怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

笑ってしまう秋入学議論

2012-03-30 22:45:31 | 教育
学習権侵す・学力低下…ギャップタームに懸念(読売新聞) - goo ニュース

ある枠組みの一部を変えると、全体が切り替わるようなガラガラポンチックな発想に聞こえる。
これは傲慢なのかとさえ思う。

それはさておき、「学習権を侵す」ときて、ひと笑い。
東大でのカリキュラムのみを指していっているのであれば、すでに主体的な学びからの逃避ではないか?
そういうシステムにすると、もし決まれば「学習権」はないだろう。
バカバカしい。

「学力低下?」
これだから「学力」論議がとまらないのだ。
「学力」に対するイメージの貧困さが生み出す理のなさ加減の大きさに「笑止」としかいいようがない。

しかし、秋入学にする大学がもう少し増えたり、枠組み論でいえば、他の時期の入学ができるようになったりと、そういう変化でもない限り、留学生を単純に引き入れることをもって「国際化」とかいっているようだけれども、それこそ国際的な魅力なんて出てこないと思うのだが・・・。

(以下、引用)

学習権侵す・学力低下…ギャップタームに懸念
読売新聞2012年3月30日(金)10:22

 秋入学に関する東京大学の懇談会(座長・清水孝雄副学長)は29日、学部新入生の入学時期を秋に移行させ、春入学は全廃するとの最終報告をまとめた。

 今年1月の中間報告を踏襲したが、入学を半年間待たされる学生の扱いについて、学内に慎重意見が多く、最終報告は「当事者の視点に立って吟味していく必要がある」とした。浜田純一学長は5年後の実施を目指しているが、最終報告に実施時期は明記されなかった。

 東大の構想では、合格発表から秋入学までの約半年間を「ギャップターム」と呼び、短期留学や、企業での就業体験(インターンシップ)などに取り組んでもらい、大学で学ぶ意識を身に着ける期間とする。

 最終報告では、世界の約7割の国で大学の入学が秋であることから、国際化を進めるために、全学部の秋入学移行を提案した。

 しかし、中間報告の後、教職員、学生の意見が計387件寄せられ、特にギャップタームについての懸念が多かったことが盛り込まれた。この中には、入学資格を得た学生に半年の猶予を強制することは「学生の学習権を侵す」との指摘や、学力の大幅低下、経済的に苦しい学生と首都圏の裕福な学生との格差拡大につながるなどの意見があった。

自分で勉強してみろ!

2012-03-28 06:05:53 | 教育
脱「ゆとり教育」最終段階 高校教科書、分量12%増へ(朝日新聞) - goo ニュース

「学びからの逃走」という言葉が言われたのは1990年代半ば。
いわゆる「ゆとり世代」は2000年前半。
「学力低下論争」はその後。
そう見てみる。

ちょっとこの手の論議の土俵に片足をかけてみると、「学びへの回帰」は図られたのだろうか?

以前、私もこの手の話で、ちょっとロジックミスを犯したなと思う部分がある。
それは、「理科教科書」のこと。

生活科導入は1990年代前半の指導要領改訂あたりから。
その後、すぐに「学びからの逃走」がいわれたことを考えると、「理科離れ」「理数離れ」論議などが下地にあった気がする。

私のいっていたのはこうだ。
「生活科導入」は小学校低学年の実質的な理科的内容の削減であって、その後、「ゆとり」による理科の内容の3割程度削減と合わせると、2000年代の指導要領改定後、1990年代以前との単純比較において、実質理科の内容は半減しているのではないか?
それは教科書の量をみても明らかだ。
よって、理科的な内容の「学テ」レベルで見た「低下」は当然である。

しかし、しばらくして私は考え方を変える。
自分の論拠となるデータを探していたのだけれども、それほど優位なデータがないとわかったからだ。
ここに、私の中では「ゆとり=低学力」という図式は崩れている。

今回の教科書増は何を意味するのだろうか?

