考えるための道具箱

Thinking tool box

◎響きと怒り、ふたたび。

2007-01-21 02:43:59 | ◎読
いまでこそ、少しは小説を読むようになったけれど、じつのところ、これはごく最近の話。たとえば学生のときは、あれほど潤沢な時間があったにもかかわらず、小説に目を向けることはほとんどなかった。せいぜい、村上龍や宮本輝、筒井康隆などとくに深慮もなく面白く読めるものだけを選んでいた。まさに暇つぶしのための読書だ。いっとき、シリトーに夢中になっていたようなこともあったが、これはまあ、空虚でなんの論拠のないくせに社会的に反抗したいような青臭い学生にはよくあることで、ほんとうに一時のものだった(いまやシリトーは、『長距離走者の孤独』や『土曜の夜と日曜の朝』くらいしか入手できないようなので、『グスマン帰れ』や『ウィリアム・ポスターズの死』なんてのは貴重なのかな)。太宰なんかを読んでいた動機も根は同じだろう。

小説というものに急速に魅力を感じ始めたのは、20代の前半の頃、ほかの多くの人たちの例にもれることなく村上春樹の影響が大きい。もちろん、それまでも、風の歌や、ピンボールは読んでいたが、インパクトという単純であまり意味があるとも思えない好みで、圧倒的に村上龍のほうに軍配をあげていて、村上春樹に著作にさしてのめりこむことはなかった。しかし、あるとき、手に取った(すでに文庫になっていた)『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、ぼくの小説に対する立ち位置のようなものを大きく変えた。それは、リアルでミニマムな方法をとらずともリアルが伝えられるということや、思索と悔恨の世界の描きかたはもちろん、なにより大きいのはパラレルワールドが縒れながら静かに1点に収斂していくという小説の形式だった。おおげさに言えば、こういう書き方も小説なんだ、こういう書き方があるんだ、ということで、この感嘆ひとつとってみても、それまでどれだけ小説を読んでいなかったのかがよくわかる。

以降、彼のほとんどの小説やエッセイに目を通すようになったのだが、そこで当然のことながら彼とアメリカ文学の関係にいきあたる。その動機を高めたのが最近新書化もされたが、『偉大なるデスリフ』だ。確かにこれはB級の小説ではあったが、面白いと感じることができたし、なによりそこで魅力的に語られていたフィッツジェラルドに興味が昂ぶり、これがアメリカ文学に向かうスタートとなった。手に入る限りのフィッツジェラルドの訳書を求めて、集中的に読み込んだ。そういえば、角川文庫でリバイバルされていた『夜はやさし』や『ラスト・タイクーン』がすでに品薄になっていたので、角川に問い合わせ、「探せばあるかも」といわれたのを運よく入手したこともあった。

フィッツジェラルドを起点に、村上春樹のすすめや周辺の情報を加えながら(もちろんそこには柴田元幸の手引も含まれる)、アメリカの現代文学への食指は、たしか1~2年の間で、それこそWEBのように拡がる。カポーティ、サリンジャー、J.アーヴィング、カーヴァー、バース、チャンドラー、ブローディガン、デリーロ、ヴォネガット、パワーズ、エリクソン、ピンチョンそしてメルヴィル。若い頃から小説を読んでいた人や研究者にとってみれば、きっと邪道の歩みなのだろう。

誰か抜けている?そう、フォークナーだ。このことは前にも書いたような気がする。とうぜん、いまから20年ほど前なので、すでにフォークナーの翻訳はかなり入手しにくくなっていた。探さずに見つかるのは新潮文庫の『サンクチュアリ』、『八月の光』、『短編集』程度だったろう(いまのようにアマゾンや大型書店もなかったので冨山房の全集など知るよしもなし)。そのなかで、フォークナーの解説書のようなものを読む限りは、どうしても読まなければならない小説があるようだというのがわかってきた。『野生の棕櫚』と、そして『響きと怒り』だ。『野生の棕櫚』は、ぼろぼろなのに相当高値だった新潮文庫の古書をなんとか発見した(その後、一度リクエスト復刊)。幸いにも『響きと怒り』は、新潮文学全集に所収されていることがわかり、いくつかの大型書店をまわり入手した。

