怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

オレ様化する子どもたち(中公新書ラクレ)諏訪哲二著

2005-04-30 00:05:26 | 教育書
久々の書評(?)
最近は、結構、技術本やハウツーにまみれていたが、数冊併読しての読了。
ちょっと通読時間が長かった。(別に他意はないが、自分の読書力に反省。)

さて、いつもの通り、かなり端折った感想。
諏訪さんの本は以前にも読んだ経験があるが、一番読みやすかったかも。
(元)現場教員の視点・立場(立ち位置)を大切にしながらの論述になっており、そこが彼の誠実かつ実直さを感じさせる。
彼の参加したシンポジウム(だったっけかな?)を観にいったことがある。
誤解のないように言葉を選び、丁寧に論を積み上げ説明する点は著書と変わらないのだなと思ったことがある。
この本は二部に分かれており、前半は近代の学校教育とその周囲の状況や教育に対する認知の様子を説明しつつ、著者の今までの主張を別の言葉で表現している。
特に、「子どもが変わった」はプロ教師の会の根幹をなす主張であり、今度の教育・指導の方法や理念のあり方をどのように変えていくべきかを示す道標としていると感じた。
後半の教育論者の子ども観を検証している段では、前半を受け、主立った教育論者の論点を踏み台に自己の主張を際立たせることに成功している。
特筆すべきは尾木直樹批判であろう。
私は尾木さんの主張は好きであるが、どうしても最終的に踏み込みばのない論になる点に違和感を持っていた。
しかし、ここではそんな抽象論でなく、ざっくりと、尾木の立脚点を革命前提と断じ、背景には尾木独自のユートピアがあると批判することで、著書を通した持論の対比を鮮やかにしている。
せっかくここに書いたので、私はあえて感覚的に反ばくしてみたい。
諏訪氏の主張は現場主義的であり、学校保守であるから、単純には現在の子どもには厳しい。
今回の氏の著書には、そんな現状に対応しながら前へ進むべく活動する教師のための具体的な手立て、手当の主張がうまく汲み取れない気がする。
そこが弱いが、それは別著に譲るのか・・・。
なんちゃって挑戦になりそうだが、現場教師をある意味勇気づける書であることは確かで、一読の価値は絶対ある。

家庭訪問があと少し

2005-04-29 12:43:25 | 教育
4月の家庭訪問。
なかなかこのご時世では厳しいものがある。
なにが難しいといえば、一口にいえず・・・。
と思っていたら、なかなか的を得た発言をみつけた。
私も家庭訪問必要派であるが、正直、廃止賛成派の意見もごもっともと思ってしまう。
時数の影響をうけず、多少こちらも児童の情報把握して伝える立場として対等に話せるであろう「夏休み」に家庭訪問をする学校もあるそうだ。(ただ、後者に関しては「全員に対してという観点で」それほど必要は感じないし、何より通信簿を渡した後なので、重複する部分も多く無駄を感じる。)
やはり「子どもの家庭環境を把握する。」「子どもの背後に親の顔を感じることができるようになる。」というのは、指導をしていく見通しを持つ意味でメリットは大きいと思う。

話は少し違うが、学級王国の小学校において、学級通信(クラス数が1.2なら学年通信でも?)というものを積極的に発行しない教師を見るが、児童をあずかる身としでは、保護者に指導を理解してもらう意味でインパクトを与える手段を放棄するのはどうかと思ってしまう。
しかも、この点については管理職等の積極的な働きかけを受けた覚えがない。
言い訳を少しすると、たまにつまらない「学級通信の書き方」的な書物を見かけるときがあるが、学級通信は千差万別かつ多様で書き方等なく、教師の自由な表現活動でもあるから、保護者側も発行の有無には期待してほしいが、内容はあまり期待しないで欲しいとは心の中で思っている。(かかるエネルギーも相当なものだしね)

また失言なるか?

