考えるための道具箱

Thinking tool box

◎ 今村夏子の『あひる』その他の短篇。

2016-11-19 09:35:42 | ◎読
溢れ出る狂気と家族の絶縁。もっというと、なによりファナティックな両親からの黙殺。そんなことを巧みにカモフラージュしながら書く作家。それが今村夏子だと思っていた。軽くコンタクトする傍観者、ときには今村夏子自身が介入することで希望の方向を提示するが、本質的な救いは書かれない。『あひる』(書肆侃侃房)と、併録された「おばあちゃんの家」「森の兄妹」でもそのフォーマットは踏襲されている……。

と、思っていたが、今回は位相が大きく変わった。確かに、いずれの物語も終盤までの進行は酷い。親たちのデタッチメントは、異常さを通り越して恐怖ですらある。あらかじめ壊れている家族の形。これをを寸前のところで止めるのは、そもそものデモリションマンたちである。彼岸から帰ってきた彼らーー『あひる』では弟、他2篇では、なんと母親!ーーが、子どもたちの心を此岸に引き戻す。とりわけ「森の兄妹」で示されるのは、親の愛のなかでも至上のものだ。理解るものは、その瞬間にきっと泣きそうになる。これはどういうことだろう。

『こちらあみ子』では、「親が子に絶対にやってはいけない暴力」が示された。その対極にある、至上の愛。愛の極を知るものは暴力の極を知る、暴力は愛の裏返し、という単純な公式なのだろうか。もし、そうだとしたら、これらの愛もやはりカモフラージュということになる。これを繰り返されると、人は狂う。救い主とかいって、あやうく騙されるところだった(『あひる』の弟は、そうは見えないが、なんとも言えない)。

人々を狂わせているのはなにか?奇妙なトポスのせいなのか?「スーパーおおはし」ってなんだ?インキョってなんだ?資格の勉強?甥っ子の写真を千回見る?孔雀?雉?車で魚を売りに来る?父親と言われる男は車であひるや弟やおばあちゃんをいったいどこに運んでいるのか?周囲から隔絶され少なすぎる情報と知識。いっそう内に向かうことで、人々は知的な鋭敏さを欠いていく。すべてが少しずつズレたこの場所のサーガをこれ以上か書かれるとこっちまで気がおかしくなる。しかし、今村による異化のフィルタを通せば、人の暮らし、そしての人の傍らに確実に存在する、こうした狂気と不穏の深淵が見えるのだ。

◎高橋弘希、『短冊流し』その他の小説についての仮説。

2016-07-18 17:20:30 | ◎読
どのような絶望的な状況におちいってもデッドエンドでない限り、ブラックアウトのあと、ほどなくLIFE(生活/生・命)は回復してくる。というか、そんなことしている場合ではないとあいまいな不安を感じながらも、人はLIFEをこなしていかねばならない。家に帰らなければならないし、飯のこともいちおう気になるし、しかし作るって感じじゃないから買って帰るかとか考えながら、なんとなく煙草を手にしている。ま、明日の会社の仕事はなんとかなるか、そろそろ寝たほうがいいな、明日のことはとりあえず朝起きてから考えればいいかとか考えながら、寝てる場合ではないのに寝てしまう、そしてなんかしらんけどまた今日が始まる……。

そのLIFEを記録すれば、行動も思考も詳細である。絶望と不安と、それを稀薄していく詳細なLIFE。言ってしまえばこの繰り返しこそが、毎日の真実だ。高橋弘希の小説は、この「絶望と不安と、それを稀薄していく詳細なLIFE」を、経験ではなく想像力だけで埋めていく。

いちばん新しい『スイミングスクール』(新潮8月号)でも、主人公と母、主人公と娘との関係のなかで反復(そして差異化)されるかのような、暴力と死のあいまいな不安が「想像上でリアルに」描かれ、ふだんの「想像上のリアルな」暮らしのなかにあいまいなまま埋め込まれていく。

デビュー作である『指の骨』は、「戦争を知らない世代でも『戦争』を書ける。」という評価を受ける一方で、「戦争」という特異な状況を描いたがために、「戦争の本質が描けているか/描けていないか」という議論に着地してしまったが、じつは普段どおりにそこにあるはずのLIFE(生活/生・命)を描く試みだったのかもしれない。 本来的な企図が迷彩に溶け込んでしまったのだろう。

そして、再び芥川賞候補となった『短冊流し』だ。幼い娘の熱性痙攣が端緒となる父親のLIFEは、じつは、彼同様に娘が小さい頃に熱性痙攣で繰り返し救急車に搬送されていた私にとって切実なリアルだ(娘は重篤なインフルエンザではなかったし、都度すぐに意識は回復していたが)。こんな思い出しくもないタフな経験と不安を、なぜ(おそらく)経験したこともないあなたが具体的に精緻に正しく書けてしまうのか。それが、取材に基いていたとしても、たんなるサンプリングであったとしても、このアウトプットの効率と効果には驚かざるをえない。

では、普通の人が普段の暮らしで普通に経験している、絶望と不安が稀薄された生活/生・命を、想像で書くことの意味はあるのだろうか。わざわざ試行された想像のクリアなディテールは、現実を超えることができるのだろうか?(『短冊流し』は、私の実体験に照らせば超えてしまっているが)

これは、写実の絵画は意味があるのか?写真を超えることができるのか?というQに近い。近代文学で問われた問題のひとつでもある。その点では「物事の本質を見るために」「対象の奥を発見するために」といった答も一つの正解だろう。しかし、2016年の現代に現れたこの書き手の意識/無意識の野望は、そういった教科書的な答えを目指していないような気がする。

たとえば、こんな野望を見つけることはできないだろうか?
描けるものは、よりよく描き変えることができる。創れるものは、よりよく創り変えることができる。描ければ、創ることができれば、対処できるし改良できる。そのために、まずできる限り詳細に精緻に描いてみる、創ってみることが必要だ……。

この全能感を傲慢と見るか。それとも、想像できる種である人間の希望とみるか。いえいえたんなるシミュレーションですよ、って?ま、それでもいいか。それでもたいしたものですよ。

※ずっと影を落とし続ける重大な不安と諦念の中でも、人は淡々と日々の暮らしをこなし続ける、という点では、『朝顔の日』も同じだが、総括すれば、なんのことはない「怪我・病気小説」という安易なカテゴライズもあるかもしれない。

◎『中身化する社会』

2013-05-18 22:39:52 | ◎読
『中身化する社会』(菅村雅信/星海社新書)。発売されたときに面白そうだなあと思って書店で開いたページが「ワーク・シフト」の紹介だったのでよくある働き方指南本かと思いスルーしてしまったのだが、壮大な勘違い。一気に読み終えた。

「テレビや広告などによるイメージ操作は、ほぼ効かなくなった。……商品もサービスも、そして人間までも、その「中身」が可視化され、丸裸にされてしまう社会の中で、もはや人々は見栄や無駄なことにお金や時間を使わなくなる。そして、大量消費的な流行に流されず、衣食住すべてにおいてより本質を追求するようになる。」(カバー文より)


といった現象を、海外も網羅する定性ファクトを集めて解説している。巻末にまとめられた膨大な引用・参照一覧が目に入ったことで、再びこの本を読もうという気持ちが盛り上がった。

紹介されている引用は例えばこんな感じ。

●ブルックリンのカフェ・レストラン「Malpw&Sons」~『DINER JOURNAL』
●ブルックリンのカジュアルファッション・ブランド「OUTLIER」 http://outlier.cc/
●『消費社会の神話と構造』ボードリヤール
●『Casa BRUTUS 特集:世界最高のデニム選び』
●『MAKERS』(クリス・アンダーソン)
『ACQTASTE(ACQUIRED TASTE MAGAZINE)』
●アメリカのハンドメイド通販サイト『Etsy』を紹介する日経の記事(「米国発さらば規格品社会」村山恵一)
 ●『POPEYE 特集 ニューヨーク・シティガイド』
●アメリカのオーガニック情報サイト『Maria's Farm Country Kitchen』
『Couchsurfing』(宿泊先交換サイト)
●アメリカのさまざまなライフスタイル情報誌『ATLAS QUARTERLY』『 3191 Quarterly』『apartamento』
●『動物化するポストモダン』(東浩紀)
●『クォンタム・ファミリーズ』(東浩紀)
●『評価経済社会』 (岡田斗司夫)
●『ドーン』(平野啓一郎)
●『私とは何か -「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎)
●『村上朝日堂』(村上春樹)


