宇佐豊玉姫 その2
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しかしイニエ王も短命で 日向を離れることもなく 物部豊連合王国の首都西都原で亡くなります。
記紀ではイニエ王を大和の大王にでっち上げてますが イニエ王(のちの贈り名を崇神)は
一度も九州から出ていないのです。
のこされた豊玉姫は 連合王国の女王となり 第二次東征の決行を決意します。
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豊玉姫皇后は魏に数回使節を送り臣下の礼をとります。記紀編纂指示者はそれが気に入らないのか
豊玉姫を徹底的に無視します。
239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国します。
しかし魏の役人テイシュンがついてきました。皇帝からの詔書と金印は女王に直接手渡す
ことになっていたからです。
当時魏の役人は 伊都国までしか和国に入れませんでした。伊都国(今の福岡県糸島市付近)の迎賓館にテイシュンを待たせて
十千根は西都原へ引き返して 女王豊玉姫と皇太子イクメに伊都国へ赴くように伝えます。
豊玉姫は魏に対してヤマトの女王と言ってましたから 和国の女王との意味だったのでしょう。
自分が都万国の西都原にいることは伏せていて ヤマトから来たふりをしてテイシュンの待つ伊都国に
イクメとともに赴きます。
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姫巫女であり 女王でもある いわゆるヒミコこと豊玉姫皇后に テイシュンは伊都国で詔書と金印
、紫帯及び下賜品目録を直接手渡しました。
女王は正装の上に紫色の錦帯を肩から斜めにかけて 大いなる威厳を示したそうです。
田道間守と十千根も青錦帯を肩から掛けて参列しました。
下賜品には 五尺刀、高級織物とともに 銅鏡が100枚ありました。(三角縁神獣鏡ではありません)
女王は魏の皇帝に対する感謝の書状をテイシュンに持たせて魏に返しました。
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ヒミコこと豊玉姫はどんな衣装だったのか 気になります。
この復元想像図は「出雲弥生の森博物館」に展示されている女王のアクセサリーです。
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これは大阪府河南町「近つ明日香博物館」の復元想像の像です。
飛鳥時代の服装だったような気がしますが。
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これは奈良県桜井市埋蔵文化センターの巻向遺跡の貴婦人アクセサリーです。
巻向はモモソ姫ヒミコ時代の大集落で 登美家の地盤でした。最高権力者のヒミコはもっと
高貴な衣装だと思いますが、この復元想像の衣服は麻か綿のように見えてかなり質素です。
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243年にも女王は魏へ使節団を派遣しています。使節団長はイクメ王ですが 幼名のイサチのなまえで行っていて
記録にも「イセシ」と書かれています。王であるイクメの名前を隠したのでしょう。
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かつて東のヤマトと並び 和国の西の中心だった西都原の今の西都市の町並みです。
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都万神社です。都万国があった場所は現在は妻という字が当てられています。
都万神社の御祭神はイクメ大王の生母である 阿多津姫です。
阿多津姫は薩摩の豪族の娘で身分が低かったので 記紀はこの姫の素性をいろいろと細工したようです。
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イクメ大王が育ったあたりは 現在は「生目(いきめ)」という地名になっています。
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イクメ神社です。神社由緒書きには「御祭神は一説には イクメ入り彦イサチの命ともいわれている」
とあいまいな表現をしています。
当たり前ですよね。
記紀の出鱈目小説のなかで 九州を一度も出たことのない イニエ王(後の贈り名を崇神)は大和の大王にでっち上げており、
ということは当然その息子イクメ大王は大和で生まれたことになるので ヤマトからこんな離れた日向で
正式に祀られていたら絶対におかしいから。
本当のことを表記すれば 時の最高権力者、右大臣の不比等ににらまれまれるどころか死罪になりますからね。
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西都原古墳群にはたくさんの古墳があり じっくり見ていくと一日では回れません。
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中でも一番大きな古墳に目を付けて見に行くと なんと宮内庁の管理になっていました。
オサホ、メサホの墓と書いてあります。ウーム!
