最近、通勤時に電車を利用しているので本が読める。
(前任校は自転車通勤だったのでできなかった。)
駅を降りてから職場まで、ずっと坂道をちんたら登っていく。
つらいので本を読みながら歩行者ようの白線を歩くことにしている。
たまに前を見るのだが、よい子はマネをしないで欲しい。
息子は読書が好きだ。
その没頭する姿は自分の幼いころを思い起こさせる。
昔、大きな書店が好きだった。
立ち読みが好きで、休みといえば本屋だった。
夕方本屋の店長が声をかけてきた。
「お母さんから君に電話だよ。立ち読みしている君に、もう帰る時間だと教えて欲しいと頼まれてね。」
本を2冊並べて読んでいるへんな子だったので、すっかり店長には覚えられてしまった。
そんなことを思い出した。
(前任校は自転車通勤だったのでできなかった。)
駅を降りてから職場まで、ずっと坂道をちんたら登っていく。
つらいので本を読みながら歩行者ようの白線を歩くことにしている。
たまに前を見るのだが、よい子はマネをしないで欲しい。
息子は読書が好きだ。
その没頭する姿は自分の幼いころを思い起こさせる。
昔、大きな書店が好きだった。
立ち読みが好きで、休みといえば本屋だった。
夕方本屋の店長が声をかけてきた。
「お母さんから君に電話だよ。立ち読みしている君に、もう帰る時間だと教えて欲しいと頼まれてね。」
本を2冊並べて読んでいるへんな子だったので、すっかり店長には覚えられてしまった。
そんなことを思い出した。
レンタルDVDを借りて見ている。
息子に見せる都合もあるのだが、夫婦で共通の話題になる作品の一つ。
なつかしいついでに見ているといっていい。
この話は、逆境だとか、ネガティブだとか、精神性だとか、すべて肉体で乗り越えていくのだな、と感じている。
ルサンチマンを感じずにはいられないところもあるが、息子の様子を見ていると、そんなに深刻ぶるのも粋ではないと感じる。
私の宮崎アニメ(実は高畑も入るイメージの呼称)に対する印象は、「太陽の子ホルス」なのだが、コナンもいい。
この後、有名なカルピスシリーズになるのだが、純粋に物作りとしての作品群が続いている時期にも、思想性や感性、技術へのこだわりが随所に見られる。
よくできているなと思う。
息子に見せる都合もあるのだが、夫婦で共通の話題になる作品の一つ。
なつかしいついでに見ているといっていい。
この話は、逆境だとか、ネガティブだとか、精神性だとか、すべて肉体で乗り越えていくのだな、と感じている。
ルサンチマンを感じずにはいられないところもあるが、息子の様子を見ていると、そんなに深刻ぶるのも粋ではないと感じる。
私の宮崎アニメ(実は高畑も入るイメージの呼称)に対する印象は、「太陽の子ホルス」なのだが、コナンもいい。
この後、有名なカルピスシリーズになるのだが、純粋に物作りとしての作品群が続いている時期にも、思想性や感性、技術へのこだわりが随所に見られる。
よくできているなと思う。
教材化というのは解釈が入るのだと思っている。
もちろん必要条件でという限定は入る。
理科が好きで理科を専攻していたが、物の見方を多様にする力を育めるようで実はそうでないのが理科という教科なのかな?と感じたときから、理科の「ネタ」に潜む解釈の凡庸さが気になりだした。
知識体系が普遍的と捉えているからかもしれないと思い、思考している。
科学も「リテラシー」なのだ。
そういう見通しがある。
でも、物は存在しているところからしか解釈は始まらない。
その解釈の仕方を論じても、ある物からしか始まらないところに理科の視点の循環性があるような気がする。
「なぞとき」を科学の一つとするならば、一過性にならない体系というのは必要で、その為の学び体験は反復性があるかもしれないが、現象や知識、学び合いとの出会いは常に新しい。
そうであれば理科というのは楽しい教科になるのかもしれない。
豊かな出会いを創造する機会をいかに確保するかで「ネタ」からは解放されていくと思う。
「ネタ」を利用しているようで「ネタ」によらない学びを創造することがそのための十分条件なのかなと思った。
もちろん必要条件でという限定は入る。
理科が好きで理科を専攻していたが、物の見方を多様にする力を育めるようで実はそうでないのが理科という教科なのかな?と感じたときから、理科の「ネタ」に潜む解釈の凡庸さが気になりだした。
知識体系が普遍的と捉えているからかもしれないと思い、思考している。
科学も「リテラシー」なのだ。
そういう見通しがある。
でも、物は存在しているところからしか解釈は始まらない。
その解釈の仕方を論じても、ある物からしか始まらないところに理科の視点の循環性があるような気がする。
「なぞとき」を科学の一つとするならば、一過性にならない体系というのは必要で、その為の学び体験は反復性があるかもしれないが、現象や知識、学び合いとの出会いは常に新しい。
そうであれば理科というのは楽しい教科になるのかもしれない。
豊かな出会いを創造する機会をいかに確保するかで「ネタ」からは解放されていくと思う。
「ネタ」を利用しているようで「ネタ」によらない学びを創造することがそのための十分条件なのかなと思った。