ヤマトタケルの夢 

―三代目市川猿之助丈の創る世界との邂逅―
★歌舞伎・スーパー歌舞伎・その他の舞台★

スーパー喜劇『狸御殿』松竹座公演

2005-09-30 21:48:27 | その他の演劇
配役・公演詳細・本チラシアップされました。
(博多座で見かけた時は、まだ仮チラシでしたが。)

昨日発売の週刊文春(10月6日号)に、鈴木清順監督の
『オペレッタ狸御殿』◆2005年〈第58回〉カンヌ国際映画祭特別招待作品◆
のDVDが、10月21日(金)に発売との記事が掲載されていました。
二十年間の構想を基にした映画とのこと。

かつて木村恵吾監督の『歌ふ狸御殿』(昭和17年)をご覧になり
いつかご自身でも・・・と思っていらしたとか。

担当プロデューサーのお話では
「カンヌ映画祭の総合ディレクターが、鈴木監督のところへ
わざわざ絶賛しに来た。」作品だそうです。

【発売元】
ジェネオンエタテインメント


※12月新橋演舞場公演の案内はこちら

九月歌舞伎座:夜の部『勧進帳』

2005-09-26 23:11:04 | 歌舞伎
先月の火樹会の舞台やレクチャー、そして、過日読んだ本から
演目に対する関心も更に高まっていたので
先週、歌舞伎座の勧進帳を幕見してきました。
連休と連休の狭間だし、
そんなに混んでないかな~?と思ったら大きな間違いで
「お立見で~す。」になってしまいました^_^;

でも、客席に人の熱気がある中で舞台を観るのは
ワクワク感が増していいですよね~。

富十郎さんの富樫、吉右衛門さんの弁慶、福助さんの義経。

やはり舞台は生ものということでしょうか。
とっても良いという評判も耳にしていたし、
また、友人の吉キチさん(笑)で、かなり回数観ているコの感想では
都度、大満足!で、あったり、う~ん、今日はちょっと?
という回もあったりと・・・

基本的には、きっぱりと滑舌の良いセリフ廻し、通る高音など
富十郎さんの持ち味は、爽やかな切れ味の良さ!と思うのですが、
私が観た日は、ちょっとお疲れでらしたのか、
葛桶に掛けている間、肩と首が落ちて背中が丸く(姿勢が悪く)、
富樫には、全面的にキリリと素敵でいてもらいたいので、
その点、やや、残念でした・・・^_^;

児太郎くんの、太刀持ちも頑張ってはいたけど、
なかなか、ずっと控えているのは辛い、よね

勧進帳を差し覗く場面や、
「いかにそれなる強力、止まれとこそ!!」の呼び止め
弁慶が義経を打擲するのを見て、疑い晴れた―と申し伝えた後、
上手に入る前に、思い入れするところなどは、さすがキマってました。
(“さすが”なんて人間国宝にメッチャ失礼!?

(あと、富樫は、幕切れの一行を見送るキマリの形も
すごくカッコいいですよね~。)

吉右衛門さんの弁慶は、失礼ながら八分の演技、と感じてしまいました。
(更なる失礼ご容赦
視覚的な大きささと反して、読み上げも問答も、抑え気味というか
意外とサラサラしていたような・・・

福助さんの義経は、儚げで品があり、この場は切り抜けたとしても
不幸な未来が予見できるような、寂寥感漂う雰囲気。

弁慶の引っ込みが見えず残念。
いや、幕見でも立つ位置によっては、多少七三までは見える時も
あるのですが、3階席の方がすでに立ち上がっており
見えなかったのだよ~↑気持ちは理解出来ますが…
だって、ここ観たい!もんねぇ。。。

鳴物チームの中に「鼓の家」三男(笑)発見。
お兄様は、博多座で陰鼓打ってましたね~。

しかし、これほど見方の変わったお芝居もないです。 
以前は、綺麗な女形も出てこないし、問答は分からないし
(これは、観劇だけでは当然理解は出来ず、上演台本や
テキストを読みました。)つまらんと思っていたのに
今や、問答の緊迫感や、富樫と弁慶、それぞれの「想い」を、
役者さんたちの個性や表現方法によって、いろいろ見比べてみたい~
と思うようになりましたから。

あと、政岡なんかもそうかな。
これは猿之助さんが伊達十の中で見せたり、
笑三郎さんや笑也さんといった、身近な役者さんが等身大に
見せてくれたことによって、逆にいろんな幹部さんの芝居も
凄く見たくなったり…と。

九月博多座大歌舞伎観劇アレコレ

2005-09-25 02:37:21 | 歌舞伎
そろそろ記憶が断片的になってきているので
断片的なカケラをあれこれ。

※おとせさん、川に突き落とされますが、
3階から見ると、メチャクチャ高さと深さがあるように見えて
怖かったんですが、実際、通常より高さあったみたいですね。

※大詰の雪上の立廻りも屋根の上斜めってる(笑)し、
どういう感じで滑り止め効果しているんでしょうか?なし?
本人のバランス感覚だけが頼り?段ちゃんの飛び降りもドキドキしました。
逆に、玉三郎さんの櫓への昇降は安心して見ていられたのですが。
白く塗ってあるだけなのに、はしごや土台?の枠組みに
雪が積もっているように見えるのが素晴らしい!

※芝居の中でいろんな伏線が張られているけれど、
妙に引っかかり恐ろしくそして哀しい想いが募るのが
和尚が包丁を眺め、よく研いであると呟く場面・・・
末期の苦しみが少ないようにということなのかと思うと切ない。

※今回は、十三郎とおとせが死ぬ場面で、犬の思いいれはナシとの事ですが
笑三郎さんがおとせににじり寄るあたりで
若干動物的な動きに見えたのですが、どうでしょう?見間違いかな?
瞬間の印象なので・・・

※お坊とお嬢はプラトニックな関係ということらしいのですが、
今回の二人は、どうみてもでしょう~と盛り上がった@
ドトール(気分は芝居茶屋)での観劇後自主歌舞伎鑑賞教室
(あ、「社会人のための~」の方で)
あんなに(意外と)さっぱりした気性に見えるお嬢なんですけどね。
これはコクーンの福助さんの方がもっと退廃的でありえる造形だったけれど、
博多のお嬢とお坊は、表面的に見える以上に深い繋がりを感じました。

※化かされでダミーの弘太郎くんが、切穴より前、かなりセンターに
出て芝居していたのも、ビックリ。

※だいたいどこの劇場でもブロマイド500円なんですけど
博多座の550円、この50円アップ!!っていうのは、なんなんでしょ~
(って博多座にメールしろって?)
そして襲名興行並に(より?)高い筋書(>_<)
でも、博多座のスタッフの方の対応やサービスは凄くよくて
また、アクセスもいいし、好きな劇場ではあります!!

※小林恭二さんの「悪への招待状」を参考文献として読まれた方も
いらっしゃるかもしれませんが
コクーンのパンフレットの中で、著者ご本人が、

>僕この本の中で決定的な間違いを一つ犯してしまったんです。
>三人が出会う場面を節分の日の出来事として書いたんですけど
>実はあれ節分ではなく大晦日だったんです。
>「月も朧に…」のせりふの中に「ほんに今夜は節分か」
>とあるので、二月の節分だとばかり思ってたんですが
>あの年は年内節分と言って、年内に節分が来ているんです。
>ですから、あの三人吉三が出逢って血杯を交わした日は大晦日で
>翌日は正月なんですよ。原本に「としこし」とルビが振られている
>理由が執筆時にはわからなかったんですが、

とおっしゃってます。
もしかして、増刷分とかは内容が改訂されているでしょうか?
ご参考までに。

勘九郎さん(現:勘三郎さん)もそれを受けて
「それは知らなかったな~」
「二月と十二月三十一日では、ぜんぜん気分が違うもんね~。」と。

さて、今回の博多はどんな気分で演っていらしたのでしょうか。

九月博多座大歌舞伎観劇記【3】『義経千本桜』          川連法眼館の場(四の切)

2005-09-25 01:29:02 | 歌舞伎
纏まりのあるしっくりとした一幕でした。

久しぶりに、板付きでない法眼さんも見たし
でも、切ないですよね~夫婦でも、そのお互いの心底を
確認し合わなければならない状況。
しかも、昨日今日の政略結婚で夫婦になったワケでもなく、
かなり長年連れ添ったお二人とお見受けするのに・・・