これらはほんの一部。いったい何についてかかれた本なのか?と思うほど多岐にわたる情報網。『KINFOLK』を大きく取り上げているところからみても、これらの筋は信頼できるんじゃないだろうか。

著者の菅村雅信は、エディターだけあってファクトへの嗅覚とハイライトのあて方はすばらしく、やや強引であるとはいえ一定のストーリーとしてまとめ込めているところはさすがだなとは思う。資料としての活用度も高い。この手のニュータイプの新書は、どうしても著者の薄いひとり語りになりがちだが、違和感のある独自の意見を滔々と述べられるよりも、たとえ見解は弱いとしてもこんなふうにただただ事実を集めて教えてもらえるほうが、考えは広がる。

さて、ほんとうに「中身化する社会」が進行しているのか?といえばこれはなんともいえない。

「工芸、音楽から食、旅行、ものづくり、広告、ライフスタイル、そして消費全般まで、人々がよりシンプルで本質的なものを求める傾向が高まっているのは間違いない。……ソーシャルメディアによってイメージをふるいにかけ、見せかけを省き、い実質に、中身により到達しやすくなった時代の中で、人々は「イメージに頼らない本質の追求」という新しい競争状態に入っている」(菅付雅信)

「よい世界」ではある。豊かさの定義が変わる時代になりつつあるのは確かで、個人的にもそういった世界を待望するところはある。しかし、「中身化」を追求するためにはそれ相応の「時間」が必要で、それを確保することはじつは難しい。個人の能力(技術、プレゼンス)に依存するところも大きい。その点では、ひとりが果敢に立ち向かうにはリスクも大きい。

ともすれば、迷い人を「ここではない、どこか」誘うライフスタイル提案と誤解されることも多いだろう(利用されることも多くなるだろう)。容易に想起できるのは現実逃避としての「ノマド」。そして、「LOHAS」。ただし、マーケティングの仕込みであった「LOHAS」よりは、(定常化社会が間近に見えてきたぶん)地に足のついた議論しているとは思える。それだけ時代が変わってきているということだろう(激変があったということだろう)。あの頃に比べ、確かに世界は「見える化」している。

「消費」ではなく「生産」の愉しみにこそ優位を感じる生き方。虚飾・虚栄のない「本質」を正しく交換できる世界。いずれにしても善きことではある。

「ラグジュアリーから実用性へと、人々の関心が以降していると思う。実用主義が新しい時代の兆候と見なされ、人々はそちらへ向かっているね。それは知的な行為だと思う。もしクラフトマンシップ(職人の技能)の高いジーンズを買う場合、人々は”このジーンズのコットンはどんな種類で、どんな環境で育てられ、どのように作られたか”を語ることができる。それは情報主導型の行為だ。そして結果的に、ハンドクラフトの流行は多くの技術と仕事を生み、そして人々をもっと刺激するだろう」
「ライフスタイルが競争的になり、他人のライフルタイルが丸見えになっている時代」
(フリーマンズ・スポーティング・クラブ/バーバーのリキ・バイロン)

「自分の手で何かを作るのは、とても落ち着いて、自分を再確認できて、そしてリラックスできることなんだ。ものを作れるとき、あなたは単なる消費者でなくなるはずだ」(オムニコープ・デトロイのアンドリュー)

「僕らは読者に、自分たちの生活にもっと意識的かつ注意深くあってほしいと思っている。僕らはもっと満たされた生き方をしたいと思っているし、意味のある生活を見つけたいと思っている。……クオリティのある生活は、そのために仕事をする価値があり、そしてそれこそが人生を満たすものだと、みな思うようになっている」(『KINFOLK』の編集長ネイソン・ウイリアムズ)

◎『利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか』

2013-05-18 11:20:12 | ◎読

『利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか』(ダイヤモンド社)というタイトルからは想像しにくいと思うけれど、じつは、紺野登+目的工学研究所の本。つまり、フロネシス、知識デザイン、さらに場、創発などの考え方から派生的に「目的工学」というものを提唱している。

「高次の目的(パーパス)と個々の目的、その目的によって実践される手段との間においてしかるべき関係性が求められます。…それを偶然に任せるのではなく、また無手勝流で試行錯誤するのでもなく、何らかの方法論を見出し、体系化しようというのが、われわれ目的工学研究所のミッション」

ということだ。「目的」なんてそんなに難しく考えることなのか?と思ってしまいがちだけれど、やはり、なんの戦略も見識も技術もないまま「利益や売上」を盲目的に大目的として捉えてしまう人が少なからずいることをみるにつけ、「目的論」のようなものはあらためて正式に学習プログラムとして加えたほうがいいのではないかとも思う。

目的工学研究書の基本認識として以下のことが掲げられていて、言うまでもなく紺野登先生(と野中郁次郎先生)の考えを敷衍しかつ凝縮させているような考えではあるのだが、基本的なことではあるが慧眼でもある。

「第一に……「アリストテレスの実践的三段論法」です。これは、目的の時代において再発見されるべき思考法であり、目的と手段の判断、そして実践という過程のなかに「フロネシス」(賢慮/実践的な知恵)を埋め込むものです。」

重要な話であるが、これは彼らの研究のすばらしいダイジェストである『知識創造経営のプリンシプル』で充分に語られた話であり、つまり「目的工学」が「知識創造」を前提にしているということの宣言にすぎないで、着目したいのは二つ目の基本認識だ。

「第二に、一人ひとりの目的(パーパス)や思いに基づく行為を調整すること、すなわり、組織的なオーケストレーションを図ることです。」

きっと重要なのは「調整」なのだと思う。とりわけ中小規模の組織であれば、この「調整」こそが組織と成員を大きくかえていく、小さなトリガーになると思える。

基本的には「組織の目的」があり、その目的の枠内で成員が調整しながら「個人の目的」を設定してくわけだが、個人が自律的で創造的であればあるほど「個人の目的」が成長し、「組織の目的」に調整・変容を要求する状況がうまれてくる。そして組織は、枠に収まりきれなくなった個人を受け入れるために、「組織の目的」を調整する。このあくなきチューニングの繰り返しこそが、個人の変容を前提とした組織の変容を生み出す。こんなふうに理解したい。

つねに目的意識をもつ。こう書いてしまうと当たり前の話に見えてしまうが、「目的意識」を見失わせてしまうような外環境を与えてしまう、といったことはありがちだ。たとえば、以下の例の前者のように。

「人間が何かを達成する過程について、異なる2つの考え方があります。一つは、物事を達成する道筋をタスク(作業)の積み重ねと見なし、分業によって遂行しようとする考え方です。もうい一つは、人間が何かをなすのは、個々の意識的な努力、つまり目的(パーパス)と意志に基づく主観的行為の連携からなるとするものです。われわれは後者の考え方に立っています。ですから、そのために目的群の調整が重要なのです。」

正解である後者は、言ってしまえば「内発的動機づけ」ということでもある。こういったことをゲーミフィケーションと理解してしまう人もいるのかもしれないが、「達成する意味のある目的」を用意し、「達成後の個人の成長・変容」を企図するという点で、少し位相が違うと思う。

そういったことを、自然体で理解するために、この本は役に立つんじゃないかな。というか、やはり研修しないといけないかな。

◎『純と愛』の最終回、そしてリアリティ。

2013-04-01 00:48:26 | ◎読
『純と愛』の最終回はよかった。少し言葉を足すなら、このドラマの最終回としてはよかった。全編を通じて単純なエンターテーメントを超えてしまっているので、楽しみ方がちょっと難しかったかもしれないが、リアリティを盲目的に追求しないことが逆に、「リアリティ=ウソのなさ」を立ち上がらせた、というのが『純と愛』の大きなポイントなんだろう。

