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観測にまつわる問題

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きりたんぽと言えば、野外のライスバー?

2018-12-06 00:08:15 | 日本地理観光
米代川(国土交通省)

大館市を流れる米代川の語源ですが、通説の米+白で研ぎ汁ではなく、米+代で米所という意味ではないかと思います。代のつく東北の地名に猪苗代(シロは場所という意味に近いのかなとは思います。例えば、やしろ(社)は屋代で、依り代、糊代。他に地名としては田代)、米(ヨネ)のつく東北の地名に米沢。緑色の川の由来に研ぎ汁はおかしく、素直に米所で良いかと。白川・城川といった地名はありますが、米代川が白くなく、昔白かったもなさそうですし、あっても白くなくなったら変わるでしょうし、変わらなかったとしても米が謎というか、米のように白いって言うかな。

美味しいお米がよくとれるからこその当地名物のきりたんぽではありますよね。

きりたんぽと言えば鍋ですが、本来のきりたんぽと思われる野外で食べるライスバーも良いのではないかと。その由来はハッキリしないともされるようですが、穴が開いている=串に刺すで焼き飯だったのは間違いなさそう。鍋は持ち歩くと重いはずです。東北は寒いのであったかいライスバーであるきりたんぽ(いつものBBQに気の利いた1品を!簡単なのにおいしい喜ばれBBQレシピ CAMP HACK)。

きりたんぽ(ライスバー)のバリエーション(BBQきりたんぽ風ライスバー ソトレシピ)。

日本の系譜沖縄(ナワナハ語源考・琉球神道と古神道)+αで伊予国「宇和」について

2018-12-05 20:02:46 | 日本地理観光
波之上宮(ばんない堂)

沖縄の語源の通説は一般に「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説(伊波普猷)であり、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説(東恩納寛惇)があるそうですが(ウィキペディア「沖縄県」2018/12/05 引用及び地名由来事典「沖縄県」参照)、筆者はどちらも誤りではないかと考えます。

無人島ならまだしも付近で最も大きい有人島が沖の漁場と呼ばれる可能性は無さそうですし、自称することも無さそうです。沖合いの小島が好漁場だったら(水が出ない等の理由で本島から漁業に出かけるなら)、まだ分かるんですが。多分北九州の奴の津の通説が意識されていると思いますが、魚津なら北陸にもありますしこれは理解できますが、沖縄には当てはまらなそうです。沖縄の縄と那覇が同じものとすると、東恩納説は有り得なそうだと先の地名由来事典でも指摘されていますし、一般的に縄と那覇が同じと考えられているなら、那覇が漁場という地名になりますが、何処にでもある漁場が特定の地名になることも有りそうにないと筆者は思います。何処に漁村という名の漁村があるでしょうか?紛らわしい。しかも漁村ですらない漁場です。ムツゴロウの漁場の泥の中に掘っ立て小屋でも立てるのか。また、魚なんて獲りまくればいなくなるものです。多分、皆何となく不審には思うものの、他に良いアイディアもなく、放置されてきたものではないでしょうか?

簡単に検索した範囲では筆者が最初に考えました(少なくとも誰かのアイディアを受け売りしているのではなく、自分で考えました)が、沖縄=沖平 で本土から見て沖の平らな島という意味じゃないかと思います。沖縄本島にはヤンバルを除き、大体平らな島として知られています。特に日本本土や奄美と比較すれば、その平坦さと(最も)沖合いにあるという地名の意味が分かるでしょう。那覇も平という地名なら、福島県岩城地方を代表によくある地名で意味が通りやすいところです。那覇に高い山は存在しません。

正直なところ、そもそも東北を調べていて、福島の猪苗代の語源由来のナワに関する指摘(会津「猪苗代湖」(いなわしろこ)のゆらい 会津ひらつか農園 >「イナワシロ」とは、イが「井」であり水を意味し、ナワは「ナラ」と同じで「奈良盆地」のような平らを意味し、シロとは「代」で高いを意味します。※ただし筆者は代の語源に関しては賛同していません。イはイ草が水草ですし妥当だと思います)を見て裏づけをとったところ、日本語でどうもナワ=平だと気付いたのが、沖縄の語源の新説を思いついたきっかけです。

「名和」名字の由来、語源、分布(日本姓氏語源辞典 人名力・別館)を見ると、ナワ・ナナミ【名波】、ナワ【那波】、ナワ【縄】、ナワ【那和】、ナワ【名輪】、ナワ【奈波】、ナワ【繩】、ナワ【奈輪】が日本の地名として一般的で何らかの共通した意味が想定され、沖縄の縄も同じではないかと考えられます(沖縄の地名は本土の史書が初見ですし、沖縄方言自体が日本語の一派であることは学問上確立しているので、飛躍した発想ではありません)。ただ、意味が分かりません。そこで筆者は奈良と名和が近いのではないかとふと考えました。

ウィキペディア「奈良」(2018/12/05)を参照すると、柳田国男の「地名の研究」による説では、平(なら)した地の意で、緩傾斜地を指すと言います。東国では平(タヒラ)。これが最有力だとされており、平の地名も一般的であり、平城をナラと読むこともあるようですし、なるほどと首肯できます。ウリナラ地名で奈良=国説もありますが、記紀等で国はクニと読む以上朝鮮語の入る余地もありませんし、しかも国造(くにのみやつこ)のように地方名としても使いますし、ナラという地名は日本各地に使うので、全く違うと言えます。ウリナラ(我が国)という言葉を使用する(日本の知識がない)朝鮮人から見て、奈良が大和を指すなら間違いないと思えて不思議はないんでしょうが。また同義とされる平は盆地や微高地・高原を結構意味しますよね。佐久平、八幡平など。そう考えると、更に奈良=平説は真実味を帯びてきます。福島県岩城の平のように盆地でもないケースもありそうですが、高さはさておき、平という地名は日本語では一般的で、大和言葉ではナラらしい(均す=平らにするに由来する)ことは分かってきました。後は意味不明のナワにナラが転じるかというか近いか否かです。

裏をとるため「r w 発音」で検索したところ、rとwは間違えやすいという指摘を上位で二つ見つけました。

似たような・間違いやすい単語の発音を取り扱った本。(教えてgoo)>日本ではよくR-Lの話しが出ますが、私としてはR-Wの違いはわかりづらいと思っています(口の動きが似ているからです)
WとRの違いと発音のコツ(YouTube)>WとRは実はよく似ています。ポイントは口(唇)。鏡を見ながら練習しましょう。

日本も広いですし方言というのも結構違ってくるものです。識字率が低く、耳で聞いていた時代にwとrの間違いなんて朝飯前というか、もはや間違えない方・変わらない方がおかしいと言えるのかもしれません。先頭語ならまだしも後にくっつけると尚更間違えやすいでしょうね。そう考えると、浦と宇和(愛媛南西部のメジャーな地名)ももしかして。字にすれば間違えようがないにせよ、字がない時代に地名は結構決まっている訳であり、その辺が盲点なんじゃないでしょうか。

そう考えると、ナラ=ナワで平だと決め付けても、当たらずとも遠からずというか、当たっているんじゃないかと思いますがどうか。

場所が近いですし、ウィキペディア「九州地方の難読地名一覧」(2018/12/05)を確認しましたが、ナワ・ナラを含む意味不明の地名が散見されます。原義が忘れられたものだとも考えられます。