学テ上、理数よりも問題視された国語についての記述がないので、現時点ではここまでとしたいが、ちょっと気になる点があるので、そちらを記したい。

この朝日の記事は後段、こんな記述を羅列して閉めている。

>週の授業時数が標準の30コマを超えた
>小中学校の学習内容を学び直したりすることが認められた
>指導要領の範囲外の内容を載せる際、分量を「全体の2割程度」と限定した規定も撤廃

「学びの逃走」の問題提起は、「つめこみ型の教育」の崩壊を物語っていたハズだ。
それは、社会的な要請としての人材育成に対して、子どもや若者がノーという態度を示したことだと私は理解している。
「『お勉強』したって、暮らしはよくならない、将来はドロップアウトの機会だらけ、よりよい社会への変革を単純には求められない。」そんな未来への静かで無意識的な失望があった気がする。

「子どものしつけ」のような問題で矮小化されてしまいそうなところを、寺脇らの「ゆとり」による一定の回避行動があったのだが、今の40~50代世代あたりがクラシカルなイメージで、それを否定的にとらえ、「学力」を求めた図式だと私は理解している。
はっきりいうと、「学力低下」なんて、なかったも同然だと思っている。
(これは数値的にも示せる)
それなのに「学力(テスト)強迫症」にかかっている世代の多さが、「ゆとり批判」なるものを生み、結果、1990年代よりも過酷な教室が出現することになってきたのだと思う。

馬鹿な妄想はやめて、少し考えてほしい。
小学校1年生の5月から5時間授業。
高校は4時まで授業をやって、さらに補習や塾へ通う。
そいういうことをやっていて、何が人格育成か?
学力テストレベルでさえ、どのような手立てをとっても全体として二極分化は固定的な状況だろう。
それは子どものせいではないし、ましてや教科書のせいではない。
それから高校で小中の内容を補習せざるを得ないのは、小中の学習内容のせいでも、指導者の責任でもない。

(以下、引用)
脱「ゆとり教育」最終段階 高校教科書、分量12%増へ

図:高校教科書ページ数の推移拡大高校教科書ページ数の推移

 文部科学省は27日、2013年度から使われる高校教科書の検定結果を公表した。「ゆとり教育」から転じた新学習指導要領に基づき、主な10教科の分量は現行より12%増えた。09年度の小学校から始まった「脱ゆとり」の教科書作りが、仕上げ段階に入った。

 今回の検定は、主に高校の1、2年生向け教科書が対象。専門学科も含めて275点の申請があり、1点を除いて合格した。新指導要領に合わせた検定は09年度に小学校、10年度に中学校で実施。高校は学年ごとに進み、14年春に終わる。

 今回合格した教科書のうち、主な10教科(検定を1年前倒しした数学と理科は昨年度分含む)の教科別平均ページ数の合計は2621ページ。現行の教科書より12%、ゆとり教育時代の05年度より16%増えた。教科別で、現行から最も増えたのは数学(27%増)。以下、英語(25%増)▽公民(19%増)▽理科(17%増)▽情報(17%増)と続く。

 学習指導要領を09年に学力向上重視へ改訂したことが増加の要因。週の授業時数が標準の30コマを超えたり、小中学校の学習内容を学び直したりすることが認められた。指導要領の範囲外の内容を載せる際、分量を「全体の2割程度」と限定した規定も撤廃された。

イメージわる~い

2012-03-27 18:40:56 | 教育
非常勤職員、捏造・流出認める 市長選リスト 交通局、解雇へ(産経新聞) - goo ニュース

維新のリーダーとしての責任はとらないんだね。この人。
このリストをもとに組合をせめていたわけで、別にねつ造を晴らそうとしていたわけではないのだから。

嘘ネタオッケー。
ガセでもオッケー。
攻め時はオッケー。
そんな維新の会なのか?
結局、この時点でわかることは、維新の会は最低な奴らだということ。

辞任という事実をどう捉えるのか

2012-03-25 10:15:44 | 教育
大阪府教委の委員長、辞任へ 教育条例「責任感じる」(朝日新聞) - goo ニュース

この時期が適切かどうかへの批判はあるかもしれないけれど、筋を通して自分の信念を表現した形は評価したい。

大阪府民はどうとらえるのか?
突き出された問題をどうするのか?
この辞任の有意味性の行方はそこにいきつくのだろう。

(以下、引用)
大阪府教委の委員長、辞任へ 教育条例「責任感じる」
朝日新聞2012年3月23日(金)15:54

 大阪府教委の生野照子委員長(68)は、23日の府議会で教育関連2条例が可決されたことを受け、辞任する意向を府教委幹部らに伝えた。28日の教育委員会会議で正式に表明する。知事が教育目標を決めるという条例の内容について「政治が暴走する可能性を残してしまったことに責任を感じる」としている。

 大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)は昨秋、政治主導の教育改革を目指す教育基本条例案を公表。知事に教育目標の設定権や、目標に従わない教育委員の罷免(ひめん)権を与えるほか、相対評価で最低評価を連続して受けた教員の処分、学力テスト結果の学校別公表などを盛り込んだため、反発した教育委員は「このまま可決されれば総辞職する」と表明した。だがその後のダブル選を維新の候補が制したことから、府教委は対案をつくり、知事裁量による教育委員の罷免権や教員の相対評価、学力テスト結果公表などを削除する形で2条例案が固まった。

