怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

音楽回顧録「Kramer」その1

2007-05-20 08:17:52 | 音楽
写真はライブ版:STILL ALIVE IN '95 (Kramer Live in Tokyo, 1995):Kramer

Kramer。
90年代の米国インディで異彩を放っていたレーベル:Shimmy Discのオーナーにしてプロデューサー兼アーティスト(BALLやBongwater、ソロなども)。

90年代は大学時代に重なった事もあり、好きな音楽をよく物色した。
マニアックな趣味にハマるというのは独自性を好んだと言えば聞こえがいいが、結局は青春の蹉跌の一種なのかもしれない。

でも、そんな時期に吉祥寺や三軒茶屋にKramerが来ていたなんて、とっても誇らしい。

カンタベリー系人脈との付き合いも興味深いが、やはり彼もShimmy Discでやんちゃしていたところが好きだ。

Bongwaterの一連の作品は特に好きだけれど、それを解消して継続していく彼を愛おしくも応援したくなったのはこの作品だ。

Jealous Guy(John Lenon)が、In Dreams(Roy Orbison)がいい。
Bongwater時代の曲もいい。

Live盤をほめるのってキケンなのだけれど、これはイイ。

彼の怪しさや妖しさ、如何わしさ抜きの真摯でアングラだけれど良質なエンターテイメントを味わえる。
(それら入りは当然Bongwaterの各作品やBALLやShockabilyの各作品に当たるしかない。)
たまに引っ張りだして聴いてしまうし、頭をリフレインする。

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意味の無い定員増?

2007-05-19 19:53:08 | 教育
メモリーしようかどうか迷った。
法案が通るということは区切りなのだが、私には直接的に関係して来る時差があるからだ。
(もちろん教育基本法改訂からの一連の流れには反対している。)
本当の意味を身体で知るのは少しあとになる。

「世間の人はおそらくこれでいいと思う」か「教育には関係ないと思う」という人の方が多数なのだと思う。
子を持つ親でさえ、この意味するところを理解しようとしたり、政治的に、あるいは歴史的にどういうことなのかという点を想像する人は少ないのかもしれない。

ましてや、教員に対するプレッシャーを増やす事を当然視し、それが何かの改善につながると思っている人には、その結果がどう出るのかについて、マイナスには思わないだろうことも想像に難くない。

別に悲観はしていないし諦めてもいない。
そういっている私でさえ、他の法案に関して詳しいわけではないのだから、関心のない人がいようがいまいがそれは別問題だと思う。

ただ、記事にもあるように、マスコミは「重要法案」と捉えているのだ。
政治屋にとってもそうであるはずで、衆目を集めるところとなることを期待されてはいるのだと思う。
そういう意味で、こういった記事を通してでも、世間的に認知が高まるのを期待しないではいられないというのも正直な気持ちだ。

前ふりはさておき、定員増について。

今までの発言等の経過を見てみると、伊吹文科相大臣はこの法案に表出しているものとは別なものを狙っている気がする。

法案は法案として通過するのだが、一方で「教員の定数増」や「予算拡充」を横目でにらんでいる気がする。

ファッショ的な様相で法案が通るのだが、その影で教育界を下支えする人材確保と育成システムを(彼なりに)正常化するための基礎整備をしようとしている気がする。

もちろん、人材を確保しようが予算を確保しようが、こう現場の体制をいじられてしまってはそれを管理する部分を教委任せにしてしまうと水の泡になってしまいそうなのだが、ここいらへんも教委に対する指導権限力アップがまっていそうだからクリアできる課題だと思っているのかもしれない。

安倍が歪んだ教育再生などという悪夢のごり押しを進める背中で、自分のメスをどう前へ突き出すのかを伺っているような気がする。

どうだろうか?

