怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

祝:石原の知事選不出馬

2011-02-23 23:33:36 | 教育
石原知事不出馬 都民に驚きの声、なお翻意求める意見も(産経新聞) - goo ニュース

産經新聞が石原出馬を求め、煽っているのがよくわかる記事だ。

最初の三文のみが実質的な記事。
あとはゴミくずコメントといってよいだろう。

ただ、
>都民から驚きの声が上がった
とあるが、それは都民総体でも、代表の声でもない。
たんなる一都民という極個人的な感想でしかない。

それをもって煽る産經新聞というのは体質的に東スポ並みなのだろう。
(いや、東スポは確信犯的だから、そっちの方がエライか。)

石原も、ここですっぱりと辞めてもらいたいもんだ。
悪政、悪言は今までの都知事の中で最多だろうし、ぶれないのではなくて偏りがキツく、融通が利かないのだ。

これで都の教育行政も少しはよくなってほしいが、こちらの方は、まあ、誰が知事になってもよくはならないだろう。
石原時代に突き崩されたものは取り返しがつかない。
これからの時代、少なくとも都では、教育に頼るのはしばらくやめた方がいい。
頼らずに自らの手で、よい方向を模索してほしい。
ちょうど、がれきの街から始めるようなものだ。
我々と手を取り合ってほしい。

とりあえず、その前提として、石原は彼自身の意思でいなくなる。
自分たちの意思を持つべきだ。


(以下、引用)
石原知事不出馬 都民に驚きの声、なお翻意求める意見も
産経新聞2011年2月23日(水)08:00

【統一選 2011】

 22日、突然伝わった石原慎太郎知事の次期知事選不出馬に、都民から驚きの声が上がった。だが、この日は知事から正式な表明はなく、行政や議会関係者は戸惑いもあり、なお出馬を求める意見も出た。

 大田区の自営業、横沢史和さん(66)は「風見鶏みたいな政治家ばかりの中で、石原知事のようなりんとした人が必要だ。ブレーンをうまく使い、自分が立てた政策を実現させる力がある石原知事は、都のリーダーとしてよかったのだが。残りの知事候補者は心もとない」と心配そうだった。

 都内のある小学校長は「石原知事は公立小中学校の国旗国歌問題などで毅然(きぜん)とした態度をとり、最後のとりでだった。絶対にはしごを外さない人で、私たちも安心して教育を進められた。せっかく都全体の教育が正常化に向かっているのに、あと1期くらい頑張って」と惜しんだ。

 土屋敬之都議(日本創新党)は「都官僚を制御して、ディーゼル車の排ガス規制、東京マラソンの開催、認証保育所の設置などのアイデアを出すブレーンを持つ人材は他にいない。石原さんのような国家観を持った指導者が担わなければ、日本崩壊の序曲が始まる」と憂いた。

 この日、都内のホテルで行われた自民党都連の総決起集会に出席した同党豊島区議団の村上宇一幹事長は「石原知事に出馬を求める言葉が数多く出て、会場は割れんばかりの拍手だった。23区の幹事長会も文書で出馬を要請している。(知事は不出馬を石原伸晃自民党幹事長を通じて支援者に伝えているが)親子の会話の細かいことはわれわれには分からない」として、多くの自民系区議らは、知事の翻意に期待をしているはずだと述べた。

 五輪招致などで行動をともにしてきた山崎孝明江東区長は「石原知事はまだ国や都の先行きを憂えている」と話し、出馬の可能性は否定できないとした。


食べられるというのがいい

2011-02-22 23:48:30 | 教育
「長田ゴーヤ作戦」 区内全域、建物に緑のカーテン 暑さ対策、来年度から(産経新聞) - goo ニュース

別に目新しいわけでもないことを、さも鬼の首をとったように述べる産經新聞という構図がイタい。

ゴーヤでなくても、朝顔やその他のツル植物などで涼を得ることができるのはよく知られているし、実際に行われている。

鉄筋コンクリートの大きな建物であれば、ヘチマでもキュウリでもいけるだろう。
うまくやれば3階建ては余裕で、5階建ての建物でも屋上まで届く可能性が充分ある。
それらと比べると、ゴーヤ自体は、それほどの高さはのぞめないし、葉の大きさも充分ではないだろう。

ゴーヤは、はわせるネットなどにかかる重さが比較的軽いため、木造住宅などを利用した場合、負担が少なくて済む。
また、事後の処分に関しても、ツルも枯れると比較的くずしやすいと思われる。
そういった意味で、わりと小さい建物に向いているかもしれない。

もちろん、マンション等で、各階から上へつたわせるという方法もあるが、集合住宅の場合、各戸とのコンセンサスなど別な問題が生じそうな気がする。

ゴーヤは一本で植えるとうまくいきにくいなど、いくつかコツめいたものはあるけれど、育てやすいという点もいい。

なにより、そこそこの収穫が望めるのがいい。
(大量にとれてしまうと困るかもしれないが・・・。)

来年は露地物のゴーヤが増えるかもしれない。
(「ニュースをみてやってみました」なんて声はいらないが・・・。)

ツッコミとランキングとアクセス数と

2011-02-21 22:00:33 | 戯言
記事にブログ村のバナーを貼らないようにしているのだけれど、アクセスが少々増えたのもあるが、ブログ村とのリンクイン&アウトも少しあるようだ。