今回三階からの観劇だったので、忠信の花道からの出端は
見えなかったのですが(この揚幕がちゃりんと開いて、
サーっとオーラが差す様な、そして哀愁が漂う猿之助さんの
出端が大好き♪)七・三辺りにかかったときの佇まいに、
国立観劇時より、憂いがあったかな~という印象。
病み上がりであることや、主君に長く暇をしていたことなどなど
ここは、ホント、役者としての出端の華と、でも役柄として
秘めている憂愁とのブレンドが結構難しいところでしょうか。

偽の忠信と静一行が到着したとの知らせを聞き
下緒を捌くところも、所作が丁寧になっていた。
でも、ここはもっときっぱりメリハリが欲しい。
丁寧だけでなくキリリっとね。
あと、良かったのは、狐忠信で出た後、
広庭から蹴上がって欄干をくるりと回って下手回廊に上がるところが、
7月よりも綺麗でした。ちゃんと長袴の裾が延びて、
欄間の花丸にピシっと当てていました。

源九郎狐の述懐も、切々と心情が伝わってきた。
というか無意識のうちに胸を打たれていました。
三階席だと前方で観る時より、多少、登場人物へののめりこみ方が
薄くなる傾向にあるのだけど、
ふっと気づいたらホロっとした気持ちになっていて(/_;)
結構、冷静?というか落ち着いて舞台観ていたのに・・・と、
いつの間にか胸の奥をすっと掴まれたような感覚。
源九郎狐の心が届いてきたのね

段治郎さんの義経も、また、ひと回り大きく見えて
臣下と向き合う“御大将”に相応しい雰囲気を醸し出していました。

7月国立劇場の四の切を観ていて
笑也さんの静は、以前よりはだいぶ無駄な動きが抑制されていたと
思ったけれど、もっと動かなくて良いのでは?@偽忠信への詮議
とも思っていた。
今回、玉三郎さんの静を観て、やはり動いてないな~と確認。
何度か斬りかかろうとする所作がありますが、
玉三郎さんは、前のめりにいかにも斬りにかかります、
という動きはなく、逆に刀を引いて、ひとつの形を作ることによって
事があれば斬りますよ、という想い入れを表現している。
そのあたりが、やっぱり美しかったですね~。
段治郎さんの義経とも、愛に満ちた素敵な一対でした。

狐忠信の飛翔を見送る際、御簾が降りないバージョンって
もしかして初めて?過去どうだったかな~
いつも忠信一点集中なので記憶なし。
今回は、右近さんと玉三郎さんの格の上からそういう演出
なのかしら?と考えると、過去、猿之助さんより幹部の方が
静御前を勤めた時はどうだったのかしら、と考えてしまいました。 

九月博多座大歌舞伎観劇記【2】『義経千本桜』       序幕:吉野山

2005-09-24 14:31:12 | 歌舞伎
序幕、大内の場を観たのは今回初めてですが、
なんでも発端をつければ、物語が分かりやすくて良い、
というものでもないのかな~と思ってしまいました(~_~;)

いや、よくよく登場人物の台詞を聴いていれば、ちゃんと
義経が落ちてゆかねばならない意味や、初音の鼓とはなんぞや、が
分かる(はず)で、適切な導入なのでしょうが、
堀川御所にしても、以前観たときより(98年7月歌舞伎座の千本桜通し)
舞台面がとっても地味で、というか、
大内の場からずっと「説明」が続くので、やや退屈でした。
普段出ないのも分かるような気もする~
(いや、出し方によるかな。歌舞伎座の時は、通しゆえ時間の制約があり
刈り込んだ結果、テンポのある分かり易い構成となった。)

友人があの場って難しいこと(台詞の文言が)言ってるから
分かり難いよね~と言っていたのですが、その「難しいこと」
を聞き逃していた私^_^;A ふっと意識が舞台から離れ、
(あまり予習してなかった為、堀川御所は歌舞伎座で観た通り
が出ることを勝手に想定していたので、もの足りず…)
春猿さんが卿の君で、笑也さんが静御前だった華やかバージョンを
ふっと思い浮かべたりしてました・・・

笑也さんの義経ってどんな感じかしら?との興味はあったのですが、
(81年国立小劇場、第4回歌舞伎会で鳥居前の義経、
85年明治座第1回待春会(←澤瀉一門の勉強会)でも鳥居前の義経を
されています―ちなみにこの時道行では静御前、が、本興行では初役。
それぞれの勉強会は、私は未見。)
拵えは、なかなか似合っていて、寂しげな風情も彼の置かれた境遇と
相まっている感じはしたけれど、ほぼ門之助さんとの二人芝居(?)
での台詞の応酬が単調で、ぐっと物語に引き込まれていく、
という気分にはなれなかったかなぁ~。

門之助さんも、なかなか微妙な役どころですよね。
頼朝の名代としての義経に対峙しなければいけない立場であることと
義経の心境をも理解する、彼もまた忠義の狭間で揺れるひとり。

塀外の場―芋洗いをつけたのは、視覚的に地味な場面が続いた後
趣向を見せるという意味では面白かったし、気も変わりますが、
物語を分かりやすく見せるという意味では、
「忠信篇」の常套、鳥居前―吉野山―四の切、で良かったのでは?とも。
(大内・堀川御所出すにしても)
六月に松禄さんが鳥居前出したばかり、という事情もあって
今回鳥居前を出さなかった、という話も伺ってはおりますが。

部屋をオークラにとっていたので休憩時間に戻っていたら、
吉野山に、ちょっと遅刻してしまいましたm(__)m失礼。
常に見慣れた静の出と異なっていたようで見逃してしまい残念・・・
戦物語に入る少し前、静の舞からの観劇となりました。
ここのところ猿之助さんも清元地で出すことが多かったので
義太夫地の吉野山を久々に観ることができ嬉しかったです。

清元の方が華やか~との見解もあるようですが
私は、どっしりとした、より物語的な義太夫地、好きなんですよね~。
というか、私が猿之助さんの舞台を観始めの頃は
児太郎(現:福助)さんと、頻繁に義太夫地で踊ってらした頃で、
刷り込みが強いのかな~。
(ま、生まれたての小動物が始めて目にしたものを
母と慕う、原初的なインプリンティング同様?)

今にして思うと、初見の吉野山、文楽座出演、人形遣いも出て
滝車廻してと、とっても豪華な舞台でした。
猿之助さんの出手で扇を飛ばす所作がありましたが、
博多の舞台では、玉三郎さん(静)の出手で、これは本行(文楽)通り
のようです。ちょっとスリリングで視覚的に楽しいでしょう?
忠信の赤の襦袢も、合戦の海に映る血の色、昼のぎらつく太陽、
そして戦い暮れた後の夕日の色とかイメージが広がって好きなんです。
(猿之助さんの場合というか、宗家藤間流の場合、清元地だと
浅葱の襦袢を用いることがある、との事で猿之助さんもここ数年浅葱が
多かった。)静が片袖脱いだときの着物の色とも合っているし。

う~ん、舞踊の素養がない私が言うのもおこがましいですが
玉三郎さんは、余裕の余裕、サラサラっと踊っているように見えた。
踊っている・いない、を超越して、動いている時もそうでない時も
同じ空気感でそこ存在しているというか・・・(我ながら意味不明な文章^_^;)
しかし、戦物語に入ってから獅童さんを見つめるというか
ほとんど監視するような目が怖かったです(>_<)
もう、獅童さんが可哀相なくらい(逆に日々勉強で良いのでしょうが)
よく、この厳しい視線の中で、身体が動くな~と。

精神的にも肉体的にも失礼ながら、いっぱいいっぱいという感じが
見て取れて、最後の花道のぶっかえりのあたりでは
かなり消耗されてましたね。

猿四郎さんの藤太は、もうこのお役を振られたこと自体が
大抜擢で偉業(←ちょっと大げさ!?)です。
反面、ある意味順当という感じもしますが。
澤瀉屋の芸を、次世代が継承していくという点では。
踊れる方なので、振り事などは安定して見せていましたが、
台詞に丸みが乏しいのと、これは、今回の出演者三人三様すぎのせいか、
三人で描く楕円形の調和した舞台でなく
何か、トライアングルの先端にそれぞれがいる印象を受けました。

【追記】

静御前の常盤衣は、白地と、橙色ベースのものがほとんどのような気がします。
私は白地ベースが好きなのですが(これらは、常の花道からの出の方が
お衣装チェック楽しいですね♪)
今回、玉三郎さんは、筋書のグラビア写真と、実際の舞台写真で常盤衣が
異なってますね。当然、舞台写真のものを実際着用されてますが
もしかして日替わりとか、何日かおきで替えてるとかなのかしら!?
複数回ご覧になった方いかがでしょうか?