ただ、それは見通しがない話にも思えてしまう・・・。
なぜならば、そういった交換条件的にいろいろ通しても、それはそれで既存の教育システムを悪い方にもいじってしまう部分があることになり、うまくいきそうにない気がするのだ。
それいぜんに伊吹文科相大臣の思惑通りにいくような物理的余裕が国にはないと思う。
たぶん、人員確保の為の予算はたいして充分にはとれないと私は思っている。

法案の内容についても少しだけ以下に述べておく。

>教員免許更新制度
教員の資質向上に役立たない事がわかっている。
具体的な例の一つとしては、すでに10年次研修が実施されているからだ。
それを通して教員の資質が向上しているだろうか?
(もちろん資質向上への効果の是非を問うているのではなく、負担から来る教育活動的なマイナス効果を問うている。)
それよりも事務的な講習会になりそうな免許更新に際する手続きは労多くして益はない。
(蔭山英男も指摘済み。)
つまりは予算の無駄遣い。
今までにあった責任経費の劣悪な施策と同意同様で、文科相役人関係と政治屋の机上の空論でしかない。

>副校長、主幹、指導教諭
いくつかの自治体で既に導入。
東京都では試験でなるため、主幹のなり手がいないので地盤沈下しそう。
大阪府では東京都の二の轍を踏まぬよう任命制にしたそうだ。

でも、現場では主幹がマネージメントと方針決定の部分の多くを担うため多忙化している。
平(ヒラ)はそろそろ適当に抗うよりも従うのみの方がエネルギーを使わないですむことに気がつき始めている。
必要以上の仕事はしなくなる傾向に入ってきた。(内部での責任転嫁が始まっている。)

これは平教諭を教室に閉じ込めていく結果になっていく可能性をもっている気がする。
同僚性は「共同の質の低下」という方向・意味で変質していくだろう。

これに対して校長の権限強化やリーダーシップを発揮せよと指示する輩は、なおさら学校経営的な視点から平を遠ざけている。
だいたいにおいて、そう言った事で名をあげよう、給与をあげようとする校長がもってくるものは、上意下達からで実態からのものは少ない。
だれが望んでつき合うのか?(同様に給与を上げたい人かな?)

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教育関連3法案、衆院通過 午後の本会議で(朝日新聞) - goo ニュース2007年5月18日(金)13:53
 政府が今国会の最重要法案の一つに位置づけている教育関連3法案が、18日午後の衆院本会議で自民、公明の賛成多数で可決された。同日中に参院に送られ、与党側は6月23日までの今国会での成立を目指す。

 可決されたのは、文部科学相に教育委員会への指示・是正要求権を与える「地方教育行政法改正案」▽副校長や主幹教諭を新設する「学校教育法改正案」▽教員免許に更新制を導入する「教員免許法改正案」の3法案。衆院では教育再生特別委で審議されてきたが、参院では通常の文教科学委員会での審議となる見通しだ。

 伊吹文科相は18日午前の閣議後会見で、3法案について「参議院の審議もあるので、緊張感を持って、成立を期してがんばる」と語った。また、特別委で政府に「教員定数と教育予算の一層の拡充に努めること」などを求める11項目の付帯決議が与党の賛成多数で可決されたことについては「法律改正がともなうので非常に難しいが」と断ったうえで、「多忙な教師の負担を緩和させるために、行政改革推進法を改正し、教職員の人員を抑えている枠を少し外して定数増をはかっていくことが一番大切だ」と述べた。

音楽回顧録「Janis Joplin」その1

2007-05-19 00:17:40 | 音楽
手塚漫画シリーズを少しやったことがあるので、たまには好きな音楽を下地に肩の力を抜いてみようと思う。

最近、頭にリフレインしたのでJanis Joplin。

この人の声について、人生について、時代背景について、ベットミドラー主演映画「パール」について、などなど語れば多いが、それらについては、どこかのだれかがかならず書いているので省略。
兎に角グレイトなシンガーであることは揺るがない評価だと思う。

その昔、自分で稼いだ金で初めて買ったのCDは4枚。
その内の1枚がこの人の「Pearl」だった。
当時、私はフリーター(死語?)だった。
現在でいうニートだったいってもいい。
でも、現在のニートとは違い、仕事はあったし、稼ぎもかなりよかった。
バブル時代というヤツだ。

