怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

明日から新学期

2005-08-31 22:00:41 | 教育
ここ数日睡眠がうまくとれない。
へんに目が冴えて真っ暗でも起きていたり、夜中に何度も目が覚める夜があったり、昔の失敗が夢でよみがえったり、とにかく自分でも理由がわかっているのだがとめられない。
まあ、いつもこうなのだから仕方がないかとも思う。
まわりの人の話を小耳にはさんだ分では、結構こういう人(教員)は多いようだ。

サービスをつくす業種の人もそうなのかな・・・となんとなく思う。
人相手という以前に、自分の工夫・努力は終わりがなく際限がなく・・・そう考えると滅入ってしまう。
最近はずぶくなってきて、ここまでやったら止める。そうでないと次ぎに影響する。
と、自分の体力などと天秤にかけてやっているけれど・・・。
それでもしばらくするとヘロヘロになっている自分がいるのだから笑うしかないけれど・・・。

そう。
笑顔で。
何はなくとも、一番だと思う。
自分にも、子どもにも。ピグマリオンに願をかけて。
深呼吸。
リラックスして、明日は早朝出勤で気合いを入れよう。

異常高騰がとまったかな?

2005-08-29 22:09:01 | 戯言
ブログの恐いところはアクセス数を確認できるところ。
私はアドバンスに申し込んでいないので(カード決算嫌いゆえ)どこからのアクセスかを知る手立ては(裏技を使わない限り)ないのですが、先週のアクセス数は倍以上になっていたのでちょっとびびっていました。
アクセスが増えると「あれ?注目されてきているのかな?期待に応えて記事のアップをがんばらねば。」なんて色気を出すとはまる。
疲労のスパイラルに陥る。
ブログはそういう一面があるものだと思います。

まあ、ブログ先頭に注意書きを書いたせいか何なのか、アクセス数の割にはコメントやTBが少なくなく、精神的な意味で、今回の歯止めの一つにはなったが・・・。
これでへたにコメントがつくとエディタに推敲する時間で睡眠時間を削ることになってしまう。
寂しさはあるが、こんなペースが通常だよなという気分。
個人的にはアップが不定期で、文章量も多いので、読みにくいブログだよなーと勝手におもっています。
そういった意味で、コメントをつけてもらう前に読んでもらえていないかもね。
モノ言わば唇寂し・・・とやらの感覚もあり、どうしてもこういう形式からは抜け出せない。
ま、何にしても細く長くかな。
少しずつ進化していけれいいな。

アクセス数が減ってホッ。
でも、独白でも困る気持ちはあるな。(ああ、ブログ病)
減ったのは夏が終わるからかな?

早めの始業式(学力低下対策?)

2005-08-26 22:47:22 | 教育
<和歌山>学力低下対策で夏休み短縮 新宮yahoo News((朝日放送) - 8月26日19時26分更新)

割れ鍋にとじ蓋の対策。
>学校が週休2日制になり授業日数が減ったことで、新宮市では、保護者から、
>「学力が低下し、子どもの社会性が損なわれるのではないか」
>などといった不安の声が上がっていました。
>そこで市の教育委員会が、夏休みを短縮し授業日数を増やすことに決めたということです。
何のための週5日制なのだろう。
別に週5日制の賛否がどうこうではなく、こういうことをするならば、正当に批判をすればよいだけのことだと思う。
この自治体の住民(保護者)の声というのはよくわからない。
教師も子どもも、学校の実態さえ不在の状況を元に動く教育行政側の人は、すさまじくそういったセンスがないと思う。
こんな風に学校文化というものがなし崩しになっていくのかもしれないと感じた。
風が吹けば桶屋が儲かるよりはよほど可能性が高い話だと思う。

こっちも同じだなぁ。
夏休み短縮 東京・葛飾区立中学校で 学力向上目指すyahoo News((毎日新聞) - 8月25日17時19分更新)
理由が東京都らしいなぁ。(個人的な所感だが)
本末転倒という言葉を思い出す。
こんなちぐはぐな状況を子ども達はクールに見ているのだろうな。(これも個人的)

義務教育を問いなおす(ちくま新書)藤田英典

2005-08-25 12:55:48 | 教育書
今、読んでいる本。今年の8月10日発行。
ちょーおすすめになりそうなので、読了前にブログに記録しておきます。
中教審の状況も含めて、とにかく興味津々で読み進めています。
岩波新書の「教育改革」から8年。
現在ある教育のシステムに関わるものに社会科学的な目をむけて論を展開しています。
今、これを読まずにはに本の学校教育の将来は語れないかなという気分になっています。
ある程度の体力を必要とする本だけれど、読んでいて興味がつきないところです。

「ダメ教師」の見分け方(ちくま新書)戸田忠雄

2005-08-23 23:43:11 | 教育書
おおよその主張は学校改革の中心を教師改革におき、教員を外部評価(藤田英典の言葉をかりれば、当事者評価)によって意識改革していこうというものであると思う。
当事者評価を学校運営に生かそうというねらいは決して的外れではないと思う。
しかし、戸田の学校(教師)イメージを極端なモデルを多様して説明しているように思えるため、抵抗を覚える。
しかも、この本のタイトルは内容から剥離していると思う。はっきりいってヘンだ。


