観測にまつわる問題

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蝦夷(エミシ→エゾ)と北東北のアイヌ語地名の関係考察、擦文文化前後の考察、粛慎及びオホーツク文化の考察、円筒式土器文化圏/亀ヶ岡文化/三内丸山遺跡の総合と続く時代

2019-05-08 15:45:13 | 日本史
多賀城跡 復元模型.JPG

北東北に内陸部を含め広範囲に見られる明らかなアイヌ語地名から、北東北の蝦夷は所謂アイヌに連なる民族であったことは明らかです。筆者はアイヌ新法で認められたアイヌの議論は北海道以北で完結すべきと考えますが、日本の古代史への関心との関係で、その北東北時代の前史に興味があります。円筒式土器や亀ヶ岡文化・三内丸山との関連性も気になっています。縄文時代で世界遺産登録との絡みがありますが、縄文時代は漠然としており、必ずしも詳細は明らかではありません。円筒土器文化圏と北筒式土器文化圏との関係、円筒土器文化圏と大木式土器文化圏との関係、旧東北系と関東系の対応関係が考えられると思います。

現時点での仮説)蝦夷(エミシ)は前方後円墳に関連して蝦夷辺民説(隼人や熊襲と同じ)。蝦夷(エゾ)は北東北のアイヌ語地名と関連して蝦夷アイヌ説。後者の傍証として蝦夷沙汰職(えぞ さたしき・蝦夷代官(えぞ だいかん)・蝦夷管領(えぞ かんれい)という安藤氏(安東氏)が東北日本海側の領主であったことが挙げられると思います。北海道が日本に公式に入るのは江戸時代の松前藩以来だと思われ、松前藩は北海道にありました。それ以前の安東氏系道南十二館は日本領内と認識されておらず、これは沖縄や奄美の状況に近い可能性があります。早期水田、弥生時代の日本海側での北進が早かったらしいこととの関係は現時点で不明。南東北の大木式土器は縄文時代前期前葉から中期末葉までの土器型式で、縄文時代後期・末期の状況が当然弥生時代や古墳時代との関係で重要だと考えられ、現時点で北回り系か西回り系かの判別は出来ません。エゾはアイヌとの連続性が認められますから、結論から言ってアイヌ語地名を残した北東北の蝦夷(エゾ)という縄文人の後裔は後のアイヌと同系の民族であり、北周りで日本に到達したと考えられます。多分古代に同じ柵とか蝦夷とかいう用語で辺民と「アイヌ」を混ぜているから、よく分からなくなっているように思います。粛慎(みしはせ、あしはせ)=蝦夷(エゾ)/アイヌ説まで有り得るかもしれません。蝦夷(エミシ)が日本人の辺民であるならば。

擦文文化の前後関係が重要そうです。アイヌへの移行で異論を潰しきれておらず、縄文からの移行でどの縄文からかの議論が見られません。このあたりがアイヌ南下説の混入を許す原因になっているようです(アイヌが北方系なのは縄文時代以来で縄文文化は単一民族の文化ではありません)(南下したのはオホーツク文化ですが、オホーツク文化がアイヌ文化に発展した論は見られず、擦文文化がアイヌ文化に発展したが定説です)。縄文時代の円筒式文化圏が北東北のアイヌ語地名との関連でプレアイヌのように思われますが、擦文文化との間が埋められていないように思います。意図的なのだとしたら、アイヌの「権利」が北東北に及ぶことを警戒しているのでしょう(筆者もそれは反対ですが。そもそもアイヌは自身で国や記録を持ちませんでした。民族移動の故地の権利を主張するのは、印欧語族の故地の権利を主張するようなもので無理筋だと思われます)。