期待をもち読み始め、そして愕然とした。筋はもとより「言葉」がわからない。あたりまえだ。知的障害のあるベンジーの意識を流れるままになんの加工もなしにむき出しに定着させた文字の塊なんて誰が理解できる?とうぜん、なんの前ぶれも段落も行間も幕間もなしに、あえて気づかせないようにしているかのように時間が平気に転倒する。過去のエピソードが挿入されるわけだが、そのエピソードすら逆時間で語られている。これが、この晦渋が面白いのか?と思いつつも、そのときは、なにか妙な片意地のようなものをはって、重い全集の一冊をあちこちに持ち歩き、行きつ戻りつ、いちおう丹念に読んでみた(いまはもうこういう読み方はできない)。

完全に筋を追えたのかどうかわからない。フォークナーがここで書きたかったことがわかったとはとうてい思えない。しかし、そこに書かれた言葉が圧倒的だということはわかった。そして、こういう形式も含めた言葉の試行のようなものが小説だ、ということに興奮した。フォークナーが、そして『響きと怒り』が、小説の世界への覚醒を決定的にした。

『響きと怒り』は、その後、講談社の「世界文学全集」のものが文芸文庫化された。そして、今年、新訳が岩波文庫となる。文芸文庫に続き、もはやこれ以上『響きと怒り』を読む必要があるのか?と思いつつも、新訳の魅力にまけて読み始めてしまった。やはりこれは確実に無人島本の1冊だろう(※)。今回の岩波文庫版は、印象としては平易な訳文になっているようだし、とりわけ、「場面転換表」や、コンプソン家の敷地図・間取図、クェンティンが徘徊するボストンの地図などのていねいな資料が充実しているため、こんな疲弊したおやじでも読みやすくなっているようだ。それが、つまり、この小説を読むことが何らかの救いになるなら、また精力を手向け読み終えたい。解説によると、フォークナーは場面転換をすべて色分けて印刷したかったようなのだが、そうしてくれればもっと容易かったんだけれど。


(※)いずれ、無人島にもっていくならこの5冊、というのを選んでみたい。『響きと怒り』以外に、『百年の孤独』と『ねじ巻き鳥or世界の終わりと…』は、シード校か。

◎文学の言葉。また考え中。

2007-01-16 22:11:22 | ◎読
▶自分のいまのその状況を言葉にしてみる。その状況におかれたとき、あの○○なら、どう考えるのだろうかと、言葉にしてみる。こういったことを繰り返していくうちに、またさらに言葉で考える余裕、というか余力がうまれ、余力の積み重ねが結果として耐力となる。結局は、ふだん自分が使わないような言葉をどれだけ多く持っているかということだ。

▶その言葉は、他者に対しスマートに伝えられるに越したことはないのだけど、うまく伝えられなくてもじつはたいした問題ではない。うまく伝えられないというのは、自分の言葉になっていないからなのかもしれないし、そもそもひとつの結論がでていないからかもしれない。しかしそれはあたりまえだ。他者の言葉を使って、他者の立ち位置からものごとをみているわけだから自分の言葉にしていくにはそうとう時間がかかるし、むしろ成しえないことなのかもしれない。だいたい、結論をひとつに収斂させていこうという考え自体が大それているし危険だ。そもそもこの世の中には、答えのないものがほんとうにたくさんある。

