怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

携帯の不信メール

2007-05-25 06:42:51 | 戯言
今までこんなに来たことがなかった。

携帯では悪いことしていませんよー。
(いや、他でもしていませんよ。・・・力なく言っていたりして・・・。)

1日100件近くたまるようになって、困っていた。

同じ悩みを解消したカミさんが、
「アドレスを換えるんだよ。」
とアドバイスしてくれた。

そっか。と即変更。

来ません。
すっきり。爽快。

しまった、新しいアドレスをみんなに教えなければいけないじゃないか・・・。
(しかもこの変更後のアドレスは・・・ちょっと恥ずかしい。)

もう一回換えるか?(それから教えるか?)
でも、ちょっと惜しい・・・。

にほんブログ村 教育ブログへ

2007-05-25 06:35:44 | 教育
遠足が延期になります。

遠足の目的はあるのだけれど、事務的な行事になってないかと我が身を振り返る。

遠足は子ども達には人気の行事。

延期になって窓の外をうらめしそうに眺めるのも遠足のなせる技だと思います。

「きっと今度は行けるよ。」

にほんブログ村 教育ブログへ

本を読むあほ

2007-05-25 06:31:52 | 戯言
本を読むあほ。
本を読まぬあほ。

同じあほなら 読まなきゃ ソンソン。

本を書くあほ。
本を聞くあほ。

同じあほなら 読まなきゃ ソンソン。

にほんブログ村 教育ブログへ

道の白線沿いを、それとにらめっこしながら綱渡り。
一方通行、人通りも、車通りもそれほどないからできること。

自分で知っていること、分かること、語ることができない。
その焦燥感のような無力感を覚えてからやめられない。

五十音表の発音

2007-05-23 22:17:31 | 教育
五十音表について学習したが、や行の「い、え」とわ行の「い、う、え」の発音もやった。

2点、気になったことをメモリー。

1点目。
いわゆる「ya、yi、yu、ye、yo」と「wa、wi、wu、we、wo」を発音してみて、あ行の「a、i、u、e、o」と似ているし、現代では発音がしにくいことを確認した。
「発音がしにくい、他の音と混同するので共用できるように表記も同じになった。」と説明した。
(言語学的には違うのだろうか・・・)

2点目。
学校では小中連携の研究をやっている。

先日、中学校のカリキュラムでは「ya、yi、yu、ye、yo」と「wa、wi、wu、we、wo」はちゃんと知っているとその後の学習に影響するというので復習し直すのだそうだ。
だから小学校側ではちゃんと押さえて欲しいそうだ。
(ただし、中学では載っているのに、小学校の指導要領には載っていない。)

そういったことが気になった。

続いて濁音の指導になったのだが、「あ、い、う、え、お」に濁点をつけても、「発音がし難く、他の音や表記でも対応できそう」なので、濁点を付けないし、発音もないと説明した。

すると、楽に発音ができるのは、「か行、さ行、た行、は行」になる。
どうように「ぽぴぷぺぽ」も説明がつく。

「怪獣がざだばぱ」を読んで、たっぷり濁音を発音させて授業終了。

にほんブログ村 教育ブログへ

五十音表で、母音である「あいうえお」が先にくるのは当然である。
そのことについては発音指導をしながら解決できた。

子ども達に「か」を発音させて、気づいたことを拾い上げると、
「か、をのばすと、あ、の音が出てくる。」
なんて言葉が出ればいただきになって解決が早い。

怪傑ゾロリからの脱出

2007-05-23 21:40:41 | 教育
過激な提案をしたい。(これについては、ちょっとたたかれてみたい気分だ。)
なんか自分が教育再生会議のメンツになって気分だ。

別にゾロリシリーズに恨みがあるわけじゃない。

ゾロリは漫画と物語書籍の間に入る特異な本にあたると思う。
絵本の発展版とでも言おうか・・・。

子どもの興味を引き、読ませるという意味においては優れた作品だと思う。
図書室においていあるのもむべなるかなである。

イメージは作者の絵から提供されつつも、展開や台詞回しは文章になっている。
文字だらけの書籍にまだなじめない子にとっては、次へのブリッジとして使っても、なかなか優れたものだと思う。