今回の復帰にあたり、密やかにしたいものなのだけれども、どうして見に来るのだろうという気持ちは少しある。
最近、見に来る方は何かしらのコメントをいただけるとありがたいです。
ま、無理にとはいわないし、そんなに深刻に気にもしたくないので、このままでもいいのですが、少々気持ちが悪いということの表明です。
ブログのようなものにはつきものですけれどね。

多くはgooのニュースにツッコミを入れる形をとっているのだけれども、以前はニュースもとに、この記事にはこんなブログでレスがありますよって記録が表示されていたのだけれど、そんなめんどくさい機能はすでにないんだよね。

ランキングも、今日は12位まであがってしまった。
なんだかなぁ~。

またしばらく休もうか。
気兼ねもないしね。

読売新聞の煽り体質2

2011-02-20 15:33:35 | 教育
億単位の損失、手記提示も…止まらぬ教員不祥事(読売新聞) - goo ニュース

前の記事からの意味をこめて、皮肉を言おう。

>不祥事根絶対策専門家会議

教員だけでなく、全公務員、否、全国民的な対応をお願いする。

対応なのか、対応したという説明責任のための書類作りなのか。

なぜ、こういうひどい言い方をするかというと、
>止まらぬ・・・
に反応したいから。

読売の煽りもひどいもんだ。
(あくまでも読売の記事のあり方のみにツッコミを入れたいだけ。)

無論、この件に寄らず、他者を傷つける犯罪を起こす教員は、人として許せないし許されない。
また、被害にあった方々の悲しみ、苦しみはいかほどかと思ってる。

(以下、引用)
億単位の損失、手記提示も…止まらぬ教員不祥事
読売新聞2011年2月20日(日)10:53

 止まらない教員の不祥事に、各教育委員会は対策に頭を痛めている。

 「児童買春で逮捕されました。事件は報道され、妻と子どもは疲れ果てていました。皆さん、どうか、私のような教師にならないで下さい」

 北海道教委は08年、実際に懲戒免職された教諭の手記を載せた「不祥事防止リーフレット」を全教職員に配布。40歳の高校教諭が懲戒免職になった場合、「給与1億4300万円と退職金2800万円を失う」と経済的な損失額を示した。

 しかし昨年10月、女子高校生(15)に対する児童買春で小学教諭が逮捕、懲戒免職になるなど、根絶には至らないのが現状だ。

 昨年、逮捕者が相次いだ長崎県教委は、不祥事根絶を宣言。採用方法の見直しのほか、原因解明のため、強制わいせつ罪などで起訴された元教員の公判の傍聴も始めた。教え子への強制わいせつ容疑などで小学教諭が08年に逮捕された広島県教委は、外部専門家でつくる「不祥事根絶対策専門家会議」の提言を受け、研修内容の見直しや個別の生徒とのメールのやり取りの禁止などを進める。

読売新聞の煽り体質

2011-02-20 11:36:45 | 教育
わいせつ教諭相次ぐ…被害の4割、勤務先の子(読売新聞) - goo ニュース

前提としての立場
1.わいせつ教諭自体は断じて許されない存在である。
2.こういう教諭の発生が学校、教員の信用を大いに失墜せしめている。
3.厳しい処分をもって臨むことはこれからも必要である。

それで、である。
結構書きにくい話題なのだけれども、読売新聞の論調として、何を言いたいのかを疑ってみたい。

>各教育委員会は処分基準の厳格化など、再発防止に取り組むが、十分な成果は上がっていない。

という点に問題点をおいている。
では、どうすればいいのか?といった提言はなされていない。
親の不安を煽り、教員の信用を失墜させる発言をしておいて、主張がないというのはいかがなものか?と思う。

いつも教員に対して、よく言えば厳しい、悪く行けば根拠のあやしいバッドなイメージ吹聴している読売新聞なだけに、今回も何かのイメージ操作なのかと疑ってしまう。

これは被害に遭われた人に対して配慮のいたらない話として誤解を受けるかもしれない(そんなつもりはさらさらないのだ)が、わいせつ犯罪の総数を併記する必要もないだろうか?
例えば、少なくとも性犯罪者の年間総数(平均)との比較でいえば、処分数は2%くらいになりはしないだろうか?
(数値をどこからとってくるかによるが。)
また、生徒、児童の年齢のみを比較統計の対象とすると、かなりの高率になるかもしれない。
こうなると教員、あるいあ教委という立場で、根本的な対策をとるべき部分の早急な改善が求められるだろう。
数字を用いるのであれば、それなりの解釈をしてこそ、この手の記事の意味が出てくるのではないだろうか。
もっと、「被害者を出さない」という方向での提言として役に立つ記事にしてほしいものだ。

(以下、引用)
わいせつ教諭相次ぐ…被害の4割、勤務先の子
読売新聞2011年2月20日(日)03:06

わいせつ教諭相次ぐ…被害の4割、勤務先の子
(読売新聞)

 全国の公立小、中、高校と特別支援学校で、児童買春や盗撮などのわいせつ行為により教員が懲戒処分を受けるケースが相次いでいる。

 1999年度に懲戒処分は97人(うち懲戒免職56人)だったが、その後、増加傾向をたどり、ここ数年は、150人前後で推移。2009年度は10年前の1・4倍に増え、懲戒免職も2倍近くに上った。被害者は、勤務先の児童・生徒が4割を占めた。各教育委員会は処分基準の厳格化など、再発防止に取り組むが、十分な成果は上がっていない。

