怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

異動間近と期待と孤独、そして鬱

2005-03-30 21:22:29 | 戯言
非常に鬱な感触をもって書きます。
「いじけ世代」の教師とはいいえて妙だ。
http://shiozaki.info/mt/mt-tb.cgi/631

今年度があと少しで終わる。
異動先2年目に突入目前。
担当学年も決まり、黙々と後始末と新規の用意をしている。
春休みはあってないような期間だ。
毎年思うが、リフレッシュをしていない事に苦痛を覚える。
どちらかというと、新クラスの子どもと出会い、忙しくすることが一番のリフレッシュごまかしである。
来年度(も)、たいへんな学年を任される。
目立つのは損だ。(出る杭は打たれる)
男の教諭は損だ。(へんな期待をしないで欲しい)

2年前、学級崩壊した。
今もてば、違う状況で過ごせただろう1年。
でも、その時は無理だった。
なんでこんなことを思い起こすのだろう。
今年度で異動していく同じ学年を一緒に組んでいた教諭に別れをつげながら、そんなことを考えた。

私は教師の技能についてよく考える。
教師は教師について語らない。
自分の人生観を伝え合うこともない。
私の興味は、教師の「社会的生き方観」とでもいおうか、そんなものに自然になっていた。

最近、サラリーマンとしての教師の形がいろいろ知らされる。
キャリアアッププランなんてやつだ。
出世しようとしないと、給料が上がらないというようなやつだ。
教師の初心とはなんなのだろうかと考えてしまう。

決して学年で足並みを揃えようとしない、一緒に組んでいた教諭が主幹となって異動する。
(今年度の私の学年は3クラスだったのだが、残るのは私だけ)
あんな人に指導を受ける事を考えると正直、虫酸が走る。
あの人の暴論は忘れない。
私は、また、自分の学級に閉じこもるかもしれない。
(まず、それはないだろうが)
なんにしても、「いじけ世代」の教師。
でも、そんな感触をもたない世代も入ってくるのでは?
そして、それでも独りでやっていくのだろう。

今、個人的に、「とても教師がつまらない時間」を過ごしている。
まとまらなくなった。終わる。

クローズアップ現代0328

2005-03-28 20:58:39 | 戯言
非常に私的でシニカルな問題・内容なので、カテゴリーは「戯言」にした。
教師という立場以前の問題とも考えるからだ。

「国旗国歌で教師処分へ」
濃縮した内容だった。
私の捉え方でのポイントは2つ
1つ目
教師は内心の自由云々よりも、強制的な態度で臨む教育委員会(特に都教委)に対して不信と不満をもっている。
2つ目
日の丸君が代は法規制下にあり、教師はイエスマンとして指導に従事する立場にある。

私の主張したい問題は、
日の丸君が代の法規制が民主的な手続きにおいてなったものである点。
教育の責任は、この点に関しては絶対的に国民が背負うのだ。
平和教育をしてきた教員は特にであるが、我々教師は内心云々はさておき、自分の立場において、この法律が成立した時点で、この問題には負けているのだ。
私的には、日の丸君が代に対して、立て、歌えといわれれば、立ち、歌うだろう。
(目線はどちらをむいているか、口から音がでるかはしらないが)
教師は現実に対して、その立場を利用したり前提にして抗ったりしてはならない。
戦う前に負けている事を認めなければ。
国民は日の丸君が代に賛成なのだ。
また、日の丸君が代を児童に指導する場合、歴史的な見地や事実を多角的に示して、説明することを努力すること。
教師の立場でできることはそれくらいなのだ。
問題の敗者なのだから、教育者でなく、指導要領の内容を伝える伝達者になるのだ。
私ならば、この番組を見た国民とよばれる人へは、是非、歴史をよく学び、自分達でこの件を判断し、よりよく広めてほしいと願うだけだ。

右も左も保守も革新も、再び侵略戦争の時のような愚を繰り返してはならない点では一致してほしい。
そして、万が一、そんなことになったとき、日の丸を身体に括り着け、君が代を歌って死に赴く時に、君の意味がちがっていたり、国旗を死んで守る事を美徳としたりするような(無駄死にを推奨するような)風潮は無いようにしてほしいものだ。

今日のニュースで見た。
自民党のグループが、日本には「軍隊」が必要だと。
目的はどうあれ、「軍隊」というものの必要をとくのは内心の自由だが、それを立場をわきまえず公にするのは法律を遵守する立場からみてどうなのか?
戒告か減給でもしてもらいたい。

