考えるための道具箱

Thinking tool box

マーケティング日記(2)キタ再開発編

2004-11-29 23:21:55 | ◎業
またぞろ「ぶらり大阪」日記をやってしまいました。今回は「キタ」とよばれる地域ですね。考えてみれば、大阪は極論すれば「キタ」と「ミナミ」だけなんですが、東京は、山手線の主要駅に、キタとミナミがあるみたいなもんだから、経済にも差が出るわけですよね。

◎まずは、梅田の阪急百貨店です。全国区で考えると「阪急」といわれてもピンとこないかもしれないけれど、大阪で百貨店といえば、おおむね「阪急」です。梅田の本店を中心とし、おもに、大阪の北方面に郊外店舗をかまえ、いわゆる大阪の山手需要を引き受けているわけですが、このたびは、堺市北花田(※1)に初めてのミナミ方面への出店もおこなったので、打って出る戦略のスタートをきった、といえるかもしれません。打って出る戦略のメインイベントは、梅田本店の建て替え。これからの10年以内に予定されており、売り場が6万平方メートルから8万平方メートルに広がる、とのこと(阪急電鉄と共同で)。百貨店らしい伝統的な建物が変わってしまうのは残念ですが、以下ご紹介するような、キタの再開発へのカウンターとしては、まあ正しい戦略といえるでしょう。

ちなみに、阪急へは「スーツ・コート2着で29,000円バーゲン」を目当てにいったのですが、この恒例のイベントはあいかわらず人気のようです。期間中、いったいどれくらい売り上がるのでしょうかねえ。まあ、消耗品が適価で買えるのは、とても助かりますが。

◎先週までは、「いまキタといえばハービス・エントか、ヒルトンプラザか」、というところだったのですが、この辺りは、オイスター・バー「MAIMON UMEDA」(※2)くらいしか興味がないので(あ、ソニープラザは見ておく必要がありましたね)立ち寄らず、まさに日曜日にリニューアルオープンしたばかりの、ヨドバシ横の「コムサストア梅田店」を見てきました。
服は「機能部品」というユニクロ思想に大いに賛同する私としては、これまでの店舗・品揃えとどう違うのかということについての、正確な言葉が発見できませんので、解説は控えさせいただきますが、BGMもこれまでどおりビートルズだったので、顕著に変わった、という印象を持つことはできませんでした。なんでも、今回の目玉は7階の「SWEETS MUSEUM」らしいのでファッション部分は、そういことかもしれません。
ちなみに「SWEETS MUSEUM」では、独創的な「和のスイーツ」「世界のスイーツ」が23店ということなので、短期的には、集客力があるかもしれません。実際に、たいへん賑わっておりましたが、わたしは、ひときわ賑わっていない饅頭屋で、でもなぜ賑わっていないのか理解できないほどはおいしい酒饅頭をかって帰りました(喜八洲総本舗の次くらいにはおいしい)。

◎で、そのあとは、そそくさと阪急3番街に向かったわけですが、ひとつだけ気になっていたことがあったので、軽くチェックしました。それは「茶屋町再開発」。ロフトと阪急電車高架あたりのあいだの地域に、商業ビルを建てるという計画で、じつは一部(西棟)は今年の10月に完成、続いて残り(東棟)が来秋には完成すると言われていました。ところが、いつになっても噂もでてこないので、気にはなっていたわけです。で、現場をチェックしたところ、いちおう囲われて、なにか工事をしているようですが、正確なところはよくわかりませんでした。WEBサイトも、こんなのしか発見できないので、具体的な動きは、当面先ということでしょうか。

◎じつは、キタ地区は、これからもいくつかの開発が予定されており、阪急百貨店の長期的な店舗戦略も、こういったことを前提していると思われます。その中心は、JR大阪駅の北側、貨物駅跡地の「北ヤード」と呼ばれている部分です。これについては都市開発も決定されていないようなので、時間はかかりそうですが、ドームなどを利用し、JR大阪駅を大改造しつつ(11年竣工)、北ヤード方面に三越を核テナントとし、シネコンやスポーツクラブも入居する新北ビル(11年開業)などが予定されています。
また、先のコムサストアのあるヨドバシカメラも、北側に第2期として、35階建てのオフィス棟を計画しているようです(遅れ気味らしい)。

◎このほか、サンケイビルの建て替えなどもあり、2010年を越えた辺りから、大きく変わったキタのお目見えになります。これらの一連の開発によって、ずっと問題視されてきた「駅前第1~4ビルは大丈夫か」といった問題や「堂山(東通り)や、曽根崎(お初天神)あたりに明日はあるのか」といった心配はあるにはあるのですが、まあ関西の発展のためにも、大きく期待したいところです。真底ダメな関西経済や財政のおかげで、これらのプロジェクトが立ち消えにならないことを願うばかりです。

◎なお今回のエントリー内の将来予測の部分については、『週刊 東洋経済 11/13号』を引用しています。同誌記事中の、JR西日本・南谷代表取締役会長へのインタビューによると「大阪駅の次は新大阪に手をつけないといけない」ということですが、これは「JR東海」とのからみもあり難題のようです。難題難題と言われ続けて、かれこれ20年くらいたつと思うのですが、いつのまにか「古大阪」になってしまいましたねえ。ほんとうになんとかならないのだろうか。


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(※1)北花田は、もう10年以上も前から、再開発が叫ばれていましたが、ようやく動き出したいう感じでしょうか(わたしも、この7~8年は足を向けていなかったので、現状がまったくイメージできません)。阪急は、自主売場を含めた、いくつかのトライアルをこの北花田店でおこない、郊外店舗戦略の試金石にするようです。確か。
(※2)「Oyster Bar&Charcoal Grill」らしいです。私は、Charcoal Grillにも弱いので、できるだけ牡蠣が旬のうちにいってみます。

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「書原」のカオスと、発見した本。

2004-11-27 18:04:17 | ◎読
虎ノ門あたりの書店といえば、おおむね虎ノ門書房だろうか。もしくは、城山ヒルズ・トラストタワーのブックファースト?前者は、外堀通りの店舗は、さほど大きくないにもかかわらず岩波書店の新刊書などもひとおり揃っているし、桜田通りの店舗はコンビニなみの狭小敷地に、ビジネスパーソンであれば納得いく品揃えを実現している。双方とも規模に応じた本を揃えていて好感がもてる。もし、新刊を確実に抑えたいのであればブックファーストが手堅いだろう。

そして、もう一店、忘れてはならない書店が「書原」だ。 じつのところ、ここを知ったのはごく最近、今年に入ってからで、クライアントとの打ち合せの合間の時間つぶしで界隈を徘徊しているときに偶然知ることができた。

その間口からは想像できないほどの大量の書籍が、けっしてユニバーサルデザインとはいえないレイアウトに深く混沌と配架されており、最初に足を踏み入れたときには、確かに目がクラクラした。床に本が散らばっているわけではないのだが、なんだか本を踏んでしまいそうな錯覚に襲われもした。住所としては霞ヶ関に位置するため、官行物や、政治・経済の専門書が充実しているのだが、一般書についても、かなりの目利きの意図が棚割りに現れている。なにより驚くのは、入り口、レジ前に哲学思想書の新刊コーナーが位置していることで、これは急いでるときなどはたいへん役に立つ。

奥に足を進めると、どうやら一般的な書店とは少し発想が異なっていることがまざまざと分かってくる。このことが顕著にあらわれているのが、新書・文庫のコーナーだろう。そもそも、岩波文庫、岩波現代、ちくま文庫、ちくま文芸、平凡社ライブラリーなどが相当数在庫されており、背の高い棚にしっかりカテゴライズされている。書店の規模を考えるとこれはこれで稀有なのだが、しかし、注目すべきは平台で、一般の書店にみられるように、新刊一覧やベストセラーの大量平積みになっていなし、それどころか、ちくま新書の棚の直下が、ちくま新書の注目書になっているというわけでもない。
平台には、文庫と新書が、出版社・テーマ・新旧入り混じり、あたかも出鱈目に、無造作に投げ置かれているようにみえる。しかし、もちろん出鱈目というわけではなく、よくよく見ると並んでいる隣り同志は、ほぼ同一のテーマであることが多いし、その周辺は、ゆるやかな関係性が演出されており、この連続性のなかに各出版社がなんらかの理由でプッシュをかけているような文庫・新書が配置されている。具体的な書名を覚えていないので恐縮だが、たとえば、ちくま新書の『フーコー入門』の隣りに、岩波現代文庫の『自己のテクノロジー』や洋泉社新書の『はじめて読むフーコー』があり、よくよく見れば平凡社ライブラリーの『構造主義とは何か』が少し離れたところにある。これを介して、『はじめての構造主義』『寝ながら学べる構造主義』や『表象の帝国』に緩やかにつながっている、といったようなことになる(ちょっと明示的すぎる例ですね)。

