怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

本当にありがとうございました

2006-02-24 18:30:41 | 戯言
突然ですが、このブログを終了いたします。

今まで1年半ほど、250件以上のエントリーを流してきました。
最初は掲示板の続き、日記程度に考えていたのですが、やはりオープンな環境はその比ではなく、だんだん本気になったというか、「戯れ言」のつもりが、放言のようにも、直接的な批判文にもなっていったかと思います。そういった意味で、私の心のゆれ、不安定さが如実に出ていて、読みにくくも、感じにくくもあった文の数々だったと思っています。
多くのネット情報(ブログも含む)を見るにつけ、たいしたことを書いてこなかったなと反省する部分多々です。
(もちろん、いくつかの議論はとても有意義だったと今でも感じていますし、ここを通じた人との出会いは宝石のように感じています。できればこうなってもつながっていたい部分は多くあります。)

ここ何ヶ月かは、とにかく毎日アップしてやろうと意気込んでいたのですが、それは何かつかめないものをつかもうとした悪あがきだったようです。
疲れました。
もともとプライベートな理由で始めたものですから、モチベーションの持ち方が甘かったのでしょう。
今、とても何か自分から出すという気持ちになれない脱力感があります。
休みを少々とっても続けていく自信も確信ももてません。

このブログを通じて知った塩崎さんのブログにはブログというものを考える上で、とても影響を受けました。
この場を借りてお礼を言いたいです。

私は実名を公表して書く覚悟もありませんでしたし、私は、無意識にも、きわめて功利に基づいた行動でこのブログを続けているのではないかと、はたと気づいたのです。
しおちゃんまんさんが、ランキングトップでランキングをやめるなんて晴天の霹靂でした。
「すごい!」と言葉もなかったです。

また、ブログキャスターに書かれた、わかりやすく、真摯な記事を読んで思いました。
もう、ブログはメディアとしてかなり成熟し始めているのだと。
遊び半分でブログをやっていると痛い目に遭う時代なのだと。
(あ、ご心配なく、物理的に何か痛い目に遭っているわけではないです。)
よい形で私のいいたいことが伝わっていくだろうなという希望をいっているのです。

ブログをやめる直接理由は、私自身の生活上の問題なのだと思っています。
とにかく、無力感が先立ちます。
私の弱さだなぁと思っています。
わかりにくい表現でごめんなさい。

誠意をもってやっているブログが多くなり、主流になることを願い、新たなステージを探しにいこうと思います。
私もまた、ブログやHPをやるでしょうが、きっと別な形、別な語りを目指せる力がついてからにしたいと思います。

検索等、いろいろ引用なさっていた方もいらっしゃるので、このブログはしばらく放置する予定です。
コメントやTBに対して答えるかどうかは考えさせてください。
(私は大人の文章を書けるほど人間ができていませんが、たいして嘘をいってきたつもりはありません。だから、安心して放置はできそうです。)

長くなりました。
あんまり書いていると、頭がごちゃごちゃしてまとまりません。
ここいらへんでおしまいです。

Y氏へ

2006-02-23 01:32:27 | 戯言
拝啓。Y氏へ。
教育系大学への就職おめでとう。

本筋の理学・工学の道からは少しそれたが、目的地へはなかなか着かないのも人生の楽しみだと思う。
ましてや、君のルーツの一つは、私と同じ教員養成系の大学なのだから、それも業のようなものだと思います。

私は現職教員だから、ぜひ有能な学生さんを教員の世界へ後押ししてくれることを願っています。
そして、図らずも今まで私と話したことについては、是非、学生さんへ伝えて欲しいと思っています。

教育学部の学生さんは、好き嫌いに関わらず、教育実習が義務づけられていますし、「教育」との縁はきれないものです。
君の歩んできた道で、示唆するに不都合なことがあったならば、私でよければ相談にのるよ。
きっと、教育実習生の研究授業に対する講評を求められても、現職教諭が見守る中で不用意な発言もできず、困ってしまうのではないかな?
何ごとも1からだけれども、便利に私を使ってくれ。

教員養成系の大学は、教員養成の専門学校として進む道をとるのか、今まで通り、豊かな学びの場であるのか、中々難しい岐路に立っていると思います。
きっと私と同様、それを決めるような重要な場への、例えばちょっと声に出してみるなどの、些細な参加さえも、君は許されないかも知れませんね。