 文部科学省が47都道府県と18政令指定都市の計65教委を通じて調査した結果、09年度にわいせつ行為で処分された教員は138人。内訳は懲戒免職100人、停職24人、減給9人、戒告5人。懲戒処分には至らない訓告や諭旨免職も15人いた。09年度の事例(訓告、諭旨免職含む)を見ると、被害者が、勤務先の児童・生徒だったケースが63件(41・1%)で、対象行為は「体に触る」が55件(35・9%)、「性交」が33件(21・5%)、「盗撮・のぞき」18件(11・7%)など。中学教員が57人と最多で、高校教員46人、小学教員38人と続く。

五輪から学ぶ事

2011-02-17 18:24:00 | 教育
五輪メダリストらが小学校で授業=京都市(時事通信) - goo ニュース

運動文化論的な発想から考えても「オリンピック」という文化的事象は外せない。

各種のプロスポーツのおける、あるいは国のメンツをかけての競技においても、だが、クラブチームのあり方の問題は教育の問題とも複雑に関係している。

クラブチームが、教育に、あるいは子どもの発達に対して理解がないと、その子の人生はどこかで確実に荒れるか、貧しいものになってしまう。
(実際問題、野球やサッカーなどに、そういった意味で人格が崩壊しているものが存在しているのは社会問題といっていいかもしれない。)

競技会において、「競争」というものが短期的な至上命題としてあるのだが、運動の目的はそこにあるのではないことを確認していくことが重要だろう。
個人がその運動を通してどのように高まるのかを衆人はドラマティックに捉えて見るのだし、運動を極める選手達は、そのことの最大の体感者として、また、最高の達成感を得られる克己の勝者としての喜びを抱きしめることができる特別な存在としてある。

運動のもつ文化性の拡大は、その時々の人類の貴重な活動として取り込まれるものだ。
そのことをどこかで学ぶ機会が学校にあればいいのではないかと考えるのが私の立場だ。

学力向上をやめよう

2011-02-17 18:22:10 | 教育
学力向上キャンペーンをやめよう。
教育カイカクもやめよう。

必要なのは学力維持程度を前提とした学習環境の豊かな整備である。
教育改革ではなくて全人が教育を学ぶこと機会を得ることである。

もちろん、これもノルマではないし、ゼッタイとかいうつもりもない。

そういった方向にシフト、ないしはそういった方針を心に持つくらいでいいから、カイカクなんてものは無駄だからやめようということだ。

現実問題として、学力レベルにおいて、何か深刻な問題があるわけではないのだ。
そう言っているヤツらの声を無視しよう。
そんなことに構わず、自分の子ども達がよりよく過ごせるよう配慮すべきだし、そこから望める社会を考えよう。
それが一番ラクなはずだから。

そういう大きな構えでいようという話だ。

だから、学力向上なんて言葉はつかわずに、子どもに身に付いた学力らしきものをともに喜び合おう。
競争からは次の競争しか生まれない。
競争の連鎖はとどのつまりは不幸な結果しかない。

日本だけが純化せよというつもりはないが、教育はもともとローカルなものだ。

国際競争力を保障するなんて考え方にのっかって、子どもが、成長が、発達が、人格が歪んでいくのを放っておいているのは誰なのか?
そこを考える機会を少しだけもとう。

私は知っているぞ。
そういう世界で生きづらさを覚え、死んでしまおうとしたり、他者を殺そうとした子を。

その子にも親にも責任はない。
そういう立場で考えられれば、どうすればいいかは自明だろう。

悉皆学テというゾンビ、再びか?

2011-02-16 22:13:08 | 教育
中教審会長「学力テスト全員参加に」 民主改革に慎重(産経新聞) - goo ニュース

こんな教育のわからない人の発言を重そうに取り上げる事自体、産経新聞というものが煽っているということの照明だ。

悉皆学テについての批判は既に出尽くし、それが害悪であることが部分的には、現実におきた事件で実証までされ、野党時代の民主党でさえ悉皆を批判し、選挙で勝ったのだから、やはり悉皆は復活してはダメなのだ。

状況批判ではなく、そもそも論として考えても、学テがもたらした歪みというものは、抽出であっても批難されるものだ。

また、教員免許についての言及もそうだ。

既に実施されている免許更新性の内状が、まったく目的に合っていない、形骸化しきったものであることはわかっているのだ。

これもやめよう。

(以下、引用)
中教審会長「学力テスト全員参加に」 民主改革に慎重
産経新聞2011年2月16日(水)08:00

 中央教育審議会の三村明夫会長(新日本製鉄会長)は15日、中教審会長再任(2期目、任期2年)を受けて開かれた会見で、政権交代を受けて進められる全国学力テストなどの教育改革について慎重な考えを示した。

 中教審は、国の教育政策全般について審議する文部科学相の諮問機関。そのトップの三村会長の発言は、文科省の政策にも影響を与えそうだ。ただ、会見後には「個人的意見」とも説明した。

 三村会長は、民主党政権が全員参加方式から抽出方式に改めた「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)について「サンプル(抽出)調査でいいのか。悉皆(しっかい)(全員参加)調査にすべきだと思う」と述べた。