評価

2005-03-27 09:58:11 | 教育
いわゆる通信簿の評価は私見にすぎないという話はよく聞きます。
私も、結局は数値化を基本にしていかなければ、そういう議論になると思います。
ただ、テストのみではかれないものに対して評価軸をもうけるとき、常にそういった批判にさらされる危険があるということなんだと思います。
私たち教師は、評価に対して説明責任をもっているわけで、しかも、絶対評価ともなれば、自分の指導力さえ問われかねないということでもあります。
また、評価に関して、最低でも学校の共通軸(評価規準)をもって、使用していないと問題となります。
なぜならば、学校でどんな子どもを指導・評価しているのかが、教師達に徹底されていないということになるからです。
そして、全ての評価の責任は校長がおうわけですから、そういったシステムを考えても必要当然なことになります。

評価の方法は、様々な書籍に答えを求めていもいいし、具体的に、その学校の児童や保護者ならば、その学校に評価規準を求めてもいいはずです。
私たち教師も明解な評価と指導を目指していますし、実績を積み上げてもきています。

しかし、現実問題として、不遜な教師がいることも事実。
http://blog.livedoor.jp/gimukyoiku/tb.cgi/17306299
私はこうしていろいろ情報や所見をブログやHPで述べながらも、どうにもならない人的被害を否定することができないことは残念に思っています。

話は変わりますが、
教師のキャリヤや個性の多様性はあっていいはずですし認めてほしい、一方、自己改革ができない未熟者をどうするかという点のプログラムができていない点は憂慮すべきだと思います。
しかも、現教育委員会では、そのような問題に対して有効な対策をとらないどころか、切り捨てのみ先行しようとしています。(具体的に記述できなくて苦しい部分)
希望は、われわれのような21世紀に教員になったものは、厳しい現状の中で鍛えられているということです。
ぜひ、地域・保護者は温かい目で見つめてほしいものだと思います。
(最近の保護者や現場は、可能性を切り捨ててすぐに若い者を潰してしまう傾向も見えています)
今、学校公教育は激動の時代を迎えています。これからも注意深く見つめてほしいものだと思います。

指導要録

2005-03-26 12:02:15 | 教育
毎年3月はつらい。
Yoは普通に成績出すだけでも体重減少。
ま、元が相当あるので、5キロぐらいならすぐもどるが、3月はそれ以上なのでキツイ。
世間の人はどれくらい知っているのだろう。
指導要録の存在。
本来は指導目的があっての物なのだろうが、公簿開示がいわれてから内容は公開しても問題のおきないものになってきている。
どうせなら、あゆみ(通知表)をコピーして保存しておけばいいのでは?とも思っていまう。
正直、学校で教師がもっとも気を遣うシロモノでありながら、一番不要なものの一つかも。
転出入時や進学時には、学校間で送られる書類であるが、いまや、あゆみで事足りそうだと思う。
様式1の学籍簿は別紙なので、それはそれとして残してよいが、様式2は本当にいらない。
唯一必要なデータが出欠の事由くらいか。(病弱なのかだとか、不登校ぎみなのかとかわかる)
まあ、それにしたって、親から伝達がありそうなもの。
ただでさえ曖昧な成績をさらに集約して年間成績を記録した所で、何がわかるのだろう。
(註:ここでいう曖昧は、いい加減に成績をつけているということではない)

公簿開示っていったて、その必要要件は、進学にあたって、「あゆみとの評価のねじれがないか」が問題なのだろうし、つまらない二重帳簿的なものは早く廃止してほしいものだ。
ちなみにこの帳簿は20年に渡って保存されるのだそうだ。

高校進学にいたっては、そんなもの必要がないくらい、私立はきちんと情報を入手する方法を考えればいいし、公立はペーパーの格差を嘆くよりも、そんな偏重はかまわず、学校の中身を吟味、向上を目指していけばいいと思う。
だいたい、公立の高校なんて、学力で人格の格差がつくように見せている権化じゃん(以上2文は暴言)。

もしかして、私の不勉強で、なにか凄い意味が指導要録にあったら教えて下さい。>だれか

総合的な学習が・・・

2005-03-14 22:42:36 | 教育
総合的学習見直し問題、文科相発言に批判も 中教審部会
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200503140106.html
(asahi.comニュースより)
専門部会には現場を理解する者もいるのかと思った。

