怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

FRIDAY2/10号「全国でダメ教員がこんなに優遇されている!」

2006-01-31 07:06:41 | 戯言
電車のつり広告を見て、初めてFRIDAYを買った。
副題「親たちよ怒れ!教育現場の最前線からの告発」。
なんとも的を得たスローガンだこと。

FRIDAYという雑誌は、その昔、問題をおこした雑誌というイメージで三文雑誌という風に理解していた。
まだ発刊されていたのかと少々あきれていた雑誌でもある。
で、基本的な中身は、単なるエロ雑誌である。そして、なぜか知らないが、社会的な記事を載せているというカンジだ。
(元々そういう雑誌だったのかな?)

さて、本題だが、「教師のしくみ」の著者である上田小次郎氏をコメンテーターに加え、記事の主張は明快に結論付けできる。(ちなみにこのコメンテーターは名のある識者ではない。ここいらへがうさんくさい。)
「指導力不足教員」へは「減給」ないしは「クビ」を処分とせよ。
事実がそうならば、それで私はいいと思う。

しかし、その論の展開は穴が多く、ゆがんでいる。
「指導力不足教員」の生み出され方に関して抜本的な改革をしていかなければ、今のように、「研修している」で責任が終わっているかのうような教委側の立場は変わらないだろう。

指導力不足教員の研修費が年間26億円を試算しているが、実際はその他の研修を含めて考えればそんな試算の仕方はおかしく、また、カネ金といいながら、同雑誌の記事には無駄な公共投資何千億円の無駄遣いを載せている。
否、五十歩百歩なのはわかっているが、無効な投資、偶発的な費用でなければ、これを削っていく努力はできようものだと思うということだ。
(公共投資は横道だが、元来無効であったり、不必要なものであったりするわけで、それとは意味がことなるといいたいのだ。)

最後に、教員側の反論として、同情的に「指導が通らない子どもが増えた」という10年前の議論をひいているが、そんなことは事の本質によらないことは昨今では当たり前の論議のはず。
(こんなことを考えられないて点がコメンテーターがうさんくさい理由の一つ)
社会問題としてとらえる見方もしているが、それを結局、文科省や教委へ矛先を向ける前に教員へ向けて締めくくっている点は、たんなる弱い者バッシングでしかない。

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職員会議のメモ書き(こんなのどう?)

2006-01-30 00:20:48 | 教育
長いけれど、読んでもらえるものだと思って、あえて分けません。
自分でいうのもなんですが、はっきりいって守秘義務ギリギリかも。
が、こういった学校の方針というのがトップダウンされてくる現状は、保護者・地域側も市民として知るべきではないかと思う。

以下、校長発言概要。
1、会議の効率化
職員会議は重要であるが、各提案の担当者がしっかりしたものをだし、伝達確認を行う程度にするべきである。それが効率化。
2、わが校は来年度「英語教育」のパイロット校に手を挙げている。
自治体内には学校が××あるので、その学校に当たる確率は××/××(×は数字の伏せ字)です。
だから、このことは暫定的に気楽に考えて欲しい。
しかし、将来的に「教科英語」が導入される見通しがあるので、今の「国際理解教育」とは合わない部分もあるが、我が校でやっておくことは若い教諭にとっては特にいい経験になる。
(結局は後者が優先のいい方)
3、今年度は「算数の研究発表」を行ってご苦労さま。
来年度からの校内研究は「国語」になる予定だが、2年で結果を出し、また研究発表という形にしたい。
4、わが校の特色の一つに、現在ある「たてわり」の強化をかかげたい。
生活指導的な意味合いをふくめながら行いたい。(来年度の中心的改革になりますとのこと。)

発言概要ここまで。

以下、反ばくしてみたい。
1。会議の効率化
最初にはっきり結論をいっておきたい。
それは効率化といわない。
結局、しっかりした原案つくりには裏の(調整などの)時間が必要になる。
これを個人の責任におくことで、「会議」名義の時間を表向き削減し、個人の時間を奪い、負荷に切り替えるというひどい話。
いわゆる責任転嫁ともいえる。
もしくはそこから引き起こされる会議のトーンダウンを狙っているとしか思えない。
つまりは会議の情報伝達会化、連絡会化であり、その多くが上意下達の強化に繋がる。
こういった学校は増えているのでは?