舞台を観る前に筋書の写真を観たのですが、実際着用されているものは
写真だと、ちょっと柄が込み入り過ぎてるかな~もっと
すっきりした白地ベースがいいな~なんて勝手に思っていたのですが
実際生で観ると、古風さも出てなかなか素敵!!でした。

猿之助さんと踊られた時(91年12月歌舞伎座)は、
白地にシンプルな柄のものでした。

九月博多座大歌舞伎観劇記【1】『三人吉三巴白浪』

2005-09-23 23:51:53 | 歌舞伎
西太后以来の博多座。(八犬伝は行かなかったので・・・)
久しぶりに劇場の前に立ち、幟がひらめくのを眺めていると
猿之助さんの休演のニュースが飛び込んできた時のことが甦り
ちょっと感傷的になってしまいました(/_;)
これは、いかん!!と、『三国志(関羽篇)』で、
初めて博多座に来た時の楽しかった記憶を引っ張り出してきたり・・・
舞台はもちろんのこと、付加価値(!)も高くて、後援会の催しや、
テレビ番組の収録を見学などなど。
博多にひと月で三往復というテンションの高さでした。懐かしい~(>_<)

猿之助さんの舞台も、追っかけ猿★征も、ずっと続くと想っていた―
というか、そんな、続く・続かないなんていう事を意識することもなく。
一年中、観劇と猿★征予定が詰まっていた頃・・・
う~ん、ちょっと前置き(個人的想い入れ)長すぎですね^_^;

『三人吉三巴白浪』

非常に分かりやすく筋を紹介しつつ、
斬新な演出で印象に残っているのが、コクーン歌舞伎。
よく、色々なお芝居でも「お家の重宝」って出てくるけれど、
コクーンではこの庚申丸に纏わる因果を発端として見せ
(差しがねの犬も出てきたり!)
また十三郎のような真面目そうな手代さんが、
なぜ夜鷹と契ってしまったかのあたりも描かれていて、
物語の導入として面白かった。
通常は両国橋川岸が<発端>となるけれど、
その発端の発端!が付いていたってところでしょうか。

今回の博多座では、通常通り川岸のからの上演でしたが、
裏手墓地を見せています。コクーンではこの場はなくて、
博多の舞台を観て、コクーンもここを出せば
→「両人犬の思い入れにて這い寄り水を飲む」@水盃、
冒頭で、差がねのワンちゃん出した甲斐あったかも、と。
でも、このお芝居は、物語の筋がしっかり通っているので
多少の刈り込みがあっても、まったく影響ないですね。
ご都合主義な部分はなくて、すべての絡み合った糸は
きっちり繋がっている。

それぞれ座頭や演出家によって、
時間の配分や趣向の提示の仕方が異なるのは、
それはそれで興味深い。
いつも「通例」ばかりでは、つまらないですもんね。

笑三郎さんの立役は、98年のオグリで、そのきりりとした容姿、
よく一門の芝居を観ている人たちでさえ、一瞬誰?
と気づかないくらいの発声など強く印象に残っています。
(その後、舞踊やお芝居でも、いくつか立役を拝見していますが。)
女形だと、わりとこってりとした持ち味ですが、
立役では、すっきりと清凉な雰囲気のハンサムさんで、身長もあるし、
これまでは、真女形一筋かな~と思っていましたが、
今後、立役でもかなり幅が広がりそうですね~。

春猿さんとのコンビは、映りの良い素敵なカップル
(と言ってはこの設定の場合語弊があるかな?)でした。
春猿さんも、ひとりの娘として純粋な部分と、夜鷹を生業としている、
すでに生娘ではない色気の混在した役柄はぴったり。

右近さんの老け役は、すでに観た人たちから、
その老けっぷりに驚嘆の声があがっているのを聞いていたし、
たまたま夜の部の観劇時並びの席で、すでに昼の部を観ていた知人から、、
「右近さんが老け役って分かっていたのに、
最初の出でこの人とは、すっかり気づかず、驚いた!!」と聞いてたので、
翌日の観劇を楽しみにしていたのですが
(私も気づかなかったらどうしよう~♪と)、
川岸上手からの最初の出で「右近!!」と大向うさんが教えてくれました。
・・・ちょっと残念!?

伝吉、とても重要な役ですよね。タイトルは「三人吉三」だけど、
基本的にはこの伝吉が主軸で、彼に起因する因果応報。
本人たちには何の落ち度もなく、周囲の人々の因縁によって
報いを受けるのが十三郎とおとせ。
(ただ、ひとつ惹かれあったことが罪?)
伝吉とその子供たちが縦糸で、
それに絡む横糸(たち)で織り上がった絵図がこの物語でしょうか。

いろんな意味で右近さんには荷の重い役だったと感じます。
もともとの持ち味が陽性の役者さんなので、
悔恨や苦悩が出るあたりや
自身の中にある善性との葛藤などは良かったけれど、
お竹蔵で数珠を切るところで、過去を彷彿させるような陰性の部分と
凄みがもっと出れば、「起因」がより際立ったかなぁ~と。
こんな報いを受けるほどの因業も抱えていた人間であったことの。

段治郎さんは、これまでの玉三郎さんとの共演に比べると、
格段と余裕が出てきたように感じます。
観る方も慣れてきたのかもしれませんが。
とてもニンに合っているし、悪行に対して「無知」的な部分、
どこか淡々と非情な行為を犯している様子が、
後のあっけなくといえばあっけなく、若く自死する生涯を予感させる。
ま、そんなアレコレはおいといても、
もうフツーに見た目がカッコいいですよね、段ちゃん。
また、筋書の山三の写真がズルいほど素敵です。
(たぶん、この写真見ただけでFC会員数増えているのでは?

逆に失礼ながら、見た目で損をしているのが獅童さん。
やはりお嬢、お坊の兄貴分というには線も細いし、
どうしても見た目若すぎる~!!
声なんかは太くしっかり作っているところもあり、
感情が伝わってくるところもありますが、
台詞廻しというか、台詞の間の取り方には疑問符。

結構、長台詞もあったりしますが、句読点がきっぱりせず、
歌舞伎のリズムっぽくなくなってしまう点と、
他の役者さんの台詞を聞いている?(聞きすぎている?)のか
誰かの台詞のあと喋りだすところで、何か妙な間が空いていた。
一瞬、台詞忘れちゃってる!?と心配になるくらいの。
(ハイ、余計なお世話です^_^;) 

獅童さんと、澤瀉一門ってどんな感じかな~と
まったく接点がないように思っていたのですが、
筋書のインタビューで、
「子役の頃、澤瀉屋さんによく使っていただいていた。」
「スーパー歌舞伎も大体見ています。」とのご発言を読んで、
とても親近感は覚えましたが。

玉三郎さんに対しては今まで、
女性より女性らしい美しさ、艶やかさ、妖艶さ、
と思っていたのですが、今回のお嬢を見て、
一般的にイメージされる雰囲気より、
ずっと男らしい部分もある方だな~と感じました。
娘のナリはしていても、男気のある骨っぽい印象。
全然ナヨナヨもしたところはないし、中性的って感じでもなく。
たぶん、お坊よりも芯は強い?気性も感じた。

大詰も、彼らの死を決定しリードしていくのはお嬢のようにも思えます。

「死罪」とならず「自害」することは、
罪を購うというより、彼らの最期の逃走にも思え、
また、純粋というよりは、若さゆえの単純さが露呈しているようにも。

(ということで、和尚は彼らより多少年長で、多少、了見もあるのでは?
と考えると、彼もこの場で一緒に死ぬのが、どうもそぐわない気もする~。
というか、和尚が死ぬ意味とお嬢お坊の死ぬ意味は違う?←あるいは
これは今回限定の印象かな~。
ラストお坊とお嬢二人の世界になってるし(~_~;))

【追記】

宗教についてレクチャー受けたときの受け売りです。

たとえば、窃盗を犯す人間がいたとして、
それを「悪いこと」と知りながら犯しているのと、
悪いことであるとも何とも知らず犯しているのとどちらが
罪が深いか?という命題があって、
私は、「それを悪い事と知りながら罪を犯す方が悪いのではないか?」
と考えたのですが、宗教では、「無知」ということを「悪」と捉え、
それが悪いとも何とも知らず窃盗を行う方がより悪いと。

