考えるための道具箱

Thinking tool box

野球。

2006-06-26 00:06:01 | ◎書
くそっ。4月以降ずーっと気分がよかったのに、ここにきてなんだか調子がくずれてきた。あんなにさわやかに燃えていたというのに。おかげですべてのことがうまくいっているような錯覚にも陥っていたのに。

なんのことはない。すべて野球のせいだ。なかんずく巨人のせいだ。そう、ぼくは野球好きの、紳士好きなのだ。いつかはこのことについて書いておかねばならないとは思っていたのだけれど、どうも具合が悪くなってきて、そういったことを書くことすら腹立たしく思うようになっていたところ、とき同じくして、なんだか世界中の人が球を蹴りだし始めたりしたので、それをいいことに、今年もなかったことにしようなんて思い始めていた。どうせ5.3%の人しかみていないんだし、WBCだって、結局、対処療法にしか過ぎなかったわけだし、開幕のときならともかく、みんなが、あれ?交流戦ってこんなに長かった?って欠伸しだしたときに、いまさら野球のこと書いてもねえ、とせっかく80枚くらい書いた野球論をちょうど昨日ゴミ箱に捨てたところにBさんだ。多くの野球好きが思っていながらもなかなか言葉にできない野球というスポーツの魅力のひとつの側面をうまい具合に言い当ててくれた。

もちろん、そこで語られている魅力は(1)ほとんど皆勤で球場に通い、場合によってはそのためにすべての人生を棒に振るような本気の○キチに聞かせれば、肋骨の一本くらいは覚悟しなければならないようないい加減な意見かもしれないし (2)間延びした時間のなかで、いろいろ思い考える余地がある、ということをもう少しスポーツ寄りに敷衍して考えたほうがいいかもしれないが、それでも観るスポーツとしての野球の緩さはBさんの指摘のとおりであり、そのことは、そこそこの野球好きが野球が好きな理由のある部分を確実に占める。そしてその「そこそこの野球好き」は、肋骨をもう一本覚悟のうえで言うならば、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところはるかに「野球というスポーツ好き」である。

いや、ちょっと断定的に過ぎる。肋骨だけではすまなさそうなので書き直すと、「そこそこの野球好きのぼくは、もちろんジャイアンツは好きではあるが、でもタイガースも嫌いではなく、つまり特定の球団に拘泥することなく、総体としての野球が好きであり、たとえば、この歳になっても、『ドカベン』や『大甲子園』はもとより『スーパースターズ編』までをしょっちゅう読み返しては「やっぱりドカベンの40巻は凄い」と感心するばかりでなく、常日頃、架空の超越球団を空想してプロと対峙するときの戦略を練ったりしている、という点で、また機会があれば実際にプレーしたいと常々思い続け、気がつけば無意識のうちにシャドウピッチングなり、ベルトラインの球を打ち返すバッティング・フォームなどを復習しているといった点で、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところ少しくらいは“野球というスポーツが好き”であると言い切ってみても怒りだす人はあまりいないんじゃないか」ということになる。

で、なんだった?ああ、そういったレベルの野球好きにとっても肝要なのは、観戦時における緩さ(≒まどろっこしさ)ということだ。ぼくも観戦中に、プレーに集中することなくいろいろ考えたり、些事をすませたり、ときには試合運びのうえで大切な場面にもかかわらず、意識を失ったりすることもあるわけだが、重要なのは、意識を失う余地があるということと、意識を失う直前まで、朦朧としながらも、あれやこれや自分なりの作戦なんかを考えてみるという余地があるところだ。

なんのことはない、ようはだらだらやっているわけだから、だらだら観ても誰にも咎められることはないということだ。すべてが緊張であるという点ですべてが弛緩であり、すべてが弛緩であるという点ですべてが緊張である、という見方が許されることだ。
ただまあ、このあたりのことが世間的に許容されるのは、プロ野球の凋落さ加減があってのことかもしれず、そういった意味では、この程度の人気のほうがいいよねえ、という気もするが、だからといって、この気持ちの良いだらだら時間というものがなくなってもらっては困るので、やっぱりがんばるべき球団にはがんばってもらいたい、おいてめえなんで借金なんかつくるんだ7月はなんとかしろよ、と激励しつつ、明日の朝が早いらしいので、今日はもうドリームチームのことを想像しながら心地よい眠りにつこう。野球のことは、もう少し書いてみたい。

静かなごくふつうの生活。

2006-06-25 14:37:23 | ◎読
舞台の裏はほんとうに静かなものだ。そこでの出来事は、だれかが注視し続けなければ、たとえ一瞬は人びとの共感と関心を得たとしても、めくるめく表舞台の関心ごとのなかで、かき消されてしまう。表舞台から語り継ぐことがなければ、相対的に虐げられていたこともいっさい認識されないまま歴史のなかに消えていく。

