和歌山「正論」懇話会 学力向上へ「少人数クラス」 西村和雄氏講演(産経新聞) - goo ニュース2008年3月28日(金)08:15
学力低下論の先鞭をつけただけあるわな。この偏った論調。
この記事のまとめが正しければ、彼は根本を問わずに観念で「学力」を捉えていることになる。
彼のいう「自学自習でき得る教科書」のイメージとはどのようなものだろう。
それは過去に存在したのか?
知識を指標に「学力低下」を主張してきた彼らしい改善策なのではないだろうか?
また、「少人数」を主張しているが、昨今の「少人数」というのは「習熟度別」とセットである。
そのイメージについてはどうなのだろうか?
それとも、アメリカあたりの数字で18人クラスなんていうことをイメージしているのだろうか?
生活指導や特別活動などに特色をもつ日本の教育システムに、それが本当に抜本的な見通しを持たせるものなのかは甚だ疑問だ。
共通一次試験とノーベル賞の相関関係を持ち出して「基礎学力論」はレトリックがわからない。
もし、共通一次試験が「学力低下」の契機になったのであれば、レトロにするのか?
それとも別の方策をもってするのか?
記事からはよく見えないが、言及されていないところをみると思いつきだったのかもしれない。
記事のまとめかたが悪いのかも知れないが、最後のパラグラフが改善策なのだろう。
>少し授業を増やすだけでは本質は変わらない。
それはそうかもしれない。
それ以前に、授業時間を増やすことが得策かどうかも判断した方がいいのではないだろうか?
>こま切れの非効率なカリキュラム
カリキュラムは効率的であることは求められるが、多様な実態に応えられるものでなくてはならない。
>や教師の主観的な評価制度を見直さなければいけない
「教師の主観的な評価制度」というのは何を指すのだろう。
教師の力を判断する評価制度(人事考課?)を意味しているのではなくて、おそらく子どもに対して教師がする評価のことだろう。
これも諸刃の剣な議論だ。
ただ、何でも誉めろとか、トップダウンによる民主性、自主性の確保されない学校生活や学校社会であるならば、そういった中での子どもの評価というのは、教師個人のみならず全体主義的な形式評価に過ぎず、個人は抑圧されていく可能性は否定できない。
そして、そのような中で、自由闊達で伸びのある「学び」は様々な制限を受けるだろう。
今回の指導要領のように「愛国心を育てる」というねらいが強調されれば、国というシステムを批判的に考えていく「学び」などは反動的、反愛国的になり、評価は最低ランクになってしまうだろう。
例えば、卒業式は親の方を向いて想いを告げたいといっても、形式上日の丸に背を向けるのは反愛国的なのでダメという評価になる。
西村氏の主張が観念的だと思うのはそういったレベルで語られてしまうと、結局は元も子もない話になってしまう点。
和歌山「正論」懇話会の第53回講演会が27日、和歌山市内のホテルで開かれ、京都大経済研究所長の西村和雄氏が「日本の教育の現状と望まれる改革」と題して講演した。
西村氏は講演で、ゆとり教育がもたらした学力低下の改善に向けて「単に授業を増やすだけでなく、少人数クラスの実現と自学自習できる教科書が必要だ」と強調した。
西村氏は、共通一次試験導入後、大学生の基礎学力が大きく低下したことをデータをまじえて紹介。そのうえで、「20年後には日本からノーベル賞学者は出なくなる」と指摘し、基礎学力低下に対する危機感をあらわにした。
一方、西村氏はゆとり教育の見直しについて「少し授業を増やすだけでは本質は変わらない。こま切れの非効率なカリキュラムや教師の主観的な評価制度を見直さなければいけない」と訴えた。