心ある大規模書店であれば、単行本においてこの手のことは実践されているし、たとえば、再建中の青山ブックセンター本店の思想書コーナーは、この手のことを意識しているだろう。しかし、せいぜい著者別であり、カテゴリーの境界線はかなりくっきりしている。書原の場合は、「関係なさそうで関係ある、関係ありそうで関係ない」書籍の連続であり、こうして繋がり続けることが、ボーダーが感じられないような錯覚を生んでいる。新書・文庫・出版社の種別なく、それぞれは少しづつ、総体として大量に、まるでパズルのように、縦軸横軸のラベルを持ちながら入り乱れ並んでいることが、そう思わせるのだろう。

縦軸横軸。そう、これはまるでくもの巣、つまりW.W.WEBの世界を彷彿とさせる。サーチエンジンへの複合的な検索語の入力を起点として、ある作家の一冊の本への興味が全体テーマに拡がり、そのテーマのつながりで、予想外の別の作者への関心、別のテーマへの関心が生まれていく。このことは、じつは読書遍歴が拡がり成長していくプロセスでもあるわけだが、書原の平台が実現している曼荼羅は、同様のナビゲータとしての可能性を宿している。もちろん実際の完成度は、ここでいうほど高くはないが、少なくとも、本好きがワクワクする場になっていることは間違いない。

ちなみに、わたしは、きっと在庫されているであろう確信をもって行方昭夫の『英文快読術』(岩波現代文庫)を買いにいったのだが、WEBに絡めとられてしまい、結局『英文快読術』は書棚に戻し、まったく別のビジネス書を買ってしまった。

出遭ったのは、『反戦略的ビジネスのすすめ』(平川克美、洋泉社)。立ち読みの時点で、心が震えてしまった。わたしの仕事人としてのこれからのマインドセットを大きく変えていくかもしれない、すばらしい示唆にあふれた本である。正確には、ビジネス書とはいえないが、この手のカテゴリーの書籍としては、ほんとうに久しぶりに心に染み入るすばらしい出会いとなった。
まず、帯の「平川克美」名が目に入り、その横に印鑑のように押されている「内田樹(との特別対談収録)」名で、瞬時に『東京ファイティング・キッズ』が想起され、同書は未読だが内田名義で気になっていたこともあり、その書簡相手である平川氏とはどのような人か、といった短慮の、しかも内田先生寄りの動機で、手に取ったものである。今回もまた、内田先生に感謝しなければならない。

同書は、勝ち組/負け組みを喧伝する競争主義や、似非起業、虚業、拝金主義に対し、多くの人が感じているにもかかわらず明確い言い表すことのできない、曖昧な不安のありかと処し方を明解に、そしてきわめて洗練された言葉で論じている。このことが、巷の成功読本で得られるような贋の短命な元気ではなく、本質的で長期的に持続する活力を与えてくれる。
現在、半分を読み終えているが、付箋だらけになってしまっている。2度読みのあと、当BLOGで、この本について、深く考えてみたいと思う。

なお『反戦略的ビジネスのすすめ』は、ここでしか売っていないわけではなく、おそらくいまは中規模以上の書店であれば、ビジネス書のコーナーで平積みになっていると思われるし、場合によってはベストセラーに位置しているかもしれないが、おそらく普通の書店であれば、流行りの啓蒙書にありがちなタイトルから(すいません!)手に取らなかっただろう。そういった意味では、書原のカオスに、これもまた感謝する必要があるかもしれない。

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愛用のペンたち。

2004-11-25 23:44:38 | ◎使
aymさんの企画にインスパイアされました、もといパクらせていただきました。申しわけありません!なにかを侵害するようであれば削除しますのでご指摘お願いします。

いま、ほぼ持ち歩いている一群です。向かって右から

(1)rotring VISUPOINT (レッド)
(2)rotring VISUPOINT(ターコイズブルー)
(3)rotring VISUPOINT(ブルー)
(4)rotring CORE テクノア(万年筆/XL)
(5)STAEDTLER (シャープペンシル 0.5)
(6)SANFORD ACCENT RT Highlighters
(7)STAEDTLER (シャープペンシル 0.9)
(8)Pelikan future F
(9)ボールPentel B100 黒
(10)ボールPentel B100 黒

いろいろ使った結果、いま行き着いた先です。基本的に、毎日、相当量書いているので、乱暴に扱ってもOK、場合によっては失くしても、さほど凹まないものを持ち歩いている、といった感じです。

(1)~(3)は、0.3mmの細書きです。ほんとうは、XONOX Rollerpointを求めていたのですが、たまたま並んでいたので選んだもの。ターコイズブルーなど、へんな色があったのも食いつきの理由ですね。
(4)はおなじみですね。こんなにボロボロになるまでつかってしまい、いまは、(8)の子供用ペリカンに代替わりしつつあります。ペン先が「XL(極太)→F(極細)」、インクが「青→黒」に変わった、コントラストも楽しめているわけですが、手帖にスケジュールを書くのは、やはり細書きの後者が正解でしたね。軸の太さは、あいかわらず手に馴染みますが。
(5)(7)は、定番ですね。同じシャーペンなら、国産よりステッドラーか、ロットリングかという発想で買い続けています。
(6)は、輸入雑貨屋などで見かけ始めましたでしょうか?ノック式の蛍光ペンですね。国産のものも使っていましたが、このスタンフォードのものは、けっこう丈夫です。いずれにしても、ノック式の蛍光ペンはかなり便利ではあります。
(9)(10)は、バカにしてはいけません。どう乱雑に扱ってもいいし、細太使い分けて書けるし、なにより字に味がでます。たぶん義務教育以来久しぶりに使ったことになると思うのですが、サインペンの鏡ですね。結局、これをもっとも多く使っているような気がします。

ちなみにバック紙は、RHODIA の CLIC BLOC。あちこち探して買い求めただけに、革命的に便利です。

ということで、いまも、これからオフィスで、何かアイデアを書こうとしているわけです。


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偏愛マップ。

2004-11-24 17:01:08 | ◎紹介
プロフィールのかわりに「偏愛マップ」をアップしてみました。ご存知の方も多いと思いますが、さまざまな飛び道具を開発している齋藤孝先生(※1)のコミュニケーション・メソッドのひとつです。

ようは、自分がディープに関心を寄せているものを、たとえばカテゴリー別に地図化していき、完成したあかつきに名刺交換の場などで渡すとコミュニケーションが活性化する、というものです。

書き方は自由ですが、偏愛の構図・関係性がわかるマップ状のものがよいようです。もちろん、イラストなどを書き添えて、場を和ませるのもOK。字に味があるなら『脳業手技』(榎本了壱、マドラ出版)(※2)で榎本さんが偏執的に描かれている有機的な曼荼羅でもいいいかもしれません。1冊の本『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』(齋藤孝、NTT出版)としても、まとめられていますので、関心のある方は一読を(買うほどのことはないかもしれません)。

そもそもは、会社の後輩が、忘年会だかなんだかのイベントとして発案したもので、これが配布されたときは、そこそこに盛り上がりました。小規模な事業所であれば、これからの季節、おすすめかもしれません。

以下は、私の偏愛マップ2004/ver1.1です。絵的な地図ではなく、50音順に列挙する方法をとっています。こうしてみると、きわめてスノッブなカオスですねえ。これからこのBLOGのテーマとなるのは、おおむねこのあたりのことになりますが、年度ごとで微妙に変わりもするだろうからバージョンアップはしていきます。これら周縁情報で、その中心がイメージできますでしょうか。読みにくくてすいません。わざとです。
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1~100号くらいまでのPOPEYE、20世紀少年、BOWMORE、BRUTUS、D席、GAP、LAPHROAIG、RHODIA、Streets of Fire、U2、アエラ・ムック、青山ブックセンター本店/六本木、青山真治、朝日の書評欄、穴子にぎり、阿部和重、イエローマジックオーケストラ、井川遥、一時期のMarie Claire、一時期のマルコポーロ、一球さん、伊東屋、いまの腕時計(WENGER)、インセンス、ウィリアム・フォークナー、エアロビクス(TIPNESS)、エクスプレス予約、エドムント・フッサール、大竹一樹、大塚英志、沖縄、奥泉光、おせち料理、鬼武者、音楽のある風景、柿の種、カシオペア、数取団、加藤浩次、加藤典洋、金井 壽宏、金井美恵子、金子光晴、ガルシア・マルケス、カルフールのローストチキン、川上弘美、くっすん大黒、黒沢清、黒田硫黄、現象学、小島信夫、ザ・ポリス、サイゾー、佐野優子、シティ・ボーイズ(とりわけ斉木)、柴田元幸、島田雅彦、ジャクソン・ブラウン、焼酎、ジョン・アーヴィング、ジョン・バース、神聖喜劇、新聞、スーパーカー、スコット・フィツジェラルド、スティーブ・エリクソン、スピッツ、スポーツ・ドリンク、そば、そば茶、大規模ショッピングセンター、大甲子園、高橋源一郎、竹田青嗣、太宰治、巽孝之、タンカレー、ちくま学芸文庫、ちくま新書、超・整理手帳、天牛書店、天地書房、ドカベン、ドナルド・バーセルミ、トマス・ピンチョン、トム・クルーズ、トルーマン・カポーティ、ドン・デリーロ、中上健次、なんばのニューズデリ、西研、ネットラジオ背負い場、バーボン、博士の愛した数式、蓮見重彦、浜田省吾、バレーボール、ビール、ビッグコミックオリジナル、ビッグコミックスペリオール、フィリップ・ロス、ブックファースト渋谷店、フョードル・ドストエフスキー、フランツ・カフカ、フリードリッヒ・ニーチェ、ブルース・スプリングスティーン、フロンティアライト、ベーコン・エッグ・バーガー、ヘルシア緑茶、ポール・オースター、保坂和志、マーケティング、マイルス・デービス、マシントレーニング(TIPNESS)、松浦理英子、豆パン、ミケリウスのノート、ミシェル・フーコー、昔のCREA、昔のTitle、村上春樹、村上龍、元木大介のキャラ、安尾信乃助、ユリイカ、吉田秋生、読売ジャイアンツ、ららら科学の子、リチャード・パワーズ、リビング・モチーフ、ルネッサンスリゾート、レイモインド・カーヴァー、ロットリング、ロラン・バルト