副校長だけじゃないよ

2012-03-25 09:35:52 | 教育
副校長へのなり手がいないだけじゃない。

指導主事も倍率が1.0倍程度で、実はすでに定員割れをしているとも聞く。

指導主事の話で横道にそれておくと、各市区町村に対して都が配置している指導主事だが、全ての自治体でオーバーワークになっている。

予算的に余裕がある自治体では、指導主事を補佐する人を雇用している場合(下手すると退職者のボランティア)があるけれど、そうでないところは
「死んだら別な人が(都から)来るんだから、仕事を(死ぬまで)やってください。」
といってはばからないのだそうだ。
(実際に、過労死や病死(自殺)などは少なくないらしい。)
そんな指導主事に、よほどマゾ的な人か成り上がりたい者以外に、だれが好んでなるものかと思う。
また、一部では、M教諭対策にもなっている部分もあると聞く。

もっといえば、現場的には指導主事あがりの管理職など、裏も表も知っている人なので、たくみに現場教諭を締め上げて実績をあげ、自分の給与を高める人が多くおり、毛嫌いされている。

閑話休題。

副校長だけでなく、主幹教諭もなり手が少ないことが知られている。

実際的に、副校長の仕事の補佐役を求められるので、酷い場合は、「指導」の名の下に、副校長は外でタバコを吸っていて、職員室内で副校長の仕事を肩代わりしている要員(時期副校長)の主幹教諭などもいる。

上下関係だもの当たり前というなら言え。
副校長は授業や担任をもたなくていいけれど、主幹はその仕事もやりながらなのだ。
降格も最近まで認められていなかったから、そういう苦役に耐え、上にいくしか逃げ場が無い状況を主幹は耐えてきたのだ。

そういった姿を作り出した責任は、管理統制を至上命題とした都教委の行動原理にあるのだけれど、端から見ている教諭の中には震え上がった者も多いのだ。

さらに主幹への肩たたきがし易いように、主任教諭という職階をもうけたわけで、これはもう教諭のサラリーマン化を押し進めただけでしかない。
事務的な教育しかしない教員を増やす下地はできたと思うのだけれども、学校教育制度上の現場改善にはなっていないのが実態だろう。

今、都教委が「現場負担を減らす」といっているが、そんなことは口先だけで、更にどんな管理統制のための施策をおろそうかと画策しているに違いない。
無論、副校長(以前の教頭)の仕事が激務であるのは改善されなければならないけれど、それは教育委員会、ひいては教育行政のあり方から改善されなければいけない問題である。
(この点についての解説は、ここでは長文になるので避けておくが、指導主事レベルの人であればその図式はよく見えているだろう。)

今、自覚的、自立的に地域の中で教育を考えていける人は少なくなっている中、ヒラメ的な管理職ばかり増やしてどうするのかと思う。


(以下、引用)

都教委:副校長の仕事減らそう 改善プラン、作成--昇任希望減受け /東京

毎日新聞 3月24日(土)10時40分配信
 公立小中学校の教員にとって激務として知られる副校長の仕事量を減らそうと、都教育委員会は教職員の仕事の割り当てを見直す「校務改善推進プラン」を作成した。指針として各校に提示し、それぞれの実情に応じて積極的に導入するよう促していく。副校長への昇任を希望する教員が激減しているための対策。
 指導主事などを経験し5年後に副校長に任用する教育管理職選考「A選考」の受験者は、02年度は531人だったが、10年度は86人に、今年度は72人に減った。主幹教諭を対象にし、2年後に副校長に任用する「B選考」も、02年度の947人から10年度は425人に、今年度は382人に減った。
 この傾向に歯止めをかけようと、都教委は10年度、区市町村教委とともに実態を調査。校内業務の役割分担が明確化されていない学校が多く、担任を持たない副校長が、人材育成やホームページの更新、危機管理などの幅広い仕事を一手に引き受けているケースが多いことが判明した。電話番までしている副校長もいた。
 この忙しさが教員たちから敬遠される理由であるため、プランは、校内に「学校経営支援組織」を設置し、副校長が担ってきた校務を組織的に軽減させるとしている。主幹、主任教諭らを副校長の支援組織に組み込むほか、管理職経験がある退職者で再雇用されている非常勤職員を「選任支援職員」に指名し仕事を手伝ってもらう。
 都教委や区市町村教委も、各校に学校運営のノウハウを共有させて効率化を図り、現場の負担を減らすなどのバックアップをする。【柳澤一男】
〔都内版〕