ワンマンシンガロングスタイル(なんじゃそれ!)が好みであれば、誰しもがこの人の影響を受けないことはないだろうと思う。
特に、同性のロックなボーカリストは影響を口にする人が多いようだ。

強烈な情感をぶつけて来るその声は、ごり押しとも思える時があるけれど、マネしてだれも唄えないソウルがみなぎっている。
「心を込めて唄うってどういうこと?」の一つの答えがここにあると思う。
ただ、優しさも怒りも悲しさも激情である。

驚くべきはライブ盤よりもレコード盤の方が強烈だということ。
(もちろんライブ盤もすごい。)

自分のアーティスティックな意思が入ったという意味で彼女の到達点ともいえる作品だと思う。
でも紆余曲折の末に落ち着いてしまったというカンジではない。
ようやくアルバムというまとまりで、アーティストとしての自分を効果的に吐き出せたという印象さえ受ける。
この作品が、彼女が亡くなってしまったために1曲分の唄が未収録だという、そんな遺作だとはとても思えない生命感をもっているのは奇跡的だと思う。

ホントよく聴いたので、ほとんど空で唄えるものが多い。

よくライブやカラオケでよれよれのMoveOverを唸る輩に出くわすが、ちょっとカンベンと思ってしまう。
もっと言うと、このアルバムは捨て曲がないので、「きみのJanis像はMoveOverだけなのかい?」と、変にセンスを疑ってもしまう。
でも、名曲名演だろう。

私はJanisは「はしか」のようなものだと思う。
ハマった時はかなりの高熱だ。(でも乗り越えなければ次の音楽へいけない。)
そして、かならず乗り越えることができるが、その熱が再燃することはなく、それが物悲しいようにも思う。

横道にそれるけれど、同様にPunkもそんな「はしか」的なものをもっていると思う。
(もちろんどちらもハマる人とそうでない人がいるのは当然だが。)

とりあえず今でも大好きなアルバムなのはそうで、それは私の音楽人生にとって幸せな事だと思う。

特にといわれれば、「Trust Me」は耳コピーを敢行したことがあるほど好きだ。

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体育に関連して「感覚作りと技能」

2007-05-18 18:06:41 | 教育
「前転ができないんですよ。」
そういう話だった。
4年生である。

どういうことなのか聞いた。
「手がうまくつけない。支持ができない。だから頭をついてしまう。」
そういうことだった。

なるほど。ではどういう指導をしてみたのか?

「傾斜を作って転がしてみた。」

なるほど。そういう前転の常道的指導はある。
けれど、着手の常道かな?そう疑問に思った。
それは転がる勢いがない子への補助だろう・・・。
(基本的に体勢を崩す補助だと思うので、私はあまりしない。)

手をつくのは、体を支持する体制になったからするのだと思う。
それは感覚的なものだ。

屈曲して体を前に倒していくと自然に手を伸ばして支えることになるはずだ。

そこに前方への力が加わり、同時にへそを見るように首を曲げれば自然と後頭部位から落ちる。
そのまま足を投げ出せば、立てなくても前転の形にはなる。

もし前転に近づけるのならば、足を投げ出すと同時に縮め、抱え込む。
すると足の裏が体の回転後につくので、手でバランスをとって立てばよい。

「いや、手がつくと同時に曲がってしまったり、後方へ離れてしまうのだ。」という。

見てみないと正確にはわからない状況だが、着手して支持していないのだから、そういった感覚を身に着けることが大事ではないのだろうか?
たとえば「カエル倒立」「カエルの足打ち」「手押し車」、あるいは跳び箱型の運動をしてもいい。
そうアドバイスをした。

感覚作りから技能習得へつなげる指導の方針の一つだ。
(正直、それだけで自然にできるものではないと思うが・・・。)

で、ふと思い直した。
あれ?4年生だよなぁ。

今まで体育で何をやってきたのだろう?

別に「前転」ができなくても生きるのに困らない。
けれど体の調整能力的には感覚の発達が劣っているといわざるを得ないのだろうか?
いや、人間、体育なんぞの力をそういうものだけで判断はできないよ、というものなのだろうか?
それとも、そもそもこういう観点が間違っているのだろうか?

