怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

ギターかうぞぉ!(^o^)/

2005-06-28 22:35:14 | 音楽
もう浮かれています。
頭の中が踊っています。
久々の買い物!(予定)
うーん!(感無量っー!)
趣味のCD収集のドキドキとまた違うなぁーーー。
(先週、また5枚追加しちった・・・)

現在、貰い物アコギ一本(5年目。教室で使用。アコギ暦22年くらいの私のメインはやっぱコレ。)。
YAMAHAの安物ベースギター(10年くらいだが、あんまり弾いていない。やっぱ相性がなかったかな・・・。音は鳴るし、好きだが・・・。ぽぅるぅぅぅぅ!=壊れています。)。
Morrisのミニギター。今ひとつ使用頻度があがらない。(3年目。使い込むほどにいろいろ気になる。高学年をもったときには子どもに弾かせた。)
で、レスポールタイプのエレキ(拾いモン。8年。電気系統イカレ気味。でも、いろいろ教えてくれたイチモツ。)が折れた!。
正確には愛息に引き倒され、ネックが折れた。ジミヘンー!(ガーン)
でも、これを機会にカミさんにおねだり。無事ご購入予定となりました。

ちゃんとしたギターを買うのって、実は初めてかも!(涙)
やったぜベイベ!(ほとんどガキのノリだなぁ。我ながら。)
ギター屋で触ってきて、もう決めた!
SG!SG!SG!(エピだけど)
俺のガタイに合わない小ささ重さ!
でもいいのさアンガスヤーング!
音はLPに似てるっちゅーのさミックテイラー!
デッドポイントなんのその!トニーアイオミっ!
うおおおおお!!(言語でない)

総合的な学習の時間とゆとり

2005-06-26 10:09:19 | 教育
福島日報の記事から「学校現場「ゆとり」生む工夫を」ちょいと考えてみた。
(まとまりそうにない予感)

まあ、この記事自体は、ちょっと現状把握できていないというか、思い込みとまではいかないが、偏りを感じるものだ。
(例えば「ゆとり」と「学力」の二項対立で論じている点など)
少し引用するが、

>だが、だからといって総合学習をなくしていいとは思わない。
>児童・生徒は地域や自然の中で、教室だけでは決してできない体験をしている。
>田植えや伝統芸能の継承、川の調査、お年寄りとのふれあい、職場体験、ボランティア活動…。
>ある意味で学力とは対極にある「心」を育て、その経験はやがて大人になった時の生き方に向かっていると思う。


に見られるように、「総合」を体験学習と位置づけ、「学力」と「心」を対立させている観がある。
これはこれで、その記者のイメージとして解釈すればいいのだろうが、現場での苦労の解消方法を、

>地域の協力が総合学習を支えている。積極的に参加している保護者もいる。
>だが、それでも教員が重荷に感じている現状ならば、地域や保護者は学校活動に今よりもう少し深く入り込み、少しでも教員の負担を取り除く方策は取れないか。
>学校側も地域、保護者と緊密に連携を取り、後押しを得ながら進めれば、教員の悩みは軽減すると考える。


と考えてしまうようになるとこれは話が別だ。
私は、「総合」、地域に応じてその内容が異なり、その成果の程度も異なると考えている。
つまり、「総合」で身に付く力は多様で、レベルの格差があることは避けられないという認識がなければならないと考えている。

一方、教員は一律のレベルで指導する事を望まれているという観念から抜け出す事は困難で、そういった「総合」の見切りができない状況というのも、教師の苦しみの一つだと思う。
時数が一律105時間なんてものに苦しむのはそのいい例である。

そう考えて行くと、「協力しますよ」と良心的に地域から求められても、現状では、逆に教員の負担を増やして行くことにしかならないのである。
(もちろん、現状で地域協力をするなといっているのでも、協力の拡充を図らなくてもいいと言っているのではない。良心は良心として受け止めることはできる。)
え?来るの?聞いてないよ?カリキュラムどうすんの?この先何年同じ事ができんの?多学年との系統は大丈夫?と、ドタバタにならない方法を臨みたいものではあるが・・・。

教育活動であるからには、「体験」一つとっても、なんらかの「ねらい」があり、「総合」であるから「発展」があり、(なんらかの)力を身に付けさせ、評価をくださなければならない。
「総合」こそ、カリキュラムのプロである教師の腕の見せ所であるのに、実際には縛りが多すぎてつまらない実践が繰り返されている。
(これでは「学力」につながるわけがない。)

「総合」を真に生かし、「ゆとり」を生むのは、地域の協力も大切だが、学校や教師にもっとカリキュラム上の「ゆとり」を認め、積極的に地域からの(外部評価ではない)当事者評価を受け、それを重視しながら次につなげる活動をしていくことであるのではないだろうか。

「総合」の取り組みが、今、問題になりつつあるのは、まるで「学力」とかけ離れていると考えられている「イメージ」のせいではなかと考える。
単なる消化試合の「総合」から、真の学びを獲得するきっかけとしての「総合」へ引き戻すには、子どもの「ゆとり」=「余暇」が必要なのではなく、大人(地域、教師)の「ゆとり」=「制約からの解放」が必要なのではないだろうか。
教師はそのためには忙しくても根はあげないだろう。
子どもの学習活動に関わって行く事をのぞんでこの職についたのだから。