3月24日朝刊

問題の行方

2012-03-25 07:10:13 | 教育
起立斉唱反対のビラ配布…教諭を再任用せず(読売新聞) - goo ニュース

過激な運動をしているなぁ。

この男性教諭は、今までの経過と状況判断が普通にできる人であれば、確信犯的であるのは当然にして、処分覚悟なんだろうことは明白なので、こういう自爆的な闘争って目も当てられないワケで、まずはイタいなぁという感想しか出てこない。

もう、この手の経過を振り返る度に、「世間」を味方につけない闘争ってなんだろうと思う。

新聞沙汰になることを目的にするのであれば、それは、マイナスイメージをつくることにしかならない。

何度も指摘してきたつもりだが、「君が代」「日の丸」「式」の問題は、「教育への政治介入」「管理統制」の問題であって、「思想信条」の問題ではありえない。
「思想信条」の問題であれば、それは個人的な問題に収斂してしまうから、「教育問題」としての全体理解は得られないだろう。

過激派が動けば動くほど、同じ標語を用いることが困難になり、結果的に良貨も駆逐することになる。

だから、この手の下手な闘争やそこに関わる労組の連中に対しては、気持ちは分かると言う程度で、それ以上の信用を置けないということになる。

結局、薄笑いを浮かべるのは誰なのか。
そこに不気味を感じる人が増えてほしいとは思う。

(以下、引用)
起立斉唱反対のビラ配布…教諭を再任用せず
読売新聞2012年3月24日(土)19:50

 大阪府教委は、2月に行われた府立高校の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかった再任用の男性教諭(61)に対し、「勤務実績が良好でない」として、来年度の再任用を更新しないことを通知した。

 教諭は「処分は納得がいかない」として、府人事委員会に不服申し立てを行う予定。

 教諭によると、卒業式当日は勤務日ではなかったが、校門前で、起立斉唱を求める職務命令に反対するビラを配布。式では職員席に座り、国歌斉唱時に起立しなかったという。

 府教委は9日、この教諭を含め、起立しなかった府立高14校の17人を職務命令違反で戒告処分とした。教諭は定年退職後に1年更新で採用される再任用の教員で、処分前には、来年度の更新が決まっていたが、取り消された形となった。

3.11の時間

2012-03-11 23:23:22 | 教育
昨年のあの日、この時間には家に帰り着いていなかったけれど、帰宅途中だった。

そのまま泊まった同僚もいた。

最後の子どもは午前様だったけれども、保護者が徒歩でたどり着いて向かえにきたそうだ。

私の友人の家庭でも、たった一人で、冷蔵庫の肉まんを自分で電子レンジであたため、真っ暗な中で過ごした子どもがいた。
夜遅くになんとかたどり着いて、我が子の疲れきっっていたけれでも安堵の笑顔を抱きしめ、玄関先で泣いたという。
そんなことがたくさんあった。

でも、災害はそこでおしまいじゃなかった。

私にとって、あの都内をおそった大きな振幅をもつ揺れは、遠い場所での大被害を想像するに難くなかった。

校内の教室にあるテレビが、それは東北地域だと伝えたとき、各教室を回って、テレビを消しましょうとお願いした。
ついでに子どもに知らせてどうするのだ。と。
その後に襲う不安を増幅してどうするのだ。と。

教室で津波で町や田畑や道路が飲み込まれて行く映像が流れた。
私がいない間に、同僚がテレビをつけていた。
私の想いは、願いは伝わらなかった。

1年経ち、私は学校の防災や大災害時の避難計画の見直しに祭しアンケートをとる役を担うことになった。
あのときにテレビをつけていたのは子どもたちの中に、いい影響を残さなかったという反省が何人もの同僚から出された。
正直、口惜しい。

同時に、子どもたちの中に刻まれた震災のイメージや被害のイメージは、少しずつでも考え直してもらわないといけないとも思った。
そして、それには大人さえ判断を迷うのだということも、きちっと伝えていかないといけないということだ。

また、今回の震災や津波の被害は自然災害なのだけれども、原発事故に関しては人災、社会的な問題なのだということも、ごまかさないようにしていかなくてはならないと、この1年の経過を見て思っている。

教材化されて降りてきたものは、原発を意図的に抜いたのか?と思わせるものもあった。

地方へいって、「東のことは知らないよ」とばかりの声を聞くと、一発殴りたくもなるのだけれど、そんなことよりも自分自身がもっと目をそらさない人になっていかないといけないと、そして、子どもあっての仕事なのだから、子どもとしっかり向き合っていこうと、そう思っている。