いくつか批判点を述べたい。
一つ目。
戸田は言う。「小中学校の教師は井の中の蛙のようなもので、授業研究を唯一の口実に向上することをせず、型にはまった授業しかできないものが多い」(大意)と。
戸田が言うように、授業研究はなれ合いか?といえば、全くの誤解で、ましてや現場におもむいて教師の指導・助言を行っている佐藤学の言葉を引用し、これ(授業研究)が教師の独善を生むとしている。
対して、自分の行った教員向けの研修例は予備校の授業参観だけであったりするのだからお笑いである。
別に予備校の授業にけちをつけるつもりはなく、洗練された知識注入の形を学ぶには多いに利点はあるだろう。
しかし、これでは、教科書も含め外部評価にさらされているかどうかで質を問おうというような論調には甚だ疑問を感じる。
例えば教科書において、特に公教育では、最大公約数的にしぼり込んでいけばイデオロギーの縛りはほどけるかもしれない、しかし、ポピュリズムの台頭や「つくる会」の念の入った根回しなど、民主的に成熟していない市民社会において、決して単純にことは運ばないはずであるし、全国展開しようにもちょっと穴が多い施策だと思う。
また、戸田自身が述べているが、教育業界は採用即一人前である。
授業研究がもつOJTは非常に効果が高いし、そのことが教員の連携強化にも繋がったり、学校独自のカリキュラムに繋がっている例を考えると、一刀両断に切って捨てて良いのかと思う。戸田の良識を問いたい。

二つ目。
校長の権限強化についてだが、これをどのようにサポートするかで、その先に見える教育的な成果は異なってくるだろう。
本書では具体的に「学校公開」に的をしぼって説明がされている。これは教師の現実を白日にさらす機会であって、戸田のいう、「営業力」の強化にはなくてはならなかった施策であり、客観性の確保であろう。
今や「学校公開」などは日常化している時代であるので、情報公開の功利は地域協力への第一歩であるし有効であるのは自明である。
戸田の文章から受ける所感から、あるいは苅屋などの主張を参考にすれば、保護者の要望は「子どもへ学力」をつけてほしい。つまりは「学力」によって「階層間を飛び越えさせたい(あるいは高い層を維持したい)」ということであるから、自分達の地域で受けられる教育の質の向上は、「教科指導」を中心に語られることになる。
もちろん、教育の質の向上は「学力」だけでなく、「よい育み」も望まれているのだが、それも一重に自分の子どもの可能性を、現社会で生き抜くために必要な社会性を付加させる中で、向上させるための口実とも捉えられるのではないだろうか。
話をもどすが、ここではそういう風に要望をとらえて、学校を経営する「校長」という立場は、その独立性と権限をその責任のもとに保障されてしかるべきではあろうと考えている。これは校長が学校を経営するためのリーダーシップを確保するという意味では一理ある。
一方、ここで、戸田が管理職に昇進する障害も組合に原因を求めている。戸田のいう現実にあった学校世界ではこれも正当に成り立つ理屈に聞こえる。
しかし、私には、その障害を取り除いた上でも、全教員が昇進を前提に教育活動をしても実りは想像できないし、これについては学校教育のシステムの大きな課題とふまえる方が現実的のような気がしてならない。

三つ目。
学校側(特に現場教師)の営業力を疑うのは一つ筋があるが、学級崩壊などについてまで適応するのは疑問だ。情報の非対称性を持ち込んだまではよいが、学級崩壊という問題が過去にはあり得なかったのであることを考えれば、教師の指導力の低下とみれば、教師世界のOJTがなっていない、教師同士のコンセンサスさえ疑われるということになるか、子どもや保護者やその社会的環境が変化してきたと考えるのが自然であって、「子ども人質論」まで出して、教員による情報の隠ぺいや情報収集を怠ったなどを理由にあげるのは、昔のことでもあまりにも一面に偏っていないだろうか。当時の教育を受けた者にとっては一部の否定で全否定をされるような感触だ。困惑するしかない。

四つ目。
「教員は年度単位で単独行動するようなものだ」というような記述があったと思う。教師は単独ではなく、(これからも)学年や学校単位で行動するようにしなくてはならないだろうし、OJT部分だけでなく、中期的な見通しを(管理職からも)意識していかなければいけないと考える方が自然だと思う。

最後に。
教師のサポートについての問題点は棚上げされたままのようである。指導力強化に関わるもの、メンタル面のサポート、その他の保障はどうしても必要だと思う。教師を年俸制の野球選手に例える部分があるが、我々教員は使い捨てでは困るシステムの中で働いている。野球選手なら2軍もあれば、その下のアマチュアなどの層で支えられているではないか。教師は採用即一人前なのだから、この点は考慮されなければならないだろう。
尊敬する子安先生のブログにこんな一文があった。
>教師の仕事は、去年うまく行っていたからと言って、今年も同じことをしていてうまくいく保障があるわけではない。
>失敗するやり方に法則性はあっても、永遠にうまくいく法則なんてない。
>そんなに簡単に人のことはわからない。
>わかったと思っている人は、人間の考察力がないだけだ。