また、個人の折衝能力や仕事のキャパシティに依存している点。
はたまた、課題の共通認識に基づいた共通理解にならない点。
そんな点を考えても真によいものを目指すことが困難になるのは明白だと思う。
まったく暴論も甚だしいと言わざるを得ないが、こういったことが上意下達が行われているのが昨今のわが校の実態であるし、おそらく他の学校の現状ないしは近未来ではないだろうか。

校長が現職であったころはどうだったのだろう。
自分達が作ってきた伝統をどう心得ているのか理解ができないが、自己否定的な部分が改革の核心であるならば、きっちり総括してから向ってこいといいたい。(最近の税制改正と同じ理屈の批判が成り立つ。)

ここから行うべきを考えると、学校の会議などを行う能力のキャパシティは既に過飽和であり、減らすには、会議の議題の削減、すなわち「行うべきとされてきた行事や研究、校務などを削ること」あるいは「それらの刷新をある程度あきらめること」、または「会議時間を増やすために土曜日を勤務日にすること」が可能性として浮き上がると思う。
これはこれで抜本的なようで、「(藤田の定義する)当事者」が不在状況での合理化に繋がっている。

2。「エイゴ」の導入。
ひどいごまかしは、現時点で「英語教育」を行いたいと手を挙げている学校はわが校を入れて2、3校。
(現時点ではうちの学校だけだったような気がするが、そちらの情報は未確認。ただ、それ以上増える可能性はない。)
決して決定の確率を考える分母は「自治体内の学校数」ではない。ほとんど当たるハズというものであるから、きっちり進むべき道を考えておかないと、来年度に入ってからでは間に合わない。この発言の時点で校長は数字上の詐欺的行為を行っているとしか思えない。

将来を見据えて経験を積むというが、その経験が「実質上有効になるものをやる」経験でなく、「現在の枠組みで他の学校のための実験台になる」経験である以上、将来に生かせない可能性が高く、そのことを知っていながら行う不遜な教育活動である以上、そのことがいい経験であるわけがない。
なぜなら、よくある「よい結果を出すため」の学校になるのだから、その軋轢たるや尋常でないし、その経過的に行われる実験台になる児童は、その教育の負の成果を無責任な実行者によって受けるからだ。
よしんば結果オーライのものが出たにしても、指導要領改訂ないしは新訂による英語は、また、そこに収斂しなければならない課題を必ず内包するもので、そこへの移行がまた負担なのだ。
いわば、あえて遠回りをしようということに賛成をしろと言っているようなものだ。
巷の「英語教育」推進者が聞いたらどう考えるのだろう?
こんな不遜な学校に通わせたいか?

今回の研究発表も、相当の背伸びをして行っている(以前のエントリーの通り)ので、これ以上の負荷は混乱をまねくことは必至である。

3。校内研究「国語」・・・関わり合いを通して
2にも関連する(こちらも2年だから)が、2年というスパンは短く、明らかに校長の異動に合わせてやってやろうという狙いが感じられる。
また、2と合わせて考えれば大変な負担で、「よい結果を出す」が至上命令になっているような雰囲気でいいものが完成できるわけはない。
加えて、そこに乗っていける雰囲気は、現在、研究発表を終えたばかりのわが校には(断じて)ない。
第一、そんな研究のための研究をやっても、子どものためにならない。
これが当たり前の学校世間にならないようにしたい。
校内研究に付随する成果は今年度で十二分に得られているはずなのだから。

別件で個人的意見を述べると、「関わり合い」の副題から「国語」が選ばれていたのだが、私は反対で、昨今のPISA結果などを参考に考えれば、「批判的な読解」や「記述」に関する内容にしていけばよいと思うのだ。
具体的に言うと、光村図書の国語教科書は「総合的な学習の時間」を意識してつくられたふしがあり、調べ・発表の形式を「話す・聞く」で展開したものが多く、「記述(書く)」面でもそれは顕著なのだ。
一方、物語や説明文などの単元は先の指導要領改訂時に大幅に削られ、PISA結果などを生かすためのカリキュラム等を設定しにくい状況にある。
私の「国語」に対する興味は、今、「読み」「書く」の方で、「関わり合い」からイメージされる道徳的、生活規範的な「話す・聞く」や発表・表現をイメージした「話す・聞く」ではない。
そういった齟齬というのか、話の合わないところで決まってしまった「国語」なので、非常に心配なのだ。
2年で研究発表なんて、校長の見通しのなさがアリアリだ。(これで指導主事上がりってのだからアホ扱いされるんだよ)