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早寝早起き早ご飯

2007-05-18 18:00:00 | 教育
違った「朝ごはん」か!

蔭山氏の実績と考えは前向きに評価したいとは思う。
自分に振り返ってみて、あの標語ほどポップな対案はないだろう。

事実確認の必要を説くのはだれしもやるべきだし、やっているだろう。
(もちろん世論やマスコミ、行政はそのかぎりでない場合があるが)
いろいろ出てくる対案に対して批判をぶつこともだれでもできるだろう。

課題となるのは自分で対案を組んでいくということではないだろうか?
また、それが広く認知されるものでなければならないし、そのためには実績や実効性を表現しなければならないだろう。

そういった意味で、自分が力不足なのはよくわかっている。

でも、自分なりに対案とならないまでも、「そうではない、こちら」と指し示すことはできないことはないだろうし、やらなければならないなと思う。

一介の教員なのだから、実践からしかものが言えないだろうし、それが正道だろう。

これからも大したことをいわないし、つまらないことでも突っ込んでいく。

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語感・リズム感

2007-05-16 06:38:16 | 教育
1年生の国語のはじめの方では、習ったひらがなを利用した言葉作りや言葉遊びがある。

音楽と合科的にやっているのだが、リズムに合わせて発声をしている。
詩の暗唱もいっしょにやっている。

手拍子、膝たたき、足踏みなどでリズムをとったりしながら言葉をいう。
ギターを出してラップのようにしたり、スキャットしたり、別な言葉をはさんだりする。
子ども達は縦横に揺れ始め、すわっていられなくなり、ダンスのように動き出す。
そうしたらしめたもの。

意外に発声が上手でない子はリズム感がない子が多いようだ。
あるいは身体調整力の発達の問題か、手拍子に合わせて読めない。
でも、次第にできるようになってくる。
リラックスも大事な課題だ。
「楽しい」とだれかが叫べばしめたもの。

音楽では曲を中心にはするけれど、身体を動かしながら発声させている。
手遊び唄もそうだけれど、そういったことが私は大事だと考えている。
休み時間などに友達同士でやっている姿がでてくればしめたもの。

次回は震源地ゲームでもやってみたい。

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携帯替えようかな・・・

2007-05-15 00:15:48 | 戯言
今、J-Phone時代最後の機種を使っている。
そろそろバッテリーがへたりだした。

カミさんのもそこそこだが、私のモデルよりも1.2年は新しい。

大画面がうらやましい。

なんでも、最近はボイスレコーダーつきもあるらしい。
「話す・聞く」の授業や、校長面接のときにつかってやろうかしら。
iPodの前に携帯で音楽を聴くのもいいかな・・・。

うーん。もう1年待つか・・・。

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ぶりかえし

2007-05-15 00:12:21 | 戯言
最近また眠れない。
3、4時間くらいの睡眠というのは、その数字の実態が個人的に応える。
(ま、昨年の寝れて1時間半よりはいいか・・・。)
どっかで精神発作的になり、どかっと倒れるように眠る日もくるのだろうけれど、今はイマイチ。

とても眠る人間だっただけに、キツイ感じはぬぐい去れない。
(今回は予兆がなかった・・・。コマッタ。)
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大量にエントリを増やしている

2007-05-14 23:26:47 | 戯言
前にもこれをやったことがある。
コレクター気分でやっている部分を自覚している。

でも、今回はそれに加えて、前のエントリを覆い隠す意味をもっている。
また、読み手を意識しないで、少々ラフでもあとで調節すればいいやという気分で、できるだけ自分にかぶってくる責任的なプレッシャーを拭うようにしたいと思ってやっている。

自分のそのときの気分や思考過程が雑然と記録されている方が、実際の頭の思考過程に近く、リアルかなと思ったからだ。

ランキングアクセスの「教育ブログ」において、1日1回更新程度に数字が戻ったらペースを緩めたい。

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改憲法案成立

2007-05-14 16:28:07 | 教育
憲法の改憲条文の実効性をもたせようという法案だが、「なかったからそれを作る」というのは正当なようだが、その経過を無視していいわけではない。
「なぜこの時期に強行してさえつくろうというのか?」に応えない点で、悪意ととられても仕方がないのではないだろうか。

