考えるための道具箱

Thinking tool box

『半島を出よ』は、「小説」か?

2005-03-29 23:27:14 | ◎読
土曜日にクライアントから受注した営業戦略のような企画の討議用資料がいったん脱稿したため次のミーティングまでの合間を縫ってちょっと書いてみる。

もちろん材料は『半島を出よ』。上巻までを急ぎ足で読んでみた。しかし、急ぎ足で読むには、あまりにも情報量が多すぎて、疲れるテキストではある。

とりわけ、北朝鮮反乱軍である高麗軍については、そもそも人名や地名にリテラシーがないため、それぞれのプロフィールが明確に設定されているにもかかわらず、誰が誰だかわからなくなる。タフな経歴と連動したかたちでのタフなキャラクターじたいも立っているはずなのだが、やっぱり名前と一致しない。 
これはイシハラグループにもいえることで、それぞれのメンバーが少年時代に壮絶な人生を送っているにもかかわらず、その出来事じたいは強く記憶に残るのだが、カタカナで表記された人名とはどうも一致しない。
いっぽうで、内閣情報調査室や、会議で議論する総理大臣、官房長官さらには、福岡県知事、市町などの漢字表記の名前は覚えやすく、どれだけ唐突にでてきても特定できる。
もし、高麗軍やイシハラグループのキャラクターが、漢字で記名されていれば、状況は大きく変わっただろうとも感じる。

これはどういうことだろうか。もちろんめくるめくような登場人物の多さにも起因しているだろうが、それ以上に、カナ文字はどう組み合わせても意味のない記号にしかならず、意味のない記号を付与されている人間は意味のない人間ということを表明しているようにも思える。これは、上巻の後半、高麗軍が逮捕し、ひどい拷問をおこない、そのうえですべての財産を収奪する重犯罪人たちを「1号」「2号」と称する発想に通底するものがあるし、物語で頻繁に語られる住基ネット→国民ID化とも結びつく。
そもそも、村上龍は、登場人物にカタカナを使用することが多く、わたしはそに意図について見聞したことがないのだが、今回の物語においては、どこにでもある記号として抹消されそうになった一部品であっても、意志と強みを有したものであれば生きる個を確立できる、という村上龍の基本精神をより明確に表したのだろうか。それとも、名前をもち誰かに認識されることが強いということではない、誰に認識されなくても希望をもてることこそが強さをつくるということを表したのか。

おそらく、この小説は、その物量と登場人物数の相似や(おそらく起こるであろう)カタルシスの描き方という点で、『シンセミア』と比べなければならいない部分がいくつかでてくると思われるが、そのひとつに「名前」をあげていいのかもしれない。じつのところ「名前」はその人物を造形していく上では効率的な記号ではある。しかし、造形されたくないという物語の意志を受け入れるという考え方もある。「この群像こそが主人公だ」と考える場合、後者の手法を選んでしまいそうだが、『シンセミア』は、同じ群像劇ではあるが前者で成功している稀有な例かもしれない。

『半島を出よ』についても、すべてを漢字記名で読み直したとき、おそらく物語の印象はずいぶん異なり、そこに答えが見つかるのかもしれない。また、下巻では、漢字表記の名前の人々が、ある程度、重要な役割を占めてくるようなので、なにかヒントが見つかるかもしれない。いや、見つからないかあ。というか、どうでもいいことなんだろうなあ、きっと。
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さて。あまり賢くない印象批評的な横道にそれてしまったが、半分を読んでみての感想にもどると、現在、わたしの頭をかすめているのは、「これを、小説と呼んでいいのか」という考えである。正確に言うと「これまでの小説というジャンルの枠内で議論していいのか」ということになる。それは、『半島を出よ』が、あきらかに、これまで小説の創作手法で書かれたものではないという推測に起因する。もちろん実際にそうなのかはわからない。しかし、この小説はいくつかの点で、プロジェクトにおけるチーム作業の産物であり、アンカーを務めたのが村上龍ではないか、ということが明示的だ。

膨大な参考資料収集と取材を、物語のなかで正確な描写として昇華させていく作業は、あまりにもノンンフィクションの創作手順である。
また「あとがき」では『13歳のハローワーク』から継続したプロジェクトチームの「メンバー」への謝辞が明示されているが、それだけではなく、創作現場への「物資の供給」といった言葉が使われているところをみれば、かなりの度合いで共同作業であったことがうかがえる。もし、短期間でアウトプットしていたとすればなおさらさだ。大きな虚構を村上龍が描き、リアリズムのための小さな事実をプロジェクトで埋めていったというところか。これはなにか、壮大なエンターテイメント映画を製作する作業のようだ。

また、この作業は企業のコミュニケーションツールとして、カタログを作っていくという作業にも似ている。企業と顧客と競合にまるわる膨大なファクトをまず集め、優先順位をつけながら、よりわかりやすいコミュニケーション構造でアウトプットしていくことをゴールとするカタログ制作作業だ。『半島を出よ』は、過去、発信において遺憾なく発揮された幻冬舎マーケティングスタイルが、創作作業にも如実に浸透してきた最初の例になるかもしれない。

もし、これを小説と呼ぶなら、『13歳のハローワーク』もまぎれもなく小説であり、そこまでいえないとしても、村上龍と見城徹もしくは石原正康は『13歳のハローワーク』の作業のときにこのスタイルで小説を創作すればどうなるのだろうか?ということに着想した、とはいえるかもしれない。

もちろん、最終的にテキストに落としたのは村上龍であることは間違いないし、アウトプットがテキストの羅列である以上、どう書いても許されるのが小説というジャンルではある。
ノンフィクションの手法という観点でみれば、カボーティの『冷血』といった前例もあるし(これは正真正銘のノンフィクションではあるが)、実際の創作作業は多かれ少なかれ編集者との共同作業でもある。

しかし、いっぽうで、小説とはきわめて個人的な作業である、という意見もあるだろう。

これらのことを考えていくと、結局は、この最新作も文芸批評的な読み方をされない可能性は高い(批評的な読み方はされるかもしれないが)。前半に限って言えば、そこにある教えは、なにか普遍的な教えである、というより、ビジネスや政治経済の世界において成功するためのノウハウのようである、という点でも、批評的な材料が少ない。

それでも、批評するとすれば、それは「リアル」ということかもしれない。この技法による成果は、読み手が違和感や物足りなさを感じることなく物語の世界に没入できるところだが、しかし、逆に村上龍のこれまでの大型小説に見られた、疾走感やシャープネスが滞っているような印象も生み出してしまっている。これは「リアル」を追求すればするほど、「リアル」から遠ざかっていくことなのだろうか、という読み方だ。

このことについての結論をあせる必要はないだろう。下巻に突入しつつ、ゆっくりと考えてみたい。

いろいろと批判めいたことを書いてしまったが、エキサイティングでスリリングな物語であることは間違いないので、ようは読む側の構えを変えるということだけの問題、という気がしないでもないが。


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『半島を出よ』が、読み進まぬ。

2005-03-26 21:31:58 | ◎読
期末。そして、ハッピーマンデー。にもかかわらず有休をとって千葉のネズミの王国にはせ参じ、地球の中心やら伝説の魔宮なんかに探検に行っていたもんだから、1週間がめくるめくように過ぎた。金曜日の夕方、ようやくいくつかの仕事が片付き、帰阪の新幹線の時間にあわせ会社をでるまでには20分ほど余裕があったので、急ぎABCに向かい、待望の弁当箱を3つほど購入。3つも買ったので、いつものグレーのビニル袋ではない紙の手提げ袋にいれてくれた。ややこしいダイヤ改正にともない、発車時刻は変わらず列車号名だけがかわった20:20品川発ののぞみの車中で、さっそく厚みのある弁当箱を開く。

ひとつめは『半島を出よ 上』。村上龍のこの厚い新作は、久しぶりに期待できそうだ。そういえば、当BLOG上で村上龍について論じるのは、きっと初めてのことだと思うが、しかしそれはわたしに限ったことではなく、世間的にも文学的・批評的文脈で語られることが少なくなってきているということだ。実際に小説の執筆についても一時期見られたような旺盛さはなく、たとえば最も最近の小説集『2days 4girls』(集英社)なんて最新といっても2年も前のものだし、そこそこ村上龍好きであっても、発刊されたことすら知らない人も多いかもしれない。わたしも買ったはいいが、珍しく1ページも読んでいない。
その『2days 4girls』にしろ、その前の『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』(文藝春秋)にしろ、2000年から2003年ぐらいまでの雑誌掲載をまとめたもので、これを考えると5年くらいは、まとまった小説を書いていなかったのかもしれない。

そして、『半島を出よ』。その5年間を費やしたのだ、といわれたとき信じられてしまうほど、彼がいうところの「情報」に満ちた小説になっているとはいえそうだ。しかし、日本の政治経済課題、北朝鮮の問題がからむ以上、この小説も『希望の国のエクソダス』同様、文学的文脈で語られることはないかもしれないが、このあたりは通読してみないことにはなんともいえない。

