いまでこそ、少しは小説を読むようになったけれど、じつのところ、これはごく最近の話。たとえば学生のときは、あれほど潤沢な時間があったにもかかわらず、小説に目を向けることはほとんどなかった。せいぜい、村上龍や宮本輝、筒井康隆などとくに深慮もなく面白く読めるものだけを選んでいた。まさに暇つぶしのための読書だ。いっとき、シリトーに夢中になっていたようなこともあったが、これはまあ、空虚でなんの論拠のないくせに社会的に反抗したいような青臭い学生にはよくあることで、ほんとうに一時のものだった(いまやシリトーは、『長距離走者の孤独』や『土曜の夜と日曜の朝』くらいしか入手できないようなので、『グスマン帰れ』や『ウィリアム・ポスターズの死』なんてのは貴重なのかな)。太宰なんかを読んでいた動機も根は同じだろう。
小説というものに急速に魅力を感じ始めたのは、20代の前半の頃、ほかの多くの人たちの例にもれることなく村上春樹の影響が大きい。もちろん、それまでも、風の歌や、ピンボールは読んでいたが、インパクトという単純であまり意味があるとも思えない好みで、圧倒的に村上龍のほうに軍配をあげていて、村上春樹に著作にさしてのめりこむことはなかった。しかし、あるとき、手に取った(すでに文庫になっていた)『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、ぼくの小説に対する立ち位置のようなものを大きく変えた。それは、リアルでミニマムな方法をとらずともリアルが伝えられるということや、思索と悔恨の世界の描きかたはもちろん、なにより大きいのはパラレルワールドが縒れながら静かに1点に収斂していくという小説の形式だった。おおげさに言えば、こういう書き方も小説なんだ、こういう書き方があるんだ、ということで、この感嘆ひとつとってみても、それまでどれだけ小説を読んでいなかったのかがよくわかる。
以降、彼のほとんどの小説やエッセイに目を通すようになったのだが、そこで当然のことながら彼とアメリカ文学の関係にいきあたる。その動機を高めたのが最近新書化もされたが、『偉大なるデスリフ』だ。確かにこれはB級の小説ではあったが、面白いと感じることができたし、なによりそこで魅力的に語られていたフィッツジェラルドに興味が昂ぶり、これがアメリカ文学に向かうスタートとなった。手に入る限りのフィッツジェラルドの訳書を求めて、集中的に読み込んだ。そういえば、角川文庫でリバイバルされていた『夜はやさし』や『ラスト・タイクーン』がすでに品薄になっていたので、角川に問い合わせ、「探せばあるかも」といわれたのを運よく入手したこともあった。
フィッツジェラルドを起点に、村上春樹のすすめや周辺の情報を加えながら(もちろんそこには柴田元幸の手引も含まれる)、アメリカの現代文学への食指は、たしか1~2年の間で、それこそWEBのように拡がる。カポーティ、サリンジャー、J.アーヴィング、カーヴァー、バース、チャンドラー、ブローディガン、デリーロ、ヴォネガット、パワーズ、エリクソン、ピンチョンそしてメルヴィル。若い頃から小説を読んでいた人や研究者にとってみれば、きっと邪道の歩みなのだろう。
誰か抜けている?そう、フォークナーだ。このことは前にも書いたような気がする。とうぜん、いまから20年ほど前なので、すでにフォークナーの翻訳はかなり入手しにくくなっていた。探さずに見つかるのは新潮文庫の『サンクチュアリ』、『八月の光』、『短編集』程度だったろう(いまのようにアマゾンや大型書店もなかったので冨山房の全集など知るよしもなし)。そのなかで、フォークナーの解説書のようなものを読む限りは、どうしても読まなければならない小説があるようだというのがわかってきた。『野生の棕櫚』と、そして『響きと怒り』だ。『野生の棕櫚』は、ぼろぼろなのに相当高値だった新潮文庫の古書をなんとか発見した(その後、一度リクエスト復刊)。幸いにも『響きと怒り』は、新潮文学全集に所収されていることがわかり、いくつかの大型書店をまわり入手した。
