考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『アサッテの人』たちへ。

2007-08-28 00:22:35 | ◎読
こういう小説を面白いといわずして、どういう小説を面白いといったらよいのかな。小説とか哲学というのは、多様性とかさまざまなことを考えるための言葉を理解・発見するための材料としてあるものと考えたときに、都知事と村上龍、そして宮本輝の態度はあまりにも排他的にすぎる。確かに権威ある賞だから、ある程度の権威を付与しないといけないという気持ちはわかるが、彼らの言説や表情をみている限りは、その権威=マチズモに感じられてしようがない。

結局は彼らの根底には(彼らが自覚しているかどうかはべつとして。きっと自覚していないと思うけれど)激烈な人生体験がなければ小説なんて書けないぜ、という頭があるんじゃないか、というような気がして、マチズモよりそちらのほうが気にかかる。もしくは、エキセントリックな人生体験こそが小説家の資格、とか。そういった人生がバックボーンにある小説も小説のひとつではあるが、そうじゃないものだって小説だ。ぼくは、むしろけっして派手ではない凡庸な生活のなかから、でもちょっとした難問に対し、うんうん唸りながら、試行の錯誤を繰り返しながらうまれる言葉に興味がある。それが普遍的な話に昇華されるのであればなおよいが、まあその途上であってもかまわない。(もちろん、もはや「都知事」は小説を書くべき人でもないから、小説を読む人でもないという点で、「都知事」と「龍・輝」を一緒くたに考えるのは賢い話ではない。書く2人については依然期待したい)。

そして、おそらく『アサッテの人』というのは、そういった小説のひとつだ、ということだ。

評者3人は、この小説をおおむねコミュニケーションの不可能性と読んでいる。そして、それは読み方としては間違ってはいない。しかし、最大の問題は、3人は、ふだんは、そもそもなんの淀みも怯えもなくコミュニケーションできる人になってしまっているというところであり、もはや、口では「他者がどうとか」といってみたところで、本質的なコミュニケーションについての難題をイメージできなくなってしまっている立場であるというところだろう。だから、『アサッテの人』で書かれているようなごく瑣末なコミュニケーション不全は、たいしたことのない話にしか思えないのだろう。そんなたいしたことのない話を、こねくり回すな、余計な飾りをつけるな、ということだ。しかし、この小説を素直に読んだとき、「こねくり回し」や「余計な飾り」は、かならずしも戦略的な演出ではないことはわかる。たしかに、面白くしてやろうという作為も部分的にあるにはある。しかし、それ以上に、「こねくり回さないと書けない」、「余計な飾りかどうかは知らないが、そんなふうに迂遠にしか伝えられない」と、諏訪が考え倦ねていたこともまた真であるように思える。これこそが、コミュニケーション不全の体現であり、不可能性への挑戦である、と評するのは少し評価が過大すぎるか。
理解しえないものについては「正直いまのわたしにはよくわからなくなってしまった世界だ」と、エクスキューズをつけったっていいんじゃないかと思うんだけれど。

さて、その『アサッテの人』。最初は、「ポンパ」とか「チリパッハ」「タポンテュー」など、あまりにも稚拙で美しくない言葉(とりわけ「ポンパ」は、ぼくにとっては「キドポンパ」でしかなく、珍妙でもなんでもない、たんに恥ずかしい言葉にしかみえない)について、発想はいいのだから、もっとワーディング(というかネーミング)を、普遍的な珍妙にすればよいのにと思っていたが、そんなのは、ようは最終的に挿げ替えればよいだけの話なので、この小説の瑕疵にはならない、ということがわかってきた。

おそらく、この小説世界と同じように、これまでいろいろな形で(『アサッテの人』に限らず)書きためてきた断章を、強引にひとつにまとめたところか、と思われるが、その強引さがあまり感じられない、その設計がまず成功している。それゆえに、それぞれのエピソードが、けっして「流す」エピソードにはなっておらず、密度が濃く、細かくさまざまな爆笑を誘発している、というわけだ。無意味だとしても再読に値する滑稽なエピソードも多い。この視点をもってすれば、こんな市場世界においても、世の中というものには、もっともっと楽しいものが充満しているということがよくわかる。

多くの評者があげている吃音のエピソードについては、そのとおり重要な部分ではあるのだが、そこは、言葉とか他者の不可能性とかなんとか言う以前に、吃音のメカニズムとか、解消トレーニング法とか、治まるきっかけなどの捉えかたに(リアリティのある話かどうかは別として)思考や表現の工夫があって、小説を読むことの楽しさのようなものを想い起こさせてくれる。

もちろん、いろいろと課題はあるとしても、まあ、可笑しい小説であることに間違いはない。きっと、小説を読んだり、書かれたものを読んだりすることが好きな人にとっては評価に値する小説だと思う。そういった意味では、今回の選考委員のなかで、読むのが好きそうな人(たとえば、池澤夏樹とか)は褒めているが、もはや他人が書いた小説なんて祭事でもなければ読まないよ、という人は貶めているという、図式にも納得できる。

心配なのは、ネタを出しつくしちゃったんじゃないか、というところか。書き溜めた断章のほとんどをこれに突っ込んでしまった可能性もなくはない。諏訪は次はまったく違うものを、とはいっているが、ちょっと時間がかかるかもしれないな。

◎『キーチvs』

2007-08-26 17:39:16 | ◎読
『キーチ!!』が始まってしまった。もうそろそろ「ビックコミックスペリオール」も潮時かな、と思っていた矢先、その気持ちが大きく揺らぐ。しかも、今度の『キーチvs』は、いつもながらの「人間というものの底をつまびらかにしていく」という以上の、かなりたいへんなことを試みようとしているようにみえる。例によって。とてもイヤなこと、できれば見ないでおきたいことへのフタをかまわず引き剥がしていく。

劇場総理がもろに舶来の影響を受けてスタートを切り、その原理を情緒的で空虚な言葉により主義として踏襲しようとしている、この狡猾でなければ生き難い市場世界の行く末はどうなるのか?そこで、ちょっといかしたトレードオフのように語られた「痛み」は、けっして他人事でも笑い事でもない、ましてや分析の対象でもない具体的でリアリティのある疼痛であることに、こんなマンガ雑誌なんて読んでいるまさにあなたがいち早く気づかないといけないんじゃないか。2回の掲載を終えた『キーチvs』が、とりあえず語ろうとしているのは、おおむねこんなところだろう。

あのポリティシャンの為政が稀代の愚行だったこと、そして知らず知らずのうちに誰もが熱狂していたお手軽な祭事が、すべて与えられていたすり替えの作為だったこと。そんなあまりにもティピカルな反・新自由主義を『キーチvs』では訴求しようとしているが、タイトルからもわかるように、その敵はいったい誰なのかはわからない(というか、わかっているが、その答えはあまりににも教条的すぎる)。

はたして染谷輝一は、メシアとなっているのか?それとも、閉じた世界で別の原理を打ち立てるだけの宗教家と堕しているのか。

もし、新井英樹が、この物語を、破綻せずに、しかし破滅的なかたちでしっかりと閉じることができれば、10年後に語り継がれるフォークロアになるかもしれない。できれば、そのときは、英雄譚として、語られてほしいが。



同じように語り継がれる可能性をもっている漫画は『イキガミ』だが、そのための仕事は、まだ10%も終えられていない。それこそ逝紙配達人の藤本が、ジョン・コナーになるところからほんとうの物語は始まるのだろう。いつまでも、究極極限のエピソードだけを連ねているだけでは、衆愚をコントロールできると思っている誰かの「感動」祭事のための道具に使われてしまう。