といったことを考えながら、読み始めると、いろいろと脱線してしまって、車中から自宅と読み継ぐも、なかなか進まない。もちろん、それは読み難い小説だからというわけではまったくない。状況設定はもとより、そのストーリーテリングといい、描写のリアリティといい、過去の作品における村上龍の巧さがここでも炸裂しており、一気に引き込まれてしまうものである。

読み進まないのは、本文への行く手を阻む周辺情報や関係情報に目が泳いでしまうからだ。まず、装丁。福岡の航空写真に、小説内でも重要な意味をもつであろうヤドクガエルがちりばめられたデザインは、ジャケ買いを誘発するほど美しい。上巻が青、下巻が赤という配色も、定番的な手法ではあるが、海を着色しているアイデアは秀逸で、定番を超えた。さすが鈴木成一。じっくり見入ってしまってなかなか本文に進めないじゃないか。期待をこめてカバーを外せば、そこにはビッグタイポのハングル。半島を出よ、とでも書いてあるのだろうか、exciteの翻訳で調べてみようと、また脱線(だいたいそのようなことらしい。“村上龍”をハングルで書くとこうなるのか)。

ようやく、ページを捲りだしたわたしを圧倒したのは、巻頭に付された膨大な量の登場人物紹介。内閣情報調査室、労働党3号庁舎、先遣隊コマンド、重犯罪人、イシハラグループといったかたちで所属集団別に分類されているため、これを読むだけも、物語の大枠がつかめる。それぞれの人物に付された短文にも物語があり読み入ってしまいなかなか本文へと進めない。そのうちに、あれっ?これって、という名前が目に留まった。「イシハラ」と「ノブエ」。確か、と思いふたつめの弁当箱『半島を出よ 下』をとりだし、あとがき(村上龍はほとんどの小説において余計なあとがきを書いてしまう)を見る。やっぱりそうだ。この二人は、過去におばさんとの熾烈な戦いの結果、府中の街の半分を水素爆弾(?)で吹き飛ばしてしまったおたく、そう『昭和歌謡大全集』のイシハラとノブエだ。そういえば、冒頭登場するノブエの顔の傷は、おばさんたちによる戦傷だった。この展開は、村上龍にしては珍しいと思いつつ、『昭和歌謡大全集』を書棚から取り出してみる。内容はほとんど忘れており、まるで初読のように面白いので読み入ってしまう。脱線どころか路線変更だ。

最後の府中爆破を確認し、『半島を出よ』に戻るも、またもや、そうえいばと思い脱線。村上龍が「文学的・批評的文脈で語られ」ていたことを思い出してしまったのだ。ひとつは加藤典洋の『小説の未来』。そして大塚英志の『サブカルチャー文学論』。2つの文芸批評を読み出してしまった。前者は『希望の国のエクソダス』を扱った簡単な評で、この小説が材料を提供したところで終わってしまっていることを指摘。後者は、龍の褒めやすさと幻冬舎のマーケティング的やましさとの結託について言及してるものだ。初読時は、急ぎ読みをしてしまったので、読み入ってしまう。そればかりか、2冊の他の作家・作品を扱った章まで。とりわけ、阿部和重批判以来、石原慎太郎と大塚の問題について確認しおかねば、と思っていたので、そこまでを読んでしまった。

面白いのに遅々と進まない。

そしてベッドに入ったわたしの読みを最後に妨げたのは、もうひとつの弁当箱、町田康の『告白』(中央公論新社)だ。これは、村上龍とは直接関係ないのだが、買った以上は、少し目を通しておかねばと思い、手に取ったが最後、やめられなくなってしまった。「河内音頭のスタンダードナンバー<河内十人斬り>をモチーフに」「人はなぜ人を殺すのか」という「永遠のテーマ」に迫った「渾身の長編小説」ということで、こちらも町田の河内弁が炸裂している抱腹絶倒の物語だ(いまのところ)。主人公の熊太郎の幼少時代のくだりまでしか読み進めていないが、あいかわらずわらかしてくれる。読売新聞に連載後、半分近くを書き下ろしているのも気になる。周辺情報が少ないため(※)、とんとん読み進められるところは『半島を出よ』と大きく異なるところだ。

とはいえ、町田の『告白』は言ってみれば読書予定に横入りしてきたわけで、これはフォーク並びの町田の信義にも悖るので、まずは『半島を出よ』を通読しようという意志を貫くことにしよう。

最後の町田の話を除く横槍の多さは、まさに大塚の言うとおりマーケティング的要素の多さに起因する。言いすぎだとすれば幻冬舎的計算だ。さすれば、この小説も、政治・経済・教育エンターテイメントに終わるのか。それとも、確信さえあれば人は生きてけるというマッチョな教条で終わるのか。それとも、なにか批評的読み方ができるのか。もうこれ以上、余計な情報連鎖が起こらないこと祈りつつ、できればこの週末に読み終えたい。

と、思っていたら、得意先から「携帯に電話がほしい」、というメールが入ってきた。いそぎの仕事でなければよいのだが。

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(※)じつは、『小説の未来』では、町田康の『くっすん大黒』にも触れている。町田についてもまとまった批評は少ないため、これはこれで重要な周辺情報ではあるのだが。




連休、本など日記。

2005-03-22 02:07:26 | ◎読
■19日(土)
◎いつものように朝いち、ティップネス京橋。行きの電車のなかでは、『吉本隆明対談選』。まず、大西巨人とのじいさん対談「素人の時代」から読み始めているのだが(といっても1984年)、ちょうど『羊をめぐる冒険』、『さようならギャングたち』が出た頃で、これに加え『千年の愉楽』、『「雨の木」を聴く女たち』の4作を、吉本が誉める形で、大西に伝えたりしている。とりわけ、村上、高橋については「本質」と評している。いっぽう、本田秋五の文壇サロン好きや、遠藤周作や阿川弘之の「ちがいのわかる」CF出演などについて、大西が頑固じいさん批判しているのは面白いし正しい。これを受けた吉本が、大西に対し、「違いのわからない男の飲むネスカフェ」でCF出演すればいい、と勧めているのも面白い(本質的なはなしでなくすみません)。

◎ティップネスでは定番メニュー。エアロ「TIPMAX」については、今月3回目なので、コリオも難なく。ただし、最近は歳なのか、つかれ気味なのか、1時間のメニューでもけっこうハードに感じる。
◎『資本論』の筑摩の新訳をもとめて、京阪モールの紀伊國屋に行くも、ボロボロの1冊しかなく断念。紀伊國屋をザッピングするも、ほかには見るべき新味はなし。仲俣暁生の推奨により多和田葉子『旅をする裸の目』、堀江敏幸『河岸忘日抄』は少し迷っているが、小説については、少したまり気味なのでパス。3月28日には、村上龍の書き下ろし『半島を出よ』(幻冬舎)もでることだし。これは龍としては久しぶりに楽しみなもの。「【上巻】北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。彼らは北朝鮮の「反乱軍」を名乗った。【下巻】さらなるテロの危険に日本政府は福岡を封鎖する。逮捕、拷問、粛清、白昼の銃撃戦、被占領者の苦悩と危険な恋。北朝鮮の後続部隊12万が博多港に接近するなか、ある若者たちが決死の抵抗を開始した。」ということなので、『愛と幻想のファシズム』+『五分後の世界』+『希望の国のエクソダス』ということかなあ。

◎いったん帰宅。昼食に無印良品のジャンバラヤを食べた後、仕事。まとまった企画を考えねばならなかったのだが、クライアントやスタッフなどへのメール対応をしていると、あっと言う間に時間がすぎ、目的完遂せず。

◎夕方からは、妻の実家の両親が、ウチの娘を含めた、孫たちの卒業&就職祝いをしてくれるということで、ヒルトンプラザウェストの「ワールド・ワールド・バッフェ」に向かう。車でいったのだが、土曜の夕方の堂山町とか、大阪駅前は、無法地帯で疲れる。
「ワールド・ワールド・バッフェ」は、人気のバイキングで予約しないと1時間以上のウェイティングになるらしい。ステーキなどはまあまあの味を出していたが、少し品数が少ないか。まあ、もうそんなに食える歳ではないんだけど。

◎実家で、「ごくせん」のクライマックスのみを見る。HDD予約していたが、まあ、この最後の部分だけみれば充分か。自宅に帰宅後、予約していた「バク天」を見始めるが睡魔に撃沈。24:00頃、現に復活し、仕事をしながら、ブログ・ライティング。AM3:30就寝。

■20日(日)
◎今日は1日仕事。妻と娘は、近所の卸問屋へ。来週からTDL&TDSに行くらしく、その買い物か。VICTORINOXのビジネスバッグをリサーチしてきてもらう。ほしいのは「WebManager」だが、「WebMaster」「WebAttache」しかなく、表参道の店で現物をチェックしていたので、予約してきてもらう。いつ、入荷するのかはわからない。