3.11は今日で終わりなのではない。
永遠に続く課題意識の1年目が終わった日なんだ。

怒りのやり場

2012-03-11 23:00:51 | 教育
前のエントリで、このブログを書く行為が、「ようやくリアルからの解放感を覚えるようになった」という内容のことを書いた。

その行為自体が「前向きか?」と問われると、そういう価値観でやっていないので応えようがないと思っている。

また、その感情が「怒り」や「憎しみ」が根底にあり、表現も「嫌味」や「揶揄/暗喩」、シニズムじゃないのか?
ときにアナーキーでないのか?
そんなことも気にしてきたこともある。

でも、そんなことを気にするのは苦しいからやめた。

それは、そこに対して何らかのコメントを求めることと同意だからだ。
他者の観察を気にしているのはバカバカしい。

「リクツ」は「リクツ」
「カンジョウ」は「カンジョウ」
そこに他者の価値判断を持ち込まれるのは本来まっぴらごめんだ。

じゃあ、「共感」は?

それさえもいらないという境地を目指しているとしか答えたくない。

他者と混同しないことが自分でいられる安心の世界だから。

じゃあ、何で他者の記事にコメントをつけるのか?
そういう目的をもったブログなのか?

それは逆で、自分に関わりのある言葉群に対して、自分はどういう距離感をもっているのかを表現したいから。
つまり、それは攻撃を回避し、自分の呼吸音を確かめることだから。
書き綴ることは自分の生きている実感なんだと、今はそう考えるほどなんだ。

私の書くことが嫌いなら読まなければいい。
今や私設のブログはそういうステージにもあると思う。

教室で一人書いている落書きを取り立てて見るな。
何かいいたいのであれば、それなりのアプローチをとれよ。
と、そう思う。

ま、今のところ、ね。

教委からの規制

2012-03-10 15:01:51 | 教育
ある教員のブログで、
『教員によるブログの運営』についての調査だけでなく、指導が入ったと聞いた。

教員は政治的な活動や発言を差し控えることを求められている。
具体的には「選挙運動の全般」なのだけれども、市区町村の施策に対して、反対意見などをいうことは注意される。

私の懇意にしていた教員ブロガーで、2chの書き込みから教委の知るところになり、自主閉鎖に追い込まれた例も知っている。

ブログの政治性を否定するわけではないけれど、われわれ教員から言葉を奪ってしまったら、実は困るのは自分たちだという認識がないんだろう。
クレームをつける連中も、おもしろ半分だったり、病んでいたり、いろいろな思いが交差するわけで、そういったものにおいて個人情報が付随しなければ、大きな問題ではないし、そうやってはけ口としての機能や裏の声を聞くきっかけにもなるのだから、益の方が多いかもしれない。
そういう評価はなく、たんなる責任回避論のみでブログが閉じられて行く(特に、無害な有名どころから)のは残念というよりも、そういうお為ごかしをするだけの教委には怒りを覚える。

しかし、そういう怒りにさえも、耐え忍び、なんとか自分のデジタルテキストを刻み付ける場を探して行くことになるだろう。

否定と批判の狭間に

2012-03-10 14:49:54 | 教育
教材に「百人斬り」、教諭処分 長崎の町教委「不適切」(朝日新聞) - goo ニュース

「何を伝える目的で使用したか」については大事だろう。

まさか、『実際に「百人切りがあった」という事実を伝えるために』なんてことではないのだろうと思って記事の先を読んでみた。
果たして、やはりそのようだ。

>町教委によると、教諭は「実際に100人を斬ったかどうかを問題にしたのではなく、戦時下では人を殺す行為が英雄視される風潮があることを知ってもらうため取り上げた」と話しているという。

となると、

>町教委は訓告とした理由について「百人斬りは事実だと明確に認められておらず、その記事を示して生徒の指導にあたったのは不適切だった」と説明している。

との齟齬がある。
『百人切りを事実として伝えた』
わけでもないのだから、
『事実と明確に認められていないものを資料として用いた』
ということが、町教委側の提示している問題点ということになる。

そうなると、教科書に載る資料は、完全に事実として認められているものしか認めないと教委はいっているようなものにならないだろうか?
今まで、資料として、事実誤認があって教科書などからはぶかれてきたものは1つや2つではない。

