考えるための道具箱

Thinking tool box

◎小島信夫。

2008-01-12 22:15:42 | ◎書
◎キッチンで夕はんの用意をしているウチの奥さんのところに寄っていって、キャバクでチンピラが絡むのをマネして、肩を組んでグハハとやっていたら、大きくあけた口を、米がたっぷり入った計量カップでふさがれた。おかげで口の中とか鼻の穴が米つぶだらけになり、さっきから涙目でカーッカーッとやっているのだが、どうやら鼻腔の奥に2~3粒残っているような感じで調子が悪い。だれかそういった場合の対処法を教えてくれませんか。

◎読んでる本
[1]『人間を守る読書』(四方田犬彦/文春新書)
[2]「燕京大学部隊」「小銃」「解説」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)

▶[1]を読んでいると、黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』に触れる部分があり、ああそういえば最近読んでいないなあと気づく。ウィキとか彼のブログをみてみると、どうも病気のようで活動を休止しているようだ。現在、月刊アフタヌーンで休載中といわれている『あたらしい朝』は「1930年代のドイツ。ナチスの政治資金をうっかりネコババしてしまった二人の不良青年・マックスとエリックは、ほとぼりを冷ますために兵役に就く。しかし折しも戦争が始まってしまい、二人の人生の歯車は大きく狂っていく。」といったプチ群像劇でかなり面白そうなんだけれどなあ。『人間を守る読書』では、黒田の直前に、岡崎京子の章もあったりするので、べつだん関係づける必要はないけれど、がんばって療養して欲しいと願うしだいである。▶寝どことか電車とかトイレとかこたつとかで[2]を少しずつしこしこ読んでいる。というか、やめられない。たとえば、「燕京…」の

“外出の前日、冬になった幸福すぎる林の中を、カモフラージュ用にウェブスター大辞典を借り出して図書館から帰ってくると、行く手に蹲っている兵隊の姿が見える。それは誰かの排便しているうしろ姿であったので、知らぬふりをして通り過ぎると、
「古兵どのではないですか。水くさいですよ。阿比川ですよ。声くらいかけてくださいよ」
「阿比川か」
「見られちゃった上からは男らしく声をかけました。もうすぐ終わりますから待ってて下さい」
「なぜこんなところでするのだい」
「古兵どの、そうなんですね。ここのところまでくるうちは、こんな気配はなかったんです。ここまでくると、どういうものか急にたのしいように催してきたというわけです。これはどういうわけでしょう」
「たぶん、きれいなものや、幸福なものや、手に入れたいものが、ふんだんに見せつけられると、刺戟するのだろうな。泥棒だって慣れた奴は仕事の前に家のまわりですますそうだよ」
「泥棒といっしょにされた形ですね。ひどいですよ」
「どっちにせよ、此の冬の日だまりの幸福には心がいたむね、流されどおしのおれたちは、何か外部に流れをくいとめてくれるものが起らないと、生きている気がせず、不安だね」
「ぜいたくですよ。古兵どの。そういったところ、まさに悩める騎士ですな。少しずんくりしすぎますがね。これは冗談です。ほんとうはこの林の中で阿比川はあちらの方も同時に催して困っていたのです。明日はいっしょに遊びに行きましょう。なあに、阿比川は日本人として死ぬ覚悟が出来ています。自分は自分を産んだ米人の父親には恨みがあるだけです。なあに玉砕しますよ、ねえ古兵どの」
 阿比川は云い終わると、ズボンを直しながら、汚い手で僕の頭に無雑作にふれて激励した。”


といったくだりなんかを読むと、その状況もさることながら、微妙にズレまくっている能天気で滑稽な台詞まわしに腰をくだかれ、こうして書き写しながらどうも、ぶははと笑ってしまう。そして、こういうのが普通に書けることの幸せを感じたいものだと思う。ビンゴではないにしろ「解説」で保坂和志がいっているのも、これに近い視座の持ち方ということだろう。その状況をその場にいる当事者以外の視線でみない書き方。こういうのはやっぱり狂っている人間しか書けないのだろうとも思う。

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