 学力テストは、政権交代後、日教組の「競争排除」の論理を受け入れる形で抽出調査になった経緯があり、文科省が見直しも含め検討中。

 また、民主党政権が見直しを進める教員免許更新制についても「政権が変わったから、いきなり変えるものではない」と述べた。

 「教員の資質向上は教育の基本。一度免許をとったらOKということではない」とも述べた。

 教員免許更新制は日教組が廃止を求め、新政権下で諮問を受けた中教審が現在、審議中。ただ、「変えるとしたら、中教審でじっくり議論すべきだ」とも強調した。

何をやっているかわからない小学校英語

2011-02-16 21:37:47 | 教育
小学校の必修英語やっぱり教員の6割「負担」(読売新聞) - goo ニュース

額面ではコミュニケーション能力の素地を作るという主張があるのだろうが、そんなもの「英語活動」である必要性はない。
もちろん、こんなもので英語の力なんて育つわけがない。

では、きちんとやればいいのか?といわれれば、そんなところにどれほどの労力(人材、費用、時間など)をかければいいのか?という議論をやれば、費用対効果なんて限りなくゼロに近い。

そもそもなぜ「英語活動」が導入されたのか?
といえば、端的には英会話教室などの業界が一儲けするためだと断じていいのではないだろうか。

教科的なものが増える小学生をターゲットにもできるし、指導する側の教員も受講対象にできる。
さらに、自社から英語の授業の補助として講師が派遣でき、自社のメソッドを広告できる。
こんなぬれ手に粟な話は、他にないだろう。

金が回れば、それは政治家連中を動かすのだ。

小学校における「英語活動」を公約に並べていた連中や、この手の懸案に賛成、推進してきた議員連中の顔を思い出してもらいたい。

中教審いらい、小学校にふってきた施策の数は両手はもちろん、さらに手を増やしても余るほどだ。
それらに馬鹿正直に対応してきた現場教員達を、新自由主義の推進でない方法で救ってもらいたい。

簡単に言えば、さっさと「英語活動」をやめることだ。

なに、簡単だ。
まずは「英語活動」から「国際理解教育」へ揺り戻しをおこなえばよい。
そして、有料の英語の支援員を学校から駆逐すればよい。
地域に任せるのだ。

(以下、引用)
小学校の必修英語やっぱり教員の6割「負担」
読売新聞2011年2月15日(火)14:09

 今年4月から必修化される小学校英語について、教員の6割が指導に負担を感じていることが15日、出版・通信教育大手「ベネッセコーポレーション」の調査でわかった。

 同社が昨年7~8月、全国の公立小学校から抽出した8000校の教務主任と、高学年の学級担任を対象にアンケートを実施。計約4700人から回答を得た。

 それによると、学級担任の62・1%が「英語指導に負担を感じる」と答え、「英語専門教員が教えるべき」との回答は72・9%に及んだ。課題を複数回答で挙げてもらったところ、「教材の開発や準備のための時間不足」(57・9%)、「外国語指導助手(ALT)などとの打ち合わせの時間不足」(39・7%)、「指導教員の英語力」(33・6%)などが多かった。

メンターの時代を拓けないか

2011-02-15 18:34:47 | 教育
教職の世界での希望を書いてみたい。
戯言だと笑っても、そういう方向もあるかもねといってもらえると存外である。

今、現場は大量退職にともない、若い人が大勢入ってきている。

逆にいえば、大量の(言い方は悪いが)ロートルを生んでいるわけで、その中には現役時代に培った技量、経験を持つ人も絶対数的には少なくないとみるのが自然だろう。

で、だ。

そういった超ベテラン勢の中からメンターとなる人材が得られれば、これは現場にとって有益であるし、何よりも今後に退職に当たる、そういった熟練者の中で、そういった関わりの中で伝道にいそしむことを生き甲斐と感じてくれる人にはなお喜んでもらえると思うのである。

もちろん、こういった方向について、意欲がない人、精神的、体力的に無理が利かない人を呼び込むつもりはない。

ただ、である。
ここまでの話は、実際には、「再雇用制度」などの中で、「初任者育成」や「時間補充講師」などとして、現実に運用段階にあるという事実はある。

それでも私はそれら全てを是とはしない。

なぜなら、そういった制度は、現場の枠組みの中に組み込まれ(すぎ)てしまっているので、実はそれほどメンター&メンティスとしての立場は強固ではなく、メンター自身の裁量も、自由度も、更に言えばその実効性も、なんら振り返り見られない、どちらかというと結果ボランティア的な部分が強い。

例えば、初任者のあと補充で講師がついたとしよう。
その講師の質はだれが担保するのか、また、既成の初任研修との兼ね合いはだれがマネージメントなりコーディネイトなりをするのであろうか。
実際は恣意的な運用と指摘されても返す言葉がないのではないだろうか。
(無論、法的な根拠や書類などはそろえられているのだろうけれど、そんなものが実効性をもつ教育を行う者を育てることに、どれほどの影響を与えるのだろうか)

もっと大きく捉え、ある意味大学の研究室のような立場で「通い先としてのメンター」や職場で「若手を中心に関わってくれる存在としてのメンター」、フリーの研究会の中で肩を並べて話し合える「同士的なメンター」のように、様々な「出逢い」と「学び」を保障してくれるメンター制度のようなものをもっと認めてほしいものだと思う。

もっと大ぴらに、自由闊達に、やりとりができる世界の中で出逢いたいものではないかと思う。

現時点で、民教や労組などが一部を肩代わりしているような話ではある。
結局は、今のところソコに帰着してしまうが、そういった中にいると、こういった方向というのはボランティアレベルでは実現可能で、積み上げが可能なだけに、求めてしまいたいと願ってしまう。

無縁社会・・・ね

2011-02-14 00:23:24 | 戯言
戯言を一発。

「無縁社会」なんつー言葉を聞いた。

「無円」じゃないの?と思った。

「金の切れ目が縁の切れ目」なんてぇ言葉もあったなぁ。

「派遣」だの「保険」だの「これじゃやっていけん」だのいうけれど、結局、吸い上げられてしまっている構造にダメ出しをするよう動くかどうかにかかっている気がするよ、おいらは。

自分の生活は誰にもまかせられないんだよ。
それが社会参加の原点じゃぁねぇのかな?