ましてや、
『以前の歴史の学習で、こんな間違いもあったのだけれども、その間違いが活きて現在がある』
なんて説明は、具体的におこなってはならないことになる。

もちろん、わざわざ「百人切り」の資料を用いる必要があったかどうか?の有効性は議論されてもいいだろうけれど、そういう話には聞こえてこない記事だ。

さて、「有事下の人殺しは英雄で、日常の人殺しは殺人罪である」とチャップリンの映画でもいっていたではないか?
「平和教育」の中で、「有事下の異常状態」を知っておくことは大切だと思うのだけれども、どのように教えるのがいいのだろうか?
そういった問題提起には、少しだけ聞こえる。

(以下、引用)
教材に「百人斬り」、教諭処分 長崎の町教委「不適切」

 旧日本軍の将校2人が1937年、中国で「百人斬(ぎ)り競争」をしたと報じた当時の新聞記事を中学校の授業で教材に使ったのは不適切だとして、長崎県の新上五島町教育委員会が町立中の教諭を文書訓告にしたことが分かった。処分は1日付。

 町教委によると、教諭は昨年9月にあった総合学習で、2年生20人に「百人斬り」の新聞記事を読み上げた。2年生は翌月に広島への修学旅行を控えていて、平和学習の一環として記事を使ったという。

 町教委は訓告とした理由について「百人斬りは事実だと明確に認められておらず、その記事を示して生徒の指導にあたったのは不適切だった」と説明している。町教委によると、教諭は「実際に100人を斬ったかどうかを問題にしたのではなく、戦時下では人を殺す行為が英雄視される風潮があることを知ってもらうため取り上げた」と話しているという。

その前にすることがあるだろう

2012-03-08 23:13:43 | 教育
大学生に勉強させよ…対策の大学に財政優遇案(読売新聞) - goo ニュース

大学生がバイト漬けだったり、大学教育への期待や社会への貢献度を高めるような「世間」がなかったりした責任を棚上げにして、単なる尻たたきとは片腹痛い。

猿知恵に似たりなのだけれども、こういう施策をおろす奴って、大学時代にどんだけ勉強したんだろうか?
また、そのときに、どれほど他者にその影響を与えたのだろうか?

自分ができないことを下の世代に単に押し付けるのって、醜い所業だよな。

そんなことよりも大学や高等教育への予算を増やせよ。

寺西隆行(Z会)のとんでも記事

2012-03-07 22:34:16 | 教育
小学校の理科教育は、先生によってこんなに違う!/寺西 隆行(INSIGHT NOW!) - goo ニュース

すごい我田引水と論理の飛躍と誤解や悪印象をまねくデマの数々に一瞬空いた口がふさがらなかった。

英語と理科を同列に扱う暴挙から始まって、世の中の動向に注意せよという煽りともいえる言葉で締めくくっているのは、ちょっと悪意さえ感じる。

高校の理科と小学校の理科の状況を混同して用い、読む者を誤解の世界へ誘っているのが全体の基調。
これはひどい。

>そして…理科的能力の育成に最も大切なスタートライン、小学理科。

の文言は、何を指しているのか、寺西氏も冷静に理解しているとは思えない。
「理科的能力」といいつつ、単なる進学塾であるZ会の状況を引き合いに出して来るのだから、これは「いわゆる受験のための能力」でしょう。
さらに、何を指して「最も大切」なのか?
イメージで話を進めている部分は他にも指摘できるけれど、こういう煽り方ってあこぎだよなぁ。

>平成23年度調査によると、小学校3年生14%、4年生20.3%、5年生31.8%、6年生34.2%の学校で理科担任。
>小学6年生だけ、平成16年からの変化を見てみると、おおよそ、ですが…
>21%→25%→26%→28.5%→32%(H21年)→34%(H23年)
>と増え続けているのです。

の部分も、なぜ増えてきたかの分析もない。
第一、段階的に理科が重視されてきたなんてことはトレンドとして誰も確認していないし・・・。

で、結局、

>以上、いろいろ見てきましたが、
>「小学校の理科教育は、先生によってかなり違う!」
>ということが推し量れるかと思います。

というごり押し。
ま、断言でなく、推量におさめているのは、さすがに詐欺扱いを避けようとしている魂胆が見え見えなのですが・・・。

>この差に(感覚的な)危機感を覚え、制度・仕組み・運用で対処をしようとした結果が、理科担任教員の増加とみることもできます。

こういう推量の書きっぷりはあきらかに誘導なので、やはり悪意か?と思える。

ま、所詮、Z会の宣伝文なので、ケチをつけるのもこれくらいまでにしておいた方がいいのだろうけれど、この寺西という人の発言は、たまにネットで見かけるだけに、気をつけたい名前だなと、そういうこと。