>福島市内の中学校の校長に話を聞いたとき、校長は今の教員を「忙しくて、なかなかゆっくり考える暇がないようだ」と分析し、家庭については「学校教育にも限界がある。すべて学校任せでなく、(しつけなど子育ては)家庭でしっかりとやってもらいたい」と求めた。

こういう認識の校長がいることが困る。
子どものせいで忙しいのではなく、他のこと(あるいは他のせい)で忙しいといっているのだ。
家庭とは対立関係には元々ないのだ。
地域から、保護者から、子どもから引きはがされる状況をどうにかしなければならないのだ。
これは管理職にも大きな責任があると思う。

この記事を書いてすぐに、先の中山文科大臣発言を受けてのコメントで、大変わかりやすいものを見つけた。
ぺろりんさんブログ「ぺろりん物語」「たまにはいいこという」
>カリキュラム開発に関する一定の知識と経験をもち、教師集団のなかでコーディネーターの役割を果たすことのできる専門的教師が必要なのだ。
は最高に的確である。

中教審部会の「教員の負担巡り議論」

2005-06-23 23:18:36 | 教育
「中教審部会、教員の負担巡り議論・合宿審議スタート」をニュース元にします。

>「100ます計算」で知られる広島県尾道市立土堂小の陰山英男校長は「教員は頑張っているのに社会は評価しておらず、このままではやりがいを失ってしまう」と発言。
>東京都港区立三田中の藤崎武利校長も「現場の実感として1人の教員の仕事が多すぎる」と述べた。


ようやく中教審でもこういった発言が認められるようになったのか・・・。
(感慨にひたってもいられないが・・・)

>同千代田区立麹町小の角田元良校長は「教員の配置を増やせば、総合学習も充実する」と述べ、教員を増やすことが必要と指摘。
>他の委員からも配置増を求める声が上がった。


うーん。
これよこれ!
予算だとか、実施の可能性だとかはこの後の話だよねぇ。
まず現状を認識して、どう発展させるかの見通しを持つ。
先に予算もあるけれど、出さなきゃだめだものを最初から出さないのはダメよ。
しかし、総合学習の充実ねぇ?
それだけじゃないだろう・・・?

>これに対し、梶田叡一兵庫教育大学長は「教員の勤務状況には地域差もあり、サンプル数が少ないこの調査だけで判断するのは危険」とクギを刺した。

なんだこの人?
じゃ、さっさと調査しろよ。
だいたい現場の教員の話の一つも聞いた事あるのんかい?この人!
少なくとも「地域差がある」って、どのくらいあるのか説明しろよ。
それからいろいろな教員のブログを読めよ。
読まないか。この手の学者は。

日教組について

2005-06-23 22:49:30 | 教育
私が自分の主張について考え、思考を深めるいいきっかけになっている「できるだけごまかさずに考えてみる」ブログで、「学力」についてコメントをしていましたが、あまりの長文かつ多岐に発想できてしまう内容に混乱しそうになっています。
ある程度くくって考えられるものを自分のブログにコメントすることで、その混乱を回避します。
以下はそのための文(議論のための引用文・その3)です。

「日教組について」(>引用白河氏)

日教組=旧社会党系、全教組=共産党系とはよくいわれますが、私はその歴史的経緯に関してはほとんど下馬評なみにしか知りません。
その点については、どちらかというと先輩に聞いた方がわかると思いますので、ちょっと最近呼んで「ふーん」とうなったブログにリンクします。

>ネットで調べると、愛知県など、地域によってはかなり頑強に「教員間のトップダウン的な組織変革」に反対しているところもあるようです。

>私が日教組にこだわっているのは、・・・「教員組織はできるだ けフラットな方がいい(だから、主任制など、「ヒエラルキー的組織」を作ることには徹底的に抵抗する)」という動きを繰り返しているからです。
>そういう動 きを繰り返しているクセに、「教員は毎日忙しいんだ!」とキレるのだけは一人前。
>「そりゃ君たちの組織が未熟だからだよ」と言いたくなるだけで、日教組を 中心とした教員組織は、組織としての「効率化努力」を放棄しているようにも見えるのです。

日教組が率先して教職員組織の非効率化を生み出しているかどうかはよくわかりません。
そうだとも思うところもあれば、そうでなく、様々な有用な活動結果を残しているともいえます。
一律に断じる段階には私はありません。
が、今回の話に関係なく、現在の職場的には今一「こまったちゃん」もいるかもなというのが正直な想いです。

しかし、愛知県ですか。
昔(今はどうか知らないですヨ)、子どもの背中に名札でなくナンバーをつけて、ナンバーで呼んで授業をするという噂を昔きいたことがある人権無視の管理主義教育をやっていた自治体ですね。(笑)
(噂話なので、別に本気にレスしないでください。私の稚拙な認識です。笑って下さい。違っていても本気でおこらないで下さい。ジョークです。)

学校選択制について

2005-06-22 22:40:39 | 教育
私が自分の主張について考え、思考を深めるいいきっかけになっている「できるだけごまかさずに考えてみる」ブログで、「学力」についてコメントをしていましたが、あまりの長文かつ多岐に発想できてしまう内容に混乱しそうになっています。
ある程度くくって考えられるものを自分のブログにコメントすることで、その混乱を回避します。
以下はそのための文(議論のための引用文・その2)です。

「学校選択制について」
(>>引用はyo、>引用は白河氏)

>>総合の話をすれば、文科省大臣が「総合をやめる」などとつぶやけば、一斉に来年度計画への会議が停止するのです。
>>理念や必要な情報の説明も共有もなく、よかれという思いだけで動いている現場が現実の姿です。
>>これが短期的に(上層部の思惑・施策が)ぶれることの一例です。
>>それは民間でも同様なのではないでしょうか?