よくわからんことばかりだけど、勉強して、間違っても自分の主張をしてみて、たまに一杯飲んで、だ。
「話し合う事を、つながりを、大切にしようや」と、相手をみつけてはいっていくのがいいんじゃないか。
それをオッケーと最低限はいってほしい。

学級崩壊は秩序の問題か

2011-02-13 17:28:32 | 教育
学級崩壊(今回は小学校に限定する)の原因を探すと犯人探しになる傾向がある。
例えば、担任の指導力不足、発達に一定程度の障碍の可能性が見られる子が含まれる集団であること、かきまわす保護者などなどに責任を当てて、そこから発想していないだろうか。

指導力不足には形式ばかりの研修をあてがい、発達障碍児童に対しては各種の個別指導をあてがい、それも体制的に無理であれば空いている人がだれでも教室に入って行く、かきまわす保護者に対しては、教委&学校が毅然と突っぱねにまわる。

どれも困っている当人に対して考えれば「ひどい仕打ち」とも受け取れはしないだろうか。

もちろん、そういった部分の責任ではなく経過のつながりや人間関係の立ち位置を読み取ることは、対応を考える上では必要だ。
そうでなければ現状を理解することが困難になってしまう。
しかし、そこから読み取り、理解を共有していく部分は、当事者の困難な立場に立った対応を念頭においてなされなければならない。

ここで問題としてあげたい話題が「(学級)秩序の回復」だ。

学級内には秩序がなければならないが、無用な秩序は単なる「生きづらさ」を助長するだけのものになり、先述した「人間関係の立ち位置」を当事者の立場にたって読み取ることを困難にしてしまう。
「秩序のための秩序」では、教育活動とはいえないのではないだろうか。
また、そのことによって、さらに学級内の秩序回復は遠くなるか、あるいは不信や競争意識の激化などを呼び覚ましはしないだろうか。

例えば、ある2年生の教室。
Aくんが授業中に奇声をあげ、椅子からずり落ちる。荷物が散らばる。そこに授業を中断して注意に入る担任。
しかし、たびたび起こることなので、もともと多動の傾向があるBくん、Cさんは集中できずにいて、そのタイミングで叩き合いの喧嘩を起こす。
担任が「だれか止めて。」と静止に入るがAくんは目線を話したすきにむしゃがる。
もともと話を聞いていなかったDさんがきょとんと担任を見つめている。
気の回るEくん、Fさんが止めに入るが、その状況に半ば総立ちになる子ども達。
その瞬間、我慢の時間切れでGくんがお漏らしをする。
そこに騒ぎに集まってくる小集団。
担任はあちこちに怒鳴るしかない。

これを「秩序がない状況」だというのは容易い。

が、想像してみてほしい。
これを「今後はあなた一人でまとめろ。」といわれてできる、あるいは回復までの経過を順序立てて考えつく大人はそうそういないのではないだろうか?
(それができるから教員はプロとも逆説的にはいえるのだが、そういうプロがつぶれて行く状況というのも本当は考えてほしい問題。でも、今は、その重層的になりかける話題はオミットしておく。)

大人もう一人が入ればイケるのでは?と考えた人はかなり甘い。

そのための一例を、1年生(5月)のものであげておく。

給食の準備時間。
前提として、40分では準備、食事、片付けは間に合わないので、4時間目の後半を潰すか、昼休みを潰すなどの対応がある。
そんな忙しくも急かされる準備中に事件が起こった。
食育の推進で、重たい磁器食器がやってきた日だった。
しかも運悪く、お盆に3つならぶだけでなく、ご飯にかける具がある、手順としては複雑な日だった。
配膳がたいへんなので担任は盛りつけ役を周りに指示を出しながらやっていた。
廊下で騒ぎの声。
磁器食器を回したのがさすがに心配で、(手伝いもしないで、だが)周回していた廊下の管理職が、
「先生。女の子が吐いているよ。」
とドア越しに声をかけてきた。
思い当たった子がいた。朝からちょっと元気がなかったAさんだ。
今、学校では感染性の胃腸炎が流行っている。
「Aさんね。わかった。そっちへいく。」
その瞬間だった。
ガッチャーン。
浮き足立った子ども達の教室の中央で牛乳瓶が割れた。
担任もさすがに焦った。
「みんなストップ。昼休みに食べるようにするから、みんな座ってがまんして待っていて。ガラスは危ないから、あんまり動かないで。」
そういって次々立ち上がってくる子ども達を押さえた。
担任が「もどってくるまで、我慢できるかい?」と念を押して廊下に出る。
吐いている子を見ているだけだった管理職も、さすがに教室内に入ってきて後始末を始めた。
私は廊下に出て、周りに避難するよう指示を出し、うずくまっているAさんを起こして保健室に連れて行き、その戻りに保健室から吐瀉物の処理セットをもってきて片付け始めた。
横を管理職が片付けたよと、逃げる様に立ち去っていく。
気づくと、PTAの仕事で通りかかった保護者のBさんが教室をのぞいている。
(さっきから見ていたのか。手伝ってくれればいいのに・・・でも、1年目で手を下せないのか・・・。そう担任は思った。)
一通り終わって、教室にもどり、配膳をしようとすると、子ども達が静かに座っている。
あれ?と思ったのは、配膳当番がいない。
よく見ると、全員、机にお盆がのっている。
「先生。やっておいたよ。でも、食器があまっているんだよね。」
「そうか、やってくれたのか。」と思った瞬間、そのよそわれた皿に目が釘付けになった。
ご飯の上にその具、その上に揚げ物と付け合わせの野菜。
どうやら全部重ねてしまったようだ。
こっちを見ている一部始終を見ていた心配そうな保護者が口を開いた。
あの管理職が子どもに配膳をやっておけと指示(だけ)を出したのだそうだ。

