花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

小田野直武│城野隆著「風狂の空」

2018-01-13 | アート・文化


小田野直武(武助)は、江戸中期における「秋田蘭画」の中核を成した秋田藩士である。西洋画(阿蘭陀絵)の先覚者でもあった多芸多才の平賀源内を師と仰ぎ、身分を越えて秋田藩主佐竹曙山(義敦)とともに絵画の技法を学ぶ。源内の導きで江戸へ出た後、『解体新書』附図の精妙な版下絵を担当して希代の翻訳書刊行に多大な貢献をした。『解体新書』序図篇の末尾には、『風狂の空』では源内が作った文とされる、おのれの画力を謙遜した慎ましやかな武助の跋文が掲載されている。
 そうして前途洋々であった筈の武助は、余儀なく政争の渦に巻き込まれてゆく。やがて源内が起こした刃傷事件に連動して国元への遠慮謹慎を申し渡され、その翌年、三十歳の若さで夭折した。志半ばでさらに究めんとした絵の道を断たれ、迎えた最期はむざんやなの唯一言に尽きる。《2018年NHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇~」》に登場する武助(演じた俳優さんは加藤諒)はひたすら明朗、質朴な人物像で、江戸での希望に満ち溢れていた日々の姿が描かれている。私にはそれが、小田野直武に対する何よりの手向けの香華に感じられた。

「わしの目に狂いはなかった。いや、わしの予想などはるかに超えた才をそなたは示してくれた」
「それもこれも先生のおかげです。角館で先生に会うてなければと思うと------。何やら運命のようなものを感じます」
「人の出会いとはそんなものじゃろう。わしにとっても田沼様や藍水先生、玄白さんらとの出会いが大きかった」
宙間に視線を漂わせながら、源内は微笑を浮かべている。
「ただのう武助、運命は無為徒食の輩にはやって来ぬ。己が道を必死になって模索し、切り開いていこうとする者にのみに開かれる。そなたもその下地があったからこその運命-----。今後もその気持ちを忘れずに精進するのじゃ」
(「風狂の空」, p.428)

この後、捕縛するために踏み込んで来た役人の足音を聞いて、非常の人、源内は覚悟を決める。追い縋る武助に向かい、最後の頼みだ、去れと叫ぶ。「絵を、よき絵を描けよっ」が、別れ行く愛弟子への餞の言葉となった。そして、武助がふたたび師にまみえる日は二度と訪れなかった。



我が友人杉田玄白譯する所の解體新書成る。予をして之が圖を寫さしむ。夫れ紅毛之画や至れるかな。余の如き不佞は敢て企(つまだ)ち及ぶ所に非ず。然りと雖も又、圖(えが)くべからずと云はば、怨み朋友に及ばん。嗚呼、怨みを同袍に買はんよりは、寧(むし)ろ臭を千載に流さんか。四方の君子、幸いに之を怨せよ。 東羽秋田藩 小田野直武



参考資料:
城野隆著:祥伝社文庫「風狂の空 天才絵師・小田野直武」, 祥伝社, 2015
小川鼎三監修, 大鳥蘭三郎校注:「解体新書 覆刻版」, 講談社, 1973
広瀬秀雄, 中山茂, 小川鼎三校注:日本思想大系65「洋学・下」, 岩波書店, 1972
小林忠著:「江戸絵画史論」, 瑠璃書房, 1983