予定調和しないこと、(表層的には)リアリティが欠如しているようにみえること、じつは相反するこの2つに対し非難の声が多いようだが、(本質的な)リアリティを追求しているための予定は調和しない、という考えに感心がもてれば、このドラマの見方はまた違っていくる。

オオサキが買収される、初代魔法の国がなくなってしまう、里やが燃える、晴海が認知症になる、善行が落命する、新しい魔法の国が無茶苦茶になる、そして愛が倒れる。これでもかと続く不幸の連なりが、まず「ありえない」ということだが、果たしてそうなんだろうか。

言うまでもなく、私たちの国には、いま列挙したような例をいくつ並べても足りないような苛烈な不幸を体験した多くの人たちが存在する。そういった話とは別に、きわめて個人的なただ一度の不幸が人を呪縛してしまうこともある。一連の不幸続きを、多寡や大小の問題ではない「不幸というものの概念」の表現と考えた場合、いわゆる(表層的には)リアリティのないシナリオのかもしれないが、「ありえない」話ではない。誰もが抱えている問題(リアル)と読むこともできる。

そして重要なのは、これらの不幸はけっして気持ちよく解消しないというところだ。オオサキの買収に待ったはかからなかったし、里やも復興しなかった。愛は(明確には)目覚めなかったし、晴海の認知症も恢復しなかったし、夢の国のオープンだってどうなるかわかならい。全編を通じてこんな調子でいっさいの問題は解決しない。これは、ある日問題が起こっても2日目には(少なくとも週内には)次々と解決していく『梅ちゃん先生』の快感なんかとは大きな違いだ。

しかし、現実というのはそういうものだ。毎日問題解決に腐心するが根本的な策を打ち立てることはできず、なんだか澱のようなものをかかえたイヤな日が続く。しかし、夜が明けると同じ朝がまたくる。いったい、いつまで?

ここで、最終回の純の演説が効いてくる。つまり「奇跡を起こすのは神様じゃなく、私たち人間なんだから」、生きている日々に「劇」的な奇跡なんかはそうそう起るもんじゃない。問題に折り合いをつけながらなんとか暮らしていくことで、ときには一時的に問題を忘れたり先送りしながら、それでも問題から目を背けず暮らしていると、あるとき、わずかばかり昨日と違った今日が訪れる。これこそが、人間が起こせる奇跡なのだ。このドラマのテーマのひとつが、ここでしっかり示された。

そういった、リアリティの本質へのトライはきっとたくさんあったはずだ。たとえば、その最終回の純の演説。いかがなものか?という声は多かったにちがいない。

しかし考えてみよう。ドラマである以上、大団円的な演出は必要で、それをこれまでのドラマでは「会話」で語らせていたわけだが、純が話したような事はどれだけ巧みに会話化されたとしても、日常の会話ではありえないものになってしまう。「おれ、もう下向かない。自分のできることを一日一日やり続けるよ」なんてドラマでは言うかもしれないが(言わない?)、実際の生活ではない、まず話さない(話す?)。

一方で、意識下の言葉としては十分にありえる話で、今回の演説はそれを発露させたということだ。もちろん演説もリアリティはない。しかし会話もリアルではないのであれば、より真摯な嘘のないほうを選んだ、という見方ができる。同時に、ずっと心の言葉をナレーションにしてきた、たくらみがここで生きたとも言える。

一連のリアリティの追求は、TVドラマのフォーマットの切り崩しなのかもしれない。「最終回」じたいもそうだ。これでいいのかという意見もあるだろう。まるで突然の打ち切りのようだという声もある。しかし、それらの意見はすべて「最終回というフォーマット」に呪縛されている。おそらくほとんどの人がドラマの最終回に心動かされ、提供する側もその気持をあおりたて刺激を与えてきた。それゆえに、伏線が回収されないこと、カタルシスが感じられなかったことへの落胆も大きい。

しかし、当然ながら、生きていく毎日に最終回なんてない。みんなが見ていたのは、あくまで便宜的に切り出した一部分であり、純と愛の生活はこれからも不断に続く。最終回なんてなんの意味もない、私たちの生活はリセットされずに続いていくんだから、ということの暗示。と理解するには少し情報が足りないか。

これらはあくまでひとつの見方である。しかし、もし『純と愛』にこういった見方ができるとすれば、それは、他のすべてのTVドラマは嘘だ、という構造的な問題を提起してしまったことにもなる。朝ドラの破壊を狙った、ということだが、それどころかTVドラマじたいを破壊してしまった。

まあ、小説や映画の世界では、こうしたリアリティの追求と挫折は数多く提起されていて、TVドラマも多様化してるわけだから、そろそろストーリーを楽しむだけではない見方があってもいいのかもしれない。かつて小説(虚構)のフォーマットに問題提起をした筒井康隆の『虚人たち』のように、そこにほんとうに文学的価値があるんですか?という議論は措いておいて。あと、TVドラマを構造的・形式的に解釈しながら観ることが正しいかどうかも措いておいて。

でもあれですよ。ここで書いたような視点で、最終回をあと2回ぐらい見なおしてもらうと、意外と涙がでてくるかもしれませんよ。

◎宇野常寛の『日本文化の論点』の80ページから、重要なことがかかれている……

2013-03-09 00:56:50 | ◎読
ような気がするが、最終章をめざしてなのか、いささか筆を急ぎすぎて、反芻しなければ理解しにくい。ともすれば誤解を招きそうな部分もある。たとえば以下のくだりもそのひとつじゃないだろうか。

宇野の考えでは、「20世紀までの思想や哲学は「他者」に開かれていることが大事だ」ということが繰り返されてきたが、そこで求められる「(他者に対する)リベラルで寛容な態度」の方向性は、文学的、哲学的な観点で出口の見えない思弁を繰り返して考えるより、他者が現代のおもに情報技術(≒インターネット)により「見えるもの」「計測可能なもの」となってしまった以上、「人間工学や大脳生理学、行動経済学などのノウハウを注入しながら、コミュニケーション環境や情報環境によって設定するほうが確保しやすいのではないか」ということになる。[A]

なるほど。確かに一理ある。

しかし、いっぽうで「この言い方」だけをとってみれば、容易に想起できる反論もある。たとえば、過去連綿と深慮されてきた「他者」の問題は、なにも「開かれているか?」「寛容であるべきか?」といったことだけではない、といった言いぶん。他者については「そもそも存在するのか?」(独我論)とか「存在したとして認識できるのか、経験できるのか?」「じつは他者は自分ではないのか?」といった他我問題のような話や「他者があるから自分がある。だから自分なんてない」みたいなところまで含めて解決できるのか、といった疑義だ。[B]

直感的にはそういったことを感じた。他者問題の解決はそんなに容易な話ではない、と。

しかし(またまたしかしで恐縮だが)、そのあたりの疑問をすっきりさせるべく、もう一度読みなおしてみると、いや意外と宇野の考えは、比較的広い範囲の他者問題の解決を包摂しているのではないかと思えてきたりもする。
「他者が見える世界」になったということは、存在も明解になるということだし、認識もできるので擬似的に経験もできる。「他者が見えるのはある特定の部分に限られいる」としてもヒューリスティックス的に、まあその程度でも十分ではないか、という判断も可能かもしれない……そんな考えだ。[A]

いやちょっと待て、そんなレベルの話で「他者が見えた」っていっちゃっていいの?だいたい「他者が見える・可視化できる世界」とはいっても、その世界だって書割の可能性もあるよね?[B]……といった具合に、[A][B]を繰り返しながら、かれこれ10回ぐらい行きつ戻りつを繰り返している。絶対、なにか重要なことが書かれているはずだと思うのだが、果たしてどうなんだろう。もう5、6回読みなおしてみるか。
もっともすでに、どこかの誰かが結論を出している話かもしれないが。

◎今月号というか先月号?の『idea アイデア』おもしろい!

