母乳コンサルタントの日記

ママさんたちへ、母乳とマッサージ

私と母乳(3)

2012-01-17 16:43:31 | インポート

私と母乳(3)

私のたった2度の経験からも、ずいぶん違う乳児期となりました。

現在も基本的には50数年前と余り変わっていないのです。

多くのママ達は、私と同様な経験にとまどっていることでしょう。

いっそのこと、母が乳など無いほういい―非常に大胆な発想ですが・・・

と云われて、事の重大さに気付かれるでしょう。

世界のママ達が、母乳で子どもを育てなかったら、未来のいく代か先の乳房は母乳を本当に創れない形骸化した乳房になるのでないでしょうか?

そして、或る時に、ミルクが無くなったとしたら・・・赤ちゃんは確実に成長しないでしょう。即ち人類の滅亡はこんな所からもと、考えられると思うのです。

「私だって母乳にしたかったけれど、出なかったから、仕方なくミルクにしたの。」

ママ達の偽らない気持ちです。

「Aの助産師さんも、Bの助産師さんも、そしてCさんもDも・・助産師さんの、母乳の指導法が皆さん違うのです。どれを信じていいのでしょうね!」との声も多く聞きます。

これは、助産師の指導が徹底していないからと思うのです。それは、専門家のみの養成に重点をおいていて、基底部剥離が根底にある現在の理論では、すべてのママ達に指導は出来ないと思います。

私は、数パーセントの例外を除いて母乳は出ると確信しています。

母乳を出すには、条件があります(HP,母乳の修理屋さんに記してあります。)が、

一番大切なのは、産院での指導にあると思っています。

私の案ですが

1、母親学級で次のことを教えます。

 自分の乳房と乳頭のタイプを知ること。

 出産後の乳房の変化を教える。

 自己マッサージ(B&Bマッサージ)の理論と実技を教える。

(B&Bマッサージにこだわっているのではありません。それ以上の方法が見つからないからです。)

そして、授乳を続けることです。

不足と感じるなら、ミルクを併用してでも続けることです。

飲ませてさえいれば、それなりに母乳は出ます。

。 


私と母乳(2)

2012-01-03 10:15:56 | インポート

私と母乳(2)

前回は、長男と次男の母乳のことを述べました。

今回は、その2例を分析してみます。

この2つの経験は、いろいろのことを示唆していると思います。

長男が比較的にスムーズに母乳保育が成功したのは、一つに母乳保育への強い信念があったこと。2つは、母子同室で出産直後から赤ちゃんの泣く度に授乳を続けたので、産後の乳房の膨張がなくて、乳管開通が赤ちゃん自身の力でなされたのです。

私の乳房タイプは、徐徐に乳量を増すタイプですから、ミルクの併用は必要なかったのです。姑の助言を拒否する勇気も確信もありませんでしたから。

このことから、産後の助言者(助産師や、親近者)の指導が問われるのです。

次男の場合

敗戦国が、まばゆいばかりの戦勝国の文化に傾倒するのは、自然の成り行きです。

出産、育児がアメリカ方式一辺倒になったのもうなずけます。

出産は設備の整った産院であり、新生児は新生児室で保護される―というパタンはこの頃から定着したのです。ママ達は豪華な食事と快適な産褥期を産院で過ごし、赤ちゃんは十分な人工ミルクを与えられますから、母子ともにハッピーなスタートなはずです。

ところで、母乳は?

産院にとって、完全母乳に取り組むことは、手間暇がかかり過ぎて、利益のメリットはあまり望めません。それに反して、ミルク会社の競争原理で、ミルクの無償提供はあり、大勢の赤ちゃんに一律にミルクを十分に与えることができたのです。

どちらに軍配があがりますか?

それは現在も続いています。

母乳の確立には、先の長男の項で述べましたように、最初は赤ちゃんの要求に応じて、昼夜を問わずに飲ませ続けなければならないのです。ママ達は直ぐに出る人、そうでない人と個人差がありますが、基本的には出産後から飲ませ続けるにあります。

乳房がボールのように膨張する前は、どんな乳頭も柔らかく、伸びますので、赤ちゃんは吸いついてくれるのです。母乳はまだ生産過程で殆ど出ないのですが、張らないうちから、飲ませる練習を続けねばなりません。

すると、膨張がゆるやかになるので、赤ちゃんは乳輪の奥まで、くわえることができて、吸飲が上手になります。

一般に、いわゆる乳管開通が赤ちゃん自身で可能にします。


母乳と私(1)

2012-01-01 10:05:03 | インポート

私と母乳(1)

私は2人の男の子を産みました。昭和29年と32年です。

当時は、もう戦後ではない―と云われた頃ですが、庶民の意識と生活はアメリカナイズにあおられながらも、戦前の日本の伝統を継承していました。

出産も自宅分娩が大半で、私も婚家先で出産しました。

長男は3kgの平均的な体重でした。出産後は、母親の本能として泣く子に限りなく母乳を与えました。

私の乳房のタイプは、「優子タイプ」(HPか、母乳の修理屋さんを再読ください)ですが、優子タイプにも優劣があり、私は不足ぎみで赤ちゃんは泣いてばかりいました。同居の姑はミルクの併用をうながしました。それで、

私は、授乳の後に毎回必要量の半分をミルクで補うようにしました。すると、赤ちゃんは

目に見えてマルマルと太り出し、2カ月ころから、顔に赤い湿疹ができ始めました。それは、だんだんに広がり、頭には脂漏性湿疹が、かさぶたのような厚さになりました。アトピー性湿疹でした。8ヵ月ころからは、中耳炎を頻発しました。

断乳は1年2ヵ月であったと記憶しています。乳頭をかじられて、乳腺炎になったからです。

母乳はそれなりに出ていましたので、断乳の苦しみは人並みに味わいました。

次男の時は、事情が変わっていました。

私は、病院栄養士として、週3日間働いていました。ですが、産後休職中も母乳育児が希望でした。この頃には、産院での分娩がずいぶんと一般化してきましたので、私も産院での出産となりました。

次男は、3300gの比較的に大きい男子でした。

産院はアメリカ式で、新生児室に2日間保育されてから、母親のもとにきます。

乳房は長い間授乳がされていませんので、ボールのように張れ上がったのです。

乳頭は硬く短くなりました。赤ちゃんは上手に吸えなくて乳頭をかむものですから、

乳頭が切れてしまい、痛くて飲ませられません。

それで、ミルクにしてしまいました。

続きは、次回の「母乳と私(2)」です。