「悪いことをしている」という自覚があれば
後に反省・後悔といった悔い改める感情を持つ事もあるかもしれないが、
それが悪いことともなんとも知らなければ、
改悛の気持ちが生まれる可能性もないから、と。
まあ、宗教的には神の愛(もしくは仏の慈悲)を知る可能性
という意味も含めてなのでしょうが、
それを聞いたとき、私は結構目から鱗でした。
悪いと知りながら悪いことしてるほうが悪いじゃん!!
と思っていたので・・・

宗教において「無知」は大罪である、と考えられているようです。

私が上記、お坊の「無知」的な部分、と書いたのは
何か、このあたりの感覚です。上手く説明できませんが・・・

九月博多座大歌舞伎『三人吉三巴白浪』2

2005-09-15 19:25:54 | 歌舞伎
たまちさんの猿★征観劇記(2)

【三幕目】

<巣鴨吉祥院本道の場>

欄間の絵は天女が舞う割とハデ目なんだけど、
うら寂れた感じのお寺の本堂で火鉢にあたる堂守源次坊。
「和尚がお酒でも買ってこないかなぁ」なんて独り言。
やはり普通の坊主ではない。

そこへ和尚を訪ねてお坊が花道より登場。
「ほぉ~っ!」と溜息が出る美しい立ち姿。
(これは私の贔屓目だけではなくて、
実際に周りのご婦人方からも声が上がりましたよ)

和尚はお風呂に行っているということで上がって待つことに。
すると、なんと源次坊とお坊は既知の仲。
「お酒でも出したいところなんだけどね・・・」
か~な~りの酒好き源次坊!うふっ(←?)
ひと目をしのんでいる為、買物も出来ないお坊は
お金を出しお酒とツマミの調達を依頼。
出かけに源次坊は、何とか壇の下(シュビ壇だったかな?
名前忘れました。すみません。お位牌のような物が並んでいる所の
下が押し入れのような引き戸になっており・・・)
へ隠れておるよう勧めます。

この時の源次坊はちょっと雰囲気が違う。
同じような境遇を生きてきた者同士って感じが漂う。
出番中、ずっと笑いを誘う風体なだけに、
この時の様子なんだか心に留まります。

帰ってきた和尚に捕り手が「これまで犯した罪により逮捕する!」
だが、頭の役人は和尚に司法取引を持ちかける。うわぁ~カッコイイ!!
薪車さんに一緒に観劇してた妹の眼はハート!
今は改心してる様子だから、お嬢とお坊を捕らえて差し出せば
和尚の罪を許してやる。暴れるなら殺して首を差し出ても構わない・・・と。

和尚は褒美として百両までも要求。この時点で既に、
十三郎とおとせを身代わりにするつもりだったのでしょうねぇ。
そしてこの百両で本物2人を江戸から落ち生き延びさせようと・・・。
和尚の頭は坊主頭。最初出てきたときの髪形というか刈り方、
あれは一体なんだったんでしょう??
時々現代でもお見かけしますが違う意味で。

役人が去り和尚独りになると、お坊が何とか壇(苦笑)の下から姿を現し、
「俺に縄を打ってくれ」と手を後ろにします。
どうせ捕まるのなら和尚の役に少しでも立ちたいと。
しかし和尚は役人の目を欺く為に言ったことだと言い、
暗くなるまで身を隠しているよう指示し、
小さな炭壷のような物を持たせます。
(湯たんぽの代わりかな?)和尚の事を思い捨身を決意するお坊。
また彼に対する和尚の気取らない優しさ。
形式的な「義理」じゃない「心のつながり」を感じます。

14歳の時から辛苦を舐めているお坊には、
こういう和尚の何気ない心遣いもまた、
彼の事を慕う要因であるのかもしれませんよね。
人間の心のありようなんてのはいつの時代も同じだなぁ・・・
としみじみ感じます。変わって欲しくないものでもあります。

ここで和尚は、お坊が探している庚申丸についての特徴を尋ねます。
父の悪行を償う為、自分が探し出すつもりでしょう。
またこの時お坊は、お竹蔵で人殺しをした事をとっさに隠します。
三人の絆のお陰で、荒んでいた気持ちが変化し、
人としての心を徐々に取り戻してきていたから、
人殺しを悔いていたのでしょう。(元々仕方なく殺した感もあったし)
だから和尚に知られたくないと思ったのでは。この気持ちもわかるっ!

そこへ源次坊が十三郎とおとせを伴い戻ります。
お酒とネギと軍鶏を一羽ぶら下げて・・・。
個人的に妙に軟らかそうな軍鶏の首が気になって(笑)
あれどんな素材でできているんでしょうね?

十三郎とおとせと和尚、実の三兄弟が揃います。
ここで初めて和尚は伝吉の死を知ります。
しかも遺留品によりお坊が殺した事を。
そしておとせから百両を奪ったのがお嬢だという事を。
このもつれにもつれた因縁の全てをここで掌握してしまった和尚。
伝吉が自宅で自分の悪行と因縁に慄いたあの場面とちょっと通じませんか?

おもえば和尚と伝吉って可哀想な親子ですよね。
心の底では実は分りあっているのだろうけど、
顔を会わせれば反発してばかり。
似たもの同士だからなんだけど・・・一卵性親子。

そしてここで目を見張るのは、十三郎とおとせの夫婦っぷり!
おとせは着物も紺色の格子柄(に見えました)で
十三郎の縦縞と同系色でお似合いなんですよねぇ~!
しっくりお似合いの夫婦って感じ。
こういう寒色系のいでたちも美しいですねぇ春猿さん。
この後の展開を知っているからかもしれませんが、暖色系がない分、
精気が無いというか「この世のものと思えない美しさ」を感じます。

和尚は人に聞かれたくない話があるからと
2人を裏手の墓場に向わせます。
軍鶏鍋の用意が出来たと現れた源次坊に、和尚は使いを頼みます。
棺桶用の桶1つと京帷子2つ。

軍鶏を捌く為に源次坊が研いだ出刃包丁を手にとる和尚の眼差しは
鬼気迫る感じです。

人気が無くなったお堂に、お坊が隠所から出てきて様子を伺っていると、
天女の欄間絵がすっと開きお嬢が顔を覗かせます。
場内沸きますもちろん。お嬢がお堂へ降りてきて懐かしの再会です。
ここで2人は一緒に死のうということになるのですが、
合意に至るまでにひとくだりあり。
「どうして一緒に死のうと言ってくれないのか!」
と詰め寄るお嬢の台詞とお坊の「分った」という表情が非常に印象的!
死ぬ理由を書き記す為に両脇の柱にかけてあった
1対の帯のような掛け軸のような物をお坊が刀で落とし、
墨をするお嬢の元へと引きずりながら持ってくるのですが、
この場面、哀愁感たっぷりで何ともいえません。じわっときます。

<裏手墓地の場>

既に和尚に襲われた2人は地面に座しポーズをとったまま盆回しで登場。
ホント体力要るなぁ・・・と変なとこに感心。
立ち回り。墓石って意外と簡単に倒れるのねぇ。
照明も控えめだし、2人とも顔面蒼白。2人を殺す理由説明。
しっかしそんな理由で殺される事を納得できるのかなぁ???と疑問。

それでも「2人一緒に死ねるなら」「お金の事だけは頼みます」
とは・・・なんと不憫な。事切れる間際に割れ茶碗に汲んだ水を、
十三郎→おとせ→和尚の順に和尚が飲ませます。
これって、兄弟の契り?夫婦の契り?お別れの水杯?
そして、あっぱれお見事なのが
笑三郎さんの死にっぷり(←こんな言い方よいのか?)
観ているこちらも呼吸を忘れ見入ってしまいます。
倒れた十三郎の頭が盆の外に出てるので、
舞台転換の時さいごの最後まで気になってみてしまいます(笑)
あれ、すってるのかなぁ?

<元の本堂の場>

盆回しで場面が変わり、お嬢とお坊が後ろ向き座姿で登場。
くぅ~っ!この姿がまた何とも言えないんですよ。
両脇の柱には既に死ぬ理由が書き記された軸のような物が元通り掛けられ、
2人は夫々それを眺めている。
このとき私の頭の中では何故かユーミンの曲が流れてるんですよ
「ま~どべに置いた椅子に・・・」って曲がイントロから(爆笑)

お坊がお嬢を殺してから自害とすることに決定。
愛する人を手にかけるのは辛いと思うのですが、
お坊の口ぶりにはそういう迷いを超越した潔さすらあり、
より一層印象的な場面です。
静まり返った冷たい真冬の朝の空気みたいな・・・。
そうそう、お坊が自分の生まれを語り両手で顔を覆い涙する、
そんなシーンが本堂ではあります。
良家の跡継として生まれ本当に可愛がられた育ちの良い子が
悪事の果てに自害するんですからねぇ。
そしてこの時の段治郎さんの手指の美しいこと!注目です!!