だからマイノリティを注視しよう、という話ではない。舞台の裏で割を食っている市井の人々の暮らしぶりを声高にうったえよう、という話でももちろんない。注視という形でとらえることのできるマイノリティや割を食っていると認識できる市井の人々は、まだ表舞台の演者であり、じつはその裏に本質的に静かなレイヤーがある。それはほんとうに静かなものである。

そこでは、あなたたちは「表舞台とは違う」こういった立場におかれている人である、だから将来的にはこういった暮らし方を送ることになる、といった正確な説明をしてくれる人は誰もいない。そもそも、自分の立場と暮らし方以外の立場と暮らし方があるといった認識がないため、万が一他の人が見止めることがあったとすればきわめて異質な世界であったとしても、当人たちはその差分を理解することができない。漸次的に、異質な立場と暮らしがわかりだしてきたとしてもそこにあるのは「こんなもんだろう」という盲目的な理解だけで、なんら驚きはない。だから妬みも嫉みもない。

意識的な声があがることもない。つまり物語も自覚的には企図されない。正確に言うなら、意図的に何かを欠落させた教育を受けてきた人間にとっては、誰かに話すべき物語というものがあるのかどうかもわからない。しかし、それが「人間である限り」無自覚・無意識のうちに物語は生成される。だから、そういった場合、彼らの物語はかなり繊細な注意を働かせねば聞き取ることができない。まったくもって静かな声である。では、こういった囁きを聞き分け、物語として紡ぐことができるはの誰か?カズオ・イシグロである。

『わたしを離さないで』で、大きな前提として重要なことは、カズオ・イシグロが、キャシー・Hをはじめとした、ファミリーネームが符号化された人々を、まず人間として理解しようとする立場にあることである。正直なところほんとうにそうなのかは、簡単に結論を出せるものではない。しかし、そこに「物語」の生成を認め、その静謐な囁きを一意専心に聞き取ろうとした丹念な作業において、カズオ・イシグロは、将来的に起こりえる可能性を孕む倫理的な問題の解決に対してきわめて有効なアイデアを起案した。
同時に過去において試みてきた「無意識のうちにあるアイデンティティ喪失と回復」というモチーフから、さらに難題である「アイデンティティという概念の喪失と発見」という領域に踏み込んだ。果たして、そのような回路をもつものたちを、最終的には人間として描くことができるのか。

カズオ・イシグロは、そこにある微差、つまりわれわれが感じるちょっとした違和を、丹精でかつ「細部まで抑制が利いた」言葉を積み重ねていくことで表現し、裏舞台としてのリアリティを立ち上げた。読み手は、そこにズレがあるようでないような奇妙な印象のなか、この物語を読み進めることになる。ほんとうに静かな語りのなかから、徐々に生まれてくるなにかの胎動を感じながら、最終的にはカズオ・イシグロの考え方に同意することになる。

読み進めるなかで、登場人物たちのおかれた立場は、おぼろげながらも明らかになってくる。しかし、決定的な解説がないためほんとうのところの確証はもてない。私たちとは少し違うという違和感についても確証はもてない。カズオ・イシグロはごく自然な書き方のなかで、まさに「抑制」を利かせながら、これらのわずかな隔たり、しかしながら決定的で重要な隔たりを埋め込んでいる。裏舞台の書き方としては、もうこれ以上はないと思えるほどの、小説技術であり、最高到達点ともいわれるような高い評価で称えられることになんの異存もない。すばらしい小説である。

しかし、それがゆえに、最後まで抑制を利かせるといった方法もとれたのではないか?と感じてしまうのは私だけだろうか。12章における種あかしは、依然として抑制の利いた静かな筆致では進められる。もし、この章がなければ、根源的な修正が必要になるかもしれないし、ここがあるから小説として成立するのだという考えはきっと主流だろう。しかし、これを書いているのがベルンハルト・シュリンクではなくカズオ・イシグロであると考えたとき、またそれまでの物語構造の制御にすばらしい完成度をみるとき、12章は、好奇心とは裏腹に逆に足前ではないか、と感じてしまう意見に少しは関心をもっていただけるかもしれない。
この私見は、基本的には物語を果てしなく続けてほしいといった願望からくるものであり、もちろん『わたしを離さないで』をなんら損ねるものではない。オール・タイム・ベストとしての100冊をさらに超えていく、場合によっては、その困難さにより可能性がそう高くはないかもしれない成功に期待している、ということかもしれない。

さて。ここまでは、きわめてストレートな読み方である。小説というものは、誰がどう読んでもよいという考え方に甘えさせてもらうとしたとき、もう一捻りした読み方もある。それは、この物語の主役である彼らが超越的属性をもつということである。その出自から、そして生と死への対峙の仕方から。崇められ、畏怖され、虐げられる彼らをどう解釈すればいいのか。しかし、これは、それほど簡単に答えのでる話ではない。