最後に、「理科嫌い」は、統計的には753状況で、高校では「理科嫌い」といえるけれど、小学校では「理科好き」の子どもが多いことがわかっている。
その高校での履修状況や、文系の「理科嫌い」が教員レベルでも繁栄されているのは、いわば当たり前で、そのことを問題視するよりも、そういった中でも、かなり一生懸命な取り組みが小学校教諭の中で行われていることの方が注目してほしいことだ。
教え方の差なんて、それこそ議論するだけ無駄だ。
そんなことをいいだしたら、他の教科でも同様のことが出るだろうし、何の為に担任が学年区切りで代わったり、異動があったり、研究会を積極的に行ったりしているのかわからなくなってしまう。
教員バッシングにさえつながりかねないことを、知ったかぶって述べないでほしいものだ。

塾の営業関係の人は、やっぱり好きになれない。


(以下、引用)
小学校の理科教育は、先生によってこんなに違う!/寺西 隆行
INSIGHT NOW!2012年3月6日(火)10:40
小学校の先生は、国算理社、学級担任がすべて教える…というのが、現在の社会人世代のスタンダードだったかと思います。
しかし今、英語が小学校で必修となり、教科担任制を導入する学校も増えてきました。

これは英語だけではありません。理科もそうなのです。それはなぜか?

…背景に、理科教育の強化と、小学校の先生の「理科好き・嫌い」にかなりのバラツキがあることが。。。

東大数学、今なら解ける!?~そして「ゆとり教育」の反作用への記事中にも書きましたが、2012年高1生…つまり、この4月からの新高1生から、全員が理科3科目必修となります。
「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」の4科目のうちから3科目。理系の場合には、この後専門教科として「物理」「化学」「生物」「地学」の学習に入ります。
事前の学校調査により、ほとんどの学校では「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」の履修と考えられましたので、Z会もこれに備え、「理科基礎5days」を2012年度からリリースしています。

この文章だけでも、「うわー学生全体の理科の学力をものすごく強化しようとしているんだな…」とお分かりになるかと思いますが、高等学校でこの強化に備えなければいけないわけですから、当然、小中の学習指導要領や指導内容についても随分変わってきています。

まず中学。社会人の方にはお馴染み!?の「一分野」「二分野」という括りがなくなり、中1・中2・中3での学習内容がそれぞれ一冊ずつの教科書に総合的にまとまった上で、中学3年間で学習する理科の時間数が95時間増!となりました。

そして…理科的能力の育成に最も大切なスタートライン、小学理科。
社会と共に小学3年生から開始する教科で、Z会も小学2年生からの変化に対応するため、「新小学3年生のための理科・社会スタート応援サイト」をつくり、どんなことから始めるのかの説明も行っています。

2011年から始まった、小学の新学習指導要領、理科は、ぱっと見てわかる変化はそんなにないのですが(専門的な内容では、「コンデンサー」を小学生で扱う、など、いろいろあります)。。。

理科を教える先生のあり方はとても変化しています。

この記事をご覧になっている方の世代では、「小学理科の教科担任」、つまり、「学級担任の先生以外の先生」に理科を習った経験のある人は少ないのではないでしょうか…?
しかしいまや、「音楽」や「家庭」などのように、「理科」教科担任をとっている小学校は増え続けているのです。
平成23年度調査によると、小学校3年生14%、4年生20.3%、5年生31.8%、6年生34.2%の学校で理科担任。
小学6年生だけ、平成16年からの変化を見てみると、おおよそ、ですが…

21%→25%→26%→28.5%→32%(H21年)→34%(H23年)

と増え続けているのです。
理科担任をとっているところととっていないところでは、教え方も違うでしょうから…「違う小学校では、理科を“違う教え方”で習っているかもしれない」と思っていた方がいいですよね。
※Z会の小学生コースで学習すれば、誰でも、全国標準+αの学力はつきますが(笑

そんな小学校の理科教育に関して、科学技術振興機構 理科教育支援センターは「理科を教える小学校教員の養成に関する調査報告書」を昨年発表しています。調査したのは、若手教員や教員養成系学部の学生。
大変厚い資料ですので、その中からピックアップして、「(小学校の先生によって、理科の理解度などは)こんなに違うんだ!」ということがわかる情報をご紹介します。