今まさに・・・というところへ(この2人の姿がまた美しいのです!)
「死ぬには及ばない」と
和尚が「生首」のお包みを両脇に抱えて上手奥より登場。ひぇ~っ!
2人もお包みを開けて、ご対面~。しぇ~っ!
和尚が全ての事情を説明し、今後は悪事を止めて改心する事を誓い合う3人。
和尚は生首を役所へ届けに行くと言い、お坊は庚申丸を、お嬢は百両を・・・
それぞれ届けに行く為に退場。

日暮れに桶をからって帰ってきた源次坊。
本堂でお包みにつまづきさぁ大変。そりゃそうだ!
和尚はすがる源次坊を蹴飛ばし花道より退場。
勢いで桶に仰向けにはまった源次坊だけが残される本堂。
昼の部・夜の部ともに「桶」に縁のある今月の猿弥さんでした。

【大詰】

<本郷火の見櫓の場>

雪景色。いよいよ張り巡らされた「非常線」、
厳重警戒態勢の為に町人の日常生活にも支障が出ています。
首実験の結果ウソがばれた和尚は捕らえられた。
残りの2人が捕まったら木戸が開く。
その知らせは火の見櫓の太鼓の音。
それまでは通行できないし太鼓を打てばお仕置きだ。

花道からお坊が筵に身を隠し手ぬぐいをかぶり素足で雪の中を登場。
足元は膝から下が見えている。
まずここ(美しいおみ足)に眼が釘付けですわな(爆笑)
同時にお嬢も筵に手ぬぐい被りで上手の入り口から通路を少し通って舞台へ。
近くのお席だった方が羨ましいですね。
2人は本舞台上で再会するものの木戸の内と外。
木戸越しに握り合う手に現れる懐かしさともどかしさ。

捕り手が現れて夫々に大立ち回りとなりますが、
これを眼で追うのが大変よ~!なんてものじゃない!
分担せいか一応それぞれ立ち回りの見せ場があるものの同時進行も多く、
あっちも見たいしこっちも見たい、あ~目がまわるぅう!
屋根上の立ち回り後、屋根から木戸ウチへ飛び降り、
お嬢が絡めとられている縄を一刀で断ち切り2人寄り添う。
この時背後の櫓にドンっと当り2人の頭上に雪の塊がドサッ。
お嬢が櫓に登り太鼓をたたきます。う~ん、八百屋お七。
そう言えば、欄間の天女もそうでしたね。

和尚が花道から登場し、自分を逃がす為に危険を犯して
2人がやった事だと知ります。
八百屋久兵衛も現れ、ここでお嬢と親子の対面。
割とあっさりしているなぁと感じましたが、
他の方はどう思われましたでしょうね?

お金と刀は久兵衛へ預けられます。
お坊のお家へ出入りしていた業者が久兵衛だったとは・・・
最後まで抜け目がないですね「からみあう因縁」
思い残すことはなくなり、いよいよ最期「わが身の成敗」
お坊は短い刀を和尚に渡します。和尚は櫓の途中で。
刀の鞘を投げ捨てたお坊はお嬢と身を重ねるように櫓のたもとで・・・。
・・・絶句。とにかく観て下さい。・・・としか言えない美しさ。
幕切れは本当にほんとうに切ない気持ちに包まれます。

観劇後すっご~く頭使う作品ですね。
久兵衛以外はみ~んな死んじゃった!
「悪事を重ねどうせ死なねばならぬ身」
という一見捨てばちなせリフに隠れる、
自分の大切な人の為にこの身を賭す・・・
そんなテーマもあるのかな。義理じゃなくて自発的な思い。

舞台写真入りの筋書きを手にできる日が楽しみです!

九月博多座大歌舞伎『三人吉三巴白浪』1

2005-09-13 00:19:02 | 歌舞伎
たまちさんの猿★征観劇記(1)

【序幕】

<両国橋西川岸の場>

まず本筋とは関係の無い一般人が5名登場し、
観客を江戸時代へと誘います。
ここでは後ほど登場する堂守源次坊が働いていたという
「坊主軍鶏」というお店の名前も登場。なかなかの名店?

手代十三郎が花道より登場し、事情説明。
とにかく「美しい」の一言に尽きる!妖艶で美しい!
この時は悩み事を抱えて意気消沈している
(自殺を考えるくらいだからそりゃそうだ)から唇までとにかく真っ白。
(歌舞伎初心者の私はほほ~と感心)着物の袂に石を拾い入れいざ身投げ・・・
というところへ土左衛門伝吉が登場し、十三郎を力づくで思い留まらせる。

十三郎が突き飛ばされて横座りになる・・・と思っていたのだが、
先日3階席から観た時は突き飛ばされ
完全に地面に寝転んだ風に見えました。(私の気のせい?)

伝吉のセリフ回しや声のトーンなど等、
右近さんの新しい一面を垣間見たような気分になりました。
昔の話も少し出ますが、現在では改心した本当に人の良い老人に見えます。
(でも自分の娘に「夜鷹」をさせている父親っていったい・・・??)

自分の仕事を説明したり、昨夜の十三郎の相手が自分の娘と説明する件りに
その辺の親としての気まずさというのも十分に出ていました。
でもあの強烈な作りには右近さんと最初気が付かない人も居たのでは?

<大川端庚申塚の場>

町人2人(金貸しと研ぎ屋の使い?)が登場し
名刀庚申丸についての話が出て、金貸しが庚申丸を奪い取る。
百両借りて庚申丸を買ったのに、持主が殺されたのでは借金の取立てが出来ない。
じゃぁその刀は俺の物だ!よこせ~!
百両のお金と庚申丸はこの物語の重要なキーポイント。

花道より伝吉の娘おとせが登場し、スッポンあたりで事情説明。
そこへ花道からお嬢吉三登場しおとせに道を尋ねる。
二人揃って本舞台へ上がるが、この二人のやりとりに客席どっと沸きます。

「ご職業はなんですか?」「何を商っているのですか?」
おとせが胸元からお金の包みを落としたのにお嬢が気付き、
「これは大事なお金」とおとせが拾い上げます。
「随分な売上がありましたね」爆笑。

この百両のお金を盗もう(もしかして夜鷹のござを持って歩いているおとせから
売上を強盗しようと企んで近寄って来てたのかなぁ?とも後で思いましたが、
「百両」と聞いた途端に表情がぐっと変わったし、う~ん)と
「何やら光が~」とおとせにすがりつくお嬢に対し
「ひと玉なぞ怖くは無い。怖いのは人間です」というおとせの台詞が
この物語を語り尽くしているような感じさえします。

しかし、この間にもお嬢はおとせの胸元のお金に
手をにじり伸ばそうとし観客はざわざわ。
そしてお嬢がお金を手にし男に豹変する瞬間場内大きく沸きます。

筋書きに掲載されている写真(お嬢と静御前が見開き)
を見ても一目瞭然ですが、お嬢は「男が女のなりをしている」、
静御前は「女」この辺の玉三郎さんの演じ分けは本当に天晴れ!です。

おとせからお金を奪い川へ突き落とす。
この時止めにはいった(?)町人から「庚申丸」をも奪い、
いよいよ有名な七五調の名科白!!
(背景の月が綺麗なんですが、これがいつ出てくるのか
毎度他の事に気をとられてしまい・・・。ヤマトタケルの赤い月の時みたい。
進歩していない自分にとほほ。)

朗々とうたい上げたところで、既に舞台上手にいた籠の中から
「ちょっとお待ちなさい」とお坊吉三。
背に挟んであった草履を取り出しゆっくりと籠から出てくるお坊の姿に
近くのご婦人方から「ほぅ~」と溜息。(だよね!と私)
今まで男に戻っていたお嬢が、お坊の登場でまた娘に戻ったり、
一部始終を見られてた事を知り男に戻ったり、
その都度客席は大きく沸きます。

お嬢とお坊がその「百両」をめぐって争いになり、
とうとう刀を抜いての立ち回り。そこへ和尚が仲裁に入り、
三人吉三勢ぞろい。
兄弟の契りの場面では和尚→お坊→お嬢の順に杯に血を注いでいましたが、
次にみた時には和尚→お嬢→お坊、
その次にはまた和尚→お坊→お嬢となっていました。これって一体??

