母乳コンサルタントの日記

ママさんたちへ、母乳とマッサージ

東京見物

2018-04-15 08:48:16 | 日記

強烈な回顧は 初めての「東京見物」です。

1945,3/10 東京の下町が空襲により壊滅したラジオニュースの後で、父の兄が焼死したらしい・・・との電話をうけた。祖父にとって長男の生死不明の知らせに、安否を確かめるべく上京することになった。当時祖父は75歳の高齢のため、私が同行することになったが、17歳の学生であった。

小樽市に住んでいたが、汽車の乗車券を購入するのに公務の証明書つきで、上野駅の往復の切符を得た。出発は3/20頃と記憶している。

上野駅へは比較的順調な汽車旅であった。幾日間の食糧を背負った私たちは市電のレールにそって歩いた。見渡す限りの焼け野原を、墨田区の本所へとトボトボと歩く、祖父は息子の死を確認したのか「ここでいい!」と、途中で足を止めた。

市電は動いていないので、徒歩で三越についた。三越の地下街は営業していたが、もちろん食料品は皆無。木工細工や、貝細工があった。

まだ、東京駅は無事で、丸の内オフイス街も平穏で、オフイスガールもズボンスタイルで、防空ずきんを肩からかけてはいたが、美しく思えた。

皇居参拝の後、銀座線で明治神宮に行った。その時に空襲警報のサイレンがなったが、飛行機の影は見えなかった。

東京見物は、ここで終了で、そのあとは電車で親戚のある逗子市に行った。

逗子での朝、B29の飛行機の黒い列が、富士山方面に飛行するのをを仰いだ。

帰路の汽車旅は散々で、空襲警報で、下車をよぎなくされ、真っ暗の駅舎で睡眠をとった。目覚めたら、食料品の入ったリックを盗まれていて、飲まず食わずで、小樽に帰ってきた。

戦後、縁あっては千葉市に住んでいる。ですから、東京は身近にあるのですが、最初の「東京見物」は貴重な体験でした。 


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