アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その1-1 推古陵、長科神社 2019年3月12日

2019-04-11 23:36:27 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
今回は大阪府南河内郡太子町を尋ねました。私の住む河内長野市の近くです。
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太子町の地図です。

その1ー1、1-2 で 推古陵、科長神社

その2-1, 2-2 で 用明陵、孝徳陵、敏達陵

その3-1, 3-2 で 上之宮太子(聖徳太子)墓所の叡福寺  以上を尋ねました。

     またその3-2で 太子の息子達の出雲での足跡も載せています。
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太子町 その1-1
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オホド大王(継体)から続く大王家の系図です。

今回は赤で囲んだ大王の陵を尋ねました。唯一上之宮法王だけが大王ではありませんが。

またこの時代 まだ天皇と言う言葉は無かったので 大王(おおきみ)という呼び名で統一しています。

系図は大元出版 斎木雲集著「飛鳥文化と宗教騒乱」によりました。
また斎木先生の了解済みです。

※オホド大王の足跡を尋ねた旅は このブログの2018年4月5日の越前桜旅に載せています。
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この系図を見て驚いた事があります。

持統女帝が指示して 不比等らが書いたとされる記紀の中で 初代大王の「天の村雲」の名前と存在が消されて 
神武なる架空の大王がでっち上げられました。

しかも その登場時代が 出雲王朝初期の紀元前6世紀ころまで 遡らせたのは 天の村雲が兄妹の結婚で
生まれたのを 持統が嫌い、それで 和国の歴史全体を捻じ曲げたと思い込んでいました。

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紀元前3世紀末に石見五十猛海岸に上陸渡来した 秦国人徐福は出雲王家の第七代主王(役職名大名持ち)
天の冬衣の姫 高照姫を娶り和名を「火明り、ほあかり」と名乗り長男五十猛を設けます。

そして部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)に命じて出雲王国の主王八千矛と副王(役職名事代主)
八重波津身を幽閉殺害し 自分が和国の王になろうとしますが 結果果たせず 一旦帰国しました。

そして秦の始皇帝に更なる資金と人間(海童と呼ばれる多数の青年男女)をもらい 二度目に佐賀の浮杯に上陸します。

徐福は和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、宗像家(出雲王家の分家)の三姉妹の末娘の市杵島姫を娶り 
生まれた次男の穂穂出見(ほほでみ)が九州物部王家を起こします。

ついで生まれた穂屋姫と 長男の五十猛が結婚し生まれたのが天の村雲で 当時大和の葛城地方に移住していた
出雲王家の皇子たち 味鋤高彦(あじすきたかひこ)や奇日方(くしひかた)などの協力で 初代大和大王に就きます。

これを持統が嫌ったのだと 思い込んでいましたが この系図を見ると 母違いの兄妹で結婚するのは
ありふれていますね。この時代は そんなにタブーではなかったのですね。

ということは 持統や不比等が嫌ったのは 自分達の祖先が 渡来人で しかも出雲王家を倒した
「征服渡来王朝」だというのを隠したかったのですね。だから自分達の祖先は高天原から高千穂に
降りてきたなんて童話が必要だったのでしょう。

高天原から神々を送り出して手を振ったとされる神々の一人に 「高木千千姫」という徐福のオカンの名前が
書いてあるのは 笑えますね。

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推古陵
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全体の写真です。こんものとした小さな丘がお墓です。周りはすべて田圃です。

長い間に少しずつ削られて田圃になったのでしょう。もともとは巨大な古墳だったはずです。
理由は後で述べます。
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陵の正面です。
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宮内庁の説明看板です。ここには竹田皇子(推古、敏達の間の皇子)も埋葬されているそうです。
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木の鳥居の奥は雑木林になっていました。
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推古の時代にはまだ「天皇」という言葉はありませんでした。
近年宮内庁がこの石碑を建てたのでしょう。
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陵の裏側です。古墳が削られて畑になったのがよく分かります。
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太子町 その1-2へ続く
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