▶そんな「まあ今日は答えはでないだろうし、ださないでおこう」といった諦念を信念としてとりあえず、外でも内でもいいから発話してみることが大事だ。もちろん、内に発するとき、堂々巡りはよくないので、そのためにも、できるだけたくさんの言葉のバリエーションを持っておいて発想転換の逃げ道をつくる必要はある。一人の他者と話し続けると結局は思考が停止してしまうので、ときには自分の中に別の他者をつくって対話することも重要だ。その他者というのはべつにヘーゲルやドゥルーズである必要はなく、太田光でも石原都知事でもいい。ふだん自分が使わない言葉を使う、というのはそういうことだろう。こうやって、うだうだ、ぐじぐじ、さまざまな言葉をとっかえひっかえ考え続けることで結論が先に延びれば、場合によっては惨禍のようなものが防げることがあるかもしれない。

▶こういった発想は、まったく目的合理的でないためビジネスの世界には向かない。しかし、世の中はビジネスだけの世の中ではない。いや、ビジネスの世界にだって、本来的には利害関係者がじっくり、それこそ合宿でもしながら、時間をかけてあれこれ考え、その結果、ときには「なんだよ、なんの結論もでてないじゃないかよ」といったなんとも情けない事態に陥ることがあっても、しあわせだし、面白いし、次に考えるときに結論の味に深みがでるような気もする。いや、そんなことないか。ビジネスの話とうまく結びつけるには、まだ考えが足りない。つまり言葉が足りない。

▶以上、平川克美氏のエントリーに触発されたメモ。この前提にあるのは、平川氏も触れているように、文学と哲学への絶望と希望である。しかし、このことについて結論のようなものを出すのは難しいし、それだけでなく意見表明さえも難しい。最近は、「文学は死んだ」とあきらめてしまうことも、「蘇生している」と期待をもつのも難しくなっている。ある役割を終えていったんは舞台裏に消えたことは確かなのだが、その後、消息不明。噂によると、境港の市場でみかけたが元気そうにしていたらしい、といったような感じだろうか。

▶この話の流れを高橋源一郎の『ニッポンの小説―百年の孤独』につなげていこうと思ったのだけれど、どうもうまくいかないのでいったんあきらめる。高橋源一郎の最近について、あいかわらずであるとか、ほとんど初期の頃の印象だけで否定的に話を進める人もいるが、そういった意見は僕にはよくわからない。この『ニッポンの小説』や、『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』のような小説を読んだあとでも、ほんとうに意見が変わらないのだろうか。たとえば「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」なんて、連載時から約2年ほどたったいま読み返してみてもなお、立ち止まり考えるべきことはたくさんあるし、結局のところ書きえぬ死についてさまざまな角度から考え方を提示できる人はそれほどは多くはいないと思う。生き返るはずのないものに無理やりAEDをあてているという行為のむなしさを、ほんとうは誰も笑えないはずだ。

▶『ニッポンの小説』では、言葉について考えてみることのむなしさより、楽しさが先立つ。文学は、きっとどこかにいるのだろう。そのことについてはまた。

◎考え中。フラグメンツ。

2007-01-15 02:06:19 | ◎業
▶昨日は、勤務先の経営方針発表会があり、ほんとうに何年かぶりにすべての社員が集まることができた。数年前までは、平均年齢も高くなり、やや淀んだイメージだったのだけれど、今年は東京のメンバーが加わったこともあるし、それ以上に生気のような部分でも、ずいぶん若返った気がした。新しい創業という表現もされていたが、それは、いくぶん確かな気もした。

▶私を含めて、数人の部門代表が経営方針を発表したが、いずれもオリジナリティのあるもので、私自身もあらためて勉強になった。いまは、ほとんどグループごとに独立した事業活動形態になっているが、それぞれの経営方針を「すべてまとめたものこそ」が、私の会社のこれから進むべき道であり、これはかなり強固なものだと思えた。もちろん、それは他のベンチャーのような若い企業ほど派手なものではいし、大企業のように漏れや抜かりのないようなものではないかもしれないが、連綿と築きあげてきた当社らしさのようなものが現れていて(その「らしさ」というのはちょっとまだ定義化できていないけれど)、会社というのは「らしさ」を堅持しつつも変えていくことができるのだという展望を持つことができた。

