こういう小説を面白いといわずして、どういう小説を面白いといったらよいのかな。小説とか哲学というのは、多様性とかさまざまなことを考えるための言葉を理解・発見するための材料としてあるものと考えたときに、都知事と村上龍、そして宮本輝の態度はあまりにも排他的にすぎる。確かに権威ある賞だから、ある程度の権威を付与しないといけないという気持ちはわかるが、彼らの言説や表情をみている限りは、その権威=マチズモに感じられてしようがない。
結局は彼らの根底には(彼らが自覚しているかどうかはべつとして。きっと自覚していないと思うけれど)激烈な人生体験がなければ小説なんて書けないぜ、という頭があるんじゃないか、というような気がして、マチズモよりそちらのほうが気にかかる。もしくは、エキセントリックな人生体験こそが小説家の資格、とか。そういった人生がバックボーンにある小説も小説のひとつではあるが、そうじゃないものだって小説だ。ぼくは、むしろけっして派手ではない凡庸な生活のなかから、でもちょっとした難問に対し、うんうん唸りながら、試行の錯誤を繰り返しながらうまれる言葉に興味がある。それが普遍的な話に昇華されるのであればなおよいが、まあその途上であってもかまわない。(もちろん、もはや「都知事」は小説を書くべき人でもないから、小説を読む人でもないという点で、「都知事」と「龍・輝」を一緒くたに考えるのは賢い話ではない。書く2人については依然期待したい)。
そして、おそらく『アサッテの人』というのは、そういった小説のひとつだ、ということだ。
評者3人は、この小説をおおむねコミュニケーションの不可能性と読んでいる。そして、それは読み方としては間違ってはいない。しかし、最大の問題は、3人は、ふだんは、そもそもなんの淀みも怯えもなくコミュニケーションできる人になってしまっているというところであり、もはや、口では「他者がどうとか」といってみたところで、本質的なコミュニケーションについての難題をイメージできなくなってしまっている立場であるというところだろう。だから、『アサッテの人』で書かれているようなごく瑣末なコミュニケーション不全は、たいしたことのない話にしか思えないのだろう。そんなたいしたことのない話を、こねくり回すな、余計な飾りをつけるな、ということだ。しかし、この小説を素直に読んだとき、「こねくり回し」や「余計な飾り」は、かならずしも戦略的な演出ではないことはわかる。たしかに、面白くしてやろうという作為も部分的にあるにはある。しかし、それ以上に、「こねくり回さないと書けない」、「余計な飾りかどうかは知らないが、そんなふうに迂遠にしか伝えられない」と、諏訪が考え倦ねていたこともまた真であるように思える。これこそが、コミュニケーション不全の体現であり、不可能性への挑戦である、と評するのは少し評価が過大すぎるか。
理解しえないものについては「正直いまのわたしにはよくわからなくなってしまった世界だ」と、エクスキューズをつけったっていいんじゃないかと思うんだけれど。
さて、その『アサッテの人』。最初は、「ポンパ」とか「チリパッハ」「タポンテュー」など、あまりにも稚拙で美しくない言葉(とりわけ「ポンパ」は、ぼくにとっては「キドポンパ」でしかなく、珍妙でもなんでもない、たんに恥ずかしい言葉にしかみえない)について、発想はいいのだから、もっとワーディング(というかネーミング)を、普遍的な珍妙にすればよいのにと思っていたが、そんなのは、ようは最終的に挿げ替えればよいだけの話なので、この小説の瑕疵にはならない、ということがわかってきた。
おそらく、この小説世界と同じように、これまでいろいろな形で(『アサッテの人』に限らず)書きためてきた断章を、強引にひとつにまとめたところか、と思われるが、その強引さがあまり感じられない、その設計がまず成功している。それゆえに、それぞれのエピソードが、けっして「流す」エピソードにはなっておらず、密度が濃く、細かくさまざまな爆笑を誘発している、というわけだ。無意味だとしても再読に値する滑稽なエピソードも多い。この視点をもってすれば、こんな市場世界においても、世の中というものには、もっともっと楽しいものが充満しているということがよくわかる。
多くの評者があげている吃音のエピソードについては、そのとおり重要な部分ではあるのだが、そこは、言葉とか他者の不可能性とかなんとか言う以前に、吃音のメカニズムとか、解消トレーニング法とか、治まるきっかけなどの捉えかたに(リアリティのある話かどうかは別として)思考や表現の工夫があって、小説を読むことの楽しさのようなものを想い起こさせてくれる。
もちろん、いろいろと課題はあるとしても、まあ、可笑しい小説であることに間違いはない。きっと、小説を読んだり、書かれたものを読んだりすることが好きな人にとっては評価に値する小説だと思う。そういった意味では、今回の選考委員のなかで、読むのが好きそうな人(たとえば、池澤夏樹とか)は褒めているが、もはや他人が書いた小説なんて祭事でもなければ読まないよ、という人は貶めているという、図式にも納得できる。