出羽柵・渟足柵・磐舟柵・胆沢城、全て蝦夷(エミシ)辺民説で考えるべきかもしれません。アテルイに有力なアイヌ語解説が見られないのはアイヌ語の人名ではないからではないでしょうか?沼宮内(ヌマクナイ)なんかは確実にアイヌ語地名だと思いますが、ナイ・ベツ以外の所謂アイヌ語地名(エサシは東北系和人地名の可能性も?)は見直した方がいい可能性もありそうです。阿弖流為(アテルイ)が日本語らしくないというのはその通りでしょうが、氏姓がないのは古くは日本全土同じですし、九州の熊襲が日本人の辺民だと見られますが、その人名は厚鹿文(あつかや)・市乾鹿文(いちふかや)等とあり、日本人の名前らしくありません。沖縄も同様ですが、沖縄方言は日本語の一派であることは言語学上明らかになっています。人名、特に名前は移り変わりが激しいので、安易に民族・言語の判別の指標として使えないと思われます(氏姓ですら、時折変えてしまうケースが見られます)。ナイ・ベツ系アイヌ語東北地名を南下説と関連付けてみることは難しいと考えます。何故なら考古学的・歴史的に北上の潮流が強いのが分かっているからであり(オホーツク文化以外で)、アイヌと関連付けられるエゾが北東北にいた記録も残っているからです。基本的に前方後円墳等、文化の急速な拡散を許しているのは同一民族の存在を想定するべきだと考えられます。とすれば、南東北や越後のエミシとは辺民説で理解するしかありません。それを前提に縄文時代に遡っていかないと(より近い時代を誤解していると)、記録がない時代の研究ですから(書いているものがあれば、それを読めばいいと思います)、あさっての方に飛んでいく可能性が高いと思われます。考古学的遺物の研究はそれ自体重要でしょうが、正確な解釈をするには記録の存在が前提で、記録のある時代の歴史の理解は、(考古学的遺物の解釈を含め)その前の時代の理解を大きく助けると考えられます。

「アイヌ」は旧石器時代以来、北周りの可能性が高い。

関東縄文人はどちらから来たかは未確定(恐らく西周り)だが、毛野(毛人?)は(北周りの)「アイヌ」と恐らく区別される(大和人がエミシと呼ばれたとしてアイヌとは無関係。エミシの用語は当初は北九州人から見た東の夷人で「アイヌ」と関係なかった可能性が高い。北九州人がヤマトに移った後、関東(東海)をそのままエミシと呼ぶようになったのではないか。北九州が来る前の大和も「アイヌ」ではなっかたと考えられるが、縄文時代はかなりの長期に渡っていた。

福島は当初は「アイヌ」で南端?だったかもしれないが、縄文時代の途中から北陸・関東の影響が強いらしい。「会津」あたりが北陸と関東が出会う場だった可能性がある。阿賀野川流域の標高の低さに注意するべきか。

新潟の実態は未調査。火焔土器は会津スタートで新潟で花開いたらしい。恐らく「アイヌ」ではなく、北陸系西回り。あるいは長野との関係。新潟のエミシは「アイヌ」の残存の可能性を考慮。ただしそうだとしたら火炎土器に関係ない。火焔土器系の独自・在地系の可能性もあるが、その場合は蝦夷に「アイヌ」にほぼ無関係の(隣人だったかもしれないが)系統が違う民族がいたことになる。火焔土器とは。

長野は恐らく北陸系/新潟に近いのではないか?東海の影響もあったと思う。結局西回り系か。長野の縄文人は恐らく「アイヌ」に関係ない。

(アイヌ)に関係ない縄文人・貝塚・船・落葉広葉樹林・北陸と諏訪・翡翠・佐渡・貝塚?・早期水田・越/出雲・日本海と太平洋の海からの進出

>古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は、現在の新潟県・越後平野中部、福島県・会津盆地、宮城県・仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが、日本海側内陸では山形県・村山地方中部まで、太平洋側では岩手県・北上盆地南部まで北進した。・・・蝦夷が越後あたりにいた記録に対応すると見られます。磐舟柵や渟足柵との関係を要考慮。出羽柵は庄内地方に設置されたが定説でそれで良いようですが、陸路がどれほど通じていたかは越後北部が十分支配出来ていなかったことから疑問なしではありません。早期水田でも分かるように弥生時代は早くに東北日本海沿岸を北上したフシがあります。大和朝廷の会津進出も阿賀野川を遡った気配があると思いますが、北陸は前方後円墳が目立ちません。弥生時代に糸魚川(勾玉)と出雲の関係が想定されますが、証明されていません。勾玉祭祀は古墳時代のいずれかに大和朝廷が止めた感じもあります(銅鏡に関しては神社の神宝になることが多いようです)。