2005-04-24 11:30:05 | 教育
またバカ発言か?
4月22日の時事通信より
全国テスト、正答率アップ=小中対象、4割強で前回上回る-新指導要領で初実施
>文部科学省は22日、新学習指導要領下で初となる小中学生対象の「学力テスト」(教育課程実施状況調査、昨年1、2月実施)の結果を公表した。
>旧指導要領下の前回調査(2002年1、2月)と同一問題で比べると、正答率は43%の問題で前回を上回り、学習への意欲も増加した。
>学習内容を削減した新指導要領には学力低下への懸念があったが、同省は「基礎的事項を徹底する努力で、成果が上がりつつある」と指摘。中山成彬文科相は「さらに上向かせるため、指導要領の見直しを着実に進めたい」とした。
>(時事通信) - 4月22日17時2分更新

まさに一喜一憂とはこのことか。
しかし、風評はこわい。
>基礎的事項を徹底する努力で、成果が上がりつつある

なんじゃそりゃ。
しかも2002のデータと比較?
昨年度と一昨年度と教育内容にどれだけの違いがあるっつーんだ。
「学力低下」論議は昨年度から何か特別な方策をとったっていうのか?
あれだけ世間をかき回しておいて言うには、ちょっと冷静な分析を求めたいものだ。

ちょっと別だが、学力調査の適正実施がなされたかどうか調査してほしいものだ。
どこだかの学区は、事前に知識注入を行なってたっていう噂は有名だと思うけど。
(あんな学区域順位を公表されちゃ、裏でだまって見ていられない自治体も多かったはずでは?)
ちょっと時間ずれな発言だったら勘弁だが、以後注意では?

しかし、中山は「指導要領の見直し」とはよくいうわな。
こんなことで、またなにか失言がおきなければいいが。不安にさせるコメントだ。

研修。研究。そして教師の立場。

2005-04-24 11:06:46 | 教育
前の記事「埼玉県・・・」へ対するワタナベさんのコメントに反応しているうちに、長くなってしまったので、新規記事をたちあげました。

(こたえる形でいきなり始まります)

親の立場で、そういう風に感じていても、おっしゃっていただける方が少ないのかなと思います。

研修も効果的なものが極めて少ない実情です。
(「いい学校の選び方(中公新書)」の著者は教員研修の講師だそうですが、その人自身が前出著書の中で効果を疑っています。そんな状況ですね。)
それよりかは、都内とか市区町村内とかで、教育技術や実践、あるいは単に地域の実情を忌憚なく(=ここが重要)情報交換できる時間と場を(最初はなかば義務的・強制的に)設定する方がいいように思います。
教育委員会からの教育的実施事項の丸投げ、実践録の放り投げ配布でなく、きちんと説明会やら意見収集(吸い上げ)を行なう場と時間をもうければいいのです。(校長からの吸い上げは無意味・機舶s全におちいっています)
また、ここには保・幼・小・中の連絡会等も含める方がいいと思います。

話を研究にします。
私は、これからの研究は地域との連携も視野にいれなければ理解を得られないし、無意味になると実感しています。
前任校では、今の流行りに反し、国語の「話す・聞く」をテーマに校内研究をしていました。(昨年度終了。自主的に研究発浮?オた際には見に行きました。)
教科について深めるだけでなく、地域に積極的に内容を理解してもらい、日常的に力を身につけることとの連携を模索もしました。
様々なボトルネックがある中、一区切りをつけたことに、異動した身とはいえ、誇らしく感じました。(なかなか伝わらない部分もありましたが)
私自身は現任校でも実践・公開中(もちろん保護者にも)です。
(この成果を現任校にどれだけ広げられるかは、また別の問題ですが。)

(ここいらへんで、新規記事にしようとしましたので、内容がスライドしていくことはあしからず。)

最後に、授業技術は、文部省/文科省の施策の影響を受けて、その変化は大きいと思っています。
国語の単元削減など内容への影響も無視できません。
週5日制で、時数が削減し、都全体で児童体力の低下が数値的にでているそうです。
例えば、特に体育に注目してもらえると、昔よりもいろいろ授業技術が開発され、その対策がはかられていることがわかる気がします。
もし見えなければ、その学校の体育は全体計画からまずさがあるのかもしれません。
単純に、6年間通して「ドッヂボール体育」(=楽しいだけの体育)をやっているかどうかは判断基準かもしれません。