自分の子ども時代にあったら、まず全巻読み切っているだろう。
(シリーズというところもツボだと思う。)

この手の本は最近そこそこあると思う。

でも、「ウォーリーをさがせ」から抜け出れない6年生のように、本格的な書籍に馴染めない子どもの一つのハードルとして存在しているように思える。

何が嫌かと言えば、そういう状況に子ども達がはまりこんで出れなくなってしまう所だ。
「もっと難しい本を読め」と強制するのか?と問われれば、はっきりいって暴言に近いが「そうだ」といいたい。

もし出来れば、発展版ゾロリがほしい。
(注釈を入れてもいい)より抽象的な語彙を多分に含み、展開も重厚で、キャラクターも多面的で深みがあってほしい。
「そうなればゾロリではない」といわれればそうだろうが、そういう文章に触れさせることは必要だと思う。

図書の時間が設定されている割には、そういった読書のための鍛錬が自然になされないのが、私は非常に気になる。

「ウォーリーをさがせ」なんて、読んでいいのは1年生の1学期までという限定をもうけてもいいくらいだ。
(図書の時間にずーっと隣の子どもとウォーリーをやっているなんて、図書の時間じゃないだろうに。)
ゾロリにいたっては4年生以上、禁止にしたっていい。
「絵本欄は2年生まで」も、ルールに入れてもいいかも知れない。

焚書にせよと言っているのではない。
特別な事情のある場合は許可すればいいが、そうではなくて、そういう価値付けで追い込んで行くぐらいでないと、興味・関心・意欲まかせでは読書の質は高まっていかないと言っているのだ。

多分に体育的な考えかもしれないが、読書は訓練が必要だと思う。
そのためのニーズに応えるだけの多様性を小学校図書室の書籍群はもつべきだと思う。
学年ごとに必読図書を設定してもいいかも知れない。

にほんブログ村 教育ブログへ

一方で、ハリーポッターのような特異点も存在する。

分厚い装丁におののく子が多いかに見えて、
「ハリーじゃん!」
と、手に取る子どもの多さ。
なじみがあるだけで厚さは見えなくなるのかも知れない。
1年生でも読んだという子はそこそこいる。

ミス・アリゾナ

2007-05-23 18:44:16 | 映画
音楽で回顧していたら、こんな映画を思い出した。

マルチェロ・マストロヤンニが出ている伊洪合作の歴史大河映画というくらいで、下手すると日本じゃB級扱いかもしれない。

フリーターの時期、映画をよく観た。

これは日曜日に六本木の映画館で観た。
愛用の新聞配達用自転車を路上に乗り付けて、看板を見て決めた。
さすがにバブルの頂点の時期だったが、日曜日の最終公演時間は人が入っていなかった。
(たぶん、10人いなかったかな?)
ゆうゆうと足を前席に放り出してど真ん中で観た。

合作らしいロケの変化や、第二次世界大戦をはさんだドラマ、イタリア映画の風情の入った印象的な場面。
しかし、テーマはミス・アリゾナという店をめぐるある女性の人生。

自分と引っかかる部分なんて皆無なのだが、時代に翻弄されて生死をさまよう人々が、なぜかうらやましいと感じた。

決して絶世の美女というわけではない女優の表情が、歳相応の憂いとともに一人の陣言の強く生きようとする意思と、それに背反する事実が重なっているかに見えて、虚構だらけの画面が一瞬リアルに感じられた。

きっと今観たらば、粗ばかり見えてしまうのかもしれない。
印象というのは目の奥にとどめておくことだなと思う。

時折、歳を重ねていることを実感しつつ何かが周囲で起こり、それを冷静に客観視しようとするとき、ミス・アリゾナの劇中の舞台裏が見えてくる気がするのだ。

にほんブログ村 教育ブログへ

書いていたらいろんなことを思い出してきた。

新聞配達員をしているとき、オールナイトを毎週攻めたりしたなぁ。
映画館を出て、配って、寝る。
今、あんな体力ないよ。
(ちなみに新聞配達員になるなら都心がいい。校外は出勤時間前に配り終えるため、実は配達員は校外ほど早起きなのだ。)

