怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

PTA一考

2007-05-06 20:41:52 | 教育
現在PTAがない学校にいる。

それはそれとして、学校に関わる当事者としての保護者と教員、そして児童を地域が取り囲んでいる図式をイメージすると、PTAというものが、現在、矮小化されて存在しているのではないかと思ってしまう。

PTAへ参加するということがどういうことなのか?
また、その参加の自由度、権利や義務、責任のあり方は?

私ももう少し学ばなければいけないと感じる。

ふと思ったので、今は抽象的にメモリーして、具体的にはまたの機会としたい。

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Corporate Ghost:1990-2002

2007-05-06 18:12:07 | 音楽
Corporate Ghost:1990-2002(ユニバーサル・インターナショナル)2004.07.21
レンタルビデオ屋で見つけて、連休中に観た。

やばい。即買いしそう。(遅いって!)
プロモ集といえるかもしれないが、映像制作へのコメントや裏が載っていてイイ!

Sonic Youthの作品は、それを聴くのに個人的に超体力が必要だ。
正直、まだ観終わっていない。
150分にも及ぶ量はとてつもなくヘヴィだ。

彼らの作品群は揃えそこなっているが、これを機会に全部揃えてしまいそう。

彼らは「実験的」と表現されるが、それは彼らの音楽への探究心を言い得ているが、作品の表現する音像については誤解を生みやすいかもしれない。
アメリカンロックのオルタナティブな王道をいっている作品は、初期衝動を如何につっこむかではなく、表現しうるかというところの工夫であったり、語るべくドラマを選びとったかであったりするのではないかと、この映像群を観ていて、聴いていて思った。
そういった意味で、彼らはとても等身大の姿を自分達なりに描いているように思えた。

こういったバンドの音が、自分の人生の傍らに並走していたのかと思うと嬉しい限りだ。

万人受けするものではないが、ヘヴィな毎日をシニカルだが前向きに、アートのエッセンスを含めた形で受け止めたいというときに、もう一人の自分と対話するように聴ける気がする。

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大学時代、同期にの女の子にSonic Youth好きを公言している人がいた。
ユニークな人であったが、そういう人へも応援歌として響いていたのだろうなと、ちょっと勝手な想像とともに思い出した。

The Year Punk Broke

2007-05-06 17:53:50 | 音楽
1991年のVHSビデオソフトだから古い。
今、前の学校の同僚に貸しっぱなして手元にないが、当時のリアルなSonic Youthや、その周辺にいた米国グランジ系中心のバンドがひとかたまりになって見れる貴重な映像集。
往年のラモーンズも。
あのニルヴァーナも。
出ている。(特に、カートやコトニーはプライベートなときの表情を映像中に残している。)

何がいいたいかというと、次にエントリを立てるSonic Youthを書きたいというきっかけをメモリーしておきたいということ。

この映像に残る、若きSonic Youthの勇姿。
ドライバーのような金属棒で、ギターの弦を裏からスライドさせるなんて荒技は仰天する。
しかも、それが必然のノイズを生んでいるのだから強烈だ。
彼らはこれを境にメジャーデビューしているのだが、当時から求道者として、ロックのダイナミズムを授かった天才として光っている。

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返してもらおーっと。

食育という問題

2007-05-06 17:26:04 | 教育
「食育」の理念は通常の施策と同様「おきれい・ご立派」なものだが、「なんでも総合」よろしく、実際には今までの枠組みである「家庭科」「給食指導」「体育(保健分野)」などから強行にはみ出ようとしていることが問題だ。

古くは「情報教育」、現在の「英語活動」に代表される、ゆとりなき悪徳教育施策の次の担い手として注意しなくてはいけない。
(「金融教育」は転けているが・・・。)
何せ「食育法案」があるから強力だ。

なんでも学校に責任を預ける、どんどん積み上げる、予算と人は割かない、継続は考えていない。
これも代表例になるだろう。
「食育学会」は、結局のところ、その存在のための金儲けに教育現場を使うだろうし、既存の「栄養学」や「食品」と名のつく学部学科の体のいい受け皿になっていくのだろうと私は想像している。