そんな言い方ないだろうが、ここではそういった強行の意思を「悪意のある正当性主張」という定義でいきたい。
結局、「はじめに改憲ありき」なのだ。
また、つまりは9条だとも思う。

というのは全国的にこの改憲議論に関して「そこに注意しろ」と声をあげている9条の会の運動をみても、自民党(民主党もだが)達は呼応しようというふりさえ見えない。

それは「護憲」という立場の泣き言ではないか?という「改憲賛成派」の指摘に対してやっぱりいいたい。

では、なぜ(特に9条を)かえる(かえたい)のか?と。

その議論とセットでなければ「悪意のある正当性主張」というそしりを受けても仕方がないのではないだろうか?

「悪意」で結構というのであれば話にならないが・・・。

また、これも言いたい。
全国民的な議論を待たずに改憲することになった場合、その実行による不利益が出た場合、責任はどうとるのか?

一応補足すると、民主的な手続きを簡便化し、程度を下げてまで憲法をかえるということは、憲法というものの性質上まずいのではないのか?と。

では「改憲法案」は不要か?という問いがでるかもしれない。

それは全国民的な議論が改憲の意思を示してのちにでも法案は成立しないか?
(少数意見など聞く耳もたないとばかりに)手続き的に進める現在の改憲法案論議は異質異常ではないのか?
過去に国策として旧憲法が国策が手続き的に犯してきたあやまりを踏む機会になりはしないか?
こと憲法に関わる問題は他にかえようがないほど重要ではないのか?

国政をバランス的に考える人にはなおさらいいたい。
現在の体制翼賛的な資質をもった自民公明民主各党の状況はおかしくないか?
右傾化する世間の様相を感じないか?

私は極めて反対だが、それに近い者たちは声をあげにくくないのか?

国旗国歌法の時もそうだった。
成立の経過はいかにも機に乗じてという感じだが、結局は少数意見の無視、現場などの声を無視したものだった。
成立すればそれを盾に議論をすすめる暴力的な連中がはびこった。

9条をかえ、憲法の性質がかわれば、それを盾に、経過を無視した議論がさかにんになることは必定だと思う。
できればそういった厚顔無恥な連中とのやりとりは勘弁してほしい。

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再生だとか再興だとか

2007-05-13 20:06:18 | 教育
NPO法人日本教育再興連盟というのがあるのを最近知った。
昨年の春に活動を始めたようだ。

発起人は、
鈴木寛:世界で一番受けたい授業の著者。参議院議員(民主党)。中央大学客員教授。元通産省官僚。
「杉並区立和田中学校、三鷹市立第四小学校、足立区立五反野小学校、京都市立御所南小学校」などを教育再生のキープロジェクトとして捉えている。
そして、言わずと知れた蔭山英男。

その団体が「教育再興フォーラム2007」を5月26日に東大本郷キャンパスで開く。
なんと教育再生会議のメンツを含む登壇者を予定している。

陰山英男(NPO法人日本教育再興連盟代表理事・立命館大学大学教育開発支援センター教授・教育再生会議委員)
品川裕香(教育ジャーナリスト・教育再生会議委員)
鈴木寛(NPO法人日本教育再興連盟代表理事・参議院議員)
藤原和博(NPO法人日本教育再興連盟発起人・杉並区立和田中学校校長)
義家弘介(内閣官房 教育再生会議担当室室長・横浜市教育委員会教育委員)※ビデオ出演を予定

こき下ろしやすい義家は(逃げているのか)直接は出ないので、つるし上げの会にはならないだろうが、直接的に再生会議に対してものを言えるのであるとすると、それなりに意義はあるのかもしれない。
文句のある人は集ってみるといいかもしれない。

しかし、「再生」だとか「再興」だとか、ネーミングがどうにかならないものかなと思う。
最初はあの趣味の悪い日本教育再生機構かと思った。

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ボディブローのように効いてくる:その2

2007-05-13 12:21:33 | 教育
今朝のテレビで山谷(悪女)えりこと伊吹文科相大臣、尾木直樹が出ていた。
どうやら子育て提言撤回の話をしているようなのでチャンネルを止めて観てみた。