◎またぞろメールなどチェックしていると、仕事は遅々と進まず。それでも、とりあえず17:00くらいには予定が完了。期末に向け、もう少しアカウントを整理したほうがいいのだが、今日は、私の実家主催の娘卒業記念食事会のため、終了。

◎超満員の「サンマルク」は、いろいろな問題を抱えており、顧客満足は著しく低下。客の「入り」と「捌き」のバランスが悪すぎる。不相応の目標達成を宿命づけられているチェーン店の悪い部分が露呈したという感じか。くわしくはかかないが、あの店は、ダメになるだろうなあ。きっと。

◎帰りに「古本市場」で、待望の『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子)、1~3巻購入。一挙に3巻買うリスクは杞憂に終わる。評判どおり、めっちゃ面白い。家族全員はまりました。ゆるいキャラクター設定もあるが、オーケストラのメンバーが順次集まってくるというくだりは、日本古来の精鋭メンバー召還パタンで、これを少女漫画で実現したところもまた人気のポイントか(南総里見八犬伝、真田十勇士、新撰組、赤穂浪士、サイボーグ009)。

◎ブログ書きつつ、『世界文学を読みほどく』など読みつつ寝る。AM3:00。

■21日(月)
◎バレーボールのコーチのため、AM8:00頃起床。週末なのに寝不足。いつもどおりの練習をこなし、13:00終了。あたたかくなるとずいぶん動きは楽になる。

◎昼食後、天牛書店本店へ。『ドストエフスキーのおもしろさ』(中村健之介、岩波ジュニア文庫)、『批評の事情』(永江朗、ちくま文庫)、『ポジシオン』(ジャック.デリダ、青土社)、『状況へ』(吉本隆明、宝島社)、『レヴィナス入門』(熊野純彦、ちくま新書)、『文学の記号学』(ロラン・バルト、みすず書房)。合計2,330円。わりあいとお得な買い物。フエリック・ホッファーの『波止場日記』(みすず書房)とか『自伝』(みすず書房)や『となり町戦争』(三崎 亜記、集英社)は、あきらめる。

◎『ドストエフスキーのおもしろさ』は高校生中学生向けドスト入門書。箴言に対し解説を加えるというパタンなので、彼の全体像がつかめる。あらためてみると、ドストはやっぱり良いこと書いてるよ。『ポジシオン』はクリステヴァとの対談が読みたかっただが、いきなり難解な対話でめげる。バルトのものは、最近新刊でみかけないためとりあえず抑える。

◎寝不足解消のため昼寝しようと思うも、またクライアントからのメール対応。内容は、簡単なものだが、明日の予定の調整もあり、考え込む。午前は新幹線で移動のため、今日のうちに内容を固めておきたかったのだが、クライアントから即答をいただき、予定決定。

◎月曜日なので、ふだん見ることのできないくだらないTVプログラムをみつつ、少し今週の予定を整理しつつ、これ書きつつ。この感じだと、AM2:00過ぎには寝れそう。


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『SIGHT』、究極のマンガ200冊(2)

2005-03-21 01:25:01 | ◎読
『SIGHT 春号』の特集「究極のマンガ200冊!」、70年代の選者は、村上知彦×高橋源一郎。なんだか高橋源一郎に元気がないのは、きっと村上知彦がはりきっていたからだろう。
かたやはりきったおかげで、かたやそのはりきりをかわそうと斜に構えたおかげで、選ばれたマンガは、マニア受けするもの作品性の高いものになっている。

70年代は、60年代に着火したマンガの炎がぼうぼう燃えた時期であり、幅広い年代層がマンガに触れていたであろうから、そこで20なり30なりの作品を選んでしまうと、喧々囂々、絶対に決まるはずがなく、その点でこのふたりは、ある意味正しい選択軸をおいたといえるかもしれない。以下が選ばれたもの。

■『アゲイン』、■『男おいどん』、■『レッツラゴン』、■『デビルマン』、■『暗黒神話』、■『マカロニほうれん荘』、■『翔んだカップル』、■『うる星やつら』、■『ポーの一族』、■『ジョカへ…』、■『贈り物』、■『たそがれ時に見つけたの』、■『ガラスの仮面』、■『風と木の詩』、■『一万十秒物語』、■『赤色エレジー』、■『血染めの紋章』、■『喜劇新思想体系』、■『猟奇王』、■『やけくそ天使』、■『バイトくん』、■『じゃりん子チエ』、■『まんだら屋の良太』、■『おんなの街』、■『ドラえもん』、■『桜画報大全』、■『少年レボリューション』、■『ショートピース』、■『男一匹ガキ大将』、■『すすめ!!パイレーツ』、■『ダメおやじ』、■『天才バカボン』、■『東大一直線』、■『まことちゃん』、■『デロリンマン』、■『カリフォルニア物語』、■『少年のZF』、■『高校生無頼控』

たとえば『デビルマン』、『天才バカボン』、『東大一直線』、『ガラスの仮面』などは、中途半端なマンガ好きのぼくにとってわかりやすい。いっぽう、『男おいどん』、『マカロニほうれん荘』、『桜画法大全』、楳図の2作などはわかりにくい。70年代に小中学生だった男子にとっては少女マンガもよくわからないという世界だ。

『男おいどん』なんて、ぼくの場合はたまたま家にあったから、小学生としてさほど面白くなかったにもかかわらず、繰り返し読んだのだけれど、たとえば団塊の人たちならうなずけるのろうか。ダメ男主人公・大山昇太が、彼女かライバルかから借りた『罪と罰』を読む読まないなんてことでもやもや逡巡していたシーンを覚えているが、団塊の人たちが学生の頃は、こんなのだったのだろうか(いや、面白いことは面白いんですけどね)。また『マカロニ…』は以前も書いたがぼく自身は完全にNGで(高橋もNGらしい)、じゃあ『がきデカ』はどうなったのかと思ってしまう。『桜画報大全』も、本棚に新潮文庫版があるから知っているのであって、やはり『朝日ジャーナル』世代でないとわからないものだ。楳図については、本来的には『漂流教室』を揚げてほしい。

といった感じで、だれもが異論を唱えやすい。異論を唱えたい人のために、恰好の素材があるので、そのなかから70年代のマンガをひろってみる。

ひとつめは『BRUTUS 1999/8/1=少年ブルータス』。ご存じの方も多いと思うが、『BRUTUS』のこの「死ぬまでマンガを読みたい」特集は、一般受けしそうな約40の名作マンガのクライマックスの一部(おおむね4pぶんくらい)を抜粋してまとめたものだ。たとえば『あしたのジョー』であれば、矢吹が力石のアッパーに倒れるシーン、『漂流教室』であれば、タイムスリップした大和小学校の巨大な空洞を眼前に校名板をもち立ち尽くす少年のシーン、『ドカベン』は、常勝・明訓が弁慶高校に初黒星を喫するシーン、『サイボーグ009』は、ジョーとジェットが宇宙より落下する「地上より永久に」のシーン。
ここにあげられている70年代カテゴリーのマンガを列挙すると、以下のようになり、そういえば、これを選びたいね…と思われる方も多いだろう。

『アシュラ』、『ヤスジのメッタメタガキ道講座』、『キャプテン』、『男おいどん』、『漂流教室』、『ドカベン』、『トイレット博士』、『魔太郎がくる!!』、『愛と誠』、『恐怖新聞』、『釣りキチ三平』、『ブラック・ジャック』、『男組』、『サーキットの狼』、『エコエコアザラク』、『サバイバル』、『マカロニほうれん荘』、『すすめ!パイレーツ』、『天才バカボン』、『包丁人味平』、『がんばれ元気』、『がきデカ』、『リングにかけろ』、『翔んだカップル』、『うる星やつら』、『キン肉マン』、『ドラえもん』。

『BRUTUS』のターゲットにあわせた、俗っぽい選択になっているわけだが、これこそがマンガのあるべき姿ともいえる。以前も書いたが意外に今でも『ドカベン』が好きだという人は多い。おそらく太田光の『ドカベン4コマ』に登場するコマがどのシーンかを言い当てることができる人も多いだろう。北見けんいちが『ブラックジャック』を描くというのはあきれるほかないが、それだけ完成度の高い構造が提示されているともいえる。いくら中性的で知的なフリをしていても『男組』をはじめとした池上遙一(+雁屋哲or武論尊)の描く覇権の物語に耽ってしまう男子も少なくはないだろう。
マンガの物語世界は、読んでいた人にとっては、その人のモノの考え方に深い部分で影響を与えているかもしれないし、そういうマンガこそが、たとえ作品性がなくても俗にまみれていても、究極のマンガといえるかもしれない。

もうひとつは、『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』。1996年発行のムックで、まあそうとう充実したマンガ愛好本である。ミソっぽいものからカスっぽいものまでマジで70年代のマンガを総ざらえしている感じなので、すべてを列挙できないが、ほんの一部だけいくつかここまで登場していないものを並べてみる(70年~79年、連載開始・掲載のもの)。

