考えるための道具箱

Thinking tool box

◎関係についての観念メモ。

2008-01-31 01:15:39 | ◎書
ほんとは褒めたいんだけれど、あんまり手放しで賛同してあほうじゃねーかと思われるのも厭なので、ヘッジとして枕詞でいいがかりのような苦言を呈してみる。もしくは、ほんとは糞味噌に貶したいんだけれど、人格を疑われるのも厭なので、枕詞として慇懃無礼に栄誉を称えてみたりする。こういうコミュニケーションは歪んではいるとしても、対面の対話で表情の変化や身振り手振りをまじえて行うと、そのニュアンスや強調の具合によっては、かなり有効な潤滑油として働くこともある。うまくできれば、ものごとをより効果的に好感度高く、ソフトランディングで伝えるためのテクニックとしてかなり意味がある(もっとも、この場合の伝えたいことは、前者は「くそっ屈服。認めたくないけれど良いものとして認めざるをえない(と感じている)」で、後者は「長年積み重ねてきた、わたくしのすぐれた評価眼によると重大な瑕疵がある。(と感じている)」といったようなことなので、あまりおすすめできたものではないけれど)。

しかし、これを書き言葉でやられると、とたんに気分が悪くなる。もっとストレートに言えよ、と。

ええんやったらええで、手放しで褒める。あほうと思われたくなかったら違う見方を探してみて褒める。あかんかったらあかんで、いったん持ち上げるなんてことはせず、あかん理由を理解が得られやすいロジックとていねいさで指摘する。へんな言い訳や枕詞を考える労力を、こちらのほうに費やしたいもんだ。

つまりは、ものごとの中心を自他のどちらにおいているのか、つまり他者の心情をどこまで慮っているのか[※]、ということで、言ってみれば(良い意味での)ポジティブ教の話かもしれない。だから、先に述べたようなビヘイビアをとってしまうキャラクターは、「ポジティブ/ネガティブ」×「ふるまい/実のところ」=「4つの組み合わせ」のいずれかの場合にあてはまるんじゃないかと思い、あれこれと考えてみたけれど、うまくいかない。たとえば、ふるまいはポジティブだけれど、じつのこところ根はネガティブといった人はどうなのか。裏表なく根っからのオプティミストはどうなのか、とか。ほんの少し話しただけでいきなり人にラベルを貼ってしまうような人もいるけれど、そもそも人の類型なんてそんな簡単な話ではないのだと思う。
ただし、「わたしポジティブだからネガティブなこともポジティブに言うんですよ~」という人が、自分のキャラクターに無自覚に誤認があるようなケースは困りものだ。そんな場合は、往々にして「ネガティブだからポジティブなこともネガティブに言っている」ことが多い。もちろん帰納の精度は低い話だけれど。なら書くなっちゅうねん。

ところで[※]については、他人を慮っているようにみせかけ、結局は自分のためにやっているという点では、曲げて言おうとストレートに言おうと、そんなには違いはない。むしろ、より入念に「自分のため」を迷彩しているストレート派のほうがたちが悪く、婉曲派のほうが脇が甘い、といえるかもしれない。けっしてドラマ的シナリオ発想ではなく、人は掛値なしに、いっさいの無我で他者に献身できるのか、とったことを、学問的に分解した理論なんてあるのだろうか。うん、この路線で少し話が広がりそうだ。

ここが昨日のエントリーにつながる。たとえば、「全ては繋がっている」という感覚。もしくは、ジグソーパズルにおいて、1ピースがあるからまわりが決まるというのではなく、まわりが決まれば必然的に1ピースが特定できるのだという考え方。『生物と無生物のあいだ』で示されている考えにのっとれば、まわりがあれば自己は再生・複製できる、ということになる。それは、単純にまわりに合わせたり、なびくのではなく、なんども再生と複製をくりかえしながら座りのよい形に、つまり、他者が気持ちいい、そして自分も気持ちいい形にまわりと自己を微調整しながら調和させていくことなのだろう。冒頭の話から思いもよらないところに着地したけれど、まあそういうことだ。もう少しあれこれ考えてみることにする。

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