私が思うに これはイニエ王と阿多津姫の墳墓ではないでしょうか。
ということは宮内庁は、イニエ王が大和に来ずにここで亡くなったことをちゃんと知っていると思いますね。
ヤマトから遠く離れた都万国のお墓を宮内庁が管理するのは異例で 不自然ですからね。
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さて宇佐神宮は八幡神社とも言います。なぜ幡(はた)が八本なのでしょうか。
東征軍は都万国を出発して周防灘で一時停泊しました。豊玉姫の実家の宇佐にしばらく滞在して
豊国の兵士を集めるためです。豊玉姫は駅館川(やっかんがわ)の川岸に行宮を建てて滞在しました。
そこは川岸だったので「足一つ上がりの宮」と呼ばれたそうです。
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田道間守が帯方郡で魏からもらってきた4本の黄色の錦の御幡が伊都国に安置されていたのを
田道間守の船が宇佐宮へ持ってきました。それと以前に魏からもらい受けていた黄色の錦の御幡4本と合わせて
八本の幡が神前に飾られて、東征軍総司令官の豊玉姫は兵士を集めて出陣式を行い 武運を祈りました。
八本の幡を飾り兵士を集めて出陣式を行ったことから 宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになったと言われます。
その八幡は軍機であったので のちには八幡宮は武力の神とされるようになりました。
黄色は魏の皇室の色なので 黄色の幡を建てることはそこが魏の領地ということを示します。
その旗を先頭の軍船に飾り 兵士の士気を大いにかき立てたといわれます。
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246年に物部豊連合王国軍を率いて 豊玉姫皇后は瀬戸内へ出陣しました。
先頭は物部軍率いるイクメ王で、豊国軍を率いる女王豊玉姫と豊彦、豊姫が続きました。
豊国軍はまず安芸の国に上陸し埃宮(えのみや)を作りそこに留まり安芸の国の征服戦を始めた。
しかしそこで女王は病になり養生せざるを得なくなりました。
女王はイクメ王を東征軍総指揮官に指名して 先へ進ませました。
イクメ王は吉備王国を征服するために 吉備の高島に行宮を建て そこに留まり吉備の征服戦を続けたが
8年以上かかったという。
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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王は
西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払い西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。
西出雲王家は東征軍の来襲に備えて 険しい堀や垣根を何重にも作り備えていましたが 物部軍と豊国軍は
その警備の手薄なところを まるで熟知しているかのように進軍してきたと言われます。
後で判明するのですが 徐福とともに渡来した徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家は
出雲に住んでいて出雲王国軍の警備を熟知しており 矛卑家の韓比佐と息子のウカツクヌが東征軍を
手引きして 西出雲王家の警備する裏側に導いたといわれます。
あわてた西出雲王国軍は 将軍の振根と多くの兵士を宮殿に残し、山崎帯(たらし)王たちは 久奈子(くなこ)の丘に避難しました。
激戦の末に 振根将軍は戦死し 西出雲王家の第十七代山崎帯大名持(主王)は降伏しました。
物部軍は 旧王宮を占拠し、久奈子の丘の新王宮で 西出雲王家と物部軍との間で降伏調印式が行われました。
久奈子の丘はそれ以後江戸時代まで「和はかりの宮」と呼ばれました。
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長い石段を上り詰めると 久奈子の丘の上には 今は久奈子神社があります。
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久奈子の丘はもともと正面やや右の雲に隠れた出雲北山の主峰 鼻高山(はなたかせん)を遥拝する霊畤でした。
久奈子とは出雲国教幸ノ神三神のクナト大神の皇子神サルタヒコのことで クナトの子です。
サルタヒコはドラビダ語でサルタつまり鼻が長い神で象神ガネーシャのことです。
鼻が高いサルタヒコは 鼻高山に祀られて ここクナコの丘 つまりサルタヒコの丘から鼻高山を遥拝したのです。
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また別動隊の田道間守率いる卑ボコ子孫勢軍が 東出雲王家を責め立てて 多くの戦死者をだして
田和山神殿を破壊しましたが イクメ王よりも先に大和入りする計画を持っていた 田道間守は
直ちに軍を引き返し ヤマトへ向かいました。
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田和山神殿跡です。向こうに宍道湖を見下ろします。柱列だけが復元されましたが
建物の形状は諸説ありということで建物の復元はされていません。
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一方 物部軍本体は苦労の末に吉備王国を降伏させて 物部十千根率いる別動隊が永江峠を越えて東出雲王国に