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(※1)齋藤先生は世にあまた活躍するブロックバスター先生のなかでは、私のなかでは、まだまっとうなアイデアマンかと思っています。「声に出したい…」とか、とんでもないのはおいておいて。
(※2)この本は、少し入手が難しいかもしれませんが、企画書の書き手やコミュニケーション・ソルバーにとっては、わくわくする本です。クリエイティブディレクター・榎本了壱さんの手書きの企画書を公開しているわけですが、コンセプトワークやそれにまつわる構造図を、ときにはアイデアスケッチなども交えながら、ものすごく緻密に6Bぐらいの鉛筆で描いたものがたくさん紹介されています。ビジネス企画書としてはまったく参考になりませんが、ものごとの構造化、企画のコミュニケーションという視点では、勉強になります。アマゾンのレビューによると建築の先生が教材として使ったりもしているようです。


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星野智幸、最後まで読み通せるか?

2004-11-23 19:43:23 | ◎読
勤労できることに感謝しながら、今日も1日オフィスで過ごしています。BLOGを使ったマーケティングコミュニケーション戦略/戦術の構想企画書なんかを書いているわけですが、あくまで「構想」で、それゆえにかなり好き勝手できるため、ずいぶん気は楽です。そのため、RHODIAのノート←→インスピレーション←→パワーポイントを前に、いろいろとアイデアは拡がっております。実態としてのBLOG人口動態などがわかれば、構想に厚みが増すのですが、これはきっと今はまだ無理ですね。

よって、あまりまとまった意見は書けませんので、買った本情報を。

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(1)『手を動かしながら考える ビジネスプラン』(広瀬幸泰、翔泳社)
(2)『キャリア転機の戦略論』(榊原清則、ちくま新書)
(3)『文学と悪』(ジョルジュ・バタイユ 山本功訳、ちくま学芸文庫)
(4)『目覚めよと人魚は歌う』(星野智幸、新潮文庫)
(5)『気分はもう戦争』(矢作 俊彦 大友 克洋、双葉社)
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(1)野村総研から独立しスピードハンド(株)を経営したり、NRIラーニングネットワーク(株)の講師を務めているコンサルタントが、事業計画の考え方・立てかた・計画書の書き方を詳解したもの。この手の書籍は、世の中には山ほどあるけれど、本書は、事業計画策定のMECE感があり、それぞれのステップがうまく構造化できていることや、苦手な収支計画に示唆がありそうなのでとりあえず抑える。
〔1〕得意先の事業計画立案サポートにおける漏れのなさをチェックできる 〔2〕ラーニング事業のパッケージとしてベンチマークする(CD-ROMも付いているので)というところに有効に作用してくれればいいのですが。
ちなみに、これはあまり本質的でないとは思いますが、ビジネスプランをその規模・元手にあわせ、松竹梅の3つに分類し、
◎梅コース 元手が300~1000万程度。
気心が知れたもの同士でスタートさせる場合にお読みください。
◎竹コース 元手が1千万~1億程度。
本社(親会社)や投資家による出資を仰ぐ場合に、梅コースにプラスします。
◎松コース 元手が1億以上。
竹に加え、ほかの事業と相互作用などを想定する場合にオプションとして追加します。

松竹梅のいずれかのコースに沿って事業の概要をまとめたら、CD-ROM収録のテンプレートに入力するだけで、カンタンに事業計画書が作れます。
というのを売りの目玉としているようです。
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(2)筆者は、わたしがビジネスキャリアの浅かったころに読んで勉強になった『企業ドメインの戦略論』(中公新書)を著した経営学の先生。なんだか同じようなタイトルの本書は、おもにヨーロッパの職業人のケースをみながら、キャリアのデザインの方法、キャリア転機の往なし方を解説しています。
キャリアの発達段階区分を「初期:20-30代前半」「中期:30代後半-40代」「後期:50台以降」とし、それぞれを「防衛するキャリア初期」「選択/模索するキャリア中期」「学習するキャリア初期」とラベリングしている、というのが全体のフレーム。
そもそもは、自身に照らし合わせる「中期」のために読み始めたのだけれど、むしろ「50代でも学習し続ける」人たちの紹介のほうが面白そう。学習意欲を持続し続けるモチベーションに触れることで元気がでてくるかもしれません。
あくまでも欧州の事例なので、「ちょっと違うよね」という読み方をしてしまいそうですが、これからは日本でも多様で多面的なキャリアが存在してくることを考えると、知っておいて損はないケース・スタディということになりますね。
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(3)バタイユの評論を読むのは初めて。文学における「悪」というものを、ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネをとりあげて語っていて、無策で読んでも、かなり与しやすそうにみえる。カフカの章に期待しつつ、スローに読み進めていきます。
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(4)どうなんでしょう。『ロンリー・ハーツ・キラー』『アルカロイド・ラバーズ』は、いちおう気にはなっていたけれども、とりあえず、文庫化されていた本書を押さえました。冒頭の描写は、たぶん作者と情景が共有できているだろうと思わせる程度には巧いけれども、読み進むにつれ「別にいま読まなくてもいいや」という気持ちになってきている。阿部和重の後に読まれた不運を呪ってください。でも最後まで読んだうえで、ちゃんと感想書きます。同じ三島賞で同じ人魚なら小野正嗣を先に読んだほうが良かったかなあ。なんでもガルシア=マルケスのようらしいし。
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(5)いまは、角川から発行されていますが、買ったのは双葉社の古本100円。矢作/藤原カムイによる21世紀バージョン『気分はもう戦争2.1』も出ているし、内容的には、世界情勢や80年代という時代との大きなズレがあるとは思われます。まあ、はるか昔、学生の頃に読みたいなあと思っていたのがついに実現したということですね。



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マーケティング日記。

2004-11-22 22:14:21 | ◎業
うそです。久しぶりに大阪のミナミといわれる地域をぶらぶらしたので、そこでの見聞をたんにまとめただけです。ということなので、関西ローカルな話です。

ヴィレッジ・ヴァンガードは、アメリカ村の北端で、若者もしくはパチンコ好きでなければ、足を踏み入れることのないようなところに店をかまえています。どちらかとえいば、本好きのおっさんが遭遇しにくい場所にあるということですね。

いま、遭遇という言葉を使いましたが、確かにこれまでヴィレッジ・ヴァンガードは求めていく店ではなく、偶然見つけるというケースが多かった。したがって、事業がスタートした頃は、たとえばJR奈良の駅前でそれこそ遭遇しては、喜んでいたりしたものですが、最近はSCのテナントとして開店などもふえ、とくに大きな関心は持っていませんでした。そもそも、わたしがヴィレッジ・ヴァンガードをもとめるのは、あくまでも本であって、そういった意味で、SC店舗はおおむね、中高生相手の雑貨が中心で書籍についてはあたりまえの品揃えしかしていない、というのが大きな理由でしょうか。

しかし、アメリカ村店は、少し異なっていて、その狭い間口からは想像できない奥行きの店舗に、他店に輪をかけたカオスが演出され、雑貨はもちろん、なかなかよいセンスの本がならんでしました。といってもわたしが着目するのは、アメリカ現代文学、日本の近現代文学が中心で、そのジャンルのエキセントリックな品揃えが合格ラインに達していたということです。まあ、ピンチョンの『V.』がIIIとも揃っているといったレベルですが。

店舗展開や業績・収益などが気になって、WEBサイトをのぞいてみたのですが、どちらかというと顧客というよりはIR色が強く、事業拡大を企図していることがうかがえました。直営店の数より正社員数が少なかったり、FC加盟店も増えてきているようです。

ヴィレッジ・ヴァンガードのようなサブカルチャー、オルタナティブショップにおける顧客満足の源泉は、おそらくマニュアルにはけっして載ることのない従業員個人の「良かれ」という判断のアクションにあるはずです。またMDにおいても、チェーンオペレーションに乗りにくい自主判断が重要になりそうです。

と、考えれば、中心従業員であるアルバイトのモチベーション維持、FC展開における教育・研修などをどのように行っているのか、とても興味深いところです。だれが『「V.」を並べよう』『三島のコーナーをつくろう』と発案するのか、といったことですね。現場ナレッジを還流するしくみがあったり、そもそもアルバイトの試験に文学&サブカルテストがあったりするのでしょうか。


◎遅まきながら「アップル・ストア」に行ってきました。ipodがこれほど騒がれているわりには、人は集まっていませんでした。それもそうですよね。別に、ipodなんて、どこでも買えるわけだし。

マッキンットッシュのデザインポリシーを体現したようなシンプルで美しい店舗に、G5、iMac、eMac、ibook、powerbook、ipodが、さまざま用途提案のなか整然と並んでいました。どれもカッコイイ!

