前エントリーのコメント&TBでカラさんの
「教育ニュース観察日記」で紹介いただいたブログ
俺の職場は大学キャンパスのマイスターさんのエントリーを読みました。
カラさんのエライなと思うところは、ちゃんと教員でない人にも分かるように説明するべきだという主張をもっているところです。
今回のマイスターさんの主張は一般認識に近いのでは?とのカラさんからの指摘に、それもそうだなぁと感じたのです。
長ーーくなるけれども、マイスターさんのエントリーにこたえる形で自分の意見をまとめてみました。
(マイスターさんのブログにコメントするにはちょっと長ーーすぎるので、失礼だと思ったのです。)
もちろん、この形式ではまずいとなれば、このエントリーを削除するつもりです。
以下、引用(>)はマイスターさんのものです。
まず主な疑問をまとめられていたので、
>○なんで校務を全部、教員がやっているの?
>○校務のせいで残業できないくらい忙しいのなら、教育力、指導力を上げるための努力は、いつしているの?
>○校務の合理化はしているの?
>○残業代が出ないなら、成果を出した人に対して、どういう形で報いているの?
>○「自分たちにそれを決める権限がない」んだとしたら、決められるようになりたいと思う?
では各論をみながらコメントしてみます。
>
なんで校務を教員が全部やっているのか?
>事務員に頼むか、そうでなければ、地域のボランティアはいないのでしょうか?
>いなければ、学校が主体となって、NPOを組織すればいいと思うのですが、そうした試みはしているのでしょうか?
まず事務職への移管問題。
これはカラさんのブログによれば、制度的に難しい部分があるそうです。(すいません。知りませんでした。)
私も私学中学高校の講師をやっていたことがあるので、公立のこの職についたとき、事務内容を事務職になぜ移管できないのか疑問でした。
せめて転出入手続き、集金、名簿作り、諸経費の事務手続きなどをやって欲しいものだと今でも思います。
この点では制度がじゃまならば、なんとかしてほしい気持ちはマイスターさんと同じようです。
NPOについてですが、三鷹市の某小学校の学習支援NPOなどが例にあがりそうですが、これも保護者・地域ボランティアでは問題があってNPOになったと聞きます。
(自分の子どもしかみない。他の子どもへの干渉がある。管理、折衝などの手続きが煩雑すぎるか一部教諭や保護者などへの負担が大きいなど、想像するだけでNPO化する方がハードルは少ないでしょう。)
そして、これについてはマイスターさんもお認めになっていますが、やはり最初は業務が増え、たいへんなようです。
よほど管理職や自治体にリードしてもらい、それなりの(人的、金銭的などの)配慮をしないと、どこでもできるわけではないようです。
また、そのノウハウの理解・拡大もこれからというところでしょう。
これは外国をモデルとしているNPOの多くが理想とするものを達成を未だにできていないことをいくつか見れば明らかです。(ものによりけりであるし、環境によっては時間も必要という意味です。)
ここいらへんに関しては、マイスターさんは実現可能性、達成への道のりを楽観視して見誤っている気がします。(もちろん、そういう努力をしないといっているのではないです)
また、職員室にそうした気概を持った人は1人もいないと断じるのは誤解であると同時に、いらぬ批判を引き継ぐ可能性があるのでやめてほしいと思います。
どちらかというと、この点は、教員のというより学校のアピールが不足しているのかもしれませんが、例えば、学校のHPなどを作っても、旧来の事務的、役所的な姿が浮き彫りになっているように思います。
(具体的に記述するのはやめておきます)
>ポスターを数枚貼って、「ボランティア、来ませんなぁ」とつぶやきあうだけの人、それが日本の公立学校教員の姿です。厳しいことですが、本当にそうです。
これはある程度認めますが、つぶやきあうだけの人であるのはそういう人だけでしょう。
つまらないと感じているけれど、それをやめることができるリーダーはいません。
それだけのことです。いずれ変わることです。これを問題視して突っ込んでも何にもよくは変わりません。
若手は充分疑問を持っているし、変えようという気概はあります。
>残業代が出ないのは気の毒ですが(中略)残業を減らす工夫をしてみることをオススメします。
減らす工夫はだれがするのでしょう?(挑発的な言い回しに聞こえたら、そうではないです。すいません。)
残業代を減らして残業が減るものならば楽勝ですね。
なんだか「にわとり卵」の議論ですが、異常性はどちらにあるのかを考える方が使われている方は分かりやすいと思います。
責任転嫁に聞こえるかもしれませんが、これは以後の記述を読んでいただきたいと思います。
>なお欧米の教員達は、(中略)経営に関わることまで自分たちでやっているわけですから△修遼擦靴気篭丹枦?任后
やはり、この道を選んでも同じということではないでしょうか。(ちょっと議論全体に矛盾を感じます)
>日本の教員達は、校務におぼれて、本来の担当業務である「教育力」を伸ばす自己研鑽を怠っているのですから、なんだかもったいないと思います。
そうです。もったいない。
教務主任になった元同僚が言っていました。
「自分の教育的な実践なんて、教務主任になる前の過去に培ったもの。余力でやっているようなものだ。」と。
内情に触れるので、誤解を生むこともありそうで、「教諭のブログ」的には危険な事実暴露ですが、こういったことも含めて、連携の中でやっているのが現実です。
そして、もったいない話です。
これは教員側の更なる努力もしていく必要はありますが、学校の校務について、行政側の理解、改善も必要なところはあると思います。
(こっちの影響の方が大だと思いますよ。はっきりいってやっていないといってよい。現に増えているもの。無駄な報告書とかね。)
私学の時はそういった激務の主任は輪番でやっているところもありました。
もちろん、公立のそれと比べると、少ないなと感じると思います。(なんせ上に役所はないですからね)
でも、私学との単純比較でそれが公立で私立のそれが可能かというと、そうではない点をあげることができると思います。
では、私学は優れているかと言えば、そういった意味、側面では優位であると私は思います。
すると、公立は私学的に独自性、独立性を持てばいいかというと、それはその時点で公教育とは言えない下地を持つことを意味するので、別な議論が立ち上がってきます。
>
校務をちゃんと合理化しているの? という疑問も、以前から持っていました。
>学校内で行われる校務、とってもムダが多い(中略)手始めに様々なプリントをテンプレート化してみてはいかがでしょうか?