ここで担任がしたことは何だったろう。
それからその後、どういうような問題が起こっただろう。
想像してみてほしい。

担任がしたのは、まず謝るということだった。
対応をする大人側の責任を謝り、次のことに向かうための下地をつくった。
子どもが私の方に耳をかたむける契機を設けるということだ。
そして昼休みにかかるだろうけれど、配膳のやり直しをすることにした。
当番にいって、一班分ずつ、お盆を配膳の済んだもってこさせて、私がその上の大皿から小皿二つに揚げ物と野菜をわけとって盛りつけ直し、再びお盆に載せた。
みんな静かに待っていた。
それから保健室へいった子の話を報告し、割れた牛乳瓶の処理について再度確認指導し、日直に「いただきます」の挨拶をお願いした。

発生した問題は、実は、このメニューには汁物が一つついていたということだ。
どうやら揚げ物と野菜は同じ小皿に入れ、もう一つに汁をよそうという形だったようだ。
まるまる一品をつけ忘れた形になり、あとから保護者会で「なぜ気がつかなかった」と言われてしまった。
だが、パニック状態でそれどころではなかったので、謝るしかなかった。
しかし、見ていた保護者はそんな状況について、なんら助け舟を出してくれなかったのは解せなかった。
あとで、聞いてみると、「先生だからあんな風にできたんだなと見ているばかりでした。」とだけだった。
保護者会での話題としては、汁物をよそうことに自分も気づかなかったから、なんともいえなかったとのことだった。

ここにおける秩序というのは、頭ごなしに「やれ」とか、「なんでそんなことをしたのだ!」という上から目線ではなく、また、闇雲に「自分達でしたこと」を褒めるだけの指導ではない。
生活をしていくための共同者としての立場をお互いに尊重した関係作りをしていくという営みだと、私は思う。

ときに学校の言う「秩序」は「標語づくり」だったり、「ルールの徹底の確認」だったりして、個人や当該の集団の責任ばかり問う。
それでは真の意味での「秩序」など生まれようがない。そう私は信じている。

最後に学校における「秩序維持」に関わる例を以下に。

週始めの児童朝会時、整列した私のクラスに、えりを立ててアゴをひき、フードをかぶり、目を伏せがちにした子どもが並んでいた。
生活指導主幹の先生が日直で全体を整列させて司会役をしている担任に近づき、
「あの子、見ている?あれじゃマズいでしょう。」
という。
担任は、
「え?ああ、知っていますよ。で、今、直せというのですか?」
と返すと、
「そうじゃない?(あなた、やりなさいよ。という目配せ。)」
と疑問で圧力をかけてくる。
「あの子の親を知っていますよね。父親が家庭内でも手をあげているとか、母親は被害妄想がひどくて、すぐに子どもやその他に当たっている。きっと昨日、何かあったんですよ。だから、私は、それでもよく学校に来て、みんなといっしょに並んでいるんだなと思います。あとで言えばいいでしょう?」
と、担任は意に介さない態度で臨んだ。
「それじゃ、周りに示しがつかないでしょう。」
「では、彼を列から外しますか?せっかく並んだのに。日直ですし、私はできませんね。外の立場で(主幹に)どうぞ。」
主幹は苦虫を潰したような顔で立ち去った。
結局動かないところを見ると、担任にさせたいらしかった。
担任が子どもの障壁にならないと秩序という暴力で子どもは押しつぶされてしまうだろう。
これが見通しのもてないような経験の浅い初任者であれば、主幹のいうがままに動き、子どもから不信をかい、教室が荒れていくだろう。

秩序を形成するには、やはり当事者同士が関係性を確認し、育む中で生じてくる様々な課題を解決する中で創造していくべきなのではないだろうかと、そう思う。
もちろん、規範としての、あるいは参考としての「ルール」はあっていいし、それは実は社会生活の中に存在し、容易に学び取って行けるほど身近である。
子どもを「子ども扱い」するのではなく、また、保護者を「保護者という側におく」のではなく、「共通理解」と「共同」を、様々なカンファレンスの立場で共有しながら秩序が獲得されるという基本がなければならないと思う。