【PART1 馬鹿の時代】 『男どアホウ甲子園』、『銭ゲバ』、『侍ジャイアンツ』、『空手バカ一代』、『釘師サブやん』、『荒野の少年イサム』、『ど根性ガエル』、『アストロ球団』、『オモライくん』、『バイオレンスジャック』、『エースをねらえ』、『おれは鉄兵』、『おれは直角』、『プロゴルファー猿』、『ドーベルマン刑事』、『スケバン刑事』、『嗚呼!!花の応援団』、『750ライダー』、『俺の空』、『聖マッスル』、『こち亀』、『赤いペガサス』、『できんボーイ』、『青春動物園ズウ』、『1・2の三四郎』、『ダッシュ勝平』
【PART 2敗れ去る未来】 『光る風』、『バビル2世』、『妖怪ハンター』、『三つ目がとおる』、『11人いる!』、『地球へ…』、『銀河鉄道999』、『コブラ』、『不条理日記』、『凄ノ王』
【PART3 SEXという青春】 『フーテン』、『まんが道』、『博多っ子純情』、『青い空を、白い雲がかけてった』、『ゆうひが丘の総理大臣』
【PART4 少女はあこがれているか】 『アリエスの乙女たち』、『年下のあンちくしょう』、『ハイティーンブギ』、『生徒諸君!』、『綿の国星』
【PART5 挑戦する魂】 『やけっぱちのマリア』、『私立極道高校』
【その他】 『ザ・ムーン』、『柔道賛歌』、『夕やけ番長』、『けっこう仮面』、『風と木の詩』、『ルパン三世』、『イヤハヤ南友』、『試験あらし』


あえてマニアックなものも選んでいたりするので偏りはあるとおもうけど、これでだいたい70年代のマンガは一覧できている感じだろうか(少女系は知識脆弱ですみません)。『青春動物園ズウ』なんて異色だけどサンデー連載時は、毎号楽しみにしていた。いま読むとどうしようもなくて途中で放り出したくなる『アストロ球団』のようなものもあるし、2項対立で裁くことのできない善悪の問題を幼い少年たちに提起する、今だから読むべき『ザ・ムーン』なんて恐ろしいマンガもある。

こうしてみると70年代のマンガは「愚鈍・愚直・子どもっぽさ」と「洗練」のちょうど橋渡し的な位置づけにもみえ、その変容とシンクロして、小学校で『アストロ…』によりマンガに動機づけられた子どもが成長に応じて『ザ・ムーン』などに興味の対象を変容させていくプロセスは、「物語形成能力の発達」という点で、望ましいことかもしれない。

ということで、娘への物語形成能力養成も期待しつつ、ようやく買った『のだめカンタービレ』を読み始めます。


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↓なかなかあがってこないので残念ですが。


アメリカ文学を読みほどく。

2005-03-20 03:15:17 | ◎読
あぶない、あぶない。買ってたのを忘れるところだった。池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』。すでに、書棚の下のほうに堆積しはじめていたところ、無事に救出できました。
しかし、池澤夏樹という人は、やはりブックガイドをやらせたらピカ一だね。本書は、2003年に京大文学部で行われた夏期講義をまとめただけあって、語り口が異様なまでに易しいのだけれども、それ以上にわかりやすいのは、とりわけ、いくつかとりあげられているアメリカ文学の読解を現在のアクチュアルなアメリカのグローバリズムや消費主義の解釈とうまくつなげているところだ。現代アメリカの病巣を抉るアメリカ文学のありようについては、いま池澤がとりたてて語るほどのこともないのだが、2003年現在の事情に照らし合わせた因果の読みほどきかたは、少しは新しいのかもしれない。

たとえば、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』における陰謀史観とパラノイアを現在のアメリカにトレースしてみる。

『今のアメリカにはさまざまな形でパラノイアがある。一番わかりすい例を最初に言ってしまうと「イラクには大量破壊兵器があって、イラクはそれを以ってアメリカ本土を攻撃しようとしている」。少しアメリカ社会を知っている人間にとって、これは典型的なパラノイアです。事実は「そんなことはあるはずがない。イラクにはもうそんな力はない。彼らにはそんな意図はない」ということを示していたのに、このパラノイアに乗って実際に戦争が始まってしまう。不思議な社会だと思います』

『アメリカの中でさまざまな事件やテロ事件が起こった場合、それが自称テロリストの個人的で勝手なふるまいなのか、それとも全ての糸を引いて暗躍する「アルカイダ」が存在するのかという疑問が、まず浮かぶ。そしてそれは、往々にして「アルカイダ」の方に結びつけられる、すなわち「陰謀」という結論に落ち着くことが多い。
パラノイアの問題がいかにアメリカにとって大きいかわかりますね。他の国では、ここまでみんなが疑心暗鬼にはなっていない。ここまで力ある何かが陰で糸を引いてはいない。
現代社会をこういう形で解釈しようとする。あるいは表明しようとする。これがトマス・ピンチョンという男の仕事全部を貫くスタイルであり、彼のテーマなのです。』


このあたりは、ピンチョンをもとにアメリカという国を解読するというよりは、ピンチョンをわかりやすく読むために、アメリカを引き合いにだす、といったほうがいいかもしれない。しかし考えてみれば、アメリカは『競売ナンバー49の叫び』で語られれいるような裏表のあるような国家に変わってきたような気もするし、そういった変容の証左として『キャッチ=22』的パラノイアが、実際の戦争という形で実現する世界になったというのは、まあ恐ろしい話ではなある。

また、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』では、アメリカという国家、アメリカ人には、抱えている深い、暗い、危ない部分があり、それは、たとえば南北戦争に負けた「南部」に起因するところがあるとしつつ、

『歴史が短いから過去の事例に縛られない。だからどこかで歯止めの利かないところがある。つまりトマス・サトペンのような人物を生み出しかねない。あるいはトマス・サトペンのような政府を生み出しかねない。そのあたりを前提とした上で、アメリカという国を、世界の中で相対的に見ることが大事だと思います』

『……今ある倫理の基準で過去を裁いてはいけないのもしれないけれど、しかし、かつて(先住民から土地を)奪ったということ、それから黒人をアフリカから連れてきて束縛した上で、強制労働をさせた、それによって富を作った、ということは、アメリカ人の心のどこかでずっと、一種の重い罪の意識のような形でずしんと残ってきたのではないだろうか。それが今アメリカ人全体に影を落としているのではないか、という気がします。』


と、ある意味で穿ったともいえる見方をしている。ここに正確なロジックがあるかどうかは別として、現代において避けて通ることのできない、いきなり強大になってしまった国家を見極める目をやしなうために、近現代に書かれたアメリカ文学を読みほどくという行為は重要なのかもしれない、とは思わせる。ぼく自身は、アメリカ文学が好きなので、さまざまな作品と作家に触れてきたとはいえ、これまではポリティカルな読み方はしてこなかった。「奇妙な個人の物語」こそが、アメリカ文学の愉しみだと考えていたからだし、なにより他国の政治的な問題、社会的な問題について考える時間的な余裕もなかった。

しかし、考えてみれば、デリーロやオブライエンはもとよりヴォネガットでさえも、個人と国家の関係性について語っているわけで、この歴史の浅い国が急激に成長していく過程においてうまれた心と体の成長ギャップという視点を投入することで、読み方が大きく拡がる可能性もある。現に、池澤の紹介により、『競売ナンバー49の叫び』と『アブサロム、アブサロム!』が再読したくなってきてもいる。

また、そういった意味では、これらにドライザーやドス・パソス、ケン・キージーなども加えなければならないのだろうが、これら作家の作品はいま日本では正常なルートではほとんど読めなくなってきている。まあ、研究者ではないので、やっきになることはないのだけれど、チラッとは見てみたいところだね。

あ、アメリカ文学のことばかりに触れてきたけれど、『世界文学を読みほどく』では、それはあくまでも一部で、紹介されたその他8作は、『パルムの僧院』(スタンダール)、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)、『白鯨』(メルヴィル)、『ユリシーズ』(ジョイス)、『魔の山』(マン)、『ハックルベリ・フィンの冒険』(トウェイン)、『百年の孤独』(マルケス)と、アジア以外の国家バランスはとれている。いずれも、稀代の読み手の紹介だけあって、初読み、再読をそそる。
こんな読みの精度がここまであがったんだからきっと、自作の『静かな大地』もよく書けているに違いない、と思えないのが、彼の問題ではあるのだが。いや『マシアス・ギリの失脚』はよかったんだけどね。


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『SIGHT』、究極のマンガ200冊(1)

2005-03-17 18:46:35 | ◎読
なんからしらんけど、めっさ忙しいので、どうしたものかと思いつつも、噂の『SIGHT 春号』の特集「究極のマンガ200冊!」(※)を弄ってみる。マンガを語るのに、ここまで文字が要るか?と思われるほどに字をつかった読み応えのある特集で、中途半端にマンガ好きな人にとってはとってもうれしい編集だ。