2013-03-07 00:55:32 | ◎読
会社で定期購読してるにもかかわらず、デザイナーですら目を通していない可能性が高いため、おれぐらいは読んだほうがいいなと思って手にとった『idea アイデア』の今月号(357 2013.3)が抜群に面白かった。

特集は、「紙上の建築-日本における建築メディアの現在とその変遷」。つまり「建築デザイン」ではなく、建築についての情報や方法論・ルールを披露する雑誌や書籍のデザインの特集。

まずは、現在流通しているメディア、たとえば『ROUNDABOUT JOURNA』(制作:neucitora)、『建築雑誌』(中野豪雄)はもとより、古参でかつもう廃刊してしまった『SD』、『都市住宅』や、頑張っている『A+U 建築と都市』などの建築雑誌のアートディレクションを紹介。
白眉はなんといっても「現象としての建築雑誌」と題されていた『TAU TRANS-ARCHITECTURE & URBAN』で、これは70年代ぐらいのものだろうか、どうやら伝説のADらしい真壁智春という人が手がけた、なんとも70年代らしいサイケデリックなつくりの、横尾忠則ADかと見紛うようなクリエイティブの雑誌。昔の雑誌はかなり見ているほうだけれど、これは初めて見た。

さらに、秋山伸による、「いまはなきINAX出版」の「10+1」シリーズやTOTO出版の『近代建築の証言』の装丁(造本?)。初期の『商店建築』、『GA』、『日経アーキテクチャー』、『新建築』、『10+1』、『室内』はもとより、『住む。』、『CASA BRUTUS』、『CONFORT』まで含む、建築雑誌の年譜。

なんとも、スタティックで、ソリッドなデザインのメソッドが山ほど紹介されている。ある意味で、建築というジャンルを建築以外の手法をつかって表現する際の衒学性みたいなものをお披露目するような特集ではあるが、いったいなぜ教養としての(もしくは単にジャンルとしての)建築がこのような表現をとるのか考えを深めたなくなる特集ではある。

誌面はそれだけではなく、「20th Century Editorial Odyssey」という連載の第8回「プリンテッド・パンクス」では、インディペンド・パブリッシングののルーツの一つとしてのパンク・ファンジンの実例をやまほど紹介していたり(つくりがパンクなフリーペーパーっぽいもの)、「日本語活字の文化誌」という連載の第2回「ゴシックのある風景」では、 「昭和40年代に、「描き文字」と呼ぶにふさわしかった題字が「デザインされた書体」へ、更に「ロゴタイプ」的なものへと切り替わっていく様が観察される」として、1967年から1976年に発行された少年・少女向けマンガ雑誌、少年マガジン、サンデー、キング、ジャンプ、チャンピオン、マーガレットなどの表紙で検証している。

雑誌フリークにとっては、もしくは雑誌フリークという名の「フォント&表紙デザイン」フリークにはたまらない一冊。

◎東京国際文芸フェスティバルの朗読。 #文芸フェス

2013-03-02 23:39:55 | ◎読
昨日、3月1日の東京国際文芸フェスティバル、六本木アカデミーヒルズのプロラム。
こういった、文学の催しに参加したのは初めてで、じつはさほど期待せずに出向いた。すべてが儀式的に、表層的に、衒学的に進行され、言ってしまえば、限られた人たち、エスタブリッシュメントの手慰みのようなものだろう、といった根拠のない印象評価だ。ひどいことを考えていたものだ。

しかし、そんな憂慮は一転する。イベント一般にたいする恥ずかしい誤解だったのか、それともキャスティングの問題なのかはよくわからない。結論からいうと、浮き足立つことはなく、じっくりと聴き・考えることのできる時間がしっかり創作された場、初体験の個人としては満足できるプログラムだった。

[0]開催あいさつ:日本財団 会長 笹川陽平

[1]Keynote Readings
 プロローグ:池澤夏樹のスピーチ、
 朗読:谷川俊太郎、J.M.クッツエー 

[2]朗読&トークセッション「都市」「物語」「再生」
 ジョナサン・サフラン・フォア、デヴィッド・ピース、川上未映子、柴田元幸(モデレーター)


谷川俊太郎の朗読は、立って読みます、と始まる「自己紹介」から、「さようなら」、「庭を見つめる」、「泣いているきみ」などおもに詩集『私』からの作品。

「言葉からこぼれ落ちたもの
言葉からあふれ出たもの
言葉をかたくなに拒んだもの
言葉が触れることも出来なかったもの
言葉が殺したもの」
(詩集『私』より「庭を見つめる」)

「目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた」
(詩集『私』より「さようなら」

といった言葉が、谷川俊太郎×イヤホンからの同時通訳×英訳スライドで一気に放たれる。横溢しているが静謐、という奇妙な感覚。たくさんの情報が躰に入ってきているにもかかわらず、文字と言葉に集中できるという相反した感覚。手慣れた谷川俊太郎の声はやさしく強く、初めて聴く、彼のライブにこういう形で参加できたのは幸運だったと思う。

そしてなによりすばらしかったのはJ.M.クッツエーだ。彼が朗読したのは、未発表の小説『イエスの幼子(おさなご)時代』。こちらもクッツエー×同時通訳×翻訳スライド。スライドの翻訳を手がけた鴻巣友季子さんよると出版は「あと一週間ぐらいでしょうか。イギリスで刊行になります」とのことだ。

読まれたのは、小説の第一章の冒頭。どこかの施設から新しい施設に異動することになった大人と5歳の子供が、入館受付でたらい回しのような解せない扱いをうけたあげく、部屋の鍵が見つからなかったため、ひとまず仮宿として案内されたのは受付の女性の自宅であり、だからといって部屋が用意されているわけではなく、庭のようなところで材料を使って寝床を作れと指示される、つまりカフカのような小説だ(たよりは記憶だけなので誤認もあるかもしれない)。わたしが読んだクッツエーは『夷狄を待ちながら』、『恥辱』と『鉄の時代』の3冊だけなので、熱狂的な読者とはいえないし、いまはまだ自分のなかでクッツエーを定義することはできないが、この小説は、(熱に浮かされていることをしょっ引いたとしても)いちはやく読みたいと思った。

こういった奇妙な話が、静かに滔々と、鴻巣さんも言うように、衒いなく読まれ、だから、どんどん引きこまれていく。途中からは、クッツエーの英語を聴きながら日本語のテキストを目で追うという流れに馴染んで、完全に言葉と文字に集中できた。完全に「小説」に集中できた。なんだろう、お話を聴かせてもらっている、という感覚。これがきっと朗読の魅力ということになるのだろう。

朗読ライブを何度も聴きに言っている人なら当たり前の話かもしれないが、ふたりのパフォーマンスにはちょっと感激した。ライブコンサートにいった夜、アーティストの原曲を聞きたくなる、というのはありがちだが、詩人・小説家の朗読でも同じような感情が生まれることがわかった。実際に夜中に、『自選 谷川俊太郎詩集』とクッツエーの『夷狄を待ちながら』(正確には原曲ではないが)を連々と眺めてみると、これまでと違った集中力をもってテキストのすばらしさが実感できた。

そこで思ったのは、じつはこれこそが、ただ言葉と物語を伝え聞かせることこそが、詩人・小説家の仕事ではないか、ということだ。「小説家/小説の使命」なんて問われがちな話だが、そんな大仰なことではないかもしれない。もちろん物語の中身は重要ではあるが、それ以前に、言葉と物語を伝え聞かせるという行為により、社会にコミットしていく。なんだか物語というものの原点的な話だが、やはり原点なのだろう。

第2部「「都市」「物語」「再生」」の始まりも朗読で、デヴィッド・ピースは『惨事のあと、惨事のまえ』、川上未映子は『水瓶』の中から(失念)、ジョナサン・サフラン・フォアは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』。

トークセッションのほうは、さきほどの話ではないが、小説家の使命とは?といったような空気につつまれてしまったこともありやや凡庸な予定調和。川上未映子の「わたしたちは、つねに3月10日を生きている(次の3月11日の前日としての)」、「詩は念写」といった面白い発言もあったので、まあそういうフラグメントを楽しめばいいんだ、と思って聞いていた。