>ある委員は、「大臣発言以来、来年度の総合的学習をどう進めるかの相談がぴたっと来なくなった。
>現場は敏感だ。
>新年度が始まる前に、削減しないということを確認してほしい」と同席した文科省側に詰め寄った。

当然である。
みんな「総合的な学習の時間」を軽視するもとになる発言だったのだ。
実際、現場は総合的な学習の時間のエキスパートは存在しない。
それゆえ、時間数を削減するような発言をしたならば、様子見に走って当然。

>別の委員は「学力低下を救う道として総合的学習は効果がある。
>改善のためにどうするかを議論して発信しないと、意欲ある先生がやる気をなくす。
>文科省は人的・資金的に援助する姿勢を示すべきだ」と述べた。

当然である。
ちゃんんとわかりやすい改善案を発信して、現場を安心させてほしい。
再三いっているが、総合的な学習の時間に対して、有効な人的・資金的援助は早急にほしい。

>これに対し、同省側は「学習指導要領は全体を見直す。
>しかし、総合的学習は目玉であり、今の学習指導要領のもとで4月からもしっかりやるのは変わらない」と答えた。

文科省も馬鹿ではない・・・か。
中山文科大臣のようなアホにはふりまわされない・・・か。
まあ、私てきには出目の調子をこれからもさぐりたい。

>部会では、
>(1)総合的学習への理解が不十分
>(2)教員の資質向上などが課題点として挙がった。

そうねぇ。
言うがやすしで、リアルじゃないんだよねぇ。総合の学習効果って。
魔法のつえにはならないと思うけれどなぁ。(目玉ではあるのだろうが・・・)
資質向上って、総合に必要な資質って?
まぁ、教職員全員を研修にかけるのかな?
もうそろそろ、各学校レベルの研究は終わってきているだろうに。
まだまだてこ入れが必要なんて、効率わるぅう!

同意

2005-03-13 18:48:24 | 教育
http://eri.netty.ne.jp/educationnews/2005_03.htm#07_01
NTS教育研究ニュースより
THE 義務教育ブログさんのコメント
http://blog.livedoor.jp/gimukyoiku/archives/16231335.html
に激しく同意。
そして、下のコメントのいいたいことの一例としてあげておきたい。
流行り廃りや一部の業界の意見をとりいれることだけに終止することは、
教育の普遍性の度合いを低下させるのだといっておきたい。
めちゃくちゃな道理なき道を歩もうというのか・・・。
今こそ教育に周知の目を向けてほしい。
そんな想いでいっぱいだ。

心配ごと

2005-03-13 12:21:20 | 教育
毎日教育ニュースより
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20050311k0000e010030000c.html
性教育全国調査、4月から実施を表明

まあ、やってと発言したことがあるので、評価したい。
この際だから、しっかり調査して、いいものはいいととらえ、
一般化がはかれる教育ができる環境を整えてほしいものだ。
(中山文科省大臣の言動や小泉総理の言動を考えると、心配はあるが・・・)

ただ、この記事の後半の記述で、教育の目安箱のようなものを設置するらしいことをいっている。
アンケートやテストなどの調査も有効に生かしてほしいが、
少人数習熟度の国立研究所の成果発表のように、偏重のあるとらえかたをされるとこまる。
ましてや、その収集時点で偏りがあるであろう「発言の収集」である。
一層気をつけて、科学的な視点をもって、公正に利用してほしいものだと思う。

Macをつかっている

2005-03-13 11:46:49 | 戯言
もう10年以上Macがマイマシンだ。
惚れ込んだのはSEを触った時。(初めてのマイマシンはLC475だが)
あのマシンの小振りなかわいさとGUIの使いやすさと優しさにあふれたデザインには本当に衝撃をうけた。
当時、Windowsは当然なく、(あったにしても実用的でないもの)MS-DOSが全盛の時代。
CUIのコマンドだらけ、キー入力だらけのインターフェイスは利用していたし、
N88BasicやCなどにも触れる機会があったが、ものにはならなかった。
正直、今でもプログラムは手数が多く必要でできたらいいなとは思うが、好きではない。
MacのHyper Cardはホントお世話になった。

今、四代目のマシンをつかっているが、カミさんのマシンもいれると、6台のMacがうち所有である。
Macに食べさせてもらったこともある。
NetでMacを通じた仲間ができたこともある。
本当に自分でも異常に好きだ。