ピグマリオン効果

2007-05-22 19:24:01 | 教育
顔に出るとうつっていくということ。

普段気をつけていることの大きな一つ。

笑顔を相手に映す気持ちで顔をつくる。
営業スマイルというヤツ。

最近板についてきたのか、家族にも言われる。

元がネクラなヤツだから、そう言われると非常に気に入らない。

自分の子どもに教師口調になったらおしまいだなと思っていると、自分の子どもが私の口真似をする。
わ!こんな言い方しているんだな。
人生やめたくなる・・・。(^^;

いい方に考えよう。
こういうことができるから、クラスの子どもには喜ばれるんだ。

にほんブログ村 教育ブログへ

たまに同僚からも言われる。
「ほっとするね。」
「おっとり感がいいね。」
「にこにこした丸顔だね。」

最近、反応するのもあきらめました。
そのうちそういう人になるかもしれません。

音楽回顧録「Janis Joplin」その2

2007-05-22 19:12:22 | 音楽
前回はなんだかんだ言って、自分ではなくJanisを語ってしまったので、反省。

話が頓挫したフリーター時代の私の話。

今にして思えば、当時、何か確固たる目的をもって生きていたわけではない。
良くも悪くも自分探しをしているだけだったのかも知れない。
でも、刹那的な部分も含みながら、当時、出会った人との影響は大きかった。

学生でも定職でもない私の周囲には、次第に高校時代の友人も減り、バイト先や、移り住んだ場所のご近所が新しい人間関係になっていった。

人付き合いというのは状況なのだと思った。

教育学部系の大学に入ろうと思ったのは本当につまらない話だが、偏差値である。
もちろん好きな科学の話題に触れられそうな研究者がそろっていそうな大学を選んだのだが、そんなに選択肢が多かったわけではない。
つまりは理科をやろうと思って大学に一応入った。

果たして、大学1年次より研究室に出入りし、先輩や教官に煙たがれる存在で過ごした。
学問を志そうと思って大学に入ったものの、それほど人材育成に気が入っている研究室でもなく、しかも頓珍漢な私はバイト暮らしであったので、身体に負担をかけるほど学問に勤しんだわけでもない。
つまりは状況も内実もたいした学生ではなかった。

ただ、「安易に大学を出ること」と「バブルのはじけたしけた社会へ入っていく予定の自分の処遇」とをつなげることを意固地に拒否する自分を抑えきれなかった。

私は大学に出て、すぐに先生になったわけではない。

目標についてストイックになってしまった分、私のモラトリアムの時期は大学後の方が顕著な傾向をもっていたかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログへ

大学入学前後は音楽はよく聞いた。

ちゃんと映るテレビは部屋になく、ラジオから流れる楽曲は自然と耳になじんだ。
雑誌やDJから音楽情報をむさぼるようになると、ひたすら愛用のラジカセとCDが自分の埋滅する世界になっていった。

Janisはそんな自分への応援歌であり、哀歌だった。

写真はアルバム「Try」のジャケ写。

「Try」という割にはそういった意思よりもホーンセクションのくさい演出が気になる作品。
Janisの声はそれとは関係なくやはりすごい。
(Cosmic BluesはJanisにおける私のBest Of Best。)