ご提案の件ですが、これはすでにやっています。
が、ボトルネックは「学校教員のITスキルがいまひとつ低い」「無駄な報告書が多く、統一されていないし、変更もあるし、新規もある」につきるかなと思います。
前者は、もうこれは時間を待つしかないです。
(若い人のたいていは、ワープロ打ちくらいはできますよ。)
これについての研修も適切に実施されていないことも大きいです。
(私自身、この手の講師を経験して思います。役所側はちゃんとやっていません。バカかと思います。)
後者は、教諭側のできる改善ではないです。お役所の問題でしょう。
あと、東京都なんかは未だパソコン配備が少ない学校が多すぎます。(その手の予算を地方移譲しているからですよー、これはっ!)
それからサーバ、ルーターの管理まで教員まかせ。ウィルスに対するワクチンデータの手作業アップなんて過酷な手間から早く解放して欲しいものです。
(利益優先の企業だったら考えられないのでは?しかも、普通、大企業なら3日から1週間ごとのデータ更新ですよ。自治体ごとにSEかネットワーク管理者を雇って学校を巡回させるくらいの知恵と金がないのか!ただでさえもWindowsMeなんて不安定なOS!)
>
残業代がないのなら、どう笋辰洞軌?寮?未吠鵑い討い襪痢 というのも、不思議です。(中略)給与で差がつかないなら、より大きな権限や裁量権を与えるのが、普通の発想です。
これは同意義ではないにしろ、行われていることなので誤解だと思います。
>でも、マイスターが伝聞で知る限り、学校の職員室は年功序列で閉鎖的な村社会ですから、こんな「若手を重用する」なんて発想は皆無でしょう。
たしかに「重用」というと感触としての違いを感じます。
(だいたい、組織がナベブタですしね)
具体例をあげましょう。
研究などは例になるのではないでしょうか。
年功序列では研究などは進みません。参加者の状況、実態は様々ですが、経験年数を問われるようなレベルは(ヒモつきの初任者でもない限り)ないです。
そういった意味で、校務は若手にとってはいろいろ経験することで自分の力になります。
熟達にとっては若手を育てる中で学ぶことも多いのです。
これは教諭の仕事の特殊性でもあると思います。
同じ校務でも、ものによっては、学校や時代によって大きく変わるし、私学のように膠着状態でつまらないものでないことにも起因しています。
村社会を叫ぶなら、私立学校の方だと思います。
(ましてや、話題の先取りになりますが、公立の私立化を目指せば、同様の問題は発生します。)
だって、本当に、日本中の学校でこんな会話が行われていそうなんですもん。
少なくとも私の知る限り、現在(多分、この10年くらいは)、そんな会話は行われていません。
>でも、給与に関係なく、 はなっから責任ある業務をやりたくない、プロジェクトリーダーなんかに興味がない人には、残念ながら効果がない のがつらいところです。
これはどこでも同じですね。
>学校のセンセイは、「こつこつ真面目にやっていればいつかいいことがありそう」タイプが多そうですから、こうした野心や起業家マインドを満たす試みには、興味をもたれないかも知れませんね。
どういうタイプが多いかはわかりませんが、野心的な人は学校経営を目指せばいいことだと思います。
少なくとも、私の現状は子どもの変化に飽きていませんから、今あるものから多いに学び、実践を繰り返し、研鑽に励むだけです。
それが教諭として志望し、あるべき姿の基本だと思います。
今のように、5年たてば出世のための研修コースをすすめられ、10年たてば主幹コースをすすめられる馬鹿な感覚につきあえません。
マイスターさんには、それを野心、企業家マインドと呼ぶのではないことを祈ります。
>
「自分たちにそれを決める権限がないんだとしたら、決められるようになりたいと思うか?」 です。
>マイスター、これまで好き勝手に「もっと工夫しろ、努力しろ」ということを書きましたが、(中略)ここで、ようやく昨日の本題に戻るのです。
>
だからこそ、教育に関する予算を、地方で握らなきゃいけないんじゃないか! ってことでしょ?