名和(ナワ)=奈良(ナラ)で平なら、東日本の平に対して西日本の「平」がハッキリしてきたと言えるのかもしれません。地名で平なんて凄く一般的でありそうです。昔の日本ではナワのブレでも分かるように漢字は自由きままに宛てていますし、奈良は特別に好字(好字令があった)したのだと思えます。この仮説が正しいとすると、沖縄=沖の平(な島)で、那覇=平(村)という普通のありそうな解釈になります。

そもそも沖縄の初出は、奈良時代鑑真の唐大和上東征伝の阿児奈波島なのだそうですが、これは通説通り、阿児をオキと読んでいいという確信はありません。普通ならアゴで志摩(三重県)に阿児=英虞という地名はあります。ただし、ナワが南西諸島の何処かの地名にあったことは間違いないでしょう。

また、続日本紀(797年完成。697年~791年の記録)掖玖(屋久)・多禰(種(子島))奄美・度感(徳之島と言われる)・信覚(石垣島と言われる)・球美(久米島)の地名が見られますし、屋久島・種子島・奄美大島は日本書記に記載があるほど古いのですが(地図を見れば納得いくでしょう)(種子島に至っては多禰国として国府・国分寺すらありました)、寧ろ日本書記以降、続日本紀とほぼ同時代の鑑真の頃(779年作)に奄美以外に度感・信覚・球美を知ってて、沖縄本島を知らないなんて有り得ないようにも思えます(あるいは現地で勢力が強いがゆえにお互い知ってて日本に朝貢はしなかった可能性はあるかもしれません)。この時代に先島諸島の国が朝貢してくるのかなとも思わないでもないですが。いずれにせよ、少なくとも初出はともかく(隋書の流求國(607年)※ただし台湾説など諸説ある。大陸に近い台湾ですが古くは小琉球と呼ばれました。大琉球が沖縄とされます)、地理的な観点からも昔から日本の方が当地に詳しかったとは言えるのだと思います。度々指摘していますが、言語学上日本の一派でもありますし、琉球王国最初の史書は和語で書かれてもいます。結局のところ平家物語の「おきなわ」に江戸時代に新井白石が沖縄を当てたようですが(それ以前の薩摩の史料にも「沖縄」は見えるとか)、少なくとも南西諸島におけるナワはかなり古いと言えると思いますし、沖縄が最大で鑑真の頃まで遡ると想定してもいいんだろうと思いますが(あるいは平家物語か17世紀薩摩)、やはり奄美を知っていたなら、何か本島の名前がないとおかしいですし、周辺の他の島の名前は古くから記載されてきたようです。

次いで那覇ですが、琉球国由来記(1713年。琉球王府に献上された地誌)に奈波から那覇に改字したとあるようです(那覇の地名の由来について知りたい。 レファレンス共同データベース)。これまで見てきたように寧ろ奈波表記が日本的でナハ=日本によくあるナワという地名説に符合するように思います。また、通説とされる伊波説に専門家による疑義が提起されていることも確認できます。いずれにせよ(分かるにせよ分からないにせよ)、ナハという地名はあって何らかの意味はあったに違いありません。

筆者はそもそも沖縄方言は言語学上日本語の系統で日本語で解釈できるものも多いことは確実ですし、ナハはナワで平としたいと思います(本土でもそういう指摘(ナワの意味の解釈)が無かったので今まで分からなかったのかもしれません)。

さて、本日沖縄一宮「波上宮(なみのうえぐう)」(海の上から目立つ崖の上の神社。熊野信仰。琉球王国時代から、那覇港を出入りする船は、崖の上の神社を目印にしたのだそう。灯台なんかも崖の上に立っていることが多い)を調べていたのですが、琉球神道が本土の古神道に似ていると益々確信を持ちました。言語学で確定できるだけでなく、宗教面でも沖縄が古い時代に日本から別れたと言えそうです。

波上宮の解説によると等、元々聖地・拝所だったそうですが、波上宮の御鎮座伝説では、(那覇近郊)南風原の崎山の里主(琉球王国の身分制度で中間にあたる士の上層)が浜で霊石を見つけ、熊野権現の信託を受け、王府に奏上し祀ったのが直接の起源のようです。崎山という姓は全国にあるようですが、(熊野信仰の)和歌山と沖縄に特に多いとか。次いで愛媛(伊予)・鹿児島。

石を祀るのは古神道における磐座(いわくら)信仰によく似ており、沖縄古来の御嶽(うたき)信仰の御嶽とは森の空間や泉や川・島を主に指すようですが、これは日本古来の古神道/自然崇拝(アニミズム)によく似ます。沖縄においては水が貴重だったので水場の信仰がメインになったのでしょうが、元々は御岳(おんたけ)で山を信仰する宗教だったかもしれません(御岳山の修験道は有名)。日本語で島は島を意味しますが、沖縄奄美方言では島は集落を意味するように変化しましたし、有り得ない想定ではないと思います。

女性が祭主なのは、邪馬台国における女王に似ます。当時の中国から見て日本の王は女性で鬼道を行っていました(邪馬台国=九州説は邪馬台国以前漢代の北九州にあった倭国王が女王と書かれていないことを説明する必要があると思います)。古い習俗が寧ろ大和に残っていて、先に北九州が男王化したかもしれません。卑弥呼以後も中国の史書でも日本の史書でも「女王」は登場しており(女系ではありませんが)、そもそも日本の皇室は神の血筋とされており、神事に関係していました。

皇室には殯(もがり)という風習があって、中世日本に風葬の伝承があることから、仏教以前は日本は風葬だったかもしれません。沖縄の洗骨も一種の風葬と言えるようです。まぁ風葬は世界各所であったようですが、言葉が同系であること含めて、沖縄が日本人の一派であることは疑いないように思えます。物忌みも言葉を含めて日本と沖縄に共通します。

念のため、何でもウリナラ起源の韓国に関して言えば(くどいようですが、裏を返せばそれだけ日本古代の話に韓国起源説がでしゃばってきて目にすることが多いということです)、検索するとその基層のシャーマニズムは巫俗といって、元は男女半々であったり、被差別民だったりして、詳しくありませんが、あまり似てないように思えます。元々言語系統も違いますしね。

石川県小松市の観光(古代日本と北陸、安宅住吉語源考、加賀百万石の失われた巨大浮城及び経済と文化、世界のコマツ)

2018-12-04 05:39:56 | 日本地理観光
小松市内を貫流する梯川(国土交通省ホームページ 梯川

石川県小松市はコマツの企業城下町で金沢都市圏に次ぐ石川県南部の第二の都市。航空自衛隊との共用飛行場小松空港があって、北陸の重要な物流拠点でもあるよう。以下、筆者の3日前のツイッターの再録・修正・追加・まとめ記事になります。

小松市の観光名所①粟津温泉と泰澄大師。

加賀温泉郷は主に加賀四湯(小松市の粟津温泉、加賀市の片山津温泉、山代温泉、山中温泉)を指し(山代温泉、山中温泉の歴史もかなり古いようです)、粟津温泉はそのひとつ。粟津温泉は修験道の僧で白山信仰(北陸鎮護の大社 白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社)で知られる白山を開山したと伝えられる泰澄(越(こし)の大徳、鎮護国家の法師、正一位大僧正位)開湯と伝えられ、1300年の歴史を持ちます。粟津は内陸部にあって地名に津がつくのが疑問ですが、大きな川はないようで、琵琶湖最南端部の瀬田川河口西岸の粟津庄と関連があるかもしれません。