競争の原理の導入は教育業界の風通しをよくしそうだが、新たな問題をはらんでいることを忘れてはならないし、その対策も今考えられる分くらいはとっておかないと駄目だと思う。
教員を塾や予備校のような商用ベースにのせても教育は豊かにはならない。

教育の社会学「<常識>の問い方、見直し方」(有斐閣アルマ)苅屋剛彦、濱名陽子、木村涼子、酒井朗

2005-08-22 21:48:31 | 教育書
著者の順に、4章「学歴社会」の変貌、2章「幼児教育の変化」、3章「ジェンダー教育の歴史」、1章「いじめ問題と教師・生徒」を担当して書かれている。
有斐閣アルマシリーズとしては、学生を対象にした教科書のつもりなのだろう。よくまとまっており、読みやすく編纂されている。また、レベルも示しており、一応、専門科目として学ぶ人を対象にしている。

ネットで読んだ書評には「専攻選択学年対象ぐらいではないか?院試には使えないレベル。」といったコメントがあったが、教育社会学全体で話題になっているものを俯瞰するにはもってこいの教科書であるし、多くの図書紹介があり、ここから始めることができるという点ではよい入門書だと思う。
そして、この一冊の一番の読者は学生なのだろうが、学生ではない、私のような者にも助かる本である。

2000年発行の本であるが、現在でもよき示唆を読み取れるし、教育を外から分析するための視点を学ぶことができる好書である。各章には自分なりにとり組む課題が配され、引用、参考の文献とともに勉強しやすくなっている。(おかげで、買わなければいけない本が増えた。)
個人的に残念なのは周囲にこういったことを語り合える同志がいないことぐらいだろうか。

私なりの目玉かなという点を二つあげてみたい。
一つは、3章について。
今年度から現場教育界ではタブーとなった「ジェンダー」に関しての記述は、タブーになった経緯が如何に誤解を生む問題をはらんでいるかが理解できる。「フェミニズム=ジェンダー」というイメージから抜け出せない人は読んでみるといいかもしれない。
二つは、この本のトップネーム、中教審特別委員の苅屋氏の4章。
彼の教育界に対する大きな主張の柱の一つ「学歴社会と階層間格差の問題」に関して、根を掘り下げた説明がなされているのは興味深いものであるし、現在の中教審の論議に触れる可能性があるもので、よく理解したい。
もちろん、1章、2章もすこぶる参考になるコンテキストをもっており、読み飛ばせないのはいうまでもない。

指導力不足教員の調査

2005-08-21 23:58:38 | 教育
<教職員調査>566人が指導力不足 問題教員、依然多く(毎日新聞) - 8月10日7時12分更新

この手の報告で気をつけなければならないのは、「00年度に認定が始まってから最多を更新」のように、一見、問題の悪化のように受け取られるコメントである。
実際にはこの認定を用いる定義決定やその徹底について徐々に進んでいる状態であることは多くの人が指摘しており、それゆえ事態の増加・悪化ととらえるよりも、報告が適正化ないしは強化されてきたという捉え方の方が正確ではないか。
まだ4年(4回)しかたって(報告されて)いない段階で、増加傾向を恣意的に捉えないでもらいたいものだ。
その強い根拠としては、報告数の地域差が顕著であることをあげればよいだろうか。横浜、千葉、三重だけが指導力不足教員を多く抱えているというのはおかしな話である。
また、愛媛県教育委員では、県立校を対象に、「各校1名の問題教員の報告」を命じ、事実が表面化し大問題になっている。
この手の調査がいかに恣意的かつ作為的な側面を抱えるかの(悪い)好例であろう。
評価したいのは、このような認定が実数として報告されるようになってきたことである。
これからの対応としては、こういった教員を出さないよう、どういった教員育成プランを立ち上げるかや、そのためのサポート体制を整えるかであろう。
これがないと単なる魔女狩りで終わってしまう可能性がある。

一方、危惧される点としては、団塊の世代の退職ラッシュを控えて、近年新人の採用が極端に増えていることである。
教育のシステム改革を考えた時、「指導力」とは何か、教職の「教務(仕事内容)」とは何かをもっと明確にしなければならないと思う。
そして、現在、学校(特に公教育)が抱えている多忙観を一掃する手立てを講じつつ、適切に教員を育て、(教育的な)新規事項に対しても新人でない教員も含めて対応できるサポート体制を確立しなければならない。
つまらなく金のかかりそうな免許更新制度でなく、こういったことの方が実益があると思うし、保護者や地域の理解を得やすいと思うのだが、どうだろうか。

横道にそれるが、今の急務は子どもの教育環境を整える意味でも、教師のよりよい教育活動を確保するための学校改革であると思う。
政治や思想偏向のために教育基本法をかえている場合ではないのである。
そのためには活動的な教師に対して積極的評価をし、その実践を広げ、充実するためのサポートをすることが必要なのである。
(ここで注意したいのは、売名校長の活動ではなく、現経営を維持する形のもとで教員のレベルアップを広くはかることを第一段階とすることである。そうでないと、ただでさえ事務的になり、求心力を失っている校長のリーディングでは、人材力や連携力をはかることができにくいと考えるからだ。今は、根のない「英語教育」だとかいわないで、「地域としての学校(おらが学校といいかえてもいい)」の力を高めることが重要だと思う。)