>私が小学校選択制の話を挙げたのは、私塾のように、生徒数や合格実績、成績上昇実績などの「結果を表す基準(結果基準)」を、学校教育ではどう設 定するのかが難しいなと思ったからです。
>学校選択制にすれば、動機はともかく、何らかの生徒数の変化が、その学校の取り組みを評価する「結果基準」になる かもしれない、と思ったのです。
(中略)
>この意味で、ショック療法ですが、学校選択制にす ることで学校ごとに競争をさせることで、各学校が生徒の変化により敏感になる習慣を身につけることは有益だと私は考えます。

公立学校の評価を具体的に考えるという試みは、いくつかの書物をひも解けば、今までに考えられ、いくつかは試みられてきたことがわかります。
結果的には、現在問題になっている世間一般的な課題への対応としての「学校評価」へは、有効な手段がなかなかないという状況のようです。
おそらく、白河さんがおっしゃっている「結果基準の設定」の難しさは同様のことをいっているのだと思います。

そういった中で、「学校選択制」を用い、自治体内の学校を(過当)競争へ持ち込むことで、学校の「結果基準」を出そうとする気持ちはわからないではないです。

今の学校選択制を「保護者からの学校評価」とのタイアップとしてとらえることを前提に考えると、学校評価の前提条件が「教師」「学校」に対する改革期待あるいは諸問題依存型であるところは否定しにくいと思います。
一面的な評価の軸を導入すると、それに対応した公立学校が出現せざるを得なくなります。
つまり、地域に対する諸問題請け負い所のような、学習よりも生活という学校を目指すか、生活部分を目にとめない、管理主義的な教育で効果を生む学校を目指すか、にならないでしょうか。

公立学校は地域に設立されたため、その地場で存在し教育活動をする意義を自ずと持っています。
社会的要請もそうですが、地域を成熟させるのは学校ではないし、保護者に対して啓蒙的な立場をとるのは一部は仕方が無いけれども、民生員のような活動ばかりを押し付けられても困るのです。
地域が向上・成熟せずに、学校への依存度を高め、マイナス思考の批判を受け入れる土壌作りをされても、私は困ります、というより嫌です。

一方、最近の傾向では均質な教員を求める声が多いように思いますが、実際には無理な話で、性別年齢多種多様です。
国立小学校の様に、バリバリの人が集められた学校も存在しますが、私立の選択と同様で、公立小学校を基準とした議論の中で、そのファクターを無視することは不適当だと考えています。
(極論では、野球選手の様に年俸制を用い、定年など存在しなければ解消できる問題でしょうが。)
人に応じて指導方法も異なりますし、連携することで様々な成果(善し悪しは当然あるが)が生まれ得ます。
最近、異常に定年前退職者が増える傾向があり、指導法だけでなく、様々な諸問題に応える経験者が少なくなりつつあります。
私の知り合いにもそういった惜しい人がいます。
「なぜ?」と聞けば、「居心地が悪くなるものだ。」との答え。
管理職にならなかったためであったり、体育指導軽減の人員をさいたためであったり、異常に増えた定年前退職希望募集の書類であったり、もちろん、最近の教育方策の異常さであったり、いろいろな理由を説明してくれました。
二番目のことなんて、まさにどうにでもなることだったのに・・・。

要するに、「公立」=「スタンダード」が私のイメージですが、「公立」=「多様化・特色化を目指す」のならば、人的、金銭的な支援の偏りを生み、果ては極端な淘汰さえ予想できます。
それは今まで築いてきた「公立」のイメージとはかけ離れるだけでなく、(ショック療法というより、)教育的財産を破壊しかねないことではないでしょうか?

教育施策や学校の方策の看板化によって、実践力が高まるわけではないし、その透明性が高まるわけではないと思います。
(見てくれが良いだけの私立学校なんて、結構あるようですしね。同じになってしまいます。)
もちろん閉じられた部分を公開して行くことは大切ですが、小学生のように、何か具体的な見通し(リアルな将来像)をもって学校に通っていない子どもを相手にしているとき、無理な社会要請を受けたり、トップダウンのハードを受け入れたりすると、あまりのリアリティの無さと、子どもの置かれた状況とのギャップに、教師も子どもも愕然とすることになりはしませんか。
いや、現実にはすでにそんなもの(無理な社会要請)を引き受けながら、ああでもないこうでもないとカリキュラム作りに精を出し、児童を引き受け、教育活動を行っているのが公立だと思います。