私は時に思うのです。
「「教育改革」の必要性なんて誰が言い出したのだろう。」と。
実体のない議論の果てにあるものが見えず、最近疲れています。
せいぜい実体化しているように喧伝されるものは「お金」の問題であったりします。
実はつまらないことだし、それだって・・・ねぇ。ちょっとした議論さえ進まないではないかと・・・。

物事の割り切りが私よりも常識的で、スマートな君だから、うまくやっていくことを想像しています。
そしてまた、分からず屋の私との話しの相手をしてもらうから覚悟しておいてください。
それでは、また。
君の幸先と私との腐れ縁にカンパイ!
敬具。
悪友:yo

ガンダム利用のフェイク(突っ込み不可)

2006-02-22 18:31:33 | 戯言
「きみはモビルスーツの開発者の息子だから操縦できるだろう?」
「アムロ、いきまーす!」
ザク登場。
「あたれ、あたれ、あたれー!」
弾切れ。
「うあぁぁぁぁ!」
敵「なんだこいつ?」

「フッ。ぼうやだからさ。」

「教師なんだから、ALTつけりゃ、英語の授業を組み立てられるだろう?」
「教師、いきまーす!」
親登場。
「ALT、ALT、ALTー!」
英単語忘れ。
「うあぁぁぁぁ!」
親「なんだこいつ?」

「フッ。研修もないからさ。」

日本人のしつけは衰退したか(講談社現代新書)広田照幸(その2)

2006-02-21 22:07:18 | 教育書
「学校すずめ」というのが出てくるのだが、思い出してしまった。
結構いるのだ。こういう人。

でも、それはかわいそうだなと思う。
子育ては大切なことだが、そこまで責任を負わなければ達成できないという観念をもっていないといけないだなんて。
そんなことをしなければいけないのならば、視野を広めて、学校、教師を責めるのでなく、もっと大きな枠組みで捉えなおしたり、自分とことなる現状を調べたりすることが根本的な対策だと思うのだが・・・。
悲しいかな、そんな「ゆとり」はないのだろう。
「キョウイク」と対立したところで、やはり「システム」との対峙となり、にっちもさっちも行かなくなる。
そんな意味では、現場教師と共同し、対話し、進むべき道を模索することは不可能ではないように思うのだが・・・。

子育てを豊かなものにし、ひいては人口減少に歯止めさえかけようと思うのならば、もっと世の母親、家族に対する手厚い援助はあってよいのではないだろうか。
(子育て中の私がいうと、欲目に聞こえるのだろうか?ちょっと心配だが・・・。)

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「ゆとり」から「言葉の力」?その2

2006-02-20 00:48:32 | 教育
「言葉の力」と聞くと、
「ああ、コミュニケーション能力ね。」
「論理的思考。説明能力か。」
「PISAのテストを意識してるだ。」
いろいろイメージが先行しそうだし、いろいろなブログを見ると、こういった話題もあがっているのがわかった。

しかし、なぜ「言葉の力」なのだろう?
必然性を考える。
すると、
「さっき言ったものが今の世の中に大切だから。」
とくる。

「学び」をイメージするならば、どういった方向性をもっていると考えるのだろうか?
きっと具体的に答えられるパンピー(死語?)はいないはずだ。

「そんなのお前ら教員が考えるのじゃぁないの?プロでしょう?」
そういうのを責任転嫁と言う。

別に「言葉の力」からイメージされるものが不要なわけではない。
そうではなくて恣意的に決まる方向性に対して誰が責任をかぶっているのかということ。
また、本当は「学び」に関して、構造的な問題を抱えていながら、そこにメスをいれない「聞かザル」の態度を続けていれば、いずれつけはもっと大きくなるよ。
私は姉歯のような立場には立ちたくないから声を上げているが、そのような人を生み出すのと同じような状況はあなたがたが生み出しているよ。
そういいたい。

もうすでに
「あれ?最近、話の分かる人と分からない人と二極分化しているような気がする。」
とかつぶやいている人はいませんか?