◎これもいちおう見ておいてください。

2007-08-22 23:42:41 | ◎業
カップヌードル リフィル
http://cupnoodle.jp/refill/


これは面白い。まず、リフィルを創るというクリエイティブがいかしてる。テンプレートやジェネレータまで用意されていて、それはそれで楽しめるけれど、まったくのオリジナルを創るのもきっと楽しいに違いない。FREEDOMのやつなんて、展開図だけ集めるって人もでてくるだろう。もちろんコンテストなんかはもはや念頭においているだろうけれど、別に日清食品が主催しなくったって、主催したい人はいっぱいいるだろう。Tシャツ以来なかなか生まれなかったフリーキャンバスだ。カップヌードルアートなんて生まれるかもしれない。マガジンハウスの「relax」なんかが残っていたら絶対やったな。そもそもタイアップしてたか。
なにより、クールなエコの見本になるだろう(実際はあまりエコじゃないけれど)。エコ系のプレミアムに使うというのもアイデアだ。そのとき、マイヌードルカップのデザイン面がメディアになることをお忘れなく。もちろん「そのとき」じゃなくったってメディアになる。露出を高めていこうとすると、湯の問題が立ちはだかるが、まあ70年の発売時みたいに歩きながら食べるなんて無理目のことにトライする必要はない。うーん、こういうのをアイデアと呼びたい。香里奈を起用したのもGJ。

ちなみにジェネレータでデザインしてみた(実際は画像の配置が可能)。





クロスメディアな毎日によるとSEOはグダグダだったらしいが、いまはアドワーズが入っている。そりゃそうだ。しかし、何度みてもこの「強引に割り込んだ」不自然さは、やっぱり不自然だな。そもそも「リフィル」なんて、ワードの検討が足りなすぎるな。

◎えーっと。これは、必ず読んでください。

2007-08-21 21:18:47 | ◎業

一瞬で!心をつかむ売れるキャッチコピーの法則(田村仁・秀和システム)。
例えば、こんなところ。

「商品のことさえ理解できれば、商品キャッチコピーは誰にでも書ける、しかし、広告キャッチコピーはアイデアがないと書けない。だから、より価値が高い。
このような間違った認識が広告代理店のコピーライターを中心に浸透していったからです」

さらには、

「『とにかく商品から離れろ、離れろって、くどいほど言われるんですよ』 コピーライターが、上司のディレクターからそのような指示を強く受けているという意味です。
『商品まわりで考えていたら、何年たっても、いいキャッチコピーは書けない。商品から離れて、いかに目立つキャッチコピーを書くかに全力をあげるべきだ』
これが、その上司の意見だとう言うのです。
この意見は、一見正論のようにも感じられます。しかし、ひとつ大きな落とし穴があります。商品から離れて、商品が目立つキャッチコピーを書くことは不可能なのです。」

もひとつ、

「♪律子さん、律子さん、さわやか律子さん、律子さん♪というCMソングを覚えていますか。当時、プロボーラーの有名選手だった中山律子さん主演、花王<フェザーシャンプー>のCMです。
確かに目立ちました、しかし、目立ったのはこのCMソングだけなのです。キャッチコピーが目立って、商品は置き去り、の典型なのです。
ところが、このCMを制作した広告代理店は、いつまでも、『いいCMだった』と評価していたようです。もちろん、花王社内の評価は散々でした。『あんなCMを作るから商品が売れないんだ』。」

まるで、誰かが話しているそのままだ。もちろん、このような心構え的な訓話だけではなく、コピーライティングの実務的なノウハウも書かれている。いまではもうだれも気にとめることがなくなってしまったが、じつはコピーライター≒マーケティングライターにとって絶対忘れてはならない「コピープラットフォーム」のつくり方なんて貴重な方法論にも言及している。いわゆるパッケージンググッズの例を引き合いにだしていることが多いが、言葉による「顧客価値」への迫り方・翻訳の仕方、顧客にとってわかりやすい言葉の見つけ方など汎用性は高い。文章読本ふうでありながら、けっして、スタイル(テンプレート)に阿らず、「何を言うか」を俎上にあげているところもすばらしい(もちろんスタイル(型)は、スタイルで重要だけれど、女性誌の見出しを真似て書く、だけでは画竜点睛を欠く)。

ここで書かれているようなことがコピーライター≒マーケティングライターのミッションであるとすれば、これほどやりがいのある仕事はない。そして、それは、わたしたちのような仕事の核心でもある。

「スプーン1杯で驚きの白さに」。冒頭に掲げられた、この(伝説の)コピーの凄さがわかるだけでも、読む価値はある。

会議で紹介するので、HRIKくん来週までに、要点まとめて発表してください。


あ、そういえばこの人の前著、前にもらってたんだ。すっかりスルーしてたよ。『10日で!激売れ ネットショップで稼ぐ最強の仕掛けとキャッチコピー術 』。これは、ちょっとタイトルがあざとすぎたな。

◎シャッフル日記。

2007-08-20 22:05:57 | ◎聴
またまた新幹線が遅れたので、約1時間ほど遅延した道中でうんざりしながら聞いていたシャッフルの結果を列挙してみる。Eli,Eli,Lema Sabachthani?(*1)まあなんというか雑多な人生を救ってくれるのは雑多な音楽だな。やっぱり。

[01]Foreword◆Linkin Park (*2)
[02]Don't Stay◆Linkin Park
[03]Somewhere I Belong◆Linkin Park
[04]Lying From You◆Linkin Park
[05]Hit The Floor◆Linkin Park
[06]Easier To Run◆Linkin Park
[07]Faint◆Linkin Park
[08]Figure.09◆Linkin Park
[09]Breaking The Habit◆Linkin Park
[10]From The Inside◆Linkin Park
[11]Nobody's Listening◆Linkin Park
[12]Session◆Linkin Park
[13]Numb◆Linkin Park
[14]Tomorrow never knows◆Mr.Children (*3)
[15]Contact◆The Police
[16]Until I Believe in My Soul◆Dexy's Midnight Runners
[17]The Diamond Sea◆Sonic Youth
[18]Imgine◆John Lennon
[19]ミレニアム◆くるり
[20]I BELIEVE IN MIRACLES◆Hi-Rise
[21]Cecillia◆Simon & Garfunkel
[22]The Promised Land◆Bruce Springsteen (*4)
[23]INTERMISSION◆スーパーカー
[24]Track for the Japanese Typical Foods called"Karaage" & "Soba"~キラーストリート(Reprise)◆サザンオールスターズ
[25]Spice Up Your Life◆Spice Girls
[26]Get Back To That Good Things◆Casiopea
[27]裸のままで◆スピッツ
[28]ANTENNA◆スーパーカー
[29]Behind The Mask◆Yellow Magic Orchestra
[30]Candy◆Jackson Browne
[31]Intro The Pretender◆Jackson Browne
[32]栞のテーマ◆サザンオールスターズ
[33]TWO MOON JUNCTION (NIGHT TRIPPER REPRISE)◆甲斐よしひろ
[34]If Not For You◆Bob Dylan
[35]Twentieth Century Fox◆38 Special
[36]Melody Fair◆The BeeGees
[37]Coutious Man◆Bruce Springsteen
[38]UNIVERSE◆スーパーカー
[39]Jacob's Ladder◆Bruce Springsteen
[40]Hey Now What You Doing◆New Order
[41]Part Of The Queue◆Oasis
[42]Back Seat Betty◆Miles Davis
[43]鳥になって◆中島みゆき
[44]青い空◆くるり
[45]In The Garden◆Cocco(*5)
[46]何と言う◆奥田民夫
[47]A Rich Man's Girl◆浜田省吾(*6)
[48]Stop Crying Your Hear Out◆Oasis
[49]Strange Days◆The Doors
[50]Every Little Thing She Does Is Magic◆The Police
[51]You Can Look◆Bruce Springsteen
[52]Back Door Man◆The Doors
[53]cream soda◆スーパーカー
[54]グッドモーニングサニーデイ◆斉藤和義
[55]Darkness On The Edge Of Town◆Bruce Springsteen
[56]Radio Song◆R.E.M.
[57]Jackson Cage◆Bruce Springsteen
[58]Invincible◆Muse
[59]Eyes of Mind◆Casiopea
[60]約束の十二月◆斉藤和義
[61]Dolls◆Primal Scream
[62]Avalanch◆New Order
[63]ハイウェイ◆くるり
[64]太陽は罪な奴◆サザンオールスターズ
[65]not now john◆Pink Floyd
[66]観覧車’82◆KAI FIVE
[67]Krafty (Japanese Version)◆New Order
[68]蒼茫◆山下達郎
[69]SynchronicityⅠ◆The Police
[70]ある晴れた日の夏の日の午後◆浜田省吾
[71]Lonely Man◆SHOGUN
[72]Politik(Live)◆Coldplay
[73]City◆Primal Scream
[74]19のままさ◆浜田省吾
[75]Minus◆Beck
[76]JUMP◆サザンオールスターズ
[77]古いラジカセ◆斉藤和義
[78]One Of The Lonely Ones◆38 Special (*7)