山谷はことごとく質問に対してはぐらかし、教育再生会議の実情を伏せた。
「ちゃんとやっていますよ。」
といいつつ、そうは見えない事実に対して反証しない。
結局は「そうではない」ということだ。
確信犯とはかくありきである。

尾木も触れたが、具体的には例えば最近の第11回学校再生分科会の次第などをWebで見てもめちゃくちゃ偏っている情報を受けて井戸端会議を繰り広げている。
教育再生会議とは、そういう場なのだ。
素人集団が勝手な想いを吐くのは勝手だが、場をわきまえない、その内容が政治的な意味をもってしまう、山谷のような確信犯はそれを利用する、そんなことが大問題なのだ。

結局リークされたものは(一言一句ではないにしろ)その背景は事実で、「ちゃんとやっています。」なんて厚顔な嘘は信じられない。

伊吹大臣はいつもの調子で筋を通し、教育再生会議からの発信を受けて中教審が動き、施策を立てるとは言わない。
そして、これもまたいつもの調子で「国会」が(この間は「安倍」が)最終的に決めるということで自分の示唆や方針決定の責任を回避・軽減していた。

中教審の議論が政治的な指向性があるために核心に至らない事を嘆き、あえて身を引いた藤田氏(現基督教大学)などを想像するにつけ、「再生」しなければならないのは安倍の側だろうと言いたい。

(念のため:「教育(施策)」は(現状のような)「政治(性)」を持つものだということを言う者は中立性や独立性がわかっていない偏向教育推進者である。)

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mixiでもアンチ山谷えりこのコミュニティがあるが、当然私も参加している。
蛇足だが、「言う事やる事大嫌い」とここに宣言しておく。

ボディブローのように効いてくる(子育て提言撤回)

2007-05-13 07:18:14 | 教育
悪魔のような提言だった。

しかし、朝令暮改的な話で一安心ではなく、こういった人たちが出す酷く悪い提言がこれからも出て、ひいては周りの様子を見ながら実施の方向で動く可能性があるということが問題だ。
発言の様子では安倍は懲りていない。

やはり教育再生会議は潰すべきだ。
加えて、選挙による審判を受けていない施策をごり押しする安倍と内閣は退陣すべきだ。

こういうことで右往左往する者がいるということは、それだけの疲弊を生んでいる。
それが後から効いてくるのではないだろうか?

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「子育て提言」見送り、教育再生会議内で慎重論出る(読売新聞) - goo ニュース2007年5月11日(金)11:52
 政府の教育再生会議(野依良治座長)は11日午前に首相官邸で開いた合同分科会で、当初検討していた子育てに関する緊急提言について、取りまとめを見送る方針を決めた。

 提言は、家庭教育の重要性を訴えるのが目的で、具体的には、「授乳中はテレビをつけない」「早寝・早起き・朝ごはんの習慣化」などを盛り込むことを検討していた。だが、政府内や委員から「母乳が出ない親への配慮が必要だ」「提言の政策的な裏付けがない」といった慎重論が出たため、提言の見送りを決めた。

 同会議は提言を見送るものの、5月末にまとめる第2次報告にはこうした項目の一部を盛り込む考えだ。

 合同分科会に出席した安倍首相は「第2次報告は『学校教育』『大学・大学院教育』『社会総掛かり』『学校・大学応援プロジェクト』が4本柱だ。会議の議論が物議を醸しているが、批判を恐れず、活発な議論をしてほしい」と述べた。

食育が国策?

2007-05-12 23:19:41 | 教育
「食育」って、誰が言い出して、どのような方策で、どのような達成イメージがあるのかは誰も知らないのじゃないかな?