4。「たてわり」は特別活動
一口に「たてわり」というが、現在あるものをバージョンアップさせるだけでなく、生活指導的な部分に波及させたいともなると、そちらだけで学校体制は力を集中して尽くさなければならない。
もう、2、3と合わせてあっぷあっぷである。
個人的には、この4の方針は賛成できる部分があるのだが、もう他と合わせて大盛り幕の内弁当状態でぐうの音もでない。
個人的にはこの4だけにしてほしいものだと切に願ってやまない。

新たな分掌を複数必要とする「特別支援教育」も入ってくるというのに、わが校に私の前任校のようなスーパーマンはそんなにいない。
穏やかで普通の学校なので、なおさらこんなことを思い悩んでしまうのである。

(ここで独白を一節。)
ただでさえ今の自治体は東京で名のある貧乏自治体。
人が足りない時間が足りないの施策をもってこられると正面からは対応できないことは明白なのに・・・。
結局、売名校長なのね。
以前の自治体で、指導室長が言っていた。
「喰らわば皿までの気持ちだよ。」
これは公務員で昇りつめるものの当たり前の気持ちだとすると、下はめちゃくちゃになるよな。
学校評価がどーの!じゃなくて、管理職や文科省を評価しろよな!
って、評価できる市民が不在か・・・。

(最後に)
誤解を受けやすい話を一つ。
「そんなにここで愚痴ってないで上に直接言ったら?」
そういう批判。
「そんなことはやっている。」が私。
もう無駄だとあきらめている者が多いとも思う。
これを利用して成り上がってやる!と、共犯者を目指す者もいる。(特に主幹と主幹予備軍:できもしないくせに。)
たまに、話がよくわからないという人もいる。

まじっすか?「英語教育」の恣意的方針

2006-01-29 19:47:11 | 教育
公立小、英語を正式科目に…自治体判断で08年度から
(1/26.Yahoo!ニュース)


>(英語教育などの)全国展開を認めることにした。
>英語以外にも、中学で教える内容の一部を小学校で教えることも可能になる。
>数学などが中学進学時に急に難しくなり、ついていけなくなる子供が出るのを防ぐためだ。
>このほか、ある科目の授業時間を削り、力を入れたいほかの科目に振り向けることもできるようになる。

はあ?
すごいことだ。
指導要領というクビキが良くも悪くも日本の教育の特色であったはず。
これはわが校の「英語教育」導入に少なからぬ影響を与えるだろう。
しかし、この記事にあるように「中学進学時」が想定されてカリキュラムをいじくれるということは、好き勝手にやっても「理由がつけばいいよ」といっているのと同じ。
迷走をつづける教育行政、教育施策を評価・修正・改善し、真に市民的な公教育を手に入れるのは、現状では絶望的である。

どうするの?この10万円(逗子市)

2006-01-29 00:12:16 | 教育
「優秀な教員」報奨10万円 逗子市予算案、成立微妙(1/27.asahi.com)
こんなアホな提案が真剣に議論されているのですねぇ。
「もらえる」ことが、何かモチベーションアップに繋がるとでも思っているのかしら?
学校にも50万円?
ありがとう!(厭味)
前に、アホな首相が100万を自治体に配ったら、使いどころがなく、アホな買い物に使われていたなぁ。

理科の実験事故(報道からの感想)in町田市

2006-01-28 20:48:25 | 教育
理科実験中に爆発、生徒5人けが 東京・町田の中学校(1/20.asahi.com)
こういうことが起こると、どこに責任がいくと思うのだろう。
(割と冷静に報道文ができているので、「教師の指導力が!」すぐにはいかないだろうが・・・。なんか卑屈だな。)
指示が適切に出されていても、きちんと掌握して指導しているかどうかは問われるだろうな。
それと新しい物質を扱う時の安全指導の有無。
こういうことが元で、「わが校は実験を行いません。」って極端な学校に出会ったことがあるが、そうならないといいな。
そして教師の指導力云々や生徒の悪戯でなく、大きな後遺症のない怪我ですむ事故で収束してほしいものだ。