「特色ある学校づくり」がトップダウンしてきて久しいですが、ここでいう特色とはなんでしょうか。
どこの学校でも学力アップに励み、徳育に励み、体力向上に励んでいなければならない指導要領上の必須レトリックがあります。
「公立はスタンダード」だとおっしゃった人がいますが、私もそうだと思います。
そう考えてみると、地域に密着した小学校において、地域以上の特色はありえず、そういった無理矢理捻出された異形の特色はそぐわないことになると思います。
地域に外国人が多く住んでいれば、地域と密着型の国際理解教育もできるでしょう。
(実際に外国人のボランティアがたくさんいる地域があり、実践事例もあがってきています。)
地域に大手のコンピュータ会社があれば、容易に連携を申し込むこともできるでしょう。
(MS社がXBOX貸し出しなんてのも出ましたね。)
しかし、実際には、「特色」に固執するあまり、無理矢理遠方から講師を召還し、地域性等顧みないことも少なくないのです。
乏しい地域資産を生かすのは苦行ですし、効率的ではありませんし、児童の実態を顧みないことは教育的背信行為だと思います。
だけれども、実際に行われていることは地域への無理強いや児童への無理強いとはいえないでしょうか。
特色が「アットホームな小さいながらよく目の行き届いた学校」ではいけないのでしょうか?
「大規模校だから、行事が盛り上がり、大勢の先生に触れられる学校」ではダメなのでしょうか?
「特別活動が子どもの自主性を育て、教科学習にもその実態が生きる」では特色にならないのでしょうか?
中学の部活的ではあるけれども「鼓笛隊の実力がすばらしく、地域・全校挙げて取り組んでいる学校」でも「学力」について特色をだし、学校選択制にして競争力をあげなければならないのでしょうか?

総合的な学習の時間の利用について

2005-06-21 22:38:15 | 教育
私が自分の主張について考え、思考を深めるいいきっかけになっている「できるだけごまかさずに考えてみる」ブログで、「学力」についてコメントをしていましたが、あまりの長文かつ多岐に発想できてしまう内容に混乱しそうになっています。
ある程度くくって考えられるものを自分のブログにコメントすることで、その混乱を回避します。
以下はそのための文(議論のための引用文・その1)です。

「総合的な学習の時間の利用について。」

例えば、教師間のやり取りとして、
「基礎基本を鑑み、「総合」で「表現力」というテーマを設定し、子ども達に基礎から発展・応用までの力をつけさせる。」というのは教育的な意味があるだけでなく、「総合」の内容にもあっており、実践的に可能で、効果もあがるのではないだろうか。
と提案したとします。

国語では「話す・聞く」の分野を重視し、総合における発展学習との相乗効果を試みる。
低学年を中心に話型を指導の重点とし、接続詞をキーに話題の切り替えや効果的な伝え方を系統的なカリキュラムの中で教えてみる。
現行カリキュラムにも含まれている内容だけれども、さらに徹底して指導でき、総合の時間や枠組みの自由度を利用して、場面設定などを多様化し、教科書を離れていろいろなところに「話す・聞く」で身につけた力を試すことができる。
算数では「考え方」という評価項目に着目し、どんな「足場、手がかり」を用い、子ども達が問題・課題解明の説明をしていくかや、考えの提示の仕方、表現の仕方(グラフなのか、図なのか、具体物なのか等)を教えてみる。広く統計データや身近な図形に親しむなど、発展を試みる。
理科でも社会でも、はたまた図工や音楽でも「総合」の枠組みを計画的に利用し、現行教科の枠組みを広げるような豊かな学習が予想できる。
一番いいのは、時数・単元の枠を系統制や妥当性をはっきり理解しないとできないため、根の持った教師側の発想が生きるカリキュラムの設定ができるということです。
つまり実効性が高い可能性があり、その効果も期待できそうだということです。(「やってやれそうだ」ということ)

しかし、実際にはこんな提案は(管理職を中心に)受け入れられません。

一言で言うと「地味」なのです。
パソコンや英語を使った方が親受け的にいいということになるのです。
(今や福祉も地味扱いされるところもあります。)
管理職的に言えば、「なぜ、現在広くなされている実践が、うちの学校ではできないのか?」や「せっかくパソコンなど設備を(目的を設定せずに)整えたのに、なぜ利用する方向でカリキュラムを組まないのか?」、「もっと社会的な要請に応える(ようにみえる)形でやれないのか?」などの反ばくに遭うのです。
ましてや「表現力」については教科の国語などで、大枠のカリキュラム上、力をつけることになっており、「総合」に頼るような形になることを望まない人(管理職)もいるのです。(ちゃんと国語でやれ!ということ)

また、教科について深く考えている方にとってみても、「総合」で発展的な部分を補うというやり方は、教科の枠組みを理解する観点から煩雑な感触を免れ得ないため、二の足を踏むことは容易に想像できます。
私自身も、「総合」が生まれた経緯(教科の枠に捕われない取り組みを保証すること)を考えると、時数の設定が恣意的になるのは(現状でもそうなのだが、枠が強制されている分、評価はしやすいので)さけられず、「総合」がいい形で成熟する前にダウンする可能性を否定できないのです。

また一方で、私は教科を補強・発展させることも「総合」のねらいの一つであったのに、そういった点に関して具体的でなかったため、様々な影響を受けて、無駄が多く、重たすぎる時数の今日の形になっているのだとも思います。
そういった意味で「「総合」をやるくらいなら」と、教科に裏で振り替えてやろうとする人が後を絶たないのは理解できることなのです。

もちろん、学校の取り組みとして「クラス総合」と呼べばいいような、学級担任や学年で自由にできる時間を設定し、国語の発展的な学習部分を実施している学校や、それに対応した教科書もあるのですが、系統的に計画的に実施されているかという点では、あまりオープンでないようです。

