母乳コンサルタントの日記

ママさんたちへ、母乳とマッサージ

ママの笑顔

2014-03-29 10:33:48 | インポート

 昨日伺ったママの笑顔はとても美しくみえました。40歳に近い年齢ですが、自然分娩で女児を授かりました。その赤ちゃんがエンジェルのようにかわいいのです。お腹が空いて乳を求める時には、大泣きしてマアに訴えますが、満たされると笑みが浮かべて、静かに寝ています。

 先日伺ったママの赤ちゃんは、その反対で、母乳が十分に出ないからでしょうか・・・そのあとミルクを与えても、寝かせると泣き喚いているのです。私の滞在の2時間ほどの間中、泣き通しに泣いていたように思えました。このように目覚めているときには、泣き通しのようでした。「子供を虐待する親の気持ちがわかりますね・・・」とそのママがしみじみと語ったことが胸に深く残っています。

「 『人生様々』 という歌がありましたね、『赤ちゃん様々』なのですね。私は泣き続ける赤ちゃんを抱きながら、「何かの理由があって泣いて訴えるのでしょうね・・・ママが大変なのよ、・・・大人になったらママに恩返ししてあげてね、きっとよ!」と赤ちゃんの頭をなぜながらいいました。それでも赤ちゃんはまだ泣き続けていました。


時は流れて・・・

2014-03-24 14:35:49 | インポート

 20年ぐらい前は、赤ちゃんは、お母さんの背中におんぶされているのが一般的でした。
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 現在は、皆様ご存じのように、殆どカンガール抱きです。前だきです。だっこするのですから、前だきは不自然ではありませんが、おんぶは、それなりの理由があったのです。赤ちゃんを背中にくくりつけておけば、安全ですし、ママは仕事もできるのです。炊事、畑仕事なども。前に赤ちゃんが抱かれていると、仕事はできないのです。前だきが容認されることは、ママが赤ちゃんをおんぶって炊事や、その他の家事をしなくていい時代なのでしょう。ママたちにとっていい時代になったのですね。


子育ては、一大事業

2014-03-20 16:54:53 | インポート

 新しい生命が、誕生した時、母親はその子の将来を夢見ます。どの母親も社会に役立つ立派なわが子を想像するのです。ですが、子育ては順調にいくのではありません。私は子育ては、母親の一大事業であるーとの認識を持っています。事業ですので、失敗は許されません。ママの全知全能を使って、わが子を育てあげねばならないのですが・・・

 子育ては、専業主婦でも大変ですのに、共稼ぎでは、その苦労は想像するのにあまりあります。私は2人の子供を共稼ぎで育てたのですが、大変でした。次男が小学生の低学年の時であったと思います。忘れ物をしたようで、家に取りに帰ったのですが、私はいません。彼はベランダーのガラスを石で割って家のなかに入って忘れ物を取って学校に戻ったのです。親として大変なシヨックでした。これは一例にすぎませんが、・・・・。帰宅しても母親のいない家庭にどんな思いで帰宅したのでしょう。

 この頃は女性の社会進出をうたっています。保育所の充実を政府も真剣に取り組んでいるようです。保育所は母親の代わりはできないと思うのですが?


不機嫌な乳頭

2014-03-16 11:32:52 | インポート

 赤ちゃんの好みの乳頭は、柔らかく、ほどほどに伸びている乳頭です(機嫌のいい乳頭)。硬くて縮んでいる乳頭(不機嫌な乳頭)は嫌います。赤ちゃんの飲み方にはルールがあります。赤ちゃんの歯茎は、乳輪部の奥深いところにある乳管洞の上に到着していないといけません。乳管洞は母乳がプールされている7ミリぐらいの袋ですが、歯茎でつぶして、乳汁を舌と上顎で吸い上げる一連の動作で授乳が可能になります。乳管洞は、水道水の蛇口の元栓にあたるのでしょう。

 乳頭は自律神経の支配下にありますので、硬くなったり、ゆるんだりで、表情が豊かにに思えます。柔らかいときはご機嫌なのです。その反対に硬い時は不機嫌なのです。

 どうしたら、不機嫌がなおるかですか? 乳房がリラックスした時です。また、乳腺炎やうっ滞乳の時にも不機嫌になりますので、改善しますと乳頭が穏やかな表情に、ご機嫌な乳頭になります。もちろん、赤ちゃんの舌や唇がふれる時です。歯茎ではありませんよ。


空襲下の東京見物

2014-03-13 11:00:01 | インポート

 昭和20年3月10日は東京の下町が空襲で焼け野原になった日ですね。当時墨田区の本所に住んでいた叔父の消息なし、の電話を受けて、急きょ70代の祖父に、女学生の私が同行することで、3月20日に上京しました。

 汽車の乗車券が自由に買える時代ではありませんし、最短でも24時間車中です。それでも上野駅には無事に到着しました。見渡す限りの焼け野原は死体はなく、静寂としていました。電車の線路をもくもくと歩きました。祖父が突然立ち止まり、「もう、ここまでにしょう・・・」祖父は息子の死を確認したようでした。 

 電車線路を都内に向かって再度歩きました。日本橋の三越の地下売り場は開業していました。ただし、食料品はありません。それから、東京見物としゃれたのです。 

 丸の内は空襲の被害はなく、防空頭巾を背負ったオフイスレディはモダンにみえました。大きなリックを背負って、煤だらけの私には、驚きでした。皇居を参拝して、山手線で明治神宮に行きました。その時に空襲警報のサイレンが鳴りました。空高くの飛行機を見ました。冷たくなって、ぼそぼそのおにぎりをかみしめました。これから、葉山の親戚宅をめざします。鎌倉の八幡様をお参りして、葉山の親戚宅に夕方着きました。 

 夜明けにB29の編隊が頭上を富士山方面に飛んでいくをみました。次の日はすぐに帰宅です。帰路は48時間かかつて、おにぎりの入ったリックを盗ままれて、さんざんの汽車旅でした。でも私にとって、最初の東京見物でした。幼いころから、東京はあこがれの地でしたから。