広島大学K教授の発言から(3/3)

2006-01-28 20:31:29 | 教育
3、ものづくり
K氏は、理科の「ものづくり」の意味について「知識理解の再確認」と「体験的意味」を強調していた。
それはそれでまっとうに聞こえるのだが、実際上、その授業実践は発展的だが非限定的で、それを行うことは教師側の仕事として困難を極める。
さらにその評価については、視点の煩雑さを生み、果たして、如何に収束させるのかで多様に受け取れてしまう。
理念だけにとどめて欲しいものだと思う。
また、そのことを評価規準におこすために、苦労している学校も多いのではないだろうか。
指導要領の罪の一つだと思う。

これとは別に、「総合的な学習の時間に、製作の時間設定がある」というのは初耳だった。
理科の時間に設定するだけでなく、「ものづくり」自体の体験的重要性をクローズアップする道なのだそうだ。
しかし、学校ごとに「ものづくり」の総合的な学習の時間を設定しているなんて聞いたことがない。
いわば「なんでも総合!」を口にしているだけで、理科の指導要領を作ったというわりには他の教科・教科外に対する基本的な見識がないなという印象をもった。

4、人柄
気さくな感じがただよう人、話しやすい雰囲気をもった人ではあった。
が、自分のやりたいように、自分の好きな情報のみを探っているのではないかなと、話の仕方、流れ方を傍観していて感じた。
また、私の相方が「上意下達に対してイエスで通す」を基本にした出世意欲アリアリの人で、こういった人に頭を下げつつ「ハイハイ」やっている様子をみて、私には入れない世界だなと感じた。
私は、いい実践に頭を下げる人間でありたい。

今回の実践で理解したのは、「思考・判断」を柱とする指導要領の理念こそ立派だが、それは豊かな「物量・時間」が確保されているか、あるいは、ある種の私学のように、児童の選別が前提条件で行われていることが必要だということ。
習熟度別で分けても、意外にどこも「教え込みの思考・判断」が見られ、もともこもない。
やはり、「知識・理解」「習熟・体験」とのバランスや順序は必要であると思う。

他校の研究発表を見にいった「算数」

2006-01-27 20:51:45 | 教育
なんともこれでいいのか。我が校と同じ算数の研究発表が行われた。
たった○○(伏せ字は数字)しかない自治体で、同じ教科、あんまり変わらないテーマ。
バッティングもいいところだよ。うちの校長は悪魔だね。
研究のため、自分の経営のため、半数以上の人員入れ替えをやってのけたのだから・・・。
しかも、他の学校とバッティングし、変容の見取りが困難になることを知っていて、2年で「発表」を目指したのだから。

残念ながら、わが校の勝ち。(別に勝ち負けじゃないのだが・・・)
「がんばったんだろうなぁ。」と思うと同時に、「レベルが低いよなぁ。」
やっぱりうちの自治体の研究部のレベルに比例しているなというのが感想。
紀要も発表も穴だらけ。つっこむのもかわいそう。

でも、
だ。
研究の内容がどうだったかも大事だが、これを機会に教職員が同じ方向にまとまったかも大事。
これは外からではわからないな。
でも、指導方法を系統化したり、統一したりする部分があると、共通理解も進むし、授業技術の向上するきっかけにもなる。
そういった意味で有効であることを望むばかりだ。

講師の元横国の片桐重男氏は口の早い先生だったが、「数学的な考え方の育成」の重要性を具体的に説いていた。
正直、それはそれで有効な話であったが、結局、現在の指導要領の理念で実践していくと、相当の時間が必要であるしことは考慮されていないと感じた。
また、否定的に述べていたが、計算の習熟も考えに入れないと、結局、その場で考えればよいという結論で、その数学的な技能を扱いなれるという学習的意義がなくなるように感じた。
必要ないと考えているのだろうか?

