怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

国語教科書の思想(ちくま新書)石原千秋vol.1

2005-11-30 06:57:09 | 教育書
またこのパターン(vol.1で読み始め、vol.2以降で読了)でエントリー。
この本は10月に出たのだが、出始めの時に本屋で手にとってみたとき、
「ああ、国語の教科書は道徳教材のようなものね。定番教材はその存在自体が固定化したイメージを含んでいるだろうね。」
という、なんとなく自分自身の思い描いたイメージ通りの気がして、
「新しくないじゃん。」
と、その時は買わなかった。

でも、先日、「学力を育てる(岩波新書)志水宏吉著」を購入した時、なんとなくまた手にとった。
「あれ?読み方の多元性、その指導の難しさ、構造的な分析も加えていそうだな。」
と、見直し、10月に抱いたイメージと異なるものを感じたつもりになったので、購入。

読み始めたのだが、PISAの分析の仕方や、「国語は道徳」、「文学」という科目の創設を主張するなど、非常に興味深い言説が多く読み取れ面白い。
特にPISAについては学力を育てる(岩波新書)志水宏吉著と併読している関係上、他の読み方とも比較して読むことになり、「読解力」という点の定義づけや、日本の読解力教育で「本当は何が弱いのか」について考えさせられた。
言説が一方的なものに偏らない配慮をしながら主張している点も好感を覚える。
今、教科書各論に入る手前である。いい形で読了しそうなので、ここに記した。

師走へ

2005-11-29 07:36:29 | 戯言
ああーまだまだ忙しい。
(恒常的なのだが、ここにきてなんかペースがつかめない)

行事、研究発表を終えたのに、研究授業が一本足を引っ張る。
うーん。学期をちゃんと終えられるのか?
正直、見通しが立っていない。
残り時数から逆算すると、かなりしぶい。

今、個人面談中なのだが、
「先生、ここのところ、漢字テストしかやってないでしょう?」
グサッ!
「(えー!)ははは。ちいちゃんのかげおくりもいい形になりましたし、わり算は全体が終わってから定着のための練習をやりますよ。ほ、ほら。社会の校外学習もこんなによくまとまって・・・。」
「あ、そういう意味じゃないんですよ。」
「はぁ。」
うーん。やっぱ2学期前半の勢いがないことが伝わってしまっているなぁ。
よーし。あれやって、これやって、それから・・・。


「あ、今、帰ります。」
(夜10時前。施設管理の人の見つめる目。)
(「うーん。時間がない。」)

ipodグッズがセブンで売られているね

2005-11-28 00:05:29 | 戯言
いやーセブンイレブンで売っているとは知っていたけれど、実際に売っているのをみると驚きというか変な気分。
グッズだけでなく、本体も売っていて、これってコンビニの本来の「便利」の意味からはちょっと離れているようにも思った。

アップルはコンピュータ製品のラインをディスクトップもラップトップも2系列にし、インテルとも手を組み、いろいろな軋轢的な部分から離れて商売をするようになってきたが、ハードに関して、もうちょっとマニアックなものを出してほしいなと思っている。
iPodのラインは落ち着いてきつつある商売なだけに、これだけラインが豊富だと、パソコンも!とちょっと思ってしまう。
個人的にはPB2400やNewtonのようなものを未だに期待してしまうなぁ。
今、いろいろ面白いものが出ているのは、iPodのiTunesのような、どれも同じような性能をおいたパソコンラインナップに対するKeynoteやGarage Bandなどのようなソフトウェアの方かもしれない。

広島の事件と安全確保

2005-11-27 19:03:21 | 教育
子どもの安全確保を通知へ 広島の女児殺害で文科省(asahi.com)

全国的に子どもの安全確保について通達がいっているであろう件である。
今回の事件は(も)ニュースで見て身が震えた。
亡くなった子に対しては冥福を祈りたい。なんて悲惨なことなのだろうか。
ここ何年かを振り返っても、学校や家庭、地域という現場で、大切な命が無惨に奪われる事件が続いていると思う。
家庭もそうなのだが、公共的な部分という意味で、学校や地域の安全は大きな転換期を迎えなければならないとは思う。

しかし、学校というハードウェアに対して、割れ鍋にとじ蓋的な対応ではもう立ち行かないような気もする。
今後、新設、改築されていく学校は、特別な安全確保基準を必要としてくるのではないだろうか。
例えば、出入り口の統一、施錠、モニターなどの一元管理、緊急通報システム、退路確保、PTA室を別口にするなど、考えあげれば切りがないほどのことが待っていると思う。
加えて、今回のように登下校の安全確保となれば、地域に保護者が立ってもらって、集団登校をしたり、学校の放課後学童保育化を一部に行いながら時間を合わせての一斉集団(またはグループ)下校をしたり、また、その時に合わせて警察、その他の安全対策要員にパトロールを出してもらうなどが必要なのかもしれない。