攻め込んできました。 能義郡伯太村で激戦の末東出雲王国軍を破り 東出雲王家の富家太田彦を降伏させました。
この時も矛卑家の韓比佐が十千根軍を手引きしたといわれています。
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我が国最初の王国の出雲王朝は 初代菅之八耳で始まり約700年続きましたが 第十七代山崎帯大名持(主王)、
富太田彦少彦(副王)で終わりました。
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記紀ではこの征服戦争について 全く触れていません。「我が国最初の王朝、出雲王朝を秦国からの渡来人
徐福や矛卑、大勢の海童たちの子孫の物部王朝が殺し合いで倒し、征服して大和に物部王朝を打ち立てた」
なんて絶対に秘密なのです。そんな渡来人の征服王朝の言う事なんか 誰も聞かないから。
そこで記紀制作者たちは 妙案を思いつきました。
国つ神(大国主を代表とする もともと出雲にいた神々 )が 天津神ー天から降りてきた神々に
出雲の国を差し出して 譲ったというのです。国譲り神話です。これも矛卑家の悪知恵だといわれます。
調子に乗った記紀制作指示者たちは 国譲り神話の続編を思いつきました。
国譲りの申し出に来た天津神に 大国主の皇子の建御名方が 「俺と力比べをして勝てばこの国を譲る」
といったので 天津神の一人タケイカヅチが建御名方を投げ飛ばして勝ちました。
それで建御名方は逃げ回り ついに諏訪湖のほとりでつかまり「この地から一生出ませんから許してください」と言って
許されたことにして 建御名方を弱いもの、情けないものに 作り替えました。
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徐福に殺された古代出雲の八千矛王(大国主と書き換えられた)と八重波津身副王(事代主と書き換えられた)
の皇子たちは そのまま出雲王朝を守り続けますが 出雲に住み着いた秦国人たちとの共存を嫌った何人かの皇子たちは
大和へ移住して 賀茂家、登美家や高鴨家を作りました。
また夫の八重波津身(事代主) を殺されたお后の一人沼川姫は皇子の建御名方を連れて実家の越の国糸魚川へお帰りになりました。
建御名方は越の人や一緒に移住した出雲の人たちを引き連れて諏訪湖に移住して 開拓し信濃の開発に成功を収めます。
それで沼川姫とともに建御名方は 信濃の人々から絶大な尊敬を集めて 諏訪大社各社に祀られます。
自分たちの祖先の徐福が殺した事代主の息子が諏訪湖の開発に成功して土地の人々から絶大な尊敬をあつめているなんて。
記紀制作支持者たちは それが許せなかったのでしょう。それゆえあえてタケミナカタを弱いものに仕立てたのです。
スケールの小さなつまらんやつらですね、不比等らは。
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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸して
出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が硬くまとまって
いたのでしょう。
そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして
和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に
なれませんでした。
徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国を倒して大和入りし、
やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。
そんな苦労した二度にわたる九州からの東征を「神武東征」として一度にまとめて しかも輝かしく見せるために
出雲の国譲り神話をでっちあげたり、信濃で絶大な尊敬を集める建御名方を ことさら弱弱しくつまらん奴に
しなくてはならなかったのです。
記紀制作時には イクメ王に出雲国造にしてもらっていた 矛卑家の果安のつまらん提案や悪知恵もあったでしょうが
それを聞き入れて採用した 持統も不比等も度量の小さいやつですね。
※矛卑家の子孫が今の出雲大社宮司の家系で、不比等の子孫の藤原家はその後天皇制を食い物にして千年以上も
徹底的に私腹を肥やし続けてきました。昭和天皇に 足を組んで偉そうに戦況報告をしたという 有名なあのお方も
藤原家の末裔のお方です。
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糸魚川市の沼川神社拝殿内部です。郷土の英雄である沼川姫の字をあろうことか卑字で書いています。
こんなバカげたことは止めて ちゃんとした字で書いてあげましょう。
沼川姫も悲しんでいらっしゃいます。
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諏訪湖の中にたたずみ諏訪の街を見守る沼川姫です。
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諏訪大社秋宮御柱です。諏訪大社は 春宮秋宮上社下社とたくさんあります。
御祭神はもちろんみな 沼川姫と建御名方です。
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豊玉姫 その3へ続く
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