「食」をする「個人」の問題に責任を帰着しがちな暴力的側面を忘れてはならない。
ましてや変な政治家や一部の偏った料理人が言い出し、自民党お得意の突貫工事で偽野党どもと結託して決めた施策なんて・・・。

教育現場でいい迷惑だよ。

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「食育」知る人は65%、理解は33%…内閣府調査(読売新聞) - goo ニュース2007年5月12日(土)19:45
 内閣府は12日、「食育に関する意識調査」の結果を発表した。

 食べ物や栄養などに関する正しい知識を身につける「食育」という言葉を知っていた人は65・2%で、2005年の前回調査(52・6%)に比べ、12・6ポイント増えた。ただ、正しく意味を知っていた人は33・9%(前回26・0%)にとどまり、内閣府は「啓発活動を強化し、食育への関心を高める必要がある」としている。

 家庭での食育の実践の実態については、「毎日朝食をとるなど規則正しい食生活に努めている」「栄養バランスに気をつけている」が、それぞれ9割近くに達した。ただ、「必ず気をつけている」人は、「規則正しい食生活」が約7割、「栄養バランス」が約3割にとどまり、実践面でなお不十分な面も浮き彫りになった。

「国語」の近代史(中央公論新社)安田敏朗/著2006.12その2

2007-05-12 23:10:02 | 教育書
前にもエントリした続きだけれど、本書へのコメントでは内実を語れない。
私自身の話として裏がある。

国字研の例会で読み合わせ研究をしている書なのだ。

で、今日はその例会におじゃましてきた。
前から行きたかったのだが、(文字通り)いろいろあって行けなかったのだ。
だから念願がかなったというところか。
(子育て中の家庭的には非難囂々なのだが・・・。)

閑話休題。

私自身はまだ全体を読了前でもあるし、なかなかこの分野自体の全体像もどう捉えていいかわからないので、例会の進行に身を委ねた。
K先生が序章までのいいレジメをきってくれていた。

話題は私も疑問だった「自然さ」というところにもいったので、こうして複数の人で読むというのは安心して考えられると感じた。

「言文一致」の「言」である「音声言語」というのはネイティブにそこに存在しているものだから「自然」なのではないかな?と感じた。
対して「文」の「書き言葉」だが、こちらは歴史的に特権階級が握っていたり、階層差が生じていたりする。
「言文一致」に関して成り立ちや運用の違いから「せめぎ合い」が必然的に生じる。
そう理解した。

一方で、その施策をだれが先導したのか?という疑問を呈していたK先生。
確かにそれは具体的に「だれ」とは指せない。
歴史的には明治維新、大戦や植民地の拡大をきっかけに国力増大と国民掌握の要求に伴って政治的に発生してきたといえるのだと思う。

最近の話題として、古典主義、暗唱主義(造語だが)に教育の施策が傾き始めている。(文化審議会など)

私なりの見立てとしては、それは「復古」であり、「権威」の増強である。
「文語」が「美しい」とされると、それは価値観の押しつけでしかない。
形式的な「暗唱」(指導)が「素晴らしい実践(教育)」とするのも「強権」でしかない。
「復古」は時代にそぐわないだけでなく、政治的、ナショナリズム的な軋轢を生む。

「国語」を国家統治のアイテムだとする輩にはわからないだろうが、思想・信条の自由とはそういうことを許してはならないだろう。
現在の日本では民主的でもない(はずだ)。

国字研の基盤が「言語意識直結観」なのだそうだ。
対抗が「言語伝達手段観」。
これは軽いショックだった。
私の国語研究の基調は後者による価値観の浸食でなりたっているものだったからだ。
前者を少し学びたい。

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文語調復古主義の斉藤孝は単なる技巧、技能に精神主義をプラスした偏重の教育研究者だと思うが、暗唱実践でも有名な蔭山英男は単純にはそうではないようだ。
特に、漢字の実践では早期履修後のドリル学習に頼る実践をもっていた。
しかし、尾道の校長実践で、そのメソッドに従いたくない教諭が、字源やその人なりの手首化を基調にした指導で蔭山実践を乗り越えている。
蔭山氏自身がそのことを素直に認め、よい実践であることを評価している。

あ!
今、気がついた。
今日さんから言語意識直結観について触れられている本を購入するのを忘れてしまった。
しかたがない。次回か。