考えれば物騒な世の中になったものだ。
私が子どもの時代には考えられないことを想定しなければ生き抜けないなんて。
これを機に、道徳教育の統制などを図ったりすると、的外れなこと極まりない事例になってしまうと思う。
「道徳」なんてお題目の集合体に想いを集約し(責任転嫁し)たりせず、社会的な人間育成について、真に議論を広め、よい生き方が可能な世の中にしていかなければならないと思う。
(「勝ち組」「負け組」なんて、人との差別化を図り、人をしいたげることに躍起になっていても生きる力は湧いてこないと甘い私は思っています。ま、これはこれで根拠ない話か・・・。)

課題は「子育て重視」の施策転換なのではないだろうか。
馬鹿なところに金を使ってる場合ではない。

教育ソフト

2005-11-26 10:02:14 | 教育
意味が精確につたわる名称が思い浮かばないのだが、一応「教育ソフト」と呼んでおこう。
教育のために、だれが、だれのために、どのような場合に使われるソフトか、どうにもイメージできない単語だと思う。
1.独習用のドリル型のソフト。
2.地図や辞書、はては星座を表示するような参照を目的としたソフト。
3.一太郎スマイル、キューブなどの大人のソフト(このいい方もへんだ)でいえばMSオフィスのようなソフト。
4.ウェブを参照するときに、文字にふりがなをふってくれるソフトのような支援ソフト。
などは子どもが直接的に関わる可能性があるのだろうソフトといえる。
しかし、全てのソフトが大人が使用してもかまわない部分を含んでいるし、これらを総じて「教育ソフト」と呼んでしまうにはあまりに多様で、子どもを育むのに必要なソフトというくくりの議論がし難い。

何を話したいかというと、教師の間で「教育ソフト」の議論が成り立っていない場面に多く出くわすこと。
「このソフトを導入したいのだけれど」や「このソフトが便利だよ」というとき、教育効果や教育的意義づけが無視されている場合がほとんどということ。
教育情報関連に詳しいという人に出くわす度にいつも抱いてきたことなのだが、そういった人たちの情報メディアを扱う技量はかなりのレベルの場合が多いが、教育的な実践に関してとても下手糞なこと。
いや、人のことを避難して、自分はどうなのかといえば同様なのだ。
思いっきりいってしまうと、教育現場において、きちんとしたハード、ソフトの用い方についての議論がないのだ。
おそらく小学校レベルでこのていたらくなのだから、中・高校レベルも同じではないのかと思う。
私が「情報教育」といったときに、それ自体を嫌う一番の理由だ。
実際的な意味でのアカデミックな議論がなされていない、最低の分野だ。

話が抽象的になってしまったが、実は、私の学年であるソフトの試用導入が行われようとしてる。
学年主任がもってきた話だが、見通しがあまりにも教育的でないなと思い、思わず了解の返事を躊躇した。
そんなソフトを使っても、学習効果は望めないのは明白だし、総合的な学習の時間の無駄遣いだと思った。
しかし、今の情報教育界はそういった行き当たりばったりで成り立っていることも知っているし、学年主任に反ばくしたところで対案を示すのも面倒くさくなってしまい、結局、了承はした。
(この主任は「研究」至上主義の人。情報だ、英語だと新しいこと、マニアックなことに対する熱情はいい悪いを抜きにすごいエネルギーをもっている。立ちふさがるだけ無駄だと感じている。)

ああ、また研究のための研究になるかなという嫌な気分になっている。

牛乳給食

2005-11-25 00:15:43 | 教育
日々むげんブログのむげんさんのエントリーにコメントして、あ、これは自分のブログにエントリーとして記録しておくべきだと思い直して書きます。

(以下、自作コメントの引用=へんなカンジ)
>私は牛乳給食と呼んでいます。
>栄養士さんの栄養必要接種量を確保は理屈ではその通りなのでしょうが、牛乳がないと確保できないという点に貧困さか牛乳信仰(振興)のワナを感じます。
>経済的に牛乳しかないという考え方もあるかもしれませんが、それもやはり給食のありかたの貧困さを逆証明しているように思えます。
>私の妻はオリジナルの定食を作る職業なので、給食のメニューの様相には、「あわれ」のため息をついています。
>戦後以降、児童・生徒の健全育成の保障の一翼をになってきたといえる給食は、「お残し」の問題も含み、現在の家庭状況や児童を育む視点にたって、本当に合っているのかどうかは批判されるべき部分を抱えていると思います。