こう考えてきてみたところ、公立学校の教育水準を平均化する努力を都が怠っている現状も浮かぶように思います。
懲罰的管理を多くし、創造的な研究や効果的な学校運営を阻害しているかにも思えます。
文科省は自分達の施策を徹底したい意志はあるが、現場に適応させる努力や必要な理解を怠っていると思います。
現場は、早くリベラルな立場で行動できるように自己改革をするべきだし、その実践を具体的に理解し、積む事を自分のライフステージに課していかないとだめだと思います。
(ちなみにこのことを考えるとき、現労働組合は早急に解体して、必要ならば再編成してほしい。今や教師のライフヒストリーに関わる最大の悪事になっている。「教師の業界が古い」といわれる諸悪の根源になる前に・・・。)
また、教師のライフヒストリカルな視点を行政側はもっと大事にしてほしい。
(仕事の内容と離れて、メンタル部分でのサポートも現状では早急に必要です。)
そうでないと、管理のみの現場では、教師の孤立を救えない場合が生じるからです。
人的財産をムダにしないために、有効な活用を考えてほしいものだと思います。
(だれに?少なくとも石原・横山体制ではだめだろう。民主的な教育政策審議提案ができる機関は創造できないものだろうか・・・。)
答えが迷走したようなので、ここまで。

教育実習生

2005-04-23 01:40:31 | 戯言
私の目の前で校長と学年主任が別件での話を終え、事務的な話題にうつったなと思った瞬間んだった。
校長「実習生を一人お願いします」(私の方を向く)
主任「わかりました」(私の方を向く)
(私は帰り際で、リュックを背負ったまま、口を半分空けている)
私。ココロの中で(ヤメテケレ、ヤメテケレ、ズビズバー)

昨年は教師4年目ということ、異動したばかりということ、他にキャリアの豊かな方にまかせたいということにより、断固拒否。認められた。
当然だと思った。
事務手続きだけでなく、ある意味教師を育てる役である、相当の人がなって当然だと思った。

あーあ。まわってきちゃったよ。である。
しかし、うちのガッコはおかしい。
昨年度も5年目の人に教師塾の塾生をまかせるし。
他の暇か余裕のありそうなベテランをなぜ使わない?
企業的には私のような年限で後輩を教えるのかもしれないが、底の深い職業なのに、いらんこと言っても知らんぞ!
受けたからには徹底的に自分イズムでいくつもりである。
ついてこなかったら感情に訴えるぞ「こりゃ!」である。

まずは地獄の丸つけをさせてやる。
そいから全教科のワークシート等を作らせよう。(プロデューサーきどりで)
そんでもって指導案は指導過程を徹底的に作り込ませる。
休み時間は子どもの相手だ!
俺より早く帰らせない!のだ。
期間限定の徒弟になることを誓わせるのだ!
大学時代のいい思い出となるよう手は抜かない。
(あーバカなイメージがわき出して来た。おれもアホだな。)

埼玉の事件(関連リンクなし)から新採を思い起こした

2005-04-23 01:25:18 | 教育
The教室ブログの
http://shiozaki.info/mt/mt-tb.cgi/654
の意見に同意しながら・・・。
(以下引用1)
>ということで、埼玉の事件とは別に考えたいのですが……、それにしても新採用教師の、研修の多さは尋常ではありません。
>研修報告や授業研究はもちろん、地域によっては、午後は研修のために出張になり、午後の授業は他の教師が進めているというところもあります。
>担任している子どもたちや、職員室の同僚との関係を切り離す方向で研修を進めているとしか思えません。
(引用1ここまで)

まさに激しく同意。
保護者がおかしいと思わないのが不思議の実感。
担任が時間を年間100時間くらいは平気で外されることをこわいと思わないだろうか。
しかも、研修内容が自分の学級に真に生きる事はまれ。
担任をしていて物理的に不安になるのだ。
学校全体の運営に、内部から見てあきらかに不安定要素がみえるときはなおさら。