置賜(山形県内陸部)は当初、道奥(みちのおく)国だったことに注意。これは会津や山形県内陸部や宮城県の早期前方後円墳との関係で理解出来ます。

前方後円墳は和人居住地に設置されたと見ていいような気がします。多賀城に対したエミシとは熊襲や隼人と同様に和人の辺民の可能性が高いような気がします。南東北にアイヌ語地名らしいアイヌ語地名は見られません。縄文時代まで遡ってどうかは不明とします。

中通は下野と関係が深いはず。会津への進出はあったとは思う。そのまま北進して多賀城に行ったと考えたくなるが、信夫が北端で長坂を越えられなかった可能性も。中通が北陸と関東が出会う場所だった可能性もあり、その場合は北進して多賀城も十分。「アイヌ」とはあまり関係なさそう。

浜通りは常陸の延長線上と考えられる。常陸は下野より中通に進出した可能性もあるかもしれない。「アイヌ」の気配はしない感じ。陸奥とは何か。常陸から分国したらしい。

北出羽/羽後が「アイヌ」の領域だった蓋然性は非常に高い。進出した倭人は南出羽/羽前主体と思われる。北陸(新潟)との関連性が深い。陸奥との相互の交流もあった。安東氏の研究。津軽への進出主体と思われる。

陸中(岩手)が「アイヌ」の領域だった蓋然性は非常に高い。進出した倭人は陸前(宮城)主体と思われる。出羽との相互の交流もあったと思われる。平泉の性格に注意すべき。

津軽は全く「アイヌ」領だったように思われる。青森も津軽。ツガルとは何か。津軽/渡島半島の縄文文化の同一性。三内丸山の建築。船。土偶。十三湊。安東氏。唐子。奥尻島の粛慎がオホーツク?津軽氏は南部氏の出。つまりは陸後/陸奥。実際には出羽(安東)の北上とのブレンドの可能性が高く独自性がありそう。

上北/下北と南部の関係性。陸後。岩手/北上の延長線上の理解。津軽への進出。渡島半島との関係性?津軽との差異。日ノ本ルート。元々は全く「アイヌ」領だったろう。シュムクル(胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られる)の故地の可能性がありそう。

三陸/ヘイ郡は情報が少ない。

蕨手刀/日本刀・俘囚・縄文文化と世界遺産・平泉・坂上田村麻呂・安倍氏・ミイラ・南部鉄器・落葉広葉樹林・東北の境界性

津軽海峡を挟んで渡島半島と津軽の両岸がアイヌの故地のように思える。アイヌは唐子・日ノ本・渡党に分かれるが、津軽に共通する渡党の渡島半島が日本海と太平洋に海沿いで別れたから、ある程度の同一性があるのではないか。この故地のアイヌは秋田や岩手のアイヌと連続していたと考えられる。

日本海側のアイヌが樺太に渡った。余市アイヌ。

樺太アイヌについては元/モンゴルの歴史に注意。ミイラ。元来はニヴフの土地か。ツングースの進出もあり。ロシアの影響。樺太。

太平洋岸のアイヌの残存勢力がメナシクルか。千島アイヌの母体だろう。北方四島との関連性。トビニタイ文化とは。

千島アイヌはカムチャッカまで達している。ロシアに同化したらしい。ロシアの影響。コロボックル考。オホーツク文化人の進出が先という話も。

カムチャッカの民族の系統と影響。

謎の民族オホーツク文化人。海岸沿い。奥尻島に進出したというが。粛慎か。ニヴフと思われるが。ツングースも考慮すべきか。イオマンテとの関係。トビニタイとの関係。アイヌに同化した。