唯一、ジョナサン・サフラン・フォアが、「動機をもって書くことはない、計画を満たすために書くんじゃない」とか「利用とか目的のある小説は書きたくない」とか「自分は問題提示をしようとすら考えていない」といったイカした発言を連発し、小説家魂を発揮していた。

◎『考える生き方』(finalvent)、なぜ、「リベラル・アーツ」なのか。

2013-02-25 00:14:34 | ◎読
「本といっても小説なんかばかり読んでも仕方がない、ビジネス書を読まなければ」みたいなとてもイノセントでバイオレンスなことを言ってしまう人も多いけれど、逆こそが真であると思いたい。「ビジネス書ばかり読んでも仕方ない、もっと小説とかマンガとか人文書なんか……を読んだほうがいい」と。

しかし、そもそも何を言っているのか皆目わからない人もいるだろうし、理解してもらうためのストーリーをつくるのも一筋縄ではいかない。ほんとうに多くの言葉が必要になる。

ここで言いたいのは、仕事や生活の要素技術としてのリベラル・アーツの重要性だが、わたし自身がいずれかのジャンルのエキスパートだとういこともないし、たとえ学んだものがあったとしてもそれこそ雑学レベルの蓄積しかないため、いっさいの説得力がない。職場では、日頃なにかにつけ、ジョブズの言葉に仮託し、「TECHNOLGY & LIBERAL ARTS」こそが私たちの仕事の基盤、なんてことを言っているが、これもほとんど空虚な掛け声にすぎない。もうほとんど言葉遊びのレベルだ。

つねに援軍を求めていて、だからこそ、finalvent氏が『考える生き方』で語る、リベラル・アーツに触れる意義がなんともすばらしく、わたしが日頃言っているのはつまりこういうことだ、とそのまま剽窃したくなってしまった。「現代のリベラル・アーツというなら、人文学、社会科学、自然科学。」という整理に続き、finalvent氏は語る。

「文学が本当の意味をもつのは、むしろ仕事に脂がのる30代、40代からだ……若い日とは違う恋愛に出会うこともある。きれい事ばかりではすまない人生のなかで、ふと悪に手を染めることもある。友だちを裏切り、死に追い詰めることすらあるかもしれない。人間が生きている限り、どうしようもない問題と、その背後に潜む怪しいほどの美がある。それに真正面からぶつかっていくには、文学を深く理解する力が必要になる。安っぽい道徳や単純に信仰だけを強いるような宗教では乗り越えられはしない人生に残るのは、人間の学たる人文学である。
社会科学は、人の社会を広く見渡す力をあたえる。社会問題があるとき、ただ、それを単純な善悪の話にして正義に味方すればよいというような、日本の新聞社説のような安易な視点を冷やし……(P250)」

ほんとうは、この後に続く社会科学や自然科学にふれる意義もすばらしく、すべて引用したいところだけれど控えておく。

じっさいのところ、教養をたくわえたところで、日々の暮らしやとくに仕事にすぐに直接的に役立つことはないだろう。すぐにどころか、役に立つ場面なんて最後の最後まで訪れないことも多いにちがいない。

わたし自身もまあそういうものだろうと考えていたが、ここに来て、おもにコミュニケーション課題の解決において、ここいちばん踏んばれるのは、おそらく過去に文学で読んだ「思考のパターン」や思想家が考えた「構造化の手法」が土台として効いているのではないか、と思えることも増えてきた。リベラル・アーツとはまったく関係のない、単純な知識と経験の積み重ねの結果なのかもしれないが、少しぐらいは作用している可能性も皆無とはいえない。効いているか効いていないかわからない、でも少しずつは物ごとの見方と考え方が変化しているような気がする。きっと、リベラル・アーツを学ぶというのはそういうことなのだろう。

そして、なにより重要なのは、

「「リベラル・アーツ」は、自由市民の技芸だ。人に雇われてお金を得るための技術ではない(P246)」

ことだろう。日頃から「自分で考えよう、自由考えよう」、「代替の効かない人になろう」といったことを職場の訓示にすることも多いが、言っている自分もかなり難易度の高いことを言い放しにしているなあ、と反省しており、少しではあるが、補助線になるような勉強会を始めたりしている。
この下世話な話にリベラル・アーツを挿入すると、本旨がとっ散らかるかもしれないが、仕事においても自由な発想を生み出し、自由な意見を持つための基礎的なフレームワークとして、人文、社会科学の知見があるに越したことはないと思う。厳しい時代において、何か得体の知れないものに絡めとられないために、暴力に揺るぎなく抗える市民の基礎体力を高めるために、使えるものとして蓄えておくべき知はあるはずだ。

もちろん、仕事上の固有のノウハウをビジネス指南書で学習することは大切だけれど、ときにはその根っこの部分にある、歴史とともに積み重なってきた人文、社会、自然の知に目を向けることに損はない。なんとか仕事と結びつけようという小賢しい知恵を働かしたって別にかまわない。考える時間が短縮されたといったことでさえ、それはそれでひとつの成果だ。

とはいってもまあほとんどわかってもらえないとは思う。しかし、そのことついて、もうわたしがあまり話す必要もない。なぜなら、リベラル・アーツを仕事や生活に結びつけ、豊かさを手にいれているなによりのファクトが『考える生き方』に書かれているからだ。それを読めばいいだけの話だ。

◎finalvent氏の『考える生き方』は、真似できるのだろうか。

2013-02-23 21:49:40 | ◎読
ひさしぶりに時間があいたので、午前中に、例のfinalvent氏の『考える生き方』を一気に読み終えた。たくさんの読みかけの本を措いてまで、これほど短時間に一冊に集中することは最近では珍しい。それだけ、感じるものがあったということだろう。

『考える生き方』とはこれまた大層な書名であり、人によってはよくあるベストセラー狙いの偽人生哲学書として認識されてしまうおそれもありそうだが、本書に限っては、おそらく、これ以外の書名はつけようもない。これほど正確に体を表した名もない。終始語られているのは、「考える」⇔「生きる」、つまり「知」を使えるものとして「実践」してく理想的な姿だ。

finalvent氏は、とにかく考える。とにかく学習する。難局・難題・未知に直面したとき、その根本原因や解法や構造を独学で解明していく。それは、仕事上必要となる半導体技術、電子工学やプログラミングの知にとどまらず、自身が巻き込まれた民事裁判や病気を正しく把握し立ち向かうための知から、数年間住むことになった沖縄の風土・風俗・自然の知、果ては育児の知にまでおよぶ。ただ問題解決のためだけではなく、自分に起こった事象、自分が選んだ選択肢を、さまざまな知を動員し分析し、構造化し、体系のなかで納得というか折り合いをつける。

きっと、何かが起こる都度、本人は、ああ困ったなあどうしよう、と焦燥したり愕然としたりもしているのだろうけれど、外から見るぶんには、この地にある限り(もしくは人間が作ったものである限り、人類がここまで長く生きながらえているという現実がある限り)必ず解法は存在し、存在しないまでも少なくとも「あいまいな不安」を取り除けるという確信ある実践をたんたんと繰り返し、そのことで都度、豊かさを獲得しているように見える。

ここで容易に想像できるのは、finalvent氏の学びへの全幅の信頼、世界はすべて知の引き出しであるという視座に他ならないが、ただそれだけでは、ここまで知識・思考は連鎖しない。

想像にもうひと捻り加えてみよう。彼が無意識のうちに自分自身とその人生をも「研究の対象」「被験の対象」として捉えているのではないかということは言えないだろうか。そして、そのことの効能、つまり自分を客体化し研究してみることの効能を、その研究をもって証明できた。この考えは失礼だろうか。

たとえば、彼の弟が訴訟問題にまきこまれたときも

「こうした難題に直面すると、またしても、何か学問的に正しい対応というのがありそうな気がしてくる。さて、今度は法学?これも経験だから、ひとつ裁判とやら、やってみますか」(P59)