ちょっと思い出した「やらなかった1/2成人式」

2006-01-26 20:50:14 | 教育
KOYASU先生のブログ1/26を読んで、なるほどー!と思ったと同時に、自分の昨年度の実践を振り返ってしまいました。
以下、感想。

このエントリーを読んで、どきっ!っとしました。
昨年度4年生でしたから。

>自分たちが育つのによりよい環境を探求する方が価値があると思う。
これを「生い立ち学習」とよぶのでは?とは私は思っていました。
だから、最初は「?」。
読み進めてみて、ああ、「強要」という視点が注意すべき点なのだなと理解しました。

昨年度は国語の教材をきっかけに、総合的な学習の時間に、自分の生い立ちをたどり、探求活動をさせました。
「そのことをどう表現したい?」
とたずねたら、子ども達は
「ここまで成長してきた自分を誇り、喜び、親や周りの人とその気持ちを分かち合いたい。」
と言い出しました。
「では、時間をとっていいから自分達で企画してやってみない?」
と言うと、
「では、教科書のような1/2成人式はやりたくない。その名前もいやだ。自分達ができるお祝いのようなことをやって、周りの人を集めたい。」
とのこと。


「式」とどうちがうのか?・・・と思っていたら、それぞれが、屋台形式で、そのための企画を自由に考え、相互に楽しむことを基調に、親や地域の人をよべる(地域の人は無理でした)配慮もし、それなりに楽しい形になりました。
彼等は「祭り」と呼んでいたけれど、そう表現するにははばかられる内容でした。
さらに、クラスで統一感やテーマ性を説明する意味もこめて、卒業式のように「呼びかけの言葉」を行い、感動の涙を流させたりしていたので我ながら驚きました。
(これは多分に隣のクラスの、いわゆる「強要」の「式」が影響してはいましたが)
意外に親、地域、先生への意識よりも、自分達の成長、これからへの希望を表現したいという意識の方が目立っていて、私としては、来てくれる保護者達に対して「失礼ではないか」が気になり、気が気ではない日になりました。

しかし、当人達は、「祭り」の後で、自分達でやり遂げた実感を語り、様々な役割が光ったことをほめ合っていました。

終わってみて、複雑な感動がありました。
(私は、この学年を偶然のクラスだと思っています。それほど自分にマッチした子ども集団だったからです。だから、この実践も偶然の出来事のような気がして、こういった語り方が今までできなかったのです。)
もって行き方のハウツーや設定も大事ですが、児童の主体的な活動には児童のポテンシャルを確認させ、引き上げさせる動機付けが必要なのだと思いました。

広島大学K教授の発言から(2/3)

2006-01-25 00:04:16 | 教育
2、動的自然感
「「反証」教育の提案。」
「実験がうまくいかないのは当たり前という感覚が、指導する各教師にないとダメ。それが「科学する」行為へ繋がる。」
まっとうだが、実現性のある教育課程として成り立つのかといえば否となると思う。
理科のみに無限に時間をかけていけるはずもないことが自明ならば、「確証」「反証」から学び、知識の体系へすり寄っていくことは不可能ではないが、高級な話だと思う。
その個別対応や集団の扱いは熟練を要するし、下手に行うと、作為的な支援を多く生む可能性を認めなければならない。
いわゆる「支援」型の指導方法をとりなが蕕任△襪函△修亮?箸亮衙,亡悗靴涜燭?量圭發鯤?┐襪海箸砲覆襦

「反証の理科教育」が現場へ定着しなかったのは、その実践の困難さであり、時数確保の不安定さであると思う。

「なぜか流行りませんでしたねぇ。」
そううそぶくK氏は、真の実利的理由を見て見ないふりをしているようで気分が悪かった。
そういった実験的な研究を積み上げることで満足感のみを得ようというのならば、それは理解できるが、万人向けでないし、公立的でも効率的でもでもない。
やはり、マニア向けの人なのだなぁ。

私は同じ時間数をかけるのであれば、仮説実験授業などのように、スモールステップをはっきりとくみ上げるタイプの方が性分に合っている。

広島大学K教授の発言から(1/3)

2006-01-24 00:05:28 | 教育
いけないいけない。
広島大学のK教授の話を書き忘れるところだった。

1、理科教育の今昔
「指導が下手でも科学を語れる教師が昔はいたが、今は少なくなった。」
(だからどーしたがないのだが、そういった人が面白かったのだそうだ)
「今は、そういった人が生み出されにくい。」(さらにだからどうしたである。)
「(理科を含む)授業がある程度うまい先生は増えてきたが、残念だ。」
この人は何がいいたいのだ?