>予算と、あらゆる人事の決定権を地方に、ひいては学校それぞれに引きずりおろすことで、教育支援職員を雇用したり、ボランティアを組織したり、NPOを作ったりということは、より容易になると思うんです。
>それが、普通の論理展開だと思います。
普通ではないと思います。
ただ、先に少し記述しましたが、確かに、予算とその運用の権利を地域と学校の手に与えたならばそういうことも可能かなと思います。
が、実際に今心配されていることは「不公平(感)」「企業かマインドで教育ベンチャー」より、公教育をどういうレベルで維持するかの問題に直結しているので、そういう程度の認識で見通しをたてるのは危険だと思います。
つまり、これは「センセイはどうして欲しいかという問題」とは異なるということです。
もっと言えば、この地方移譲の問題は、国家予算の問題と抱き合わせになっているのであるから、百歩譲ってそれがなったとして、5年程度の短期的な見通しを想像してみても(合併が噂され、自治体からの予算を削られた学校が寂れていき、子どもが転出続出した例がありますが)、その時点で教育の地域、地方淘汰(倒産)が起こることは想像に難くないと思います。
教育を自由競争的な視点で見た時、公教育はそれを支えるだけの人材も金銭的余裕もないのは明らかです。
では「この記事の内容が本当なら、現場教師やPTAは、文科省におカネを握っていて欲しいのですねー。」と考えるのかといえば、そういう二項対立では考えないという答えしか私にはないです。
やはり、私には、この議論は教育将来を占う視点でなく、国家予算の頸城の中でご都合的に語られているようにしか受け取れません。
>結局、学校のセンセイ方がどうして欲しいのか、どうすればもっと理想の教育を実現できると思っているのか、よくわかりません。
これこそ今後も議論していく内容ではないでしょうか。
このブログもその一助になればいいですね。
>学校の合理化をしない、オープンな組織にしない背景にはたぶん(中略)閉鎖的なムラ意識です。
なぜ、そのように思うのか、根拠が示されていないのでよく分かりません。
私は教育施策に振り回されている教員の実情を知ってほしいとは思うし、その中で生まれた対保護者のような、本来教育の当事者に属する人との無用な対立に悩まされて自閉したことはあっても、そういう組織であるとか、ムラ的であるといわれると、「ちがうなぁー。」という感触しか持ち得ません。
もちろん、そういったことも含めてオープンにしていかなければならないのかもしれませんが、それってどの仕事も極めてオープンであるってことではないと思うので、異様な感じがします。
>こうしたものを無くして、(中略)給与をどうこうというのは、ちょっと社会の反感を買いそうですよ、センセイ方。
私の主張としては、もっと教諭の研究のアピールや指導技術の共有化を成し遂げていくことは大切だと思っていますし、そういう努力はしなければならないという声をあげてもいます。
(校務の)合理化という点では、前述に譲ります。
>以前から書いているとおり、(中略)なんていっている会社は、 消費者の支持を失い、軒並みつぶれた ということをお忘れなく。
こういう比較はあまりに単純で、問題を矮小化するきっかけになると思います。
そして、「忙しいから」を理由に「考える余裕」を失う前に、「考えさせない」外的圧力もあることを忘れないでほしいと思います。
そして、なんでも民間並ならば、公営である意味はないのです。(これは極論か・・・失礼)
最後にマイスターさんがわりと冒頭の方に書いていた記述を引用します。
>マイスターの感覚からすれば、現状の忙しさにかまけているだけの教員が特殊で、具体的な解決策を実行しようとするのが、普通なんです。
教員の全てを一つの方向に、しかも改革改革と追い込んでいこうという発想には、私は従えません。
それに見合う収入も教育的効果もなくできる仕事ではないと思っています。
私は、保守的、腰が重いといわれようが、現在ある教育的活動の遺産を霧散する可能性さえあるものに、好んで全精力は注げません。
答えになっていない部分は重々承知で言いますが、公教育は議論の端についてはいるけれども、議論の見通しや道筋はついていないと思います。
今なされている議論は、誤解と嘲笑が入り交じった様相で、冷静でないと思います。
教員側に対案を示せ!とかね。本来無茶な話だけれど、実際には組合によらなくても、こうしてブログに書いている人もいるわけで、問題はそういった声なき声が届かないシステムなんじゃないかなと思います。
現状をちゃんと分析し、当事者の声を議論にのせる作業はこれからなのではないかと思います。