さて、「学級崩壊」に話を向けよう。

「学級崩壊」と一口にいっても様々な状況があると思う。
ただ、「秩序」の回復がそこから抜け出す道であるとするならば、以上にあげた「秩序」を重視して考えてほしいと思っている。
もちろん、発達障碍を抱えた子への対応を全てそういったことに振り返るつもりはない。
そうではなくて、「秩序回復」とうたったときに、そこには学校独自の上から目線の「秩序」というものが入り込む余地があり、そこがいっそう「学級崩壊」を助長し、問題解決を遅らせるばかりか、担任や児童に責任を押し付け、行き場のない者をときには再生産さえしてしまう可能性があるからだ。
教師にも保護者にも、もっと高次の「秩序」について、子ども理解や教育の理解から始めてはいけないものかと、そう提案したい。
もっとカンファレンスを、もっと情報のよりよい共有を、と願って止まない。

最後に、このエントリにあげられた事例は、ことわりがないもの以外は、私の知識や経験から導かれた創作ドラマだと考えてほしい。
何か個別の事例をさしているわけではない。

産経新聞特有の誘導記事だが、批判ばかりでは

2011-02-13 14:24:53 | ニュースから
個人重視、崩壊する家族 スウェーデン(産経新聞) - goo ニュース

タイトルが「崩壊する家族」と銘打っているのだから、産経の主張はそこへの批判だとみていいだろう。

しかし、スウェーデンに関しての著書をもつ中間のコメントをひいた上で、スウェーデンとは無関係の八木や岡本の主張を根拠に「崩壊」と言い切ってしまっていいのだろうか。
例えば、スウェーデンがそのことで何か困窮している実態があればいいが、実際には出生率があがったかのような表現もあり、さらに、そういった状況について受容する子どもの声も含まれている。
我田引水をはこのことで、産經新聞というのは、いつもあからさまな偏見に満ち満ちている。
逆に、「私は産經新聞をよく読んでいますよ」なんて人に出会うと、個人的には不信感しか覚えない。
褒めそやそうものなら、よほど頭が悪いのではないかと思ってしまう。

先日、産經新聞の社会部にいる人のブログに目を通す機会があった。
ここまで真っ正直に偏見を肯定的に自己評価しているのだと、実際におどろいた。
イデオロギーの違いといってしまってはなんだが、閉じている人なんだと思った。

さて、産經新聞というのはそういう新聞だとしておいて、だ。
新聞批判ばかりしても仕方がない。
私がこの記事で興味をもったのは、6割近くといわれる「婚外子率」だ。

日本に置き換えてみれば、そういったことが行われれば経済的にも労働的にも崩壊する一人親が生まれるだろう。
そういった事実を想像すると、スウェーデンの子育てに対する手厚さという別な側面が強烈に浮かび上がってくる。
また、そういった子どもの多さというのは、そういった境遇の子どもの通常化であって、子どもの心理、文化などが日本のような場合と大きく異なってくるということだ。

日本標準で批判する八木の頭の悪さは悲惨としかいいようがないが、そういう差異を冷静に社会が、扶助する大人が考えていかなければならない。
翻って、日本はそういった子どもに対する課題を自分の社会情勢や労働生活とリンクさせて考えることができているだろうか?
冷めきった社会参加、「ガラガラポン」化する政治参加、どれを見ても実は八木らがいう「家庭崩壊」は、個人の責任ではなく、社会全体の問題を改善する中で位置づけなければならないというのが筋だろう。
そういった意味で、世界人権宣言の「家族」は規定されていると考えたい。
復古主義の「家族」や、ましてや太古の「家父長制」の復活は日本にはいらない。

結局、記事から例の団体の批判になってしまった。

(以下、引用)
個人重視、崩壊する家族 スウェーデン
産経新聞2011年2月13日(日)08:00

個人重視、崩壊する家族 スウェーデン
(産経新聞)

【それでも撲滅できないのか】スウェーデンでは(下)

 ■体罰に代わる子育て、男性が積極参加

 右腕にわが子、左手にカフェラテ。平日の昼下がり、スウェーデンの首都ストックホルムの喫茶店で、育児休暇中の父親たちが子育て談議に花を咲かせていた。スウェーデン人は牛乳たっぷりのカフェラテが大好き。子供と喫茶店に集う父親たちは「カフェラテパパ」と呼ばれ、この国ではありふれた光景だ。

 次男のアロルちゃん(1)を抱いた会社員、グスタフ・デイノフさん(32)は「今は妻が働いているからこの子を私が育てている。育休の間は子供と遊べて、子育ても勉強できて楽しいですよ」と話す。

 同国では体罰を法律で禁じた結果、体罰に代わる子育てが模索されてきた。男性が積極的に育児に関わるようになったのもその表れだという。共働きが基本の同国では育児休暇制度が普及し育休中の給与も1年以上80%が保障される。福祉サービス充実の観点から保育所も多く、残業の習慣がないため父親の帰宅時間も早い。精神的、経済的にも余裕をもって、家族の中で男女が効率よく役割分担をしているようにもみえる。

 だが同国の子育ては、必ずしも両親と子供が1対1で行われているわけではない。スウェーデンの家族のあり方に詳しい民間シンクタンク研究員、中間真一さん(51)は、「よくも悪くも極めて合理主義の国民。無用な我慢はしないので簡単に別れたりくっついたりする。法律婚は手続きが面倒でその結果、事実婚であるサムボ(同棲(どうせい))やシングルマザーが当たり前になっている」と話す。そのため家族の縛りや制約、偏見は全くといっていいほどないのが現状だ。

 親が離婚(パートナー解消)をして新しいパートナーと住めば、またそこで新しい子供が生まれる。次第に異父(母)兄弟が増えていくという複雑な家庭環境はこの国ではめずらしくない。中間さんは言う。「子供に話を聞くと『急に新しい父親だと紹介されて訳が分からなかったしつらかった。もちろん本当の両親と暮らすのが一番ハッピー。でもお母さんにも選択の権利があるから』と言うんです」