Windowsは3.1の時に、ああ、Macになりたいのね。と思った。
IBMはオープンアーキテクチャーを採用し、偉いと思う。
Macは最新技術と独自路線のバランスがよい会社だが、PCIーbusでは負けた。
Winに負けたわけではない。IBMが偉大だった。
98の時、ああ、不安定なのね。95とたいして違わないじゃん。
Mac使ってると、使いにくさがよくわかる。と思った。
Meを(個人的に)職場で使う事が多くなり、なんて不安定で使えないマシンかと思った。
(未だにWin業界で大不評のものでしょう?)
XPになった、ようやく少々個性がだせたね。と思った。
MacはOSXになり、PPCの進化とあいまって、Windowsには、また追い付けないものになった。
東芝は嫌い。デザインだけんでなく、Gシリーズのように、名前までパクるから。
Dynabookは本来Macフェローのアラン・ケイ氏のつくった言葉。この時点で東芝は最悪だと思う。
私の職場関係は企業ではないので、ネットワークを管理したり、PCを管理したりが不得意だ。
ウィルス混入の話はしょっちゅうある。
私はMacなので、ほとんど無縁である。
将来今のWinがあるわけではないのに、小学校からWinじゃないとダメという人がいる。
頭がおかしいんじゃないかな?
私のクラスは古いMacが数台あり、学校のWinと混在しても、混乱はしない。
子どもとはそういうものだし、情報教育は、本来、マシンに依存しない。

特色ある教育

2005-03-13 02:31:42 | 教育
asahi.comの教育ニュース
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200503110511.html
小学生の英語、親の7割「必修に」 教員は5割が反対
をネタにしてみたい。

「特色ある教育」という言葉を見たり聞いたりした人はどの程度いるのだろう。
一般的には品川区を皮切りに越境でなく、学校選択制を導入する自治体は増えている。
本来、そういった競争意識は不似合いな公教育なのだが、流行りの「企業の論理」なのだろうか、「競争原理」の利用なのだろうか、そういった方向をよしとする論が強調されているように思う。
まあ、いつものことで、根拠なしか根拠ねつ造、よくて根拠不足の状態の改革の一環だと考えている。

そんな中で「特色ある学校」「特色ある教育」である。

例えば、最近よくありがちなのが、「基礎基本の充実を、朝自習や宿題の増強ではかる」とか、「朝読書推進で読む力と落ち着いた学校生活」とか、いや、調べたわけではないが、あるのじゃないかなと疑ってしまう。
(まあ、実際、私の知るいくつかの学校がこれだったするのはホントなのだが・・・)

一方、来年度下火化しそうな総合的な学習の時間(うらみがましく、正式名でいつもいってしまう)のパソコン教育とか、環境教育とか、福祉・ボランティア教育などは、その学校の一時期特色としてとらえられ、喧伝されたと思う。
流行りすたりがあるていどあるのが現行教育システムでもある。

が、である。
「小学校の英語教育」はどうだろうか。

>保護者の7割が小学校での英語の必修化を望んでいるのに対し、
>教員の半数以上が必修化すべきでない
>必修にすべきだと答えた保護者がその理由として挙げたのは、
>「早くから英語に親しませておいた方が抵抗感がなくなる」が最も多く、83.6%いた。

保護者の希望は凄まじいと表現したい。
学校を地域の英会話学校として利用したいということだろうか・・・。
早くから親しませるということは、どの程度の英語教育を求めているのだろうか。
ましてや、中学校に入ってから、何か有利に働くとでも思っているとしたら、自分達の受けて来た英語教育や日本の進学における英語テストの状況を思い出して欲しいものだと思う。
私は他の多くの教員と同じで、小学校の英語教育のシステム化や導入は反対である。
ましてや、総合的な学習の時間でかじる程度の英語や英会話学校にまるなげの英語教育は現在の学校教育をゆくゆくは崩壊するきっかけにもなりうると思っている。
(そんなもの今の先生には手に負えないということを明らかにしてしまうことであるからだ。=もちろん隠すなんて意味はもうとうないが。)
今の小学校の先生に英語教育なんて手に負えないし、親もそれはのぞまないのでは?
(すぐにネイティブを!とかいいだすんじゃない?)
邪推云々は抜きにしても、現行教育にはめ込むにはハードルはいくつもあることは見えるだろう。