粟津温泉の泉質は美肌の湯(温泉ソムリエが教える!美肌効果のある「美人の湯」「美肌の湯」って? マイトリップ)とされる硫酸塩泉。

泰澄は越前国麻生津(福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれます。若き日に修業をして悟りを開いた山が丹生山地の奥深くの越知山(日本山岳会)。越智は伊予(愛媛県)に多い(県内で4番目)名字ですが、大和(奈良県)にも多いそう。越智という地名がある奈良県高市郡高取町は古墳も多く、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置にあって、渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)がこの地域に定着したようです。中世越智氏は大和における有力な存在で北部の筒井氏に対抗していました。東漢氏の祖は阿知使主(あちのおみ)。修験道の祖とされるのは役小角ですが、役氏は地祇系賀茂氏で三輪氏と同族。三輪氏は神(みわ)氏とも書き、大三輪氏(大神氏)ともいう。つまり三神安角の次男である泰澄は、元々修験道の家系に生まれた地方のエリートだったのかもしれません。この越前と大和の関係は継体天皇に遡る可能性もあります。

そういう訳で、粟津温泉には国内(世界)最古級の旅館「法師旅館」が存在することでも知られるようです。貨幣経済が発達してなかった時代の「旅館」とは疑問ですが、恐らく日本には古来湯治という温泉地に長期間滞留して温泉療養を行う文化があって、粟津温泉では法師旅館が滞留者を泊める役割を担っていたのでしょう。

付近には泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる那谷寺(高野山真言宗別格本山)もあります。那谷寺による那谷寺の見所としては那谷寺のヒミツ。後で触れますが、小松城を築いた前田利常が那谷寺を再興したようです(前田利常と粟津温泉 あわづの歴史 あわづ温泉)。

話は逸れますが、越前(福井県)麻生津という地名に関して。内陸部で津(港)のつく地名に違和感がありますが、越前平野には一級河川九頭竜川(流域面積は福井県の面積の約70%)が流れます。麻生という地名は麻の生えている土地を意味する日本の地名です。縄文時代の衣服も麻だったのではないかとも言われるようです(縄文人の衣食住)。縄文の縄とは麻ではないかとの推測もあります(麻の歴史(前篇) 日本麻紡績協会)。いずれにせよ、15世紀末~16世紀中頃に木綿の栽培が始まり、麻に取って代わるまで、広く日本で衣服に使用されたのが麻です。綿花はインド原産で12世紀にベトナムから中国に伝わり、明代15~6世紀に長江下流で綿業が発達し全国に普及したそう(綿織物/木綿 世界史の窓)。インド綿はインダス文明が起源で、長くインドの特産品だったようです。話が逸れましたが、埼玉の津(万葉遺跡・小埼沼 行田市教育委員会)の例もあり、内陸部で津も無くはないのでしょう。

修験道の歴史ももはや分からない部分は多いとは思いますが、古墳時代に大和中心に前方後円墳の宗教が全国各地に広がったことは間違い無さそうで、そうした大和中心の宗教の一側面が修験道(の前身)だったんじゃないかと思います(後に密教を中心とする仏教と習合して確立したようです)。(三輪山信仰の)大三輪氏(大神氏)と三神氏が関連する可能性は既に指摘しました。日本や皇室を小さくみようとする歴史学は完全に失敗しており(邪馬台国をリーダーとする倭国は九州を支配するに過ぎないだとか、ヤマト王権表記だとか、王朝交代で皇室は連続していないの類)、いずれ修正を迫られると考えていますが(「記紀そのまま完全に事実」に対するアンチテーゼぐらいにはなったでしょうか)、北陸というのはかなり日本(大和)に近いところはあったと思います。

埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣記述の年代は471年が定説。雄略天皇に仕えたとされるヲワケの剣で、その先祖がオホヒコ。オホヒコは四道将軍の大彦が通説です。これが金石文として出土したことに非常に大きな意味があって(銘文にあるワケとかヒコとかスクネとかいう人名は記紀の記述のある程度の信憑性を裏付けるものと言え、ワカタケルとして記憶された天皇が後に雄略とされたという話です。)、概ね日本書記の四道将軍の記述に類する歴史的事実があったろうことが推定できます。ここからは自分が知る限り、筆者個人の説ですが、大彦は崇神天皇の一世代前の人物ですから、北陸への遠征は崇神天皇以前に遡ると考えます(ずっと後の戦国時代においても「美濃のマムシ」斎藤道三一代の国取り物語ですが、当時の資料の研究の進展から父である新左衛門尉との二代に渡るものが定説になっています。ですから、2~3世代の事跡を「開祖」に纏めて不思議はありません。崇神天皇は古事記によれば「はつくにしらししみまきのすめらみこと」です)。東海に派遣された武渟川別は大彦命の子で崇神天皇と同世代と見られ、会津説話は少し怪しいような気もしますがそれはともかく、武蔵(埼玉県・東京都)は元々東山道で、北陸経由で東山道の方が一足早く大和中心の日本に組み込まれたような気もします。だからこそヲワケの祖先は大彦命であって武渟川別命を経由していないのかもしれません。こうした考古学的証拠によれば、魏志倭人伝の三世紀の倭国が九州に収まっていたとは到底考えがたいところですが(如何にも任那の日本支配を否定したい半島に都合のよい考え方でしょう)、残念ながら日本の歴史学会は両論併記の傾向にあります。筆者の考えでは大和中心の日本が現状より古くに遡ると同時に北陸の歴史も遡って古くなると考えています。

小松市の観光名所②安宅の関(まるごと・こまつ・旅ナビ)と安宅住吉神社、勧進帳の時代。

安宅の関は藤原北家利仁流冨樫氏が設けたと言われる関ですが。源義経・弁慶で有名な歌舞伎十八番「勧進帳(歌舞伎演目案内 – Kabuki Play Guide –)」の舞台。資料的根拠で関の実在性は疑われていますが、北陸道の能美郡安宅駅は当地。

安宅住吉神社「安宅住吉神社について」によれば、安宅住吉神社は古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ、人生に於ける道先案内の神、開運厄除、交通安全、縁結び、また難関突破の霊神として多くの信仰を受けているそう。勧進帳の舞台を擁しご利益がありそうです。住吉信仰については日本三大住吉 御朱印めぐり | 楽しい御朱印めぐり参照。

>住吉三神(住吉大神)とは、伊邪那岐尊と伊邪那美命の子で海から生まれ出た底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称になり、海の神、航海の神などとされています。神功皇后が新羅に出征の折、住吉大神に祈願し、国の安定をはかられたことが元になり、住吉大神の信仰が発展することになったと言われています。

住吉三神は渡来系海人族に結び付けられることが一般的なのですが、国産み神話に関わる神なのですから、普通に考えて日本土着の海の神だと思います。代表的なのが大和の港である摂津、山陽道の西端長門、北九州筑前(博多)ということなのでしょう。日本書記における記述は「「海の底に沈き、潮の中に潜き、潮の上に浮き、濯ぎたまふ」by日本書紀」(日本神話.com)参照。

3~4世紀当時も航海は危険でしたから、神に祈ることは当然であって、住吉三神の起源は少なくとも神功皇后の時代まで遡ると思います。その重要な神様が記紀神話に記録されたということでしょう。

