映画館に年に何度いっているだろう。
DVDになった映画を年に何本見れるだろう。
子育て世代は忙しい。
そんな労力や時間を費やすのにも、それなりのエネルギーが必要だ。
第9地区の宣伝映像を見たのはいつだったろうか。
ようやくレンタルで見た。
この手のものは、家で見るのも躊躇される。
メロウなものも困るのだけれども、過激な映像、それなりの音響が入るので、独りで見れるときしか見れない。
この年末に映画館に出かけようかとおもったけれど、結局家で見るものを選ぶことにした。
それで、いろいろあったのだけれども、たまたま目についたのがコレ。
「見たかったんだっけ。」と記憶を辿りつつレンタル。
宣伝映像と本編の印象にズレがあるのはいつものこと。
それでもアイデア一発という点でのブレはなかった様に思う。
そのアイデア以上に、映像としての説得力や物語の構成としてムリが少なく、静かな最後がほどよく重たく残る良作品だった。
たしかに年齢制限は当然の殺伐さが映像として挿入される。
その点はちょっとという趣はあるのだけれど、そこをさっ引いて肯定されるテーマは浮き彫りになっていたと思う。
あえていえば、SF作品というカテゴリに違和感が少しでもある人には向かないだろうと思う。
スターシップトゥルーパーズみたいな気持ちの悪さは残る。
早くこういうスプラッターな映像からSF作品は逃れてほしい気持ちは私にもある。
年末に、もうちょっと爽快な映画をみたいという気にさせられた意味でも、個人的にはちょっと映画欲求が方や満足し、方やいい意味で不満足を残した。
残日、どうすごそうか。
DVDになった映画を年に何本見れるだろう。
子育て世代は忙しい。
そんな労力や時間を費やすのにも、それなりのエネルギーが必要だ。
第9地区の宣伝映像を見たのはいつだったろうか。
ようやくレンタルで見た。
この手のものは、家で見るのも躊躇される。
メロウなものも困るのだけれども、過激な映像、それなりの音響が入るので、独りで見れるときしか見れない。
この年末に映画館に出かけようかとおもったけれど、結局家で見るものを選ぶことにした。
それで、いろいろあったのだけれども、たまたま目についたのがコレ。
「見たかったんだっけ。」と記憶を辿りつつレンタル。
宣伝映像と本編の印象にズレがあるのはいつものこと。
それでもアイデア一発という点でのブレはなかった様に思う。
そのアイデア以上に、映像としての説得力や物語の構成としてムリが少なく、静かな最後がほどよく重たく残る良作品だった。
たしかに年齢制限は当然の殺伐さが映像として挿入される。
その点はちょっとという趣はあるのだけれど、そこをさっ引いて肯定されるテーマは浮き彫りになっていたと思う。
あえていえば、SF作品というカテゴリに違和感が少しでもある人には向かないだろうと思う。
スターシップトゥルーパーズみたいな気持ちの悪さは残る。
早くこういうスプラッターな映像からSF作品は逃れてほしい気持ちは私にもある。
年末に、もうちょっと爽快な映画をみたいという気にさせられた意味でも、個人的にはちょっと映画欲求が方や満足し、方やいい意味で不満足を残した。
残日、どうすごそうか。
今頃になって「沈まぬ太陽」をみた。
原作はずいぶん前に読み、映画化されたときには劇場にもいきたいと思ったのだけれども、結局、DVDになってこうしてみることになった。
原作がいいことはもちろんだけれども、映像化されてよかった部分もある。
それはいくつもあるのだけれど、このブログに記述したいシーンを一つだけと自ら縛って書こうと思う。
多くのシーンに慰霊のモノが出て来る。
飛行機会社を立て直すために、首相から指名されて石坂浩二演じる「国見」が登場する。
正直、そんな心意気めいたもので、そういった社長が出て来るとは思えないのだけれども、それでもまあいいとしたい。
仲介を右翼の大物らしき人物(龍崎)がするのだけれど、最初は庭園を臨む場所でお茶を交わしながら国見に依頼をしている。
でも、国政(ぶっちゃけ首相の立場)に影響が出そうになると国見を切り捨てにかかる。
その事を告げる場所が「靖国神社」だったりする。
で、その神社の門前で、
龍崎「国体のシステム維持のためには必要な刷新です。」
国見「私は国のためにやるとは申しませんでした。事故の被害者とその家族のために力になりたくて会長の任を受けたのです。」
龍崎「せっかく来たのですから参拝をしていきませんか。」
国見「いったいだれのために祈るのでしょうか?」
そんな対話(台詞が正確ではないけれど)があって、龍崎はまっすぐ靖国の門へ向かう。
横切るように国見がその場を立ち去って行く。
このワンシーンは白眉だったなと思う。
御巣鷹山の碑、斜面に立ち並ぶお墓が何回か登場する。
そこに行き来する人々の思いはそれぞれだが、飛行機会社に対する思いは重なる部分があると思った。
今、思うことは「安全神話」だろう。
当時、「ジャンボは落ちない」が「神話」だった。
未だに原発を推進する連中は、少なくとも東電の思惑にからんで国税から賠償が引き出される事実についてクリアしてもらわないといけないと思う。
原作はずいぶん前に読み、映画化されたときには劇場にもいきたいと思ったのだけれども、結局、DVDになってこうしてみることになった。
原作がいいことはもちろんだけれども、映像化されてよかった部分もある。
それはいくつもあるのだけれど、このブログに記述したいシーンを一つだけと自ら縛って書こうと思う。
多くのシーンに慰霊のモノが出て来る。
飛行機会社を立て直すために、首相から指名されて石坂浩二演じる「国見」が登場する。
正直、そんな心意気めいたもので、そういった社長が出て来るとは思えないのだけれども、それでもまあいいとしたい。