「理科教育のシステムとしては、センター校形式がいいのでは?」
「教材研究は各教師には負担であるし、各自治体で、そういった学校を持てば、教材活用の高率化に繋がるはずだ。

もし、先の話を受けてのことならば、センター校形式の人材として「科学を語れる人」を置くことになる。
つまり、NHK教育などの名人先生のような存在をイメージしているのだろうか。
これは学校教育の人材的枠組みを大きく変革する提案だが、今いる教師はほとんど対象外であり、結局セクトを立ち上げたいというオタクな話であって、研究云々から離れ、失礼なこと甚だしいことを言っていたということになる。

K氏は理科教育という枠組みからものを言っているだけで、大きな視点を持っているとは言いがたい人のようだ。
教科理科を特化する発想だが、そういったことでは、さらに科学離れ、理科離れを助長してはいないだろうか。
科学を平たく語るのが理科教育ではないのだろうか(これは私の思い込みかもしれない)。
科学の実際は「こんなもの」として事実を見せるのは悪いことではないが、やはりそこにも体系は存在し、平易な理解を目指す指導は必要だと思う。

田原総一朗に同意してみる

2006-01-23 00:07:24 | 教育
学びの場.comで田原総一朗の「戦争を知る最後の世代として、子ども、教師、親たちにいいたいこと」というインタビューがのっていた。
朝まで生討論のイメージが強いのだが、意外にこの人の主張というのは・・・と、ちょっと感じ入った。

>マスコミが世論を動かすのではありません。マスコミは世論に迎合するから、世論がマスコミを動かすのです。

なるほどそう言う事もできるであろう。
が、マスコミは、だからこそ責任があるのだとも言えると思う。

>小学校低学年の子どもに主体性はないと思う。今の基礎学力重視の動きは、1970年代に戻ることです。そうするとまた「受験地獄」が、という人もいるけれど、人生、2、3度ぐらい地獄があってもいいと思いませんか?

レトロで語られてもなぁ・・・。ま、教育者でないから仕方がないか。
でも、「小学校低学年の主体性」は、その通りだと思う。

>教育問題については、教育とはなにか? 教育はどこまでのことができて、どこから先はできないのか? ということをはっきりさせる必要がある。
>たとえば、「道徳」は学校では教えられないと思う。学校に入る前に、家で親がきちんと教えておくべきことでしょう。


「道徳は教えられない。」は受け売りだが、親が教えるのは「しつけ」的である。
教育の理念、範囲、機能、限界は実務的な点と照らし合わせて考える必要は同意。

>「自虐(史観)」というのは一部の人がそう言っているだけであって、過去に対して余り誇りを持ちすぎるのは危険だと思う。歴史については、反省するぐらいがちょうどいい。
>「昭和の戦争が正しかった」などというのは冗談じゃない。あれは断固正しくなかったというべきです。
>ただ、日本の歴史が全部ダメかというとそんなことはありません。日本が誇ってもいい面もたくさんあります。


至極まっとうな意見。同意。

日本の、これから「ほんとうに増税しかないのか」NHK

2006-01-22 20:31:00 | 戯言
テレビ番組というカテゴリーでも作ろうかしら。(自爆)

「消費税引き上げはするべきか、しないか」の変な2択アンケート前後から、たまたま見た。

この手のスペシャル番組は、市民を引きずり出し、スポンテニアスなものを狙っているのはよくわかる。
が、「議題が市民不在で議論が成り立たない」「活性が低い」「コメンテーターが引っ掻き回す」「アンケートが変な二極構造を定義し、終始へん」などで、その多くが(私にとっては)つまらない。