(*1)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。このどうしようもない映画について思うところが熟したら何か書いてみる。もはや、各界で充満し切ったノイズを一切無視して書ける意見はないだろうけれど、それでもなんかひとこと言っておきたい映画である。
(*2)シャッフルといいつつ、GOをかける前に、休暇明け出勤の景気づけとして『Meteora』を。無理やり昂ぶらせてみる。なんか漲ったかな?いろんな人がとやかくいおうと、やっぱり『Minutes to Midnight』は聴いておいたほうがよいような気がしてきた。
(*3)9月にライブにいきます。しかし、うまい具合に、チケットがとれたもんだ。本年度確率大賞受賞。しかしながら2位。
(*4)E Street Bandとの待望の新しいアルバムが!「Bruce Springsteen's longtime manager Jon Landau said, "'Magic' is a high energy rock CD."」ということらしい。「<ガールズ・イン・ゼア・サマー・クローズ>は、ランドー曰く「Eストリート・バンドのサウンドに(ビーチ・ボーイズの)『ペット・サウンズ』的なフィーリングを少し織り交ぜたもの」なんて、もの凄い発言も。この老いた親父はいつまでもやってくれますよ。
『Magic』
1. Radio Nowhere
2. You'll Be Comin' Down
3. Livin' in the Future
4. Your Own Worst Enemy
5. Gypsy Biker
6. Girls in Their Summer Clothes
7. I'll Work for Your Love
8. Magic
9. Last to Die
10. Long Walk Home
11. Devil's Arcade
(日本では10月24日発売)、
http://www.brucespringsteen.net/
(*5)Uncoで話題のCoccoの新譜『きらきら』は、なんだか、それこそ、くそみその評価をもろに受けて立っているという感じで、かわいそうではある。わけ知り顔のレヴューコーナーでは、本気で、んなら聴くな、と怒りたくたくなるような酷い言葉が乱舞している。「期待しているから」とか「応援しているんだよ」(誰を?)といったところだろうけれど、それなら、此岸から彼岸を責めるのではなく、今の音を絶対的に評価してあげればよいのに、と思うわけだ(もちろんそんな冷静な人もいる)。いったい、みんなは音楽に何を求めているんだろう。なんだろう、ちょいと一発、毛羽立った神経のほうをガリガリと卸してもらって、すっきり一杯カタルシス、ってことなんだろうか。と、考えたときに、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の発想が浮上してくる。もちろん、ガリガリ系の聴き方だって悪くはない。しかし、『エリ・エリ……』が言っているのは、それも含めた多様性への眼差しだろう。ちょっと見えにくいものもしっかり拾っていこう、とか。うん、少しは見えてきたか。
(*6)10月に、"ON THE ROAD 2006-2007"に行ってまいります。ホールなのにチケットがとれるなんて驚きだ。というわけで確率大賞の1位はこちらですね。3位あたりにBank Bandとかくるかも。
(*7)3大ブリティッシュバンドが1曲も出てこなかったのも、確率としては、そこそこのもんだ。あとクラシックも。

◎ミナミ書店日記。BOOK 1st、std.……。

2007-08-19 13:59:18 | ◎書
[1]巨艦店に目がいきがちな「BOOK 1st」は、じつは小規模の店のほうがラインアップがキメの細かく重宝する。たとえば、関西圏での巨艦は梅田店でここは確かに新書や文庫の蔵書量はそこそこあるけれど、巨艦のわりには、小説や人文系に抜けもれが多く、当然のことながら"大"渋谷店と比べるとかなり物足りない。まわりを2つのジュンク堂、旭屋書店に囲まれていることもあって、戦略がどうしても中途半端になってしまうのだろう。それに比べると、小さい店舗は(関西はおもに阪急沿線、関東は西東京に点在)、その立地の特性をうまくとりいれながら、抑えるべきところはしっかり抑えるというMDが展開できているように感じる。たとえば、たまたま立ち寄ったクリスタ長堀店は、あきらかにビジネス書を中心にした棚割りになはってはいるけれど、そのほかの書籍・雑誌も含めてピックアップのしかた絶妙で、いつもどこかでみている本ですら購買意欲を喚起する。たとえば、新刊・話題の本の棚に『次世代広告コミュニケーション 』『巧告。』『次世代広告テクノロジー』なんてのが3冊こっち向いて並んでいると、どれか1冊くらいは買わんと何かに乗り遅れるのではないだろうか?という気にさせられる。ふつうの書店のビジネス書の新刊棚ではこうはならないだろうから、これはかなり巧みなターゲティングといえるかもしれない。かといって、人文とか小説の棚の気が抜けているかというとそうでもなく、それぞれ1冊づつではあるが(いまなら、さしずめ『情報環境論集』とか『死相の思想』、『フーコー』といったところか)、抑えどころは抑えている。新聞書評の棚もしっかりしていて遡って2~3週ぶんはスペースをとっている。これが、そこそこの規模の書店ならともかく、あのスペースで実現できているのはたいしたものだ。わずか1冊つづでも店に入れて並べているという目利きと日々のメンテナンスはかなりポイントが高いんじゃないか。

[2]ポイントが高いといえば、これはぼくも相当驚いたのだけれど、アメリカ村の端にクールな本屋があるのを今ごろ知った。最近、妙に書店にくわしい奥さんにひき連れられ、クリスタ長堀のBOOK 1stを後にして、アップルストアの前あたりを進んでいるときはほとんど信用していなかったし、コンビニの横のごく小さいファザードを前にしたときも、ああよくある狭小のセレクト本屋ね、くらいにしか思えなかったわけだが、店に入ったとたん、そういった浅はかな思い込みを、いたく反省させられることになる。
「スタンダードブックストア(std.)」は、そこに充満する華麗なスノビズムと大量のサブカルにより、ちょっとした本好きの興味を大きく煽る。本と雑誌と文具とカフェ、というとヴィレッジ・ヴァンガードなんかを思い浮かべてしまいがちだが、それが本屋に大きく軸足をおいているとしたらどうなる?というところを想像してもらえればいいんじゃないだろうか。まず、ごちゃごちゃしていないところが大人である。盆のさなかに、これだけ人がいないのはちょっと心配だが、静謐な雰囲気のなかで本や文具を選び楽しめるのは、このうえない喜びである。
入り口付近からしばらくは雑誌のゾーンが続くが、これだけ多くのスペースを割いているのは、いうまでもなくバックナンバーが充実しているからである。たとえば、「BRUTUS」は、誌面では、在庫なしとか僅少とかいわれている号も確保されいる。面倒だから細かくは列挙しないけれど、サブカル系の雑誌の多くは抑えられていて、発売時はそれほどでもなかったものでも、こんなふうにあらためて並べられるとついつい財布に手がいってしまう。つきなみだが「BRUTUS」の落語特集とか日本旅行特集や「Pen」の宇宙特集を前に再び悩んでしまうというわけだ。そのあたりはなんとか我慢するもなんか買わなあかんのんちゃうんムードに押され「Casa BRUTUS」の最新号、日本建築特集を。
奥に向かって目立ってくる文具の島は、それだけ目当てに来ても納得できるのではないか、と思えるほどの品揃えで、ミケリウスがない以外は、文句のつけようがない。あまり細かくみると余計なものを買ってしまいそうなので、軽く往なして、さらに進むと漫画・小説・サブカルの一角。このあたりのラインアップは、まあヴィレッジ・ヴァンガード風ではあるが、蔵書の量はずいぶん違う。小説については、関心の範疇に入るものはほとんど入手しているため、もう嬉々とすることはないけれど、それでもこういった棚を見るとずいぶんリラックスできるものである。
ふと見ると階下へ誘うPOP。なんでも地下にあるカフェではそのフロアの本なら、持ち込み可ということらしい。ちょうど歩きつかれていたので、早速降りてみるとB1もかなり広いスペースが割かれていて、デザイン、音楽、料理など趣味性の高い本に溢れている。どうやら、中欧・東欧と北欧の本なども充実しているようだ。写真・カメラ関連も、大きなコーナーが確保されていて、そういうのを前にすると、やっぱり写真部に入るべきだな、と思ってしまう。
カフェはけっしておまけ風ではなく、その広さ・ゆったりしたレイアウト、メニューなど悪くない。歴としている。聞けば、ホームメイドのジンジャーエールは、ジンジャーを擂っているらしいし、キャラメルチーズケーキも美味しかった。このスペースをつかってのライブやイベントもしっかり組まれているようだ。ベルギービールを親しむ会なんていかしてる。
最近は古本の扱いも始めたみたいで、いまはまだほんの小さな一角を占めているにすぎないが、抑えは効いている。POPEYEの80年ごろのBNも並んでいた。なんでも、「BerlinBooks」という古書店と提携しているようで、ここも知らなかったのだがWEBサイトを見る限りはかなり趣味が合いそうだ。こっちも一度、行ってみる必要があるなあ。