ものすごい観念的な偏見を展開してみたい。戯言の極北である。
東京都の場合、特に30代前半は(バブルの弾けた時期の)比較的厳しい採用を突破した(近年の教育改革の波を直に身を以て体感してきている)者達を多く含んでいる。
邪推と言われてもいいが、私は、わいせつ行為とセクハラによる懲戒処分の多い30から40代の者達は、逆にその波に飲まれ、乗り切れなかった者を多く含むのではないかと考えている。
割りに楽に教員になれた世代ともいえ、団塊の世代に疑問を感じながらも迎合したり、疎外感をつのらせたりしてきた者も多いのではないかと感じている。
それは教員の資質云々でなく、教育行政の人材育成に対する過去の無策を示しているものだし、労資のイデオロギー対立の負の財産でもあると考えている。
今の20代をぎゅうぎゅうに研修漬け、報告書漬け、トップダウン管理においているのは、噴出する現在の問題に対して、そのつけを若い者にまわしている悪例なのではないだろうか。
最近異常に(当事者の時間浪費と肉体的精神的負担ばかりで、事務的に処理されるだけの読まれもしない報告書の厚みが)強化された10年次研修も同様である。
だいたい「教師の資質」などというものは、元来その人に自然に身に付くものと考えているというイメージが間違いなのである。
今や育てがいのある、あるいは使える30から40代はみんな管理職選考に追いやられようとしている。
教育無策のだめ押しである。金の無駄遣いである。見通しもなく人事に関わっていたものは全員断首すべきだ。
あと10年は使えるであろう人材を雑務、雑事に等しいキャリアアップに力をそごうというのである。

教師のライフヒストカルなイメージは、その多くが平教員ではないだろうか。
新人になりたての者に「校長になりたいか?」との意識調査をしてみればわかるだろうが、現実問題、管理職になれる人員も限りがあるのだし、一生平で終わる教員の方が多いはずである。
教育的実践や研鑽を大切にし、児童の育みに余裕をもって携われるようにするためには、それ相当のサポートが必要である。
今の教育を広く理解してもらうためには、学校教育の隠れたカリキュラムのように隠れたシステムをもっと公にしていく必要がある。
PTAや地域の活動に参加・連携(しようと)する姿、教師の何気ない連携、広く地域をみた場合の人的交流による影響、実践研究、学校外の教育的施設・サポートの利用に関わるもの、地域や人材の教材化などは具体的にあげられるだろうか。
それら一つひとつに吟味を加え、スリム化するのか、他へ委譲するのか、強化するのかを決めていかなければ、学校は民生委員やカウンセリングだけでない、雑事をこなすコミュニティセンターになりさがるのではないだろうか。
金銭的、人的サポートもなく、開かれた学校というのはそういうことを目指してもらったら困ってしまう。
以上、戯言の極端でした。

PJ諸尾という人は与太者か?

2005-08-20 18:11:30 | 戯言
元ネタ「先生、忘年会予約しました? 【PJニュース 07月27日】

この人の論理展開は凄まじい偏見に満ちている。
話の発端は、半年前に忘年会を予約する先生は形式主義に陥っていて、お役所仕事的に物を考えている輩だと印象づけている。
そして、たまに話をする(おそらく特定の)学校の先生からの情報・印象をもって、「学校は正しい手順や内容(のみ)を教えている」とし、その結果は「理解できたか、人格形成」などは責任をもっていないと決めつけている。
果ては「学力低下もニートも、先生たちは結果に対して責任を負わず、方法が正しいから責任がない(先生が思っている)と感じてしまいました。」とくる。

言語道断とはかくの如くありやである。
各論的批判は5時から先生すくーるなぶろぐく小学校校長のお仕事に、すでに多くのことが書かれているのでゆずるが、それとは別に感じている部分を書いてみたい。

私は以下に自分の意見も付け加え、ライブドアに抗議したい。
私立学校や予備校、塾と比較しているところだけを鑑みても、成果主義や新保守的な考えだけで教育を語ろうとする偏見の持ち主か、単なる与太者かわからないPJ諸尾という者は、少なくとも公立と私立のになってきた役割の違いや、学校と予備校、塾の機能の違いが理解できないか、勉強を怠ってきた相当に頭の悪い記者であろう。
ライブドアはこのPJを用いた結果責任はどうやってとるのだろうか。
公立教師の信用を失墜させかねない放言で、名誉毀損も甚だしいと思うのだが・・・。