>そこまでやるのだったら、担任外職員として一年間をすごす制度をきちんと確立したらどうでしょうか。
>それを言うと、職員数が足りなくなる云々の話になるのです。

金がないのなら(昔のように)無理してやらずにならないのは、昨今の教育の責任問題につながっているし(結局、新規採用者が失敗しても、研修を盾にすればどうとでも逃げられるしね)、加えて、へんに管理統制を加えようとするお上や教育委員会からの弱い者いじめだろう。
これだけ多様な現場があって、一律実施の強要は「計画なし!現場無視!最低最悪!」としか言い様が無い。
本当に研修が必要なの奴は捨ててかかっているようにしか見えない。
しかも、無能管理職はそんな奴を指導教諭にすえ、問題学年へいきなり突っ込むことも平気である。
うまくいけば校長の手柄。
失敗すれば新規採用だからという理由もたつのだろうか。
若い奴のバックアップをはかるのは管理職が率先してやらなくてどうする。

常任理事国入りと投石

2005-04-18 00:12:17 | 戯言
これがどういう意味を持つのか、正直、通り一遍等の知識しか(さえ、かも)もちあわせていません。

http://tonetalk.to/tonetalk/archives/000364.html
TONETALKさんのブログ
「ナショナリズムに傾いているのは日本の方ではないか」からのまた引用

>問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。
>後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
>しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。
>非人間的行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです
>永井清彦編訳『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(岩波書店)

時に、社会科という教科を通し、またある時には生活指導で、国語科で、などなどで歴史的な事実に触れ、伝達する必要に迫られる身ですが、歴史的事実を伝えるということ、事実を突き抜けて物を見る事を教える事は難しいと感じざるをえません。
特に、教科書レベルでゆらいでしまうと、まったく困る。
しかし、今回の投石事件の件は、自虐的史観といわれようと、ナショナリズム(ひいては日本的ファシズム)の波に飲まれてしまうわけにはいかないと感じています。
(これとは別に、投石事件を解決しようとしない中国の国際ルール違反がありますが、その話をおいてします。)

奇しくも、ドイツも常任理事国入りもかかっているとのこと。
ドイツはその歴史の負の部分を前向きに転化しているように見えるが、日本はなぜこういった総括というか自分達の過去に対してはっきりとした表現ができなかったのだろうか。
そうすれば、もう少しシンプルな関係が築け、諸問題においてもう少し楽に解決をできたように思うのだが。
北方四島しかり、竹島しかりである。

未だに南京大虐殺などでは
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30607247
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31487696
などのような本や批判(というか否定しにかかっている)がある。
上の2冊はざっとみているが、思い込み半分の箇所もちらほらだとみている。

何にしても、過去の事実認識は、受け取る側の気持ち、将来を見据えた相互理解に基づかないといけないと思う。
過去を都合良く利用している感触から逃れられない時、危険は傍にあるのだと思う。
そんなことも含めて考えながら、教師としては、行動していきたい。

話を蒸し返すが、君が代・日の丸などの問題も、根っこは同じだと思う。
徹頭徹尾ナショナリズムに利用される国旗国歌などから、真の良心・良識に基づいた愛国心など生まれ得ない。
(これは、現代において、修身教育が通じないことに似ている気がする。)
卒業式でも入学式でも私は立つし口を開くが、そういった事を強いることを、心の底から、その汚らわしい個人や自由を否定するものを呪ってやる。
私イズムだが、
私が私にとっての歴史を生かすということはそういったこと。
戦争中の悲劇や心の内の悲しみを墓の下まで持っていってしまう人たちを弔い、同じことを繰り返さないということ。
そして、オルタナティヴに生き、明るい未来を望む行動をとるということ。

公立VS私立

2005-04-17 15:02:33 | 教育
http://www.kingdom.or.jp/nanchie/html/00/13_16.html
王国「公立小学校VS私立小学校。ここがいい、ここが悪い。実際の体験談をお聞かせ下さい。」