[3]古書店といえば、ミナミの書店めぐりの〆はおきまりの天地書房&なんば書籍。7~8年年程度前なら、「あの本は入っているだろう」と思った本が、必ずといっていいほど入っていたが、最近はどうも不発が続いている。というか古本業界全体が、新古書の動きが鈍っている感じがするのは気のせいだろうか。たとえば、今回は『花の回廊』はどうかね、と思っていたわけだが、やはりダメだった。ただし『灰色のダイエットコカコーラ』なんて古書店的には珍しいのがあったので、とりあえず抑える。


スタンダードブックストア。写真撮影を許してもらえた。

◎もっと、面白いことを。

2007-08-16 00:28:39 | ◎業
ここで、私たちはクリエイターであるということを明確にしておきたい。こんなことを書くと、2chなんかだと「何様?」なんて祭になりそうだけれど、やはりコミュニケーションのインターフェイスの計画に某かの志をもって携わっている人はクリエイターと呼んでもさしつかえはないだろう。

そして、クリエイターの本分は、自負をもって、いつも誰かをあっと言わせる面白いもの・新しいもの・美しいものをつくってやろう、という企みと志を持ち続けること、ただそれだけに過ぎない。もちろん、それが実現しなくったってかまわない。こういった執心、野心といったものをいついかなるときでも持ち続けることができるのなら、あなたはクリエイターとして認定される(*1)。しかし、ここには高くはないがいちおうハードルのようなものがある。いや、人によっては高いハードルかもしれない。

まず、世間水準を超えるような「面白いもの・新しいもの・美しいもの」は何かということのへの知悉と理解が必要だろう。自分が面白いと思うことが、世間ではあまりにもあたり前のものであったり、もはや死んでいるとしかえいえないようなネタの劣化コピー&ペーストであったり、なんだが「ザ・テレビジョン」とか「SPA!」の受け売りのようなものであったり、つまりは自動化・コモディティ化され過ぎているものにしか求められないのであれば、少し情報のアンテナの方向を変える必要があるかもしれない。アンテナの受信量を大幅に拡げていく必要もあるだろう。「これは誰も知らないだろう」「これこそ誰も到達できない私のオリジナルだ」「そんな古いアイデアより絶対こっちのほうがいい」。こんな企てを腹の底に持ち続けるほうが、それが誰も知らないようなことであるなら、たとえ偏狭であったとしてもまだいい。「私のオリジナル」なんて、ほぼ絶対にあるわけはないけれど、オリジナルだと人に言えるだけ周りを地固めしているのなら、それはその時点で相当なアイデアになっている。
逆に、そんな大それた考えもなく、無垢にアイデアまがいのものを口に出すことを戒めなければならない。

「それってブレストにおけるアイデアキラーと呼ばれるものではないでしょうか」。

NO。ブレストは雑談ではない。やはり「どうだ?面白い考え方だろ」といった自分のアイデアをなんとか通してみたいという意志が明確な意見や「自分が思いつくのはここまでだけれど誰か継いでくれないか?」という巧い前捌きが明確な意見と「そうでない意見」との差は聞けばすぐにわかるほど明らかで、後者がいくら集まっても、議論にはなんの発展もない。むしろ変に盛り上がるぶん、あとで議事録を読み直したときの落胆が大きい。仲間内すら、驚かすことができない意見は、まあコモディティ化した意見だろうと思うべきだ。そして、当然のことだけれど、そういった意見が提示できるかどうかは、年齢とかキャリアにはまったくといっていいほど関係ない。
そこにあるのは、知りたいと思う欲求、調べようと思う気概、なんとかアウトプットしてみようという根性の差だ。

こういったことに自覚的になっていると、それまで漠然と眺めていたものの見方が変わってくる。投入されるのは「これは使える、これは使えない」という視点だ。たとえとしては正しくないかもしれないけれど、「狩り」の発想に近いものかもしれない。とりあえず大量の「狩り」を繰り返さなければ、勘どころも掴めたもんじゃない。こういったことが繰り返されてはじめて、自分がやりたいクリエイティブの核のようなものが小さく結晶化しはじめる。

「情報ばっかり集めて評論家になるのはよくないといわれますが」

これもNO。それは閾値の問題だ。現に評論家になれるほど情報が蓄積されている人がどれだけいるのか。まず、評論家といってもさしつかない程度の情報量の閾値を超えなければなにも始まらない。
基本的なことを書く。まず、新聞を購読すること。少なくとも、今日の広告は今日話題にできるように。五大紙プラスαの新聞社のWEBサイトは毎日ザッピングすること。できれば、日に2~3の広告はクリックして、遷移やボンディングのしかけを体験してみる。書店には週2~3回は足を運び、いまどんな雑誌が並んでいて、主だったものについてはどのような特集が組まれているか把握しておく。それ以外にも、できれば、建築系・デザイン系、当然だけれどビジネス系の棚は巡回しておきたい。安易だけれど青山ブックセンターは、(ビジネス以外は)そういった基本的で手軽なニーズに応えてくれる。この数年で豹変した『宣伝会議』を中心に『販促会議』『編集会議』はできればクリッピングする程度には目を通しておきたいし、3大ビジネス雑誌はザッとでもよいので目を通しておきたい。好きなデザイン系の雑誌をしばらく定期購読してみるというのもいいかもしれない(最近なら、MYCOMの『+DESIGNING』なんかがいいじゃないか)。毎月のように供給される広告・デザイン年鑑からは、とりあえず自分の目で「良い・好き」と思えるデザインワークをピックアップし、何がどこがいいのか物理的に分析してみる。これは私じしんも実現できていないのだが、WBSは可能な限り視聴しておきたい。教条的だが、できればテレビのチャネルはNHKやBSにシフトしていきたい。
閾値はあくまでも結果の話であり、基本的には鑑識眼とか審美眼を身につけていくための基礎的なトレーニングということだろう。

