朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

存在感を考える

2006-12-25 10:08:37 | 成長
存在感=ステイタス2006/12/22
堂々としていて、安っぽいところがなく、印象に残る家があります。
 「あんな家に住みたいな」と憧れます。
 オフィスビルやマンションでも落ち着いた造りで、何があってもここに居れば安全という気分になるものもあります。
 自分の好みの問題かもしれませんが、砂津川沿いの九電の建物(新小倉ビル?)に私はそんな気持を持ちます。
 似たような形の建物ですが、鍛冶町にある大同生命ビルは何か軽く、無理をしているように思えるのです。

 人を見ていても、そんな風に感じるときがあります。
 「この人なら大丈夫。何があってもやりこなしてくれるだろう」
 「この人がやることなら、何でも落ち着くところに落ち着くだろう」
 「この人のいう正論は素直に聴けるし、いうことに無理がない」
 「堂々としている」と表現する人柄もありますが、【堂々】とはお寺の本堂のような大きな立派な建物を意味するもので、人間を建物に例えて言っています。
 「裸の大将」山下清さんは、人を批評するのに「兵隊の位で言えば・・・」
と人間の物差しに兵隊の位を使うのが面白い映画でした。
 私達も兵隊の位の物差しでなくても、建物にすればあの建物のような人と頭の中で例えると整理し評価できる気がします。
 例えば、「伊勢神宮のような人」と表現すれば、格調高く、アッサリしていて皆から尊敬されている人柄が見えるようです。
 政治家や政府税調会長 本間さんが「伊勢神宮のような人」だったら日本は素晴らしいですね!

 先日、同じ年の仲間と旅行しました。
 一番 健康に見える人は持病を何度も手術している人でした。ちゃんと節制されているのです。
 不健康に太っている人も居ます。その人は身体に自信があるのでしょう、不節制の人です。
 昔 「はだか随筆」などお医者さんの随筆が流行ったころ、こんなことを書いたお医者さんの文章がありました。
 玄人のあそこはきれいできたない。素人のあそこはきたなくてきれい。
 自分はこうありたいと表現しているものは、実は実際の自分とは反対であることが多いようです。
 それを他人が見るとき、「無理している」とか「えらそうに」とか「軽いな」と感じるように思えます。
 そんな内外の整合しない印象を、私はステイタスが低いと表現しようと提案します。
 内外がぴったり合って無理を感じない。安定して存在感のある人をステイタスが高いと表現したいのです。

 「ステイタス」は社会的地位のあることを意味します。
昔の貴族社会・農村社会では、社会的地位とその能力・持ち物・力の源泉が一致しており、ステイタスの一言で兵隊の位のように人を判断することができたでしょうが、今はそうではありません。
 価値の多様化の現在、一言でお互いの上下関係を表すのに、お金の多寡で言うのではなく、精神的安定度・存在感・エネルギー等を含んだ人間力をステイタスと言う尺度で表現できないかと考えてみた所です。
 
 今 教育基本法の改正で審議会はなかなか合意できないし、合意出来たところは無視されているなどと委員の渡辺美樹さんがテレビで言っていました。
 教育の目的を「ステイタス」のある人間とし、堂々たる人間・存在感のある人間・自立していて人間の内面と表現している人格の一致している人間を育てるとすれば、いい方針が合意できるのではないか?

 大きな軍艦は安定しています。少々の波ではビクともしません。
 戦艦大和は嵐の中でも堂々と進みます。ステイタスがあるのです。
 FRPのモーターボートは小さな波でもコロンコロンと揺れ,魚釣りしていても酔ってしまいます。波に合わせ身体を揺らすのは疲れます。ステイタスがないのです。
 しかしエンジン掛けて走り出せば、波を乗り越え爽快にとんでいきます。
 走ることでステイタスが生まれたと解釈します。
 いろいろ苦労のある事でも、その一事に集中すれば、くよくよ考えもせず、安定して未来を見つめることが出来ます。それもステイタスのあることです。

 存在感のある人間、それがステイタスという言葉で表すものであり、私はそうありたい。年寄りと言われるのは、力が弱くなり庇護されるような感じを抱きます。このステイタスをキーワードとして自立した存在を続けることを、私の使命としよう。