もちろん中途半端なマンガ好きというのはわたしのことなのだが、『SHIGT』では、60年代から順にディケイドごとに、マンガ識者の対談形式で重要なマンガをピックアップしており、それゆえ著名なマンガが集まっているため、そんなわたしでもそれなりの一家言を吐きたくなる。

■60年代はこれを読め!夏目房之介×渋谷陽一
■70年代はこれを読め!村上知彦×高橋源一郎
■80年代はこれを読め!藤本由香里×山本直樹
■90年代以降はこれを読め!南信長×枡野浩一

それぞれのあいだに、箸休めとしてはいささか腹にくる、平田弘史、藤子不二雄(A)、江口寿、安野モヨコのインタビューがはさまっているが、ここでは、ピックアップされた200のマンガについてわたしなりに意見をはさんでみる。

【60年代はこれを読め!夏目房之介×渋谷陽一】

『ストップ!にいちゃん』(関谷ひさし)

『スポーツマン金太郎』(寺田ヒロオ)
ときわ荘の良心、寺田のマンガだけに、とても美しいほのぼの野球マンガ。小学生のときに買った講談社漫画文庫全4巻を所有している。子ども金太郎と桃太郎が山からおりてきて巨人、南海などの職業野球団に入るという他愛もない話ではあるが、面白くないか、といえばそんなことはなく、設定はかなり考えられている。たとえば、金太郎と桃太郎は、ときには同じ巨人に所属しつつも最終的には別チームにわかれるといったライバルづくりの関係や、ターザンが阪神の助っ人外人として加入するなど、その後の野球漫画の基本的な構造は、ここで形づくられているともいえる(星-花形・伴-オズマ、番場-・眉月・八幡-ウルフ・チーフ)。渋谷陽一が「感情移入できなかった」のと相反して、わたしの4巻はボロボロになっているほどほれ込んだ次第だ。金太郎、桃太郎キャラの造形は、2005年現在でもじゅうぶんに通用すると思われる(最近、食玩あったっけ?)。ウチの娘も近年小学校低学年から何度も読み返していたもよう。

『伊賀の影丸』(横山光輝)
『忍者武芸帳』(白土三平)
残念ながら忍者ものは「カムイ」以外はほとんど読まず。

■『猫面』(楳図かずお)
じつはすべてのマンガ中のマイベストは『漂流教室』で、『ウメカニズム』や最近の彼の直筆サインももっていたりするんだけれど、60年代あたりの恐怖シリーズは断片的にしか読んでいない。くわしくは70年代の『アゲイン』で。

『血だるま剣法』(平田弘史)
このあたりは「貸本漫画」とカテゴライズされているが、すでにわたしが小学校の頃には、街角からは消失していた。

『ワイルド7』(望月三起也」)
最初に知ったのはテレビドラマ。主要登場人物があまりにもあっさり死んでしまうことにショックを覚えた。マンガのほうでは、もっとたくさん死んでいって、どうしたものか、と思っていたら、渋谷陽一も「不安になるマンガ」と話している。飛葉も最後は死んじゃうんだっけ?飛葉だけが残るんだっけ?

『墓場の鬼太郎』(水木しげる)
こちらも小学館文庫のものが、おおむね揃っている。少年マガジンでの連載をオンタイムで読んでいたわけではないので、とうぜんテレビアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』との絵的ギャップ、たとえば、目玉おやじが鬼太郎の父親のなきがらからドロッと落ちて誕生するシーンなどには驚愕したが、いっぽうで赤ん坊の鬼太郎などはなぜかかわいらしく、安心して読めたと覚えている。おむねのストーリーは、テレビと一致しており、個人的には、多くの人がそうかもしれないけれど妖怪大戦争のイヤミな紳士(バック)ベアードなんてのが面白かったですね。

『カムイ伝』(白土三平)
90年代までビックコミック誌上で連載されていた第2部や、外伝などを読み通す気力と時間がなかったですね。集中して読めばその大河と群像は面白いのかもしれないけれど。基本的に時代劇・時代ものはNGなので、まあしようがないと思いつつも、全巻買いしようと目論んだりもしている。

『火の鳥』(手塚治虫)
最初に読んだのはロビタの「未来編」。所有しているのは朝日ソノラマの大判で、何回も何回も読んだ。火の鳥が、すべての時代を看取る、という発想に幼い心は感動していた。このあたりが、わたしが小説において形式的なものやサーガにひかれる原点かもしれない。
■『長八の宿』(つげ義春)
■『ほんやら堂のべんさん』(つげ義春)
つげ義春は、全集的なもの何冊か所有している(たしか筑摩の単行本と、小学館文庫)。「ガロ」の話なども含めて、なにか語らなければいけないのだろうが、語れないところがわたしの中途半端たるゆえんである。

『漫画家残酷物語』(永島慎二)
■『台風五郎』(さいとう・たかを)
『無用ノ介』(さいろう・たかを)
■『殺し屋ナポレオン』(園田光慶)

■『セブンティーン』(宮谷一彦)
『SIGHT』誌上では、夏目房之介が、宮谷一彦は70年代以降「全然作品発表できない(笑)。復刻も少ない」と言っているが、じつはそうでもないし、ディープなファンも数多く存在するようだ。かく言うわたしは、読んだことく、申し訳ない。

『はみだし野郎』シリーズ(真崎守)

『あしたのジョー』(ちばてつや・高森朝雄)
『巨人の星』(川崎のぼる・梶原一騎)
いまこの2つを読めば明らかなのだが、『あしたのジョー』は2005年現在でも充分通用するまったく隙のないマンガにしあがっているが、『巨人の星』については、読むのが厳しい場面も数多くある。これは『新・巨人の星』でも同じ。当然だけれど、ちばてつやの力(キャラクター造形力・交渉力・調整力)に負うところが多いのだろう。もちろん、絵の巧みさにもずいぶんな差がでているもの自明のとおり。わたしも小中学生の頃、ジョーの扉絵やラストシーンなどは何度も模写したが、飛雄馬を書いた覚えはない。

■『龍神沼』(石森章太郎)
『サイボーグ009』もマイ・フェイバリット10にははいる。石森がわりあいにしっかり書いていたころがいいね。筋も絵も完成度が高かった。たとえば009の「天使編」とか「神々との闘い編」などもそういうことだろう。それ考えると毎号連載が4Pくらいだったサンデーの『キカイダー』とか、ほとんど筆を入れていない『ホテル』にはひかれることはなかった。夏目が言うように、石森は後半プロデューサーになってしまったということだろう。

『おばけのQ太郎』(藤子不二雄)
『モジャ公』(藤子・F・不二雄)
藤子不二雄が、中央公論社から出ていた(でている)、分厚い短編集がなかなかいいです(文庫とかになっているのかなあ。ああ別のエディションで小学館文庫とかに入っているんだな。きっと)。『カンビュセスの籤』、『みどりの守り神』、『征地球論』ですね。で、基本的に「F」。「A」の『魔太郎がくる!!』『プロゴルファー猿』は真剣に読んでいたけど、こちらもいま見るときついですね。

『ギャートルズ』(園山俊二)


以降、70年代、80年代、90年代は次回以降で。しかし渋谷陽一は歳とったなあ。


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(※)ちなみに、『SIGHT』の今号は、近頃ロックの殿堂入りしたU2のインタビューなど大特集や吉本隆明のインタビューなどでけっこう充実している。というか渋谷陽一が頑張っているようではある。U2は、殿堂の受賞式で、スプリングスティーンと競演したようだが、これ、どこかのTVプログラムでやらないかね。また、吉本といえば『吉本隆明 対談選』(講談社学芸文庫)も購入したので、別途紹介します。フーコー、大西巨人、高橋源一郎との対談が面白そう。


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村上春樹を愉しもう。

2005-03-13 01:05:00 | ◎読
つまり、そこに含意を見つけようとする解読、有用な説法を求めるような読み方は、もうしなくてもいいのではないか、という仮説である。『新潮』4月号の『東京奇譚集2 ハナレイ・ベイ』と『文学界』4月号の『村上春樹ロングインタビュー アフターダークをめぐって』を併読すればこの仮説の蓋然性をなんとなくは理解いただけるかもしれない。

『ハナレイ・ベイ』は、前回の『偶然の旅人』のようなポール・オースター的シンクロニシティを引き受けるわけではないオリジナリティを感じさせる物語である。鮫により足を食いちぎられ絶命してしまったサーファーの息子の軌跡をたどり、その命日には必ずホノルルのハナレイの町で過ごす母親の話である。しかし、自分だけが、片足のサーファーの亡霊に遭遇することができず、そのことに悔恨を感じるというくだりにより「奇譚」としてカテゴライズを与えられてる。

なんの前触れもなしにネタをばらしてしまい申し訳ないが、じつは種明かしはこの掌編にとってはどうでもよく、それを知ったうえでもかつ充分に読む価値の高い物語である。なぜか?それは純粋に面白いからである。ディティールとプロセスが面白いからである。
主人公であるサチさんは『アフター・ダーク』にて造形された、ラブホテルのオーナーカオルさんのキャラクターであるビッグ・マムぶりを受け継いでおりその言動のすべてが抜け目なくクレバーで気持ちい。また、会話は、それが実際の会話では使われることのない言葉であったとしても、私たちの心を知的に安定させてくれる。スノッブなひねりも顕在だ。