心配なのは、ネタを出しつくしちゃったんじゃないか、というところか。書き溜めた断章のほとんどをこれに突っ込んでしまった可能性もなくはない。諏訪は次はまったく違うものを、とはいっているが、ちょっと時間がかかるかもしれないな。
結局は彼らの根底には(彼らが自覚しているかどうかはべつとして。きっと自覚していないと思うけれど)激烈な人生体験がなければ小説なんて書けないぜ、という頭があるんじゃないか、というような気がして、マチズモよりそちらのほうが気にかかる。もしくは、エキセントリックな人生体験こそが小説家の資格、とか。そういった人生がバックボーンにある小説も小説のひとつではあるが、そうじゃないものだって小説だ。ぼくは、むしろけっして派手ではない凡庸な生活のなかから、でもちょっとした難問に対し、うんうん唸りながら、試行の錯誤を繰り返しながらうまれる言葉に興味がある。それが普遍的な話に昇華されるのであればなおよいが、まあその途上であってもかまわない。(もちろん、もはや「都知事」は小説を書くべき人でもないから、小説を読む人でもないという点で、「都知事」と「龍・輝」を一緒くたに考えるのは賢い話ではない。書く2人については依然期待したい)。
そして、おそらく『アサッテの人』というのは、そういった小説のひとつだ、ということだ。
評者3人は、この小説をおおむねコミュニケーションの不可能性と読んでいる。そして、それは読み方としては間違ってはいない。しかし、最大の問題は、3人は、ふだんは、そもそもなんの淀みも怯えもなくコミュニケーションできる人になってしまっているというところであり、もはや、口では「他者がどうとか」といってみたところで、本質的なコミュニケーションについての難題をイメージできなくなってしまっている立場であるというところだろう。だから、『アサッテの人』で書かれているようなごく瑣末なコミュニケーション不全は、たいしたことのない話にしか思えないのだろう。そんなたいしたことのない話を、こねくり回すな、余計な飾りをつけるな、ということだ。しかし、この小説を素直に読んだとき、「こねくり回し」や「余計な飾り」は、かならずしも戦略的な演出ではないことはわかる。たしかに、面白くしてやろうという作為も部分的にあるにはある。しかし、それ以上に、「こねくり回さないと書けない」、「余計な飾りかどうかは知らないが、そんなふうに迂遠にしか伝えられない」と、諏訪が考え倦ねていたこともまた真であるように思える。これこそが、コミュニケーション不全の体現であり、不可能性への挑戦である、と評するのは少し評価が過大すぎるか。
理解しえないものについては「正直いまのわたしにはよくわからなくなってしまった世界だ」と、エクスキューズをつけったっていいんじゃないかと思うんだけれど。
さて、その『アサッテの人』。最初は、「ポンパ」とか「チリパッハ」「タポンテュー」など、あまりにも稚拙で美しくない言葉(とりわけ「ポンパ」は、ぼくにとっては「キドポンパ」でしかなく、珍妙でもなんでもない、たんに恥ずかしい言葉にしかみえない)について、発想はいいのだから、もっとワーディング(というかネーミング)を、普遍的な珍妙にすればよいのにと思っていたが、そんなのは、ようは最終的に挿げ替えればよいだけの話なので、この小説の瑕疵にはならない、ということがわかってきた。
おそらく、この小説世界と同じように、これまでいろいろな形で(『アサッテの人』に限らず)書きためてきた断章を、強引にひとつにまとめたところか、と思われるが、その強引さがあまり感じられない、その設計がまず成功している。それゆえに、それぞれのエピソードが、けっして「流す」エピソードにはなっておらず、密度が濃く、細かくさまざまな爆笑を誘発している、というわけだ。無意味だとしても再読に値する滑稽なエピソードも多い。この視点をもってすれば、こんな市場世界においても、世の中というものには、もっともっと楽しいものが充満しているということがよくわかる。
多くの評者があげている吃音のエピソードについては、そのとおり重要な部分ではあるのだが、そこは、言葉とか他者の不可能性とかなんとか言う以前に、吃音のメカニズムとか、解消トレーニング法とか、治まるきっかけなどの捉えかたに(リアリティのある話かどうかは別として)思考や表現の工夫があって、小説を読むことの楽しさのようなものを想い起こさせてくれる。
もちろん、いろいろと課題はあるとしても、まあ、可笑しい小説であることに間違いはない。きっと、小説を読んだり、書かれたものを読んだりすることが好きな人にとっては評価に値する小説だと思う。そういった意味では、今回の選考委員のなかで、読むのが好きそうな人(たとえば、池澤夏樹とか)は褒めているが、もはや他人が書いた小説なんて祭事でもなければ読まないよ、という人は貶めているという、図式にも納得できる。
心配なのは、ネタを出しつくしちゃったんじゃないか、というところか。書き溜めた断章のほとんどをこれに突っ込んでしまった可能性もなくはない。諏訪は次はまったく違うものを、とはいっているが、ちょっと時間がかかるかもしれないな。