え?
食品企業各社が協賛協力しているじゃない?
と実践をもってくる人は全然現実が見えていないように思える。

では、授業設計やその評価などはどうするのだろう?
やはり「なんでも総合」で逃げるのだろうか?
教育の責任というのは、そんな恣意的な選択でいいのだろうか?
そういう感覚がない人に、ぜひ責任の一端をうけもってもらいたいものだ。

愚痴ばかり述べていても仕方が無い。

「食育学会」は「教育現場」を食い物にせず、公教育に広く継続的に行える実際的なプログラムぐらい組んでほしいものだ。
(たぶん無理だろうと高をくくって馬鹿にしておく。)

ちなみに、私の現任校は、「食育」が研究の一つのテーマになっている。
もうすでに研究発表のための研究になりさがっているようで、全然事態は変わらないようだ。
リードする者が不在ではダメだということ。
ましてや中身がともなっていなければしょうがない。

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「食育学会」、12日に初総会 一般にも参加呼びかけ(朝日新聞) - goo ニュース2007年5月3日(木)22:46
 子どもたちの食生活を考える「日本食育学会」が昨年設立され、12日に初総会を開く。食育は家庭と地域が中心となるという考えから、学識者だけでなく主婦や生産者など一般の人にも広く参加を求める、学会としては珍しい運営を探っている。

 同学会は、会長の中村靖彦・東京農大客員教授や坂本元子・和洋女子大副学長らが設立。170人の会員には教師や食品関連企業社員らも多い。

 講演では児童の間で増えているメタボリック症候群の現状などを紹介。年に一度、子どもが材料の買い物から弁当作りまでを自分で行う香川県内の小中学校の取り組みなどが報告される予定だ。

 千葉県市川市の和洋女子大で12日午前9時から。参加費一般4000円で当日参加可。問い合わせは総会事務局(047・371・1209)へ。

連休後半終了直前

2007-05-06 12:40:29 | 教育
さて、連休あけというのはとかくクレームがつきやすい気がする。
(私だけか?)

みんな休みの間にリセットがかかっていないだろうか?

1年生というのは「とばす」という勢いこんだことができない学年だなと思う。

他の学年であれば、連休あけは気持ちがリフレッシュされていて、いきなり暗唱2連発とかで、新曲2連発とかやっても盛り上がりこそすれ、遅れこんでしまう者などいないものだが・・・。

あ、いかん。
これは1年生への愚痴だな。

7月くらいにはそんなこともできるだろう。

とりあえず3週間後に校長の面接材料のために授業巡視が決まっている。
体育館体育でお話マットを見せたいと思っている。
指導案を提出するのだそうだ。
こちらの話も聞いてもらえるのだろうか?

とりあえず、明日の体育が楽しみ。

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芝を管理する

2007-05-06 12:23:54 | 教育
私には「芝をくれてやる」という発想でしかないように聞こえる。

>面倒な芝生の手入れが教員の負担増になるのを懸念し、芝生化に二の足を踏む学校も少なくない。
>実施校の大半は保護者ら地域住民との連携で解決しており、地域との関係づくりも不可欠という。

これを強いる人たちはそれに参加しない。

「全面芝化をいっているのではない。」といういいわけも聞く。
でも、同じ。
管理者はいないし、管理費用は最低限(それだけでも導入費用より負担は多いと聞く)。

最後に
>芝を環境学習の場として活用することも期待されている。
>環境教育コーディネーターの岩間美代子さんは「芝の校庭に集まる昆虫や鳥など身近な自然は、学習の場として宝の山」といい、教育現場の力量が試されている。
で締めくくるところが産經新聞。

それ(環境学習の場)ならば、別に学校内に作らなくてもいいわけだ。
そんなつまらないことで「教育現場の力量が試されて」なるものか。
岩間美代子という人は暴力的な施策に加担しているといわざるを得ない。

