陽明学者、哲学者、安岡正篤先生御提唱の《六中観》の第一は「忙中閑」である。以下は随筆集『新憂楽志』からの抜粋で(p199-202)、一文は「まずこの六中観をそれこそ腹にいれておけば、何事につけても余裕綽々たるを得る。今年もまたこれを活用してゆく。」で結ばれる。
「忙中閑」に始まる《六中観》の中で特に感銘を受けたのが「腹中書」である。最後にお挙げになった第六こそが《六中観》の総綱ではないか。“腹”とは「「人」の中心とする所は卽ち腹で、腹を精神的に云へば肚である。」(布袋とヴィーナス│「東洋の道と美」、p17-64)の“肚”である。
第一「忙中閑」
ただ閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑あって始めて生きる。
第二「苦中楽」
苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。
第三「死中活」
窮すれば通ずということがある。死地に入って以外に活路が開けるものである。
第四「壺中天」
われわれはどんなうるさい現実生活の中にあっても、心がけ一つで随分と別の世界に遊べるものだ。碁でも将棋でも、信仰でも学門でも、何でも壺中天はある。神仙はこの現実にあるのである。
第五「意中人」
(病む、事業を興す、内閣を作る等々、さてどうすべきかという場合)それがちゃんと平生意中になければならない。しかるに人は多いようであるが、さてとなると、なかなか人というものはないものなのである。
第六「腹中書」
腹の中に書がある。頭の中に書があるのではだめ、それは単なる知識にすぎない。往々にしてディレッタントたるにすぎず、時には人間を薄っぺらにし、不具にする。知は腹に納まり、血となり、肉となり、生きた人格を造り、賢明なる行動となる。
参考資料:
安岡正篤著:「新憂楽志」, 明徳出版社, 1997
長與善郎著:「東洋の道と美」,聖紀書房, 1943