花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

醍醐の花│日本花図会

2021-03-17 | アート・文化

醍醐の花 豊臣秀吉│尾形月耕「日本花圖會」明治廿九年

《醍醐の花見》に描かれたのは秀吉と豊臣家の女性群像で、「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」の辞世のままに歴史の彼方に去りゆく姿である。花咲かぬ草木の萎れたらん、何か面白かるべき。万朶の桜を究めずして散りゆく桜の風体は生まれない。

-------という信じられぬほどのみじかい時間のあいだに、忽然と地上にあらわれた。貴族になるためのどういう準備もできていないうちに、この一族はあわただしく貴族にならねばならなかった。
 これが、さまざまのひずみを生んだ。その血族、姻族、そして養子たちは、このにわかな境涯の変化のなかで、愚鈍な者は愚鈍なりに利口な者は利口なりに安息がなく、平静ではいられず、灸られる者のようにつねに狂燥し、ときには圧しつぶされた。
 が、例外がいる。

(第八話 八条宮│司馬遼太郎著:「豊臣家の人々」, p187, 中央公論社, 1981)

『豊臣家の人々』で、第一話・殺生関白から第九話・淀殿・その子(秀頼ではなく単に”その子”である)まで、本書で豊臣秀吉を巡る人々に注がれるのは仮借ない冷徹な眼である。その中で唯一筆調が異なるのが、一時豊臣家猶子におわした八条宮智仁親王を語る第八篇である。決定的な毛並みの違いを除いても他とは異なり、表題人物の心底に共感を寄せた篇に仕上げられている。清明な王朝文化を担う宮廷人の頂点に生を受け、人を貶めたことも貶められたこともない、天真爛漫で資性豊かな八条宮と、新興が台頭する安土桃山時代、天下人として世俗の絶対権力を掌握した百戦錬磨の武臣、海千山千の秀吉。血筋も年齢もかけ離れた主従間に結ばれたのは至純の稀有な絆ではなかったか。 

賤が苫家に千金の馬をつないだ風景こそ、侘びであり茶の心であると細川幽斎に説かれた少年の八条宮は、「千金の馬とは、大阪城のことか」と仰せになり、豪壮華麗な大阪城の一角に二条畳の茶室をおいた秀吉の心の傾斜をかすかながらも諒解できたようにお思いになる。そして時は流れ徳川の時代となり、秀吉は詩人であったと八条宮は往時を回顧なさる。夏の月がのぼる夜、“瓜畑のかろき茶屋”に秀吉を生かしめて招きたいと想いをお馳せになるのであった。