しかし、いまMacを自宅用に買うか?といえば、少し難しい気もしました。まず、「大きい」「重い」が第一の壁ですか。スタッフのていねいな説明によるとノートは「ポリカーボネートのモノ(ibook)より、アルミのほう(PB)が格段に軽い」ということですが、この人たちが、パナソニックの「Let's note」を持ったらきっと腰抜かすだろうな、と感じました。
ものすごくシンプルで堂々した、新しいiMacも、狭い家ならいささか堂々としすぎですね。ほんとうに格好いいんですけれど。
あとは、OS Xの妙ちきりんな動きも最初は楽しいけど、きっとだんだん鬱陶しくなってきて挙句のはてに、処理速度に影響してるからOFFってなことになるんだろうな、と思ったりして。

じつは、これらのことは、もう10年以上も前から言われていることなんだけど、なんら解決はしていない。というか、じつはいまやMacユーザーも希求していないかもしれない。結局は、クリエイティブ・ビジネス・ユースか、可処分所得で財布がパンパンの人の3台目4台目PCとしてポジションで充分、ということなんですかね。(※1)


◎さらに遅まきながら「UNIQLO +」。心斎橋筋の一等地なんで噂どおり大盛況でした。最近のユニクロについては賛否さまざまな意見があり、否定的な意見としては、デザイン性や品質の劣化などもとりざたされているようです。
しかし、初期の志にもあったように、衣料は機能部品である(だからとりわけ定番は適正価格で)といった考えに依然として忠実であろうとする姿勢は総体として変わっていないように見え、このあたりについては、わたし自身は、極私的直感的には、かなり賛同しています。

ニーズの多様性に阿って、へんな主張のある服をつくるより、ふつうのチノパンを2,500円で売り続けてくれたほうが助かるということですね。一昔前なら、その手のものは下手したら1万円はしていた、ということを考えるとなおさらです。(だからじつは「UNIQLO +」の専用商品は、いまいちなんで、「無理すんな」といいたい気持ちです)

ただし、ユニクロの実際について調べたわけではないので、くわしくは今月号の『BOSS』(経営塾)の特集「ユニクロの変心」を、別途レビューしたいと思います。柳井-玉塚の関係について少し突っ込んだ記事もあるようだし、「SKIP」撤退にもふれているようです。


◎最後は、古書店「天地書房」「なんば書籍」で〆る、というのが、わたしのミナミ散策です。かつてミナミには、天牛書店や大阪球場の建屋に、大古本街があったりしたですが、いまや私の興味が動く古書店は、ほぼ「天地書房」「なんば書籍」だけになってしまいました(黒門市場のほうには多少残っていますが)。その両店も、5年ほど前に比べると、ヒット率が低い。大阪全体の古書店事情をみても、たとえば、上本町の「天地書房」は、ちょっと不便だし、梅田の「梁山泊」も中津の店を閉めてからは、素人に閉じた店になってるし、あとは江坂の「天牛書店」くらいですかね。いま古書はどこかに滞留しているのでしょうかねえ。神保町がうらやましい限りです(※2)。

長々だらだら失礼しました。(エントリーを、2つ3つに分けりゃあよいんですけどね)


(※1)ちなみに、ぼくが最初に買ったPCは、PB520で、つぎがPeforma5210で、その次が現役VAIOです。
(※2)東京の滞留年数もずいぶんになるのに、神田神保町には、まだ2度ほどしかいっていませんが。


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ポップミュージックと「作者の死」。

2004-11-20 21:07:38 | ◎聴
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(1)『HOW TO DISMANTLE AN ATOMIC BOMB/U2』
(2)『ヨNCORE/EMINヨM』
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当BLOGには「No Music,No Life」というカテゴリーもあったりします。人なみに、音楽を聴くほうなので、いきおいでカテゴリーをつくったわけですが、じつは、音楽についてテキストを書くための「言葉」が見つからなく、幽霊カテゴリーになっている状態です。

たとえば、先日も、EMINヨMの『THE MARSHALL MATHERS LP SPECIAL EDITION』を聞いて、何か書こうか、とWZエディターを立ち上げものの、数行でどうしてもキーボードを叩く手が先へ進まず、それ以降、書きかけのまま放置していました。

『THE MARSHALL MATHERS LP SPECIAL EDITION』は、じつは、なんの前情報も調べることなく、CDショップの店頭でほとんど直感的に(正しくは衝動的ですね)手にしたもの。EMINヨMのディープなファンには「この俄(にわか)め!」と、絞められるかもしれないけれど、このアルバムが彼にとってどのような位置づけのアルバムで、どのような評価を受けているのか、といったことをまったく知らないということは、逆に言えば、かなりプレーンな状態で、この音楽に接することができることになるわけです。

そういうことなんで、なにか書けるだろうと思ったのだけれども、感想めいたことすら書き始められない。もちろんある一定の評価を受けているため、こりゃだめだ、ということはない。では、逆にどういいか、と考えたとき、これを評する言葉がなく、さりとて創り出すこともできず、はたと思考停止に陥ってしまった、というわけです。

今回のU2とEMINヨMもまったく同じです。U2については、ほとんど4年振りくらいとなるオリジナルアルバムでかなり待望していたし、ドラムのリズムカウントに続く、エッジのギターのカットと「Unos dos tres Catorce!」というボノの掛け声ではじまる、第一曲目の『VERTIGO』なんて、まさにクラっとなるくらいに、めちゃくちゃにかっこいいんだけど(ipodのCFの曲ですね)、「めちゃくちゃ」にとか、「かっこいい」といった、どうしようもない言葉しか、思いつけないわけです。きっと誰かに勧めるときだって、「いいからつべこべ言わずに一度聞いてみ」と、なんの説得力もなく話すしかなさそうです。

少し頑張ったところで、「10曲目の『ORIGINAL OF THE SPECIES』って、曲としてはまったく違うだけどドアーズの『touch me』の雰囲気があるのはなぜなんだろう?」といったようなことで、論を進めことができるかもしれないけれど、なんだかこれって音楽の本来的な楽しさじゃない。

もし、楽譜が読める専門家ならかなり事情が違っていて、読むだけで音が聞こえそうな解説もできるかもしれないけれど、そうでもないかぎりは、じつは、アーティストの生い立ちとか日常の言動とかゴシップや外野と、それを前提とした詞について語るしかないんですよね。

たとえば、『HOW TO DISMANTLE AN ATOMIC BOMB』に収められている解説をみてみても、その10枚程度の原稿のうち、約3/7はバイオグラフィ、2/7はボノ生い立ち、1/7は生い立ちのうち家族の関係がこのアルバムのいくつかの曲に詞としておよぼした影響、1/7は大人になった(と筆者が考える)U2の今後、ということで、じつはメロディについてのノートはほとんどない。少なからずある、音へのボキャブラリーはあまりにも乏しい。

EMINヨMにしても、たとえリズムとメロディーに快があったとしても(『ヨNCORE』には不快も満載)、現実的にその評価のおおむねはlyricにならざるをえないし、そのlyricを解釈するためには、わかりにくい英語と『8Miles』で描かれたような彼の人生とキャラクターを知っていることが必要条件になる。

これはポップミュージックはつまりは「作者の詞(lyric)」であるということを意味することになる?そうであれば、ポップミュージックに「作者の死」はありえない、ということになる。
しかし、その歌が多くの人の共感を得るための理由の多くはまずリズムとメロディありきだし、音楽に国境はない、という考えが大勢だ。

作者なんてわからなくても、いい曲はいい。しかし、その曲の良さは、作者抜きには語れない。でも、そんな語りでは、まったくプレーンな人に楽曲のほんとうのところの良さは伝えきれない。
これは、いささか難題だ。世にあまたある音楽評論、音楽雑誌には回答があるのだろうか。なんらかのカルチュラル・スタディーズに答えは用意されているのだろうか。もしくは、すでにバルトの評論があったか。少し情報収集が必要ですね。