1曲の劇的な瞬間。

2006-06-18 16:56:00 | ◎聴
その瞬間に聞きたい1曲、というものは、たとえ目の前に1000曲用意されていたとしても、必ずしも発見できるとは限らない。いや、特定の状況下において聞きたい曲といってしまうとむしろないケースの方が多い、ともいえる。それが音楽というものだ。だからipodを30GBに増強した。

もっとも、1000曲が3000曲であっても7000曲であっても、根本的には「ない!」という状況を変えることはできないんだけれど、自分の音楽経験容量に近くはなるためそれでも確度は高くなる。nanoのまま、複数のフォルダを切って、こまめに入れ替えればいいのではないかという考えもあるが、2500近いものをバランスよく腑分けるのはかなり難しいし、きっとあれか?これか?といった雑念が支配し気の遠くなるような面倒な作業になることだろう。インポートした順に「プレイリスト0001~0900」、「プレイリスト0901~1800」……とつくるという方法は、合理的ではあるが、「ない」確率が高くなるし、きっと聞きたい曲が分散して困ることも多いだろうし、「この曲は良いが、全体的に不調なプレイリスト」などが発生しようものなら、なんだかipod自体がイライラの原因になってしまいそうだ。

入手にあたっては、nanoを相対的に見たときの威嚇的なほどの大きさや、ディスプレイのあけっぴろげな恥ずかしさなど、さまざま観点から1~2ヶ月ほど、いちおうは迷ったのだが、ちょうどヨドバシのポイントもたまっていたので、わが家で3台目となるラグジュアリーを決断した。

もちろん、満足度は高く、予想どおり更新ストレスから開放された毎日が楽しめている。物理的なキャパシティの安心感は、新しい音楽に対する心理的な開放感をも生み出し、これまでああまり関心をもたなかったジャンルやアーティストの曲もどんどんぶっこんでいるわけだが、結果として新しい発見も多い。

斉藤和義もそのひとりだ。斉藤和義といえば、そこはかとなく阿部和重ふうダメ男、もしくは悪質なファンにより玄関ポストにマヨネーズをぶちまけられたといったトホホ・エピソード以外は、ほとんど知られていないのが現実で、ぼく自身も、彼がせっちゃんなんて呼ばれているのを初めて知ったくちだ。『劇的な瞬間』のようなシャープな60年代マイナーロック、『歩いて帰ろう』なんかは、たいていのno life,no musicにとっては周知の名曲だが、そのほかは?という話になると、福山雅治のように毎度激烈なプロモーション活動を享受できているわけではなないので、どちらかというととたんにマニアな会話になっていき、ついていけなくなる。

そういう人たち、つまりそういうぼくのような人に有効に作用するのが、彼の最近のベストアルバム『黒盤』『白盤』であり、ただそれだけなく、ここには震撼するような日本のロックの殿堂がある。ちょいと10年ばかり音楽というものを真剣に聞かなかっただけなのに、こんなのが生まれているなんて。AとBとCしか聞かないんで、といった視野狭窄さ加減をおおいに反省したい。

とりわけ、アコギを中心とした、といわれている『白盤』の後半、「Rain」から続く「古いラジカセ」、「やわらかな日」、「歌うたいのバラッド」、「楽園」、「アゲハ」は、その曲、その詩ともに圧巻である。「やわらかな日」のように、より具体的で日常的な言葉を積み上げていくだけで描いていく、けっして思わせぶりでない普遍的な世界観は、最近ではなかなか見かけないし、同様に「歌うたいのバラッド」のように、シンプルな音で作り上げる豊かなバリエーションは、流行りの曲とはひと味違う深みがある。
30GBを埋めていくうちに、何度こういった劇的な瞬間に出会えるだろうか。

なんだか、今週発売される新譜『俺たちのロックンロール』のプロモーション・コピーのようになってしまったけれど、今週はCocooしかチェックしていなかったので、実際はまったくの偶然である。せっかくだから、もう少し斉藤和義とつきあってみよう。

文芸誌7月号。

2006-06-15 02:07:37 | ◎読
わけがあって6月売りの文芸誌4誌をすべて精読しているのだけれど、ここにきて新たな事実が発覚した。どの小説をとっても、さらには対談や評論、書評、コラムまで、ほとんどが面白く、書く意志と読む意義がみなぎっているのだ。これは、ぼくの最近の読書量の少なさに起因するのか。それとも、文学とよばれるものが底を打ったのか。底力をみせる勘所を掴んだのか。