 「自己選択・自己責任・自己決定」が重視される同国では、離婚と再婚、カップルの解消と成立が繰り返され、婚外子率は6割近くに上る。日本が約2%であることを考えると圧倒的に多い。一部にはスウェーデンの婚外子の増加を少子化に歯止めをかけたとしてプラスにとらえる見方があるが、高崎経済大学の八木秀次教授(48)はこうした複雑な家庭環境が子供の内面にもたらす負の側面に警鐘を鳴らし「心身が不安定になり、行き場がなくなって薬物や酒、非行に走る率が高い」と指摘する。

 家族の絆を守る会の岡本明子事務局長も「婚外子が6割近いというのはすでに家族が崩壊している証拠。婚外子の増加で出生率だけ上がっても仕方がないのではないか」と疑問を呈する。岡本さんは「『個人としての人間』を追求し、自由を求めれば家族は煩わしくもある。でも欧州のように宗教的なつながりを持たない日本にとって、家族は社会を存立させる、もっとも大切なもの」と訴える。

 スウェーデンは移民が多いことでも知られる。子供のために活動するNGO「セーブ・ザ・チルドレン・スウェーデン」のオーサ・ランドベリ代表(47)は「私たちが体罰禁止を主張しても、移民とは文化的な違いがあり、浸透していないことは分かっている」とし、続けた。「子育ては文化的な要素が大きい。私たちの国をひとつの参考として、それぞれの国や家庭に合った方法を見つけだせばいい。それはきっと次の世代のお手本になるはずです」(田中佐和)

それなりの意味

2011-02-12 11:59:24 | 戯言
ブログを「やめた」と宣言して2年半。
放置していたのだけれども、なんとなく再起動。
廃品利用なのだけれども、それは「ブログ」というもの自体が古くさいものになってきたと感じる点ともシンクロしている。
感覚としては、錆び付いてぼろぼろになった自転車を、磨いて油を注して部品を足してギコギコグラグラと乗っているカンジだ。

コメントもTBも、そんなに情報の伝搬という意味ではたいしたことがない。

それこそエジプトを見れば、FacebookやTwitterの方が威力があるし、繋がりがゆるいだけに流入者も多い。
工夫次第でいろいろ便利なのはそちらの方だろう。

ブログの良さというのは、簡単HP的な利用ができた点ではないだろうか?
BBS的なやりとりも可能というフロック付きでだ。

中古カメラをいじるような感覚で、本来のパーソナリティを担保できるような気がしているので、ちょっと復活してみている。
以前やっていたときよりもかなりいい加減で、見に来ている人のことを考えていない記述になっていると思う。

そんな状況にも、立場をかえればそれなりの意味があるということにしたい。
私は少なくとも今のところ気に入っている。

で、どうしたいのか?

2011-02-11 09:31:28 | 教育
「都立にスポーツ名門校」 都教委、7高校の部活費支援(産経新聞) - goo ニュース

「特色ある教育」というヤツなのだろうか?

日本における「公立」において「部活」をクラブスポーツ化して、その先に何があるのだろうか?
だれか教えてほしいものだ。

私立と比較するなんて、いかにも産経新聞チックなのだけれども、そんなアホらしいねらいなのだろうか?

少し前に書いたエントリにある「夜スペ的高校」の話がそのまんま宙に浮いているのではないだろうか?

税金を格差上に集中させて、いったいどこが「公立」なのだろうか?

ライフセーフティはここでも突き崩されている。
あの時代遅れの新自由主義がまだここにある。
恥知らずの都教委は「改革は善」という幻想の熱病にまだうなされている。
そういうイメージを抱かざるを得ない記事だ。

日本の場合、教育はそうそう変えてはいけないのである。



(以下、引用)
「都立にスポーツ名門校」 都教委、7高校の部活費支援
産経新聞2011年2月11日(金)08:00

 都立高からスポーツ名門校を-。都教育委員会は10日、昨年の大会で好成績を残した都立高校7校の部活動を強化対象に指定し、来年度予算案で活動費を支援することを決めた。全国大会で活躍する都立高を増やし、各校のスポーツへの取り組みの機運を醸成するのが狙い。都教委は「私立に負けないようなスポーツ名門校を都立高から輩出していきたい」と期待している。

 今回指定されたのは、駒場・サッカー部▽清瀬・ソフトテニス部▽東大和・ハンドボール部▽城東・バスケットボール部▽若葉総合・陸上競技部▽富士・剣道部▽足立新田・相撲部-の7校の運動部。

 昨年のインターハイで2回戦に進出した駒場など大会実績が指定対象の基準になったほか、関東大会に創部以来初出場を決めた城東など顧問教諭の指導方針も反映された。

 都教委は、各部活動の用具購入費などとして、来年度予算案に1千万円を計上している。

 都立高の運動部は有望な選手が集まる私立と比べスポーツ面での実績が圧倒的に低い。昨年のインターハイ出場実績では、団体競技で私立59校に対し都立5校。個人競技では、578人に対し89人と大差を付けられている。

 都教委は、プロで活躍した専門的指導者を招くなど競技力向上の支援や、指導実績のある顧問教諭について、これまで5~6年周期だった他校への異動期間を、部活動の状況によって延長可能な制度の導入も検討するという。