評論家でおわるか、アウトプットを出せるクリエイターに変わっていけるかは、何かをしこしこ形にしていってみたいというクラフトマンシップへのこだわりや、いくつかの事象を結びつけていくリレーション思考や蝶ネクタイ思考(*2)がどれだけ身についているかに拠る。この部分がトレーニングできるかどうかについては(とりわけ前者)、まだわからない。しかし、世間的には、それに近いようなハックがたくさんあるようなので(とりわけ後者)、自分がしっくりくるものを、これもまずたくさんの方法論を見極めた中から選んでみたる必要があるだろう。

面白いもの・新しいもの・美しいもの。つまりこれまでとは違うもの。これがエンジンでないと、どんな仕事も長続きしない。

(*1)クリエイターのような人に認定されるためにはもうひとつ重要なスキルが必要で、それは言うまでもなく「口」であるが、当然ながら「口」のバックボーンには、正しいこだわりが不可欠である。
(*2)HRインスティテュートの野口吉昭による。いくつかの具体的な事象にある構造を帰納的に導き出し、本質を凝縮させた後、再び蘇生拡散してみるという思考法。ごくあたりまえのことではあるが、蝶ネクタイが頭に浮かんでいるのとそうでないのでは生産性に大きな差がでる。

◎『どろろ』

2007-08-14 11:10:04 | ◎観
どうも疲れているようで仕事が興に乗らない。そりゃそうだ、休みだからなあ。ということでリストアップしていた『どろろ』を観る。



約2時間。

いやあこれはすばらしかった。仕事を泣く泣く後回しにしてまで観た甲斐が充分にあった。ほんとに。なんでも日本のエンターテインメントが変わるとかなんとか言っていたみたいだけれど、もはやハリウッドを30年から50年は越えているね。8CH系のエンタメ映画より10年くらいは先に言っているんじゃないかな。なんだろう、潤沢にお金があったからなのかな。いやそうでもないか。チープな特撮とか、もう少し吟味できたかもしれないカメラワークも見受けられたからきっとかなり厳しい低予算だったんだろう。それにしては「工夫」でよくがんばったほうだ。なんたって、中国のワイヤーアクションの権威っていう「工夫」をいれているくらいだ。プロデューサー、監督、脚本のうちの誰かはわからないが、きっと「どろろ」という名作に対する強いエンスージアズムをもっている人がいたんだろう。

その時間があればちょっとした仕事を片付けられるような長尺とはいえ、それでもたった2時間に、いくつかのエピソードを詰め込み処理してしまいながらも、全体としていっさいの不明とか疑問がわかないように「わかりやすく」仕上げた手腕は見事だ。なんてったって、たくさんの人が見る映画だからわかりやすくないと。「エンターテインメント=わかりやすさ」だからね。日本の場合は。
多宝丸の話をあそこまでシンプルに換骨奪胎できる思い切りの良さは気持ちよさを通りこして、その独我の才能に畏れを感じる。「ばんもん」を小道具につかうなんてなんて贅沢な演出も洒落が効いている。原作のよいところをなにがなんでも、ほんの少しでも残していこう、そのために映画作者の思想性なんていくらでも犠牲にできるといった献身も敬いたいところだ。

あとあれだな、殺陣をあきらめて特撮に注力したことが現代風で好ましいし、いわゆる格好よさはとりありえず二の次にして、現代のエッセンスを巧みにちりばめたスタイリングもすばらしい。そしてなにより、妻夫木と柴崎に彼ら本来の演技をガマンさせて、百鬼丸とどろろになりきらせた指導はもっと評価されてもいいはずだ。二人のキャリアにしっかりと記憶に残る演技を刻み付けた功績は大きい。その点では、キャラクターにもう少しオリジナリティが欲しかったような気もするが、このあたりはきっとしっかりとした話し合いがもたれた結果なのだろう。

なんにつけ、きわめてTBSらしい映画だった。

◎とりあえず、列挙。

2007-08-13 10:23:01 | ◎読
『半島』(松浦寿輝/文春文庫)
先月の文春文庫。と思っていたら、世間的にはもう一ヶ月たったようだ。ほとんど進捗なし。読了率0.5%。今月の文春文庫はいまいちなので、まあいいか。
『野川』(古井由吉/講談社文庫)
文春だけでなく最近は文庫を買うことが多くなった。ということは、新刊単行本の段階で抜け漏れているものがまだまだたくさんあるということだ。幸か不幸か。いまさらではあるがこれもそのひとつ。新刊がでた瞬時は逡巡していたがそのうち忘れてしまっていた。意外と文庫化が早く、そればかりか文庫になるなんてあまり期待していなかったので、こういったサプライズはうれしいものだ。
『プリンシプルのない日本』(新潮文庫)
同じように、ずいぶんないまさら感はいなめないけれどこれもそのひとつ。白洲次郎は、どうも気になる男である。いったい、青山真治のホンや映画は進行しているのだろうか。
『群像 9月号』
その青山真治のこれまたなんともいえない魅力的で破滅的な短篇『天国を待ちながら』掲載。80%読了。どちらかというと『月の砂漠』風。これまでも多少は感じられた、ひとつひとつの言葉のひっかかりがよりいっそう強くなり、もたらすゴリゴリ感・ガリガリ感が、ある意味での読み難さをもたらす。集計用紙に細かい文字でびっしり原稿を書き散らしたといわれる中上の書き方をも想起させる。しかし、もし小説をゆっくり読んで欲しいのであればあえてこういった手法をとるというのはあるだろう。もちろん、きっと青山はそんなことはいっさい考えておらず、なにか別の強い意図が働いているのだろう。
『雲のうえ』
いわずと知れた北九州市発行のフリーマガジン。アリヤマデザインストアのデザインワークと相俟ってかなりクオリティが高く、ぼくはこれからも漏れなく入手することに執心するだろう。お金をとっている雑誌は、こういうのをかなり脅威に感じないといけないんじゃないか。その『雲のうえ』の「四号」の広告に、北九州らしくいちはやく青山の『サッド・ヴァケイション』の広告。「女たちの物語」となっているのが意外だが、この映画だけはなんとしてでも見に行きたいところだ。
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
ということで、いくらなんでもこの休暇には観る時間はあるだろうと思ってようやく借りてきた。
『どろろ』
あわせて借りてきた。『キャシャーン』的な悪評も聞かず、むしろエンターテイメントとしては楽しめるらしいし、なにより手塚といえば『火の鳥』の次に『どろろ』と思っているくらいなので。妬み嫉みから生まれたこの作品は、妬み嫉みが充分に詰まっていてそれがフォースになっているような気がする。きっと映画はそんな忠実さはなく、そういった部分での評価は最低に近いようだけれど。
『メゾン・ド・ヒミコ』
借りる買う前にまず資産を棚下ろせよ、ってことで、ハードディスクを整理していたら発見できた。面白かった。けっこうギリギリのところはあるけれど、こういう映画を娘と一緒に観るべきだと思った。『ジョゼと虎と魚たち』のときも書いたが、犬童一心の「2度と会えない」かもしれない別れと泣きの絵の作り方はなかなか素敵だ。(もっとも今回は、2度と会えない別れではない)。そしてなんといってもメイクダウンした柴崎コウ。『どろろ』を観たいと思った理由のひとつでもあるのだけれど、やっぱり柴崎コウはよいね。
*
『文藝春秋 9月号』
恒例の全文掲載号。そういえば、去年も同月号を買っていて、おい、この小説を知事と龍がなんで褒めるかね、と思っていたが、今年は真逆。『アサッテの人』の方が、小説としてはずっと面白そうなんだけれど、なんだろう、この2人は理屈っぽいのは嫌いなんだろうね。諏訪哲史という人は『群像』掲載の対談なんかによると、きっと理屈っぽい学問オタクなんだろうけれど、いまやむしろそういう人の書いた小説のほうが「降りていっている」感があって信頼できる気もする。ただし「言葉遊びはいらんよ」って言われれば、そう思っている人には、まあ返す言葉はないっす。たとえば、あいかわらず厳しい、じいさんとか。
『新潮 9月号』
ほんとうは今月は『群像』だけでもよかったんだけれど、今年の『新潮』は連載が効いているので買わざるをえない。もちろんそれだけではなく、そのじいさんの『流転の海』25年のインタビューも多少は購入動機には加担している。もうほとんど宮本輝の小説を読むことはなくなってんだけれど、『流転の海』だけは抑えようとしていた。が、じつのところは『天の夜曲』は買ったきり読んでいないし、今回の『花の回廊』の連載中の『新潮』のほとんどは入手していたにもかかわらず目も通していなかった。はたして、ほんとうに読む意味はあるのか。その疑念は、このインタビューにより多少は晴れた。この「作者が死」なない状況については文学のコードからは幾ばくかの批判はあるかもしれないが、自分自身も虚か実かわからないと言わしめる宮本輝の狂気に対し、小説の側からは、それもまた小説と賛辞を送りたい。やはり、『流転の海』シリーズは読み続ける必要があるだろう。
今号は、梅田望夫によると、養老孟司のじいさんによる河合隼雄への追悼文もすばらしいらしいので、まずここから読み始めるか。いや、やっぱ養老はダメだろ。惑わされず『決壊』にしよ。
『文學界 7月号』
連載といえば『文學界』もなかなかいい線いっている。ただし、読み出すと読み続けないといけないので、意識的に買わないようにして、(ちょっと文学論争が起きそうな気配の)『ニッポンの小説』とか高田明典の『メディアフィロソフィ』、龍の新作なんかは単行本に委ねることにしている。ただ、気になる号があれば古書などで気軽に抑える。たとえば「村上春樹の知られざる顔」掲載の7月号などはそういったひとつだろう。なかで春樹が、カズオイシグロについて真面目に触れている「The Georgia Review」のインタビューがあり、ま、あたりまえの話なんだけれど、春樹がイシグロを読んでいる、ということに気づかされた。
『充たされざる者』(カズオ・イシグロ/早川epi文庫)
そのイシグロの3㎝厚の文庫本。京極じゃないんだから勘弁願いたいところなんだけど、店頭ではやはり迫力はある。迫力におされて、買ったはいいけど置き場所に困ってます。持ち運びも億劫になるのでなかなか進まん。約10%、つまり100ページほど読了。すでに不条理感に満ち溢れ、面白いことは面白いんだけれど。
『カラマーゾフの兄弟』
さて、こっちも厚い。この忙しいのにアマゾンから届いた。いったいいつ誰が注文したんかね。ただし、読みやすい。亀山の解釈がどこまで反映されているのか楽しみである。
*
『スクール・アタック・シンドローム』(舞城王太郎/新潮文庫)
『テイスト・オブ・苦虫 3』(町田康/中央公論新社)
『感情教育』(島田雅彦/朝日出版社)
もはや、こういうのはいつどんなタイミングで読んだらいいのかかいもく見当がつかなくなってきた。