(注釈)「学び」は「ごまかし勉強」(藤沢伸介)ではなく、真に「主体的な方向性をもつ豊かな学び」を指す。

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日本人のしつけは衰退したか(講談社現代新書)広田照幸(その1)

2006-02-19 05:58:25 | 教育書
前から読みたかったのだが、今頃になってしまった。
読むべきときに読まねば。これは大きな反省。
読んでよかった。

歴史的に見た場合、「学校教育」が地域において「家庭教育」の推進に一役買っていた様子が伺い知れる。
しかし、これに拍車をかけたのは高度経済成長期に代表される「経済的要因」だったのだそうだ。
改めていわれると「そりゃそうだ!」とパシッ!っとひざを叩きたくなる。

やはり、「教育」する精神における経済の影響というのは無視できない。
だが、安易に、そこから「教育」論を立脚すると、「教育」の重要なテーマである「学び」の姿がぼやけるように思うのだ。

この本は「しつけ」というキーワードを用いて、「教育」に焦点化しそうな議論を巧み逃れているようにも思えた。
でも、広田氏は、この後、まさに「教育」の名を冠する著書を書いている。

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立場をかえりゃあいいのかな?(「教育」の先行き)その2

2006-02-19 05:29:48 | 教育
最近、読んだブログ類の中に、「教科」の解釈のいびつさを感じました。「受験教科」と「指導要領の教科」は概念がことなるのです。当然、指導方法もことなるのです。
この点は「格差社会の解消(緩衝)」を議論するときに、よく誤解されているように思います。
受験社会是認であるなしではなく、格差社会=受験社会という図式にのっとった教育論議をするかしないかは「学校(公)教育」の大前提に関わります。
例えば「国語の読み」において、豊かな解釈力、多様な解釈の理解力、批判的な読解力を身につけさせたいのであれば、「受験」や「学力テスト」にかたよることは許されないことでしょう。

時に、塾講師の方の意見で、学校で行っている「教科指導が間違っている」(塾も教科指導をしているつもりなら間違ったものいい)「実用的でない」(何に対して?)「稚拙だ」(無根拠、対比なし!)などと言われているのを見ます。
これもそういった点の誤解のように感じます。
もちろん、塾が果たす役割について否定するつもりはないです。(塾の「教科」と学校の「教科」は別物がいい例)
ある意味、お互い別業界なのだから、一方を自分の規準で批難して何になりましょうか。
(同じ子どもを抱える点では、大いに議論できる余地はあると思います。)

「教科指導」は端的に「こうだ!」と言えるものは多くなってきたように思いますが、一元的に語れるほど底は浅くないです。
なぜなら、現場の状況は児童の数だけ多様で、教師の個性(年齢、性別等等)も少なからず反映する部分もあり、教材や授業時数の変化だけでも今はとても大きな影響を受けているのですから。

今の「教育」に何が必要かという根本に立ち返った議論は「これから」という点は多いと思います。ただ、昨今の教育施策の変遷は、「教科」の枠組みを壊そうとしているだけに多方面からの議論を呼び、その点を見え難くしているとも感じます。
たかだかイデオロギーレベルでしかないナショナリズムやその多くが日和見でしかないグローバリズムによらない、歴史性を無視せず総括し、独自性を足場にオルタナティヴな立場から将来像を模索するような方法はないものでしょうか。そういった意味では、今の教育施策はたたきがいがあるものだとは思うのですが・・・。

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立場をかえりゃあいいのかな?(「教育」の先行き)その1

2006-02-18 05:44:47 | 教育
「教育」について、今まで言ってきたように、私は、マスコミも、中教審や文科省も現状認識に関して立場を超えた自由な解釈をしているとは思えません。
特に、文科省はおかしな教育施策を降ろし、責任を現場に丸なげし、総括なく猫の目のように切り替えてくる点は国家犯罪的な行為を繰り返しているのだと思っています。
また、財政的な苦慮は一定理解できるのですが、単なる政治的な予算分捕り合戦であったり、必要財源減らしの口実だったり、もっといえば、自分の懐勘定だったりする点は理解できないし、そこに関わる(のらくらした)政治家達は許し難いと思っています。

では現場に問題はないのか?と問われれば、常に刷新の心がけが必要なくらいにはないわけはないです。
が、それを揚げ足とる議論はここではレベルが異なり無効です。
少なくとも、心がけがあっても、現場に有効な研究、研修の場を与えない、金は出さない、人も出さない、けれど有用無用の管理だけは厳しくする、では立ち行かないことは明白です。
叩いても埃もでない教師面なのです。