芝は日本の風土に馴染まない部分もある。
仮に校庭全面に用いると、体育の授業に影響があるのは明らかだ。

マレーシアの日本人学校では芝校庭を見た。
ホワイトペイントで体育をやっていた。(消す時は芝刈りをしてしまえばいい)
日本では無理だろう。

子どもたちの心への影響をうたいつつ、それはその場所である必要がなかったり、別なものである可能性があったりするわけだ。

金の使い道が安直で恣意的なものになっていく。

こういうことを書くと、肯定的な事例はどうするのか?という話になるのだろうが、全然組しない。
「芝」自体を「悪い」と言っているのではない。
こういういい加減なことで教育を「安直なもうけ口」にする輩に対する批判なのだから。
そして、もっといい使い道もあるよと言っているだけだから。

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芝生の校庭、児童ハツラツ 公立校で広がる よく遊び、ストレス解消(産経新聞) - goo ニュース2007年5月5日(土)02:58
 土の校庭を芝生に変える公立学校が全国的に増えている。ヒートアイランド対策が始まりだったが、最大の効用は児童のハツラツぶりだという。実施校は現在、全体の3・7%にとどまるものの、東京都が全公立小中学校2000校弱の校庭芝生化を目指すなど地方自治体が積極的な取り組みを始め、緑の校庭はじわじわと“増殖中”だ。
 校門をくぐると、校庭一面に敷き詰められた鮮やかな緑が目に飛び込んでくる。東京都杉並区の堀之内小(児童数411人)。平成18年3月に校庭(約1900平方メートル)を芝生にした。校名にちなんで愛称が付けられた校庭「ほりしばランド」では放課後、児童が寝転がったり、走り回ったりして生き生きとしている。

 「まず教室から校庭に飛び出してくる児童数が増えた。児童同士が触れ合う機会も増え、運動意欲、授業への集中力が高まって表情が変わった」。松本高晴校長は芝生校庭での児童の変化をこう話す。芝生工事費4000万円、年200万円の維持管理費を投じても、「メリットの方が大きい」。

 校庭芝生化の児童への効用について、同志社大が調べた結果、芝生化前と比較して児童の身体活動の増加を促し、ストレス症状が解消。その効果が持続しているという。

 調査した鈴木直人教授(感情心理学)は「外で元気よく遊ぶ分、睡眠障害や登校拒否が減ったというデータもある」と説明する。児童への効用のほか、土と比べて校庭の表面温度が10度前後も低いとの調査結果もあり、ヒートアイランド現象の対策としても芝生化運動は広がりつつある。

 文部科学省によると、校庭を芝生にした全国の公立学校(18年5月現在)は1347校で全体の3・7%。小学校は756校(3・3%)、中学校は307校(3・1%)に上り、実施校は年々、増えている。

 東京都では18年度までに小中学校43校が実施。19年度の70校を皮切りに、今後10年ですべての公立小中学校で実現させる。これに伴い、「1平方メートルあたり平均1万5000円」(都環境局)の工事費の助成制度を設けた。厳しい財政運営の中、仙台、大阪、福岡などの自治体でも公立学校の校庭芝生化に予算を配分している。

 だが、面倒な芝生の手入れが教員の負担増になるのを懸念し、芝生化に二の足を踏む学校も少なくない。実施校の大半は保護者ら地域住民との連携で解決しており、地域との関係づくりも不可欠という。

 芝生化を支援するNPO法人「芝生スピリット」(大阪市中央区)は、「ゴルフ場のようなきれいな芝生でなく草っぱらでいい。芝は必ず傷む」と話し、児童による補修用の芝生づくりを提案する。

 芝を環境学習の場として活用することも期待されている。環境教育コーディネーターの岩間美代子さんは「芝の校庭に集まる昆虫や鳥など身近な自然は、学習の場として宝の山」といい、教育現場の力量が試されている。

児童相談所職員も心に負担

2007-05-06 11:28:37 | 教育
心に負担を抱える人たちは当事者だけでなく、その周囲にいる人たちにもいるということか。
対応が「増員と職員を孤立させない態勢づくり、精神的ケアなど」という発言をとりあげている産經新聞はらしくないが、それはそうなのではないだろうか。