といった感じで(軽やかに)、まずその道に強い弁護士を自助で探し、探しはするものの関連書類などは自分で作成してしまう。まるで患者に対し適切な処方をあれこれ思い巡らせる冷静な医師のような対応だ。子どもに評価の高い育児法を投入してみるのも、家族のためにパンを焼くという習慣を続けるのもの、どこか最良の家族をつくるための研究のように思える。もちろん間違ってもただ冷徹に反応を見るような研究ではなく、その「新しい知」を投入することでくらしが(わくわくした方向に)好転するんじゃないかという仮説~証明が前提になっており、その多くが成功しているように思える。

自分を研究対象として見て補助線となる知、対立軸となる知を、ある程度の蓋然性をもって、どんどん投入してみて、その結果に了解する、というのは、知識の量という面でも習慣という面でもかなり難しいとは思うが、とても重要な分人手法ではないかと思う。

たぶんそれが原因ではないとは思うが、この自分を俯瞰的に見る立ち位置は、冒頭で語られる、finalvent氏の患っていたかもしれない「離人症のよう」な症状とシンクロする。

「テレビのお笑い番組とか見ていて、「ああこれは面白いな」と理解する。だが、「面白い」という感情は出て来ない。自分がその感情を所有している実感がないのだ。「これは面白いのだろうと理解している」という認識だけあって、「面白い」という感情が、ない。」(P17)

離人症はDSMによると「自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じている持続的または反復的な体験」という定義を持つ。精神障害であることはいったん忘れ、この定義の言葉だけを取り出してみたとき、人間にはこのような思考が有効に作用する場合も多いのではないかと思う。しかし、そのときはやはり、「感性」に、「知性」「理性」が先立っていなければ状況をうまく分析し処方できないのだろうとも思う。

こういった下手な解釈はおいておくとして、『考える生き方』は、この世界は角度を変えて見れば捨てたものはないいうことを、その角度をたくさん見せながら楽しませてくれた。個人的には、「沖縄で考えたこと」「病気になって考えたこと」そして「勉強して考えたこと」の中のリベラルアーツの正しい解釈がとくに面白かった。そして、じつはfinalvent氏のテキストは紙に縦組みのほうがしっくりくるのではないか、とも感じた。

ひとつエクスキューズをつけるとすれば、finalvent氏の頭の良さは比類なく、その点で誰もが「考える生き方」を送れるわけではなないということだろう。そう、ICUで大学院まで行って、英文技術書のテクニカルライターやって、日々Webを通じて海外の情報を手に入れている、そんな人は、「いつまでたっても英語が苦手」な人ではないっすよ。

◎『「自己啓発病」社会』(宮崎学/祥伝社新書)

2013-01-03 14:28:19 | ◎読
おそらくいまもって脳天気に(受け売り的に)、「自助」「自己責任」をキンキンになって訴えている人たちがいる。ともすれば、自分も手軽に「そこは自己責任で」なんて言ってしまいそうになる。宮崎学の『「自己啓発病」社会』は、そんな新自由主義かぶれの恥辱と違和感に正しい理路をあたえる。小泉・竹中・勝間らが礼賛したスマイルズの『自助論』の(抄訳がゆえの)誤読をコンセプトに提示されるのは、正しい自助、そしてこれからの自助についての重要な可能性である。
キャッチーで挑発的な書名は、やや本旨とはズレている。自己啓発書なんて読んでも意味ないっす、ってことを滔々と解いた本ではなく、けっして自己啓発書には書かれることのない「読んでも読んでも抜け切らない無力感」からスイッチするための方向、いわば定常化社会に向けての人の処し方とネオリベへの表層的な盲信への冷水が用意されている本である。
柄谷行人が、朝日新聞の書評委員として選んだ今年の三冊のうちの一冊。なぜこの本を選んだのか正しい理由はわかならないが、彼が受け取ったのは、「著者は震災後の日本に、自助が相互扶助と両立するような可能性が出てきたという。つまり、国家に依存することなく、自助を社会的に結合していく可能性である。」という、つまり互酬のプラクティスなんだろう。

以下、仕事人として気になる部分を長文引用。

●P204~:労働と遊びの区別
「いまおこなっている行為そのもののなかに魅力や意義を見いだそうとするのではなくて、その行為そのものからは離れた「必要」に従属し、その行為そのものとは別の「目的」に奉仕することに魅力と意義を見出すべきだ、というのが、スマイルズの「勤勉」の哲学なのである。

……だが、産業社会がゆきづまり、脱産業化が進まざるをえないいまの状況のなかで、それは通用しなくなっているのである。……スマイルズ『自助論』がいう自助は、……いまもとめられている自助ではない、といわなければならない。

それでは「勤勉な自助」に代わるべき自助とはどういう自助か。勤勉な活動とは、それ自体のうちに意義や目的を含まず、何かに役立てるためにおこなう活動であった。

……それに対して、それ自体のうちに意義や目的があり、それ自体のために行う活動がある。これは勤勉な活動に対して、それ自体のうちで充足している活動だから、自足する活動ということができるだろう。「自足」というと「自己満足」という悪い意味にとらえられがちだが、仕事に自足しているということは、その仕事そのものにおもしろさや楽しさを感じながらやっているということである。奉仕する活動ではなくて自発する活動なのである。

……自足理論では、労働と遊びは区別されない。ふたつの活動は、もちろんそれぞれ違うものだけれど、それぞれのつらさ、苦しさをもち、それぞれのおもしろさ、楽しさをもっているという点では同じなのである。

……これからの社会では、労働と遊びとの間に、こうしたかたちでの区別がなくなり、「楽しく働き、まじめに遊ぶ」ということが追求されるようになっていくことだろう。……そのとき自助のありかたは「勤勉な自助」から「自発する自助」へと変わっていくに違いない。」


●P210~:自助は相互扶助と両立する
「「自助」というのは、自分がおかれた状況を「みずから打開しなければだれも打開してくれない」ものと認識し、その状況の打開にみずから立ち向かっていくことである。ただ、そのとき、その場にいる全員が同じ状況に直面して、同じ自助の構えをもっているとするなら、そこには自助が他助になり、他助が自助になる関係が成り立つのである。これが「自助」の「連帯」である。単なる他助は「慈善」だが、自助でもある他助は「慈善」ではなく「連帯」なのだ。

そうした関係が成り立っているところにおいては、他人を助けるのは自分のためでもあるのだ。……そこは協同なくしては自律はない場所なのだ。同時に、そこは自律しようとすれば協同が生まれる場所なのだ。

他人のためにすることが自分のためにもなるという関係がおたがいに成り立っているような社会的関係がそこにはある。そして、そのような社会的関係のもとでは、「自分のため」=利己と「他人のため」=利他とが、対立しあわずに両立する。その関係はむずかしくいえば「相互主義(ミユーチャリズム)、ひらたくいえば「お互い様」である。相互主義は利己主義に対立し、「お互い様」は「自分勝手」に対立する。」

●P76~:スマイルズ『自助論』の精神
(1) 自助は利己ではない
(2)自助は相互扶助と両立する
(3) 自助は成功のためではない
(4) 自助とは人格をつくることである
(5) 自助とは個人の尊厳を打ち立てることである。



書評:「自己啓発病」社会 [著]宮崎学 - 柄谷行人(評論家) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012040900004.html

書評:柄谷行人 書評委員お薦め「今年の3点」 - 今年の3点(書評委員) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012122300006.html

◎『街場の文体論』 写経。

2012-07-28 11:41:07 | ◎読
『寝ながら学べる構造主義』以来だからかれこれ10年ほど内田樹の書くものを読んでいることになるけれど、言葉の横溢と、逆に畏怖(慎重さ)についてはひれ伏すばかりだ。そのテクニカルでアクロバティックな言葉の起用は、見方をかえれば、言葉による欺瞞ともいえるかもしれないが、そうだとすれば、その欺瞞の技術をなんとか習得したい。