>一方、必修とすべきでない理由で最も多く挙がったのは保護者、教員とも
>「他の教科をしっかり学ぶべきだ」で、いずれも7割近い人が指摘した。

一方で基礎基本をうたいながら、新規異種であるか発展的内容にあたる英語教育や国際理解教育を保護者の要望(流行り)だけで安易に導入した時、目に見える先にすでに崩壊があると思う。
ましてや文科省がやれば、また現場へ丸投げってことになり、また真面目な教員が過労死するのだ。

以前いた学校で、わが校の「特色ある教育」として、将来なんにもならない環境や福祉教育でなく、親受けもいい国際理解教育に切り替えて、予算をもらって英語教育をやろうなんて話がでた。
その学校では、真面目にやっていたが、総合的な学習の時間は決して素晴らしい回転をしていたわけでなく、環境も福祉も実績はそこそこいえる程度だった。
さらに、一番の特色は総合的な学習の時間ではなく、特別活動だった(少なくとも私はそう思った)。
しかし、それでは予算をとれないことはわかりきっていたし、親受け的には地味な印象を与えるだけとの判断から強調されることはなかった。(直接当時の校長とこの話をして、そう考えたので、根拠がないわけではない)
救いは、当時、学校内で研究していたことは適度にアピールできる背景をもった内容だったので、そのことも含めて学校の特色とした。
(もちろん学校の特色はそれだけではないが、他校との差別化としての意味である)
周囲は障害児学級新設や英語教育などを取り入れていく中、そこはそんなことに目をやる余裕はなかった。
地道さの必要な地域だったし、そういう学校であることを必要とされる学校だったと思う。
学校選択制になれば、立地条件と歴史・伝統にたよるしかないようにも思えた。
目新しいことをいろいろ言う人はいるが、教育を本当に大事にするという視点は、全ての学校にOnly OneでないNo.1の特色を期待する中ではどうかと考えてしまう。
公立は地域に下支えしてもらうことで特色を持ち、生かせるようなシステムになることは理想でしかないのだろうか。
そんなやりきれない気持ちにもなる。

>文科省の調査では、何らかの形で英語活動を行う公立小学校は、約9割にのぼっている。
>しかし、授業時間や内容は学校ごとに大きなばらつきがあるのが現状だ。

「ばらつき」が当然で、限界である。
そこを予算的にてこ入れしたとしたら・・・。

チューンナップに耐えられる車と耐えられない車。

つかれた

2005-03-08 20:42:28 | 教育
国旗・国歌と書くだけで、こんな侮辱的なTBをつけられると思わなかった。
喧嘩腰で相手のブログにコメントをしかけたが、疲れた。
こっちで削除を考えればよかったのかなぁとも、今は思う。

後で記述するといった手前もあるし、
念を押してコメントして終わるとしよう。

国旗・国歌問題というより、
日の丸・君が代問題といったほうがよいだろう。
どちらも先の大戦下で、負の遺産というべきものを内包している。
大戦を未だに聖戦扱いし、肯定するのならば議論はしたくないが、そういう大戦ではなかったという認識である。
歴史的な成因はなにかの本や記述にゆずるとして、
否定的なイメージをもって接するものは少なくないことは、
近代の日本の教育の業界・歴史の様相から見て明らかである。
そこで、国旗・国歌制定の法律化である。
これはある意味民主的な手続きを踏んだといわれれば批判はできても否定できない事実である。
が、それを教育の現場に持ち込むとき、
法よりも慣例が重んじられる場合もあるというのに、
一方的かつ徹底的な強制が行なわれていることは問題である。
なぜ、他の教育的な事柄のように扱えないのか、
高圧的な態度で石原=横山体制は臨んでくるのか、
そこが問題である。
これ以上に重要な案件が教育界にはあるのに、である。
これは思想弾圧が目的と詰られても仕方が無いと思う。
法律を守れというならば、教師の労働時間の違法性をまずどうにかしろといいたい。

まだ、記述したりないが、ここまでにしておく。
なにしろつかれた。

時数

2005-03-06 15:44:49 | 教育
おそらく、各学校で年間計画の策定が進んでいるはず。
(なあなあでやっているDQN学校は年度内に計画書類完成は目指さないだろうが・・・)
学校によっては時数の設定や時間割設定(モジュールや6時間目)、余剰時数などが課題(?)になっているのでは?