よく、上意下達の教育施策を「読み違えていないか?」「消化不良なのか?」などと言われることがありますが、そういう発言を聞く度に、「わかってないな」と思うのです。
現場側は常に「読み違え」もしていないし、「消化不良」でもないのです。
おかしな文章をそのまま読み、食えないものを消化していると言っているのです。
それが気持ち悪いと言っているのです。

例えば、
おかしいおかしいと思いながら「支援」教育をしてみれば、今や「支援」なんて強調する指導主事はいない。
「T.Tがいい」といわれれば、やってみて、「いや、あれはうまくいかなかったんでしょう。」などと言われて小人数習熟度別。
週3時間相当もの「総合的な学習の時間」づくりに苦労すれば、「いや、今度から英語に切り替える部分があるので、カットね。」とくる。
(どう逆さに読んでも、こっちが読み違えているのではなく、施策を降ろす側が無責任なだけでしょう?)

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教育前線異常なし

2006-02-17 00:52:48 | 教育
我ながら古い言い回しだが、映画ファンなので許してもらえるだろう。(甘い!)

指導要領改訂の道筋が立ってきたようだけれど、現場は相変わらずだ。
何が降ってくるのか・・・。
そんな面持ちの静けさがただよっているのだろうか。(個人的な感傷だな)
でも、一方で、
「今までいろいろ降ってきたから、ダメなものは適当に流しておけばいつか崩れる。柳の木で生きなきゃ。」
と、思うしたたかな者もいるだろうし、
「10年スパンといっても、その間にこんなに猫の目のように切り替わって来たのでは、どうなることやら先が思いやられる。」
と、感じる者もいるだろう。
「これーはチャンス!これーはチャンス!ゴマをすりなおそうー!」
と、唄いながら、生活を捨ててでも勝ち組に名乗りをあげようとする者もいるだろう。
「対応できるかな?英会話習おうかな?でも研修が増えそうだからたいへんかな?みんな不安じゃないのかな?まだ若いから体力あるし、大丈夫かな?いや、目の前の子どもで手いっぱいだよな?親の目もあるし、教委の方針に沿う方が無難なのかな?同僚の考えていることがそんなに分からないし・・・。」
と、行き惑いがちの者もいるだろう。
「やばいやばい。あと5分であの家に電話しておかないと留守になっちゃう。今日までのアンケートまとめてないよ。あれ?明日使う例のもの、雑貨屋で仕入れとかなきゃ。また自腹かよ。パソコン故障しちゃったし、財布痛いな。とりあえず、分掌の仕事すんだら、丸付けは家でいいや。目標8時。・・・できるかな?」
日々に追われている者もいる。

でも、
「おはようございます!」
朝、子ども達を教室で出迎え、笑顔で挨拶をする。
熱があろうが、腹が痛かろうが、前日に残業して徹夜気味だろうが、毎日にこやかに。

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「かたき」という遊びが嫌いな理由

2006-02-16 06:03:59 | 戯言
私の所属自治体では「かたき」という遊びが流行っている。
前任校でも本校でもあるのだから、結構ひろまっているのではないだろうか。

私の子ども時代にはなかった遊びなので、解釈がもしかしたら間違っているかもしれないが、ちょっとエントリーに残そうと思う。
(何か違っていたら教えてください。)

「かたき」の解説・ルールはこちら(ウィキペディア)へゆずります。

(1)この遊び、コートがない。つまり、狭い校庭を取り合う必要がない。
(2)参加人数の大小の影響が少ない。つまり、人の出入りが楽。
これが利点だと思うのだが、逆にトラブルのもとになる。
つまり、
(1)場所に関するルールが(設定でき)ないため、場所に関するトラブルの解決ができにくい。
また、休み時間などでは、人が交差し、ボールが無関係の人にぶつかったり、人同士が衝突したりしてトラブる。
さらに、トラブった時に、メンバーが全員集合しにくく、トラブルの原因を把握しづらい。
(2)だれが参加しており、だれが一時的に外れているかがわかりにくい。
よくあるのが、トラブっている子にボールをぶつける。その子は「現在は参加していない」と言い、投げた方は途方にくれて怒りだす。
(3)これは別件。「ボールをぶつける」が基本動作なので、そのこと自体がトラブルの原因になる場合もある。
「わざと強く当てた」「集中攻撃」「パスをくれなかった」「急所に当てた」「転んでいるのに当てた」などなど。