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児童相談所職員心に疲れ 重圧、4割の職場で配転・休職(産経新聞) - goo ニュース2007年5月6日(日)03:25
 全国の児童相談所の約4割で、児童虐待への対応にともなうストレスなどで職員が精神的不調・不安を訴えていることが、日本子ども家庭総合研究所(東京都港区)の調査で分かった。同研究所は「職員のバーンアウト(燃え尽き)防止のため、増員や心の健康への配慮が必要だ」としている。
 調査は昨年12月、全国の児童相談所191カ所を対象に実施し、137カ所から回答を得た。

 平成14年以降、虐待への対応にともなうストレスなどが原因で配置転換や休職に至った職員がいるかたずねたところ、47カ所(43・5%)が「該当あり」と回答。「該当なし」は61カ所(56・5%)だった。

 「該当あり」の内訳(複数回答)は、「相談所内外に配置転換になった職員がいる」が72・3%、「現在勤務しているが配慮が必要」が63・8%、「休職中、退職」が19・1%だった。

 児童福祉司1人当たりの担当案件(未処理、在宅指導、施設入所措置・里親委託)数は平均107件にのぼり、欧米諸国の5倍にのぼった。

 また、虐待事案への対応にともない保護者から加害・妨害を受けたケースは、18年4~11月の8カ月間で140件あり、その91%は児童福祉司が対象になっていた。

 同研究所の才村純・ソーシャルワーク研究担当部長は「児童相談所の現場は常に緊迫している。保護者と真剣に向き合うほど、加害・妨害を受けるケースも増える。膨大な案件を抱え、丁寧に対応する余裕がなく、事故が起きるかもしれないというプレッシャーは大きい。次々に職員が燃え尽きていくことを防ぐには、増員と職員を孤立させない態勢づくり、精神的ケアなどが必要だ」と話している。

コミュニティと学校(エントリ作りの公開)

2007-05-06 11:17:06 | 教育
不十分な形でも、公開しながらエントリを作ってみたいと思う。

昨日の「地域や個人の相互コミュニケーションにかかるFireWall」でも書こうとしたのだけれど、なかなか広範な話になってしまいそうで止めてしまった。

「個人情報」という矮小化された問題に帰着すると、どうしても(まさに)個人のありようが問題化されてしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

そうではなくて、問題は「公」と「私」の対立なのではないだろうか?

コミュニティの崩壊と捉えるよりは再構築とする方が前向きなのはわかるが、それをリードするものが暴力的なものでは生き難くなるのではないだろうか。
(これはレトロなコミュニティの再評価をまたない。旧コミュニティのありようが生き難い面をもっていたとして、それがコミュニティの必然的な構造なのだと考える方向が出てしまうと、前向きにコミュニティを肯定する時点で矛盾を生じてしまう。)

だから、対立している状況ではよりよいコミュニティは生まれ得ないと感じる。

学校はコミュニティに対してどういう機能を担っていき、コミュニティは学校にどういう期待と支援をするのかは、コミュニティの質を決定する大事なファクターだと思う。

学校の機能は、そこに通う者たちの「学び」の構築が第一だろう。
しかし、地域コミュニティにとっては「地域の子どもを育む場」としての見方があるだろうし、そこに関わる者たちの「情報交流の場」であるだろうし、ハード的には「文化的な交流に用いられる場」でもあるはずだ。
これは主たる所属者の教職員だけが主体ではない姿があると思う。

では、「個人情報」の問題と照らしてはどうか?

本来ならばコミュニティ内で情報が収束しており、悪意かどうかが問われるのかもしれない。
けれど、閉じたコミュニティなど存在せず、様々な危険にさらされている。
それを責任説明だとか、(時に過剰な)事前回避にエネルギーが注がれるとき、コミュニティとしての機能不全に陥る可能性がある。
人間関係が基盤にあるコミュニティだけに、信頼や許容という範疇が曖昧に設定されているからこそ成り立ってきた部分があるはずだ。
これが新しい形にどう転換していくのかが注目すべき点なのではないだろうか。

とりあえず、結果も収束もなく、記述を一時停止する。

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