仲介を右翼の大物らしき人物(龍崎)がするのだけれど、最初は庭園を臨む場所でお茶を交わしながら国見に依頼をしている。
でも、国政(ぶっちゃけ首相の立場)に影響が出そうになると国見を切り捨てにかかる。
その事を告げる場所が「靖国神社」だったりする。
で、その神社の門前で、
龍崎「国体のシステム維持のためには必要な刷新です。」
国見「私は国のためにやるとは申しませんでした。事故の被害者とその家族のために力になりたくて会長の任を受けたのです。」
龍崎「せっかく来たのですから参拝をしていきませんか。」
国見「いったいだれのために祈るのでしょうか?」
そんな対話(台詞が正確ではないけれど)があって、龍崎はまっすぐ靖国の門へ向かう。
横切るように国見がその場を立ち去って行く。
このワンシーンは白眉だったなと思う。
御巣鷹山の碑、斜面に立ち並ぶお墓が何回か登場する。
そこに行き来する人々の思いはそれぞれだが、飛行機会社に対する思いは重なる部分があると思った。
今、思うことは「安全神話」だろう。
当時、「ジャンボは落ちない」が「神話」だった。
未だに原発を推進する連中は、少なくとも東電の思惑にからんで国税から賠償が引き出される事実についてクリアしてもらわないといけないと思う。
以前から気になって探していた映像がわかった。
溜飲が下りるというやつだ。
「愛は沈黙を越えて」(Love is Never Silent)という映画なのだが、外国版では手に入るようだ。
どうりでビデオ屋にないわけだ。
「愛は静けさの中に」(CHILDREN OF A LESSER GOD:86'US)や「ビヨンド・サイレンス」(96'独)などだったけか?
でもレビューとかストーリーとかの情報からは「違うなぁ」と・・・。
たしか両方見たはずだし・・・。
ストーリーは「ビヨンド・・・」がちょっと似ているけれど、家族構成や制作年が違いすぎる。
絶対80年代中盤に見ているのだから・・・。
「愛は静けさ・・・」はぜんぜんストーリーが違う・・・。
なんて悩んでいた。
印象的なシーンがある。
幼い弟がアパートの上位階である自宅の窓から転落死する。
しかし、聾者の両親はそれさえ気づかない。
貧しく、弟の遺体を入れる棺を、生活上の通訳として役割を果たす娘に値切り交渉させる。
キツい生活条件の中、キツい現実が、まだ少女といってよい娘の肩にかかって来るシーンだ。
もう一つ。
あるとき父親は娘に聞く。
「太陽の光は音があるのか?」と。
聾者と健聴者の壁を感じるシーンなのだが、自分と父親の間にある壁は、対話し続けることで乗り越えられるどころか、そういったことが優しい相互理解の世界を築いていくために必要なことなのだと気づかされるシーンだ。
娘はそういったエピソードを通じて、自分の世界を切り開いていく。
閉塞感が迫って来るドラマなのだけれども、そこを生き抜き、乗り越えていくテーマが感動的だったと記憶している。
最近、ハンディキャップを考え直しているせいもあって、再び思い返した映画。
NHKのテレビ映画として流されただけなのだけれども、字幕がついていた映像で、今、そんなソフトが入手できないというのは残念だ。
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溜飲が下りるというやつだ。
「愛は沈黙を越えて」(Love is Never Silent)という映画なのだが、外国版では手に入るようだ。
どうりでビデオ屋にないわけだ。
「愛は静けさの中に」(CHILDREN OF A LESSER GOD:86'US)や「ビヨンド・サイレンス」(96'独)などだったけか?
でもレビューとかストーリーとかの情報からは「違うなぁ」と・・・。
たしか両方見たはずだし・・・。
ストーリーは「ビヨンド・・・」がちょっと似ているけれど、家族構成や制作年が違いすぎる。
絶対80年代中盤に見ているのだから・・・。
「愛は静けさ・・・」はぜんぜんストーリーが違う・・・。
なんて悩んでいた。
印象的なシーンがある。
幼い弟がアパートの上位階である自宅の窓から転落死する。
しかし、聾者の両親はそれさえ気づかない。
貧しく、弟の遺体を入れる棺を、生活上の通訳として役割を果たす娘に値切り交渉させる。
キツい生活条件の中、キツい現実が、まだ少女といってよい娘の肩にかかって来るシーンだ。
もう一つ。
あるとき父親は娘に聞く。
「太陽の光は音があるのか?」と。
聾者と健聴者の壁を感じるシーンなのだが、自分と父親の間にある壁は、対話し続けることで乗り越えられるどころか、そういったことが優しい相互理解の世界を築いていくために必要なことなのだと気づかされるシーンだ。
娘はそういったエピソードを通じて、自分の世界を切り開いていく。
閉塞感が迫って来るドラマなのだけれども、そこを生き抜き、乗り越えていくテーマが感動的だったと記憶している。
最近、ハンディキャップを考え直しているせいもあって、再び思い返した映画。
NHKのテレビ映画として流されただけなのだけれども、字幕がついていた映像で、今、そんなソフトが入手できないというのは残念だ。
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靖国映画「事前試写を」 自民議員が要求、全議員対象に(朝日新聞) - goo ニュース
2chネタで自民党議員が動いたってことね。
万が一、内容が「反日的」であったとして、どれだけの影響をもつというのだろう。
よしんば予算を出していたという事実があったとして、そのことと、推奨とは違うという見解でいいではないのか?