(以上、引用終わり)

私の子ども時代はバリエーションの少ないメニューだったけれども、競っておかわりをし、残食の代表はピーマンとかグリーンピースだとか、食材に限られた物だったと記憶しています。
今は、食材はもちろんだけれども、料理自体を毛嫌いして残す子や全体量自体が少ないため残す子等がいます。
一方、おやつや普段の食事が豊になり、栄養の偏りは問題としてあるものの、昼食でエネルギー総量のバランスをとる子どもは減ったと思います。
(もちろん、私の知りうる学校で、ネグレクトに近い状況下、給食を唯一のまともな食事として成長よりも生存をかけている子どもがいることも事実としてありますが。)
最近の子どもの残食は、そういった視点で見ると、根が深いというか、現在の給食のあり方を問うような様相を呈していると感じます。
「食育」なる言葉がありますが、こういった言葉が踊る時、私は、その後ろに「総中流意識の家庭・社会の偏った豊かさ」といえばよいのか、何かの違和感を覚えることがあります。

平井堅

2005-11-24 01:04:21 | 音楽
有能なシンガーである平井堅について戯言を一節。

先日、スタジオの帰りにレコ屋の表に「入荷!」の文字が踊っていた平井堅のベスト盤「歌バカ!」。
なんとPV2時間込みの初回限定4200円!
(おっと、うっかり買いそうになっちった)

彼の歌は歌いにくい。
メロはわかりやすい。声の帯域はなんとかカバーできる。歌詞も覚えられないことはない。
しかし、単調なようで、ブレスポイントが短く、伸びのトーンが一定かつそこそこの太さを必要とするので息が続かない。
我が子は最近の曲にはまっているのだが、彼のカラオケを聞くとホント難しいのがわかる。
マネしないにこしたことはないシンガーだと思う。

話を戻すが、このベスト盤の最終曲はPOP STARという曲。
このPVをCATVで流れているのを見てすごい違和感を覚えた。
この人は商売上手な世界で生きているのだなぁ。そう思った。
そういえば以前、やはりCATVの何かの番組で、「もう、人気のピークでしょう。」と自分で割り切ったことを言っていた。
大貫妙子が「いい意味でリスナーを裏切るような狙いをもつこと。」を主張していたこと。
山下達郎も「かわらないという事が難しいが、大切。」と言っていたことも思い出した。
自分を対象化した目を持ち得ているアーティストというのは長生きするよな・・・そう思った。

スタジオイン

2005-11-23 23:29:38 | 音楽
久々にスタジオで遊んだ。
誘ってくれるS夫妻には感謝、感謝!
前に住んでいた町の保育園の保護者繋がりという輪なのだが、サックスもベースも調達でき、私は私で歌までやらせてもらってありがたい、ありがたい。
いやー、歌って、いい加減なギターを弾いて、スッキリ!!

それからZOOM社のG2.1u(マルチエフェクター)を購入。
もう、煩悩昇天!!
ホント、しばらく楽しめそうな玩具。

次回は曲決めの食事会になりそう。
サックスが入る、簡単な曲ってないだろうか。
今のところ、ブラウンシュガーとレディマドンナだけなので、ちょいさみしい。
スプリングスティーンのボーン・トゥ・ランは難しいかな・・・。(かっちょえーのんやけど!)
年代が厳しいから、90年代以降のものは無理かなー。
楽譜ないけど、Jamesなんかええなぁ。
メロいいし、ホーン入るし、スリーコードでシンプルな展開やし。

ミッキーが嫌い

2005-11-22 23:59:43 | 戯言
我ながらすごい戯言を述べてしまう。
(そう感じている人はいるだろうが、こうやって書くほどのことではないという意味で)

私は「ミッキーが嫌いだ。」
ディズニーランド自体が「キモイ」対象だ。
プーさんは、話がつまらないが、ディズニー製ではないので許す部分がある。
でも、アニメキャラだけでなく、かぶり物などでもミッキーが脳天気バカのように振る舞いながら出て来ると虫酸が走る。

ディズニーランドの乗り物なんて行ったことがないから知らない。
でも、アトラクションの名前を覚えていることにステイタスを感じ、自慢下に語る奴らには「オタク」の称号を与えたい。
アニメキャラにはまり、コスプレするのと、ミッキーの柄で着飾るのとどこが違うのだろうか。
ディズニーキャラのぬいぐるみを車内にはべらすのと、萌えキャラを自室の壁に貼るのとどこがちがうのだろうか。
私にはどちらも単なる「マニア」の世界の人でしかない。

