花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

猿沢池の龍のはなし

2023-07-29 | 日記・エッセイ

奈良 興福寺│土屋光逸 昭和12年

『宇治拾遺物語』、六<蔵人得業、猿沢の池の竜の事>は、蔵人得業恵印が悪戯心で立てた立札「この池より龍が登らんずるなり」から話が始まる。ゆかしき事かなと騒ぎ立てる世間の人々のみならず、仕掛け人までもが反対に煽られて、一同は固唾をのんで当日見守ることになる。しかしながら「興福寺の南大門の壇の上に登り立ちて、「今や竜の登るか登るか」と待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。」で終わる。

一方、これを出典とする芥川龍之介著<龍>では、「恵印の眼にはその刹那、その水煙と雲との間に、金色の爪を閃かせて一文字に空へ昇って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として映りました。が、それは瞬く暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花がまっ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます」で、云わば“嘘からでた実”の顛末となった龍が昇天する。しかし言葉を吟味すれば、むしろ“実(立札)からでた虚(神話・伝説の龍)”の話に違いない。

事を為した当事者の思惑から遥かに乖離して無限に広がりゆく熱閙、仕掛けた本人をも飲み込む怒涛の如き集団心理の破壊力は凄まじい。この<龍>に似通ったモチーフは他の小説にもある。<枯野抄>で芭蕉の臨終に際して弟子共が抱く各自各様の思惑、中心の師は置き去りにされて既になきものである。そして<或日の大石内蔵之助>では、事を起こした能動者の大石内蔵之助は、世間が作り上げる活劇中に否応なく並べられた受動者となり、そうありなむという一色に塗りつぶされてゆく。小説の最後は、「このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、このいいようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。-----内蔵之助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、何時までもじっと彳んでいた。」で結ばれる。
 渦中のど真ん中に居て取り残されてゆく当該人物が立ち尽くす処は、感傷が寄り添う寸分の隙もない硬質の絶対的孤独である。

参考資料:
小林保治, 増古和子校注・訳:日本古典文学全集「宇治拾遺物語」, 小学館, 2017
芥川龍之介:「或日の大石内蔵之助 枯野抄」, 岩波書店, 2017