「反日的」だとして、試写の結果によっては、何か処分があるということなのだろうか?
でも、フィルムはもうそこにあるし、そこに描かれているものを歴史的に破棄するようなまねは日本はできないはずだ。
それは自己否定に繋がる可能性をもった横暴になるだろう。
そういう感性をもって試写会が開かれているのだろうか?
自民党議員というくくりなのだから「自民党」なのだろう。
では、そういった連中は今まで何をやってきたのか?
そういうことへの問いかけ無しに、無駄な時間としての試写会を開いてはならないとは思う。
映画「靖国 YASUKUNI」公式サイトはこちら
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2chネタで自民党議員が動いたってことね。
万が一、内容が「反日的」であったとして、どれだけの影響をもつというのだろう。
よしんば予算を出していたという事実があったとして、そのことと、推奨とは違うという見解でいいではないのか?
「反日的」だとして、試写の結果によっては、何か処分があるということなのだろうか?
でも、フィルムはもうそこにあるし、そこに描かれているものを歴史的に破棄するようなまねは日本はできないはずだ。
それは自己否定に繋がる可能性をもった横暴になるだろう。
そういう感性をもって試写会が開かれているのだろうか?
自民党議員というくくりなのだから「自民党」なのだろう。
では、そういった連中は今まで何をやってきたのか?
そういうことへの問いかけ無しに、無駄な時間としての試写会を開いてはならないとは思う。
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ようやく観た。
なんか観るのに体力が要りそうで、ちょっと手を伸ばせずにいたんだよね。
テーマ自体から、ちょっとストーリーのカットが見えそうだったのも原因。
カミさんが借りてきたので、昨夜は午前様覚悟で観た。
基本的に若年性アルツハイマーにかかる夫中心の夫婦のやり取りがメインになる物語なのだと思った。
なかなか頑張ったカットも多く、映画的にはいい質を確保していたと思う。
(もちろん、それが実験的な部分もあったようで、失敗も前進と捉えての話)
映画作成的な見所は多様さという点で多くあったと思う。
ドラマは二人モノというのにありがちな、演劇的なセリフのやり取りと立ち位置が手法として鼻についた。
それでも渡辺謙のドラマ中繰り返される、「いろいろな『泣き』のシーン」に対する演技は、一つとして同じものがなく、ストーリーの進行の重厚さを支えていた好演だったと思う。
最後に昔の記憶にとらわれて、明日の我が身を受け入れる下りは語りすぎていた気がするが、樋口可南子の幅の少ない状況での一本気な演技は、なんとか作品のドラマとしての彫りの深さを確保しようとした努力が伺えた。
ドラマとしてはここまでなのだろうけれど、個人的には難病にかかる現実が、その精神性にのみ抽出、純化され、リアリティに乏しいものを感じた。
あの医師の告白やクライアントの励ましなどは、そのメッセージの内容は問わないが、その状況にちょっと異質にしか感じなかった。
まあ、リアルを求めてもしょうがないじゃないかという意見はそれでいいのだけれど、テーマはもっと重たいものだと思うから・・・。
公式サイトで渡辺謙は「父」をキーワードにメッセージを出しているが、確かに「父」というテーマ性はないわけではない。
けれど、それをこの難病をテーマにする必然性にするには困難だとしか思えない。
また、多くの「父」が、「ソト」で常に「シゴト」にとらわれているのは極端な「父」像ではないのだろうか?
周りはいい人過ぎるのも・・・どうか。
ま、いろいろ書いたけれども、日本映画において、こういったテーマの作品が少ないのも嘆かざるを得ない状況なのかも知れない。
そういった意味では前向きに評価すべき点は多いとは思う。
そんなことをふつふつとわく感情で私は考えた。そういう映画作品。
「明日の記憶」公式サイト
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なんか観るのに体力が要りそうで、ちょっと手を伸ばせずにいたんだよね。
テーマ自体から、ちょっとストーリーのカットが見えそうだったのも原因。
カミさんが借りてきたので、昨夜は午前様覚悟で観た。
基本的に若年性アルツハイマーにかかる夫中心の夫婦のやり取りがメインになる物語なのだと思った。
なかなか頑張ったカットも多く、映画的にはいい質を確保していたと思う。
(もちろん、それが実験的な部分もあったようで、失敗も前進と捉えての話)
映画作成的な見所は多様さという点で多くあったと思う。
ドラマは二人モノというのにありがちな、演劇的なセリフのやり取りと立ち位置が手法として鼻についた。
それでも渡辺謙のドラマ中繰り返される、「いろいろな『泣き』のシーン」に対する演技は、一つとして同じものがなく、ストーリーの進行の重厚さを支えていた好演だったと思う。
最後に昔の記憶にとらわれて、明日の我が身を受け入れる下りは語りすぎていた気がするが、樋口可南子の幅の少ない状況での一本気な演技は、なんとか作品のドラマとしての彫りの深さを確保しようとした努力が伺えた。
ドラマとしてはここまでなのだろうけれど、個人的には難病にかかる現実が、その精神性にのみ抽出、純化され、リアリティに乏しいものを感じた。
あの医師の告白やクライアントの励ましなどは、そのメッセージの内容は問わないが、その状況にちょっと異質にしか感じなかった。
まあ、リアルを求めてもしょうがないじゃないかという意見はそれでいいのだけれど、テーマはもっと重たいものだと思うから・・・。
公式サイトで渡辺謙は「父」をキーワードにメッセージを出しているが、確かに「父」というテーマ性はないわけではない。
けれど、それをこの難病をテーマにする必然性にするには困難だとしか思えない。
また、多くの「父」が、「ソト」で常に「シゴト」にとらわれているのは極端な「父」像ではないのだろうか?
