花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

紅葉と楓をたずねて│其の十・紅葉の下葉に異ならず

2018-11-08 | アート・文化


庭の楓がようやく色付いてきた。酷暑の期間の水やりが不足したのか、あるいは樹勢の盛りが過ぎつつあるのか、少なからず葉の辺縁が窶れている木が混じっている。紅葉の下葉と申せば、「女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか、三十四五にし成りぬれば、紅葉の下葉(したば)に異ならず 」(梁塵秘抄 巻第二・394)である。私などはさしずめ、地面に落ちて踏まれてもはや葉の原形を留めない朽葉に他ならずと言うべきか。もとより「女人五つの障りあり、無垢の浄土は疎けれど、蓮花し濁りに開くれば、龍女も佛に成りにけり」(梁塵秘抄 巻第二・116)の世界である。

ところで「むかし、世心つける女」で始まる『伊勢物語』第六十三段は、「百年(ももとせ)に一年たらぬつくも髪」と評される、百歳に一年足らない九十九歳、あるいは「百」の字に一画少ない「白」髪の、人生経験豊富な九十九髪(つくもかみ)の御婦人のお話である。対する「をとこ」について述べた最後の件がよい。
「世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。」(伊勢物語 第六十三段)
まさに「まめ男」の面目躍如で唸らせる。狭量な好悪や、損得がからむ費用対効果にておのれを出し惜しみしない、限りなく廣き心の持ち主である。描かれているのは世俗の色恋を超えた、まことの風雅である。

参考資料:
川口久雄, 志田延義校注:日本古典文学大系73「和漢朗詠集 梁塵秘抄」, 岩波書店, 1965
大津有一校注:岩波文庫「伊勢物語」, 岩波書店, 1994