スミヨシの語源が良く分からず考えたのですが、住吉(区)のお隣の住之江(区)は「澄んだ入り江」(ウィキペディア「住之江」2018/12/04)のようです。地名でヨシと言いますと、まず日本に広く分布し古くから利用されてきた元はアシ(葦)というイネ科の植物を想起しますが、これは日本書記で豊葦原(とよあしはら)の国が見られ、この時は葦なので関係ないことは明らかです。良しかなと思うものの澄み良しという地名に確信がなく、ついで国吉(クニヨシ)という地名を想起しました。「国吉」名字の由来、語源、分布(日本姓氏語源辞典 人名力・別館)によると、沖縄だけでなく、千葉・山口の地名でもあり、高知・富山・広島でも古来記録のある地名のようです。ただやはり語源に関して今ひとつピンと来ません。ついで「ヨシ 地名」で検索したところ3番目に「広島県に三次市という市がありますが、「三次」と書いてどうして「みよし」と読むのですか? 漢字文化資料館」がHit。どうもミヨシという音にヨシと読むことがあった次を宛てたのが三次という地名のようです。よりメジャーな三好も同じですね。これで大体分かってきたような気がします。ミヨシは美+良しで一種の瑞祥地名なのでしょう。国吉も恐らく同じで、住吉も澄み良しで瑞祥的な地名・神名だったのだと思います。昔は漢字を適当に宛てており、場所によって使われる漢字が違ったり、縁起のいい漢字変えたりすることが良くありました。大阪の住吉が百済系という説もあるようですが、摂津百済郡(当時の大阪には白村江の戦い等に関連して亡命者が住んでいました)が住吉郡に編入されたことから来る誤説ではないかと思います。読みは「よし」(良し・善し・好し)の古形はえしだと言われ(コトバンク・weblio辞書参照)、スミヨシではなくスミエシだったかもしれません。いずれにせよ、スミは他に住み、隅、済み、棲み、墨、炭等あり、ヨシも他に由、芳等あって、スミヨシが和風の名前であることは動かないように思います。これが近年の歴史学に存在する「一国史観を批判し、国境を越えた海域史の観点からダイナミックに歴史を読み替えていこう」という風潮(「海の王国・琉球」(上里隆史 洋泉社新書)17p)や縄文人=南洋人の固定観念、弥生人=渡来人の固定観念の悪影響で分からなくなっていると筆者は考えています。詳細は別の機会にしますが(いずれ全て記事にするつもりですが)、その意味する範囲や表す言葉はともかく日本は外来のものを受け入れながらも日本は日本であって、それは氷河期旧石器時代まで遡るだろうと思います。

安宅は一級河川梯(かけはし)川(安宅川)の河口周辺に位置します。名称は寇が浦に由来すると言われているようですが、検索では古地図で名称を確認出来ず、暴れるを意味する「あだける」から来た「暴れ川」が由来かもしれません。暴れ川を意味する地名としては荒川が有名。「方言で「あたける」ということばの、石川県金沢での具体的な用例について」(レファレンス共同ベース)を参照すると、当地ではあだけるに転訛したかもしれませんが(それで分かり難くなったかもしれませんが)、いずれにせよ、「あたける=暴れる」は割に使われるようです。加賀の暴れ川としては、手取川がより有名なようですが(ですから分かり難かったかもしれませんが)、梯川も江戸時代から明治時代まで蛇行して流れ、洪水が頻発していたようです(第2章梯川流域等の概要 国土交通省北陸地方整備局)。

ですから安宅の拠点は小山に築くのが適切だと考えられますが、源平合戦の頃(勧進帳の時代)、南北朝時代の戦記史料に見える安宅城は、(現安宅住吉神社がある)二堂山あたりだったと考えられるようです(「小松市安宅城」 小松だよ!小松市の史跡・古道探訪!!)。

安宅の地名としては他に、徳島市と紀州(和歌山県)白浜町が知られるようです。徳島市は日本三大暴れ川のひとつ吉野川を擁し、白浜町安宅は蛇行する日置川河口付近に存在します。紀伊国牟婁郡安宅荘(白浜町)に興ったのが淡路水軍安宅氏(武家家伝)。安宅船は室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた(ゲーム等で馴染みの)軍船ですが、その由来は諸説あるものの、日本の船名としては、肥前松浦の松浦船、熊野灘の真熊野船のように建造地・使用地名が多いそう(ウィキペディア「安宅船」2018/12/02参照)。また、淡路水軍安宅氏説(最有力と思いますが)、「あたける」説、北陸の安宅説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武は全て同じなのかもしれません。阿武隈川は暴れ川であり、アタケクマ川が漢字の読み違いでアブクマ川になったかもしれません。クマ川の例:球磨川・熊川・久万川・隈川。

結局のところ、安宅は安宅川=暴れ川に由来し、当地の重要拠点が渡河前の河口の小山にあって、安宅駅も付近に存在したのではないかと思います。梯川の名前も渡河に関係した(下流の)名前ではないでしょうか。上流域では大杉谷川と呼ぶようです。漢字は当て字で、深い意味はないんでしょう(日本の古い文献の漢字に意味を求める人はあまりいないと思います)。冨樫氏は室町幕府の加賀の守護大名としても知られますが、古く加賀に根付いており、拠点は加賀(石川県)中部野々市の冨樫郷だったようです(富樫のふるさと ののいち地域事典 ※注:文献の記述から富樫表記は誤りで冨樫だと考えられるようです)。

古代道路は結果的に過大な公共事業で後に(源平合戦の頃までには)衰退しましたが(貨幣も律令も大体同じです)、地名や記録が残っていることは当時の地方の歴史を考える上で重要だと思います。

源義経の平泉に向かうルートは諸説あるようですが、安宅を通って不思議はありません。また、源(木曽)義仲及び北陸宮の挙兵との絡みでも北陸はこの頃登場し、加賀・越中境界の倶利伽羅峠は知られるところだと思います。

小松市の観光名所③加賀百万石と北国街道・北前船。

加賀藩は前田利家が開祖で百万石を有し、江戸時代最大の藩でした。支藩の大聖寺藩や隠居領を含めると、一族全体で120万石に達したとか。北国街道とは近江(滋賀県)―美濃(岐阜県)国境の関ヶ原から越後(新潟県)高田に向い分岐する参勤交代のルート(北国街道 松川遊覧船 富山観光遊覧船株式会社)。参勤交代では主に距離的に近い北回りルートを選択しましたが、当然日本経済の中心地である上方や御三家筆頭尾張藩を中心とした東海地方に向かう場合は北国街道を南下したでしょうし、領内を結ぶルートとしても小松市付近の道は重要だったはずです。参考:グーグル検索「北国街道 町並み 小松」及び「北国街道 加賀藩の参勤交代ルート : 三道楽ノート(個人ブログ)」

安宅の町づくりに関しては「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(161)」北前船の寄港地安宅のまちづくり(石川県小松市)(旬刊旅行新聞 2018年6月28日)参照。江戸時代の海運業(北前船)で栄えた安宅は北國銀行のルーツで文化遺産も多いようです(北前船で栄えた安宅の町と北國銀行のルーツ米谷半平家 金沢歴活)。北前船に関しては、江戸時代の海運と五街道(江戸時代の醤油文化)参照。明治時代北陸本線の開通まで安宅の海運は町を支えて文化を残したようです。北前船は意外に北海道や東北・北陸と大阪を結ぶだけでなく、途中の伊予(愛媛県)を含む瀬戸内海地域とも関連が深かったかもしれません(17. 江戸時代 伊予の産業 浦岡胃腸クリニック)。