▶もう創業から何十年もたったような会社なので、求心力のようなことについてとやかく言う人もいるが、求心力がないとか危ういとか嘆くのはやはり当事者意識が欠如しているからであって、求心力は継承するものであり場合によってはあらたに創造していくものであるということにいちはやく気づき、傍観者的の立ち位置を改めることが重要である。気づくことができたものこそが、その答えをつくりえるのだ。ときには、もともとあった求心力といったん決別し、しかしやっぱり、と帰還する、といった親離れのような状況を作為的に強制的につくるといったことで気づきをうむといった回り道も必要なのかもしれないし、同じような意味で、求心力に寄ってかかって、奉って思考停止に陥っている自分にどれだけ早く気づけるか、といったことも大切なのかもしれない。

▶もちろん「気づくことができたもの」=「求心力」である必要はないし、なにより重要なのは、求心力というものは1人のカリスマでなくても創造できるだろうし、あたりまえのことだが、完璧でなくてもよいということだ。複数人であってもいし、もっといえば人でなくてもいいかもしれない。核心が揺らがない範囲であれば、朝令暮改も愛嬌だし、むしろ「あれはだめだったなあ」と晦渋を平気でカミングアウトできるくらいのほうがいい。神聖ではない、しかしなんだか忘れられない求心力をどう形にしていくか。それが私の課題であり、私たちの課題である。

▶ところで、経営方針の内容については、ああいった形である意味スマートにすませてしまったけれど、本来的には、まだまだ議論が足りないと感じている。梅田望夫氏の「My Life Between Silicon Valley and Japan」によると、はてなでは2007年2008年何をやっていくか、ということについて、シリコンバレーの近藤邸で、寝る時間以外は徹底的に議論し続けるという取締役会合宿なるものを行っているらしい。ブログにエントリーされていた時点では、丸4日目ということだったが、「異なる意見はすべてぶつけ合い“言葉で闘って決着をつける”」ことで、やはり“言葉で”というところがあらためて重要なのだろう。

▶いったい今年何をやっていくのか?といったことについては、まだ明示的に公表はしていないが、この手の合宿的な議論マラソンのような機会を、幹部コース&全社員コースの2つの軸で設けることが私たちのような会社でも充分に必要である。そのことが本来的な経営方針のスタート地点かもしれないし、少なくとも「言葉で」「話そう」ということはパーマネントに経営方針の底を支える要素となるかもしれない。まあ、きわめてあたりまえのことなのだけれど。

◎魅力的な書評。

2007-01-08 19:47:38 | ◎読
ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』は、話題になっていても、きっと、というか、どうせ読みきることはできないだろうと静観していたのだけれど、朝日新聞に掲載された中条省平の書評を読むと、大きく惹かれしまう。
◆「
映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが<運動イメージ>である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためにはショットを組み合わせて編集し、間接的に再現するほかない。……(略)……

ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この(映画の約束事を支えている)感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが一つのショットのなかで直接的に時間を露にする<時間イメージ>である。

主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する<運動イメージ>に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する<時間イメージ>が映画の最前線を占めるようになる。

「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。……引き裂かれるのは、人間と世界の絆である」

ことは単なる映画の手法の変化ではなく、世界の不可逆な変化であり、それを感知した映画の天才たちがこの恐るべき事態にどう対処したかという戦いの物語である。(朝日新聞070107)
」◆
この書評は短いながらも、ぼくのように映画やドゥルーズのことがよくわかっていないような人間の関心を最大限に引き上げる。実際のところ<運動イメージ>はわかっても、<時間イメージ>についての具体的なイメージはわきにくいし、引用されている「現代的な事態とは…」は、どのような文脈で記述されているのがわからないため、映画がなぜこのようなかたちで世界と人間の関係の話に拡張されていくのか正直なところさっぱりわからない。しかし、この中条の留め置きのおかげで、<時間イメージ>について知りたい欲求は加速するし、引用された一文の登場をマイルストーンとして待望しながら読み継ぐことは可能ではないか、と過信してしまう。おそらく書店では河出文庫の『意味の論理学』も並んでいるだろうが、こちらはたとえ小泉義之による新訳とはいっても、一筋縄ではいかないだろうから、中条の薦めにしたがってみようか。まあ、でもやっぱり読みきれないだろうけれど。