もちろん、『東京奇譚集』に通底するテーマは「突然襲いかかる暴力的な悲劇に、私たちはどのように対峙し、穏やかさへのきっかけをつかめばいいのか」ということが自明である。しかし、もはやこのことを解読する必要はない。わたしたちは、例示される生き方のさまざまなオプションを愉しめばいいのだ。『偶然の旅人』の読後に、これは「議論にすべき物語かどうかはなんともいえない」といったような感想を書いたが、その答えは、こういうことだ。

「ああ、面白かった。なんかいい話だったなあ、もう1回読んでみようか。うん?そういことか。そういこともあるよね---」。これが村上春樹の短編と中篇の正しい読み方であり、このことについて確信を与えてくれるのが『ロングインタビュー』である。

同インタビューは『アフターダーク』の執筆にあたっての村上春樹の立ち位置を明確にしたうえ、そこで紡がれた物語のエピソードと登場人物について、そこにあるように見えた謎についてなんらかの解題を与えることを主眼としたものである。わたしも以前のエントリーで少し触れたが、「視点」の問題を含む『アフターダーク』の「謎のなさ」についてはインタビューを一読いただくとして、ここで饒舌に語られる創作姿勢をみれば(※1)、彼の掌編はできるだけストレートに読む読み方が正しいということがよくわかる。

もちろん彼としては『できるだけシンプルな文章で、できるだけ複雑な物語をつくりたい』わけだから、たんに「ああ面白かった」で終わるわけにはいかず、「なにが面白かった」のを考えてみる必要はあるのだが、それはけっして謎解きに満足する読み方ではなく、面白さの原因を探る再読において、ときほぐされた複雑さから、また新しい面白さを発見するという純粋な読書(物語)の愉しみという読み方に相違ない。「どこが面白かったのか」を自分の言葉で語れる読み方ということかもしれない。

そう考えたとき、おそらく彼は中産階級のカーヴァーや、チェーホフを意識しているのだろうということが自明になってくるし、そうである以上、わたしたちは、彼の物語をシンプルに愉しむほかないわけだ。このスタンスで数々の短編はもとより、『アフターダーク』をはじめ『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』といった中篇を再読してみるというのはどうだろう(※2)。

しかし、ここまで「愉しむ論」を展開してきてなんだが、タメが炸裂する(※3)長編においては、こうはいかないことは、ご理解いただけると思う。


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(※1)じつは、このインタビューでは、語られることのなかった彼の秘匿も、ポロポロでてくる。たとえば、けっこう批評を気にしてたんだなあ、とか。
(※2)だからといって、新しい作家の新しい小説が次々に出版される状況下において、村上の作品を再読できる機会はそうは多くない。そんなとき『象の消失』のような過去の作品のアンソロジーが出版されることが再読の機会を有効に作り出すということになる、ということか。
(※3)これまでのインタビューでも語られたが、着想をすぐに書き出すのではなく、机の中でためおき時期がくるのをまつ、この「タメ」については、今回のインタビューでもくどいくらいに言及されている。どの「タメ」が、どの作品で炸裂したのかがわからないところは、素人読者にとっては困りものなのだが。


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↑『文学界』、『新潮』の詳細はまた別途。
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青木淳悟を考えてみる(1)

2005-03-12 02:03:24 | ◎読
小説というものに、なにか自分を安心させてくれるようなストーリーを求めているような人にとって、青木淳悟の2作はきっととっつきにくいものに違いない。それはつまり、「安心できない」なかで読み続けなければならないし、「ストーリー」はつねに偽装の可能性をはらんだ安定していないものだからということになる。

なにか意味があるのか?と、さまざまに思案する読み方も玉砕する。彼の小説には、おそらく、おおむねのところ意味はない。というか、そこに書かれていること以上の含意はない。

つまり、彼の小説を読んだことで得る成果はなにもないということだ。

しかし、それでも読み手は、都度立ち止まって考え、確認を繰り返さなければならない。いったいわたしはいまどこにいて、どこに向かおうとしているのか?そこで、数ページ前に戻ったとしてもそこに答えがあるわけでもない。遡行した瞬間に、遡行したことを忘れその地点から新しい物語を読み始めたかのような錯覚に襲われるだけだ。それは、『四十日と四十夜のメルヘン』において、七月四日から七月七日までの四日間の日記が延々と繰り返され、にもかかわらずなんの違和も感じられず、つねに新しい七月四日を過ごしていると思えてしまう感覚に似ている。前世の記憶(=読み進めた記憶)を忘れてしまうリインカネーションのようでもあるし、ヴォネガットの『タイムクエイク』のようなことかもしれない。

これは何度も何度も新しい言葉の断片が発見でき、その組み合わせにより何度も何度も新しい読み方できる、ということにほかならない。実際の物語においても「断片の集積」が散見する。あちこちのチラシの裏に書き付けられた作中メルヘン、小片の護符の裏にに書き付けられた手記をこれも断片の象徴である京大式カードに翻訳したものを再編集することでうまれた作中小説、これらを束ねるこれもまたチラシの裏に書かれた日記としての形式。主人公の行動すらも、文芸創作学校にいってみたり、フランス語講座に通ってみたり、染物教室に行ってみたりといったまったく安定しない断片の集積である。しかし、冷静に考えたとき、すべての人間のコミュニケーションと行動は、断片の集積であり、なにか一貫したシナリオ・ストーリーのまま、リニアに正確に積み上げでまい進ししているわけではなく、ここに書かれた実態こそが、実態であるともいえ、その点では、あるべき普通の生活をより正確に文字に転写した小説ということになる。

したがって、もちろん「成果はなにもない」とういうのは、人生訓的な成果がないということにすぎない。人間のコミュニケーション、記号によるコミュニケーションの有効性と無効性を考えるうえで、これを小説という表現形式に落としたという成果は大きいし、なにより、あくまで文字断片の集積である小説というものの新しい読み方を提起したという成果は傑出といっていいかもしれない。あのとき平野啓一郎は斬新だったかもしれないが、それすらまやかしと思えてしまうこの卓越を新潮社は、もっと過激にプロモーション(=しっかり研究)したほうがよいかもしれない。

現在、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』、『クレーターのほとりで』についてのまとまった評価は保坂和志の『ピンチョンが現れた!』、斎藤環の『「聴覚的小説」の手触り』(『新潮』4月号)、山之口洋の『利己的な「チラシの裏の日記」』などであり、どれも的を得た正しい評価といえる。これこそが、多角的な読み方の成立を許すということにほかなならない。保坂の言うところの「ピンチョン」というのもよくわかるが、読み終わった直後の盲目的な感想としては、むしろ島田雅彦の「日本語を使ってこんな芸も可能なのだという驚き」が端的かもしれない。正確には、「書かれた言葉」を使ってこんな嘘も可能なのだという驚き、ということになるだろう。

しかし、いずれの批評もその題材の特質から、一定のリテラシーがなければ理解しにくいものにはなっている。当然のことながら、ここまでわたしが書いてきた文章も、とてもわかりにくいものになっている。

わたしとしては、この青木淳悟の2つの作品~私小説の構造を援用した『四十日と四十夜のメルヘン』、SFの構造を援用した偽史『クレーターのほとりで』~の魅力を、彼が次回の芥川賞をとるまでに、できるだけ平明な言葉でできるだけ多くの人に伝えることにトライしてみたいと考えている。文字という記号による攪乱。断片と分裂と統合。いとも簡単な作者の死。スリリングな形式と形式の破壊。終わりという形式(=『グランド・フィナーレ』とまったく同じ枠組み)。そして数々のトラップ。さまざま、視点をもってこの虚構を解読したいところだ。

これから青木淳悟の小説論を進めるにあたって、2つの作品のストーリーラインを、これも断片の継ぎ合わせで紹介しておく。

●『四十日と四十夜のメルヘン』
-住宅地へのチラシの配布を生業とする主人公。
-主人公の家(公営団地)には、配りきれなかったチラシが山のようにたまっている。
-いつの頃からか、隣りの家から盗み始めた新聞も堆積している。
-主人公は、そのチラシの裏に、日記を書き付けている。
-文芸創作教室に通っていたこともあり、チラシの裏には、日記だけではなく『チラシ(=クロードとクロエ)』というメルヘンを書き付けている。この創作作業が主人公の内面で肥大していく(ようにみえる)。
-文芸教室の先生は作家。有名というわけではないが、少なくともひとつは作品を残している。基本的にまじめな創作態度ではない。唯一承認された物語『裸足の僧侶たち』は、11世紀のキリスト教弾圧のため虐げられた修道士の話。そもそもは、修道士が残した小片の護符の裏にに書き付けられた手記をもとにした編集であり、オリジナルの小説ではない。
-主人公の書く日記は、なぜか7月4日から7月7日の4日間を何度もくりかえす(10回?)
-主人公は地元でもっとも安いスーパーについて確信的である。
-主人公の勤め先のチラシ(印刷)ブローカーはグーテンベルクという名であり、作中メルヘンでは、グーテンベルクによって発明された印刷機そして複製という行為が巻き起こす騒動が中心的な話題となる。
-主人公はチラシを配りつつ、ときには担当地域を離れ、北海道東北までさまよう。
-しかし、ここに書かれたことは思弁的に書かれた嘘である可能性を多いに孕む。しかし、真偽のほどはわからない。し、取りざたされるものではない。
-小説の冒頭には、「必要なことは、日付を絶対に忘れずに記入しておくことだ。」という、
野口悠紀雄『「超」整理法』からのエピグラフが置かれている。
-登場人物の内面、性別など定かなことは罠にまみれている。