期待をもち読み始め、そして愕然とした。筋はもとより「言葉」がわからない。あたりまえだ。知的障害のあるベンジーの意識を流れるままになんの加工もなしにむき出しに定着させた文字の塊なんて誰が理解できる?とうぜん、なんの前ぶれも段落も行間も幕間もなしに、あえて気づかせないようにしているかのように時間が平気に転倒する。過去のエピソードが挿入されるわけだが、そのエピソードすら逆時間で語られている。これが、この晦渋が面白いのか?と思いつつも、そのときは、なにか妙な片意地のようなものをはって、重い全集の一冊をあちこちに持ち歩き、行きつ戻りつ、いちおう丹念に読んでみた(いまはもうこういう読み方はできない)。
完全に筋を追えたのかどうかわからない。フォークナーがここで書きたかったことがわかったとはとうてい思えない。しかし、そこに書かれた言葉が圧倒的だということはわかった。そして、こういう形式も含めた言葉の試行のようなものが小説だ、ということに興奮した。フォークナーが、そして『響きと怒り』が、小説の世界への覚醒を決定的にした。
『響きと怒り』は、その後、講談社の「世界文学全集」のものが文芸文庫化された。そして、今年、新訳が岩波文庫となる。文芸文庫に続き、もはやこれ以上『響きと怒り』を読む必要があるのか?と思いつつも、新訳の魅力にまけて読み始めてしまった。やはりこれは確実に無人島本の1冊だろう(※)。今回の岩波文庫版は、印象としては平易な訳文になっているようだし、とりわけ、「場面転換表」や、コンプソン家の敷地図・間取図、クェンティンが徘徊するボストンの地図などのていねいな資料が充実しているため、こんな疲弊したおやじでも読みやすくなっているようだ。それが、つまり、この小説を読むことが何らかの救いになるなら、また精力を手向け読み終えたい。解説によると、フォークナーは場面転換をすべて色分けて印刷したかったようなのだが、そうしてくれればもっと容易かったんだけれど。
(※)いずれ、無人島にもっていくならこの5冊、というのを選んでみたい。『響きと怒り』以外に、『百年の孤独』と『ねじ巻き鳥or世界の終わりと…』は、シード校か。
小説というものに急速に魅力を感じ始めたのは、20代の前半の頃、ほかの多くの人たちの例にもれることなく村上春樹の影響が大きい。もちろん、それまでも、風の歌や、ピンボールは読んでいたが、インパクトという単純であまり意味があるとも思えない好みで、圧倒的に村上龍のほうに軍配をあげていて、村上春樹に著作にさしてのめりこむことはなかった。しかし、あるとき、手に取った(すでに文庫になっていた)『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、ぼくの小説に対する立ち位置のようなものを大きく変えた。それは、リアルでミニマムな方法をとらずともリアルが伝えられるということや、思索と悔恨の世界の描きかたはもちろん、なにより大きいのはパラレルワールドが縒れながら静かに1点に収斂していくという小説の形式だった。おおげさに言えば、こういう書き方も小説なんだ、こういう書き方があるんだ、ということで、この感嘆ひとつとってみても、それまでどれだけ小説を読んでいなかったのかがよくわかる。
以降、彼のほとんどの小説やエッセイに目を通すようになったのだが、そこで当然のことながら彼とアメリカ文学の関係にいきあたる。その動機を高めたのが最近新書化もされたが、『偉大なるデスリフ』だ。確かにこれはB級の小説ではあったが、面白いと感じることができたし、なによりそこで魅力的に語られていたフィッツジェラルドに興味が昂ぶり、これがアメリカ文学に向かうスタートとなった。手に入る限りのフィッツジェラルドの訳書を求めて、集中的に読み込んだ。そういえば、角川文庫でリバイバルされていた『夜はやさし』や『ラスト・タイクーン』がすでに品薄になっていたので、角川に問い合わせ、「探せばあるかも」といわれたのを運よく入手したこともあった。