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なんだか、試作のようなややこしい話をだらだらしちゃいましたが、U2とEMINヨMの新譜は、わたしがいうまでもなく世界中の人たちの待望に応えたものになっています。またアマゾンではわたしのアホな悩みを吹き飛ばすようなコアなファンの屈託のない解説がレビューでたくさん公開されていますので、ぜひ確認してみて得心してください。

『HOW TO DISMANTLE AN ATOMIC BOMB/U2』
『ヨNCORE/EMINヨM』

双方とも、さまざまなバージョンがありますのでWEB&店頭で迷ってください。ちなみに、わたしが買ったのは、U2:国内限定版CD+DVD、EMINヨM:ボーナスCD付輸入盤。U2はともかくEMINヨMは、やっぱり対訳付きを買うべきでしたね。


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いい広告もあるし、わるい広告もある。

2004-11-19 22:35:17 | ◎業
だからといって、なにも日本新聞協会が率先して、わるい広告の普及を促進することはないじゃないか。自分を殺めてどうするつもりなのか。

わたしがちょこっと怒っているのは、同財団法人が主催した『「新聞広告を広告する」新聞広告コンテスト 結果発表』。まあ、最優秀賞は学生さんなので、広告研究会のお祭りコンテストとわりきれば、目くじら立てるほどのことはないかもしれませんが、その賞の末席に、大きな代理店の方々も名前をつらねたりしているので、ちょっとひとこと言いたくなったわけです。

代理店の人たちは媒体との付き合いで、仕方なく、パパパッと10分くらいで作って出しただけかもしれないけど、1等賞をとった学生さんが、「これが広告というものだ」と勘違いしちゃったら、どうすんだ。審査員に名前をつらねているような勘違い組みがつくるんなら、2500歩ほどゆずって、許されるかもしれないけど(※1)、企業のマーケティングコンサルともいわれる人たちなんだから、「そんなの広告じゃないんで、応募しませんよ」といった気概が欲しかったところです。

というか、元凶は、このちり紙を15段の枠を使って発表した日本新聞協会ですね。そう、それぞれの案についてとやかく言うのは酷でした、すいません。やはりこの方向を求めた協会が責められるべきでした。協会は、こんな80年代の残滓のような落書きが、ふたたび新聞紙上をにぎやかすことを夢見てるんだろうか。夢見てるんでしょうね、きっと。

でもね。もう少し新聞広告に求めること、求められることを真剣に考えないと、だれも広告をのせなくなってしまいますよ。たとえば「もっとも商品の売上に貢献した広告」「もっとも企業の志を伝えた広告」といったような基準で、既出の広告から選ぶ(もしくは与件をより具体的に明示したうえでの自由制作)といった発想にはならないのですかね。

きっといまならDELLとか、アリコとか、小林製薬とかが対象になると思うけど、じゃあそのときに、「どういったアクションコピーが効いたのか」といったことを議論するほうが、マーケティング上はかなり有意義ですよね。

まあ、幸いにも実際の新聞広告においては、最近はあくまでも企業の経済活動の一環であることをごくあたりまえの前提とした良質な新聞広告もたくさんでてきているので、それほど悲観することはないか。「うそ、良質な広告なんてあるの?」って?ありますよー。たとえば、11月17日(水)日経の松井証券。WEBと連動しているので、そちらを見ていただいたほうが、いいかもしれませんが、以下にコピーを引用してみます。
その特定口座で、後悔しませんか?
「特定口座はどこで開いても同じ」と思っていませんか。
「めんどくさい」をなくすための特定口座、めんどうになる前に考えてみてください。

その特定口座は勧誘されませんか?
証券会社に株券を預けると営業マンからセールスを受け、なんやかんやといろいろな商品を勧誘されることはありませんか?
松井証券の特定口座なら、めんどうな勧誘は一切ありません。
営業マンがいないからです。

その特定口座は、タダですか?
株券を預けると、口座管理料がかかるのが当たり前だと思っていませんか?
そんなことはありません。
松井証券の特定口座なら、お客様の株券を無料でお預かりします。

その特定口座は簡単に株券を預けられますか?
「株券ゆうパック」をご利用ください。
ご指定の場所に、郵便局員が株券をお預かりに伺います。

めんどうな手続きなしで配当金を受け取れますか?
配当金を受取るには、銀行や郵便局まで行かなければなりません。
配当金を銀行振込にするには、銘柄ごとに手続が必要です。
松井証券の特定口座なら、めんどうな手続を一切なくした「配当金パック」がついています。
すべての株券の配当金を松井証券の口座でまとめて受取れます。それも自動的にです。

その特定口座は、安心ですか?
証券会社が破綻した場合、1,000万円を超える資産は保護されません。
松井証券の特定口座なら、お客様の預かり資産を10億円まで補償する保険に加入しています。
「アカウント・プロテクション」という松井証券独自の制度です。
もちろん、このあとにしっかりしたアクションコピー(関心客はどうすればよいのかの示唆するコピー)が続き、WEBサイト、フリーダイヤルほか多岐にわたる方法で、見込客を迷わせない。

どうです。松井証券の実直さ、正しさがまざまざと伝わるうえに、もしあなたが個人資産を投資されているなら、このやり方に興味をもったんじゃありませんか(まあ、そういう人は、松井証券のことを知っていますけど)。とりあえず、WEBは見ておこう、って思いましたよね。そればかりか、やっぱり、株の分割操作は責められるべきことであるし、あまつさえ、「お金があればなんでもできるよ」とニタニタ囁くような証券会社はまったく信頼できないなあ、と感じた方もいらっしゃるかもしれません。

そういうことなんです。ここでは、いわゆるクリエイティブ軍団のいう意味合いでのコピーの上手い下手といった議論は、すっかりどこかに飛んでいっちゃって、その内容のみが取りざたされる。つまりけっして「コピーがいい」という話にはならなくて「松井証券はいい」となる。そういうコピーが本質的に巧いコピーであって、そのコピーを読ませることためにのみあるデザインが巧いデザインであって(※2)、その総体として、広告であることを思い出させない「よい広告」があるわけです。

松井社長は、やはりクレバーだ、と言ってしまえばそれまでなんですが、これからもこういった良質の告知が新聞という場でできるように、協会は新聞広告のそれこそ愚直な役割を再認識してほしいものです。

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(※1)もちろん本質的には許されません。
(※2)ちょっとわかりにくいですが、上の写真が、松井証券の広告。ユーザビリティ、リーダビリティが計算されたデザインとなっています。

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『評論家入門』と文芸誌の実売部数。

2004-11-18 21:09:11 | ◎読
いま、小谷野敦さんの『評論家入門』(平凡社新書)を斜め読みしている(それこそ、フォトリーディングというやつですか(^.^; )。「清貧でもいいから物書きになりたい人に」というサブタイトルにもあるように、その冒頭では、文藝作家でもなく学者でもなくお手軽に「評論家的なるもの」として文章を書くことを仕事にしたい、という人が増えているが、万が一うまくいって、たくさん仕事が来たとしても、年収300~500万だよ、と戒めている。

とき同じくして、日本雑誌協会により、雑誌の公称ではない実売部数が発表された。わかってはいたものの、あらためて各出版社の文芸誌の部数をみて、「おい大丈夫か」と驚くと同時に、まあ、そいうことなんだろうな、と小谷野さんの戒めに得心した。
◎『新潮』:12,542部
◎『文学界』:12,525部
◎『群像』:8,458部
◎『すばる』:8,166部
『新潮』以外は、おおむね公称部数と一致しているわけだけれども(※1)、それでも8,000部などという数字は、少しおどろきだ。全読者が集まっても、日本武道館を満員にすることすらできない(※2)。8,000部だと売上は、約800万円。企業レベルの費用で考えれば、じつは800万円でできることはかなり限られてくる(広告収入も、いまの文芸誌をみればそんなには期待できない)。いくら赤字でいいとしても、必然的に、原稿料に影響がでてくるだろう。原則としては、小谷野さんの言うとおりだ。

文芸誌は、その内容に月ごとのばらつきがあるとしても、文学や批評について関心がある人にとっては、けっこう有用な情報が掲載されており、けっして巷で喧伝されているような、くだらないものではない。『博士の愛した数式』『美しい魂』のように、良質な長編が先行して一挙掲載されることもあるし、『カンバセーション・ピース』『ハイスクール1968』とった毎号が楽しみな連載もあったりする(※3)。もちろん、いきなり竹田 青嗣の哲学評論がなんの前触れもなく巻頭を飾ることだってある。こう考えれば、書くことを志す人にとっての、ディシプリン(訓練/規範)のひとつであるといえなくもない。

でも売れていない。だから、書く場もなくなる。書きたい人は、こんなに多いのに。
「書くために読む」「読むために書く」という善循環を作っていかなければ、だめですよね。わたしのように需給のバランスが「読む」に傾きすぎているのも、非生産的でよろしくないけれど、全体のバランスを保つために多少は貢献しているといえるか。