和尚は手ぬぐいを口で裂いてお嬢の手に結んでやるのですが
(確か和尚のはお嬢が結んだ)、お坊は自分の手ぬぐいを懐から出し結びます。
この時、口を使ってキュッと手ぬぐいを結ぶ仕草に目は釘付け。
美しいんですよねぇ。すみません段治郎さんファンなもので(笑)

【2幕目】

<割下水伝吉内の場>

出勤前の夜鷹3人。2人がお金の貸し借りで揉めていますが、
(これは百文だったかな?)1人が仲裁にはいります。
この様子が、前の庚申塚の場を踏まえているので客席は大きく沸くのですが、
この時の仲裁役の笑子さん光ってます!夜鷹の世話役
(たぶん現場監督けん用心棒)が現れ、伝吉を奥から呼び、
おとせの行方がまだ判らないことを告げる。猿四郎さんステキ!

この時にも「身持ちの軽い娘ならともかく・・・」という台詞があるのですが、
「身持ちの硬い真面目な娘」が夜鷹をするという社会構造っていったい??
お金を持ったまま帰ってこないおとせが心配でたまらない、
「めったに物を拾うもんじゃない」と呟く伝吉。
この台詞けっこう重いです。後の展開を暗示するような台詞。

「お金を拾ったこと」「子供を拾ったこと」「(捨てる)命を拾ったこと」
拾ったことが事の発端でありさらに絡み合う因縁への鍵?

おとせの行方がわかったら直ぐ知らせるという事で、皆出て行くのですが、
ここへ入れ違いで八百屋久兵衛とおとせが花道より登場。
寿猿さん若々しくてとてもよく似合ってらっしゃいます!
ここで伝吉・おとせ・十三郎・久兵衛がそろいます。

最初はお互いの子供をそうとは知らずお互いが助け・・・
とってもいい感じだったのですが、
久兵衛が十三郎が拾い子でありそのいきさつを明かすと、
伝吉の様子が一変。
(自分が実父でしかもこの双子がそうとはしらず
恋仲になってしまっているんですからねぇ)
久兵衛が帰り、十三郎・おとせが別室へ行くと
(再会した時ははにかむようなとても可愛い様子だったのに、
この時のおとせさんはとても積極的。
一方十三郎さんはいたって生真面目)

伝吉はどうしたものかと思案にくれてしまいます。
百両のお金は自分が何とか・・・とは言ったものの。
(実際のところどうするつもりだったのでしょうね?)
そこへ和尚吉三が登場し、
伝吉へ手土産だと百両を渡そうとしますが伝吉は固辞。
元々おとせからお嬢が盗んだ百両
(それも十三郎が落とした)なんですがねぇ・・・。

この辺になってくると韓ドラ観てるみたいなもどかしさすらあり(笑)
もう既に自分の犯した悪事の因縁・報いを身に染みて感じているので、
どうせろくな出所ではないお金に手を出しこれ以上罪を重ねたくない・・・
というわけです。(偉いぞ!伝吉)この辺の葛藤する様子、
何とも言えず名演技です!
「もう斬首(晒し)になるまで会わないぜ!」
と捨て台詞を残し去るものの気になる和尚は裏口へ周り、
そこで伝吉の独り語りを聞いてしまい事情を全て知ってしまいます。
こっそり仏壇に百両を供え立ち去る和尚。

そこへおとせに気がある町人が花道より登場し和尚とすれ違う。
おとせを嫁に欲しいが、あの悪の和尚が兄というのは嫌だなぁ・・・。
自分の悪事を詫び亡き妻にお線香でもと思った伝吉は
仏壇の百両に気がついた。

ちょうどその時、おとせの事を伝吉にかけあってみようと声をかけた彼を
和尚と勘違いし、「まだ居たのか!これを持って帰れ!」と
百両を戸口の外へ投げる。「これは百両だ!」と拾って逃げる声を聞き、
伝吉は和尚では無かった事に気付き慌てて
後を裸足で追いかけて花道を退場。
着物の裾をめくって足の付け根の彫り物(?)を
チラチラさせつつヨロヨロと行く伝吉の姿に
客席はどっと沸いて拍手はくしゅ

でもさぁ~伝吉と知り合いなのに、
何でお金拾った時は誤魔化そうと逃げるかなぁ?
おとせを嫁にしたいんじゃないのあんた?と思っちゃいますね。

<本所お竹蔵の場>

百両を拾って逃げる男(すみません名前忘れました)
「もう八つか。暗くなってきたしこの辺は物騒なんだよなぁ」
そこへお坊が登場。お嬢の時は「貸してくれ」ですが、
この時は「よこせ!」です。男は元々拾ったお金だし
命が欲しいから物分りがよい。

「あんまり素直に差し出されてもなぁ・・・」というお坊の様子はとても可愛い
・・・色悪なのに。でもこういうとこ好き。
きっと元はいいとこの坊ちゃんだという事の現れでしょう。
追い剥ぎしないで着物は免除。
男が去ると、「そのお金を貸して下さい。」と伝吉が登場。
実の息子がお金を落とし養家へ迷惑がかかると「実の息子」発言。
またその百両の事情を説明し、
「娘を売ってでもお返ししますから貸して下さい。」と嘆願。
(おい、おとせを売るんかいっ!あ・でも十三郎とは結婚できないもんねぇ)

「捕まったら死刑という危険を犯して手に入れたこの金は渡せない!
額の傷痕からして堅気とは思えないから、その話もでまかせだろう」とお坊。
するとここで伝吉は「おい若造、言いたい事はそれだけか!」
と声のトーン豹変。この変わり様がたまりまっしぇん!(←なんで博多弁?)
もう悪事を働かないと改心し首にかけたお数珠を引きちぎり、
力ずくでも取り返すと飛びかかる・・・が、
空しく切り殺されてしまうのです。
お年だというのもありますが、拾った棒ではねぇ。

余計な殺生しちゃったなぁってオーラ出しつつ、
お坊は刀に付着した血を伝吉の帯紐で拭いてました。およよ。
そこへ伝吉を探しに来た十三郎とおとせが花道より登場し伝吉の遺体を発見。
隠れていたお坊はじわっと花道へと周る。お坊の遺留品を見つけたおとせに、
お坊はすっぽん辺りでしゃがみ、
石か何かを拾って投げて2人の持ってた明りを消した(んじゃないかな?)
とにかくこの時の段治郎さんの色悪ぶりが鮮烈で、
すみません他の記憶がありません。

―ここで30分の休憩です―

自分の妹が奉公する家に用立てたい百両、
自分の息子が落としたから弁償したい百両、
持っていく先は同じ相手なのに・・・。
悪人時代の伝吉が双子の息子を捨てた事を説明するのに
「女の子は金になるからと手元に残し」
また改心した現状でも娘の仕事は夜鷹だし、
いざとなりゃ娘を売ってでもって・・・
時代とは言えちょっと複雑な心境になったりもしますね。

ところで、例えば「遊女」として売るのと
「夜鷹」だと後者の方が地位が低いような
印象を持ってしまってましたが、違うんですかねぇ?
日常の自由は後者の方がありそうですけど。

昨日は今日の昔

2005-09-11 01:21:10 | その他の演劇
この言葉を始めて聴いたのは、『二人椀久』の歌詞からだったと
(たぶん)記憶しているけれど、
強く意識したのは杵屋崇光さんが以前出されたCDの中で、
すごいメロディアスな曲があり(秋深まった頃や真冬の深夜に
一人で聴くと、かなりきます(/_;))その中の一節にも用いられ
胸に刻まれたフレーズ。

今日は、なんかふと一日この言葉に取り憑かれ・・・
こんな、哲学的!というか、感傷的というか・・・な文言の
オリジンはどこにあるんだろう~と検索(便利な世の中じゃ。。。)
結果、

【昨日は今日の昔】

昨日(きのふ)は今日(けふ)の昔なれば、昔語りとや申しはべらん。
[仮名草子集『露殿物語』50⑫] 《類》「昨日は今日の昔」『毛吹草』

素敵な言葉はいつも昔に作られている。


ゲキ×シネ『SHIROH』3

2005-09-07 21:43:44 | その他の演劇
“3”かいっ(自主ツッコミ)