フィッツジェラルドを起点に、村上春樹のすすめや周辺の情報を加えながら(もちろんそこには柴田元幸の手引も含まれる)、アメリカの現代文学への食指は、たしか1~2年の間で、それこそWEBのように拡がる。カポーティ、サリンジャー、J.アーヴィング、カーヴァー、バース、チャンドラー、ブローディガン、デリーロ、ヴォネガット、パワーズ、エリクソン、ピンチョンそしてメルヴィル。若い頃から小説を読んでいた人や研究者にとってみれば、きっと邪道の歩みなのだろう。
誰か抜けている?そう、フォークナーだ。このことは前にも書いたような気がする。とうぜん、いまから20年ほど前なので、すでにフォークナーの翻訳はかなり入手しにくくなっていた。探さずに見つかるのは新潮文庫の『サンクチュアリ』、『八月の光』、『短編集』程度だったろう(いまのようにアマゾンや大型書店もなかったので冨山房の全集など知るよしもなし)。そのなかで、フォークナーの解説書のようなものを読む限りは、どうしても読まなければならない小説があるようだというのがわかってきた。『野生の棕櫚』と、そして『響きと怒り』だ。『野生の棕櫚』は、ぼろぼろなのに相当高値だった新潮文庫の古書をなんとか発見した(その後、一度リクエスト復刊)。幸いにも『響きと怒り』は、新潮文学全集に所収されていることがわかり、いくつかの大型書店をまわり入手した。
期待をもち読み始め、そして愕然とした。筋はもとより「言葉」がわからない。あたりまえだ。知的障害のあるベンジーの意識を流れるままになんの加工もなしにむき出しに定着させた文字の塊なんて誰が理解できる?とうぜん、なんの前ぶれも段落も行間も幕間もなしに、あえて気づかせないようにしているかのように時間が平気に転倒する。過去のエピソードが挿入されるわけだが、そのエピソードすら逆時間で語られている。これが、この晦渋が面白いのか?と思いつつも、そのときは、なにか妙な片意地のようなものをはって、重い全集の一冊をあちこちに持ち歩き、行きつ戻りつ、いちおう丹念に読んでみた(いまはもうこういう読み方はできない)。
完全に筋を追えたのかどうかわからない。フォークナーがここで書きたかったことがわかったとはとうてい思えない。しかし、そこに書かれた言葉が圧倒的だということはわかった。そして、こういう形式も含めた言葉の試行のようなものが小説だ、ということに興奮した。フォークナーが、そして『響きと怒り』が、小説の世界への覚醒を決定的にした。
『響きと怒り』は、その後、講談社の「世界文学全集」のものが文芸文庫化された。そして、今年、新訳が岩波文庫となる。文芸文庫に続き、もはやこれ以上『響きと怒り』を読む必要があるのか?と思いつつも、新訳の魅力にまけて読み始めてしまった。やはりこれは確実に無人島本の1冊だろう(※)。今回の岩波文庫版は、印象としては平易な訳文になっているようだし、とりわけ、「場面転換表」や、コンプソン家の敷地図・間取図、クェンティンが徘徊するボストンの地図などのていねいな資料が充実しているため、こんな疲弊したおやじでも読みやすくなっているようだ。それが、つまり、この小説を読むことが何らかの救いになるなら、また精力を手向け読み終えたい。解説によると、フォークナーは場面転換をすべて色分けて印刷したかったようなのだが、そうしてくれればもっと容易かったんだけれど。
(※)いずれ、無人島にもっていくならこの5冊、というのを選んでみたい。『響きと怒り』以外に、『百年の孤独』と『ねじ巻き鳥or世界の終わりと…』は、シード校か。