○大学の教員養成課程入学時、「理科」を選択させていたか

小学校の教員養成課程に対応する学部のうち、国公立大学では約70%、センター試験で理科を課しているのに対し、私立ではわずか9%。個別試験でも国公立大学の方が課している割合が高いため、「私立大学出身の小学校の先生は、理科の基礎学力が弱い」可能性が出てきますよね。

○小学校教員は高校時代に理科をどれだけ学習していたか

理科専修ではない先生の、高校時代の理科の履修状況は、物理28%、化学71%、生物83%。物理の履修をしていない小学校の先生が多い、と見ることができ、物理分野の指導法には差が出ると見ていいでしょう。
また、この先生群で物理的内容を「嫌い」「大嫌い」と答えた人が80%いたのも、うなずける話。。。
化学は60%、生物は20%の人が「嫌い」と答えていますので、小学校理科の物理・化学分野については、担当する先生によっては、うまく校外学習を活用しないと、子どもの「理科嫌い」を生んでしまう危険性が…

○理科非専修の先生はどれくらい「理科」が嫌いか

国算理社英を好きな順に並べたときの平均順位をみると、「国語」「算数」は「好き」寄りなのですが、「理科」「英語」は「嫌い」寄り。算数と理科が異なっているところは面白いですね。
逆に、「理科専修の小学教員」では、理科が「一番好き」と答えた人がダントツで多く、専修・非専修の差で教え方が大きく異なることが容易に想像がつきます。

○観察・実験等の指導に関する自信

A:理科専修者、B:理科非専修者、とし、「やや自信がない」「自信がない」と答えた人の割合の違いを見てみましょう。

<虫眼鏡の使い方>A:15%、B:24%
<温度計の使い方>A:3%、B:20%
<電流系の使い方>A:19%、B:52%
<上皿てんびんの使い方>A:15%、B:24%
<顕微鏡の使い方>A:8%、B:21%
<天体望遠鏡の使い方>A:70%、B:90%
<手回し発電機の使い方>A:41%、B:78%
<ろ過の仕方>A:10%、B:30%
<モンシロチョウ・アゲハの飼育>A:57%、B:69%
<アサガオ・ホウセンカ等の栽培>A:41%、B:40%
<動植物の野外観察>A:40%、B:45%
<てこの実験>A:31%、B:58%
<実験レポートの書き方>A:38%、B:68%
<自由研究や取り組み方の指導>A:33%、B:70%

生物分野はほとんど差がないのに比べ、物理・化学分野では大きな差があることがわかります。

以上、いろいろ見てきましたが、

「小学校の理科教育は、先生によってかなり違う!」


ということが推し量れるかと思います。
この差に(感覚的な)危機感を覚え、制度・仕組み・運用で対処をしようとした結果が、理科担任教員の増加とみることもできます。

いずれにせよ、高校の理科基礎(物理基礎・化学基礎・生物基礎・地学基礎の総称)導入をはじめ、公教育の中での理科教育の強化は間違いありませんので、高校生までのお子さんがいらっしゃるご家庭では、学校の理科の授業だけではなく、世の中の動向に注意してください!

橋下のハウツー

2012-03-04 23:02:24 | 戯言
「政治は1期完結を」 待機児童問題など橋下市長が批判(産経新聞) - goo ニュース

橋下は
「敵を常につくり続けることで、自分の対立軸を明確にしている」
とか
「尖った意見や施策を提示し、そこを突かれると引っ込めることで相手の読みを伺う」
とかいわれているようだ。

今回の話はどちらだろう。

不惑という言葉があるけれど、いずれにしても惑う姿が見え隠れしている。
そんなに強くはないかもしれないけれど、神輿は担ぐ者の力が問われるわけだろうから、それはそれで気をつけなければならないんだろう。

なんでブログが続くのか

2012-03-02 21:50:12 | 戯言
途切れながら続いているこのブログ。

何度も自問自答したことなのだけれども、答えを見つける度に、「違う」と叫び出す自分を発見する。

一つだけ言えるのは、とても個人的なことだということ。

そして、最近では、ようやく無欲になれたというか、だれからの目にもさらされていないといえる開放感をもって記述できている気がする。

ニュースにツッコミを入れ、自分の鬱々とした感情やこの業界の私的な不満を私的な言葉でネット空間という仮想現実にぶつけ続ける試み。
そういうことがリアルからの開放感をようやくもてている。

ブログをやりながら、リアルな人とのつながりをつくってしまったのがブログが途切れた一つの原因なんだと、今は漠然とだが素直に思える。
そういう時期になったと思い込めることが楽なんだと思う。

そういう状況の私が綴り続けるブログ。
束縛はされない開放感。
ありがたし、かたじけなし。