ついでに言う。
トイストーリーはピクサーの作品のように思える。
ライオンキングは盗作にしか思えない。

ディスニーがアニメの歴史にとって、記録されるべき名前であることは当然認めたいと思う。
東京ディズニーランドは優秀な遊園地だと思う。
しかし、信仰心をもって行く人が多いのはかまわないが、他の人に布教活動する輩は消えてほしい。
ミッキーなら何でも許されるということはない。
前にも書いたが「おしゃれ」「かわいい!」は思考停止のエクスキューズ。

学力を育てる(岩波新書)志水宏吉vol.1

2005-11-20 10:29:27 | 教育書
前記エントリーの「学力向上の7つのカギ(研究者調査)」で書いた話のネタ本登場。
今年の11月18日発行。
運良く19日に本屋によった際、購入。
久々にほやほや本の購入。ちょっと嬉しい。

先のエントリーで書いた批判めいた点についての妥当性が気になるが、ま、全ては読了してから。
何にしても、私の教育関係への興味の一つの流れにはそった本なので、そういった意味では期待して読み始めている。

あなたは子どもを救えますか(マネジメント社)野口桂子vol.1

2005-11-19 22:22:26 | 教育書
古本で購入。
1998発行なので、私の書籍選択の条件(2000年以後)からはずれるのだけれど、外国の教育を知るには読みやすそうだったので手にとった。
きっと、10年近く前の話だから、ずいぶんとアメリカは前進している部分もあるのだろうなと思いを巡らせながら読んでいる。
興味深いのは、いわゆる日本でいう「特別支援教育」にあたるものの処遇が手厚いことだ。
受益者負担の感覚が大きくシェアする国なのだろうが、個人を保護する点でも進んだところが見られるということか。
また、学校独自のもの、大学機関などとの連携のものや保護者の関わり・理解についての感覚が日本よりもずいぶん洗練されているようなイメージをもって読み進めている。
読みやすく、興味深い。
古いが、ちょっと得した気分。

歌うということ

2005-11-17 22:54:29 | 音楽
音楽が好きだ。
この歳になって好きな傾向もようやくわかってきたような気がする。

ギターをへたの横好きでやってきてよかったと思っている。
仕事にも、付き合いにも、自分の趣味として、はけ口として機能してくれて良かった。
もう一つの趣味、水泳ににている。
芸は身を助くってほどではないが、自分の個性になり得ている実感はある。

最近、音楽の先生と話をしていて歌うことの話になった。
先生曰く「つまるところブレスだよね。」
ああ、なるほどと思った。
呼吸、つまりは思いのままの吸い方、吐き方はとても訓練を要する。
歌い手の個性を作っている重要なものの一つといえる。
音程、音感なんて前提にすぎない。
自分も歌を歌ったりするからか、子ども達に歌を指導するときにブレスで注意をすることが多い。
思いのままに歌うということは本当に難しいがとても実感のわく体験なので楽しい。

研究発表を前にして

2005-11-16 00:08:47 | 戯言
最初にこの場を借りて、
今日さん、たくさんのコメントありがとうございます。
今日さんの研究会へも参加できず、なかなか不自由な感じです。
いろいろお気遣い、いつも感謝しています。

現任校ではもうすぐ研究発表です。
なんと、十余年ぶりの校内研究だそうで、古株の研究主任にとってはいろいろ初ものが多く、刺激的のようです。
私もキャリア5年目にして、大きな研究発表に関わるのは4回目ですが、毎回、驚きがあります。
研究主任が
「忙しくなって、ギスギスしてきていないか?」
と不安げに話しかけてきたので、こう答えました。
「背伸びくらいの緊張感がないと教師なんて職業はあっというまにダメになってしまうのですよ。
ギスギスしていやだと言っている人を気にしなくても大丈夫。
こういうのにある程度経験がある私や、何人かの人は倒れそうだけれど、今まで研究なんてやって来なかった人には、そんなに辛い仕事がまわっているわけではないし、いい刺激ですよ。
本当に無理ならやらなければいい。私も子育てや出産前のカミさんをかかえて、少し辛い。だから適当に休むこともある。それでいいじゃないですか。
だけれど、みんなでがんばるという雰囲気で、今、まとまっている人も多いのだから、ギスギスも受け止めながら、一緒にがんばりましょう。
それにきっとギスギスしている人はほうっておいても大丈夫。文句いう余裕があるのだもの。
やらない人はいつでもやらない。気付かない人は教えても気付かない。そんな家業でしょう。
がんばる人はがんばらないと。」