>まず大阪で木綿と砂糖を積み込み、灘で酒、赤穂で塩を買いつけ、伊予で蝋や鬢付け、長州中の関(現在の防府)で米・紙・蝋、下関で繰綿を買って北上し、蝦夷にいたる諸地域で売りさばき、蝦夷では木綿の肥料となる大量のにしんを買いつけ、上方にいたる諸地域で売りさばきました。

小松市の観光名所④小松城(小松城天守台(まるごと・こまつ・旅ナビ))と前田利常・加賀百万石の文化。

一国一城令の廃城後に加賀藩3代藩主前田利常の隠居城として例外的に幕府から認められ、小松城は復活しました。利常の正室は第2代将軍秀忠の娘珠姫。次代の前田光高は正室との間に生まれた嫡男。その広さは本城である金沢城の倍近くもあったとか。梯川の水を引き入れ、巨大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋、木橋で連結した全国でも珍しい「浮き城」だったと言います。名城だったそうですが、廃藩置県後、城内の建造物は入札によって払い下げられ、土地開発の結果、遺構の保存状態は良くないとのこと。類稀な景観であったろう小松城の縄張に関しては、小松城(近江の城郭)参照。小松城浮島にちなんだ小松城浮城マッププロジェクトという地域活性化プロジェクトもあるようです。

前田利常は京の文化を導入・振興し、加賀ルネサンスと言われる一時代を築いたと言われます。九谷焼や加賀友禅、蒔絵、金箔といった伝統工芸や和菓子等、この時代に始まった物は多いようであり、当然小松市やその周辺にも伝統工芸品産業は残ります。

小松市の観光名所⑤小松製作所関連観光施設。

まず、遊泉寺銅山跡(環境王国こまつ)。安永元年(1772年)に開鉱した遊泉寺銅山を近代的に経営したのが、吉田茂の実兄竹内明太郎(高知県宿毛市出身)になります。国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字だとか。竹内明太郎は遊泉寺銅山閉山後に鉱山機械製造の小松鉄工所を経て小松製作所(建設機械・鉱山機械)を立ち上げたことが、世界のコマツ(建設機械で米キャタピラー社に次ぐ2位)に繋がっていきます。今、その貴重な遺産を後世に伝えようと跡地に広場や遊歩道が整備されています。

2011年にこまつの杜がオープン。世界最大級のダンプトラック「コマツ930E」が展示されているとのこと。

最後に、古代から現代まで小松市は栄えたのであって、その文化遺産を活かし、かつ新しい観光の創造をすることによって、益々小松市の観光は発展すると思います。

「来訪神:仮面・仮装の神々」(ユネスコ無形文化遺産登録)①(薩南諸島・甑島)

2018-12-02 16:57:52 | 日本地理観光
見出し画像の出典:海上保安庁 海洋情報部 海域火山データベース 薩摩硫黄島(2014/8/6 10:32 薩摩硫黄島 南東側 第十管区海上保安本部 撮影)

薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村):毎年旧暦の8月1日(八朔)から2日間、鹿児島県三島村熊野神社に奉納される硫黄島八朔太鼓踊りに登場する仮面神がメンドン(国指定重要無形民俗文化財)。


硫黄島 八朔太鼓踊り (鹿児島県指定無形民俗文化財)鹿児島県三島村より

メンはテゴ(竹篭)を利用してこしらえたものだそうですが、硫黄島稲村岳には竹が群生しているようです。インドの仮面は派手です(グーグル画像検索「インド仮面」)。仏教はインド由来です。奄美の仏教は浄土宗と真言宗(密教)。密教の影響で(著名な象神ガネーシャ=歓喜天をヒントに)あの耳?なのかもしれません。耳は蝸牛(うずまき管)を持ちます。渦巻きは付近の潮流を示すかもしれません。宗教で渦巻きのシンボルは時折使われます。まぁ頭の上に小さな耳?もありますが、蛾のようにも。

蓑は稲藁なんでしょう(稲の伝播はいずれやります)。

語源ですが、メンドンは「面どん」だと思います。ドンは西郷どんのどんに違いありません。かぶるのは踊りに出ない二才(にせ)(参照:硫黄島八朔太鼓踊り(鹿児島県指定無形民俗文化財)鹿児島県三島村)。二才組は35歳のものが「ニセガシタ」で、25歳から34歳までが「ニセ」、15歳から24歳までが「コニセ」。人口114人(2010年)の小さな島ですから、保存会が人を出しているのでしょう。



鹿児島県指宿市山川利永に伝わる正月の伝統行事メンドン(Youtube 指宿市考古博物館)でも仮面は登場します。

以下、八朔及び硫黄島の歴史等詳述しますが、筆者が調べた範囲では、薩摩硫黄島のメンドンにおいても、琉球以南の島々との直接的な交流はあまり見えず、日本・九州・薩摩の系譜と中国との交易・交流の影響が強いように思えます。日本の祭りの少し変わった(古態を残す)一形態で、「南洋的」要素はその植生も関係しているように思えます。要は元々の文化が北からの影響を受けたと見るべきかと思います(仏教の影響は北伝仏教が北回りで来たということであり、中国の影響も日本史に連動して北からだということです)。日本史に最近手をつけて記事を書き始めたところですが、現在の通説より南からの直接的な影響は薄く、南西諸島は日本の系譜だということが確かになってきていると筆者は考えています。

八朔とは八月朔日の略。旧暦の8月1日のこと。朔とは新月。

>この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。(西角井正慶編『年中行事事典』p.638 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 東京堂出版 ウィキペディア「八朔」2018/12/02より孫引き)

元々8月1日ぐらいにあった日本の風習を室町幕府の公式行事として採用。十五世紀前半以降の史料に八朔という用語が頻出。十五世紀後半になると幕府への贈り物を司る御憑(おたのも)総奉行をを八朔奉行と称する史料が散見できるようになったようです(八朔の歴史に関して「八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―」が詳しい。ここでは①~⑥の内にリンク)(足利幕府の職制に関して「職名 東国武将興亡録」で確認)。徳川家康が天正18年8月1日に江戸城に入城したことから、江戸幕府において祝日になり諸大名から太刀馬代献上があったようです(幕府の年中行事 山本博文 イミダス)。関連して奉納相撲も始まったとか(府中の八朔相撲祭 - 西郊民俗談話会)。メンドンが登場する硫黄島八朔太鼓踊りとはこの全国各地に見られる日本の風習のひとつだと言えます。

次いで硫黄島の歴史ですが、鹿児島県の硫黄島(東京都小笠原諸島硫黄島も有名)は、薩摩硫黄島とも言われるようです。ただ、簡単に検索した範囲では薩摩なのか大隅なのかは良く分かりません。明らかに大隅に近い種子島や屋久島の西にあって薩摩に近いことは間違いありませんが、大隅諸島に含まれる説もあるようです。平家物語の鬼界ヶ島だと伝えられる島ですが、他に奄美群島喜界島説も有力とされるようです。平家物語における鬼界ヶ島の記述は以下の通り。