なお『評論家入門』は、もちろん速読できるようなしろものではなく、あくまでも評論に限ってだが、「読み方」を解説することで「書き方」を教授しながら、「書く」という仕事の構えや、多少はノウハウのようなものを、小谷野さんらしくまとめている。『日本近代文学の起源』を、いまあらためて取り上げているところこも面白いし、最後の手段として、エッセイストをめざせ、としているところも気になる。きっと「入門」マニアのわたしは、読み進むごとに、嬉々としてしまうんだろうなあ。

ただ、ちなみに、わたしは評論家になるつもりはまったくありません。念のため。


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(※1)日本雑誌協会のWEBサイトでは、『新潮』は、いちおう公称20,000部。急激に8,000部も下落するわけはないと思うが、この半年くらいの『新潮』をみていると、なきにしもあらず。
(※2)収容人員約14,000人。きっと贈本で開けてもいない人たちも多いだろうから、実際に集まるのは3,000人くらいだったりして。ある意味そうとうレアですね。
(※3)そんな『新潮』だけど、ここにあげた小説やエッセイは、すべて昨年まで、新潮に掲載されたていたものなんですよねえ。表紙が変わって、編集者も変わったか。



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ほんとうに久しぶりの『BRUTUS』。

2004-11-17 17:43:47 | ◎読
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(1)『BRUTUS 11/15 好きな映画について語らせろ』(マガジンハウス)
(2)『現代思想のパフォーマンス』(難波江 和英  内田 樹、 光文社新書)

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(1)『BRUTUS』は、かなりご無沙汰していました。バックナンバーページで調べたら、まさに昨年の映画特集『映画対決』以来、ほぼ一年ぶりでした。2004年度は、『大人の会社見学』や、『ブルータスプロダクトデザイン開発室』や、先般の『彼らの日記で世界が見える』など、多少、動かされかけたものはあったけれど、たとえば恒例の読書特集が『さあ「ブックハンティング」の季節です!』といった、いまいち即物的な特集だったりして、結局はいずれも購入せず、総体としては、編集力の低下と記事の深みの欠如を感じていたしだいです(もともと深みはなかった?)。昨年度は、けっこう買っていたので(『楽園の島へ』や『エコはデザインだ!』とか、約束建築の結果とか六本木ヒルズ特集とかね)、たまたまか、という気がしないでもないですが。

で、今回の映画特集はどうかというと、もちろん、私の知らない映画のガイドブックとしては有効に作用するんですけど、なんだか、スノッブな人脈を誇示するタレント本のような感は否めない(つまり『anan』化している)、といったところでしょうか。まあ、アンガールズの写真は、下敷きにはさんで使えそうな気はしますが、なんというか、もう少し骨がほしいです。

(2)「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」という惹句からもわかるように、現代思想を、現代に生きるための有効な道具してつかうための考え方を紹介しているようだ。「ようだ」と記したのは、確かに章立ては、以下のように「実践編」を設けたりしていて、いかにもわかりやすく使えるようになりそうなんだけれども、それがほんとうに使えるかどうかは、読み手のリテラシーによるわけで、たとえば、ぼくがラカンを使えるようには絶対にならない、と思ったからです。
I フェルディナン・ド・ソシュール
「現実」の意味を変えた言語学者/新しい言語観
【実践編】『不思議の国のアリス』を読む

II ロラン・バルト
コトバの主人はだれか/バルトの思想攻撃
【実践編】『エイリアン』を読む

III ミッシェル・フーコー
「現実」をつくる過去/「現実」への疑いのまなざし/系譜学という方法
【実践編】『カッコーの巣の上で』を読む

IV クロード・レヴィ=ストロース
二〇世紀の大論争
【実践編】『お早よう』のコミュニケーション

V ジャック・ラカン
 難解だからこそラカンである
【実践編】『異邦人』

VI エドワード・サイード
サイードの問題提起
【実践編】『エム・バタフライ』を読む

この本は、ほとんど内田先生への信頼経済で買ったようなもので、その意味では、じつのところラカンが使えるようになるのではないか、と過大な期待をもっていたりもするわけです。
ほんとうは『他者と死者  ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)や、『死と身体―コミュニケーションの磁場』(医学書院)を読みたいんだけれど、市井のサラリーマンにはハードルが高そうなので、まず『現代思想のパフォーマンス』で、パフォーマンスをあげておいてから取り組もうというところですね。


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阿部和重の考える『グランド・フィナーレ』とは。

2004-11-16 13:10:37 | ◎読
ロリコンで少女ポルノまでに手をそめた結果、妻と溺愛する娘を失うことになった最低の男は、死に向かう二人の少女を救うことで、他者を正しく慮る人間として再生できるのか。

阿部和重の最新作『グランド・フィナーレ』(群像12月号)は、これまで同様、どうしようもないダメ男を主役とするが、一方で、これまでの彼の物語にはない「救い」を明示している。文学に求められるもの一部として、「救済」があるとすれば、この物語はその図式に見事なまでに則っている。

しかし、ちょっと待て。だまされてはいけない。この物語を裏で操っているのは阿部和重であるということを忘れてはならない。そこには、不健康な灰色のベロがチラチラ見え隠れはしないか。顔を覆う両手の指の隙間から、いやな破顔が覗いていないか。

旧知の友人の最後通牒によりあたかも過去の悪行から目覚めたような流れにはなっているが、実際の説話は、その厳しい助言シーンと彼が故郷神町戻るシーンのあいだでは、完全に寸断されている。彼は改心したのか?はたして内省したのか?
たしかに、暗転のあとの神町に戻った主人公の沢見は、家業を手伝い家賃4万の借家で過ごしながら、過去の自分の行為の問題点をひとつづつつぶしていく苦悶の日々の「ようなこと」を続けている。しかし、家業は、なにも禁欲的にではなく、ただだらだらとこなされているだけだし、なにより、悪癖を断ち切る引力を自分に課さなければならない態度は、みるからに不安定だ。
また、後半登場する少女たちを、過去の自分の過ちにより起こりえたかもしれない悲劇の代償であるかのように救っていこうと想起する、あたかも『野生の棕櫚』のような決意と行動も、饒舌に独白されると白々しい。いちど身についた悪癖は、眼前の少女と対峙したき、再発しなわけはないじゃないか、と勧告したくなる。

しかし、これらわたしの穿った見方は、テキストではいっさい明示されているわけではない。純粋に字義どおり読めば、沢見は深く内省しているし、救済への決意もきわめて人間的ですばらしい感情として描かれている。

そうなのだ。ここが、阿部和重の巧みさなのだ。不穏な言葉をいっさい使わずに、むしろ建設的でポジティブな言葉を集積させていくが、そのことが逆に、総体としていやな予感を消し去ることのできない不安定さを生んでしまう。

公正で真摯な言葉をつらねて、完全なる救済を描きながらも、どのように洗っても落ちることのない強い「染み」を残す。このステインこそが、まさに人間であり、救済とは、そんな簡単なものではないはずだ、ということを見事に描いている、といえないだろうか。見守る第三者はおろか、当事者ですら、いつどのようなときに過去のどうしようもない自分に戻ってしまうのか、という不安との闘い。戻らないという決心とはうらはらの行動を選んでしまう不協和。危うく脆い、この抗いを、「いつ戻るかもしれない」という言葉を使わずに書ける言語感覚は、なかなかまねできない。

じつのところ、この気味悪さは、舞台が神町であり、そのサーガと深く繋がっていることに負っているいる部分も大きいが(※)、それ以上に、ダメ男の描写、つまり一見ふつうに見える男のなかに巣くってけっして浄化されることはないという、より人間的なダメさ加減の描写が完成度の高さに起因するともいえる。

結びの場面は、きわめて映像的に感動的に「グランド・フィナーレ」を迎えている。そのあとには、スタンディングオベーションがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただひとついえるのは、たとえ今回多大な拍手を受けたとしても、最終的には沢見は神町の呪縛から解き放たれることはないだろう、ということであり、それが人間の業だということだ。

このような偏執的な読み方を許してしまう阿部和重の今後にさらい期待したい。できれば今回の登場人物のひとりであり、おそらく深い傷を隠しているであろう女性「I」を主人公にした神町の物語を望むのだが、それがイニシャルである以上はどうでもよい配役なわけで、そうなると、さらにいやらしい男、伊尻が台頭してくるのか。

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(※)『シンセミア』と『ニッポニア・ニッポン』通読後、『グランド・フィナーレ』を読めば、不穏さがいっそう深く感じられるはずです。というか、かなり具体的な関連もあったりします。


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アイラ島のシングル・モルト。

2004-11-14 10:44:16 | ◎読
住んでいる地区の球技大会の打ち上げで、日ごろから親しくしていただいている方のマンションの一室に数人が集った。各家庭がちょっとした料理と酒を持ち寄り、ふだんの仕事のこととか、ライブドア球団のこととか、趣味の話などを、気取らず気張らず語り合うフランクな会合だ。

