駅前再開発に伴って現在の場所に移転する以前の話である。二階の自室でNEC9801に繋いだNANAOのどでかいモニターに向かい作業を行っていた。不意に言葉にはならない気配に襲われ振り返った時、一匹のイタチが背後の床から静かにこちらを見上げていた。私は椅子に座ったままフリーズし、対するイタチは3メートル程離れた一点で同じく不動である。しばし射竦め合う時間が流れた後に、イタチは音もなく身を翻して部屋から走り去った。
有り得ない場所で有り得ないものを見て暫し茫然としていたが、気を取り直して階下に降りた時にはもはや何処にもイタチの姿はなかった。後で判明したが、一階の土間に置いていた洗濯機の排水を屋外に導く排水孔の蓋が外れていて、その外部に通じた排水管から逆走して家の内に侵入したらしい。
それから十数年経った現在もイタチは近隣に生息している。飼犬の散歩途中、犬が立止り畦道を眺めたまま頑として動かない時がある。見守っている内に叢から茶色く細長い風体の動物が出てきたと思いきや、ちらと此方に一瞥をくれる。その後は何事も無かったかの様に反対の方向へと消えて行く。
最近になり、あの時のイタチはどのような眼で私の背を見ていたのだろうと思う時がある。その時間が短かったのか長かったのかもわからない。何時しかイタチに成り変わり、見られているとは露程も感じていなかった己自身を眺めている自分がいる。視線の先には、既にイタチが飲み込んだ人間が背を向けて座っている。
生き物が新たな別の生き物に遭遇する刹那、医学的な表現で申せば、あたかも全身の感覚受容体における感覚毛が、その後の怒涛のような神経伝達機構における情報伝達に繋がりゆく、最初の僅かな偏位を起こす一瞬である。火蓋が切られる瞬刻の様相は、野性におさらばした筈の人間同士の出会いにおいても何ら変わりはない。地位、学歴、あるいは教養等々、その他諸々の付加価値は所詮、後から張り付けたものである。その時に量られ試されるのは、偽れない裸形の本領である。