「総合」は学校の特色を大いに表現できる領域です。
それは確かですが、公立学校のように、人員が流動的で、地域の変化の影響も受ける環境では困難を抱えざるを得ない要因はたくさん生まれ得ると考えています。
私立ならば、そういった意味では、いろいろユニークな取り組みがしやすかろうと思います。
(勘違いだったらすいません。私立和光学園などの実践がモデルケースとして導入・発展してきた流れもあったように思います。)

さて、最後に、最近のニュースから。
中学校の先生の間では「総合」への取り組みは否定的な意見が多数を占め、一方、中学に限定しない数字で、保護者の方は「総合」への取り組みを評価している人が過半数以上になっているとのこと。
いろいろな論議があるが、私の所感を述べておきます。

まず、中学校側に対する想像。
学級担任制でない中学での総合の取り組みは、小学校のそれよりも困難を極めることは容易です。
教科担任制が基本の中学では、教科の枠組みを超えてのカリキュラム設定は新教科をやるに等しい感覚であるし、教科に引き寄せて考えても、全校を揚げてカリキュラムを立ち上げ、運用、継続していくことは、ただでさえも生活指導や、部活で殺人的な業務をこなしているであろう現場を苦しめていることは想像に難くない。

次に、保護者側に対する想像。
「総合」のなんたるかが、教員が理解するにかかった時間以上に理解に時間がかかるだけでなく、誤解も多く生まれている。
(これは私の小学校の経験から)
また、親のニーズは、(一例だが)「国際理解」ではなく「英会話」であり、「情報教育」でなく「パソコンスキル」なのだ。
そういった意味で、そのニーズに近いであろう「総合」は辞めて欲しくない不詳の対象なのではないだろうか。
もっといえば、「国際理解」を学校の特色とうたい、英会話学校から派遣された講師を利用した「英会話」が時間として設定されていればとびつく保護者は多いであろう。
前述した「表現」なんてものに、とびつく親がどこにいるのだろう。

学校選択制と併せて、「学校の特色の設定」に関わる問題は、その裏に戦慄するような事実が隠れているように思えるのは私だけなのだろうか。
教育が「スキル」であり、「育み」でないという風潮がかいま見れるといえばわかるのだろうか。
日本の趨勢がそんなものになったときに、日本の将来像は暗くならないだろうか。

教育実習生Vol.2

2005-06-12 22:20:46 | 教育
実習生を抱えている。
自分が知識や経験を吸収している時期なので、「キャリアのある奴がやれよ!」と心の中でぼやきながらも相手をしている。
「ガチガチに教え込み、鍛えなくてどうすんだよ!」とも、始まるまで思っていた。

コメントの参考にと、自分の実習日誌を家で掘り出して思った。
「そんな肩肘張っても伝えられることは限りがあるのだよな。」
俺もワカランチンな学生だった。日誌を見返して思った。

もう、自分のあるがままを伝えるだけに集中している。
このブログでいっているグチ・ボヤキも多分にスパイシーに加えながら、知らない、分からない人だろうと捉えて手取り足取りである。
どれだけの注意が必要で、どれだけの指導力は絶対で、気持ちはこうで、そのためのハウツーはこうで、陥りやすい状況はこうで・・・。
教育実習にはそれなりの成果があるが、それだけじゃ教師の仕事や教師という生き物を理解したことにはならないんだよ。
そうにじませる言葉を伝えている。
さすがに教員養成系の学生。教室に入ってくる必要な条件は持っている。
あとはどこまで十分条件への道をちょっと明示してやるかだと思っている。
(「導く」といいたいが、それは余計なお世話であろう)

「21世紀に教師になる者はみな同士である。
なんとか現教育を現場からよい方向へもっていけるよう努力をしたい。
前向きに。」
具体的な実習内容をこなさせる中で、そんな自分のイズムを伝える限りである。
モラトリアムな心構えも若いからで、生き方としての教師の背中を見せられたらと思っている。
実習の中で、だれもがする(学生ならではの)失敗を繰り返す中で。

教員免許更新制導入の動きを慎重に見守る

2005-06-11 16:03:30 | 教育
「具体例もとに適格性審議 中教審、教員免許更新制で」(yahooニュース)
>教員免許の更新制導入を審議している中教審のワーキンググループは10日、
教員の適格性について、文部科学省が示した判定基準の具体例をもとに議論した。

この点は、具体例を見てみたいと思う限りだ。
まだ、議事の内容がアップされていないので不詳。
(アップされた後、コメントを付け加えるかも)
>更新制をめぐっては、教育委員会や校長の恣意(しい)的な判断を警戒する声があり、
判定基準の明確化が焦点となっている。

これも当然である。
現行勤務評定も、校長の采配ミスや都教委の人材確保などの問題や地域性の問題を考えずに、
教師の一面的な行動のみを取り上げて、一律に行う困難を考えた方が良い。
おそらく、校長レベルも極端な判定をくだしにくいハズだ。
指導の多様の数だけ教員がいるのだし、たまにいる売名校長のやり玉にあがっては平教員も青息吐息である。
で、文科省が示した判定項目
>(1)豊かな人間性
>(2)教職への情熱・教育的愛情
>(3)社会性
>(4)児童生徒に関する理解
>(5)教科等に関する専門的知識・技能や指導力

他2つの全部で7つ。
それぞれもうちょっと詳しく知りたいもんだ・・・である。
>これらについて、
>問題が頻繁に見られる「A」
>職務遂行に支障を生じる恐れのある「B」
>問題の程度が軽微な「C」
>「問題なし」
>の4つの基準で判定する。