ちょっとした料理といっても、それは馬刺しであったり、豚の煮込みであったり、とウィークデーには味わえないものが集まってきて、そうとう豪華になったりする。
酒についても、それぞれがふだんから極私的に好きだと感じているものや、新しくできた焼酎専門店で発見してきたものをここぞとばかりにもってくるわけだから、そうとうなバリエーションになる。

そこでごちそうになったのが、スコットランドのシングル・モルト・ウィスキー「LAPHROAIG(ラフロイグ)」だ。話には聞いていたが、この初めての体験に、ぼくはいささか言葉を失ってしまった。土臭いというか磯臭いというか、いずれにしても荒々しいクセのある香り。おそらく豊潤とは呼ぶことができない、シンプルでドライで刺激的な舌ざわり。まさに、シングルであるがゆえの力強さに、一瞬にして魅了されてしまった。

そもそも、ぼくは蒸留酒に限ったハードリカー派なのだが、ここ数年は焼酎への志向が高まり、新しい銘柄を探すことにやっきになっていたため、洋酒へのアンテナは稼動していなかった。焼酎については、一度飲んで銘柄は失念してしまったが、その独特の焦げ臭さい風味に受けたショックが忘れられず探し続けているものがあるのだが、「LAPHROAIG」には、まさにそのとき以上の驚きがあった。

早速、翌週、家内に依頼し酒販店で、シングル・モルト・ウイスキーを求めた。これもまた話には聞いていた「BOWMORE(ボウモア)」を購入し、いままさに、その燻しの煙のような愛すべき香りに包まれながら、この文章を書いているというしだいだ。

このウイスキーの薀蓄をもう少し知りたいと思い、書棚から村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(平凡社)を引っぱりだしてきて再読してみた(※)。確か、初読当時も、彼の言葉の巧みさに動かされ、シングル・モルト・ウィスキーに強い興味がわいていたことを思い出した。

ここで語られてる、シングル・モルト・ウィスキーの系譜を列挙することで、このウィスキーの魅力がわかってもらえるだろう。
◎「あまたあるスコットランドの島々の中から、小さなアイラ島が、シングル・モルト・ウィスキーの「聖地」となり、そのわずかな数の人口が大英帝国の歳入の大きなパーセンテージを生み出す」(注:したがって、「LAPHROAIG」「BOWMORE」は、正確には、アイラ島のシングル・モルトという言い方になる)

◎「今でこそ、アイリッシュ・ウィスキーはスコットランド・ウィスキーの陰に隠れたマイナーな存在になっているが、過去においては(1920年代までは)ウィスキーといえばすなわちアイルランドの特産品であった。」

◎「アイラ島には良いウィスキーを生み出すための原料がたっぷり揃っていた。大麦、おいしい水、そしてピート(泥炭)である。」

◎(広い土地がなくグレイン(穀粒)を豊富に生産できなかった)「アイラはもっぱらいわゆる「シングル・モルト」ウィスキーを生産し、それをブレンド用に(!)本土の「スコッチウィスキー」生産者に売却するというシステムが長いあいだ続いてきた。「ジョニー・ウォーカー」とか「カティーサーク」とか「ホワイト・ホース」といった有名ブランドは、みんなこのブレンディッド・ウィスキーである。」

◎「最近になって、急速に、シングル・モルト・ウィスキーが世界中で愛好されるようにな」った。

◎(まさに薀蓄の温床であるが)「スコッチには氷を入れてもいいけれど、シングル・モルトには氷を入れてはいけない。赤ワインを冷やさないのと同じ理由で、そんなことをしたら大事なアロマが消えてしまうからだ」


など。アイラ島のシングル・モルトについておおむねの知識が習得できる。もちろん、酒は知識で飲むものではないのだけれど、このシングルモルトについては、このことがスコットランドの荒地や寂寥とした灰色の空と海の香りをイメージさせ、そのハードさも含めた味ということになるかもしれない。

村上春樹は、香りと味については、説明するのが難しく実際に飲んでいただくしかないとするものの、
一くち飲んだらあなたは、「これはいったいなんだ?」とあるいは驚かれるかもしれない。でも二くち目には「うん、ちょっと変わってるけど、悪くないじゃないか」と思われるかもしれない。もし、そうだとしたら、あなたは---かなりの確率で断言できることだけれど----三くち目にはきっと、アイラ・シングル・モルトのファンになってしまうだろう。僕もまさにそのとおりの手順を踏んだ。
と、紹介しており、ぼくもまさにこの手順を踏んでしまった。きっとしばらくは、彼が紹介する以下のリスト順に、新しい香りと味を求めることになるだろう(クセの強さ順)。
 (1)アートベッグ(20年)
 (2)ラガヴリン(16年)
 (3)ラフロイグ(15年)
 (4)カリラ(15年)
 (5)ボウモア(15年)
 (6)ブルイックラディー(10年)
 (7)ブナハーブン(12年)
ちなみに、いまぼくが味わっている「ボウモア」は、8年にも拘わらず、静かでやさしくなつかしい味わいを与えてくれているため、上記、15年はもちろん、12年、30年…などへの期待は高まる。ボウモアには、このほか「ドーン」「ダスク」などの銘柄もあり、まさにスコットランドの夕闇の味が詰め込まれていそうだ。

ちなみに、同書で、村上春樹は、生牡蠣にシングルモルトを「とくとくと」かける食べ方を紹介しているが、これはたまならないなあ。

あ、アイルランドといえば、今週はU2の新譜ですね。

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(※)なぜか、最近村上春樹さんばかりで恐縮です。この手のエッセイは、やはり読者である私にとっても、ガス抜きになるなあ。巧い、という以上の言葉はありません。



↓愛すべき、シングル・モルト・ウィスキーのために
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村上春樹のスタンス。(2)

2004-11-13 16:39:19 | ◎読
自分を守るための外部・他人との本質的なかかわりはもたず、唯一、記号化されたモノとスタイルだけでのみつながる。いうまでもなく、これは「オタク的な」態度である。「オタクの」といってしまうと、特定の人物像がイメージされてしまう可能性が高いため、あえて「オタク的な」という言い方を使っているが、実のところ、この「オタク的な」性向は、(空虚な時代を過ごさざるをえなかった者であれば)多かれ少なかれ、誰もがもっているもので、たまたま、社会事象としてエキセントリックなオタクが目立ったためやり過ごされているにすぎない(※1)。

中期までの村上春樹の作中人物が、読者に「これは自分に似ている」「自分の感覚に似ている」と共感されるのは、このことに起因しているのではないだろうか。
朝日新聞で加藤典洋氏は、村上春樹がオタクを先見した旨を語っているが、なにも社会の予言者であったわけではなく、彼自身、そしてだれもがもつオタク的な側面の、静的な部分をただ表現にしたにすぎない。

話を戻そう。ここでわたしがデタッチメントの定義として言いたかったのは、なにも「モノとスタイルを通じてしか外部・他人とつながれない」ことではなく、「自分の考えを深めていき、まとまってからでなければ発信しないという態度」だ。このことは、じつは、『風の歌を聴け』の冒頭で端的にあらわれている。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われるkとになった。僕には書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。たとえば象について何かが書けたとしても、象使いには何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。---8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで、他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて、僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして2度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。

今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くとことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。(P7-8、講談社文庫6刷)
もはやそうとう有名になってしまった書き出しではあるが、どう考えてもこれはエクスキューズである。他人に対して伝えることのできる意見をまとめるまでかなりの時間がかかってしまった。おおむねまとまったが、それはきっとまだまだ完全ではないだろう。でもまあ、誰かに伝えたときに攻められるような綻びは簡単にはみつからない程度にはなっている。「完璧な文章」はいくら時間をかけったってできるわけではない、といった啓示もあったので、まあもうそろそろ話はじめてもいいだろう、ということだ。彼自身の有名なエピソード---神宮球場でのヤクルト戦の最中に突然「書ける」と感じ、その夜、経営しているジャズバーのカウンターで一気に書き上げた---も、裏を返せば、じつはそれまで完全にまとめるため書き倦ねていたことを露呈しているのではないだろうか。

デタッチメントの態度を源泉とする作品は、デビュー作の後も、自分の立場を強く維持するために継続される。ときには明示的に「悪」を懐柔していくための方法論としても語られる。

しかし、震災やオウムといった予想もできない悪のたくらみが顕在したとき、「自分自身の確固とした意志だけで考え方を固めること」が「強さ」ではなく、逆に、外部のより強大な考え方に対して、いとも脆く翻されてしまう「弱さ」であることが、露呈してしまう。とりわけオウム真理教について、「なぜあれほどの人が」とも言われるような、頭脳明晰で優秀な信者を取り込めたことに深くつながる。

これを機として、彼は「自分の考えを深めてはいくが、まとまっていないくても、とりあえず外に投げかけてみるという態度」への意志を持ち始める。コミットメントで受けるフィードバックこそが、悪への強い耐力を形づくっていく、という意志だ。