周りはいい人過ぎるのも・・・どうか。
ま、いろいろ書いたけれども、日本映画において、こういったテーマの作品が少ないのも嘆かざるを得ない状況なのかも知れない。
そういった意味では前向きに評価すべき点は多いとは思う。
そんなことをふつふつとわく感情で私は考えた。そういう映画作品。
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映画評論家おすぎの「おすぎのシネマ言いたい放題」で映画「いつか眠りにつく前に」の評を読んでいて「観たいなぁー」と思ってしまった。
最近、映画館で映画なんて観ないものだから、思わずため息が出た。
まあ愚痴だが・・・。
レンタルのものを借りて憂さを晴らすのだが、それも観る時間が限られる。
偏るのは承知で、こういった情報をさっさとあさり、観るものを選別する。
なんて消極的な話だろう。
ま、しばらくは我慢。我慢。
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最近、映画館で映画なんて観ないものだから、思わずため息が出た。
まあ愚痴だが・・・。
レンタルのものを借りて憂さを晴らすのだが、それも観る時間が限られる。
偏るのは承知で、こういった情報をさっさとあさり、観るものを選別する。
なんて消極的な話だろう。
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今日は早めに帰宅したら、下の小さいのが寝ていた。
「積ん読書」ならぬ「積んレンタルビデオ」があったので、見る。
「東京タワー」。
話のあらすじは分かっていたけれど、樹木希林の演技にやられ、リリーの原作の母性の影響下にある男の子(マザコンとひとくくりにしたくはない)の普遍性にやられた。
だから、映画としてはどうだったのかと言えば、平均点くらい。
もともと原作が先にあるわけで、私家本といおうか、映画にするほどのテーマだったかは疑問。
私(と、とくにカミさん)の生活現実の体験に近い部分があり、その分、泣けた。
つまりはドラマ性に引き寄せられたのだろう。
一方で、リリーの醸す東京における時代空気は私のそれと近いので、それは時代風俗的な意味で「臭い」のようなものを意識した。
これは映画ならではの部分もあっただろう。
でも、「三丁目の夕日」にはなりえない程度であるし、枝葉末節でもある。
うーん。
見てよかったけれど、見なくてもよかったような、リリーへの興味半分から見たと後から気づいてしまった点が惜しさの感情につながっている作品になってしまった。
あー不完全燃焼なエントリになってしまった・・・。
でもおしまい。
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「積ん読書」ならぬ「積んレンタルビデオ」があったので、見る。
「東京タワー」。
話のあらすじは分かっていたけれど、樹木希林の演技にやられ、リリーの原作の母性の影響下にある男の子(マザコンとひとくくりにしたくはない)の普遍性にやられた。
だから、映画としてはどうだったのかと言えば、平均点くらい。
もともと原作が先にあるわけで、私家本といおうか、映画にするほどのテーマだったかは疑問。
私(と、とくにカミさん)の生活現実の体験に近い部分があり、その分、泣けた。
つまりはドラマ性に引き寄せられたのだろう。
一方で、リリーの醸す東京における時代空気は私のそれと近いので、それは時代風俗的な意味で「臭い」のようなものを意識した。
これは映画ならではの部分もあっただろう。
でも、「三丁目の夕日」にはなりえない程度であるし、枝葉末節でもある。
うーん。
見てよかったけれど、見なくてもよかったような、リリーへの興味半分から見たと後から気づいてしまった点が惜しさの感情につながっている作品になってしまった。
あー不完全燃焼なエントリになってしまった・・・。
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7月26日にも書いた作品のことなのだけれど、ようやく観れた。
相変わらず子育て中のレンタル人生はつらいなぁ。
年に何本かは好きな映画を見たいもんだよ。(ぼやいてすんません)
で、観てやっぱりよかった。
下馬評もかなりいい作品なのだけれど、私は教師なので、なんとなく当事者的な感触をもって観た。
予想通りというか、その名の通り、「綴り方教育」。
広義(現在、分掌に規定されてしまうようなことではないという意味での)の生活指導といってもいい。
生活教育といってもいい。
(アカデミックには定義が違うのかも知れないけれどね)
ミズGがそこへたどり着く過程がはっきりしなかったけれど、そこへ向かう理由ははっきりしていた。
生徒達の生活現実を掘り起こす事なくしては「学び」は成立し得ないという感触。
それが方法に結びついていった。
生徒達は高校生にして小5の国語力(英語力)しかないと烙印を押された連中。
でも、その生活現実は等身大の高校生のもの。
もちろん、人種差別や貧困などを抱えた日本に住んでいては想像し難い部分も含む厳しい現実がそれなので、日本の意味する等身大とは異なる部分は大。
でも、「等身大」というしかない、その時期にしかない発達段階における捉え方は、日本の同世代にも共通していると感じる。
で、そんな彼らが積極的に自己を開き、歴史に学び、社会に目を向け、書籍と対比される現実に向かう。
「書く」という自己表出・発現の機会をきっかけにして。
吹き出すように生徒間、教師生徒間の相互交流、理解が深まっていったのは、高校の学区改革からそれほど経っていなかったからかも知れない。
でも、必然というか当然の帰結として、ミズGのその手法が生きたのだと思う。
ミズGの実践を、「割り切れていない」「プロでない」という批判がもしかしたら出るのが日本の教育の現実かも知れない。
でも、それは認識の甘い批判だ。
逆にいうと、そういった仕事を教師から奪っていくということは、「育み」だとか「学び」への否定的行為であり、無機的な学習の設定しか教育に認めないという切り捨ての教育を推奨する行為だ。
それを求めない、あるいは認めない、他でやってくれという人は、建設的な批判をしている人ではない。
このドラマの優れていると感じるのは、ミズGの生活も掘り起こしている点だ。
第一に、夫婦が崩壊していく。
これはモーレツな仕事人になっていく、そういったのめり込みになってしまう教員の光と影を表現している。
とてもリアルな話だ。
夫の心の状況もよく理解できる仕立てになっている。
教員の家庭が荒れるとしたら、こういう形も大いにあるだろう。
第二に、イメルダ・スタウントン(ハリポタの魔法省から送り込まれた校長役)演じるキャンベル教科主任との対立もよい。
管理教育、上意下達のシステム強制という現在の日本の教育改革を絵に描いたようなリアルさを強調している。
諸外国の、特に、英米の教育を参考にしている日本において、この相似性は当然なのかもしれない。
彼女のセリフで印象的なのが、
「あなた(ミズG)の教育を他の人に押し付けるようなことはできません。」
というようなところ。
そうだよなぁ。
結局、ミズGの教育実践って、当たり前のことをやっているのだけれど、それを全ての教員にやれというのは無理なんだよな。
でも、そうすると、「教育愛」とかで定義される、教師の内発的動機ってなんなのだろう。
金か?(だから優秀教諭への報償制度なんてものができるのか?)