ところで、書評とえいば、荒川洋治の『文芸時評という感想』が、再燃しているようだ。ちょうど1年くらい前に入手して、気になるところをピックアップしながら読み続けていたのだが、いちどリニアに読んでみようと思う。「作品の感想を…素直に書」き、それを読めるテキストとして完成させる、という行為は、じつは書評よりも難しい。ときに書評に近いようなこういった文書を書いていると、「感想」と名づけてしまえば…と思うのだが、冷静に考えれば「感想」という方法にはなんのエクスキューズもなく、そればかりか主観というか自分の器量が色濃くでてくるわけだから、これほど恐いものもない。そのあたりの恐れをものともせず、荒川洋治が「感想」に立ち向かえたのは、やはり言葉のレンジの広さがありかつ、その(詩人として役割としての)レンジの限界を正確にわきまえているからからであって、言葉に無自覚な素人には到底真似できない話である。権威や評判ではなく、目の前にある言葉だけに対する純粋な感想。このあたりのブレのなさは、無理であってもなんとか学びたいところだ。久しぶりに箴言をメモしながら読む?

◎宿題、というより誘惑と格闘する。

2007-01-08 00:48:39 | ◎書
昨日は、恒例のご近所飲み会だったのだけれど、珍しく後半にダウンしてしまった。もう風呂も入らず着替えもせずに寝入ってしまうなんて、ほんとうに久しぶりだ。昼間から多少体調に違和を感じていたので、そんなにはたくさん飲んでいなかったはずだったんだけれど、まあ19:00くらいから飲みだして24:00くらいまでだらだら続けていたので、けっこうな酒量は入っていたかもしれない。みなさまたいへん失礼しました。またリベンジのほどお願いします。

そのようなダウナーな目覚めであっても、残りの宿題をこなさなければならない。しかし、さすがに新しい形のブランディング手法は1日では結論はでず、そうとう苛立った1日だった。作業の後半は、もう今日のアウトプットはあきらめて、情報のインプットに徹する。

今回の課題で時間がかかっているのは、実体実感に立脚したブランディングの手法を考えているからである。もちろんブランドの要素として情緒的なイメージのようなものがある程度重要なのはわかる。しかし、大きな前提としてブランドを形成するのはあくまでも実体情報でありそれは言うまでもなく企業の提供する商品と商品情報である。それに多少の(使用経験以外の)集約情報と、ほんのわずかイメージ情報がプラスされることによりブランド認識のようなものが形成されるわけだから、本来的には実体情報の占める割合が多ければ多いほど、確かなブランドといえる。ここのところを大きな前提としてブランドを考えるのは、じつのところ骨の折れる作業である。ひとつひとつの商品に内在された膨大な情報をつぶさにかき集め、まず商品情報集積をつくることがスタートになるからだ。おそらく世の中の半分くらいのブランド論の人たちは、ここのところがよくわかっておらず、いやわかっていても(商品情報の集積がめんどうくさいから)徹底できずに、その結果、実体があまり見えにくいイメージのようなブランド・コミュニケーションを推奨してしまう。いや、パッケージング・グッズならともかく、耐久消費材でそんな甘ちゃんなことを考えている人はもはやいないですよ、という人がいれば、じゃあ、どうしてあんなようなダイワハウスのCFが生まれてしまうのか教えて欲しい。