私自身は、子ども達に対して、「望ましくない遊び」と嫌悪を表明している。
理由として、「しょっちゅうトラブルを起こす」「自分達でその場の解決を図りにくいために、解決せずにクラスに戻ってきて騒ぐ」「攻撃的であることだけがクローズアップされる遊びだと思う。名前も醜悪。」などである。
だからといって強権的に止めはしない。
友達付き合いの基本からトラブルは根気づよく解きほぐす。
しかし、他の遊びと比べ、トラブルの根源にこの遊び自体が抱える問題点は指摘する。

今のクラスでは「仲間内」大事さに無理に「かたき」に参加する子は減ってきている。
また、遊ぶ前に、ルールやトラブル時の解決の共通理解を図っているようだ。
でも、トラブルは減らない。(なんて因果な遊びだ!)

遊びは流行り廃りがあるが、この単純な遊びは、その単純さ故に、どこの学年でも一定量やっており、それほど減らない。

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教室の環境が「耳」に与える影響ついて(ガセビアかも)

2006-02-15 00:40:36 | 戯言
日々むげんさんのブログ記事「声の小さい先生」にコメントをつけていたらエントリーにおこしたくなったのでダブるけれど書いてしまいます。
(ごめんなさい、むげんさん)

実はこう書いたのです。(他の楽しい話題はむげんさんの素敵なブログを見てください。)
>同僚に合唱クラブ出身の人がいるのですが、声が落ち、聴力も落ちたと聞いて、我が身を振り返り、納得しました。
>私も(高校時代は合唱サークルで)上のBまで出るテナーだったのですが、今ではGもあやしい。
>そして、騒がしい教室のせいでしょうか、耳も悪くなりました。
>先生の声がみんな大きいのは難聴気味のせいかもしれません。
>職業病の一種として、あるいは教室環境が児童に及ぼす話として研究されてもいい内容のような気がします。

我ながら書いてみて、やはり心配になってしまって、エントリーにいれました。
ま、科学的なものいいでないので、まさに「戯れ言」レベルなのですが・・・。

教室はコンクリートの壁ですし、人数の割には狭いですから、反響音が本当はすごいことになっているのだろうなということは想像に難くないです。
教員は、そういった騒音を「聞く」だけでなく、自分もその中で、「(時にさらに大声で)話す」こともしますから、自分の耳に与える影響、負担は大きいのではないかと思います。

私は音楽を聴くのが趣味ですから、割と細かいニュアンスをつかみとったり、音程をコピーしたりする楽しみももっています。
が、最近、ちょっとその能力が落ちたような気がします。
カミさんからも、昔よりもテレビ、オーディオの音が大きくなったとぼやかれます。
たぶん、実生活上になにか問題が発生するレベルではないのだと思います。
こういった実感のある方って他にいるのかしら?

ただ、一方で、子どもはどうなのだろう。
学校で難聴になったってことはなさそうだし、これはガセビアになってしまうかな?

今度、イヤーウィスパーをして学校生活してみようかな・・・。
(絶対、文句出るだろうな。)(爆!)

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研究員の地区発表から感じたこと

2006-02-14 06:44:36 | 教育
私の学校から研究員が出ていたので地区発表があった。
国語だったのだが、今年度で研究員制度がなくなるので、国語の王道「読み」がテーマだった。
まさに総決算的な内容を目指したのか、とても盛りだくさんの内容に、ちょっと直接実践では用いられないな・・・という内容だった。
「読む」手立てだけでも、個人、グループ、全体と目まぐるしくかわり、最後に、その「読み」を「台本」という形で再構成するという展開。
これを1時間に収めるのだから強烈だった。
でも、さすがに研究員、できないことはしない。
なんとか授業は流れた。(これは日頃の指導のたまもの的な部分大)
きちんとした形式にまとめるだけでも相当神経を使っただろうという、一年の汗のあとが感じられた。

研究員制度は、研究員が各自治体の研究部との絆をもとに、あるていど自主的な研究が行え、成果もあがっている制度と私は理解している。
が、これが「研究」から「研修」にかわる。
「教師塾」というヤツだ。
トップダウンな研修制度で産み出されるのはキャリアクラスであることはすでに公表されている。
ヒエラルキーを強制的に構築する施策だと、狙いはバレバレだが、教育実践さえ崩壊しかねないことは、優秀な民間教育団体が無認可で無視をされている状態をみるとよくわかる。