>都の彼方、はるばる荒波を越えた向こうにあるので、生半には船も通わず、島には人もほとんどいなかった~時折見かける人は、色が黒くて牛のようである~食べ物もないので、狩猟ばかりしている~賤しい者たちは田畑を耕さないので穀物もなく、桑を採らないので絹綿の類もなかった~島の内には高い山がある~常に火が燃え、硫黄というものが充ち満ちている~ゆえに硫黄島とも呼ばれている(平家物語巻第二一〇(二六)新大納言死去 日本古典文学摘集)

平家物語は十三世紀前半(鎌倉時代)の成立と言われる日本の著名な軍紀物です。鬼界ヶ島は硫黄島でもありますから、平家物語における鬼界ヶ島は硫黄島のことだと考えて良いのだと思います。島流しの島なので誇張もあったかもしれませんが、貧しい島ではあったのでしょう。硫黄島港の色は凄く(グーグル画像検索「硫黄島港」)、鬼界ヶ島は黄海ヶ島でもあって硫黄島の海の土の色でもあるという説もあるようです(堤防が無かった頃がどうかは分かりません)。日本の果てにある鬼界でもあって、絶対的に鬼界ヶ島=薩摩硫黄島とは限らないようですが。鬼界カルデラは当地にあって、三島村・鬼界カルデラジオパーク(日本ジオパーク)に認定されています。

>二人は同じ心で`もしかすると熊野に似たる場所があるかもしれない`と島内を探し回ると、美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所があった(平家物語巻第二一四(三〇)康頼祝 日本古典文学摘集)

熊野の名前を唐突に感じるかもしれませんが、熊野信仰が盛んになったのは(鎌倉時代に先立ち平家が活躍した)院政期のようです(熊野御幸 新宮市)。雲がかかるほどの高峰とは恐らく硫黄岳(703.7m)(グーグル画像検索「硫黄島 雲 薩摩」)。喜界島には険しい山がありません(喜界町:「日本で最も美しい村」連合)。もう一つの鬼界ヶ島の有力候補地である喜界島ですが、筆者は既に示唆した通り平家物語の鬼界ヶ島ではないと考えるものの、日本紀略(11世紀後半から12世紀頃成立か)によると、大宰府が貴駕島に対して、暴れ回っている南蛮人(奄美島民か)を捕えるように命じているそうで、こちらはその規模から城久遺跡群(喜界島ナビ)を抱える奄美の喜界島だと考えられます。

奄美は日本書記にも海見嶋・阿麻弥人として記述があり、古くから交流は存在していたと考えられます。当然、その間の薩南諸島も日本との関係はあったでしょう。奄美にも稲作儀礼があるのが気になるところですが(鹿児島県奄美大島の歴史と文化)、その伝播の時期等さておき、古来、日本と南西諸島の交流はありましたが(南西諸島において中国の史料が日本の史料より詳しいということはないと思います)、どうも日宋貿易に関連して平安時代院政期あたりに関係が深まったらしく、以下更に詳しく見ていきますが、その事実は平家物語でも見て取れると言えると考えます。

日宋貿易は北宋期においては私的に行われました。博多(博多における日宋貿易の活況に関しては中世の博多商人(西日本銀行)参照。京より発掘される物資が多く、博多を基点に全国に物資が運搬されていたようです。拠点は鴻臚館(西日本銀行)。鴻臚館は北斉(550年 - 577年)の以来の鴻臚寺に由来。鴻臚寺は秦漢から宋元の頃までの九つの部局のひとつ。元々寺は役所を意味したようです。中国の南北朝時代に仏教は発展。九卿の官庁が明確に九寺と呼ばれるようになったのが北斉の頃だということです。唐の頃に九寺の権限はほとんど有名無実化。宋の頃には形骸化していましたが、唐の制度が理想化されていたため、名前が残っていたということのようです。以上九寺に関してウィキペディア「九寺」2018/12/02参照。)や越前敦賀(若狭・越前国と日宋貿易の衰退 - 『福井県史』通史編1 原始・古代)(平氏政権と日宋貿易の関連は深く、寺社勢力を排して瀬戸内航路を掌握したようです(その象徴が厳島神社であり福原遷都)。恐らく北宋期において越前敦賀が京に近い港として使われることもあったのは、瀬戸内を当時の政権があまり掌握できてなかったからかもしれません。藤原純友の乱は良く知られるところです。あるいは博多・中国の商人が「海賊」がいたであろう瀬戸内を嫌った可能性もあります)に中国商人が訪れ居住したと言います(宋の時代にはアラブ・ペルシア商人が中国に居住していました。念のため)。宋銭の流入は日本経済史においてよく知られるところだと思います(日本の貨幣の嚆矢は皇朝銭ですが、流通し始めたのは11世紀末頃博多における商人の中国銭の利用からのようです(中世の銭貨(コインの散歩道)参照)。

さて、日宋貿易と薩南諸島との関係ですが、具体的には硫黄島の硫黄が重要だったのではないかと考えられます(硫黄からみた日本史と世界史(pdf) 神戸女子大学准教授山内晋次 帝国書院)。火薬は唐末9世紀の中国で発明されたと推定され、宋代に大きく発展したようです。中国の火山は東北地方とチベットで唐の領域には含まれず、硫黄の産地が良く分からないのですが、あるいは吐蕃(7世紀初~9世紀中のチベット最初の統一王朝)が関係しているかもしれません。当時、チベットはシルクロードの一大勢力で、唐に公主の嫁入りを要求したほどだったそうです(参考:序章吐蕃王国のチベット統一 人民中国聖地チベットポタラ宮と天空の至宝)。発明の経緯はさておき、原料に困った中国は日本から輸入したようで、それが硫黄島産の硫黄だったのではないでしょうか。日宋貿易は10世紀~13世紀に博多を中心に行われました。遣唐使船は中国系の船で新羅と仲が悪かったため、難破覚悟で東シナ海ルートを使った歴史がありますが、結局のところ、半島を経由しないルートも有りえたのでしょう。硫黄島が硫黄の産地なら博多回りは面倒だということにもなります。

話は少し世界史に逸れますが、火薬の発見と伝播に関して、参考記事「世界を変えた火薬の歴史クライヴ・ポンティング著国家の盛衰を左右した兵器」(日経新聞2013/7/3)・・・不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見(発明)。モンゴルの軍事遠征で西方に伝播(イスラム世界では中国の矢)。

日宋貿易に絡んであまり一般には知られない歴史として薩摩国阿多郡を本拠とする阿多(平)忠景が南九州を制した歴史もあったようです(十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について 歴史の呼び声)。

>保元物語にある九州の惣追捕史を自称し源為義に追われて九州に下ってきた源為朝に娘を嫁がせてその後ろ盾となった「アワノ平四郎忠景」と同一人物と考えられ、琉球まで影響力を及ぼしていたと言われていることもあり、後の為朝征琉伝説にも影響があったという。

>彼が本拠地とした薩摩国阿多郡(現鹿児島県南さつま市金峰町)は当時、中国商人も多く逗留する交易の中心・・・阿多郡で中国との交易があった根拠としては「中世前期薩摩国阿多郡の歴史的位置について(日隈正守 鹿児島大学歴史リポジトリ)参照。