(1)はどこで判断するのだろう。
「あいつは人間性がないよ」と言った時、具体例が説明のもとになる。
体罰行為とかかな?
何にしても、マイナス評価のみという点は一つポイントか。
Cの判定なんて、恣意的にならざるを得ないのじゃない?
しかし、今の教師に対する懲戒システム等と比較して、どういう点が有効なのだろうか。
それとも、それとは違うシステムなのだろうか。
(それだとなぜマイナス評価のみなのだろうか)

今までのワークグループの議事内容を見てみると、更新に際しては、
問題のあるものについて手続きを行って行くことが現実的との判断である。
更新に際して、おそらく段階に応じて、免許取り消し(=失職)、研修などを課して行くのだろう。
研修の有効性も疑わしいのだが、それでは現行の研修制度などはどうなるのであろうか。
研修をまともに受けていたら学校への負担、その教員への負担増。(10年研修の成果と課題報告参照)
いきおい「やってられっか」と、「マイナス評価さえくらわなければいい」という風潮で、
(異動するまでの我慢!と捨ててかかる輩も)現場はすすむところも出ることは予想にかたくない。
学級崩壊状態なんて、今や、どの教諭にも外的要因であり得る時代。
そうなったら、子どもに保護者に地域に当たり散らすしかないのではないだろうか。
殺伐とした環境が予想される尻たたきだとしか言えない。

「教師の資質向上」とは聞こえがいいが、変な成果主義でやっていいのならば、
いくらでも子どもをいじめ、保護者をなじってでもできるのだ。
そういうことがわかっていないで何が教育改革なのかと思う。
そして、現在の現場での教育への取り組みで良いところを掘り起こし、
広める方向で改革は進んでほしいと切に思う。
それこそが教師の資質を真によりよいものへ引き上げることにつながるし、
教育に本当に必要な施策を把握するきっかけになるものだと信じている。

専門職大学院構想(また意味のない形の提案)

2005-06-09 06:47:44 | 教育
中央教育審議会のワーキンググループは6日、高い専門性を持った教員を養成する「専門職大学院」の基本構想をまとめた。 (読売オンライン記事)

その昔、学生時代などに、私の友人とこの手の話はよく出ていた。
身近な先輩で、「あんなヤツが教師になるのか!」とよく揶揄する中や、世間一般での教師の不祥事問題への将来的な対応、また、当時あった学力問題の解決策的なものとして話題としてよくのぼったのである。
教師の専門性というよりは、「大学出たらハイ教師!」ではなく、もう少しモチベーションというか、裁量というか、そんなやるべくしてやる教師を増やすきっかけになればいいのではないだろうかと考えていたからである。
しかし、私のような者も教員として就職してみて思うのは、現実問題、だれが大学院へ行っても、きっと状況は好転しないだろうということだ。

ちょっと記事の内容にいちいち反応してみたい。
>現職教員の再教育や即戦力となる新人の育成などを担うほか、・・・
>〈2〉学部新卒者を「即戦力」として育てる・・・

今までの経緯を見て、再教育を丸なげする可能性が高い。(文科省の得意技:責任転嫁)
現場との状況が剥離し(だいたい教育委員会の再教育研修でさえ、いろいろな困難があるのに)、
別環境で研究等を目的とするのではなく、現職教員を再教育ができるわけがない。
また、即戦力となる新人は大学院内では育たない。
就職しているわけではないから緊張感がないし、そういう雰囲気を求める方がおかしい。
自分の学生時代を振り返ってみればわかる話だ。
現場にインターン的に配置するくらいなら、即刻、今の初任者全員をそのように扱い、大事に育てるべきである。

>教壇に幅広い人材を迎えるため教員免許を持たない社会人も受け入れる。
>修業年限は原則2年だが、教員免許のない社会人に対応するため、専門職大学院に在学しながら学部の教職科目も履修できる「長期在学コース(3年)」を設けることも可能にする。

どういうことを考えているのだろう。よくわからない。
真面目に大学で教員になるための過程を経てきた者と格差をもうけてどうするのだろう。
社会人でも(採用年齢制限はあるが)他の教育期間で教師を目指している人はたくさんいる。
まさか、「教員免許をもたない社会人」であるということは、何か素晴らしい資質を備えているステータスなのだろうか。
揶揄してもしょうがない。現行の大学教育を生かせ!といいたい。

>修了者には「教職修士(専門職)」(仮称)などの学位を与え、給与面などで優遇するほか、
>新人教員は初任者研修を免除するなどの措置を取る。・・・
>〈1〉各地域で指導的立場を担う教員や、管理職になるような教員を育成する・・・

現場内のたて構造の強化をはかる意図は見えるが、それがどのような効果をもたらすのか、まったく議論がなされていない。
現状の主幹制度が「指導的立場を担う教員」ばかりを生み出していないことを考えても、無駄な摩擦を呼ぶか、モチベーションを下げるかどちらかの結果が見える。

>専門職大学院の設置は中山文部科学相が昨年10月、中教審に諮問した。
>指導力不足など教員の「質」が問題になる中、子どもたちの学習意欲の低下やいじめ、
>不登校などの問題に対応できる力量を備えた教員を幅広く育成するのが目的。