因にこのPJ諸尾の記事をもう一つみつけました。
教員免許に更新制度を 【PJニュース 08月10日】
あーあ。この人、素人だから仕方がないとはいえ、記事を書く公平性も論述性もない無能なんだなぁ。
この記事にもいくつかコメントを返したいが、ここでは大きい点のみ。
(1)「免許更新を全ての教員を対象にしろ」という主張と受け止めてみると、その必要性は、諸尾のこの文によれば「問題教員の排除」にある。
(2)論理のバランスをとるようにとの配慮か「熱心な教員が評価され、活動しやすく制度の充実も必要」といっている。
が、(1)と(2)が実際的には背反する部分があるということに気付いていない。
つまり、人材活用について、具体的にイメージができていない。
加えて、「他の業界などで社会人としての経験のある人に「特別免許状」を与えて、あらたな人材を教員として登用したり、教員免許の更新制度導入など、教員の人的流動性を高めることは、学校教育の向上につながると考えます。」といってしまっているのだから、現場を人的な混乱に陥れても、最初の記事のように、「手順、内容」に偏って責任を放棄する教員がでないとイメージしているのだからお笑い草である。
こんな人が、個人のブログレベルならまだしも、一般記事よりはレベルが低いといっても「Livedoor News」を語って記事として公にしていることは危険きわまりないと思う。

夕凪の街 桜の国(双葉社)こうの史代

2005-08-19 22:12:30 | 教育書
ぺろりんさんのブログ、ぺろりん物語で、紹介されていたのでゲット。

アクションの休刊寸前に掲載された「夕凪の街」がもとになって「桜の国」が続編的に描かれ、今回の本にまとまっている。
書店ではダブル受賞作品、映画化決定として紹介され話題を広げている。

調子にのって「長い道」も購入、読んでみたが、やはりこちらの作品の方がよい。
漫画家は作品を重ねる毎に絵がうまくなるのが常だ。
この作品の方が絵も描けている。
そして画力アップより気になるのが、この作品の話(ドラマ)の厚みだ。
(けっして「長い道」がつまらないというのではない。
これも標準以上のウィットをもった生活漫画(我ながらへんなカテゴリ切り!)で、大いに楽しませてもらった。)

読んでいて三つの作品を思いだした。
一つは山止たつひこ(現秋本おさむ)の「回転」。
これは戦争を観念的にとらえている節があったのと、主人公の女性が戦争を理由に生活の中で恨み返しを妄想するような部分があったように思う。(今ひとつシーンを細かく思い出せないが、キーが似ていると感じたのだ)
一つは石坂啓の夏の戦争作品群。
これも戦争を下敷きにした作品だが、直接的な戦争体験を綴った物や、反戦を綴った物と比べた時、資料調査を大切にしたであろう部分や、作者の実感を表出させた部分を読み取れ、隔世の感をもつものだと思ったからだ。
そして今一つは、この夏に観た映画「父と暮らせば」だ。
これが一番イメージがかぶった。

ただ、映画は、主人公にとって、未来が開かれた形で繋がっていく話であったが、こちらは「やった!また一人殺せた。」という終わり方である。
もちろん「桜の国」には繋がるのであるが、原爆というものの傷は私たちにせまってくる問題なのだとしみてわかってくる展開になる。

薄い本でページ対価も安くないが、読むべき作品であろう。
たかの史代は雄弁な漫画を描くことができる作家である。
これからも期待したい。

(以下余談)
作品内によく用いられる風景画をみて、たかの史代は私の前任校の近くに住んでいることがわかった。
年齢も同じ。
なんか、そういったしょうもないところに反応してしまう私がいた。
こういうのを関係症候群というのである。

学級再生(講談社現代新書)小林正幸

2005-08-18 23:51:20 | 教育書
清水氏の本に続いて古い本。
これも古書店で購入。
学力低下ショックやゆとり教育否定論以前の本だが、当時の学級崩壊について真摯に提言や具体策を述べているところに好感がもてる。
教育相談などを中心とした経歴をもっていて、現在学芸大学に研究室をもって学生を指導もしている著者。
そのころの少ない文献や資料・情報と著者自身の実践・体験をもとに丁寧にテキストをおこしている。
大きくは学級崩壊の現状とその原因にふれ、学級を「再生」とうたい、大人のできる対応策を具体的に説明しようと試みている。
最終的に「学級崩壊の予防」としてリラクセーションやエンカウンター、ソーシャルスキルなど、心理療法と呼べばいいのか、そういった手法に注目する形で収束を考えているようだ。
現在の小林氏の著書には、その手法を大いに説明してるものや、実践を記録したものなどもある。
そういった意味で、その時点の統括で、分岐・発展していく基点にある本になったのかもしれない。

時間差のある今となっては、そういったカウンセリング的な手法も学ぶ必要はあるが、「社会的な環境・経歴・背景」や「学習指導に関わるサポート」、「学校のシステム」についての言及に薄い印象を覚える。
実際に学級を再生してきたのは児童への「個の対応」という手法(の変化)でもあるが、教師が八方手を尽くた努力・献身、それを支えた教師グループでもある。
そこに手法を乗り越え、新たに切り開いた地平もあると思う。
小林氏の著書の延長線には、(昨今の著書をみても未だに)そこに対する共感というか協調は少ないような気がする。
分析も間違っていないと思うし、手法が有効でないわけでない。
ただ、教師の実践の中から汲み取れるものは他にもあるように思うのだが・・・。