『街場の文体論』は、クリエイティブ・ライティングの講義をまとめたものと言うことになっているが、果たしてこれをクリエイティブ・ライティングと呼んでいいのか?それとも、これこそがクリエイティブ・ライティングなのか?正直よくわからない。ただ、一般的に想起されるクリエイティブ・ライティングの学習により授与されるものがオペレーション・マニュアルであるとすれば、こちらはマインド・マニュアルであり、よく言われるように、あるテーマを習熟し状況適応的にかつ自律的に実践していくためには、必要なのはオペレーションでなくマインド、つまり「構え」を身体に浸透させることこそが重要である、ということをまさに具現化した講義/テキストとなっている。

例によって気になるテーマのほんの一部を写経してみた。今回は、まず紙に写し、それをデジタル化しているのだけれど、いまさらながら、読む、紙に書く、キーボードで入力するというそれぞれの行為で、言葉と流れの印象がまったくことなることに気づく。読んで腑に落ちたものでも、書いてみると「え?これって何で書き写そうと思ったんだっけ?」とわからなくなる。それをもう一度書き写してみると文章構造・流れすらおかしく感じる。しかし、二度書き写したものをもう一度読み返してみると、箴はもとより文体のリズムさえも最初の印象以上に「重要なもの」として切迫してくる。これはなんだろう。こういうことを繰り返せば、「言葉」は身体化できるのだろうか。そういった行為により練達できる「言葉」とはいったいなんなのだろう。


●「どうして、ただの一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」(モーリス・ブランショの引用)

:たしか『他者と死者』でも引用されていた。これに続く内田樹の解説は「あらゆる言語表現において、他者は必ずそこにいる。他者を伴わない言語はありえない。言語あるかぎり、必ずそこには少なくとも一人は他者がいる。」ということだが、「語りかける誰かが必要でしょ?」といった直球の話ではなく、「内なる他者」の話。言うまでもなく。

●「小説家というのは、そういう異界とか、暗がりとか、地下の洞窟ようなところに降りていって、この世にあらぬものに触れて、目で見て、耳で聞いて、臭いをかいで、そこに人間的意味を超えたものがあることを経験して、また元に戻ってくるのが仕事です。この「行って、帰ってくる」というところに作家の技術と才能はあると僕は思います」

:「下降そして上昇」は、そもそも間テキスト性の高い話ではあるが(直近では、クリストファー・ノーラン)、作家にとどまらずどのような職業のキャリアパスにおいても大切な鍛錬ではある。「行って、(いちどは底をみて)帰ってくる」という感覚はわかりやすい。

●「「知りません。教えてくだい。お願いします。」学びという営みを構成しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落として言えば、この三つのセンテンスに集約されます。自分の無能の自覚、「メンター」を探り当てる力、「メンター」を「教える気」にさせる礼儀正しさ。その三つが整っていれば、人間は成長できる。一つでも欠けていれば、成長できない。社会的上昇も同じです。」

●「額縁を見落とした人は世界をまるごと見誤る可能性がある、ということです。」

●「人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見せるような何かでなくてはならない、ということです」(ラカンの引用)

●「母親が赤ちゃんを抱きしめながら、語りかける言葉はさまざまですけれど、その究極のメタ・メッセージは一つです。それは「あなたがいて、私はうれしい」です。」

●「自我とはまさに「自分の全身像を外から一望する」という経験によってしか基礎づけることができない。そんなことは神にしかできない。神にしかできないことができるという事実が人間に深い全能感を与える。生まれてから最高の強烈な報酬がこの「自我の騙取」によってもたらされる。」

●「自分の外部にある鏡像と同期したことで、強烈な快感がもたらされた。「他者と同期すると快楽が得られる」という起源的な体験がこのとき刷り込まれる。これが人間の成長のもっとも基本的なラインをかたちづくってゆく。」

●「自分の外部にあるのものと、現実的に一体化することはできません。できるのは仮想的な同一化だけです。でも、仮想的に同一化しさえすれば、ある種の全能感が到来する。この報酬を求めて、人間はそれ以降、くりかえし他者との同期を求め続けてゆくことになります。くりかえすうちに、成熟するにつれ、他者との仮想的な同一化がしだいにスムーズにできるようになります。どんな場合でもすぐに他者と同期できる人間のことをわれわれは「大人」と呼びます。「他人の気持ちがわかる人」です。」

●「自分の周囲にいる他者たちと仮想的に同一化できる人間は、自分が見ていないものを見ることができる、自分が聴いていない音を聴くことができる、自分が触れていないものを感知することができる。他者たちと共に、いわばある種の巨大な「共-身体」を形成できる。グラウンドレベルから幽体離脱して、空から自分たちを見下ろすことができる。」

●「「オリジナル神話」というのが、その典型的な病態です。クリエイティブな言語活動というのは、他人の用法を真似ないことだと勘違いした人がいた。できるだけ「できあいの言語」を借りずに、自分の「なまの身体実感」を言葉に載せれば、オリジナルな言語表現ができあがると思い込んだ。でも、これはたいへん危険な選択です。僕たちの言語資源というのは、他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他者の言語を習得し、それを内面化し用法に合うような身体実感を分節するというしかたでしか僕たちの思考や感情は豊かにならない。」

●「理解できない言葉、自分の身体なのに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。」

●「「(文科省の、英語が使える日本人の育成のための)行動計画」の前文に書いてあるのは、要するに「グローバル化が進展していて国際的な経済競争が激化しているし、外国でのビジネスチャンスや雇用機会も増えているから、この趨勢にキャッチアップするために英語運用能力は必須である」ということです。それだけです。「英語ができないと食えないぞ」と言っている。リアルかもしれないけれど、そこには外国語を学ぶ「喜び」や「感動」について語った言葉が一つもありません。それが自分を繋縛している「種族の思想」から抜け出す知的なブレークスルーの機会だということも述べられていない。書いてあるのは、ほとんど「金の話」だけです。あと少しだけ「威信」の話。」

●「aは形相、イデア、抽象概念です。theは質料、感覚世界に実存する個物です。」

●「檻に入っている人間でも、檻の特性、木でできているかとか、丸いとか、隙間から足が出せるとかいうことを理解していれば、檻ごと動くことができる。……檻に入っているせいで、檻に入っていないときにはできないことができる。」

●「われわれはつねに言語に遅れている、つねに母語に対して遅れている。でも「遅れている」という自覚を持つなら、どこかで言語を出し抜くチャンスがある。」

●「「檻ごと動く」というのは言い換えると、定型を身体化するということです。定型性を身体化して、自分のなかに完全に内面化してしまう。自分に与えられたローカルな母語的現実を「普遍性を要求できないもの」として引き受け、それを深く徹底的に内面化していく。」

●「論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を貯めることを、ほんとうにめざしているのか。」

「ここには君が緊急に理解しなければならないことが書かれている。ここに書かれていることが理解できる人間になれ」

:なんども繰り返されてきたレヴィナスの話。多かれ少なかれこういった体験は誰にでもあるはずだ。そして声が聞こえる確度は読めば読むほど高まってくる。

◎阿部和重『幼少の帝国』ノート&クォート。

2012-05-25 00:20:28 | ◎読
阿部和重の『幼少の帝国』は、ある意味、プロ流の体もなしていてかなり楽しめた。高須クリニック院長、東映テレビとバンダイでライダーや戦隊の「CMD(キャラクターマーチャンダイジング)」に関わる人たちへのインタビューなどが「成熟拒否」をテーマに絞ったこともありシャープになっている。
もっとも、そこは阿部和重なので、「成熟を拒否する日本(人)」という紋切り型をいかに読み替えていくか、という作業がなされていて、それは、「成熟拒否=アンチエイジング、小型化、省エネ化、終わりなき青春」などと位相をかえることで、いくぶんは成功している。
意味はまったくなく、重要でもなんでもないガジェットだけれど、人間を構成しているものはそういったガジェットで、しかし、それらが集まることで得体のしれない、でも避けることのできない「なにか」の輪郭が見えてくる、という彼のスタイルは、ノンフィクションになっても変わらない。
もし、このノンフィクションから何かが、つまり小説が生まれる予断を感じたとしたら、それはまさに『アンダーグラウンド』ではないか。なに比べてんだ、と各方面からお叱りを受けるかもしれないが、これが阿部和重のマジなスタイルだ。