◎初めて買いました。

2007-08-06 23:57:56 | ◎目次
『SFマガジン』。SFやミステリーについての関心がいたって浅く、まあ絶対に買うことはないよね、と思っていたのですが、ヴォネガットの追悼とあらば動かずにはいられません。すでに、最後のエッセイといわれている『国のない男』(*1)は『アサッテの人』を押しのけ鞄の一角を占めていて、だいたい40%程度を読み終えたところ。太田光が盲目的に褒めるほどではなないにしても、そのエスプリとアイロニー、そして笑いは間違いなく冴えています。『タイム・クエイク』以降、いくつかのエッセイを読むにつけ、ヴォネガットが若干、老いた武者小路実篤化している感はいなめなかったのですが(いやまあそれはそれで面白いわけですが)、最後の言葉にしっかりと耳を傾けてみたり、また『SFマガジン』でうまく整理されている実績を見るにつけ、やはり彼の偉大さを感じざるを得ないところです。場合によっては彼の「ノイズ」の偉大さといってもいいのかもしれません。

人に言えるような話ではないのですが、わたしの小説遍歴のスタートは、ドストエフスキーでもカフカでも小島信夫でもなく「村上春樹⇒ヴォネガット」です。ひょっとしたら、同じような流れでスタートを切った人は多いかもしれないですね。そして、おそらく村上春樹だけでは、ここまで長く小説というものに関心を持つことができなかったもしれません。もちろん、いまだって、初めて読む小説の1ページ目を開くときはかなりワクワクしているのですが、じっくり考えてあの頃を思い出してみると(といっても20年ほど前のこと)、ヴォネガットの小説を読み漁っていたときほど、ワクワクしたことはこの20年なかったかもしれません(そんなことないか)。わたしがヴォネガット読み出したころは、初期の作品のほとんどがハヤカワの文庫に収められていたので、ほんとうに手軽に、いまにして思えばそんな余裕がよくあったなあ、と思うのですが、2~3日に一冊のペースぐらいで読み続け、あっという間にヴォネガットの仕事に追いついたような記憶があります。

そんな読み方をしていたため、いまではほとんどのストーリーを忘れてしまっています。しかし、これは見方を変えればたいへん幸運なことであり、すべての著作を読み直すことで、もう一度のあのワクワク感を体験できるかもしれない。そして何より喜ぶべきことに、わずか1冊だけ、その理由も定かではないのですがなぜか『タイタンの妖女』だけは、読んでおらず、家に本もありません(SFマガジンの全邦訳解説と照らし合わせみても、どうでしょう、いまでは手に入りにくいようなエッセイも含めて、全邦訳が揃っていて、ほんとうに手元にないのは『タイタンの妖女』だけでした)。
確か太田光は『タイタンの妖女』を筆頭に上げていました。きっと彼だけではなく多くの人がこれを推すでしょう。なんてったってトラルファマドール星人が初めて登場する小説です。『タイタンの妖女』を読まなければ、ヴォネガットは語れない、始まらないなんて見方もできるかもしれません。それならわたしは亜流ということになってしまうわけですが、叱責をうけもう一度始めからやり直すことについての異論や不満はいっさいありません。あの頃の若読みを反省しつつ、むしろやり直したいくらいかもしれません。

*

『SFマガジン』にはヴォネガットゆかりの人たちがいずれも気のきいたコメントを寄せています。おなじみの人たちが顔をそろえる中で、やや異例に感じたのが川上未映子です。もちろん、今回の特集号は、とりあえずヴォネガットについて言葉が費やされているというそれだけで充分なのですが、こういったところに山椒を利かせているところも興味を喚起しました。そして、もうひとつ、ヴォネガットとは無関係なところで円城塔が短篇小説を掲載しているのも大きな動機づけとなりました(*2)。

しかしながら、この2人が話そうとしていることは、いま現在の私にはさっぱりわかりません。少し言葉が深すぎる(濃すぎる?重層すぎる?)のでしょうか。彼らの言語感覚に内在するフレームのようなものがどうも読みきれません。じつは、川上にしろ、円城にしろ、ヴォネガットの何かを反映している書き手といわれていたような気がします。川上は追悼するぐらいですし、自身がどこかで語っていたような記憶もあります(*3)。円城にいたっては「ヴォネガット+レム」なんて惹句もあるくらいです。もし、じっくり時間をとって彼らの読み難いテキストにあたることができれば、小説の新しい地平が見えるかもしれません。そう、最近の小説賞の候補者をみても、あきらかに書き手は新陳代謝しています。ライト・ノベル派が終わったとまでは言いませんが、ラノベの一歩先に、これらのセンスが新しい塊が挿入されているとはいえないでしょうか。

そういえば、夏の休みが近づいてきています。もし万が一時間がとれるなら(そんなことをいい続けて幾度空振りをしたことか)、あいかわらず「何かを書く」というミッションは念頭に置くとして、ちょっと新しい小説に取り組んでみるのもいいかもしれません。あ、もちろんヴォネガットとも忘れていません。といいつつも、鞄を開いてみると『充たされざる者』のようなダイエット中の女子高生の弁当箱くらいはありそうな塊が入っていたり、アマゾンに発注した例の『カラマーゾフの兄弟』5冊が今週届くだろうから、結局きっと何もかもがうまくいかずに終わりそうです。ああ。