●『クレーターのほとりで』
-人類の起源を考えてみる偽史である。もうひとつの歴史の可能性というほうが正しいかもしれない。
-古代のようなところで、沼のほとりのようなところにあつまった原生人類が営みをはじめ共同体のようなものを形成していく話が端緒である。
-ネアンデルタール人とクロマニヨン人がこの場で、精神的に生殖的に融合する。つまり猿と人間が結ばれる。
-古代に人類のひとつの家族の埋葬された時点で、視点は現代に切り替わり、彼らの生活場の発掘作業をめぐる顛末が描かれることになる。
-発掘の場において対立してるのは、創世記で語られている人類の起源を科学的に証明しようとしている「創造科学研究所」のシオン賢者による「エデン調査団」と、その場を天然ガスの宝庫とみた狡猾な企業LNGである。
-シオン賢者は、この地にエデンの東を求める。立脚点は「ケルビム幼獣の骨」の発掘であり、これがある以上アダムとイブの骨が埋葬されているということだ。
-発掘作業において、古代の沼があったようなところに、クレーターのような穴を掘削する。
-ひょんなことから、企業の思惑はつぶれ、あまつさえ、古代人骨が発掘される。
-古代と現代をつなぐのは、歌である。
-といったようなようなことが、もっともらしい(ほんとうかどうかはわからない)科学的根拠のなかで語られている。


もちろん、書かれたことはすべて嘘の可能性もあるわけで、これを考えると、つぎに青木の作品を語る日が来るかどうか、つまり「青木淳悟を考えてみる(2)」がエントリーされるかどうかはわからない。


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↑なんだかんだ言っても、若干25歳の
↑青木くんは凄い。久しぶりに、
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ジャック・ジョンソン、くるり。

2005-03-07 19:42:35 | ◎聴
そりゃ、黄色いタワレコに黄色い一角ができれば、否が応でも(or 弥が上にも ※1)目立つので、盲目的に買い物カゴにいれてしまった人も多いかもしれませんが、わたしもまたぞろ直感で買ってしまいました。Jack Johnsonという人は、そんなに有名な人気歌手だったのだろうか。たぶん「サーフ・ミュージック」とか「癒し系」といったふれこみでプロモートされていたから、偏狭音楽趣味のぼくは知ることがなかったのだろう。

例によって、コアなファンの人にしてみれば、とりわけサーファーの人たちからみれば「なにをいまさら。遅ぇーんだよ、莫ー迦。」ということになるわけだが、その言葉を真摯に受け止め、これからも世の中に無限にある良い音楽というものを、ゼロベース思考で探していこうと思った一枚ではあった。

Jack Johnsonの3作目にあたる『In Between Dreams』は、わたしには、決して「サーフ・ミュージック」、「サーフィンの後、夕方に海辺にとめた車のなかで流す音楽」には聴こえなった。世間では、こういうものをサーフミュージックというのかもしれないが、サーフミュージックってカテゴライズするから、聞き逃しちゃうんじゃないかよ、ということである。
また「メロウ」といった評価もあったりするが、そもそも「メロウ」ってのがなんだかわからないので、なんだかわからない不良導体には触れないというのが人の常だ、ということである。

すみません。ぐだぐだ(or くだくだ ※2)言わんと結論かきます。硬いアコースティックギターを聴いてみたい人、クリスプなリズムで軽く身体を動かしてみたい人は、ぜひ、まずここらあたりで試聴していただいたうえ、ここらあたりで購入してみてください。たまには、食わず嫌いをくるりっと返上するのもいいかもしれませんよ。

で、そのくるりだが。

『birthday』は、なかなか判断の難しい新曲集ではある。「いわゆる」くるりらしい楽曲であり、そのくるりらしさが好きな昔からのファンにとっては、文句のつけどころのないものだと思われる。

ただ、そういう人たちのなかにはオリジナリティがなくなったといった理由で、『アンテナ』が許せなかったという人も一定数いるわけで、逆に『アンテナ』の「グッドモーニング」や「MORNIG PAPER」、「HOW TO GO」などに新しさとオリジナリティを感じでしまったわたしのような人、クリストファーの強いドラムワークにラス・カンケルを見てしまったわたしのような人は、一瞬、宙に浮いてしまうかもしれない。いや、べつに「宙に浮く」というのは悪い意味ではないので、そこからまた新しさを発見すればいいのだが。

それでも、やはり初回限定版の付録で付いていた「水中モーター」のライブがいいなあと思ってしまう、わたしを許してください。


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(※1)「否が応でも(いやがおうでも)」:なんと言おうと、お構いなしに。「弥が上にも(いやがうえにも)」:段々と、ますます。
(※2)「ぐだぐだ」:愚にもつかない事を何度も繰り返し口にすることを表わす。「くだくだ」:同じ事を何度も長ながと繰り返して述べることを表わす。



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↑週末はずっと籠って生業をしていたので
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INDEX-3 2005年01月/02月

2005-03-03 12:05:42 | ◎目次
今年の1月は行かないなあ、と思っていたら、なんのことはない、2月はしっかり逃げやがった。ということで、めくるめくように過ぎた2ヶ月間のエントリーの目次をまとめておきます。あいかわらず、偏食学童のようなコンテンツ群になっていますので、栄養バランスをうまい具合に是正していくよう努めます。

今回の問題点は、すでにあちこちから指摘を受けていますが、エントリーの文が無駄に長いということでしょう。いくら読みやすいデザインテンプレートを使っているとはいえ、確かにディスプレーでこれだけの長さのものを読むのはキツいと思います。しかし、世の中にはプリントアウトという便利な方法もありますので、ぜひ「ファイル->印刷」で、紙に転写して、通勤・通学のお供にするなど活用してください。もちろん漫喫などに持ち込んでもらってもOKです。ただ、あまりにもくだらないからといって、破いてそこらで撒いたりしないでください。駅前の自転車のカゴに放り込むのもいただけないです。

◎新しい試みした「わたしの本棚」シリーズは、ノリノリですね。根気がつづけば、カテゴリーに昇格するかもしれません。
◎「マーケの材料」は、マーケの材料でもなんでもなく、毒舌時評に堕しているので悔い改めます。
◎文学・本の話が多いのは、生業方面のストレスと比例しているということでしょうか。まあ、阿部和重事変も大きな要因ではありますが。
◎「独りで現代思想」はやっかいですね。なんとか善処します。成功「哲学」でもやろうかなあ。

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◎about
●ティップネスに通ってます、その他。●新しく、そして強い物語を。

◎マーケの材料
●テキストとデザインの良い関係。●わたしだけ?三菱自の広告批判。

◎企画のフレーム
●図解3冊。

◎買った本
●さて、どうでしょ、青木淳悟。●ストレス解消BLOG。

◎ブックガイド
●BRUTUSのコーヒー&タバコ特集。●わたしの本棚 (2)フォークナー●『20世紀少年 18巻』で、不覚にも。●どうして獅見朋成雄はいい奴なんだろ。●文学界3月号。●『ふしぎな図書館』と佐々木マキと1968。●わたしの本棚 (1)大伴昌司●べつに賞をメッタ斬りするわけではないけれど。●言葉の学習。●村上春樹の新作。●漫画家の知性。●図書券1万円の使い道。●阿部和重 迷う迷う迷う。●これが装丁の見本。●『極西文学論』の難題。●『グランド・フィナーレ』を迎えたわけですが。●体験、星野智幸。●町田康のスパークするバカ言語。

◎独りで現代思想
◎当該期間でのエントリーはなし。ちょっとマジで考えます。

◎No Music,No Life
●スプリングスティーン!●音楽のある風景っていいね。●通りすぎた、スーパーカー。

◎映画の記録
●『アイデン&ティティ』をきっかけに。

◎ステーショナリー
●PR雑誌『広告』は、文房具好きが作っているか?