とかなんとか、うだうだ考える前に、読むべきはそれぞれのテーマに合わせて登場する幼少の帝国の識者たちのインタビューだ。たとえば、東映テレビ篠原氏。

「いきなり阿部さんの構成を叩き崩す話になってしまいますが、番組があり、人気が出たから、じゃあ、この商品を作ろうか、という流れは、ほとんど変わっていないんです。……阿部さんはベルトの商品化から番組を構想していると見ておられるでしょう?……最初に事実を言っておかなければならないのですが、あくまで番組内容ありき、は不変です。……でも、世間では、玩具主導という見方をされている人が多いようですね。大人げなく否定しても意味もないので種明かしをしませんが。」

どこまでがウソホントかわからないが、まあそういうことだ

制作/製作の裏話としてあげられている、以下のような言葉も見逃せない。

東映の篠原氏:「僕も含めた東映マーチャンダイジングチームの強みは、製作チームと完全連動していることなんです。一つの企業のなかで、営業チームと製作チームって、だいたい相反するでしょう。東映で言うと、製作チームが工場チームで、僕たちが営業チームですけれど、両者は一体になって動き、相乗効果を追求しています。」

バンダイの高橋氏:「子供たちをがっかりさせないことが一番大切です。」「はい。ただ玩具を売るためというより、正に「子供たちをがっかりさせないために」時間をとっているのです。……オダギリジョー、水嶋ヒロ、佐藤健という俳優にしても、子供たちだって、格好いいお兄さんが変身したほうがいいじゃない、というキャスティングなんです。お母さん、あるいは20代OLに受ける役者は誰々なのよ、という発想はありえません。」

そして、なにより、特定規模電気事業者(PPS)業務代行、電力卸取引などの電力マネージメント事業を中心とするエナリスの池田元英社長の日本のエネルギー政策(=日本の未来)に対する絶望と希望。この人の思考と思想の切れ味、何なんだろう。たとえば、「幼少の帝国」のテーマを真っ向から捉え、答えを出してしまった以下のような言葉。

「「幼少」というテーマを私なりに翻訳すれば、夢を見る能力ではないかと思うのです。その能力は他の国と比較すれば、長けているんじゃないでしょうか。夢を見る能力を保つ意味においては別に成熟しなくとも、幼少のままで結構と思っています。専門家である作家さんを前にして言うのは恥ずかしいですけれど、大切なのは想像力です。環境が厳しいからこそ、工夫や夢が生まれてきます。」

もちろん、エネルギー政策についての切れ味も見逃せない。

「エネルギーの需給データの分析はどんどん手軽になってゆきますから、すべてが予定通りに動けば無駄は生じません。ただ、当然、スケジュールの変更は起きますし、そこで新たな歪みが生じます。歪みが生じるところに、必ずビジネスが成り立つんです。」

池田:「本心をいえば、震災前、発送電分離の議論は、あと10年か15年はかかるかと思っていたんです。ところが一気に縮まってしまったので、むしろ弊害がでているのではないでしょうか。」
阿部:「一気に変化が起こって議論もそれに引っ張られ、今まで少しずつ積み上げてきたものの上に、外野の意見があちこちから乗っかかってきて混乱している状況ですか。」
池田:「今や、もう本当に戦後状態です。時間軸が狂っている人と正常な人とで、議論がばらばらになるのは、いい傾向ではありません。」


さらに、なにげなく日本の未成熟にふれたり。

「スマートグリッドの大前提として、オープンなアクセスと情報がどうしても必要になるんです。そこで、インターネットがとても重要になってきます。ところが、なぜか、日本人は、インターネットが匿名だと考ええいる節があるんです。……Facebookに代表されるように、もう本当に実名で、私はどこのだれですと名乗ることを前提にした社会にしたら、日本人が本来保持していたコミュニティーを復活できるわけです」

「かつで、サングラスだけで顔を隠せた時代がありました。しかし、今は顔認識ですべて確認できてしまいます。技術的に、匿名でいようとすることは意味がないというリテラシーを学ぶ教育システムも必要でしょう。というより、普通に行動していれば、内面はともかく、ほとんどの情報が把握される世界が目前なのです。だから、常に、自分は公人であるという認識を社会の成員全員が持てばいいのです。」

意外とマイナーな人っぽいのだけれど、なんかすごい志がある。経緯はわからないが、すばらしいキャスティングだ。

◎Twitter文学賞

2012-02-29 01:06:36 | ◎読
第2回Twitter文学賞で選ばれた小説( http://bit.ly/wemOki )を以下の基準で抜粋。こうしてみると、海外の小説をあまり読んでいない。そして、日本の小説は読んだもの以外で、読みたいものはあまりない。今村夏子の次の小説はでないのだろうか?多和田葉子の『雲をつかむ話』はいつ本になるのだろう?(と思っていたら4月らしい)。


[1]読んだか読んでないかは別として、なんらかの形で棚にある日本の小説

順  作品      作家
02  こちらあみ子  今村 夏子 
03  これはペンです  円城 塔
04  雪の練習生  多和田 葉子 
06  ワーカーズ・ダイジェスト  津村 記久子
08  マザーズ  金原 ひとみ 
09  なずな  堀江 敏幸 
11  私のいない高校  青木 淳悟 
13  すべて真夜中の恋人たち  川上未映子
14  いい女vs.いい女  木下 古栗 
15  馬たちよ、それでも光は無垢で  古川 日出男
16  ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集  宮沢 章夫
17  赤の他人の瓜二つ  磯崎 憲一郎 
17  恋する原発  高橋 源一郎
18  きことわ  朝吹 真理子 
18  末裔  絲山 秋子
19  ゴランノスポン  町田 康
19  しあわせだったころしたように  佐々木 中
19  苦役列車  西村 賢太
19  不愉快な本の続編  絲山 秋子 


[2]読んだか読んでないかは別として、なんらかの形で棚にある海外の小説

01   オスカー・ワオの短く凄まじい人生  ジュノ・ディアス
04   紙の民  サルバドール・プラセンシア
08   ミステリウム  エリック・マコーマック
11   あの川のほとりで  ジョン・アーヴィング


[3]読みたいと思っている小説(日本はなし)

02   ものすごくうるさくて、ありえないほど近い  ジョナサン・サフラン・フォア
07   二流小説家  デイヴィッド・ゴードン
08   短くて恐ろしいフィルの時代  ジョージ・ソーンダーズ
09   チボの狂宴  マリオ・バルガス=リョサ
15   ローラのオリジナル  ウラジーミル・ナボコフ
17   兵士はどうやってグラモフォンを修理するか  サーシャ・スタニシチ
17   ポータブル文学小史  エンリーケ・ビラ=マタス

◎変わらずに残されたものは「言葉」しかない。

2011-08-24 00:43:32 | ◎読
斎藤環の責任編集として緊急復刊された『imago 東日本大震災と<こころ>のゆくえ』は、あたらしいコンセプトを提示しているのではないか、と期待のもてる内容であり、実際に以下のような彼の巻頭言や、中井久夫への質問を読む限りでは間違いはなさそうだ。

この震災は、私から大小さまざまなものを奪っていった。人間関係も少なからず変化した。震災に奪われたものは、必ず奪い返さなくてはならない。その執念だけで言葉を連ねてきた。変わらずに残されたものは「言葉」しかない。そう考える私にとって、次のツェランの言葉がほとんど唯一のよすがだった。繰り返しになるが引用しよう。

それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどのなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて行ったのです。抜けて行き、ふたたび明るい所にでることができました――すべての出来事の「ゆたかにされて」(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩集』飯吉光夫編・訳 小沢書店)。


「言葉」に自覚的すぎると、戦略的なことを意識しすぎて、ときに失語してしまうこともある。しかし、たとえそうであったとしても、言葉の多様性について熟慮すべきだ。言葉は、人を説得する機能だけをもつものではない。悪いけれど、そんな言葉には、まともには反応しないよ。