この表題で面白いと思ったのはVSの部分。
果たして対立項目になるのだろうか・・・という点。
だけれども土俵が違うのだなと思った。
日本の教育は公立が主体というか基盤にあって私立があるのだなぁと痛感。
私立組の希望は単純で、公立不信というか、私立という選抜クラスに入ることが望みのようだ。
ま、実際、なんでもかんでも受け入れる私立は都内に存在しない(よね)から、必然的にある程度その学校に合った子どもが通うようになり、学級崩壊も少ないのである。
公立は、そういった視点からすると、私立にもれた子どもの受け皿でもあったりする。
当たり前のことをいっているのだが、そこは重要な視点であるように思う。
このHPのコメント群をみると、公立への不満を述べているだけの人もいるのだが、こういった人は現状認識が甘いというかできていないのだろう。

あえてコメントをおいてきてみたが、私立の内部状況をどれほどリベラルかつクリティカルに見る目をもっているのかは、この議論を単なる底辺バッシング、公立バッシングで終わらせず、私立の教育の向上を前向きに見ていく視点につながるのだろう。
果たして、そこまで私立教育をパッシブでなくアクティブに活用していくことが今の私立組に可能かどうかはわからないが。
私の、数年、数校程度という、少ない私立学校講師経験では、意外に人的財産やその可能性を埋もれさせている学校が大半であるとは思う。
そんなこと、私立学校の(もしかしたら信者チックな受動者)保護者に尋ねてみてもわからないだろう。
いや、なにも保護者等を馬鹿にしているわけではなく、普通に私立の教諭(社員)ならば、不要な情報は流さない以上に隠ぺいもするだろうという意味であることを、誤解ないように付け加えておく。
公立の教員がいかなる研鑽を積んでいるかなんてことに興味を示す保護者に出くわした事がないことも、こう書いている理由。
批判的に見ている保護者がどの程度いるのだろうか・・・。今回の引用ではそこのところに疑問符をうちたい。
最後に、私立小学校教諭へ尋ねたい。あなた方はどんな研鑽を積んでいますか?さらに、自分の学校についてだけでなく、広く教育者としての資質をどう高めていますか?公立学校のそれをご存じですか?
誇る事をしているわけではないが、かなりの時間を日々そこにさきながらやっているので、単純に広く私立では?と知りたいのです。

評価一考(その1)

2005-04-17 00:45:48 | 教育
相対評価との比較で絶対評価を考える。
絶対評価の利点は、達成度評価なので、その評価規準さえ適切に設定できれば、それを教科単元に還元しやすく、児童生徒に達成目的を示しやすく、その分、自己評価との整合性も飛躍的に高まる。
つまり、設定された規準が明示されているのだから、どこまで努力すればA評価になるのか、学ぶ者の視点でわかり、努力の実感がわかる。
しかし、規準の設定が難しい。
無理な規準をもうけると全員C評価もあり得るし、その逆もある。
もちろん、無理な規準というものの評価も必要だ。
例えば受験等の資料になることを考えると、全国レベルはさておき、最低でも進学先の学区域内は規準の総体の差がないようにしなければならない問題もある。(もちろん受験システム自体の問題でもあるが)

ネット上で遭遇した方だが、敬意をはらいつつ拝読させていただいている子安先生のブログから、
http://blog.livedoor.jp/koyasujun/tb.cgi/19085665
>なぜ非教育的かというと、そこで目指される評価は学級の個性的な学びを単純化することになるからである。

教育的か否かという視点、そして学級の個性的な学びにつながるとい視点にはっとさせられた。
ともすると評価するために評価項目を考えている自分を感じたからである。

「たち合わせ」
http://blog.livedoor.jp/koyasujun/tb.cgi/18747623

同じく子安先生のブログからだが、

>しかし、ここからがいいたいことなのですが、そんな気はしてしまうのですが、教師がこういうことにおもしろがる時間があることはいいことだなと思うわけです。

ああ、「共に学ぶ集団としての学級」をもっと強く意識しながら、上手な授業をしたいものだと思う。
評価というものが、そんなものによりそう形であることが個人的な理想かな。
でも、明日の授業も、今現在、我が校で問題になっている評価規準/基準に翻弄されそう。