◎どーでもいい話
●POPEYEの創刊号を入手しましたよ。●舞城王太郎は、村上春樹ではないか?●芥川賞候補発表。第3の男はうまれるか。



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↑今後ともなにとぞ、よろしくお願いします。
↑まあ気軽にコメントでもしてやってください。
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テキストとデザインの良い関係。

2005-03-02 13:02:59 | ◎業
『お厚いのがお好き?』のあとを継ぐには、あまりにも脆弱な『NEW DESIGN PARADISE』というCXのTVプログラムが始まってそろそろ1年がたとうしている。ローカルの方は見る機会が少ないと思うが、著名or新進気鋭のクリエイターが、世の中にあるプロダクツ――歯ブラシ、電話ボックス、傘、そろばん、なると巻など――をリ・デザインしていくというバラエティ番組だ(作品をまとめた本『THE PERMANENT COLLECTION OF NEW DESIGN PARADISE』も発行されている)。

第1回、「横断歩道」を、自分の少ない引き出しから引っ張りだしてきた似非トリコロールに仕立てるというデザイナーの激烈なリ・デザインに始まったこの番組は、その後も、ときには、ユニバーサル性やアフォーダンスをあまり深く計算できないクリエイターの図工のような作品もまじえながら、約40のプロダクツを創りあげてきた。

いずれも私的には埒外のため、なんら評価すべきところはなかったのだが、ここにきてようやく初めて、納得性の高いプロダクト&商業デザインの作品が登場した。
ラナデザインアソシエイツというデザイン会社の木下謙一さんというデザイナーの手による「切符」は、過去の数々の素晴らしく美しいだけの作品に比べエキセントリックさはないが、「人と切符の関係」において必要なものを過不足なくまとめた気持ちのいいものとなった。デザインに着手する前は「またいつもどおりだろうなあ」と思っていったのだが、提示されたデザイン案のセンスとロジックのバランスはひと味違った。優秀なWEBデザイナーゆえに身についているユーザビリティやリーダビリティセンスのたまものだろうか。

もちろん円形状は、現行のさまざまなルールを破壊するため効率がわるく、生産者・供給側の論理で考えれば、100%実現はしない。しかし、そうであっても、もし切符のデザインを考え直すプロジェクトというものが実行された場合、思考停止に陥らせないだけの強いヒントがここにはあると思われる。

注目すべきは2点。まず、指を差し込める形状。乗客がすべて、この切符を指に挿している光景は異様かもしれないが、「どこに仕舞うのが一番安心できるのか」という切符の現状の課題についてのひとつの答えではある。無言ではあるが指をさしたくなるというアフォードされたデザインも巧みだ。

そして、なにより重要な2点めは、購入時間に合わせて印刷されるニュース。木下さんのねらいは、「注意を引くことで紛失を防ぐ」ということだが、ここにあるには「テキスト」こそが注意を引くものだ、という発想である。

おおむね商業的なプロダクト&グラフィックデザインの目的は「伝えること」「読ませること」であると考えたとき、どのような「テキスト」を、どのように挿入させるのか、どのようにデザインするのか?について、入念な計算が必要であり、これこそが商業デザインの要諦であるともいえる。

「大量のテキストをストレスなく読ませること」、「斜め読みが可能であること」、「充分な視認性があること」、結果として「意味・内容をわからせること」という観点から、心あるエディトリアルデザイナーやWEBデザイナーがこのことに腐心しているにもかかわらず、いわゆる商業グラフィックデザイナーにはテキストをたんなるオブジェクトとしか見ることができない人も一定数存在する。

そのなかにおいて、「テキスト」を挿入(デザイン)することで、アテンションを引くという、この切符の発想は、評価したいところだ。今回は「一般ニュース」なので、さしたる必然性はないが、この木下さんというWEBデザイナーが「読ませることが人をつなぐ」、という基本姿勢をもっているとすれば、それは素晴らしいことだと思う。

デザインはテキストに従属する、とは言い過ぎだが、少なくとも商業デザインにおいては、読むものとしてテキストを際立たせることに成功したものが、評価を得ると考えたいところだ。その証左として、都市部で暮らす多くの方が強く認識してしまった「教えて!goo」の駅貼りポスターキャンペーンをあげることに異論はないと思うが、どうだろう。

もちろん、メディア戦略と出稿量も大きな要因ではある。実際に寄せられた質問とは公表されているが、多少の仕込みもあるかもしれない。また商品・サービスとしては、複雑な訴求の必要もない(※1)。それゆえに「テキスト(コピー)」だけの力とは言い切れないが、少なくとも訴求力のあるテキストを、それを活かす最適なデザインで伝えることが、最大の効果をもたらす、ということを如実にあらわしたベスト・プラクティスであることは間違いないだろう(※2)。

あ、こんなに褒めてるけど、わたしはgooとはなんら利害関係はありません。念のため。

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(※1)数多くのgooの商品特長から「教えて!goo」にフォーカスをあてた、コミュニケーション戦略の選択のプロセスは、おそらくそれほど単純ではなかったと思います。
(※2)騒動でポータルのアクセスアップをはかるより、商品でアクセスアップをはかるという姿勢もじつはかなり真摯だと思っています。


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BRUTUSのコーヒー&タバコ特集。

2005-03-01 14:51:26 | ◎読
マクレーン警部のタバコってなんだかとても旨そうだ。ダイハードな闘いの合間、くしゃくしゃのケースから、しわくちゃのタバコをとりだし、ぶっとい指に似つかわしくないちんまいマッチで火をつける。そして、口の端で斜めにくわえたタバコの煙をさけるように、目をしかめ、鼻の下を伸ばし、手持ちの銃火器を整備する。その瞬間、わたしはDVDを停止し、喫煙場(換気扇の下)に向かうわけだ。

ロサンゼルス市警かどこかで、朝出署したばかりの肥えた黒人の巡査が、慌しく動き回る人波をかきわけ、まずサーバーに立ち寄り、常備されているコーヒーを大きめの紙コップたっぷりに注ぎ、机につく。そして、おもむろに紙ぶくろから取り出した、ダンキンドーナッツをほおばりながら、コーヒーをぐいぐいやる。その瞬間、わたしは家人にコーヒー淹れようか、と宣言するわけだ。

『BRUTUS 3/15 COFFEE AND CIGARETTES』は、さまざまな人たちから冷遇され罵倒されながらもタバコをやめられない人、とりあえずコーヒーがなければ、ものごとを始めることができない人にとって、なんともうれしい一冊となっている。

まずコーヒー。各界の著名人を引っ張り出してくるやり方はあいかわらずだが、約70名のコーヒー好きが紹介する70のカフェ&豆は情報としてはとても有用。くるりの岸田繁の紹介する京都の「名曲喫茶 柳月堂」、スタジオではコーヒーをがぶがぶ飲むという冨田ラボ恵一の「AINA」、真鍋かをりのベトナム料理店「セラドン渋谷西武」、井川遥の「葛珈琲店」、そして板尾創路の「NESCAFE Excella」(「現場に行くと「コーヒー飲みたい」ゆうて、しきりにお湯を探してたんです」)(※1)などなど。さらには、東京のテイクアウトコーヒー徹底比較、うまいコーヒー図解など。その瞬間、コーヒー淹れたくなること間違いなし。

そしてタバコ。冒頭のブルース・ウィリス含む「映画」の中のタバコ、「漫画」の中のタバコ、「レコジャケ」の中のタバコ(「The Nightfly」とか「Middle Man」とかね)、そして高橋源一郎による「小説」の中のタバコ。養老孟司の語る「禁煙運動」の課題、内田師匠の使いまわしタバコエッセイ。さらには、ジャームッシュによる、NY愛煙家事情。これでもかこれでもかのスモーカーの写真。その瞬間、喫煙場(非常階段踊り場)に向かいたくなること間違いなし。と、同時に、虐げられる日々に、強い勇気を与えてくれるわけだ(※2)。

まあ、これみて目くじら立てておこる武闘派の嫌煙運動家さんもいるかもしれないけれど、そこは養老先生の言うように「そもそも、タバコは趣味趣向の問題であって、肩の力を入れて議論するようなものではないんです。万事適当がいいんですよ。まじめになって酒の害がどう、タバコの害がどうなんていう必要はない」と気楽に構えていただき、少しでも例の壁を低くしていただけるとうれしく思うしだいです。ルールは守りますので、なにとぞ酌量ください。

いずれにしても、コーヒーとタバコの旨さを余すところなく伝えるこの一冊。もちろん、食い足りない部分も突っ込みどころもあるけれど、10年ほど前、毎号わたしを驚かせてくれた「BRUTUS」らしい「BRUTUS」とはいえるかもしれない。さ、淹れに行こ、吸いに行こ。


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(※1)板尾さんは、『魁!!クロマティ高校/THE MOVIE』の演出・構成・出演をしているらしい。きっとバカバカしいものだろうけど、いちおう見たいなあ。(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で先行公開。劇場は夏らしい。)
(※2)しかし、「BRUTUS」では、癌におかされた肺やニコチンで死んだ動物の写真などの印刷が義務づけられたブラジルのタバコのパッケージも紹介されており、この強烈なフィアアピールにはさすがに参った。もし、こんなパッケージデザインになったら、きっとタバコをやめると思う。


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