石狩平野に要注意。日本海/太平洋岸に平野で繋がる。旭川/上川への進出。海沿いのオホーツク文化人に対する内陸川沿いの「縄文人/擦文文化人」との関係。渡島半島との関係が良くわからない。シュムクルとの関係も良くわからない。アイヌ語地名だが、縄文まで遡っての渡島半島との関係性が不明。

宗谷については情報が少ない。

胆振日高はシュムクル/メナシクルの境界線。数が多い今のアイヌはどうもシュムクルらしい。シュムクルと松前藩の関係。シュムクルは南から来たというが。石狩平野との関係性。東北のアイヌ語地名と北海道のアイヌ語地名がどう見ても同系なのは、シュムクルに関係している可能性もある。

(半)狩猟採集民族が割合早く農耕民に飲まれる例としては満州民族。関東縄文人の日本人の遺伝子に占める割合m考慮。

山丹交易・(南部)鉄器・松前藩・東北諸藩による防衛・江戸幕府による探検・北前船・蝦夷管領・ロシアの進出・函館五稜郭政府/戊辰戦争・川の文化・船の文化・チャシ・道南十二館・渡党・北海道(渡島半島除く)の縄文文化人とは・擦文文化・アイヌ・アイヌ語とは・アイヌ語方言・プラキストン線・沿海州との関係・旧石器時代・北周り


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エミシ辺民説、エゾアイヌ説の両立の可能性と粛慎アイヌ説の可能性 (管理人)
2019-05-29 10:22:38
北東北に内陸部を含め広範囲に見られる明らかなアイヌ語地名から、北東北の蝦夷は所謂アイヌに連なる民族であったことは明らかです。筆者はアイヌ新法で認められたアイヌの議論は北海道以北で完結すべきと考えますが、日本の古代史への関心との関係で、その北東北時代の前史に興味があります。円筒式土器や亀ヶ岡文化・三内丸山との関連性も気になっています。縄文時代で世界遺産登録との絡みがありますが、縄文時代は漠然としており、必ずしも詳細は明らかではありません。円筒土器文化圏を巡って、北筒式土器文化圏や大木式土器文化圏との関係も考える必要があります。

現時点での仮説)蝦夷(エミシ)は前方後円墳に関連して蝦夷辺民説(隼人や熊襲と同じ)。蝦夷(エゾ)は北東北のアイヌ語地名と関連して蝦夷アイヌ説。後者の傍証として蝦夷沙汰職(えぞ さたしき・蝦夷代官(えぞ だいかん)・蝦夷管領(えぞ かんれい)という安藤氏(安東氏)が東北日本海側の領主であったことが挙げられると思います。北海道が日本に公式に入るのは江戸時代の松前藩以来だと思われ、松前藩は北海道にありました。それ以前の安東氏系道南十二館は日本領内と認識されておらず、これは沖縄や奄美の状況に近い可能性があります。早期水田、弥生時代の日本海側での北進が早かったらしいこととの関係は現時点で不明。南東北の大木式土器は縄文時代前期前葉から中期末葉までの土器型式で、縄文時代後期・末期の状況が当然弥生時代や古墳時代との関係で重要だと考えられ、現時点で北回り系か西回り系かの判別は出来ません。エゾはアイヌとの連続性が認められますから、結論から言ってアイヌ語地名を残した北東北の蝦夷(エゾ)という縄文人の後裔は後のアイヌと同系の民族であり、北周りで日本に到達したと考えられます。多分古代に同じ柵とか蝦夷とかいう用語で辺民と「アイヌ」を混ぜているから、よく分からなくなっているように思います。粛慎(みしはせ、あしはせ)=蝦夷(エゾ)/アイヌ説まで有り得るかもしれません。蝦夷(エミシ)が日本人の辺民であるならば。
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