最近買っている本の話は、少し別の機会にまとめてみます(*4)。


(*1)なぜNHK出版から?といぶかっていたのだが、こんな経緯があったようだ。ともあれ編集者の方の志に大きく感謝したい。もし、この邦訳がでていなかったら、ヴォネガットがいなくなってしまったことすら、忙中にかまけて1年くらい思い出さなかったかもしれない。
(*2)残念ながらそれ以外のページは、ちょっとキツいものがあったので、おそらく今回のような追悼とか総特集でない限り、『SFマガジン』を手にとることはないと思われる。そういった意味ではレムの追悼号は抑えておくべきだったかもしれないなあ。
(*3)同じ編集者の方のブログで川上未映子につながる。そこから彼女のブログにつながる。まあなんというか世の中はつながっている。
(*4)なんで「ですます」で書いたんだろ。まるで追悼文みたいじゃないか。

◎ノイズ文化論。

2007-08-05 21:21:19 | ◎読
『ディアスポリス』は、本国でも異国でも居場所をなくし正式には認められていない人たち、正史からみればいわばノイズの物語だ。しかし、そういったノイズにこそ人間と世界の原動力があるのではないか、ということを検証というか、うだうだ思考実験してみたプロセスを野放図に拡散しているのが、宮沢章夫の『東京大学[ノイズ文化論]講義』だ。

同じ『東京大学「80年代地下文化論」講義』はそれなりに楽しめたものの、全体を通して「ピテカン」という、その頃関西に住んでいた人間にとってはイメージしにくいエピタフを拠り所としていたこともあり、もしそういった話が続くのならもういいやと思って、今回の『[ノイズ文化論]講義』はスルーしかけていた。目立っていた「ノイズ・ミュージック」なんて言葉も、敷居を高くしていた理由のひとつだ。しかし、まあ同じような装丁で同じような厚みの物体がいつまでもABCなんかに平積されていると、いやがおうでも視界をチラつくわけで、そんなら、とあらためてザッピングしてみると、どうやら「80年代地下文化論」とは事態がずいぶん違っていることに気づきだす。

岡田斗司夫や原宏之をゲストに迎える講義があったり、ニュータウン(須磨)のフィールドワークがあったり、きわめつけは『シンセミア』を題材に議論してみたり(*)。これは、あまりにも俗っぽすぎて誰も真剣に取り組もうとしなかった、日本のカルチュラル・スタディーズの直前まで来ているのではないか。話は拡散的に過ぎるが、そのとっちらかりこそがまさにノイズの体現であり、けっして予定どおりには進まない講義、大量の下世話を受け入れる懐の深さは、学ぶこと知ることの連鎖の面白さを示してくれる。
でたらめに並べられたノイズが緩やかな一貫性をもって大量に放出されていくそのさまは、まあいってしまえば、いい加減なんだけれど、見方を変えれば、これこそが「学」というものの原初形のような気がしないでもない。こういう話を、時間の制約なしに、鯱張ったルールなく、もっと言えば飲みながらできることこそが、人の幸せかもしれないと思える。

講義の7回まで読み終わり、ここまでは、オタクの話、角度を違えた80年代の話、酒鬼薔薇の話、68年の話、ここから後半も、中原昌也のノイズ・ミュージック、第2日本テレビの話、フリーターとクリエイティブ・イデオロギーの話、例によって郊外SCの話、そして『シンセミア』とノイジーなテーマが満載なんだけれど、前半部分についていえば、もちろん岡田斗司夫のやや自虐的にすぎる自分史観(=オタク史観)なんかも飽きることはないけれど、なにより興味深かったのは網野善彦のいくつかの著作をテキストとした歴史の中の異形をテーマとした講義だ(第7回:「異形なもの」に対する眼差し)。

とりわけ『異形の王権』で描かれた、後醍醐天皇の異様さ・不可解さへの考察は、そんな人だったなんてまったく知らなかった(し、歴史の教科書では隠されていたかもしれない側面だった)ので、意外性をもって読み進むことができた。そこで書かれていることを真に受けるとすれば、なんというか後醍醐天皇はひょっとしたら正真正銘の気狂いだったのかもしれないし、悪魔の化身だったのかもしれないと思える。歴史においてはそういった異能による為政が繰り返されてきているのは事実であり、そういった時代こそが、歴史の教科書に載るようなエポックとなっているのもまた事実である。しかし、史実の一部は、(後醍醐天皇の異様さを隠したように)勝てば官軍的に隠匿されているわけで、網野善彦のような「異形なものに対する眼差し」を持つことは、必然のバランスとして重要なことなのだろう。なんだかんだいっても、とりあえずここまで世界が破滅(消滅)していないのは、バランスという名の見えざる手が働いてきたせいなのかもしれない。つまりは、知らず知らずのうちに正統とノイズのバランスがうまく作用していたのかもしれないということだ。
いずれにしても、これにより積年の課題であった網野善彦の著作を手に取る大きなきっかけができたわけだが、そうしたテキストへの縦横無尽なリンクも宮沢の講義の大きな魅力であり、これまではなんらかの理由で手を出していなかった様々な本へのハードルをかなり低くしてくれる。音楽へも。そして映画、演劇へも。

もっとも、これが東大という場で行う講義か?となると、あくまでも東大生のバランス感覚を養うための高尚なエンタメ話としか思えない節もある。そうまでしないとノイズ=多様性を認める思想は養えないのか?と思うと寂しい気もするが、ここで語られた多様性の豊かさは、普通に無自覚に生きているぶんにはなかなか着眼しにくいノイズであり、そういった意味では、東大だけに留めておくのはもったいないような気もする。

(*)『シンセミア』については、ちょっとぼくも気付かなかった『インディビジュアル・プロジェクション』のような仕掛けが内在されていることを知り感動したたとえば『ニッポニア・ニッポン』ではそういった考え方はかなりあからさまなのだが、『シンセミア』は物語の重層に気をとられ、そういったアイデアが埋め込まれているとは思いもよらなかった。阿部和重はやっぱり仕掛けるのだ。その仕掛けは、登場人物一覧の最初のほうの人たちの名をパズルのような発想でみていると浮かびあがってくるわけだけれど、世の中の作家というのはじつはそういった日本の類型というか定型というものを思った以上に気にしているようだが、そこのある「ねじれ」のようなものを実感として把握しているのだろうか。もしくは単に小説のフレームワークとして活用しているだけなのだろうか。それとも「神話としての物語」が避けて通ることのできないフォーマットなのだろうか。これはちょっと研究したいテーマではある。それもこれも中上のせいか?
(⇒調べてみると『シンセミア』の秘密は例によって『インディビジュアル・プロジェクション』と同じく渡部直己の発見らしい。よくよく考えたら、「不敬文学」って研究テーマがもう立ってんじゃん。)

◎研修テキストの編集で磨かれるスキル。

2007-08-05 01:35:25 | ◎業
マニュアルの制作作業に苦労しているようだけれど、スケジュール面でのアポリアは別として、わたし自身は、マニュアル作業は、かなり有効なコミュニケーション・プランニング作業ではないかと思っている。

まず、見方を変えてみよう。いわゆるマニュアルではなくテキスト、つまり教科書、どちらかというと参考書とか問題集を企画・制作しているのだと考えてみてはどうだろう。というか、わたし自身はこれまでずっとそう思って作業にとりかかってきたし、実際に、わたしたちが作っているものは、たまたま呼びやすいからマニュアルといわれているに過ぎず、その実態は、人(教師)を介して要点を伝えていくためのテキスト以外のなにもでもない。

もっとも、この時点で参考書編集などに興味をいっさいもてない人には苦行以外のなにものでもないということになるかもしれないが、もし、わたしたちに会社の理念について少しでも共感があるのであれば、そういった作業についてなにかポジティブな側面を発見できるのではないかと思う。