そう考える人には理解できない話になるなぁ。
ミズGもぼやいている。
「私は民生委員じゃないのよ。」
つまり、子どもの実態に自分を合わせるなんてできない。そう初めのころはいっている。
でもそのうち、夫に対して、
「若い内にしかできないのよ。」
つまり、教師としての成長が、自己改革的であり、自己の生活がそれを障害とするときを嘆き悲しんでいる。
日本でも、結婚したくてもできないと感じている教員がいる事実を、単に十把一絡げにバッシングするヤツ等は知っているのだろうか?
映画における離婚のエピソードとかぶる。
教材についても一つ。
アンネフランクの日記を出していた。
これは教師側のミズGが、生徒に投影した現実のイメージだけれども、この判断は教師としては大事な力だといえる。
それに対して、教科主任ともめた「ダイジェスト版のロミオとジュリエット」の話は、如何にも形骸化したカリキュラムの象徴のように見えた。
ここも日本的に相似。
一方で、教育予算が不足しがちな東京都内の各自治体の現状を思い出した。
そう。教材の管理も子どもの実態に合わせて自己責任化に転嫁される場合もある。
また、よくある教師の持ち出しについて。
私も教室に古本屋でかき集めた書籍を置き、古いPCを置き、様々な教具を触れられるように置いている。
時に、自分の子どもに与えなければならないものまで教室に持ち込んでいる。
これはこれで虚しい現実だ。
訴え出れる場もあるけれど、そう頻繁にはできない。
愚痴というより、自分のいたらない、もう少し工夫のしどころがありそうな部分を思い浮かべた。
ミズGは教委や世間に訴えた。
でも、それは日本的ではない。
日本の場合、カリキュラムの制限は多いし、教委に頼むというのは自殺行為になる。
世間に訴えるにしても、政治的な様相を示せば処罰される。
とにかく、教材選択までも含めてカリキュラムを設定できる自由というのが教師側にあることは重要だ。
日本の場合、結局は教室から始め、教室で終わる。
そこから自然にはみ出ていくものが効果を及ぼすかどうか、恣意的なもんだし、弱い。
生活現実とかけ離れ、民主的、社会的な個として自立してさせていく子ども達を育む立場としては、自立的でないものを強制されたり、制限を受けたりするのはダメージにしかならない。
最後に、こういった実践は、クラス生活の成立を政治的(あるいは宗教的)なコミュニティの発生と捉える人がいること。
でも、それは複次的であって、「学び」の成立が第一の目標である点をぶらしていなければ、全然かまわないと私は感じる。
更に、社会的であるということは、そういったコンミューンの発生が当然であり、別にホームクラスということではなく、小集団にもそういった機能や思想をみることはできるし、それが対外的に運動をしたからといって直接的な批判の対象になるというのはあまりにも管理的で行き場のない見通しのない不自由な言い方だと思う。
実話がもとになっているという点はアメリカ映画の十八番パタンの一つであるし、当時の空気感や日本と違った背景などがある。
けれども、教育活動の手法、内容としての「生活教育」は、日本こそがお家芸であるハズだ。
日本においても、その個人の背負う生活背景は異なっているだろうが、昨今の豊かさによらず、子ども達に多くに、こういった教育が必要だと私は思っている。
映画で上のクラスからミズGのクラスに転入してくる子がいる。
そういった子でさえ教室という空間で、相互に認め合い、育みを実感できる場所で学びたいと願うからこそ、対外的なイメージを差し置いて入ってくる。
結局、ドラマ・ストーリーの評になってしまったけれど、映画のつくりとしても一流であったことを記して終わりたい。
特に、おとなしい展開が続くのだけれど、照明の変化、パンの仕方、クローズアップの仕方(金八先生なんかと比べてみるといい)に個性が見られた。
殺伐とした描写には、少しリアリティが弱い気がしたのだが、キズにはなっていないだろう。
挿入された音楽も、その当時の空気を説明するものになっており、秀逸だった。
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7月26日のエントリの訂正。