さて、今回の番組について「議論の成立」をとりあげたいのだが、その前に、コメントする前ふりで叩いておきたい。ひどいコメンテーターをあげておく。
村尾 信尚(関西学院大学教授、元三重県総務部長、元大蔵省主計局主計官)だ。
数値的に平均化した日本人をモデルに議論すべきという主張で一貫していたが、そのため、全ての議論がねじ曲がっていた。
なんでこんな人をよんだのか?プロデューサーも笑うしかないだろう。
谷垣 禎一(財務大臣)の指定だったとしたら、まあセンスのないことこの上ない。
具体的に言いたい。
一番醜悪だと思ったのが「小さな政府」の議論で、先進諸国と比べ、日本人一人当たりの税源負担が低いという数値を並べ、小さな政府にしないと税制が成り立たないという議論の摺り替え。
平均を用いる時に偏差、つまりこの場合所得格差やその国こ経済状況、経済の成り立ちを議論にいれなければならないし、そういった声が市民の側からずっと上がり続けていたのに、そんな議論の流れと関係のない話で事を断じようとする暴力。
変にグローバリゼーションを出すと足下を救われる好例。
ハッキリ言って、こんな人が大蔵省主計局主計官だったなんて、この人物の累積された責任は犯罪者並みかもしれない。

いや、緩く言っておこう。こういった場に出るには「頭が悪すぎる」。

さて前ふりはこれぐらいで本題に入ろう。

役回りだろうが、谷垣 禎一(財務大臣)は終始議論をはぐらかし、決して政府の方針を変えるようなことは言わなかった。
当たり前といえばそうだが、番組の最後、ロスタイムのような中で発言した主婦が、この番組全体の流れに対し、的確な指摘をしていたと思う。
「私たちは政府に不信感をもっている。」
つまり、消費税の議論が端的だが、「うまくいく」といい続けて税の導入や引き上げを行ってきたくせに、「うまく」いかずにやってきた政府があり、その政府(つまりは自民党)が、また「引き上げをしたい」などと言ってきても、我々庶民の生活は冷えきっており、そんな「うそ」つきの政府を信じるわけにはいかない。
そういうことだ。
まあ、国民の過半数から支持を得られていない政党の言うことを、盲信して、全てを任せるなんて自殺行為だと思う。

あるIT起業家が「消費税を上げれば、結果的に所得が多い者が支払う額が増えるので、決して弱者だけに負担を与えているわけではない。」「苦しければ企業努力も必要だ。」と言っていた。
非常に議論がかみあっていないことに気付かない空間だったのだろうことがよくわかる。
営利を求める企業の努力はする余地もあろう、が、個人の生活は限界を超える(死者まででていると報告があった)努力を強いられる必要があるのだろうか?

今回、具体的な数字をもって議論を引っ張る市民が多かった。これが議論を有効にしている場面が目立った原因だと思う。
谷垣 禎一(財務大臣)も顔色を何度も変えていた。
他のコメンテーターは人口の圧倒的多数の味方をして、もっと突っ込むべきだった。
一人気を吐く作家は感情に左右され、危なかった。

寝込んだ

2006-01-21 20:36:00 | 戯言
自治体教育研究会発表直結の研究授業(長いな)と学校公開&道徳地区公開講座が重なったと言えば理由がはっきりしていそうだが、普段はこんなものじゃ倒れない。
保護者会や通信簿の所見書きの方がよっぽど消耗するくらいで、自慢じゃないが、普段であれば授業作りにはそんなに困っていないのだ。
(研究授業は他の教職員との折衝が含まれるので、少々疲れはするが・・・)

問題は私生活。
こう書くと愚痴中の愚痴になるのは知っていてあえて書く。

今年度は非常にプライベートな問題が続く。(これはここには書かない。ヘヴィ過ぎるので。)
とどめになってほしいのだが、今の問題は出産。
うちのカミさんが臨月である。
今、未修学の息子と二人暮し。これが不自由なこと・・・。

しかし、世のママ先生はこういった生活をやっているのだろうな。
子どもを寝かせ、夜中や朝方早くに起きて仕事。
しかし、研究授業レベルは打ち合わせごとが必然的に多いので、本当に今回は困った。
私に絶対的な打ち合わせの時間がないのだ。
しかも、いろいろ関心・意欲的に違いがあるので、顔を突き合わせてさえ、なかなか話が進まない。
当然と言えば当然なのだが、会っても、こんな感じで時間をつぶしてはたまらないという感じだ。

人生の当然ありがちのエポックが、こうものしかかってくるのだから、ママ先生の実践力アップが普通の状況より難しいのは当然で、そういった点についての配慮というのは大事だなぁと今まで以上に感じている。

あと2週間くらいかな。
双子を得て、私の人生はまた大きな余波を受ける。
寝込んでも夢うつつで、そんなことを心配しながら、今は体力を回復しなくっちゃ。