暴れだす(ウルフルズ)

2005-04-13 00:30:03 | 音楽
前から気に入った一曲だったのだけれど、久々にMTVでみた。
ストレートなロックだけれど、ちょっと個性、ちょっと工夫が入って熱っぽいと弱いんだよね。
「暴れだす!暴れだす!」と「あーああーあーあー」を一緒に歌ってしまう。
エジカンのいくつかの曲もそういった意味で好きだった。

ああ、そういや
最近の音楽を聞いていないよ。

マイブラ道もクレイマー道もツェッペリン道も新作がないもんね。
(かろうじてツェッペリンはソロや発掘音源があるが)
コールドプレイもストロークスもリバティーンズもはまらなかったなぁ。
唯一がカサビアンかな。
キュアーもなんか頑張り過ぎってカンジで個人的には今一。
モリッシーは未聴。

未だにJamesとかに期待しているのがまずいかな?(自爆)
でもやめられない。(切腹)

さて、まだ起きている

2005-04-11 03:27:30 | 戯言
やばいよな。この生活パタン(というか不規則)。
毎週日曜日はだめだめなのだ。
次の日にむけて緊張してしまう。かなりストレス。
週が始まるとガーッっとペースに入ってしまうのだが、週末はとにかく自分でも分かるくらい疲れる。
この疲れが金曜日にピークに達し、土曜はクラゲのように脱力して過ごしてしまう。
家族はいい迷惑である。
でも、だめだめなのだ。
不安な週の前ほどこうなのだ。

さて、今年は3年生。
組んだ人はベテランかつ研究漬けの前任校の味をにじませる年上女性と、こうし経験2年の初任女性。
つくづく社長は私に対して、どんなイメージでいるのか疑いたくなる。
まあ、とにかくは手のかかる学年をふられたので、集中したい。
先週はばたばたしてしまい、押さえる所は押さえたが、なんとも感触の弱い2日を過ごした。
今週は実感を得られるまで、腰を据えてしめてかかりたい。
まずは保護者会。ガンバである。
だから、今から寝てみる。

おっと

2005-04-11 02:07:51 | 戯言
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200504060316.html
NHK・クローズアップ現代に「遺憾」申し入れ 都教委

以前に書いたヤツへの都側のいい分か・・・。

>都教委と学校現場の教員の対立という印象を与える番組

そういう取り方もできなくはないねぇ。
だけれども、そういう意味では両者の意見を公平に述べていたといえる構成になっていたと思うが・・・。
特に、横山教育長は直接インタビューだったわけだしね。

>NHKから都教委に「なぜ都教委が適正化を図らなければならなかったのかまで掘り下げて特集番組を作りたい」などと協力依頼があり、取材に全面的に協力してきた・・・

「適正化」(=この言葉もいやだが)が前提で議論しようとしている中に、自分達がやっている罪の深さを理解していない姿が見え見えである。
脅迫まがいの強制を行なっているという意識がないのだ。
いつから民主主義の権力行使を極端なやり方(=力づく)でやってよいということになったのだろう。
教育問題の根本原因の(どうせ意識的だろ!)取り違えをどうするのだろう。
否、東京都民の浮かれた感情にのった石原・横山体制は、いつか歴史が処分してくれるはずだ。
世界の趨勢が勇気づけてくれる。

またNHK番組から

2005-04-11 01:10:21 | 教育
NHKスペシャルを洗い物をしながら見ていた。
フレッシュな所感。(といっても、アップに手間どり、今)
澤柳政太郎が語られていた。
現在の教育改革(ゆとり教育)と重なる部分を強調したようにも思う。
が、結局、私学に結論を求めてしまったようで、そこは弱いなと感じた。
公立教育の問題点は棚上げされてしまったように思う。
否、というより、明治という歴史に答えを求めるものでもないのだろう。

日本における公立教育は社会情勢や経済状況、児童の多様な実態など多くの背景や教育の意義づけに関わるファクターを抱えている。
そんな中で、澤柳による教育改革が与えた現場へのショックは現在の比では無いだろう。
そこには驚愕の思いを抱いた。
そして、現場へのアンケートをする澤柳が語られた部分は、新旧を感じさせない教師の児童に対する思いを感じ、勇気づけられた。