まるで質の悪い教員が多いような発言で、オフィシャルイメージを崩しまくる文部科学大臣には困ったものだ。
大学院が学習意欲向上、いじめ、不登校の問題を解決できるのなら、今すぐやってもらいたいものだ。
現状の大学院がそんな効果をあげていないのに、なぜ、丸なげしてもいけるように思うのか不思議でならない。
世の中の人の大学院のイメージって、そんなものだと考えているのだろうか。
>教育内容については、教材研究や授業計画、生徒指導などを全員が学ぶ「共通科目」とし、心理学や集団学習論などの「コース別選択科目」も設ける。
>必要に応じて現地調査や実務実習なども行う予定で、
>指導者には経験豊富なベテラン教師らを「実務家教員」として充て、
>子どもたちの非行問題などに精通した家庭裁判所の調査官経験者らを採用することも検討中だ。

こんなことで諸問題への対応というのだろうか。
なぜ、現場への対応をあきらめているのだろうか。
なぜ、スーパーマンを養成(これでできたとして)することが解決になると思うのだろうか。
このスーパーマンが問題を起こしたら、きっと解決策はないのだろうなぁ。
現場の努力を無視し続けている現状をみれば、このスーパーマンの力もつぶれて行くのは目に見えている。
ま、その方が人間的だな。
ましてや、このことを機に、様々な思惑が絡みそうで、それこそ「キモイ」。

>ワーキンググループはさらに議論を深め、来月中に中間報告をまとめる。
専門職大学院 高度の職業人を養成するため、2003年度に制度化された。2004年4月に各地で開校した法科大学院はすでに計74校に上る。最近は会計や知的財産、公共政策などを扱う専門職大学院も相次いで開校しており、多様化が進んでいる。

結局は流行りものなのだろうか。
研究機関でなく、教育機関でもなく、研修センターと成り下がる大学院。
ましてや、権威主義の根源にもなりそうな予感。
現状ではよかれと思ってつくろうとしているようには思えない。

なんなんだこれ!が感想である。

ツウシンボって昆虫の名前みたい

2005-06-05 23:03:26 | 教育
THE義務教育ブログさんに、またまた影響を受けて書いています。
自主性やオリジナリティが・・・。ごめんなさい。
ネタ不足なのではなく、思いつきなんです。
でも、前からコメントしたかったことなので。

もとネタ(記事)はこちらなのですが、
こちらへの私的感想は「ふうん」です。

子安先生も端的な感想を述べていて、単純に尻馬に乗ってしまうのですけれど、
「通知表」=「評価」と一口にいってしまえば簡単ですが、
教育活動の一環と考えれば、単純な批判だけで方策の変更ができようもないのです。
ましてや教師の負担減とはとうてい言えない気がプンプンとします。

>実際は各先生が日頃から各生徒の情報を蓄積すれば、
>意外と速く通知表を作成できることがわかった。
>教科担任を対象に、毎学期末アンケートを実施している。
>「授業中も意識して一人ひとりをみるようになった」
やばいコメントだよなぁ。
だけど、裏を返せば学歴はテスト一発ってことだよなぁ。
評価にはTPOと二面性があるってことだよなぁ。
ちょっと考えてしまった。

が、THE義務教育ブログさんのイギリスとの通知表比較には、
「その通り!それはいい!」とひざをパシッ!
>何が出来て、何が出来ないのかが読むと良くわかります。
>厳しい言葉もたくさん書いてあるので、親としてもつらい面もあるのですが
>数字で「1」「2」と付けられるよりは、よっぽどいいと私は思います。
のところがいいですね。

一方、所見などの欄を書いていても、想いは、伝わらないことに私は悩みます。
打たれ弱い子ども、保護者に出会っているとつくづくまいってしまう。

今、現場でも所見の書き方は肯定的な文章を目指すように指導されます。
(記録といってもスクラッピングでないところが難しい。・・・そんな所見もありますが。)

まあ、これは先のイギリスの成績所見も、(英文読解に自信がないが)ちょっと読めば、
そうであることは同じのようなのですが、

例えば日本では、三段階評価で「もう少し」の子に対して書く時、
具体的な向上をアドバイスする文でもいいのではないだろうかと思ってしまうが、
実際にはそれは厳しいと管理職に突っ返されるのがオチである。
学校内で児童へ指導しているのだから、家庭へ指導を持ち込んでもダメということだろうか。
(うまくニュアンスが伝わらない文だが、
イギリスの方法を追加する方向では難しいということがいいたい。)

だいたい学級通信ならぬ個人通信のはずが、児童の一面評価のクローズアップになっていたり
、他の児童の比較になっていたりすることが、いらぬねじれや思惑を生んでいるように思えます。

また、学習過程と保護者の思惑の剥離も気になります。
こういった所を解決しようとしないと、単純に「学力問題」だぁ
となってしまうのは仕方が無いようにも思えます。
特に、小学校では、変に社会情勢や経済情勢を反映させるのは奇異としか(私には)見えません。

私は単純な数値評価と深い意味の無い所見ではなく、学習内容と評価の記述を通知表にしてほしいと願っています。
「受験はどうなるのか」という点では、現段階では、
私的にはテストという一つの尺度を用いる方法しか「カイケツサク」は見いだせませんが、
学歴社会はそれとして、多様な価値観を認め合え、
「育み」ということを大切にされる時代になればいいと思います。