学習指導要領と教科書(岩波ブックレット)山住正己著1989.08.21

2007-05-21 20:58:12 | 教育書
「学習指導要領と教科書」を図書館で見かけて手にとってみた。

あまりに今日的な話題と符合することが書かれているので、思わず最後尾のページをあらためた。

1989年8月21日。

そうだよな。
昭和天皇が死んで平成元年に指導要領が改訂になったときの本だものな。
そう言い聞かせてすぐに読めるだろうと借りた。

あの時の異常な喧噪を思い出した。
そんな時期に出されていたのかと思うと感慨深い。

しかし驚くは現在を予期したような話。
教育は今も昔もかわらない問題で揺れているのだともいえる。
もちろん深刻の度合いは増すばかりなのは言うまでもない。

この時は指導要領。
少し前なら教育基本法。
現在ならば教育3法。
いずれも同じ思想、政治、社会、歴史の問題が繰り返し絡んでいる。

にほんブログ村 教育ブログへ

苅谷剛彦氏の声

2007-05-21 06:49:00 | 教育
「この国の教育にいま、起きていること」というサイトがあることを「不適格教員日誌」さんで知った。

苅谷剛彦氏も声をあげているんだなぁ。

不適格教員日誌さん自身のエントリも、ご指摘の免許更新制度に対する苅谷氏(第6回)の話も、たいへん興味深かった。
教育改革とかいうヤツは、やっぱりおかしい解釈で進んでいるのだと感じた。

読むべきでしょう。

にほんブログ村 教育ブログへ

学力向上と教育再生会議

2007-05-21 06:30:04 | 教育
ちょっと前になるのだが、まだ方針転換報道がないようだ。
止めてくれないかなと思っている。
産經新聞5/16によると、教育再生会議の連中は、「学力向上」のためには「時数10%増」が必要で、週5日制の見直しや夏休みの短縮を狙うようだ。

しかし、それは私学との時間差ではなくて学力差を前提にした議論ではないだろうか?
そういった数字がきちんと出ているのだろうか?
また、目指す学力の質というものも不明瞭だと思う。
結局は受験か?
小学校も巻き込むのか?

>道徳については指導を充実させるものの、これまでの教科外活動と、国語や算数など正式な教科との中間的な「特設教科」として扱い、中学では名称も「人間科」などを検討することになった。

ということも気になる。
今までの「道徳」とどう違うのか?
KOYASU先生が指摘されていた「正式な」という表現も増々怪しいものになってきた。

国民の声を代表するわけでなく、研究者の声もなく、現場サイドの声もない、当事者の声なんてまったく聞いていない。
そんな教育再生会議の恣意性は牛耳る安倍の問題だろう。
暴走をやめて欲しい。

にほんブログ村 教育ブログへ

学級崩壊いづこに?

2007-05-20 22:51:12 | 教育
最近、具体例を聞かない。
「いじめ」などよりも認知が下がったのかもしれない。

学級崩壊wikiなどを読むとちょっと幻滅してしまう。
教育を役割分担のように捉え、教師の指導技術と結びつけた解決策が主流のように見せるのはいただけない。

ここいら辺の恣意的な認識の普及が見えなくしてしまったのかな?
枠組みに入らないと情報は下火になるものなのかもしれない。

先日、
「1年生の崩壊って、少し前はよく言われていましたよね。」
と隣の席に座っていた同僚に話しかけたら、
「?」
と、如実に怪訝な顔をされてしまった。

そんなものだったのだろうか?
私には切実な問題に見えたのだけれど・・・。
(そういうこともあるか・・・うん。元気出していこう。)

にほんブログ村 教育ブログへ

おつきあい

2007-05-20 22:39:07 | 戯言
おつきあいで某政党の後援会に顔を出した。

話題として出て驚いたのがK議員。
3年ほど前に強制わいせつ罪で御用になっているにもかかわらず、未だに当選してしまう。
議会内でも隣席に座ることも嫌がられている始末。
そんな輩に票を入れてしまう市民。
でも、私も知らなかった。この人。(だいたい顔を出す選挙活動をしていない。)

それからお隣の首長選挙の話。
こちらの当選も奇跡的。
こちらはこちらで市民が継続の方針で運動を展開したようだとのこと。
特に、ネットを使ったことが短期決戦を逆手にとる効果につなげがったようだとのこと。