言及するのを忘れていたけど、舞台に受像機というかモニター並べる
演出って一体いつごろが発祥?誰のどの舞台だったのかしら。海外?
ご存知の方教えてください~

私は、芝居そのものの風景や背景として使われる以外に、
あの「モニター並べ」の際投入される“現代を映写”がどうも苦手。
(渋谷とか銀座の雑踏を映し出す、みたいな。すでにひとつの“型”!?)
常套中の常套だよなぁ~とかなり食傷だし、物語世界はその中で
完結して欲しいので、なんか、急に身近な日常見せられても~と
ちょっと冷めてしまう。←このお芝居に限らず。
テレビ番組なんかでも(ドキュメンタリーでもドラマでも)
結構ありがちな投入ですよね(ーー;)もう飽きた~。
(リーディングスペクタクルも、受像機こそ使用してなかったが
映像で歴史的事実を映し出す、をやっていて、せっかく言葉を媒介に
聴覚の想像力で膨らませていく世界、に浸ろうとしていたのに残念だった。)

猿之助さんも、『オグリ』を作る際に使いたかったようだけど
(詳しくはスーパー歌舞伎ものつくりノートをご参照下さい(^o^)/)
猿之助さんの場合、何台か並べてみる、でなくて、舞台一面、
床にも敷き詰めたい!との希望だったから、試算の段階で
劇場一つ立つ金額となってしまい、あえなく撤回
その代わり、能舞台のエッセンスを活かした、ホンモノのというか
文字通りの「鏡板」の創出という、オリジナリティ溢れる、
美しい演出を考案したのだから、いち観客としては、受像機不使用感謝!

(先月の火樹会での亀井さんのレクチャーの受け売り>能舞台の背景に
描かれている老松は、本来は、客席の後ろに松の木があるとの想定のもと、
―その松には神が宿っている―
それを映し出しているのだそう。なので「鏡板」との呼称。) 

と、勝手な感想(ごたく!?)をアレコレ並べてますが、
実は(って前の記事で書いとる>自分)、このお芝居、
「世界に持って出れる!!」と思っているので
(マジ。一応公式サイトにその旨メールしといた・爆)
グローバルスタンダードなクオリティを目指す方向で、かつ
オリジナリティを大切にした演出で勝負して欲し~と思う。

曲の個人的好みは別として、このゲキ×シネで観た範囲では
演出・曲(の挿入)・演者と、ホント素晴らしかったから。

観てる分野がごく限られた私の、ある意味狭~い観劇体験の中で
日本オリジナルの脚本・芝居で世界に持って出て欲しいと思ったのは、
『ヤマトタケル』(申し訳けないけど2005年バージョンでなく
猿之助さんが演じた初演バージョン←テンポアップは必要~。
だって世界に出るなら日本音楽集団の音で演って欲しいので。)
と、この『SHIROH』です。

ゲキ×シネ『SHIROH』2

2005-09-06 22:13:42 | その他の演劇
                菩薩?聖母マリア?

70年代ロックが嫌いなのか?というと、そうではなくて、
実は、80年代半ば以降の音楽(いわゆる洋楽)より
好きかもしれない。厳密には70年代でなく
結成/デビューは60年代というグループもあったと思うが、
テレビをあまり見せてもらえなかった小学生だった私は、
早熟の(その頃、深夜放送(←死語?)は、高校生や大学生のもの
って感じだったので)ラジオ派になった

―当時、「8時だよ!全員集合」を見せて貰えないというのは
小学生社会の中では、なかなか辛いものがありました(~_~;)
以前、スーパー歌舞伎のバックステージツアー付観劇で
金井大道具の勇一郎氏のレクチャーがあり、
その際の業務紹介で、「8時だよ!全員集合」も手がけていた
という話も出て、その頃の番組を知っているコたちは
「なるほど~!!」と大きく頷いていましたね。
屋台崩し的な手法など多用していた!!と。
後日、ドリフの特番のCMを観たとき、二階建ての建物に
パトカー(ホンモノの車)が突っ込んでくる、というのを見て、
コクーンより早いよ、しかも地上階でなくて二階だよ!?
なんてシュール!!と思った次第・・・話ズレすぎ

ハマったのは、かつて渋谷陽一あたりが言っていた
“むせび泣く哀愁のギター”(だったかしらん?)
ディープパープルなど、いわゆる当時「ハードロック」と
言われていたサウンド。ギターがぐわんぐわん、ちょっと切な系な
メロディラインを奏でるような。
子供って心拍数高いから、やっぱりハマりやすいんですかね~。

まあ、別にポリシーがあったワケではなく、
全米トップ40とか聴く中で、その時々流行っていた曲や、
ちょっと懐かしのメロディ
(すでにディープパープルは懐かしの・・・だったかな)
分かりやすい、メロディラインの綺麗な曲が好きだった。
ま、後に男の子たちはジョンレノンにいったりするのだが
女子の私はウイングスの方が心地よい♪って感じ?・笑。
(キッスにもいったりしたのはカブキチの萌芽!?)

あと、まったく傾向が違うのだけど、なぜか糸居五郎のDJが好きで
(素敵なおじ様と声だけ聴いて幼な心に憧れていたら
 おじい様くらいな年齢と後で分かりビックリ)
ソウル系も多少聴いてた。オールナイトニッポンではなく、
確か「ソウルフリーク」という番組だったような・・・
(やっぱり、小学生がオーティス・レティングやアレサ・フランクリンは
早すぎ。でも、ワケもわからず“LP”も買っちゃったけど。)
そんなこんなの70年代的原体験。
(その後、経路が逆で80年代アイドル、まっとうな歌謡曲
@ザ・ベストテン全盛期、へいくのだが。聖子も好きだったが
本田美奈子ちゃんサイコー早く元気になって欲し~。
↑マリリンじゃなくて、ワンウェイ・ジェネレーションがマイベスト!)

ちょうど同世代(前後5年は同じ文化圏ということで!(^^)!)
が、企業でも中核になってきたのか、最近CMに使われる曲が
自分の思春期の入り口あたりから思春期頃に流行ったもので、
サウンドの記憶というのも、なかなかセンチメンタリズムを
かきたてるなぁ~と思ったりする。
(モア・ザン・ア・フィーリングとか、ホテル・カリフォルニア
だとかね。昨日地元のどこかの店から
ダスト・イン・ザ・ウインドも流れてきて・・・
アルバム:ポイント・オブ・ノーリターンは、当時子供買い・笑)

というワケで(前置き長すぎ
音楽そのものとしては嫌いでは全然ないのだが
逆に、耳に障って仕方ない感じ。たぶん、
新感線の音楽担っている人たちは、まんま青春の真っ只中
に接触していた音だったのではないかしら。70’S
なので曲のベースラインやアレンジがとっても気になってしまい
彼らの創り出す音に、オリジナリティというより
「あの時代」や郷愁を感じてしまって入り込めない。
あと、やっぱりどこかに、ズルイよ、って気持ちもあり。

でも、上映中聴いていたときより
今、家でこうして聴きなおしてみると、唄い手の力が
(文字通り”力”。テクニック以前に。)
過去、どこかで聴いたメロディのように聞こえる旋律も
この芝居のための言霊に、聞こえたりする。

曲の力より、唄(い手)の力が勝っている感じ。
ホントは拮抗しているのかもしれないけど、私はそう感じる。

と、まあ、いつもこうして(へ)理屈こねて芝居を観ている
ワケではないのだけど、
何が引っかかるんだろう(良きにつけ、悪しきにつけ)と
アレコレ考えたりしたことを、なんとか言語化しようとすると、
なんか、こんなことなのかなぁ~と。

特に身近な友人が新感線の音楽が好き!と
よく言っているので、自分はなんで駄目なんだろーと考えてみた。

「プログレ」といわれてた音楽も好きだった。
重層的なメロディや、ストリングスが思いっきりSUSTAINする感じとか
教会音楽っぽいテンションコードが組み込まれるような音。
特にお芝居の音楽としては雰囲気かな~と。
けど『SHIROH』は「ロックミュージカル」だもんね

【追記】
この記事のタイトル『SHIROH』から、ほとんど主題ずれとる?
ズレついでに、いつか書こうと思っていて書いてなかったこと。
カブキチ仲間がトリビアでイケるかも~と言ってたが
カブキチ(&ミューヲタ)の中でだから「へぇ~」だが、
一般にはキツイかもということで自主的に却下。
で、たぶん、当ブログをロムりに来てくれているのは
カブキチさんがほとんどと信じて、小ネタ提供(笑)
(もしや、皆さんご存知のことなのかしら)