事務的な問題も含めて、いろいろ悩みどころの多い通知表評価ではありますが、
山口県の具体例ですべて解決というふうにはならないでしょうし、
もっと児童生徒の育みや生き方をサポートする改良を模索していかなければならないと思います。
いいきっかけになって欲しいものです。

最後に毒づいておきます。
国立教育政策研究所の人にはわかるまい。

絶望に効くクスリ(薬)vol.4(小学館)山田玲司

2005-06-04 16:29:37 | 戯言
実はこの前の記事と対のつもりである。
カテゴリは戯言にしてみた。
書評めいたものを書くつもりが毛頭ないからだ。
どちらかというと、成果主義はこういう人も削っているということをいいたい。

絶・薬については結局4冊そろえたのだが、読んでいて少し飽きがきている。
誤解をうみそうなので追記するが、漫画はよく描けているし、話も、扱われる人もよいので文句ではない。
これからも買い続けるだろう。
何かというと、私に必要な話(ライム)が綴られているわけではないということだ。
私にも絶望に効くクスリ(薬)にあたる人、ライムがある。
それはだれにでも必要だし、あるのではないだろうか・・・とカンジてしまったのだ。

私が初任時代の3年間過ごした学校にいたK先生について話したい。
定年も見えている50代の人だ。

人づてに聞いたが、彼にとって、私のことは友達でも何でもないらしい。
まあ、私にとっても友達と呼ぶには心の交流があったわけではないのでそれでいい。
けっこう歳の離れた先輩なのだ。
でも元同僚なのでこの言葉は寂しい。
まあ、理由がないわけではない。
私はあの学校ではM教員とよばれても仕方が無い。

K先生の数ある語録で印象深いのが
「そんなのたいへんじゃない!」
である。
「たいへんだ」「おっくうだ」「できるわけない」は認めないのだ。
次に来るのが
「やってみれば楽しいと思えばいい」
である。
特定されてはかなわないので詳細は言えないが、
当時のその学校は強烈に忙しかった。
(今でもそうだろうし、そんな所はいっぱいあるのはわかって言っている。)
(が、自分の知っている感触をもとに話したい。)
そんな中での一番泥をかぶって辛い状況の彼の発言はいつも一定の緊張感をもって聞いた。
しかも、この言葉は誰彼なく発せられる。
ある時、ぎりぎりの判断を迫られた校長に対し、その言葉が発せられた時、
誰もが心の中で賞賛したことが後で分かった。
もちろん校長の腹づもりが転換したのはいうまでもないが、そのことが賞賛されたのではなく、
その発言がイズムとして職員の基調にあることが共通理解され、そのことが感動を生んだ賞賛だった。
公立は私立に比べ、自主性が乏しいように言われることがあるが、
余裕のない必死な中でも、子どものためを思って身を削る覚悟をする場合は少なくない。
そのことを身を以て示しながらも、明るい展望を持たなければいけないことを教えてくれたのはK先生である。
おかげでさしたる理由も無い時に、理屈をこねて仕事を引き受けないなんてことは皆無になってしまったが。
(もともとそういう素養はあるのだけれどね。)
しかし、こういった老兵(老は失礼なほど心身ともに若い人なのだが)も成果主義の前では末期悲惨である。
(本人は前向きだろうから、悲惨なんて思わないだろうが、同年代の状況を冷静にみたい)

その学校では、(山田玲司氏と同じなのだが)
2歳より人生の伴走者である「ぜんそく」がひどくなって薬を飲み飲み働いていた。
駆け出しであったし、ついていけなかい部分も大きかった。
M教員呼ばわりでもいいが、個人的にはめちゃくちゃ努力をし、睡眠時間を割いた。
(足りないと呼ぶヤツ!死ね!=別にだれにいってるわけでなく、自分の強迫観念。)

今の学校ではそこまでひどい生活ではないので油断をしていた。
知らず知らずに「カラダ様」はダウンしているのね。
昨日も5時を過ぎたあたりからめまいが止まらず・・・。(肉塊が床に叩き付けられる音)

〈育てる経営〉の戦略 ポスト成果主義への道(講談社選書メチエ)高橋伸夫/著

2005-06-03 23:34:20 | 教育書
実は立ち読みで読んでしまった。
こんなことから富士通の話なんかも知った。
(そういえば大企業勤めの親父も当時の富士通の悲惨さをいっていたなぁ)

教員もある意味「成果主義」が導入され、強烈に年配諸先輩の中にはやる気がそがれている者もいる。
同時に、若輩、若年教師にとっての先行きの暗さや異常な出世などが目立って増えてきているように思う。
今まで抱いていた問題というか「なぞ」が少し解けた気もした。
やっぱり「育てる」って「繋ぐ」=「仕事が生き残る」ことなのだろうと思う。
こっちの業界に照らしてみれば、だれた向上心しかもたない輩や目的を変質させ続けてきたしょうもない組合運動などの駆逐には一定の成功をした。一方、単色傾向の研修と命令をくだし続け、共通理解も拒否し、理念の共有化もしない中で、方策の丸投げとその責任放棄・(現場サイドへの)転換を繰り返し、業界人にとって必要であるはずの、今後の展望や多様な未来への可能性に対して、壊滅的な打撃を与えてようとしている教育行政はやっぱりただの暴走者にしか見えない。
しかし、私には(現状では)忌み嫌うべき敵なのだが、同時に話を聞いてもらわにゃいけないヤツなのだ。
困ったもんだ。