いずれにせよ、このあたりの時期に薩南半島との交渉が強化され、鎌倉時代の奄美における千竈氏に繋がり、何らかの形で琉球にも伝播したのだと考えられます(グスク時代は10世紀開始説もありますが、12世紀開始説が有力のように思えます。ウィキペディア「グスク時代」2018/11/30参照)。鎌倉時代の得宗家北条氏(伊豆の豪族で源頼朝を助け、後に鎌倉幕府を支配しました)も平氏だとされ、鎌倉時代にも中国との貿易は行われました。奄美の千竈氏・陸奥出羽北部の安東氏(蝦夷管領)は得宗家の被官で交易等に関心が深かったことが伺われます。平氏政権と日宋貿易の関連は深く、寺社勢力を排して瀬戸内航路を掌握したことについては既に触れました。

さて、硫黄の歴史ですが、早くも8世紀の続日本紀に信濃国からの朝廷へ硫黄の献上が記されているようです。日本は火山国ですから、硫黄の産出があるのは当然ですが、気になるのはその利用法です(ただの石ころを献上するはずがありません)。筆者が怪しいと推定するのがベンガラです。亀ヶ岡文化を中心としたベンガラ生産の復元(機関誌『日本考古学』第20号 児玉大成 Cinii)によると、一部は後期旧石器時代より確立された技術として生産され、縄文時代にも生産があったようです。利用法は赤色顔料。ベンガラ塗装(マルホン株式会社)によると、「飛鳥・白鳳時代の寺院や宮殿の柱に使用され、奈良・薬師寺の西塔の円柱もベンガラで塗装されています」とのこと。インドベンガル地方に由来するというのが通説のようですが、これは疑問だと思います。元々硫黄は日本古来より産出し、旧石器時代から顔料として利用されていたからです。恐らく紅ガラなのでしょう。いずれにせよ、古来日本で硫黄の利用はあって、硫黄島も日本は知っていましたから、中国の求めに応じて平安時代院政期あたりに輸出することになり、硫黄島が存在する薩南諸島と本土の結びつきが強まったということだと思います。

次に悪石島ボゼに移る前に、三島村のお隣十島村(吐噶喇列島(とかられっとう))の名字と日本史を関連付けておきます。

ウィキペディア「黒島(鹿児島県)」(2018/11/309:00)に古くは在地の日高氏が支配と記述されていましたが、出典は確認できませんでした。検索すると庄屋が日高氏だそうで、トカラ列島にも日高姓は多いようです(トカラ列島の平家落人集落(南日本情報処理センター))。「「日高」名字の由来、語源、分布-日本姓氏語源辞典(人名力・別館)」によると、日高の地名・名字は全国各地にありますが、発祥は和歌山県日高郡だとされています(出典は確認できず)。古代には飯高郡。飯高氏は「飯高氏」(日本の苗字7000傑姓氏類別大観)によると>孝昭天皇皇子天足彦押人命の裔、伊勢国飯高郡を本拠として天平14年(742)飯高笠目などに飯高君を賜姓。神護景雲3年(769)家継など三人に飯高宿禰を賜姓>他に異流の桓武平氏千葉氏族の飯高氏・・・とあります。恐らく古い時代の飯高が日高に転じたのだと思いますが、日向(ヒムカ)と関係するかもしれません。いずれにせよ、日高は古来の典型的な日本の名字のひとつのようで、九州各地にも見られるようです。日本は日の本の国で、皇祖神は天照大神です。伊勢・熊野(紀州)が関連するらしいのが気になりますね。つまり、やはり日本本土の影響は強く、それ以前の基層文化があるとすれば(筆者は全て旧石器時代以来の南方日本文化であり、当地で南からの流入は一般的なイメージと異なり、ほとんどないと思いますが)、どの程度残っているかということになるんだろうと思います。

悪石島のボゼですが、「グーグルブックス「旧正月 時期 悪石」で出てきた「奄美、トカラの伝統文化:祭りとノロ、生活」下野敏見 2005」によると、ボゼは元はヒチゲー(日違い)という旧正月の物忌み行事に表れる歳神(トシガミ)で厳重な物忌みを徹底させる悪神だったのだそうです(後で触れますが、甑島のトシドンも歳神)。ちなみにヒチゲーで利用される芭蕉は沖縄でも芭蕉布を織り衣料として利用されているとか(芭蕉布 100年続く沖縄伝統の高級織物 たびらい沖縄)。ボゼは他にトカラ列島十島村の中之島にも現れたと言いますが、今は悪石島だけに残るようです。

ボゼではビロウの葉の腰蓑が使われるそうですが、古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で北限は福岡県宗像市(ウィキペディア「ビロウ」2018/11/30参照)。手首や足にあてるシュロですが、富士氏や米津氏の家紋でもあったようです。いずれも日本本土でも知られない植物ではなく、意外に関連の深い植物だと考えられます。つまりやはり南島との交流の直接的根拠と言えるものではなく、手近な材料を使ったと見ることは出来、日本でビロウやシュロの意味が忘れられたため、日本に見えなくなっているとも考えられます。ボゼの語源は日本語には見当たらないと思いますが、個人的には(次段でその辺に触れますが)、スペイン語かポルトガル語で一般的な人名のホセではないかとも思います。

ボゼ(グーグル画像検索「ボゼ」)の仮面ですが、窪んだ目と高い鼻は西洋人のようにも見え、茶と黒の縞柄はハブに似ます。赤い目と耳?は兎のようにも。日本において兎は神の使いで因幡の白兎は知られるところですが、宮崎県鵜戸神宮でも神使のようです。ただし、赤い目の兎(日本白色種)は明治以来の品種だそうです。後、耳?はソテツのようにも見えますね。結局のところ、一般に指摘されるニューギニア等との関連は見えず、大航海時代の西洋人の渡来(近隣の大隅諸島種子島の鉄砲伝来は知られるところです)を含めて、日本本土の系譜に明らかに外れるものは存在せず、南洋的なのはその植物相・動物相だということになるのではないでしょうか。


悪石島ボゼ祭り(全国観光情報サイト 全国観るなび 十島村 日本観光振興協会)

>男衆による盆踊りの後、太鼓の合図で現れる仮面神ボゼは、人々を新たな生の世界へ蘇らせる役目を負っています。

最後にトシドンは年どんで薩摩の年神といった意味なのでしょう。一足早く2009年にユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されています(甑島のトシドン 文化遺産データベース >トシドンは、長い鼻に大きな口の奇怪な面を被り、藁蓑などを纏って現れ、大声で子供を脅かしたり、よい子になるよう諭したりし、最後に年餅と呼ばれる大きな餅を子供に与えて去って行く)。大晦日(12月31日)の夜に下甑島に訪れる来訪神行事です。

年神のトシは和語で稲や米を意味することもあるようですが、正月に家々に迎えて祭る神を年神・歳神といい、ここではやはり暦の年を意味するのでしょう。門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味があるのだそうです。鏡餅が年神への供え物。正月に来訪する年神様の姿は見えませんが、具現化した年神がトシドンなのだと思います。ドンはメンドンでも指摘しましたが、薩摩弁のどんで西郷どんのどんと同じだと思います。ちなみに近隣のトイノカンサマ(屋久島、宮之浦)、トシトイドン(種子島、国上)のトイは訪いだと思います(カンサマは神様)(トイノカンサマ、トシトイドンの出典は下野敏見『南九州の伝統文化』1、南方新社〈鹿児島県の伝統文化シリーズ〉、2005年、299頁。ウィキペディア「トシドン」2018/12/02より孫引き)。面での仮装は具現化させるのに必須アイテムだと考えられます。シュロやソテツが南日本中心に隠れた日本文化として広くあるということは既に指摘しました。大晦日のミソカは元々30日を意味したようです(ミソジ等でお馴染み)。旧暦の最後の日をミソカと言い、年の最後がオオミソカだったようですが、太陰暦は安定しませんので、29日のことを指すこともあったようです。大晦日は伝統的な日本の祝祭、年越し行事です。