ところでこういう地に足のついたブランド戦略の概念をまとめるときに、先日少しふれた『実践 ロジカル・ブランディング 曖昧な情緒論から硬質の経営論へ』はたいへん役に立つ。2005年の本なので当時の評価はわからないし、また、あくまで論なので企画資料などに援用する場合はいったんフレームワーク化が必要なのだが、すべての考え方が「勝負どころは製品実体」というところでブレがなく、またパッケージング・グッズではなく、いわゆるテクノブランドを中心に考えているため、製品や品質によるブランド戦略を考えていくときの礎となる。いくつかの概念図解もカスタマイズすれば、多くの製造業のブランド検討資料として使えるかもしれない。丁寧なまとめ方をしているので、ブランドについて初めて考える人の入門書としても適している。この考え方をインプリンティングされるべきだ。WEBブランディングについては言及されていないが、著者の菊池隆氏もそのことは了解しており、今後掘り下げる、としているので期待したい。

というわけで、当該企業のいろいろな情報を集めてようやくなんとなくこんな形でまとめっていったらいいのではないか、という落書きが2~3枚できたところで、いったん頭をからにしてみる。

というふうに書くと格好いいのだけれど、仕事を中断しているのは、ほんとうのところは、いくつかの誘惑に負けてしまっているからである。もちろんひとつは、昨日の余波を引きずる睡魔で、ずっとブランドのことを考えながらレム睡眠時の思いつきを急いでメモするという繰り返しを何時間か、くりかえしていた(あとで見返すと、まあたいしたアイデアはでていなかったけれど)。

別の誘惑は、例によって新入荷のメディアである。まず、文芸誌。なんだか最近、1月号もほとんど読めていないと言っていたばかりなのにもはや2月号である。公転が早くなっているような気がするのはぼくだけだろうか。前月と同じく『群像』『新潮』。『文學界』は昨年来なんだかエスタブリッシュメント化していて、ちょっと関心がわきにくい。そんな文学的関心がわきにくい出版社から賞が生まれるのも釈然としないので、今回はぜひ柴崎友香に一票を投じていただきたいところだ。あれは、ほんとうに良い小説だし。あ、でもやっぱり『文學界』九月号か。それならしようがないか。『1000の小説とバックベアード』は滑り込みで間に合わなかったのだろうか。

それはさておき、前にも書いたが『新潮』は、ほとんど平野啓一郎の「決壊」と舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」のために買っているようなところもあり、昨年、文芸誌の「連載」小説の存在について投じていた大きな疑問を撤回しなければならなくなってきた。「決壊」については、斜め読みしかできていないが、WEB関連の逸話はちょっと出来すぎのような気もしないでもないし、登場人物の夫婦のあり方がうちとは随分違う(たとえば奥さんに秘密の日記ブログをそこまで隠す?とか)ので、多少違和感はないともいえないけれど、そのあたりがないと起こる決壊も起こらなそうなので、全体最適を期待したいところだ。もちろん(これも連載、というか長編の第一部だが)筒井康隆の中原昌也シンクロニシティ小説「ダンシング・ヴァニティ」も面白そうではある。『群像』はなんだろう。久しぶりに中村文則の鉛灰色の硬い文章を読んでみたい、というのもあったが、どちらかといえば、多和田、柴田、小野、野崎のシンポジウム「翻訳の詩学-エクソフォニーを求めて」や文芸記者の座談会「2006年文芸作品の収穫」とか、ちょっと細かいけれど福永信の『ミステリアスセッティング』評か。前者2つの鼎談を読む限りは、昨年から相当迷っている『アメリカ 非道の大陸』『真鶴』を我慢するのはやっぱり体によくない。

さらに誘惑のもうひとつは『STUDIO VOICE』の80年代特集。どこかの誰かが、先月のSVをみて今頃こんなような特集をするなんてイケていない、やっぱり雑誌は面白くない、なんて書いていたような気がするが、どうしてどうして、純粋に「雑」誌を楽しみたいという目でみたときに、『STUDIO VOICE』は充分にイケていて、この80年代特集もその例に漏れない(この雑誌の因習としてライターの軽薄さんにうんざりする部分はなきにしもあらずだが)。なんっていったって、「読む文字」が多いのがいい。確かに面白い雑誌は少なくなっているし、むかしはそうとう面白かったものだって、さすが平凡出版、「平凡」のような芸能雑誌に凋落しているものもあったりするわけだから、総体として雑誌に苦言を呈するのはわかるが、個別性やターゲット性こそが雑誌の特長なわけだから、「雑誌は面白くない」と語るのにはかなり慎重になる必要がある。

