怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

食育が国策?

2007-05-12 23:19:41 | 教育
「食育」って、誰が言い出して、どのような方策で、どのような達成イメージがあるのかは誰も知らないのじゃないかな?

「食」をする「個人」の問題に責任を帰着しがちな暴力的側面を忘れてはならない。
ましてや変な政治家や一部の偏った料理人が言い出し、自民党お得意の突貫工事で偽野党どもと結託して決めた施策なんて・・・。

教育現場でいい迷惑だよ。

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「食育」知る人は65%、理解は33%…内閣府調査(読売新聞) - goo ニュース2007年5月12日(土)19:45
 内閣府は12日、「食育に関する意識調査」の結果を発表した。

 食べ物や栄養などに関する正しい知識を身につける「食育」という言葉を知っていた人は65・2%で、2005年の前回調査(52・6%)に比べ、12・6ポイント増えた。ただ、正しく意味を知っていた人は33・9%(前回26・0%)にとどまり、内閣府は「啓発活動を強化し、食育への関心を高める必要がある」としている。

 家庭での食育の実践の実態については、「毎日朝食をとるなど規則正しい食生活に努めている」「栄養バランスに気をつけている」が、それぞれ9割近くに達した。ただ、「必ず気をつけている」人は、「規則正しい食生活」が約7割、「栄養バランス」が約3割にとどまり、実践面でなお不十分な面も浮き彫りになった。

「国語」の近代史(中央公論新社)安田敏朗/著2006.12その2

2007-05-12 23:10:02 | 教育書
前にもエントリした続きだけれど、本書へのコメントでは内実を語れない。
私自身の話として裏がある。

国字研の例会で読み合わせ研究をしている書なのだ。

で、今日はその例会におじゃましてきた。
前から行きたかったのだが、(文字通り)いろいろあって行けなかったのだ。
だから念願がかなったというところか。
(子育て中の家庭的には非難囂々なのだが・・・。)

閑話休題。

私自身はまだ全体を読了前でもあるし、なかなかこの分野自体の全体像もどう捉えていいかわからないので、例会の進行に身を委ねた。
K先生が序章までのいいレジメをきってくれていた。

話題は私も疑問だった「自然さ」というところにもいったので、こうして複数の人で読むというのは安心して考えられると感じた。

「言文一致」の「言」である「音声言語」というのはネイティブにそこに存在しているものだから「自然」なのではないかな?と感じた。
対して「文」の「書き言葉」だが、こちらは歴史的に特権階級が握っていたり、階層差が生じていたりする。
「言文一致」に関して成り立ちや運用の違いから「せめぎ合い」が必然的に生じる。
そう理解した。

一方で、その施策をだれが先導したのか?という疑問を呈していたK先生。
確かにそれは具体的に「だれ」とは指せない。
歴史的には明治維新、大戦や植民地の拡大をきっかけに国力増大と国民掌握の要求に伴って政治的に発生してきたといえるのだと思う。

最近の話題として、古典主義、暗唱主義(造語だが)に教育の施策が傾き始めている。(文化審議会など)

私なりの見立てとしては、それは「復古」であり、「権威」の増強である。
「文語」が「美しい」とされると、それは価値観の押しつけでしかない。
形式的な「暗唱」(指導)が「素晴らしい実践(教育)」とするのも「強権」でしかない。
「復古」は時代にそぐわないだけでなく、政治的、ナショナリズム的な軋轢を生む。

「国語」を国家統治のアイテムだとする輩にはわからないだろうが、思想・信条の自由とはそういうことを許してはならないだろう。
現在の日本では民主的でもない(はずだ)。

国字研の基盤が「言語意識直結観」なのだそうだ。
対抗が「言語伝達手段観」。
これは軽いショックだった。
私の国語研究の基調は後者による価値観の浸食でなりたっているものだったからだ。
前者を少し学びたい。

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文語調復古主義の斉藤孝は単なる技巧、技能に精神主義をプラスした偏重の教育研究者だと思うが、暗唱実践でも有名な蔭山英男は単純にはそうではないようだ。
特に、漢字の実践では早期履修後のドリル学習に頼る実践をもっていた。
しかし、尾道の校長実践で、そのメソッドに従いたくない教諭が、字源やその人なりの手首化を基調にした指導で蔭山実践を乗り越えている。
蔭山氏自身がそのことを素直に認め、よい実践であることを評価している。

あ!
今、気がついた。
今日さんから言語意識直結観について触れられている本を購入するのを忘れてしまった。
しかたがない。次回か。

PとTの連携

2007-05-12 12:09:44 | 教育
PTA(Parent-Teacher Association)とは、各学校ごとに組織された、保護者と教職員による教育団体のことである。

しかし、その組織は、一方で体系化され、全国化され、政治的な影響を受けやすくなっているばかりでなく、構成員が流動的であるため、恣意的な活動にならなくても硬直しがちであるように思う。

私の家族が利用した保育園では保護者会というものが組織されていた。
でも、そこでは保育士との共同的な情報交換がもたれ、保育士の労働組合からの有益な情報も入りやすい民主的かつ柔軟な組織があったと思う。
もちろん、組織のありようで全てがうまくいくわけではないが、そういうものが安心であるし、信頼できるということだ。
(行政側に任せているとろくな事がないということでもある。)

現任校では保護者会組織のようなものがある。

その会長が総会の挨拶でこんなことを言っていた。(大意だが。)

・上からは「母乳で育てろ」などのように、困った話がおりてくる。
・我々はそんなことは横において、下から現状をよくしてくことが大切だ。
・そのためには、PとTと地域の信頼関係を構築するよう努力するべきだ。


事務的になり、責任転嫁ないしは責任義務転嫁をしている教員の現状で、そういった声にどこまで応えられるのだろうかと思った。
「槐より始めよ」はわかるが、学校も組織だからそうそう動きはよくない。
ましてや、若い人が多くなってきている教員集団で、民主的な教育活動がどこまで推進できるのか?
不安ではある。(不安ばかり言っていられないが・・・)

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