朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

野田さん応援します

2011-09-02 11:36:19 | 21世紀
新内閣は良さそう
2011/09/02
 野田総理大臣は、私の嫌いな日教組代表輿石東を幹事長に据え、小澤一郎と意思疎通が出来る形にした。これで挙党一致について反主流派も文句は言えないだろう。文句を言っても、あの松本龍一防災大臣のように、常識のない奴と本人が潰されるだろう。
 幹事長と言う立場で、日教組の味方や自衛隊の排斥、国旗・国歌の反対など言えないだろう。言えば国家を否定する幹事長と決めつけられ、潰されるだろう。4Kと呼ばれる子ども手当・戸別保証・高速無料化・高校無償化も民衆の為と声高に言えないだろう。3党合意は実行されるだろう。
 今迄の民主党は、反自民の人気取り政策マニフェストで勝ってきたが、国債の発行も出来にくく、国債の評価引き下げを受けて緊縮財政を余儀なくされ、4K政策マニフェストを守れと言うのは、鳩山のような金に苦労したことのないお坊ちゃんの意見だと空想社会だと排斥されるだろう。

 野田内閣は常識的な真面目な内閣になると感じます。
 仕事をするのが大臣と、菅総理や仙谷さん、松本防災大臣のような、先延ばしを最高、大臣で居ることが名誉なこと、権威主義的小澤発言 などを反面教師としているようです。
 マスコミが小澤・小澤と持ち上げず、無視すれば、それだけ小澤・鳩山の力は失せ、野田さんはやり易くなるでしょう。
 
 マスコミは、政府の方針を腐すのが仕事と考えているようですが、今回の内閣は非力ですから、反対・反対と言い募れば、また短命内閣になります。
 3党合意で、自民党との協調を進めていますので、これらを讃えてやりましょう。そういう対立が減ってくれば、政界再編・小澤鳩山の落選引退は早まるでしょう。
 腐して、くさしまくるのは、日本人的ではありません。朝鮮・中国的なことと思います。韓国の飛行場などで、自分の権利をカウンターで大声でまくしたてる韓国人の姿など、テレビで放映しましょう。韓国ドラマにない真実を報道するマスコミはありませんか? マスコミはあれが自分の姿だと悟りましょう。

 自民党もすぐ総選挙と言わず、2年後と目標を定め、候補者選び、選挙小選挙区制の廃止、政策の理論教育、地方選挙での勝利など行動をしましょう。反対・反対の社会党的野党では支持を失いますよ。

防災の日に思う

2011-09-02 08:08:11 | 21世紀
防災の日
2011/09/01
 関東大震災は、大半の日本人には歴史上の出来事としか、感じないだろう。
 1923年(大正12年)9月1日に起こった地震の日を記念して作られた。
 88年前の出来事で、私の生まれる15年前、私の母は9才の出来事だった。
 この震災がなかったら、日本は随分現在とは変わっていただろうと思う。
 私が中学生のころ読んだ菅原通済の自伝は面白かった。彼は鉄道工業(?)社長の息子として生まれ、石原裕次郎映画を地でいく活動をしました。
 グーグルの記事ではこう書いてあります。
菅原道真36代の子孫であるともロンドン大学を卒業とも自称したが不明な点が多い。少年期は日夜喧嘩・悪戯に明け暮れる悪童だった。中学時代も喧嘩や放蕩に明け暮れ、たびたび学校(旧制・海城中学(現・海城中学校・高等学校)や東京高等師範学校附属中学校にもいた)を退学処分となる有様だったが、1912年(明治45年)に一念発起し(自伝では天啓があったとする)日本を出国する。
日本出国後ジョホールにてゴム農園を興し成功するが、タングステンの密輸に携わるなど非合法的な行為も行っていたらしい。その後、アフリカキンバレー鉱山・ロンドン・ニューヨークを歴訪し、1920年(大正9年)に日本へ戻る。日本ではゴム貿易で利益をあげたが、その後米相場に失敗し莫大な負債をかかえてしまう。
しかしその後の関東大震災における復興需要で頭角を現して実業界に躍り出た。江ノ島電鉄の経営に関わったのを機に江ノ島開発に着手、日本自動車道株式会社を設立し大船~江ノ島間に有料道路を建設し、深沢地域の丘陵に高級別荘地を開発し鎌倉山と名づけて分譲するなど積極的に活動。戦後も湘南モノレール江の島線の誘致などに影響力を発揮した。交詢社に事務所を置き周辺のグループとも関係が深かったとされる。
 彼は、関東大震災の時、日本でクラ地峡運河の建設の資金集めをしていた。
 クラ地峡はマレー半島の付け根、タイ・ビルマ・マレーの国境に当たる幅の狭い地域です。
 日本に物資を運ぶのにシンガポール経由より当時は3日少ない日数で良い。
 イギリス・シンガポールに対抗する日本の植民地的都市も出来ると測量・設計・見積も終わり、タイ政府と話を始めます。タイでは大乗り気です。タイ海軍は東海岸と西海岸がマレー半島で行き来出来ず、両側に海軍があったがクラ運河が出来れば一つで良いし是非造ろうと言う雰囲気でした。
 マレーには錫やタングステンなど豊富で日本資本で開発しよう。
 クラ地峡運河を作ることは、日本の国益になる、大きな日本の拠点になると日本財界・日本政府に説明を始めました。
 運河建設の機運が高まり、具体的なお金集めが始まろうとした時、起こったのが、関東大震災です。この震災で運河計画は吹っ飛んでしまいました。
 菅原通済は、あきらめ、活動を国内に移し、土建業としていろいろなプロジェクトを成功させました。
 私が中学生で、自伝を読んでいる頃は、仕事を離れ、東宝映画にチョイ役で出るのを趣味としていました。週刊新潮の投書記事で、「河内桃子」のファンを高言し「求む。河内桃子的美人」などと書いていました。後に、私が就職した大林組で、河内桃子の弟大河内さんが居て、びっくりしました。

 関東大震災がなく、クラ地峡運河が当時出来ていれば、日米戦争は起こらなかったと言う気がします。日中戦争は激しく行われたでしょうが、共産党の中国にはならず、蒋介石との講和が出来ていたでしょう
 そして、菅原通済さんは、歴史の表舞台で活躍し、豊臣秀吉と並び称されていたように思います。
 私は、この本を読み、土木や東南アジアに興味を持ち、色んな知識を蓄えていました。パラオ・ヤップの人食い人種の料理法なども読みました。
 高等学校では、受験勉強に追われ、忘れていましたが、受験では土木に行きたいと親の反対を押し切って進み、就職では、お役人になれと父が言うのを無視し、土建会社・大林組に採用されました。
 新幹線工事が始まり、大林組は高槻工区を受注し、そこに赴任しました。
 大阪本店の近くで大所長が担当で、土木部長が遊びに来ました。会食に私も参加しましたが、知らない話で訳が分からないところに、新規受注の賠償工事インドネシア・パレンバンのムシ河橋梁の話が出てきました。所長が「どんなところ?」と質問していましたが「よく分からない」と答えられました。
 私は昔の知識で、川の写真など想い浮べて「こんな川で逆流がすごい。水深は16mもあって10,000トンの船が来る」などと話始めました。そしてそれが、部長たちの記憶に残り、次の年24才の時、インドネシアに赴任することになりました。 関東大震災は、私自身の生活にも影響があったのです。今でもマレーは大好きで去年は北九州大学のマレー人留学生にマレー語を習っていましたが、足が悪くなり通えず、残念ながら止めてしまいました。