藤原氏のコメントを読み直し、この人は教師へ「信頼」を預けよといっている。
これは一方的な話としていっているのだと、捉え直したい。
彼は間違っている方向を向いている可能性が高い。
(バナー画像からはリンクしていません。)
7月26日にも書いた作品のことなのだけれど、ようやく観れた。
相変わらず子育て中のレンタル人生はつらいなぁ。
年に何本かは好きな映画を見たいもんだよ。(ぼやいてすんません)
で、観てやっぱりよかった。
下馬評もかなりいい作品なのだけれど、私は教師なので、なんとなく当事者的な感触をもって観た。
予想通りというか、その名の通り、「綴り方教育」。
広義(現在、分掌に規定されてしまうようなことではないという意味での)の生活指導といってもいい。
生活教育といってもいい。
(アカデミックには定義が違うのかも知れないけれどね)
ミズGがそこへたどり着く過程がはっきりしなかったけれど、そこへ向かう理由ははっきりしていた。
生徒達の生活現実を掘り起こす事なくしては「学び」は成立し得ないという感触。
それが方法に結びついていった。
生徒達は高校生にして小5の国語力(英語力)しかないと烙印を押された連中。
でも、その生活現実は等身大の高校生のもの。
もちろん、人種差別や貧困などを抱えた日本に住んでいては想像し難い部分も含む厳しい現実がそれなので、日本の意味する等身大とは異なる部分は大。
でも、「等身大」というしかない、その時期にしかない発達段階における捉え方は、日本の同世代にも共通していると感じる。
で、そんな彼らが積極的に自己を開き、歴史に学び、社会に目を向け、書籍と対比される現実に向かう。
「書く」という自己表出・発現の機会をきっかけにして。
吹き出すように生徒間、教師生徒間の相互交流、理解が深まっていったのは、高校の学区改革からそれほど経っていなかったからかも知れない。
でも、必然というか当然の帰結として、ミズGのその手法が生きたのだと思う。
ミズGの実践を、「割り切れていない」「プロでない」という批判がもしかしたら出るのが日本の教育の現実かも知れない。
でも、それは認識の甘い批判だ。
逆にいうと、そういった仕事を教師から奪っていくということは、「育み」だとか「学び」への否定的行為であり、無機的な学習の設定しか教育に認めないという切り捨ての教育を推奨する行為だ。
それを求めない、あるいは認めない、他でやってくれという人は、建設的な批判をしている人ではない。
このドラマの優れていると感じるのは、ミズGの生活も掘り起こしている点だ。
第一に、夫婦が崩壊していく。
これはモーレツな仕事人になっていく、そういったのめり込みになってしまう教員の光と影を表現している。
とてもリアルな話だ。
夫の心の状況もよく理解できる仕立てになっている。
教員の家庭が荒れるとしたら、こういう形も大いにあるだろう。
第二に、イメルダ・スタウントン(ハリポタの魔法省から送り込まれた校長役)演じるキャンベル教科主任との対立もよい。
管理教育、上意下達のシステム強制という現在の日本の教育改革を絵に描いたようなリアルさを強調している。
諸外国の、特に、英米の教育を参考にしている日本において、この相似性は当然なのかもしれない。
彼女のセリフで印象的なのが、
「あなた(ミズG)の教育を他の人に押し付けるようなことはできません。」
というようなところ。
そうだよなぁ。
結局、ミズGの教育実践って、当たり前のことをやっているのだけれど、それを全ての教員にやれというのは無理なんだよな。
でも、そうすると、「教育愛」とかで定義される、教師の内発的動機ってなんなのだろう。
金か?(だから優秀教諭への報償制度なんてものができるのか?)
そう考える人には理解できない話になるなぁ。
ミズGもぼやいている。
「私は民生委員じゃないのよ。」
つまり、子どもの実態に自分を合わせるなんてできない。そう初めのころはいっている。
でもそのうち、夫に対して、
「若い内にしかできないのよ。」
つまり、教師としての成長が、自己改革的であり、自己の生活がそれを障害とするときを嘆き悲しんでいる。
日本でも、結婚したくてもできないと感じている教員がいる事実を、単に十把一絡げにバッシングするヤツ等は知っているのだろうか?