結果は簡単にいう事が出来ない。
が、アンテナをはり、考え、適当に表現していくことは大事であろうと思う。

ライフヒストリーは社会科学用語

2005-04-09 12:36:15 | 教育書
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30853115
教師のライフヒストリー 「実践」から「生活」の研究へ
アイヴァー・F.グッドソン/著 藤井泰/編訳 山田浩之/編訳
出版社名:晃洋書房
以前書評を書いたことがある。

今年度組んだ相手と話しているうちに、再び、こういったテーマに興味が戻りつつある。
仕事をやっていると何回か波のようにこういう時期がくる。

教師の(特に日本の)人生観とでも言おうか、いったいどういった見通しをもって暮らしているのか気になる。
公務員なのだが、非常に生活のリズムは不規則で、しかも災難のようにたまに自分が原因でないものにより打撃を被る。
いったいどういった気持ちで日々くらしているのだろう。
結構気になる。

キャリアアッププランという管理制度がある。
十年間を1タームとして、3ステップで考える。
毎年の自分の教師としての成長を計画させ、研修制度に生かす等するわけである。

今、都で実施されている人事評価制度のたてのレベル分けは校長、副校長、主幹、平である。
横軸は年功序列であったわけだが、主幹制度導入とキャリアアッププラン管理により、
出世前提で行動する事を求められ、出世しないとベースアップもままならない状態に陥る。
出世もご丁寧にコース分けされていて、主幹などの管理職コース。研究をベースにした指導者養成コース。
基本的にはどちらかしかない。
指導主事になるというコースもあるが、それは管理職になることを前提としているので、前者と同じ事になる。

人生には初任時期や結婚、子育て、介護、自分や家族のトラブルなど様々なことが待ち受けているが、そんな生活的な部分と仕事とのバランスをどうやってとっていくのだろうか。

非常に困るのはほとんどの真面目にやっている教員が、ある年齢がくると肩をたたかれ昇任をすすめられるのだからたまらない。
しかも、都の人事の問題だが、教員の年齢構成は30代から40代あたりがへこんでいる。
うるさいぐらいこの手の話がくる。
静かに、万年平社員で、初心忘れず子どもに向かっていく事を許されないような状況は、人生つまらない。
というか、人の人生に口出しをし過ぎである。余計なお世話である。

こんなことを話して理解してくれる同僚先輩後輩に恵まれていなだけだろうか。

また不祥事

2005-04-02 13:50:56 | 教育
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050402-00000022-san-soci
元教え子を「厄介者」扱い 中学教諭、寄せ書き

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050402-00000696-jij-soci
授業で「バトル・ロワイアル」=中学教諭、生徒の希望で上映-東京大田区

つきないネタだ。

前者は言動が理解できない。の一言。

後者はこの担任だけでなく、他の学級もおかしい。
> 区教委によると、男性教諭は3月、年間の教科書の履修を終えた3年の4クラスと2年の3クラスの生徒に対し、余った授業時間の過ごし方について希望を聴取。
>2年の2クラスでバトル・ロワイアルを、ほかの5クラスでは「忍者ハットリくん」「モンスターズ・インク」などを上映することにした。 

はあ?
である。
年間予定の教科履修等が終了したら授業しなくていいの?
週案簿には「特別活動」とでも記録されているのかしら?
(だとしたら特別活動もなめられたもんだ)
どういう指導の元に「ハットリくん」「インク」なのだろう・・・。
最後まで徹底的に学力向上を目指してもばちはあたらないと思うのだが・・・。
理科ならば、それこそ発展的な内容をあつかう好機だった時間では?
気の抜けた指導をしているからこういうことになるのだと思ってしまう。
託児所じゃなく、中学校で行なわれたことなのだから、学校批判に繋がりかねないと思う。
だから「中学は教科教育等の指導が甘い」という批判をよく耳にするが、これも一例かと思ってしまう。
中学教師の方どうか?