というところで、もういちどブランド関連の底まで達しておきたいのでこのあたりで誘惑を断ち切る。

◎予定どおりには進まないものだ。

2007-01-06 02:07:53 | ◎書
▶予想通りとはいえ、宿題が予定と寸分違わず進むということはまずない。今日は、新商品のコミュニケーションストーリーの原典となるものを考えていて、こういう仕事は、だいたいにおいて考えている途中に複数のオプション・アイデアが想起され、もし追い込まれていないなら、それらすべてを全人的に受け入れ形にしてしまうため、余計な時間がかかってしまう。オプションの違いを際立たせるためにワーディングのディティールに徹底してこだわるため、このあたりも想定工数の範疇を超えてしまう要因となる。約10%程度を明日に持ち越すことにしたが、明日からは前人未到のブランド戦略の策定なので、今日、片をつけておいたほうがよいだろうか。明日からの企画作業には約2.5日を予定しているとはいえ、いささか自信がない。加えて、ちょっとした飲み会なども控えているようなので、もう神の降臨を期待するしかない。

▶そんなことなので、何日か前に書いた休暇中の公約はまったくといっていいほど、実践されていない。確かに『有頂天ホテル』も『ガキ使』も見たし、それだけではなく『史上空前!笑いの祭典ザ・ドリームマッチ07』も『内P』もしっかり見てしまった(『内P』はちょっと後悔した)。5日の朝日放送での『ブラマヨ最強宣言』の再放送は「徳井撲滅法案」だけみておこうと思ったがなかなか始まらないのであきらめた。まったくの公約違反だが、お笑い好きなので、こればかりはやめられない。

▶ところで、お笑いといえば、落語である。なんだか最近、まわりでは喧しい。ぼくも数年前から、落語の世界への掟の門の前で、行ったり戻ったり逡巡している。「行く」理由は、笑いというよりはむしろ、落語の世界で言葉のバリエーションを増やしたいという、いつもながらの好奇心であり、「戻る」理由は言うまでもなく「時間」である。ふだんの生活のなかでは、とうぜんTVの前で構えている時間はないし、ましてや寄席に顔を出す時間なんてとれるはずもない。もう少し齢を重ねてからの趣味だな、とあきらめていたのだが、あれがあることを思い出した。

▶ipod、そしてpodcastである。musicについては、かなり充実してきて3300曲程度だが、2007年1月現在の嗜好領域においてはほぼ完成しつつある。一方、ラジオや映像の部分では一切活用していないので、今年はその部分を攻めていけばよいのだ。podcastについては古典のオーディオブックなども充実しているようだが(「善悪の彼岸」とか「方法序説」なんてのもmp3で無料で用意されている)、まず落語から始めりゃあいいのだ。

▶ipodの音楽部分については、年末に大量の曲を(全oasisとかblur)投入したことにより、90年代の浦島太郎状態がある程度緩和されてきた。それだけではなく、ずっと探していた、Procol Harumや(「A Whiter Shade Of Pale」ですね)、Springsteenのトリビュートアルバムなどもリッピングできたので(『Light Of Day』『One Step Up/Two Steps Back』についてはなぜかCDの盤面が白濁して聴くことができなくなっていたので、思い切って塩化ベンザルコニウム液で拭いてみたら綺麗になって、リッピングできた)、かなりのレベルで欲求が充足している。あとは、Styxぐらいなんだけれど、『Paradise Theater』はともかくとして、いちばん聴きたい『Cornerstone』なんてのはまた入手しにくくなっている。と、思っていたらアマゾンで在庫があるようなので、ギフト券が入手できれば購入しておこう。