もちろん各論においては批評すべき点はあるだろうし、それは評者それぞれの拠りどころによってさまざまな方向からの論点となるだろう。また、評価基準の甘さはきわめて個人的な思慮浅さに起因するので、この見方がすべての人に受容されるわけではない。
それでもたとえば、90年代半ばあたりの文芸誌のバックナンバーといまのものを比べて見ると作家のバリエーションや立ち位置、さらには技法などがずいぶん洗練されてきている。このこと、つまり文学のコモディティ化こそが衰退という考えもあるかもしれないが、一元論から得られるものは、たとえそれが「正しく」てもさほど多くはない。ここでは多様化にこそ価値があるという意見に寄りたい。

結節点というか切断線は確実にあって、それはどうやら1998年くらいから微かに胎動をはじめ、2003年あたりに山を迎えているようだ。このことは『新潮』のバックナンバーを遡ってみれば、ひとつのサンプルとして納得いただける。平野啓一郎の持ち込み原稿が掲載されたのがちょうど1998年の8月号で、舞城王太郎の三島賞の抄が掲載されたのが2003年の7月号。この間に、村上春樹の秀逸な連作があったり、島田雅彦の無限カノン、保坂和志の『カンバセーション・ピース』、多和田葉子の『球形時間』、 島尾敏雄の『「死の棘」日記』、水村美苗の『本格小説』の掲載や連載、さらにはおもに三島賞の受賞・候補を軸としながら阿部和重、中原昌也、青山真治、星野智幸、堀江敏幸などの活動が目立ち始めた。阿部和重について言えば『シンセミア』の連載は、1999年からということになる。もちろん、彼らはキャリアも含めてまったく違うタイプの作家だし、多くはそれ以前より作品を発表しているわけだが、現時点での代表的な作品がこの時期に書かれている、ということはさほど恣意的な意見ではないと思う。

そういった勢いは、それはほとんど世界の片隅でしか作用していない勢いではあるけれど、それ以降も持続し、それがふと気づいた今日現在の文芸誌の面白さにつながっているのかもしれない。話が戻ったが、たとえば今月掲載された小説(創作)をいくつかあげてみると、

◎「その町の今は」柴崎友香 ◎「図書準備室」田中慎也 ◎「蒲公英」樋口直哉 ◎「ふたり暮らし」角田光代 ◎「言葉をめぐる12章」荒川洋治 ◎「円朝芝居話 夫婦幽霊」辻原登 ◎「キメラ」生垣真太郎 ◎「歌うクジラ」村上龍 ◎「亜里沙のお守り」島田雅彦 ◎「夏至南風(カーチーペー)」川上弘美 ◎「銀河鉄道の彼方に」高橋源一郎 ◎「神器 浪漫的な航海の記録」奥泉光 ◎「骸骨ビルの庭」「花の回廊」宮本輝 ◎「宿屋めぐり」町田康 ◎「イスロマニア」桐野夏生 ◎「とげ抜き 新巣鴨地縁起」伊藤比呂美 ◎「LOVE(抄)」古川日出男

わかる人にしかわからない、と言われればそれまでだけれど、このバリエーション、つまり人間と言葉のバリエーションには圧倒されるばかりだ。それぞれの感想は、時間が空いた別の機会に譲るとして、田中、樋口といった、どちらかといえば色物的に選ばれてきた新しい書き手のもはや訪れた次のステージの早さには、それが良いか悪いかは別として注目したい。彼ら(登場人物)は「なぜ働かないんだ」とだれかに怒られそうな気もするが、その働かない理由の一端がここにあるような気がする。そのあたりのことを考えても文学といわれるようなものはなだらかに伸張している。

こうしてみると、文芸誌は、現実的には限りなく印刷部数が少ないわけだが、やはり出版社を代表している印刷物であり、その役割は大きい。
したがって、文芸誌が読まれないという問題は、本質的な問題ではない「その形式」にあるということがひとつあげられる。それは、掲載されているテキストはコラムや書評をのぞき、今後の書籍出版に先駆けた先行発表にしか過ぎないということだ。「一挙掲載」といわれているものは、おおむね数ヵ月後には単行本になる。連載も終了後は、間髪をいれずに出版される。書評ですら、過去発表したものが誌面を問わずかき集められ、作家個人の書評集として出版される可能性も高い。つまり、ここで読まなくてもいつか読めるわけで、関係者やなにがしかのフェティシズムをもつ人以外は、やっきになる必要はない。このあたりは音楽における先行シングルといったようなものが、文学の場合には、ファンの享楽にも、だからマーケティング的にも作用しないということだろう。

文芸誌という形態の機能としての脆弱さはすでに何度も語られてきたことかもしれないが、面従腹背というか肉を切らせて骨を断つというか、そんな気持ちで、あえてマーケティングに手を濡らす必要もあるかもしれない。しかし、あえて文芸誌を買って、さらに単行本も買う、という相乗を生み出すのは難題だ。この打開策についても、きっと何度も語られてきたんだろうなあ。