2005年03月06日毎日新聞記事(ソース)
世田谷授業時間:区立中「52分制」アンケート。教委「趣旨徹底し、3年続ける」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20050224ddlk13040105000c.html

>同区は今年度から、52分授業を区立中学に提案。
>2分間を積み重ねると1年間に50分授業を約40時間増やすのと同じ計算になるうえ、
>「2分間」を教師と生徒が有効に使って授業を充実させる狙いで、31校のうち21校が採用した。

確かに計算上は成り立つのであるが、「たかが2分である。」
これを「されど」と呼ばせたい教育委員は授業をやったことがあるのだろうか?

まだ、アンケートは一回のようで、肯定も否定もあるが、
長期的な展望にたって考えれば、単に「2分」なのではないだろうか。
2分が長いと感じる子どももいるだろうが、慣れとともに効果云々さえ議論がなくなるかもしれない。
個人的にはそんな時間だと思う。
約40時間は大きいが、単純に週一時数増で35時間であるから、これで午後の授業が削れるのなら成果といえるだろう。
(ま、削るためにやっているわけではないだろうが・・・)
いや、逆に、現行の必要時数を圧縮してやるわけだから、
例えば、算数にその40時間をあてたとして、年間必要授業時間数(単位時間数)が圧縮できたとしたら、「されど2分」なのだろう。
だが、実際にはそんなことあり得ないと思う。
カリキュラム上、1単位時間で終了する単元はほとんどないのだから、単元の時間の切り方が難しくなるだろうなと思う。
(ま、そこをなんとかするのがカリキュラムのプロ=教師ではあるが・・・単純に変更の手間はあるだけでも負担といえる)

>「52分も実際はやっていない」「教室に来るのが遅い先生が多く、2分延ばしても意味がない」との声もあった。

これは(単純に土俵にのっていないだけのダメ教師の問題で)論外だが、

>若井田正文教育長は「教師や生徒が52分授業の狙いをまだ十分に理解していない。趣旨を徹底したい」

生徒にねらいを理解させたいとする教育長は、この時数設定の背景にある問題も理解させたいわけではないだろうと思う。
(そんなことをすれば、如何にシステム的に行き詰まっているかを論議しなければならない=以前には考えられない無理やりの押しつけ時数だから)

>としたうえで「2分間の積み重ねと授業をより充実させることが出来れば、授業数を増やすため2学期制にするなど大きな改革は必要ないと思う。

やはりねらいは「2学期制とのひきかえだ」
週5日制のシステムが座礁しかけているように見えるのは私だけだろうか?

>52分授業を強制はしないが、全校でやってほしい。3年間は続ける」と話した。

教育長の発言は校長へのプレッシャーである。
「強制はしないがやってほしい」は半強制である。
最後の「3年間」は、その間の成果を見せろということだ。
困ったもんだ。

>小川校長は「1日10~15分の上乗せが家庭学習をするきっかけになってほしい。
>すべての子どもに基礎学力をつけてあげたい」と話している。

家庭学習のきっかけ?
意味不明。
後半の文へのつなぎも不明。
ま、たまにはとんちんかんなコメントもあるよね。(インタビューにあがったのかな?)

またまた素人発言

2005-03-05 23:24:30 | 教育
「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る (朝日新聞) - goo ニュース
>2005年03月05日(土)=「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る
>中山文部科学相は5日、通学や仕事をせず、職業訓練も受けない若者「ニート」やフリーターが増えている問題について
>「競争は悪だとしてきたが、社会に出ると競争社会で子供が落差に戸惑う。こういう今までの教育は、ニートなどの予備軍の『大量生産』に手を貸しているのではないか」
>と述べ、教育現場での競争の重要性を強調した。

なんと非科学的な論調か。
どこに因果関係を求めているのだろうか。
「児童に直接聞く」なんてことも非科学的だが、聞いてみた所で子どもの社会にさえ、大人の影響下にある競争やその結果生まれている格差を意識はされている。
単純に、習塾率(習熟ではない)をみたって、子ども達は競争や序列化を強烈に意識しているだろうことは予測でききるし、今の親世代にしたって、自分の子どもの時期と比べてみても、よほど競争に関してデリケートかつ複雑に意識しているはずだ。(少なくとも私はそう感じる)

もちろん、みんな並んでゴールイン徒競走とか、序列を意識した指導は現行公教育では行なわれていないが、そのことより、よほど社会情勢や経済情勢が人のライフスタイルやライフサイクルに影響していることの方に目をむける方がより現実的な教育的対応を考えられると思う。

