アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

上州日光の古代出雲ゆかりの地を尋ねて その2 赤城神社榛名神社

2019-11-12 00:21:23 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
その2
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赤城神社
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国定忠治の像が建っている大洞地区から大沼を北へ歩くと 赤い橋が見えてくる。
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橋を渡ると 赤城神社の広い境内だ。
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立派な拝殿だ。
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裏へ回ると 本殿が見える。千木を良く見ると 出雲の横削ぎではなく、九州物部家の
たて削ぎ方式だ。もちろん妻入り形式ではない。つまり大社造りとは違うのだ。
この神社も出雲族が建てたものではないことが分かる。
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神社の由緒書きまたは縁起がどこにも無いので たまたま通りかかった巫女さんに尋ねると
神社のパンフレットを持ってきてくださった。それを見てびっくり仰天した。豊来入彦なのである。

九州物部家の第二次東征で イクメ王(垂仁)と共に 宇佐豊玉姫の皇子たちの
豊来入彦(記紀では豊鍬入彦とかウガヤフキアエズ)と豊来入姫(記紀では豊鍬入姫)は戦って来た。

しかしイクメ王が大和を旧出雲王家の野見太田彦などの協力で平定するに連れて、異母兄妹の彼等が邪魔になりだして
旧出雲王家の助けを借りながら 彼等を大和から 追い出した。追われた豊来入彦は この地まで逃げてきて
この地の開拓発展に大いに貢献したという。それで祀られているのだ。

しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣して平定した」「この豊来入彦を祀っている」
などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんだ。

イクメ王が大和の大王になったあと 大和から追われた豊来入彦の事を イクメ大王が東国に使わした将軍と言うのだ。
正に記紀の作り話にしたがっている。

記紀の内容は 史実ではなく、時の権力者が(持統女帝、藤原不比等など)が自分たちが渡来人の征服王朝と言うことを隠し
今の立場を正当化するためにでっち上げた 歴史小説なのに 千年以上立った今でも史実だと思い込んでいる人が多く、困ったものだ。
一般人ならともかく、歴史学者(たとえば梅原先生)なども 記紀の呪縛から未だ解き放たれていらっしゃらない。


宇佐豊玉姫(魏書に書かれた二番目のヒミコ)は出雲王家の血を引くお方なので 当然豊来入彦も豊来入姫
(大和入りした当初は檜原神社で祭りごとを行い 若ヒルメムチと呼ばれた)も当然出雲王家の血を引くお方だ。

ちなみに我が家には 神棚に豊来入姫のお札が安置してあるので、早速この神社でもお守りを購入した。
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榛名富士山神社
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榛名山は その姿が富士山に似ているところから 昔から榛名富士と呼ばれて来たそうだ。
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山頂には「富士山神社」があり、昔からこのあたりの人々が 祭礼時には数珠繋ぎになり登ったそうだ。
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鉄筋コンクリート造の社は 標高1400mの厳しい気候で劣化が激しい。
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神社の縁起が山頂に設置してあるが 劣化、風化が激しくて読みづらい。
主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。

つまり九州物部家の第二次東征でイ二エ王(崇神)が筑後平野から南下して薩摩の地に来たとき
美しい阿多津姫を見そめて后とし 生まれたのが イクメ王(垂仁)なのだ。

阿多津姫は 出雲王家の血を引いていないが、イ二エ王やイクメ皇子(後の垂仁大王)は出雲王家の血を引く
お方だ。

記紀では 短命に終わった阿多津姫を「この花咲くや姫」と書き 、ついでに短命に終わった物部王朝を隠すため
九州を一度も出た事の無い イ二エ王を大和の大王としたり(崇神)、架空の皇子ヤマトタケルを作ったり、
オキナガ姫の部下の豊前中津彦を「仲哀大王」として格上げしたり さまざまな苦労をしている。

ちなみにイ二エ王も 後妻の宇佐豊玉姫(魏書に書かれた二番目のヒミコ)も短命に終わっている。
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新しい由緒書きもあった。やはり主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。
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山頂付近に面白い標識があったので行ってみることにした。
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石碑が四本立っている。
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説明が紀があるが これらは完全に記紀がでっち上げた作り話が世に出回った後に作られたものだというのがよく分かる。
初代大和大王の「天の村雲」が記紀により書き換えられて「神武」とされたり、「咲くやこの花姫」の醜女の姉
として造られた姫などがかかれている。

しかし二度目に和国に渡来した徐福が 筑後で名乗った和名「饒速日(にぎはやひ)」もかいてある。
物部王家やその後の天皇家の出発点となった 秦国人徐福を祀っているのである。

ちなみに一回目に徐福が上陸した石見の五十猛海岸では その後 和名を「火明かり(ほあかり)」と名乗っている。
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ということで 出雲王家のゆかりの地、今回の上毛野国、下野の国の訪問を終える事にした。
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ちなみにその後榛名神社へ行ってみた。しかしもうすっかりこの地の神社に興味をなくしているので
さっと素通りしただけだ。
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神社というより お寺の裁ち物だ。それもそのはず明治政府の無教養な田舎侍が 分けの分からん
神仏分離令をだすまで この寺は山岳修験や神仏習合のお寺だったのだから。
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これも後で造ったらしい者で無理やり神様が作り上げられている。
徐福の和名の火明かり(ほあかり)に似た名前の神さんだ。
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と言うことで赤城神社は面白かったが 榛名神社はつまらん無駄でした。
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コメント (11)
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