『ねじまき鳥クロニクル』以降、彼の紡ぐ物語が、一般読者にとっては「わかりにくい」と呼ばれだし、一部の批評家からは「謎を投げかけておきながらほとんど答えていない」「開きっぱなし」と酷評されはじめたのは、「自分でもよくわかっていないが、とりあえず書いてみたら何か答えが出るかもしれない、投げかけてみることでなにかフィードバックがあるかもしれない」というスタンスに変わったから、と言えないだろうか。つまり、あえて「開いた物語」を投棄してみた、ということだ。

したがって、『ねじまき鳥クロニクル』以降の物語は、すべて、外界の出来事や他人と深くかかわり、これを媒介とすることで、自分を含めた世界はどう変わっていくのか、ということを思索する試作となっている。これが、森達也氏の言うところの「『分からない』ことを『分かったふりしない』誠実さ」であり「自分自身の未成熟を認めつつ、簡単には答えを出せない問題を論じ」ているということだ。

完全な物語が用意されているわけではないため、これに対峙する読者は、深く考えをめぐらせねばならない。めぐらせたとしても、正解はチェックできない。それゆえ、なにか手ごたえのなさを感じざるをえない。
文章の巧みさから生まれる読みやすさにより、引き続き多くの読者をとらえて放さない一方で、ごく一般的な読者の「期待はずれ」という声が増えだしているのは、こういうことだろう。くだらないことであってもなんらかの回答が得られることが期待されたり、たとえウソっぽくても感動がないと損した気分になってしまう時代のなかで、村上春樹は、ムズカシイ作家になっていく。
読者を立ち止まらせ、外部・他人とのコミットメントで世界が変わるその変わり方を、作家と同期しながら考え倦ねさせてしまう物語。しかし、これこそが本来的な文学の姿でもある。

このことを如実にあらわしたのが『アフターダーク』である。それほど長くない物語に(枚数的にも、一晩という時間設定的においても)、たくさんの人物が登場しているし、彼らがなんらかの形でコミットメントしていくことで変容していくありさまが語られている。顕著に答えの出ている変容もあるが、変容の最終解がでていないものもある。そればかりか、漫才の掛け合いで、フィードバックされ続ける言葉がどのように変わっているのかを試行しているイベントすら唐突に挿入されたりする。一方でコミットメントしない/受け入れないことの脆さも描かれている。
一夜明けたときに変わる世界はどのようなものか、一度みてみようという試行だ。

この物語を見る目は、したがって、神の目ではなく、あくまでも村上春樹の目である。媒介によりどのように人と世界が変わっていくのかを見届けようとする彼の目であり、これは、じつは大江健三郎の小説への構えとかなり接近していきているともいえる。いわゆる「みっちり」しんどい(※2)作業であり、職業作家としての大いなる志だ。

『アフターダーク』は、ある種の中途半端さから、例によって、なにか別の大きな物語の予兆ではないか、と語られがちだが、おそらくそういったことはなく、この物語を閉じるのは、コミットメントできた読者の役目なのだ。



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(※1)わたしが考える「オタク的な」精神/態度について、書き出すとかなり脱線してしまうので、別の機会にでもまとめてみる。まあ、これについても、散々語り尽くされているわけで、きっとあまりたいした意見にはならないことが予想されるが。

(※2)しんどい作業のフィードバックのために『少年カフカ』があったり、ガス抜きのために『東京するめクラブ』あるということか。後者は、まだ読んでいませんが、わたしのガス抜きになるのでしょうか。


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村上春樹のスタンス。(1)

2004-11-13 02:21:27 | ◎読
11月12日の朝日新聞(朝刊)の「三者三論」は、「村上春樹25年」。加藤典洋、森達也、香山リカの3氏による、評論のようなエッセイような語りが掲載されている。それぞれは、これまでのそれぞれの文脈の域を超えておらず新しい発見はないため、詳解はしないが、加藤氏、森氏の発言に触発され、村上春樹の基盤が少しみえたような気がしたので書きとめておこうと思う。

村上春樹については、プロアマとりまぜ、さまざまなところで、さまざまな角度から語られているため、今回の考え方もどこかで語られている可能性は高いかもしれないし、たとえ語られていないとしても、結局は多くの評論の前では、たいした意見ではないであろうことを前提として書き進めてみる。
「内閉」の問題に初めてとりくんだのが85年の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」です。オタクがマスメディアで盛んに取り上げられるのが、90年代以降だから、非常に早い。(加藤氏)

人気が持続しているもう一つの理由は、分かりやすい解答を提示しないことでしょう。さらに言えば、「分からない」ことを「分かったふりはしない」誠実さ。(森氏)

僕自身も「僕語り」を使うのですが、これは自分の未成熟を認めつつ、簡単には答えをだせない問題を論じるときに有効な人称です。(森氏)
この2人の発言で、少し見えてきたのが、コミットメントとデタッチメントのコンセプトだ。もちろんこの2つについては、なにも加藤氏が称しているわけではなく、村上自身の発語によるものであり、言うまでもなく外部・他人とのかかわりあいの尺度を意味する。

関与という字義どおりの意味合いでしか語られていなかったコミットメント/デタッチメントだが、今回、とりわけ森氏の発言から、わたしが想起したのは、以下のような定義だ。

◎デタッチメント:自分の考えを深めていき、まとまってからでなければ発信しないという態度。
◎コミットメント:自分の考えを深めてはいくが、まとまっていないくても、とりあえず外に投げかけてみるという態度。


それまでデタッチメント的なる作品を提示してきた村上春樹は、一般的には『ねじまき鳥クロニクル』においてコミットメントの立場の兆しをみたといわれ、以降の著述は、『神子どもたちはみな踊る』を頂点に、外部・他人との深い関与のバリエーションを提示するものとなっている。そして、このことは「阪神大震災」「オウムのサリン事件」、さらに河合隼雄との対論を契機としていることも、すでに語りつくされている。

彼自身も、それまでは外界と深くかかわりをもたないことで、自分の立場を明確に堅持していくつもりであったことも明示している。一方、変節については、「外国にでたこと」が一因ではないかと語っているが、これはあくまでも要素であって、契機は、震災とオウムであることは間違いないだろう。

この彼自身の考えを敷衍したのが、先にあげたわたしの定義になる。外部・他人に対し、自分を強く主張していくことで自分を維持する。強く主張するためには、揺ぎ無い思想が必要であり、ここが固まるまでは、けっして外部・他人と深くかかわるべきではない、という、たんに「関わらない」という考え方以上のものが、デタッチメントの背後に流れているのではないか。

そして、脆弱な状況において外部との濃密な関係を拒絶することが、目に見えず得たいの知れない「悪」「陰謀」に対して強くあるための唯一無二の方法と考えていたのかもしれない。一方で、拒絶により、自身の存在が消失してしまうことも、ある意味で悪の手中に落ちてしまうことと変わりなく、これを防ぐために、極めて消極的な方法により外界への信号を発信した。これが、モノとスタイルにより、あくまで軽く自身の存在証明をしていくという方法だ。メニューへのこだわり、アイロンのかけかたへのこだわり、といったものがこれにあたる。

(長くなりますので、以下、明日に続く)

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『ゴーストバスターズ』と化してしまうのか。

2004-11-10 17:18:28 | ◎書
10月中旬に発売を予定されていたにもかかわらず、なかなか店頭に並ばないので、どうなっているのか、と思っていたのだが、高橋源一郎の『ことばのために 大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)は、どうやら当面発売されそうもなさそうだ。

同社のWEBサイトでは、すでに『文学史』はすっとばされて、『ことばのために』シリーズの次の巻『演劇のことば』 (平田 オリザ)がすでに紹介されていた(これはこれでたいへん興味深いが)。

それで、久しぶりに彼の日記サイトをみてみると、もっと早くにチェックしておけばよかたんだけれど、原稿じたいがまだ完成していないもよう。毎日少しづつはトライしているようなのだが「『文学史』少し」「『文学史』進まず」「岩波のOさんと打ち合わせ。「『文学史』、もう少し待ってもらう。」とっいたコメントが目立ち、その苦労のほどが伺える。

考えてみれば、『ゴーストバスターズ』も10年以上かかっていたわけだが、彼の場合、考え倦ねてしまうと、壮大な失敗を生んでしまう確度が高まるおそれがある。今回の場合は、いちおうエッセイ風ではあることが予想されるが、彼がどのようなスタイルで、「文学史」というテーマをこなそうとしているのかよくわからないので、これもまた『ゴーストバスターズ』のように、書き出しを間違ってしまったが、それでも書き直しはしない、というところに拘泥して、遅延しているのかもしれない(もちろん、わたしの勝手な妄想)。

一方で、WEB日記をみていると、「読んだり」「見たり」という行為が以前に比べて、格段に増えているので、現実を逃避して怠けているだけなのかもしれない。

いちおう、日記が最近更新されていないため、それは更新できないほど大詰めに入っていると理解し、無用な散策はひかえ、あまり期待せずに待つことにしよう。

でも、岩波書店がよく許しているなあ。もしかしたら、『お伽草紙・新釈諸国噺』(太宰治、岩波文庫)の解説とバーター取引でもしたのだろうか。


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