さて、蛇足的だが、この地区発表に際して、自治体教育研究部顧問の校長が挨拶した。
「最近、学力が低下しているのだ。」「国語力、読む力が低下しているのだ。」
だから、
「指導要領が変わることは必要だ。」
という理屈。

この人は「国語部」のくせに、何もわかっていないのだろうな。
そう思った。

ところが、講師としてきていた、青梅市のMという女性校長は、その講釈の中で、
「PISAの問題等をみるにつけ、そうそう簡単な解釈(読解力低下など)を許してはいない。」
といい、新聞の切り抜きを示して、
「指導要領改訂について、新聞記事の示唆が見当はずれであるが、国語人としては国語教育が強化されれば・・・。」
と話をもっていっていた。

ははあ。この人は、私からみると誤解をしているように思えるが、自分なりに批判しながら、指導要領改「悪」ともつき合っていく腹づもりなのだな、
そう感じた。
こういう人の下だと、自分にとって有益な研究ができるかもしれないな、
そうも思った。

文科次官、学習指導要領で「06年度中の改訂目指す(asahi.com.2/13)
のような、狂った次官のいうことに一々振り回されたくはない。
拙のブログエントリ:脱「中央」の選択(岩波ブックレット)苅谷剛彦ほか:で書いたことに繋がるが、教委レベルのフィードバックを受け止めるシステムではなく、現場サイドのフィードバックを受け止めるようにしてもらえると、気が楽になるよと思った。
ま、一時しのぎかもね。

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健康の元「ニンニク」

2006-02-13 01:12:28 | 戯言
人それぞれと思う。
私は「にんにく」。

最近はみそ漬けや梅酢漬けなど食べやすいものが多く、重宝している。

何を隠そう、長男はとある助産院で出産したのだが、その助産院では様々な妊娠中や出産に関わる講習会があった。
そこで「にんにくアメ」なるものの製造方法を知り、カミさんに食べさせていたところ、鍋に残ったものをついでに・・・と私も食べ始めたのがきっかけ。
その次の日から調子がなんとなくよく、持病のゼンソクも出やすい時期に出ずに過ごせた当たりから、もう病み付きになっていた。
正直、別に味はそれほど好きではない。
とにかく調子がよいと実感できる。それだけなのだ。

今ではアメ作りをする暇がない(というかメンドーな)ので、市販品にたよっているが、これでも、
「健康にキクーッ!」
っと、ポーズの一つもとりたくなるくらいの状況なのだ。

以前はいろいろ試したが、性格上、安易なものに走りがちで、ドリンク剤、錠剤、サプリメントなど手軽なものへいく傾向があった。
もちろん、民間療法的なものや漢方なんてのは、実のところ周りにマニアがいたくらいで結構試した。
でもダメだった。
因に、やっぱり少々手の入っているものが効きます。
私には、焼き肉屋の「生のすりおろしニンニク」は臭いだけでそれほど効きません。(これが気付かなかった理由かも)

他の人も、「コレッ!」っと決めているものの一つや二つはあるのではないだろうか?

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脱「中央」の選択(岩波ブックレット)苅谷剛彦、志水睦美、藤田武志、堀健志、松田洋介、山田哲也

2006-02-12 04:24:16 | 教育書
発行からずいぶん遅れて読了してしまった。なんか読んでいて嫌になったのかもしれない。

タイトル通り、鹿児島県の教委が「中央」の思惑に対抗して、ネットワーク型モデルの教育行政の可能性を追求し、総合的な学習の時間を独自に解釈し、実践をつくりあげていく・・・って内容に・・・なってるの?これ?

なんか拍子抜けな部分はあるにはある。
たとえば、これだ!っていうつもりなんだろうが、
B中の「学校経営方針」における「重点目標」「努力点と具体策」の推移の表や、
同中の「総合的な学習の時間」の内容変遷(第三学年)の表などをちらりと見ても、
そのどこに独自性があるのだろうか?と思ってしまう。

今、他の自治体の教育課程と比して、何がユニークなのだろうか?