映画における離婚のエピソードとかぶる。
教材についても一つ。
アンネフランクの日記を出していた。
これは教師側のミズGが、生徒に投影した現実のイメージだけれども、この判断は教師としては大事な力だといえる。
それに対して、教科主任ともめた「ダイジェスト版のロミオとジュリエット」の話は、如何にも形骸化したカリキュラムの象徴のように見えた。
ここも日本的に相似。
一方で、教育予算が不足しがちな東京都内の各自治体の現状を思い出した。
そう。教材の管理も子どもの実態に合わせて自己責任化に転嫁される場合もある。
また、よくある教師の持ち出しについて。
私も教室に古本屋でかき集めた書籍を置き、古いPCを置き、様々な教具を触れられるように置いている。
時に、自分の子どもに与えなければならないものまで教室に持ち込んでいる。
これはこれで虚しい現実だ。
訴え出れる場もあるけれど、そう頻繁にはできない。
愚痴というより、自分のいたらない、もう少し工夫のしどころがありそうな部分を思い浮かべた。
ミズGは教委や世間に訴えた。
でも、それは日本的ではない。
日本の場合、カリキュラムの制限は多いし、教委に頼むというのは自殺行為になる。
世間に訴えるにしても、政治的な様相を示せば処罰される。
とにかく、教材選択までも含めてカリキュラムを設定できる自由というのが教師側にあることは重要だ。
日本の場合、結局は教室から始め、教室で終わる。
そこから自然にはみ出ていくものが効果を及ぼすかどうか、恣意的なもんだし、弱い。
生活現実とかけ離れ、民主的、社会的な個として自立してさせていく子ども達を育む立場としては、自立的でないものを強制されたり、制限を受けたりするのはダメージにしかならない。
最後に、こういった実践は、クラス生活の成立を政治的(あるいは宗教的)なコミュニティの発生と捉える人がいること。
でも、それは複次的であって、「学び」の成立が第一の目標である点をぶらしていなければ、全然かまわないと私は感じる。
更に、社会的であるということは、そういったコンミューンの発生が当然であり、別にホームクラスということではなく、小集団にもそういった機能や思想をみることはできるし、それが対外的に運動をしたからといって直接的な批判の対象になるというのはあまりにも管理的で行き場のない見通しのない不自由な言い方だと思う。
実話がもとになっているという点はアメリカ映画の十八番パタンの一つであるし、当時の空気感や日本と違った背景などがある。
けれども、教育活動の手法、内容としての「生活教育」は、日本こそがお家芸であるハズだ。
日本においても、その個人の背負う生活背景は異なっているだろうが、昨今の豊かさによらず、子ども達に多くに、こういった教育が必要だと私は思っている。
映画で上のクラスからミズGのクラスに転入してくる子がいる。
そういった子でさえ教室という空間で、相互に認め合い、育みを実感できる場所で学びたいと願うからこそ、対外的なイメージを差し置いて入ってくる。
結局、ドラマ・ストーリーの評になってしまったけれど、映画のつくりとしても一流であったことを記して終わりたい。
特に、おとなしい展開が続くのだけれど、照明の変化、パンの仕方、クローズアップの仕方(金八先生なんかと比べてみるといい)に個性が見られた。
殺伐とした描写には、少しリアリティが弱い気がしたのだが、キズにはなっていないだろう。
挿入された音楽も、その当時の空気を説明するものになっており、秀逸だった。
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7月26日のエントリの訂正。
藤原氏のコメントを読み直し、この人は教師へ「信頼」を預けよといっている。
これは一方的な話としていっているのだと、捉え直したい。
彼は間違っている方向を向いている可能性が高い。
長男との折衝の末、レンタル。
なんかお互い妥協してレンタルしたので思い入れは互いに薄いという状況がヘン。
ま、エンタメだし、いっか。
それもお互いの協調。不思議だけれど二人だけで観る事になった。
いわゆるスパイダービューの爽快感というのが前二作と違って少ない。
畳み掛ける戦闘的なエピソード(定番的な戦闘シーンではない)の連続が持ち味の一作。
友人ハリーの気持ちのカメレオン並みの換わり様も驚きだが、結局ご都合主義の展開の極みと放任すれば楽しめるのだろう。
最後のサンドマンの裏話も「はあ」ってカンジ。
黒いスパイダーマンも、なんかニセウルトラマンを思い出してしまった。
よそ見しながらでもいいやという映画だった。
息子は話のコミック度の強さにやられていたから、そこそこ満足なのだろう。
ウルトラ怪獣大決戦ってところかな。
あんまり見すぎると阿呆になりそう。ビバ・アメリカンコミック。
底抜けに楽しめるのはスパイダーマンファンコアかな?
そうでもなくて、みんな楽しんでいるのかな?
1だけでいいやという映画がまた一つ。
今度はもうちっといい映画をレンタルしよっと。
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ま、エンタメだし、いっか。
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いわゆるスパイダービューの爽快感というのが前二作と違って少ない。
畳み掛ける戦闘的なエピソード(定番的な戦闘シーンではない)の連続が持ち味の一作。
友人ハリーの気持ちのカメレオン並みの換わり様も驚きだが、結局ご都合主義の展開の極みと放任すれば楽しめるのだろう。
最後のサンドマンの裏話も「はあ」ってカンジ。
黒いスパイダーマンも、なんかニセウルトラマンを思い出してしまった。
よそ見しながらでもいいやという映画だった。
息子は話のコミック度の強さにやられていたから、そこそこ満足なのだろう。
ウルトラ怪獣大決戦ってところかな。
あんまり見すぎると阿呆になりそう。ビバ・アメリカンコミック。
底抜けに楽しめるのはスパイダーマンファンコアかな?
そうでもなくて、みんな楽しんでいるのかな?