つまり、子ども達には現在の社会や将来の社会の中で、どのように(うまく)生き抜いていくべきかを考えさせ、そして、指導者はそのことをふまえ、社会的な人間を育成するべく考えるべきなのであると思う。
教育的指導では就職口は増えないのであるから、その中で自立的・自律的に生き抜いていく力、社会という大海へ漕ぎ出していく力、展望を見いだす力、そしてそれぞれへの応援をし、希望をもたせることが第一なのではないだろうか。
私の時代は「モラトリアム」と呼ばれたが、踏み出す方法や勇気が必要なのである。
唐十朗の言葉なら「自分が何ものか分からなかった」だから「演劇に飛び込んでなんでもやった」は、平均的になんでももっている時代には、絶対的な自分の位置が見いだしにくく、そして唐のようになれない非凡な者は、めくら撃ちで何かの世界へ飛び込むためには、後押しが必要なことを示している。経済的な条件が厳しければさらに足はすくむのだと思う。
高度経済成長期に時代に飲まれて生きた人には分かるまいであるGギャップかもしれない。
ちょっと話が小学校から世代を飛び越してしまった。(またの機会まで、一時停止したい)

>また文科相は、学校現場での国旗掲揚や国歌斉唱について、「国旗・国歌には敬意を払うことを先生方が教えないと、教え子がひどい目に遭うこともある」と指摘。
>「(教職員に)どういう考えがあっても、そういう(国旗・国歌には敬意を払うものであるという)問題があると教えるのは教師として当然だ」と述べた。

国旗・国歌はいずれ記述するべきテーマだが、国の象徴(あるいは偶像)である国旗・国歌を教える機能を有するのは、やはり教育機関になるだろう。私は法律は法律としてある程度肯定をする立場だ。国旗・国歌はあるていど決まった物としてはとらえている。
しかし、そのことと、例えば行事・式で掲揚や斉唱を強要することとは別問題である。国旗・国歌はそうしなくても国旗・国家として認識されているし、現行指導要領の範囲内で、指導カリキュラムをはっきりさせ、実施させればいいだけだと思う。(そこまでやれば、いやでもやるよ。少なくとも俺は。)
例えば、6年生の世界の情勢を知る中で、あるいは4年生の首都と世界のつながりにおいてでも、日本の国旗を教える機会(日本にも国旗があってね、これだよー・・・とか)はもてるわけで、国家も年間指導時数を3時間とかに決め、指導方法も3回はフルコーラスで歌うとか、決めれば良い。(まあ、こんな程度にしてほしい希望も入っているがね)
やれ式には前面だ、自治体旗より多きくだ、花がかぶってはだめだ、いうから滑稽以上にカルト宗教チックになり、いやらしくも見えるのだ。
行事には国旗掲揚だとかいいうのは戦後自由教育を受けて来た世代からいえば古いのでは?ともいいたくなる。
教育的に大きな価値は見えにくいし、学力向上にはつながらないがいかがだろうか。
最後に国旗について教育・指導するって、国際理解や歴史的な見地以外では具体的にどうやるんでしょうか?
旧海軍の旗に似ているねぇ・・・なんて、やらないよなぁ。
まさか、国旗があがれば愛国心とかいうのじゃないでしょうね。(あっ、お子さまランチか?)
いずれ稿を改めることを約束して、ちょっとごまかし気味のC調で終わります。

性教育

2005-03-05 21:54:36 | 教育
その論調にいつも一つ納得させられるブログ「できるだけごまかさないでに考えてみる」からの情報(ニュースソース)をを私なりに咀嚼してみた。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20050305/K2005030403750.html?C=S
>2005年03月05日(土)=首相、性教育教材「問題だ」参院委答弁で批判
>小学校の性教育の授業で使われた教材の是非が、4日の参院予算委員会で取り上げられた。
>自民党の山谷えり子氏が性行為を図解で示した教材などを例に認識をただした。
>小泉首相は「初めて見たが、ちょっとひどい。問題だ。
>こんな教育は私は子どものころ受けたことはない」と述べ、行き過ぎだとの認識を示した。
>山谷氏が取り上げたのは小学校低学年・3年生の教材。

現行指導要領下ではカリキュラムとして低学年時に生活科等で自分の出生や育ちを振り返る単元を設定することができる。保健(体育)によらない性的な学習に触れる可能性がある機会である。
しかし、具体的には、いくらかの女の子が初経をむかえるあたり、すなわち4年生で自分の成長を見つめ、身体を大切にし、その後の発育をよりよく知り、考える中で性徴についてと思春期を迎える心構えと性差について男女協調的にすごすための指導にふれるのである。
つまり、ここで具体的に議員がどのようにコメントしたかは知らないが、記事にあるような記述は間違いで、示された教材は4年生の後半であつかう教材であるということだ。
ここは後の中山文科相の発言に関わる問題なので、はっきりしてきしておきたい。