結局、どこの学校も文科省がぶれ始めたら「基礎学力」と言い出したのも、別に自治体教委に言われたからではない。

鹿児島の実践に直接異を唱えるつもりはない。
そうではなくて、ネットワーク型モデルといっている形が、何かトップダウンへの対抗となるわけではない。
ショックアブソーバ的なものかと思う。
地方の行政も咀嚼が必要という提言ではあるだろうが、この書が述べているような
「下」から「上」へ向けてのフィードバックが効くかどうか・・・(P67)
を議論しているもののようには私は受け取れない。

せいぜい市町村単位の行政単位のフィードバックは期待できるのかもしれないが、学校や教員からのフィードバックは、以前、無視されている点は変わらない。
少なくとも教員レベルでは、行政側の咀嚼レベルが真に実効性を伴っているとは思えないから。

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人間関係づくりの基本(かな?)

2006-02-11 09:42:45 | 教育
学校生活は多人数で過ごすことが基本です。
子ども達のキモチは多様で、起伏に富んでいるため、トラブルをよく起こします。
しかし、これは当たり前ですから、私なんかは、ぜーんぜん気にならないのです。

よく、その裏に親の顔を思い浮かべて対応しようとする先生がいますが、私はそんなに気を遣わない方です。
(というか、気が回らないのかもしれないが・・・自爆だなぁ。)


危険回避が目的の場合はさておいて、普通に過ごしている中でのトラブルは、当事者同士を付け合わせての事実確認から解きほぐしていきます。

時に、男の子の方が直情的な行動に移りやすいせいか、その行為の説明に際して、
「男だろ!」
と、性急かつ一方的な価値観で確認をせまる先生(女性である場合が多いと思う)に出くわしますが、「そうではないだろう」と思っています。
あまり、他の児童の前で見せられない状況だなと感じます。(特に女子の前では)

また、時に、話が収束し、次回からの注意事項を確認した段階で、
「仲直りの握手!」
と、終結の形をせまる先生がいるが、これも私は「そうではないだろう」と感じます。
(別に「形の指導」を否定はしませんが。この場合は先生の自己満足である場合もあるということです。)


私は子ども達によく話すのですが、
「人間関係上のトラブルは、それぞれの想いがみんな違うから起こるのです。だから起こるのは当たり前なのです。だからこそ、そうなったら、お互いだけでなく、周りの子も、ちゃんと相手を受け止めてあげてほしいのです。」
そして、
「自分の周りに100人いたら100人、同じように仲良くすることはできません。仲の良い人、悪い人、遊ぶのによい人、勉強する時の相手としてよい人、助けてあげなくてはいけない人、なかなか話せない人、いろいろなんです。」
こう確認して、結論。
「だから、友達と仲良くする努力はとても大切ですが、その前に、どんな人とも上手につき合えるようにして欲しいのです。そこが人付き合いの第一歩だと思います。自分で付き合いの輪を狭くしてはうまくいかない事が多いのです。」
そう説明しています。
「だから、喧嘩したときは、その瞬間、誤れなくてもいい。握手なんかしなくていい。だけど、絶対人付き合いをお互いあきらめちゃダメなんです。少しずつでも前向きに、うまくつき合う方法、話し合う方法を考えなくてはダメなんです。」
私は、人付き合い(人間関係作り)に関してそうまとめています。

最終的には、先生が間に介在して何かをする(してあげる)ではなく、自分達でいろいろ解決するためのスキルにまで到達してほしいのという願いもあります。
また、その前段階として、私のスタンスを説明することにもつながることで、私との対話づくりのきっかけにもなりますし、学級内でトラブルを解決する時、当事者間の対話を基調として、他の子ども達もそこに介在してよいという雰囲気もつくれます。
そして、「仲良くする」という交渉な理想への腐心に悩むのでなく、様々な状況でどう対応していくのかを考えさせるきっかけにもなると思うのです。
トラブルで人間関係を割り切るのでなく、トラブルを割り切ることで、人間関係の次のステップへ進むということです。

1年生くらいには、話自体が難しいかもしれませんが、2年生ぐらいでも、根気づよく話し続けていくと、1年ぐらい暮らせば、ずいぶん自分達の自制心を発揮したり、ちゃんと相手の話を聞いてあげたり、おかしいことについて意見をいったりすることができるようになります。
私の学級経営の根幹に、この人間関係作りの基本指導はあります。

もちろん、それ以前に、幼児教育段階で、謝り方、許し方などの基本ができていての話ですが・・・。
(幼児教育段階は大事だなと常々感じます)

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