▶在庫といえば、先日少し触れた、蓮實重彦の『表象の奈落』は、アマゾンで一時的に在庫がなく、マーケットプレイスで異常な高値になっていたのであきらめた、という経緯があったのだが、昨日見たら、もはや常態に戻っていた。このあたりの在庫管理のしくみはよくわからない。その『表象の奈落』については、最初のバルト追悼以外は、まったく読み進めていない。読めていない理由は、このようなブログに時間を費やしているほか、村上龍の『日本経済に関する7年間の疑問』『読む哲学辞典』などが投入されたからであって、このあたりの在庫管理も抜本的な対策が必要である。といっても明日、書店にいけば、各種文芸誌やきっと『STUDIO VOICE』の80年代特集も陳列されているはずだから、こちらは在庫がなくならないうちに抑えておかなければならず、ものごとは、まったくもって予定どおりには進まない。

▶パーティシャッフルから流れていた、Doorsの「Touch me」があたかも予定されていたかのように、終わりらしく終わったので終わる。

◎議論のためのパワーポイント。

2007-01-05 01:23:35 | ◎業
今日から自宅仕事始め。予想工数より2時間ほどオーバーして宿題のうちひとつを完了。手間どったのは、事業提案書のある部分に他の企画会社がパワーポイントで作成した企画書のサマリーを挿入する必要があったからなのだけれど、量的にはほんのわずかにもかかわらず、時間がかかってしまったのは、構造とパワーポイントの作り方の甘さによるものだろう。構造についてはそれなりの思考が必要なので、仕方がないなあ、とあきらめがつくけれど、パワーポイントについては、プランナーというなら、もう少し使いやすさの工夫やユーザビリティのようなものを意識してほしいと感じた。

パワーポイントは、知的生産性という視点でみたとき、きわめてすぐれたツールといえるけれど、知的生産効率をあげていくには、それなりのカスタマイズが必要になってくる。ある程度カスタマイズされたパワーポイントを使い慣れているときに、デフォルト機能状態で作成された書類を引き継ぐと、生産のペースがたちまち低下する。カスタマイズといっても、なにも高度なものではなく、版面の切り方や、テキストボックスの設定とかカラースキームなどであり、またけっして固有の技でもない。例えるならデスクトップやWEBブラウザーを少しでも使いやすくするためのtipsのようなもので、これは日常的に、いつも時間に迫られる状況下でパワーポイントを使っていれば、自然発生的に、というか窮余の策として改善意識がめばえてくるはずだ。

パワーポイントの造りは本質ではない、という考え方はある。「いくら綺麗につくっても内容が…」といったような意見だ。これは、ワープロのようなアプリケーションが清書ツールとして捉えられていた黎明期の考え方を引きずっていればなおさらだろう。しかし、一方で、パワーポイントやアウトラインプロセッサなどは、もはや思考と同期するためのツールとしてのポジションも確立している。その場合は、考える試行速度と入力する(書く)速度をできる限り近づけていくような生産性の向上が必要になるだろうし、なにより、アウトプットを前にして、ストレスの少ない議論ができるような「思考」と「形」のシンプルなインフォメーションデザインの一致性が求められる。

それは、極論すれば、「○」と「□」と「→」と「-」を、いかに使いやすい状態で、数少ない効果的な配色で、使える状態にカスタマイズできているか、カスタマイズし続けていけるか、ということにつきる。オートシェイプに満載されている珍しいオブジェクトをたくさん使っても、企画書は美しくはならないし、生産効率はあがらないし、それどころか、思考をダイレクトに伝えるさまたげにすらなってしまう。

このような心構えのようなことだけ書き連ねても、読むほうも書くほうも釈然としないだろうから、今年は、少し「議論のためのパワーポイント」「知的生産効率をあげるためのパワーポイント」についてのtipsのようなものを具体的な形にしていってみよう。