すると研究主任はきちんと受け止めてくれて、
「そうだね。この間の行事もみんなでよくまとまって立派なものを仕上げたよね。
そんな風に考えられるといいのにね。」

と、返す。私も思わず持論へ我田引水。
「同じですよ。管理職の手柄になるのはしゃくだけれど、共同的な活動が生み出す連帯感を得られと教師の技量向上、そして児童理解が学校レベルで進むなんて最高の機会でしょう。
我々は人事考課制度とか、教師批判とか社会的に制裁めいた批難を受けているけれど、金のためにやろうってはじめた仕事じゃない。
子どものためになって、社会的な信用や、信頼、それに教師同士が児童理解を深め、高め合い、励まし合える関係になるのだから、研究も捨てたものではないですよ。」

うなずいてくれる主任。
「そっか。少しすっきりしたよ。」

ああ、それで今日も遅くまでがんばったよー!(いきなり爆!)

眠れん!

2005-11-15 01:20:56 | 戯言
酒をやめたこともあるのだが、眠れない日が増えた。
鬱っ気もあるのだろう。死にたくなる。(こう言っているうちは調子がよい)
身体は疲れ切って、キーボードも叩くのがおっくうになってくる。
喘息も出て来る。
眠れない!

あの戦争は何だったのか(新潮新書)保坂正康

2005-11-13 00:43:17 | 教育書
当然、あの戦争とは太平洋戦争(第二次世界対戦)のことである。
イデオロギーによらず、戦争に至った経緯や戦線の状況変化を丁寧に時系列で追っていっている。
あの戦争を知り、考え始めるための最良の書と思った。

あとがきを引用したい。
(以下引用:P239)
私の”太平洋戦争批判”の主要な点は二点にしぼられる。
第一点が、なぜあのような「目的も曖昧な戦争」を「三年八か月も続けたのか」の「(当時の指導者達によるものも、戦後の政治責任者によるものも)説明責任が果たされていない」こと。
第二点が、戦争指導にあたって「政治、軍事指導者には同時代から権力を賦与されたろう」が、祖先、児孫を含めてこの国の「歴史上において権限は与えられていなかった」こと。(つまりは、見通しのない戦争へ向っていった当時の権力者達への批判と、その指導のもとに一丸となって戦争へ突き進んでいった日本の社会的な体質への歴史的批判のことだろうと思う)
この二点である。
(引用終わり:「」の付与と()内の文はyoによる補足)


このあとがきを読んで購入したのだが、個人的には時系列で抜けている部分が無理なく繋がり、とかくクローズアップされがちな事項、省略されがちな事項を一連の流れの中で見直すことができ、有意義であった。
「大人のための歴史教科書」という副題がつけられているが、いわゆる「つくる会」歴史教科書や既存のその他の歴史教科書の記述と合わせて、中・高校などの資料として用いてほしいものだと思う。

誤解を恐れずに個人的な意見を一つ。
やはり天皇に関する記述は気になった。

(再び引用P158、P159:昭和18年について、注視した後の記述)
ここ(昭和18年まで)に至る状況に、そしてまた次ぎに来る(終戦までの)”半狂乱”化した状況へ導いたのは、誰に責任があったからなのか。
果たしてそれを、一概に「東城(英機)が悪い」、「軍部が悪い」で片づけてしまっていいかというと、私は、そうは言い切れないと思うのだ。
この戦争の”突破口”を開いた責任は、確かに海軍にあったと思う。「ミッドウェー海戦」での情報隠蔽などということもあった。しかし、かといって、昭和十八年に至る状況を「海軍が悪い」だけですませてしまうことはできない。
さらに「昭和天皇に責任はない」とも言い切れないだろう。だが、「天皇の責任だ」といった瞬間に、それは”逃げ”になってしまう。その責任は綿密に多様化しながら考えるべきことだろう。
また反面、この時代ほど、日本国民が”総力を結集した”ことはなかったのも事実だ。
(引用終わり()内の文はyoの補足)


あえてイデオロギッシュな発言をすると、よく右翼側の述べる「大東亜共栄圏」の幻想は、いいようにこの「総力」への理由づけ、動機付けになっていたし、この本の流れの中で、やはりキーパーソンとして天皇ヒロヒトの存在責任は大きいことを否定する文脈はないのであって、太平洋戦争を総括し、平和を語る時、この二の轍を踏まない断固とした態度が今の日本には必要であることは明らかだと思う。
まして、「総力」への絶え間ない動機付けとして機能してきた靖国神社が主張も転換せずに現存し、そこに参拝を繰り返す首相は、対外的に信用を得られるというのは甘い幻想というだけでなく、こうした歴史を顧みない不遜な態度と言わざるを得ない。