このマニュアル制作という名のテキスト編集作業では、いくつかのスキルを得ることができる。まず、商品知識、そしてプロダクト・インフォメーションへの翻訳スキルだ。ほかの会社はどうかしらないが、わたしたちの会社では、クライアント企業の商品・サービスの知悉をまずなによりのよりどころとしたい。ここを握ることで、さまざまなことがうまく流れるということは何度も繰り返してきた。テキスト作業の主役は商品情報であり、これを知るための基本情報をもれなく深く(ときには説明つきで)入手できるのは大きなアドバンテージとなる。かつ、その情報を、対象者やユーザーに到達する言葉に変換する作業は貴重な思考作業だ。いったい何がこの商品の要諦なのか、それを伝えるためにはどのようなコピーが必要なのか。大量に掲載される商品群でこれらの作業をこなしていくのは、かなり有効なトレーニングになるだろう。

それにちなんで2つ目は、ストーリー構成力が身につくということになる。ペーパーにして100ページ近くある情報をどう順序だてれば、このテキストを使用する教師が、スムーズに研修なり説明会を実施できるのか?それぞれのページはどのようなストーリー(構造)にすれば、ともすればハードに過ぎるスペックを商品化できるのか?興味深く読んでもらえるのか?どうまとめて絞れば、たとえば、チャート式やZ会の資料のような誰もが手放せない参考書になりえるのか?いちど、学参コーナーに行って問題集や参考書の類をいろいろ収集してみてはどうだろうか?……こんなことを考えながら作業に臨めば、確実に基礎体力としての構成力がみにつく。これら、最重要項目へのアテンションが確実に効き、もれなくだぶりのない、そしてよどみのない構成力を自分のものとしておくことは、ほかの企画書やクリエイティブ・プランニングに確実に有効に作用してくる。

構成やコミュニケーションの構造をつきつめていけば、図形化につきあたる。これが3つ目のスキルだ。限られた紙面のなかで、全体像や要素の優先順位、さらに、エンドユーザーに伝えたい訴求ストーリーを明らかにするために図形化はかかせない。提示された図形を文字情報で解説していくというのはテキストの基本型でもある。親子、包含、展開、相反、帰納、演繹…これらの関係性が伝えたいのなら、できる限り図形化・チャート化にトライしてみよう。○や□、矢印などの単純なオブジェクトで充分だ。チャート化への引力を働かせ続け、いつかチャート化に対する野心が芽生えれば、かなりスキルアップしている段階にきているだろうし、腕も上がっているのではないだろうか。そして、その図形・チャート癖は、たとえば誰かと議論するときにもきっと効いているはずだ。

図形化・チャート化への野心が高まれば高まるほど、それを美しくオリジナリティのあるものとして仕上げたくなるのは人の常である(かどうかは人によるか)。そのときに、手となり足となってくれるのがパワーポイントである。したがって4つ目のスキルは、パワーポイントのデザイン力・作業力ということになる。もちろん「テキスト編集にパワーポイントを使っている」ということが前提となる話ではあるが、たとえ最終的な仕上げは他のDTPに拠るものであっても、PPTをサムネイル作業に使えば有効である。
限られたオブジェクトの組み合わせで、このやっかいなストーリーを表現していくにはどうすればよいのか。こういったことを徹底的に突き詰めて考えれば、きっとパワーポイントは答えを返してくれる。そして、その応答は、自分の図解力のバリエーションのひとつとしてストックされていく。自分の頭の中にストックするのが難しいと感じるのなら、ひとたび作り上げたマスター・ピースを、コピー&ペーストし、チャートサンプルファイルをつくっておけばよい。

ただし、アプリケーションソフトは、あくまでの人間様の効率をあげるためのだけの道具に過ぎないということを忘れてはいけない。最初は、過飾に感けることになるだろう。いろいろと無益なオブジェクトを引っ張りだしてきては消して、といった虚しい作業を繰り返すことになるかもしれない。しかしいつまでもそれではだめだ。最初、制作作業に30分かかったとすれば、次は15分に、その次は5分に時間を短縮していくための「工夫」を発見しなければならない。決定的なショートカットキーの発見、効果的なツールパレットの並べ方、「図形調整」ツールの習熟、容量を落とすための方法の理解、他のアプリケーションとの効率的な連動……そしてなにより最小限のオブジェクトでそれまでになかった図形をつくるための勘どころ。追い詰められた時間のなかでパワーポイント作業を繰り返せば、あるときあなたのパワーポイント画面はもっとも効率的で使いやすいテンプレートになっているはずだ。

このように(パワーポイントによる)教育テキストの編集作業は、プランニング&クリエイティブワークのベーシックスキルになりえる。ただし、その最終ゴールにプランニング&クリエイティブのノウハウがあるのだ、ということを意識するのとしないのでは成果進捗に大きな違いがでる。もっと言うと、この作業をクライアントから提示される基礎資料をそのままコピー&ペーストしてとりあえず体裁だけを整えるようなルーチンワークとしてしまうのであれば、まったく意味はない。話し手が伝えたいことへの本質洞察、読み手に憑依した上でのわかりやすいストーリーへのこだわり、文章とデザインのアライアンスへの執着、そして、野心、工夫、好奇心。これら志が大切なことは言うまでもない。まあ、どんな仕事にも共通する話だけれど。

◎ディアスポリス。

2007-08-04 10:27:21 | ◎読
松田龍平はいよいよ親父に似てきたなと思う反面、それでも優作を超えることはできないだろうと思えるのは、やはり「工藤ちゃん」というキャラクターの存在だろう。それだけあの人物造形は完成度と独自性が高いということだ。だからといって、彼に同じ役柄を同じキャラクターで演じてもらっても意味はないので、ここはもっとも近いキャラクターということで、『ディアスポリス 異邦警察』の久保塚をやってもらったらどうだろう(もちろん映画化の話があるかどうかなんてこれっぽっちも知らない)。

以前にも少し書いたけれど、「個人的に」不況を感じている漫画界において『ディアスポリス 異邦警察』はかなり面白いところに位置していると思える。簡単にまとめると、密入国異邦人のための組織「裏都庁」の庇護のなかで、弱者であるがゆえに厳しい局面に立たされる密入国者に救いの手を差し伸べ、逆に不良に振舞う異邦人、極悪な同邦人たちを裁く、裏都庁公認の警察官・久保塚早紀の、やるときはやるという活躍を描いた物語である。

面白さの理由を、長崎尚志(=リチャード・ウー)だから、といった盲目的な尺度に求めていたのだけれど、遅ればせながら手に取った4巻を3度ほど読んでみたとき、あ、久保塚は、工藤ちゃんだな、だから面白いんだ、ということに気づいた。

やるときはやるっていっておきながら、いったいおまえのやるときはいつなんだよ、っていうようなんが多い世の中において、やる気?んなのいっさいねーよ、といってみて、まあ実際にやらないんだけど、最後の最後にちょっとだけど、正しくやってみる心意気をみるのはとても気持ちよい。もちろんその人物造形も長崎尚志が握っているのだろうけれど、それらしく表現できているすぎむらしんいちの絵との親和性の高さも注目したい。なんだか強そうにみえないし、実際に強くなく、口とか工夫とか運とかでなんとか生きています、みたいな人物を描かせるのなら、すぎむら、というのはひとつの妥当だろう。

てなこと考えれば、やる気のないダメダメ男の役は龍平には重いか。やっぱ浅野か。なんてったってアフロじゃなきゃダメだからな。

買った4巻はじつは5月くらいに出ていたようで、早くも5巻は今月に発売されるらしい。地下教会でのルサンチマンを抱え日本に渡ってきた極悪でかつ悲しい2人の中国人を描くダーティイエローボーイズの難題も悲しく解決し、間髪をおかず始まる新章「フェアウェル、マイチェリー」は久保塚のさえない部下・鈴木を軸に動きそうな物語。いっそのこと、スペリオールからモーニングに乗り換えようかね。