怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

五十音表の発音

2007-05-23 22:17:31 | 教育
五十音表について学習したが、や行の「い、え」とわ行の「い、う、え」の発音もやった。

2点、気になったことをメモリー。

1点目。
いわゆる「ya、yi、yu、ye、yo」と「wa、wi、wu、we、wo」を発音してみて、あ行の「a、i、u、e、o」と似ているし、現代では発音がしにくいことを確認した。
「発音がしにくい、他の音と混同するので共用できるように表記も同じになった。」と説明した。
(言語学的には違うのだろうか・・・)

2点目。
学校では小中連携の研究をやっている。

先日、中学校のカリキュラムでは「ya、yi、yu、ye、yo」と「wa、wi、wu、we、wo」はちゃんと知っているとその後の学習に影響するというので復習し直すのだそうだ。
だから小学校側ではちゃんと押さえて欲しいそうだ。
(ただし、中学では載っているのに、小学校の指導要領には載っていない。)

そういったことが気になった。

続いて濁音の指導になったのだが、「あ、い、う、え、お」に濁点をつけても、「発音がし難く、他の音や表記でも対応できそう」なので、濁点を付けないし、発音もないと説明した。

すると、楽に発音ができるのは、「か行、さ行、た行、は行」になる。
どうように「ぽぴぷぺぽ」も説明がつく。

「怪獣がざだばぱ」を読んで、たっぷり濁音を発音させて授業終了。

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五十音表で、母音である「あいうえお」が先にくるのは当然である。
そのことについては発音指導をしながら解決できた。

子ども達に「か」を発音させて、気づいたことを拾い上げると、
「か、をのばすと、あ、の音が出てくる。」
なんて言葉が出ればいただきになって解決が早い。

怪傑ゾロリからの脱出

2007-05-23 21:40:41 | 教育
過激な提案をしたい。(これについては、ちょっとたたかれてみたい気分だ。)
なんか自分が教育再生会議のメンツになって気分だ。

別にゾロリシリーズに恨みがあるわけじゃない。

ゾロリは漫画と物語書籍の間に入る特異な本にあたると思う。
絵本の発展版とでも言おうか・・・。

子どもの興味を引き、読ませるという意味においては優れた作品だと思う。
図書室においていあるのもむべなるかなである。

イメージは作者の絵から提供されつつも、展開や台詞回しは文章になっている。
文字だらけの書籍にまだなじめない子にとっては、次へのブリッジとして使っても、なかなか優れたものだと思う。

自分の子ども時代にあったら、まず全巻読み切っているだろう。
(シリーズというところもツボだと思う。)

この手の本は最近そこそこあると思う。

でも、「ウォーリーをさがせ」から抜け出れない6年生のように、本格的な書籍に馴染めない子どもの一つのハードルとして存在しているように思える。

何が嫌かと言えば、そういう状況に子ども達がはまりこんで出れなくなってしまう所だ。
「もっと難しい本を読め」と強制するのか?と問われれば、はっきりいって暴言に近いが「そうだ」といいたい。

もし出来れば、発展版ゾロリがほしい。
(注釈を入れてもいい)より抽象的な語彙を多分に含み、展開も重厚で、キャラクターも多面的で深みがあってほしい。
「そうなればゾロリではない」といわれればそうだろうが、そういう文章に触れさせることは必要だと思う。

図書の時間が設定されている割には、そういった読書のための鍛錬が自然になされないのが、私は非常に気になる。

「ウォーリーをさがせ」なんて、読んでいいのは1年生の1学期までという限定をもうけてもいいくらいだ。
(図書の時間にずーっと隣の子どもとウォーリーをやっているなんて、図書の時間じゃないだろうに。)
ゾロリにいたっては4年生以上、禁止にしたっていい。
「絵本欄は2年生まで」も、ルールに入れてもいいかも知れない。

焚書にせよと言っているのではない。
特別な事情のある場合は許可すればいいが、そうではなくて、そういう価値付けで追い込んで行くぐらいでないと、興味・関心・意欲まかせでは読書の質は高まっていかないと言っているのだ。

多分に体育的な考えかもしれないが、読書は訓練が必要だと思う。
そのためのニーズに応えるだけの多様性を小学校図書室の書籍群はもつべきだと思う。
学年ごとに必読図書を設定してもいいかも知れない。

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一方で、ハリーポッターのような特異点も存在する。

分厚い装丁におののく子が多いかに見えて、
「ハリーじゃん!」
と、手に取る子どもの多さ。
なじみがあるだけで厚さは見えなくなるのかも知れない。
1年生でも読んだという子はそこそこいる。

ミス・アリゾナ

2007-05-23 18:44:16 | 映画
音楽で回顧していたら、こんな映画を思い出した。

マルチェロ・マストロヤンニが出ている伊洪合作の歴史大河映画というくらいで、下手すると日本じゃB級扱いかもしれない。

フリーターの時期、映画をよく観た。

これは日曜日に六本木の映画館で観た。
愛用の新聞配達用自転車を路上に乗り付けて、看板を見て決めた。
さすがにバブルの頂点の時期だったが、日曜日の最終公演時間は人が入っていなかった。
(たぶん、10人いなかったかな?)
ゆうゆうと足を前席に放り出してど真ん中で観た。

合作らしいロケの変化や、第二次世界大戦をはさんだドラマ、イタリア映画の風情の入った印象的な場面。
しかし、テーマはミス・アリゾナという店をめぐるある女性の人生。

自分と引っかかる部分なんて皆無なのだが、時代に翻弄されて生死をさまよう人々が、なぜかうらやましいと感じた。

決して絶世の美女というわけではない女優の表情が、歳相応の憂いとともに一人の陣言の強く生きようとする意思と、それに背反する事実が重なっているかに見えて、虚構だらけの画面が一瞬リアルに感じられた。

きっと今観たらば、粗ばかり見えてしまうのかもしれない。
印象というのは目の奥にとどめておくことだなと思う。

時折、歳を重ねていることを実感しつつ何かが周囲で起こり、それを冷静に客観視しようとするとき、ミス・アリゾナの劇中の舞台裏が見えてくる気がするのだ。

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書いていたらいろんなことを思い出してきた。

新聞配達員をしているとき、オールナイトを毎週攻めたりしたなぁ。
映画館を出て、配って、寝る。
今、あんな体力ないよ。
(ちなみに新聞配達員になるなら都心がいい。校外は出勤時間前に配り終えるため、実は配達員は校外ほど早起きなのだ。)