怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

教室の悪魔(ポプラ社 )山脇由貴子2006.12その2

2007-05-20 18:09:32 | 教育書
今、自分の状況から、この本の第一章にあるエピソードを思い出している。

主導権を握っているのは教育相談員である筆者だ。
これは自分の視点から眺めているのでいいのだが、ここでの課題は2点。

1点目は親への対応。

「いじめ」解決には事態解決へ向けての親のイメージが大事である。

親に自分の子どもが緊急事態であることを認識することは大切だが、同時に冷静なイメージが必要だ。
それを「親力」だなんていうつもりはない。(それ以前に「親力」ってなんだ?アホ臭い表現だこと。)

だれしも見えない状況に混乱するものだ。
けれども感情にまかせて見失ってはいけないのが相手意識だと思う。

すぐに「いじめ」を行う鬼探しやそれを「見過ごした」として責任探しをするのでは逃げているのと変わりはない。
そこで生き抜くのか、逃げるのか、そういったイメージを目的に人間関係を想像することが大事だと思う。

一番困るのは、当事者意識が半分で、誰かに事態の解決を押し付けてしまうことだろう。
(任せる部分は任せるべきだという判断も必要だと言う認識に立つことも含んでの話。)

2点目は学校

「いじめ」の解決の現場は学校である。

どのような対応をとればいいのかは学校側の現実への視点を変えなければならないのだが、それは構造的に生み出されたものであれば、鬼探しをしてもなんにもならない。

「学校は謝罪する」だけの対応では何にも変わらないとも指摘しているようだ。
「学校には責任をとってもらいます」というのは受け手と受け手の状況によって如何様にも解釈できる。

どこをむいても、逃げるのでなければ、「信頼」という鍵を誰もが持たないとうまくいかない。
そういうことを思い出した。

私の場合、児童相談員は間にない。
もちろん「いじめ」という現実が目の前にあるわけではない。
それ以前に、子ども達をまとめあげて、よりよい人間関係作りを味わわせていきたいと狙っているだけだ。

さて、一方的に不安を抱えた親とどうやって信頼関係を築こうか・・・。

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