最後に、無いものねだりかな。
具体的には教育のシステムの問題点に触れて考えてほしい。
私との児童に対する教育的価値観のちょっとした違いかもしれない。

父と暮らせば

2005-08-17 21:57:19 | 映画
この夏というより、久々にホールでみた2本目の映画となった。
なんせ、今年の一本はポケモン。
昨年もポケモン。
その前はマトリックスなのだから、我ながらすごいブランクだ。
やっぱり(某市の会館だが)ホールはいい。
本格的な映画館と呼べるホールならさらに文句はないが、まあ、贅沢をいえる状況ではないな。

さて、所感。
これは岩波ホールで上映されていた時に目をつけていた作品だったので、いいチャンスになったと思った。
戯曲が基になっている作品、ほとんどかつ宮沢りえと原田芳雄の対話で成り立っているとは事前に知っていた。
原爆伝承のドラマとして、またつくりの質が高い作品として観終えることができ、満足だった。

細かいことをいえば、話はつじつまが合わない部分多々なのだが、元々の設定が原田演じる幽霊の父なのだから、まるで異空間につれこまれての舞台で、違和感が残るというよりも、そのことで、より現実味を感じるしかけになっているようにさえ思えた。
その妙な現実味を帯びた世界を、原作井上ひさしらしいセリフの掛け合いでグイグイと時間をすすめていくのだから、話が進むにつれて、二人へ感情がいやおうなく移入されて感動を覚えるのだ。

久々に「役作り」と仮想なのだがリアリティの感触を残す「映像の雄弁さ」にやられたとの思いしきりだった。
「反戦」だとか「平和」だとかを伝える時に、「生きる」意味というものをどれほど感じることができたか、というのは私の一つの戦争(を題材にした)映画の評価規準なのだなと思った。

この作品は、自分の人生の映画ベスト1000には入るかもしれないな。(^^>

The Tears

2005-08-16 18:18:31 | 音楽
今日、近くの新星堂にいく機会があって、短い時間の中、試聴コーナーをぐるり。
韓国からの逆輸入DVDが安売りされていて驚いたり、やっぱ女性ボーカル単品(表現が違う気がするが)物は自分にはダメだなと再確認したり、普段聞く機会の少ないワールド物を聞いたりして楽しんだ。
そこで出くわしたのが、かの「すうぇーど」の復活と言われている「てぃあーず」だ。
思わず平仮名表記になっちまった。

すうぇーどは傑作デビューEPからよく聞いたのだが、彼等はキャッチーな感触と妙にまとわりつくしつこいメロがサウンドの特徴のバンドだった。
そういった意味では才能をとても評価していたし、将来性も十分の連中だったのだ。(ほめているのよ)
でも、ミーハー人気も持ち合わせていて、盛り上がっている内はほうっておいて、熟す頃に手をだそうと思っていたら脱退しちゃったのよバーナード。
スミスでいうマーのようなユニークなセンスありのギターだったのに・・・。
で、ひいちゃったんだよね。(俺みたいなヤツ多かったと思うよ)

で、聞いてみましたよ。てぃあーず。
一言でいうと、すうぇーど後期+バーナードってサウンドです。
でも、いいわー。全17曲?
一応、7・8曲次々に試聴。粒ぞろい!いいアルバムじゃんこれ!
(新規購入でもいいな・・・)
ちょっと購買意欲が上がったが、その時は金もってなくて・・・。
(いいわけ・・・セコで出回るのを期待しているな・・・)
この手の音がブランクなのを感じた一時でした。
久々の試聴満足。

今どきの教育を考えるヒント(清水義範)講談社文庫

2005-08-15 22:12:36 | 教育書
タイトルにひかれて古本屋で購入。
2002年第一刷発行とあったので、「まあ(自分で決めている範疇の年代)ギリギリか・・・。」と、その時に時間もなかったので値段をみてレジに向かった。
あとでわかったのだが、この本は雑誌「現代」に「遠く学校を離れて」というシリーズで連載されていたもので、時間的にはさらに前、98から99年の情報であった。
これにはちょっとひいたが、よく先を見てものを言っていたのだなと感心した。

清水義範と言えば、私にとっては「おもしろくても理科」の著者である。
豪快一発の一芸漫画家サイバラが脈絡少ない漫画を挿入した、理科を専門と目指した私には、科学の本としてはビミョーであったが、語り口調の柔らかくも楽しい一冊だった。
そういえば、この人、教育系の出身だったよなぁ・・・と、うろ覚えにも覚えていたことを思い出し、意外に考えていたんだぁ・・・と、そんな小さな驚きももって読んだ。

読了し、一読の端的な感想は、「教師とのつながりのある人らしいな、そして、ともすれば大仰な話になりそうな教育論議を、等身大で、生活感覚に根ざした形で書いているな。」というもの。
今でも変わらないが、この手の本だからだろうか、論をこんつめて行かずにとどめておき、後で考えるといって、搦め手から回ってみせてほらねといった語りが気になった。
釈然としない部分が残る構成で、いくつかのテーマは全体としてどういう構成なのか、読み直してしまった。