1だけでいいやという映画がまた一つ。
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「墨攻」は非攻、すなわち不可侵を戦乱の時代に説いていたという墨家への興味から観てみた。
ちょっと調べたら、やっぱり原作があって、しかも日本漫画作品もあった。
だから「墨守」ではなく「墨攻」という過激なタイトルも納得というところか。そう思ってみた。
墨家については、wikiの説明でもいいけれど、墨攻公式サイトにおける東北大学浅野裕一氏の墨家解説が端的で分かり易いようだ。
なかなか見やすいエンタメ作品に仕上がっていて、なんでそこから水が?とか、なんで心変わりをして居残るの?将軍?とかいろいろ脚色上のへんな部分は気になる人は気になるだろうけれど、トータルとして引き込まれ易い展開だったと思う。
あくまでもバッドエンドなのだけれど、墨家の謎と急な消失を含めて考えればさもありなんなストーリー。
漫画の方が仕掛けが多いそうだけれど、私的には映画でお腹いっぱいかな。
ストイックで自閉的な平和主義、ただし先守防衛、思想の実践を怠らなかった点は、「守」を説いた割には非常に過激だと感じる。
そこいら辺が情感で流されてしまっているのはエンタメなのだけれど惜しい感じがした。
もうちょっと理屈っぽいのが私は好き。
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だから「墨守」ではなく「墨攻」という過激なタイトルも納得というところか。そう思ってみた。
墨家については、wikiの説明でもいいけれど、墨攻公式サイトにおける東北大学浅野裕一氏の墨家解説が端的で分かり易いようだ。
なかなか見やすいエンタメ作品に仕上がっていて、なんでそこから水が?とか、なんで心変わりをして居残るの?将軍?とかいろいろ脚色上のへんな部分は気になる人は気になるだろうけれど、トータルとして引き込まれ易い展開だったと思う。
あくまでもバッドエンドなのだけれど、墨家の謎と急な消失を含めて考えればさもありなんなストーリー。
漫画の方が仕掛けが多いそうだけれど、私的には映画でお腹いっぱいかな。
ストイックで自閉的な平和主義、ただし先守防衛、思想の実践を怠らなかった点は、「守」を説いた割には非常に過激だと感じる。
そこいら辺が情感で流されてしまっているのはエンタメなのだけれど惜しい感じがした。
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ああ、また観てしもた。
きっと暇なんやろうな。
レンタルビデオの冬やな。
せやけどダンさん、原作のまんまの設定やね。
なんかダイジェストになるんか思ったら、ケツのケツが「はあ?」って感じやった。
やっぱり、あの雰囲気は原作の方が楽しめる気がするちうわけや。
設定もきちんと背景からわかるし、漫画を読まのうてはや。
手塚はんもここまでエンタメしたかてらったらええ気分なのとちゃうかな。
そやけど、もっともっともっと(?)カイキュートーソーチックな雰囲気もあり、エゴイスティックな親父がおるのもありちう世界とちゃうやろかな?
踊り子の衣装もCGも、なんか違和感ある緑で、そこがいっちゃんヘンなのとちゃうかな。
大阪弁フィルタ使用
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せやけどダンさん、原作のまんまの設定やね。
なんかダイジェストになるんか思ったら、ケツのケツが「はあ?」って感じやった。
やっぱり、あの雰囲気は原作の方が楽しめる気がするちうわけや。
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そやけど、もっともっともっと(?)カイキュートーソーチックな雰囲気もあり、エゴイスティックな親父がおるのもありちう世界とちゃうやろかな?
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ようやくレンタルで観た。
しかもこんな時間になってしまった。
レンタルしても子育てに忙しくて観れずに返却というパタンは多い。(泣)
今回は観れた。
藤沢モノ三連作の三本目。
前二本もレンタルだったのだけれど、とにかく心に残った。
キャスティングが山田的に今風な人を主役クラスに据えてきたように思っているのだけれど、キムタクは当時ひいてしまった覚えがある。
まあ、確かに下馬評的にこき下ろされて仕方がない部分は感じるが、それは前二作との比較のような気がする。
同じ藤沢ものでも蝉時雨なんかよりもよっぽどいいと思う。
ちゃんと演技になっている。
それはそれとして、この手の原作モノは原作のドラマ性を引きずっているので、純然たる映画としての総体評価はしづらい。
「武士の一分」の「一分」は、観客(すなわち読み手)にまかされているなと感じる話だと思った。
設定的に、カミさんが手篭めにあうというのは感情的な倫理として許せなくて、どうも押さえられないものを感じてしまうのだが、それに対応してなのか、三連作の中、唯一それなりにハッピーエンドとしていると思う。
(たそがれ・・・は、事後談としてバッドエンドともとれないことはないから)
それでも、「一分」とは、実はつまらないから「一」なのか、捨てられない最後の数字としての「一」なのか、とりようによって裏表、陰陽があるなぁ・・・と。
映画としての品質は群を抜いているし、役者の演技へのこだわりよりも、映画総体としての演出力(ここが山田洋次の世界)が勝っているという点で、安心して観られる。
(結構灰汁の強い緒方靖夫なんかが全然際立たないで自然なのは、そういうことかと感じる。)
キムタクがいるいないにこだわるのは、そういったモノばっかりの世界に生きているからかも知れないと反駁したい部分はある。
なんといったって、私にとってキムタクというのはそういうカゲの薄い存在だから。
いい映画だった。とエンタメ的には充分いえる。
あとはテーマに観るものが応えることから深くなるだろう。
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今回は観れた。
藤沢モノ三連作の三本目。
前二本もレンタルだったのだけれど、とにかく心に残った。
キャスティングが山田的に今風な人を主役クラスに据えてきたように思っているのだけれど、キムタクは当時ひいてしまった覚えがある。
まあ、確かに下馬評的にこき下ろされて仕方がない部分は感じるが、それは前二作との比較のような気がする。
同じ藤沢ものでも蝉時雨なんかよりもよっぽどいいと思う。
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設定的に、カミさんが手篭めにあうというのは感情的な倫理として許せなくて、どうも押さえられないものを感じてしまうのだが、それに対応してなのか、三連作の中、唯一それなりにハッピーエンドとしていると思う。
(たそがれ・・・は、事後談としてバッドエンドともとれないことはないから)
それでも、「一分」とは、実はつまらないから「一」なのか、捨てられない最後の数字としての「一」なのか、とりようによって裏表、陰陽があるなぁ・・・と。
映画としての品質は群を抜いているし、役者の演技へのこだわりよりも、映画総体としての演出力(ここが山田洋次の世界)が勝っているという点で、安心して観られる。
(結構灰汁の強い緒方靖夫なんかが全然際立たないで自然なのは、そういうことかと感じる。)
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