>首相は「性教育は我々の年代では教えてもらったことはないが、知らないうちに自然に一通りのことは覚える。
>ここまで教える必要があるのか。教育のあり方を考えてほしい」と批判した。

この首相の発言はまさに間違った性教育を言っている。
現在ある性についての情報は善し悪しを問える量、質ではなく、テレビ、ラジオ、雑誌はいうに及ばず、あらゆるメディアに氾濫しているといってよい。
その渦中にある成長期の子ども達に対して、学校が性についての教育(メディア対策を含めた)を行なわなずにだれが行なえるのだろうか。
知らないうちに一通りのことを覚えるとは、逆に悪しき情報や地域差は問題が無いという発言だ。
そんな内に性病がまん延したり、外国で性売春買春の恥をさらしたり、ひいては性犯罪を生むのではないだろうか。
(小泉さんはきちんと性の教育を受けていないから、そんな知識しかないのである。これぞ存在による証明。)

>中山文科相も「子どもたちの発達段階に応じてきちんと教えるべきだ。
>行き過ぎた性教育は子どものためにも社会のためにもならない」と答弁。全国調査を検討する考えを示した。

私は東京都所属であるから、少なくとも都の研究員が数年前に発表しているモデル授業を単純に授業で適用してくれるだけで、小学校中学年の性教育はあるていど目標は達せられると思っている。
そういった意味で、規準的にはそんなものを使い、精確に実施しているかを調査してほしい。
また、以前問題化した養護学校等での性教育は、社会に出た時、性の社会問題から児童・生徒を擁護する立場で見てほしいと思う。
この件の山谷えり子氏指摘の教材を指して、「行き過ぎた性教育」といっているとすると、非常に歪んだ見方を懸念せざるを得ない。少なくとも発達段階は考慮してカリキュラムは組まれている。3年生の初期段階で教えている教師がいたら、少なくとも管理職は処分を免れ得無いが、そんな者は(常識的には)まれではないだろうか。

「性教育の用語」についてだが、私の実践例を述べて、このブログを読む人に問いかけたい。
私は医学用語とことわって「ペニス」「ワギナ」などの用語を使うが、説明の都合上で用いている。
特に、「ペニス」は簡単に「チンチン」なる使いやすい俗語があるのでいいが、女性器は困る。
「おまんこ」等の俗語はあるが、耳慣れなれしておらず、使いにくい。
さらに、その俗語こそ性が抑圧されている姿の一例であるのだから、その点についても一言説明を加えて、医学用語を使う。
四年生程度では、特に男子の性差意識は程度が低く、きっちり大切である事や、成長を考える流れの中でないと指導は難しいと考えている。そんな意味でも私は正確に伝えるべきは伝え、後につまらない・あるいはいやらしい疑問の残らないようにしている。
これは私が高校時代に、その道(性教育)で名をなしているある先生の性教育を受けている影響は否定できないが、現在ある小学校教育中の性教育カリキュラムは、その流れに違わない。
それゆえ、自信をもって授業しているし、一度は授業参観でもやってみせている。(保護者への啓蒙も非常に大切だと思っている)

>また、男女共同参画担当相の細田官房長官は「社会的・文化的性差の解消」を意味するジェンダーフリーという言葉について「政府は使っていないし、社会的に定義を示すことはできない。
>できるだけ使わないことが望ましい」と述べた。

性差解消の問題に関しては名簿の問題しかり、児童全員に「さん」づけしかり、人権の問題等等に関連して話し合われていくだろう。
個人的には、それこそ社会一般で通じているものを採用すべきで、あとの理屈付けは他の人に任せたいと思っている。
(とくに全員「さん」づけは、町中で、風体が男の子(幼児)に見える人に名前を聞く時に「君は(あるいは僕は)何君っていうの?」という名前の聞き方が人権侵害だ!とか、性差を解消していない!と回りから突っ込まれる社会になったら考えたいと思う。)
教師こそ、社会の中で率先して実践していく立場だろという、責任転嫁や摺り替え理論はたくさんである。教師は単なる風見鶏ロボットではない。