甑島のトシドン(こころ 薩摩川内観光物産ガイド)

>下甑の各地では、トシドンは天空や高い山や岩の上から、首のない馬に乗ってくると言われています。

首無し馬の伝説は日本各地に残るようです。例えば、第十章 第一節:三 愛媛の伝説(首なし馬 クビナシウマ 怪異・妖怪伝承データベース International Research Center 秋田忠俊)参照。

>奥の城城主河野通存は、息子の通賢が東野に住む娘の元へ通うことを快く思わず、東野で馬の首を刎ね、更に通賢をも殺害した。以来、毎夜首なし馬が現れるようになったので、村人は祠を建てて祀った。

他に首なし馬と言いますと、首なし騎士で知られるデュラハンは元はアイルランドの伝説ですが、コシュタ・バワー(Cóiste-bodhar)という首無し馬が引く馬車に乗っているとも言われます(『幻想動物事典』1997年、216頁。ウィキペディア「デュラハン」2012/12/02より孫引き)。

個人的には西洋からの伝播というよりは、武士の首切りの習俗があった日本において、馬の首を切ることは割合あって(馬が暴れると危険で止めを刺しやすかったのかもしれません)、首無しの落ち武者の話が伝わるのと同様に、首無し馬の話も日本古来各地にあって、その関連が重要ではないかと思いますが、天駆ける馬車と言えば(トシドンが乗るのは馬であって馬車ではないようですが)、ギリシア神話・ヨーロッパの説話・インドのラーマーヤナが代表的なようです。いずれにせよ、トシドンが首のない馬に乗ってやってくるとされるのは何やら示唆的で、日本中世あたりにその起源があるのかもしれません。

アジアには広く太陰暦の旧正月行事が残ります(インバウンド政策において、旧暦も使用するアジア圏から春節に旅行があることは意識されるべきです)。先に触れた薩摩硫黄島のメンドン(八朔)と悪石島のボゼ(盆)は旧暦行事のようです。メンドンも昔は旧暦の大晦日に行われていたはずです。日本では明治以降旧暦は廃れ、太陽暦で行事をすることが多くなっているようです。沖縄県都市部(那覇市)では特別に旧暦行事をしなくなっているようですが、糸満や名護・離島では旧暦の影響はまだ色濃いようです。太陰暦は月の満ち欠けを元にした暦ですから、漁師の方にとってはシックリくるところはあるのだと思います。太陽暦にも閏年はありますが、太陰暦はズレが大きく、何度も暦が改訂されてきた歴史もあるようです。皇祖神は太陽神でもありますし、そういった事情で日本は太陽暦を採用しやすかったのでしょう。日本の人口の大部分を占めた農家にとっては、月の満ち欠けより正確な暦だったと思えます。

日本においては海の向こうから優れた文物が来るというプラスのイメージが伝統的にあったんだろうと思います(日本各地に残る徐福伝説も一種の海からの来訪神伝説なのかもしれません)。今回認定された来訪神行事は離島や浜辺・半島で行われているものが多いようです。日本において古来海は異界で常世の国という理想郷があったとされます。沖縄ではニライカナイ。南方の浄土(補陀落ふだらく)に渡海するのが補陀落渡海です。山という異界からの使者は山伏の姿をした天狗ですね(鬼も山と関係は深いようですが、鬼ヶ島もありますし、=山ではないかもしれません)。トシドンは天空や高い山や岩の上から来るのだそうですから、一種の天狗で高い鼻なのかもしれませんね。天狗は中国においては流星だったようですが、日本では定着しませんでした。中世以降に妖怪としての天狗が成立したようです。特徴は高慢で鼻が高く・・・ゲフンゲフン。

甑島の初見は平安時代初期の続日本紀(甑島島名の由来 甑島観光協会)。甑隼人もいたようですが、その人口・面積の小ささから現代の視点ではやや違和感ありますね。恐らく遣唐使の東シナ海横断ルートと関係しており、その時は特に活躍していたんだろうと思います。実際に続日本紀に甑島に遣唐使船が停泊したという記事があるようです。甑は中国発祥の米を蒸すための土器で弥生時代に伝わったとも言います。甑に似た巨岩甑島大明神から名前を採ったそうですが、五色島説もあるようです。五色とは五行思想の五色で五色浜の地名は伊予(愛媛県)にもあって、地名でわりに使われる印象はあります。あるいは古式にかけたかどうか。

以上、「来訪神:仮面・仮装の神々」(ユネスコ無形文化遺産登録)10件の内、薩南諸島・甑島に関連する3件を記事に纏めました。残りは機会があれば、いずれやるかもしれません。

日本自動車博物館

2018-11-28 06:55:03 | 日本地理観光
日本自動車博物館とは、国内最大級の石川県小松市にある自動車をテーマとした博物館。1978年(昭和53年)、石黒産業(富山県小矢部市・セメント販売業)社長の前田彰三(故人)が個人収集した自動車を元に開設。1995年(平成7年)に加賀温泉郷に程近い(日本自動車博物館 KAGA 旅・まちネット)石川県小松市に移設。加賀(石川県)と言いますと、加賀百万石の前田氏が想起されます。あるいは意識されたのではないでしょうか。前田彰三氏は自動車博物館の功績で2004年に日本自動車殿堂受賞

世界の自動車博物館と言えば、アメリカデトロイト、ディアボーンのヘンリー・フォード博物館(トリップアドバイザー)やドイツシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館(トリップアドバイザー)だったりするようです(ドイツ4大自動車博物館(トリップアドバイザー)のひとつ。他にポルシェ博物館(シュトゥットガルト)・BMW博物館(ミュンヘン)・アウディ ミュージアム(インゴルシュタット))。他にイタリアフィアット本社があるトリノ自動車博物館(トリップアドバイザー)やフランス国立自動車博物館(JTB)も有名なようです。イギリスの自動車博物館はyahooニュースの辻野ヒロシ氏(モータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト)の記事参照(愛知県長久手市のトヨタ博物館や栃木県ツインリンクもてぎのホンダコレクションホールのアクセス面での難が指摘されてますが、日本のインバウンド政策は端緒に就いたばかりで、レンタカーがあまり意識されていないのかもしれません(レンタカーにおけるインバウンド対策(訪日コム)参照)。日本の自動車コレクションを世界の自動車マニアがより楽しめるようになれば(日本自動車博物館 当館について>「日本自動車博物館でしか見ることの出来ない貴重な車」も多数展示されている)、ブランド力もあがるでしょうし、地域の観光政策にも寄与すると思います)。

ちなみに変わったところで、日本自動車博物館には世界のトイレもあるようです(トリップアドバイザー)。これは石黒産業が住宅設備機器を取り扱っていることと関係しているのでしょう(会社概要)。トイレと言えばTOTO。TOTOと言えば北九州。北九州と言えばセメント。セメントとトイレに関係があるかは良く分かりません。