気になった点を一つピックアップしてみる。
文部省の教育方針をチェックの章で、「学校の成績のほうは、できないよりできたほうがいいけれど、少なくとも、いちばん重要なことではないのである。あれは所詮トレーニングなのだから、トレーニングの天才になってみたところであまり意味はない。つまり文部省は、トレーニングの方法を少し変える、と言っているだけなのであった。」
文庫版へのあとがきで、「しかし、教育というのは実はとても大きなことで、学校教育はその中のひとつにすぎない。学校が週休二日制になった時、その土曜日曜に親はどう子供と接するのか、その時間帯にテレビ局はどういう放送をするのか、というようなことだって、大きな教育の問題なのに、あまりそのことを言う人は多くないようである。学校で教えることが減ったら子供はバカになる、ということばっかり気にしている人というのは、教育を優秀な労働力の育成だとのみ考えているのではないだろうか。」

ああ、この人は文部省の主張を大筋で受け入れるだけでなく、肯定感を口にしているのだなという印象である。
しかし、単に「トレーニング」という言葉でさえ、清水独自の理解に基づいて語られている言葉で、正直、指導要領がトレーニングの指針とだけ理解するのでは、あまりにご都合よろしくないだろうかと考えてしまう。
また、一方で、トレーニング理論に反するのではないかと思われる発言をあとがきでポロッと見せるところが一貫性や総合的な理解の度合いを疑いたくなってしまう要因だ。
まあ、書かれた時期を考えると、新指導要領にかけられた期待の大きさも知り得る気になるし、楽観的と揶揄される新指導要領だっただけに、あまりそこをつついても今となっては建設的ではないなという感想ももった。

この本で特筆してよいのが、教師のライフヒストリーを少しかいま見せてくれることだろう。
いろいろあるが、私が一番目を見開いた記述が、教育界という奇妙な世界の章。
ここでは「狭い世間」の教師世界(社会)が描かれており、一定の批判がなされている。
「教師が教育の専門職であることは批判されるいわれのないことである。しかし、世界が狭いなぁ、という感想はそうしてもわきあがってくる。」
「利益の追求という点での競争や、工夫はいらない。時代の変化にアンテナを立てて世の中に合わせていこうという努力はしなくていい。そんな世間知らずの集団に、教育というものがゆだねられているのだ。」
「名先生なんてそうそういるわけがないのだ。ほとんどの先生は普通である。それで十分なのだ。ただ、私は先生にバラエティがないことを寂しく感じているのだ。そうなるための入り口がひとつで、そうなってからは他の分野を見ることがほとんどないから。」
「教育とは私たち(教師)がしているこれだ、という認識のまま、同じタイプの人たちが何も疑うことなくやっている。学校教育も、もう少し間口を広くし、世間に顔を向けていく必要があるんじゃないだろうかという気がする。そのためにはまず先生たち自身に、自分たちは社会の中でかなり特殊なところにいるぞという自覚を持ってもらいたいとも思う。」

この手の批判(教師は世間知らず)はよくあるのだが、では、具体策は?と対案を求める段になると、企業研修だ!社会経験のあるものを採用せよ!などがあがってくることしばしばである。
清水氏でさえ「教師が教育の専門職であることは批判されるいわれのない・・・」といっておきながら、この呪縛から逃れていない。
私は「世間知らず論」には一定の評価はするが、核心をついた議論はなされていないと思っている。また、「教師が教育の専門職であることは批判されるいわれのない・・・」は当然であるが、世間に迎合する方法を探るよりも、もっと専門性を誇れる状態を作ればいいとさえ思っている。
そして、世間が「狭い」や「知らない」は「教師の世界だけではないぞ!」ともいっておきたい。

つくる会歴史教科書の杉並区採択によせて

2005-08-14 00:03:41 | 教育
杉並区は同区教育委員会によって「つくる会」歴史教科書(扶桑社)の採択が強行された(某新聞記事8月13日)

事実認識
・強行であること。(某新聞の認識)
・自民・公明・民主が与党の山田宏区長によって、「つくる会」教科書を支持する者と教育委員の入れ替えをした。
・同教育委員会では4日に教科書採択を行う予定であったが、継続審議になっていた。
・各委員の発言の一部を列記すると以下の通り。
  大蔵雄之助委員:「一番学習指導要領に近い記述が並んでいる。」
  宮坂公夫委員:「他の教科書は日本の過去を戦争ばかりで他国に害を及ぼしたとある。比べると扶桑社だ。」
  安本ゆみ委員:「『日本の将兵は敢闘精神を発揮してよく戦った。』と書くなら、戦争の悲惨な実態や被爆国としての経験も書くべきだ。」
  丸田頼一委員長「扶桑社は全般的に説明調で、いかにして教え込むかという流れが鮮明だ。今は思考力重視の教科書が求められる。」
・継続審議後に開会された教育委員会では、扶桑社を第一候補としている中で、第二・第三候補の教科書を採択できるかを議論した。
・議論終盤において、能富善朗教育長が「日本人がどういう歴史を経て、どの方向に向かっていくのかを一貫して提示しているのが扶桑社だ。」と発言。これを受けて丸太委員長は「教育長の最期の発言で、従来の決め方に従えばそうなる。」と述べて採択になった。
・傍聴席からは抗議の声があがり、委員会室は騒然となった。
・杉並区では約6千3百人の生徒が在学している。
・当日、杉並区役所には、4日の約4倍にあたる、千人を超える傍聴希望者が詰めかけた。その中には扶桑社支持者や「つくる会」副会長の藤岡信勝の姿もあった。
・杉並区が扶桑社の教科書を採択後、採択責任者が、後は教師の力量だと言った。

