、

襲津彦王の御三人と言われます。

現在の住吉大社には 本殿が一つ増えて四棟あります。息長姫の本殿が追加されたからです。

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息長姫は近江の国の息長家に帰られました。その後の和国は朝鮮からの年貢が入り 財政的に大いに

うるおい、それで巨大古墳が次々にできたといわれます。そのため和国では息長姫が大王とされたといいます。

しかし記紀では大君ではなくて摂政とされて、大王にはされていません。

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息長姫は古墳造りを始めます。

まずワカタラシ大王の陵を作りました。現在の奈良市山陵町です。早くして没したお方の霊を慰めました。

息長姫が皇后として権力をふるう基を作ってくれたお方です。

そしてその北にご自分の陵も作らせました。あの世でも添いたいと思われたのでしょうか。

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息長姫は三韓征服から帰国されて 出産されました。襲津彦王の皇子だと言われます。

一緒に暮らして、一緒に船で戦場へ行ったので おそらくそうでしょうね。

船で朝鮮へ三韓征服に出向いた時には お腹が大きかったといわれています。

ところがこの皇子「誉田別ホムタワケ」皇子は7歳で夭折されてしまいます。

これは大変なことです。

息長姫に後継ぎがなくなると 新羅をはじめ三韓は 年貢提出を渋るのに決まっています。

新羅王家の血筋が途絶えるからです。

当時和国にはすでに新羅の皇太子が 人質として滞在していました。 

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そこで息長姫は皇子の死を秘密にしました。そして当時息長家と付き合いのあった上毛野国造家の

竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ七歳であることを知り 秘密裏に彼を呼び寄せて息長家の養子にしました。

上毛野国造(かみつけのくにのみやつこ)家は宇佐豊玉姫の長男豊彦(ヤマトでは豊来入り彦と呼ばれ、

記紀では豊鍬入り彦と書かれた)の子孫です。

月読の神を祀る豊姫(ヤマトでは豊来入姫、記紀では豊鍬入り姫)の人気に危機感を持った

イクメ王が登美家の加茂田太彦に命じて 豊姫、豊彦、豊国軍を大和から追い出したので 豊国勢は関東へ逃げ

豊彦の子孫が下毛野国造家となっていたのです。

息長姫皇后は息長家で育ち成長した竹葉瀬の君をホムタ大王(のちの贈り名を応神)として即位させました。

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これに大いに喜んだのが宇佐家です。宇佐豊玉姫の長男の豊彦の子孫から 宇佐家で初めて大王が誕生したのです。

早速ホムタ大王のために本殿を追加しました。そして息長姫のためにも本殿を追加したのです。

息長姫は宇佐家とは縁がありませんが、息長姫のお陰で宇佐家から大王がでたのです。

それと息長家は 宇佐家と同じく月読の神を祀る家でもあったからです。

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ホムタ大王御陵や息長姫御陵には古墳の上に八幡宮が建てられたのはそういう意味だったのです。

現在はこれらの御陵の上から古墳のすぐそばに八幡宮は移されています。

記紀にはとてもこんなこと書くわけありませんが、ホムタ大王は第二のヒミコ、豊玉姫の直接の子孫なのです。

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現在の宇佐宮の配置図です。左上に本殿があります。

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中楼門の奥に本殿が三棟あり、左から一の御殿(ホムタ大王)、二の御殿は姫大神(もともと豊玉姫と先祖神が祀られていましたが

記紀が豊玉姫を完全無視しているので これに合わせるように現在は宗像三姉妹が祀られていますが宗像三姉妹と

宇佐家は関係ありません。宗像家は出雲王家第六代大名持の臣津野の皇子吾田片隅が宗像へ移住してた始めました。)、

三の御殿は息長姫(神宮皇后)が祀られています。

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南中楼門です。豊玉姫女王はこの門の前に豊国軍の兵士を集めて東征出陣式を行ったといわれます。

上の三枚の画像はいずれも宇佐宮HPよりお借りしました。

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上毛野国(かみつけのくに)にある赤城神社です。赤城山(黒檜山)のふもと、大沼のほとりにあります。

イクメ王や登美家の加茂田太彦に追われた豊彦たち豊国勢は この上毛野国に逃げて来てこの地の開発に

大いに貢献し、豊彦(豊来入り彦)はこの立派な神社の主祭神に祀られました。

この上毛野国造家の子孫の竹葉瀬の君が秘密裏に息長家の養子になり ホムタ大王となりました。

 

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次は第三のヒミコ サホ姫へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

また宇佐宮の写真三枚は宇佐宮のホームページから借用いたしました。

 

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