時代はネットか・・・。

某政党(バレバレやな・・・)後援会の今後として、市民団体と大同団結していかなければならないといいう方針が示されていた。

これは教育に関してつぶやいている私にも身につまされる話だと感じた。
広く理解されるようにならないと、何の力にもならない。
そういうこと。

別にその某政党に私が明日から具体的にどう関わるかなんて考えてはいない。

保育園の建て替え問題もOBになってしまったし、
(もちろん、現在も大問題で、ちゃんと出るところに出たら突っ込みたい気持ちはある。)
そういった意味では関係づくりはこれからというところだ。
気長に地域暮らしをしたい。

にほんブログ村 教育ブログへ

音楽回顧録「James」その1

2007-05-20 22:05:01 | 音楽
前々作がボリュームを下げた歌ものの名作Laid('93)、前作がLaidの裏版にして実験的なWah Wah('94)。
それからオリジナルメンバーであるラリー・ゴッドの脱退という紆余曲折を経ながら再起作ともいえる雰囲気をたたえたWhiplash('97)。

新生James節たっぷり。

Jamesは4作目(数え方では5作目)のSevenまでが声量と技能とパースペクティブを広げてきた完成型であったけれど、本作はスケールでも実験性でもポップさでも全て乗り越えていると思う。
(もちろん私にとって、Sevenもちょくちょく聴いている名作なのだけれど。)
なんといってもメロディのうまさ。
しかもコード展開の簡素な事。

その昔、Say Something(Laid)を耳コピーしたとき、
「え?3コード?」
と驚かされた。
なんでドラマティックな展開をもっていて、メロディも起伏に富んで豊かなのに簡素なの?
そう思った。

U2やHot House Flowersと比較される嫌いがあるが、全然違う。
大らかで繊細でそれでいて若々しい反骨精神をもっている清涼感のあるロックミュージック。
日本では人気がないUKのスタジアムクラスのバンドというのも気に入っている。

デビューから20年余り。
2002年に解散してしまったなんて・・・。(もったいない)

にほんブログ村 教育ブログへ

いかん、語ってしまった。
ともかく、この土日に、車の中でヘヴィ・ローテーションだった。
思わず白昼夢を見た。

教室の悪魔(ポプラ社 )山脇由貴子2006.12その2

2007-05-20 18:09:32 | 教育書
今、自分の状況から、この本の第一章にあるエピソードを思い出している。

主導権を握っているのは教育相談員である筆者だ。
これは自分の視点から眺めているのでいいのだが、ここでの課題は2点。

1点目は親への対応。

「いじめ」解決には事態解決へ向けての親のイメージが大事である。

親に自分の子どもが緊急事態であることを認識することは大切だが、同時に冷静なイメージが必要だ。
それを「親力」だなんていうつもりはない。(それ以前に「親力」ってなんだ?アホ臭い表現だこと。)

だれしも見えない状況に混乱するものだ。
けれども感情にまかせて見失ってはいけないのが相手意識だと思う。

すぐに「いじめ」を行う鬼探しやそれを「見過ごした」として責任探しをするのでは逃げているのと変わりはない。
そこで生き抜くのか、逃げるのか、そういったイメージを目的に人間関係を想像することが大事だと思う。

一番困るのは、当事者意識が半分で、誰かに事態の解決を押し付けてしまうことだろう。
(任せる部分は任せるべきだという判断も必要だと言う認識に立つことも含んでの話。)

2点目は学校

「いじめ」の解決の現場は学校である。

どのような対応をとればいいのかは学校側の現実への視点を変えなければならないのだが、それは構造的に生み出されたものであれば、鬼探しをしてもなんにもならない。

「学校は謝罪する」だけの対応では何にも変わらないとも指摘しているようだ。
「学校には責任をとってもらいます」というのは受け手と受け手の状況によって如何様にも解釈できる。

どこをむいても、逃げるのでなければ、「信頼」という鍵を誰もが持たないとうまくいかない。
そういうことを思い出した。

私の場合、児童相談員は間にない。
もちろん「いじめ」という現実が目の前にあるわけではない。
それ以前に、子ども達をまとめあげて、よりよい人間関係作りを味わわせていきたいと狙っているだけだ。

さて、一方的に不安を抱えた親とどうやって信頼関係を築こうか・・・。

にほんブログ村 教育ブログへ