歴史的な日になった。
これで、区長・教育長の思惑で扶桑社の教科書採択が可能ということが証明された。
そして同区では皇国史観による教育がじわじわとなされていくであろうし、これも場合によっては押し付けられていくであろう。なぜなら、宮坂委員のような考え方を用いれば、他国への害ばかりでなく、自国の敢闘精神(教科書のあからさまな主張)と他国への益(これは害の反対語)を教えようというのであるから、これは第二次世界大戦(この言葉もろくにつかわないかも)を肯定に到達する考えを否定できないからだ。この点を無視した指導はなされないというか、この点を重視した指導がなされる可能性は大であろう。
「後は教師の力量だと言った。」発言は重い。教師に責任をなすり付けるつもりだろうか。採択した責任は明確にしたい。
また、鶴の一声であった能富善朗教育長が発言を考察すれば、扶桑社の教科書は「歴史の本論である」と決めつけた発言である。詳しくは、どのような一貫性があるのかを同委員長に問いたださなければならないが、扶桑社=「つくる会」の主張は、教科書をもって、すでに明らかである。
特にこの教育長の判断については、歴史的な審判がはっきりくだされることを期待したい。
彼は戦中の不幸を知らないのだろうか。

扶桑社の教科書批判をしてみる。
よく、「扶桑社の教科書のどこが軍国主義で、どこに軍民を育てるような記述があるのか?」という問いに出くわす。
現時点で、この問いへのいくつかの批判と返答を試みたい。
軍国主義の定義が問題ではあるが、第二次世界大戦前、中の国家主義的思想に合致していればそういってかまわないであろう。こう念頭に置き扶桑社の教科書を見ると、神道主義、皇国史観、第二次世界大戦肯定部分は他の教科書にない部分であり、前提に合致する部分という点もあり、軍国主義へ傾斜しているといわざるをえない。
軍民を具体的に育む記述はない。しかし、これは問いがおかしいのである。
軍国主義に傾斜した扶桑社の教科書は、軍民を生み出す土壌をつくり、もし、軍民が生まれれば、その思想背景を強化するものにしかならないのである。
これは戦前、戦中の教科書と比較しても何らかの共通点がでそうである。
われわれ日本は、恒久的な平和を希求するために、軍隊をはじめとした武器を放棄し、戦争の参加を拒否する立場であることは憲法に明記されている。
そう考えるならば、憲法の思想に反対する教科書ともいえ、扶桑社の教科書の存在は、憲法に弓するものである。
軍民を育むでなく、軍民を認める記述があるといった方がよいかもしれない。どちらにしても結果的に軍事肯定の考えを内包する形である。

言い尽くせる問題ではないので、またの機会に送るつもりで、注意を払いたいことを述べて終わりたい。
扶桑社の件もそうだが、歴史認識を別として、様々な政治的な思惑を横目でみながら、この手の情報の少ないコンテクストを取り上げて、「それ見たことか。」「だからこうなのだ。」とすぐに大きく大上段に振りかぶるのは戒めたいと思う。
へたするとナショナリスト側のラジカルな連中のいいたきつけになってはいないか?
同じ土俵にのりたくはないなと感じる。
少なくとも、「侵略戦争」はあったのだ。この認識は不動であろうが。

サンボマスターズ

2005-08-13 22:57:22 | 音楽
前からオモロイやつらがいるなぁと思っていた。
MTVかなにかで最近の曲(曲名忘れた)のプロモビデオ(タクシーの中で演奏しちゃうやつ)を見ていて思った。
こいつら「熱い」。
っていうか「暑苦しい」。

シンプルなバンド演奏でストレートな曲とその展開、とにかくメッセージをつっこむボーカル、カッティング中心だが、叙情的に流れるダウン中心のアルペジオ型フレーズをチャラリきらめかせながら突っ走る。
ベースも合わせてのるのる!ドラムも刻みながら歌ってしまう。
ビデオでは周りの連中を歌わせてしまう。
今までの曲もそうだが、ライブも映像で流れた分はみたが、ワンパターンじゃん!って詰られそうだが、それも含めて暑苦しい空気を世界に充満させるかのエナジーを発している。

「ロックってこうなんだよな」って感傷にひたる気分できけば、何も考えずに頭ふって一緒に歌っちゃえそうな連中である。(この点がサンボマスターズへの最大の賛辞になるのじゃないかな?)

で、最終的な(個人的)感想。
いいじゃん!ぜひ、長くがんばってほしい。結構好きかも。でも、CD買ってまで聞き込むことはできないな。以上。