「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」
光広が、吉野に代って促と沢庵はうなずきながら、
「まず、光悦どのから」
といった。
光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。
沢庵はその上に、
色香なき身をば
なにかは惜ままし
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、
忙裏 山我ヲ看ル
閑中 我山ヲ看ル
相看レド相似ルニアラズ
忙ハ総テ閑ニ及バズ
という戴文公の詩であった。
吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、
咲きつつも
何やら花のさびしきは
散りなん後を
おもふ心か
と、素直に書いて筆を擱いた。
(風の巻 牡丹を焚く三│「宮本武蔵(四)」, p161-162)
見山是山 見山不是山 見山祇是山
【1662】青原惟信禅師(南岳下十三世/臨済宗黄龍派/黄龍祖心法嗣)
「老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水。後来、親しく知識に見え、箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇の処を得て、依然として山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水。大衆、這の三般の見解、是れ同じか、是れ別か。人有って緇素し得出せば、汝に許さん、親しく老僧に見ゆることを。」
(五灯会元巻十六│「訓読 五灯会元」下巻, p46)
参考資料:
吉川英治著:吉川英治歴史文庫17「宮本武蔵(四)」, 講談社, 2000
能仁晃道著:「訓読五灯会元」下巻, 禅文化研究所, 2006