以前、オフ会で、
ガンダムは『暫』、ゴレンジャーは『白浪五人男』がモチーフ、
という話を聞き、それはカブキチさんのあとづけのネタではないか?
と思ったのだけど、好奇心が行動の原動力のB型としては
確認せずにはおれず、それぞれの販売元や制作プロダクションに
電話して尋ねてみたことがありました。
回答は、まんまそれらをキャラクタライズしたわけではないけれど
ある程度、いろいろなものを参照する中で、意匠のヒントには
なったとのこと。

全員集合から戦闘キャラまで、歌舞伎の内包するものは深い!(^^)!
(いのうえさんは、なんで「いのうえ歌舞伎」するんだろう)

ゲキ×シネ『SHIROH』1

2005-09-05 01:11:30 | その他の演劇
公式サイトに詳細案内あります。
9日(金)まで渋谷シネクイントで上演。
シネクイント案内

豪雨のため深夜の帰宅となりました。短感想~
ところどころ私の苦手な音もあったりするのですが、
(この作品に限らず、劇団☆新感線の音作りの一部苦手(~_~;)
 まったく個人的な好悪ですケド)
舞台創りに渾身の想いが込められているのが伝わってきて
ライブでないのに、ラストは思わず拍手しそうになりました&(/_;)
もっと洗い上げられれば世界に持っていってもいいんじゃないか?
と思えるくらい、普遍的なテーマのある作品。

とにかく演出が良い。特に照明が凄く素敵だった!!
映像でこれほどなのだから、ライブだったらもっとインパクトあったかも。
一部衣装はなんとかして欲し(ーー;)

人々の復活(もしくは昇天)の中に、
ロザリオをつけたお蜜さんの姿を認めたときに
堪えていた涙が堰を切ったように流れました・・・

(たぶん、続く~)

続き
周囲に熱心な劇団☆新感線ファンのコがいたり  
その他のコからも、いくつか舞台を観て、なかなか良かったヨ、
という感想も聞いたりしていたのだけど、
どうも、これはまったくの先入観、食わず嫌いの典型なのだが、
小劇というか失礼ながら小劇上がりというか(わ~メッチャ失礼!?)
(単にジャンルの分類の意です(^^ゞ↑)
なんか、劇団系っぽいお芝居に苦手意識を持っていた。
(あ~これって歌舞伎を全く見ずして
「なんか歌舞伎ってさぁ~分かんなさそうだし、たるそう~
と言ってるのと同じですね(~_~;)↑カブキチ的には残念な発言。

しかし、ある日、贔屓の(歌舞伎)役者さんが新感線観に行った!!
という話を聞き及び、「んじゃ、私も」と、
演舞場へ足を運んだのが『阿修羅城の瞳』
歌舞伎から染五郎さんが客演しており、劇中劇で南北があったりと
歌舞伎ファン的には楽しめる要素もあったのですが、
どうも、70年代ロックベースな音作りが煩くて・・・
あと、花道からギターを抱えて
歌のお兄さんが登場したりするのも駄目だった。
歌舞伎なら、妖怪変化が出てこようと、怪談・オカルトめいた話の展開
も大丈夫なのに、阿修羅の妖怪?鬼?の作り物っぽい感じも、ちょっと
入り込めなかったなぁ。。。

ということで、今回、2000円でリーズナブルだし
レミゼ好きだったら、結構ハマれると思うよ~
とのお誘いを頂きながらも、
どうしようかな~となかなか返事が出来ず・・・
「ミュージカル」なんだから、音楽の占める割合というか影響
前回(自分の新感線観劇時)よりもっと大きいんじゃない?と
音楽駄目だったし~(~_~;)と、ウダウダしていた。
けれど、すでに観劇済の方のブログを読んだり、
レミも、最初は「たまには歌舞伎以外のお芝居も観とくかな~」
くらいの気持ちで行って、“ど”ハマりした前科があるので
じゃ、前売り券宜しく~(^o^)/と、他力本願で臨んだゲキ×シネ。

前半はなかなか、気持ちが入っていかなくて
やっぱりこういう音作りなんだ~とか心がちょっと斜に構える
部分もあって、正直、衣装なんかはもっとスタンダードに
作ればいいのに~とか思ったり・・・(プレスリーじゃないよ
と言われても、プレスリー(ーー;)になってる柳生十兵衛とか
松平側の兵士たちが、スターウォーズチック(ダースベイダー系?)
に見えたり・・・←私の感性がゆがんでいるのかしらん。。。)
でも、時々、ふっと歌声に胸の中のどこかを掴まれるような
感じもあって。あと、照明の効果の素晴らしさには惹かれていた。
そして、隙なく舞台が作られていること。

幕間を挟んでからの後半は、持っていかれました~。
美しい旋律もあったし、でも、どこか懐かしいというか・・・
既視感でなくて、聴覚におけるデジャヴ感は
なんて言えばいいのかしら。
凄く混沌としていて、でも、どこかに「普遍」が隠されている
ようで、観終わったあと、何かが響きあったと感じた。

なんで、ロックンロールなんだよ~と思っていたけど
帰宅の電車の中で、あらためてチラシ読んでみると
「ロックミュージカル」と書いてあった
そして、私が感じ、連れにも伝えた部分(感想)はすべて
製作側も織り込み済みというのも

>荒っぽくてムダだらけだけど不思議な魅力に満ちた
                  byいのうえひでのり氏

中川くんが、ホント、天上からおっこってきた天使みたいで
ふわふわして、ピュアな感じを出していて
冒頭は、かわいかったですね。
凧上げの幸福はあっという間に過ぎて・・・
私たちがいつか通り過ぎた短い季節に似てる。
苦悩する四郎の方により近しい気持ちとなるのは
すでに多くのものを喪失しながら生きてきた
自身と重ねられるからかな~
私は、上川さんの演技も、かなり好きでした。

リオや寿庵の描き出すものも打たれる。

なんだか、感想も「混沌」してますね・・・

蜷川さんと猿之助さん

2005-09-01 21:35:25 | 歌舞伎
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   ほっとけない 世界のまずしさ
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ブログ検索をしていたら、国際交流基金のサイトに(上記とは関係ありません)
蜷川さんのインタビューが掲載されている、という記事を見つけました。
もしかしたら、すでに皆さんご存知かもしれないけれど
私の周囲では話が出てなかったので(8月18日掲載)ご紹介いたします。

『十二夜』の公演があった7月中には、後援会から年に一度
発刊されている「年鑑おもだか'99」に
お二人の対談が掲載されているのを読み返していたのですが、
(もともとはシアターコクーンのプログラムに載ったもの)
この国際交流基金のインタビューを読み、再度
「年鑑おもだか'99」もパラパラとめくっています。
猿之助さんが『コックドール』を演出されたときの話や

―蜷川さんたちは、テアトル・ドュ・ソレイユ(太陽劇団)
がパリ郊外で『十二夜』をやっていたので観に行ったが
面白く上手くはやっているが、なんか感動がないな~と(ーー;)
「おい、帰ろう!俺たちは猿之助さんへ行こう」と予定変更し
コックドールの舞台稽古観にシャトレ座へ行ってしまったとか―

劇評家論(笑)とか、
なぜか明治時代に出来た高層建築のエレベーターの話から
GLAYのコンサートの比喩まで出たり
(猿之助さんがGLAYを知っていたことが驚き(~o~))
ほとんど蜷川さんが聞き手のようになって、歌舞伎について
語りまくる猿之助さん(笑)に、なかなかいい感じの合いの手
入れつつ、という感じの進行ですが、
蜷川さん、初期の春秋会もご覧になっているんですね~。

『金幣猿島群(きんのざいさるしまだいり)』@1969年
を観て、蜷川さんもこれをやりたくて演出ノート作っていたけど
春秋会を観て驚愕し、出来なくなってしまったとか。
その頃は蜷川さんアングラをやっていたが、こんなこと
歌舞伎でやられたら、アングラ全部もうやられちゃってる
じゃないか、と思ったそう・・・

現代の歌舞伎が指揮者なきオーケストラってことは、
この対談で、猿之助さんがおっしゃってますね。
昔は座頭が暗黙のうちにその役割を担っていたが、と。

全部を引用するわけには行かないので
この辺にしておきますが、笑ってしまったのが、
蜷川さんが、猿之助さんに対し
「役者たちを怒鳴ったりしないんですか?」
という質問をした際に、
「堪忍袋の緒が切れて、まあ物は投げないけど怒鳴りますよ。
でも、ガァーッて言えないんですね。
きちんとやって下さい!って丁寧語になっちゃうの。」
って、答えていたこと。なんか、らしくて!(^^)!

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