くそっ。4月以降ずーっと気分がよかったのに、ここにきてなんだか調子がくずれてきた。あんなにさわやかに燃えていたというのに。おかげですべてのことがうまくいっているような錯覚にも陥っていたのに。
なんのことはない。すべて野球のせいだ。なかんずく巨人のせいだ。そう、ぼくは野球好きの、紳士好きなのだ。いつかはこのことについて書いておかねばならないとは思っていたのだけれど、どうも具合が悪くなってきて、そういったことを書くことすら腹立たしく思うようになっていたところ、とき同じくして、なんだか世界中の人が球を蹴りだし始めたりしたので、それをいいことに、今年もなかったことにしようなんて思い始めていた。どうせ5.3%の人しかみていないんだし、WBCだって、結局、対処療法にしか過ぎなかったわけだし、開幕のときならともかく、みんなが、あれ?交流戦ってこんなに長かった?って欠伸しだしたときに、いまさら野球のこと書いてもねえ、とせっかく80枚くらい書いた野球論をちょうど昨日ゴミ箱に捨てたところにBさんだ。多くの野球好きが思っていながらもなかなか言葉にできない野球というスポーツの魅力のひとつの側面をうまい具合に言い当ててくれた。
もちろん、そこで語られている魅力は(1)ほとんど皆勤で球場に通い、場合によってはそのためにすべての人生を棒に振るような本気の○キチに聞かせれば、肋骨の一本くらいは覚悟しなければならないようないい加減な意見かもしれないし (2)間延びした時間のなかで、いろいろ思い考える余地がある、ということをもう少しスポーツ寄りに敷衍して考えたほうがいいかもしれないが、それでも観るスポーツとしての野球の緩さはBさんの指摘のとおりであり、そのことは、そこそこの野球好きが野球が好きな理由のある部分を確実に占める。そしてその「そこそこの野球好き」は、肋骨をもう一本覚悟のうえで言うならば、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところはるかに「野球というスポーツ好き」である。
いや、ちょっと断定的に過ぎる。肋骨だけではすまなさそうなので書き直すと、「そこそこの野球好きのぼくは、もちろんジャイアンツは好きではあるが、でもタイガースも嫌いではなく、つまり特定の球団に拘泥することなく、総体としての野球が好きであり、たとえば、この歳になっても、『ドカベン』や『大甲子園』はもとより『スーパースターズ編』までをしょっちゅう読み返しては「やっぱりドカベンの40巻は凄い」と感心するばかりでなく、常日頃、架空の超越球団を空想してプロと対峙するときの戦略を練ったりしている、という点で、また機会があれば実際にプレーしたいと常々思い続け、気がつけば無意識のうちにシャドウピッチングなり、ベルトラインの球を打ち返すバッティング・フォームなどを復習しているといった点で、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところ少しくらいは“野球というスポーツが好き”であると言い切ってみても怒りだす人はあまりいないんじゃないか」ということになる。
で、なんだった?ああ、そういったレベルの野球好きにとっても肝要なのは、観戦時における緩さ(≒まどろっこしさ)ということだ。ぼくも観戦中に、プレーに集中することなくいろいろ考えたり、些事をすませたり、ときには試合運びのうえで大切な場面にもかかわらず、意識を失ったりすることもあるわけだが、重要なのは、意識を失う余地があるということと、意識を失う直前まで、朦朧としながらも、あれやこれや自分なりの作戦なんかを考えてみるという余地があるところだ。
なんのことはない、ようはだらだらやっているわけだから、だらだら観ても誰にも咎められることはないということだ。すべてが緊張であるという点ですべてが弛緩であり、すべてが弛緩であるという点ですべてが緊張である、という見方が許されることだ。
ただまあ、このあたりのことが世間的に許容されるのは、プロ野球の凋落さ加減があってのことかもしれず、そういった意味では、この程度の人気のほうがいいよねえ、という気もするが、だからといって、この気持ちの良いだらだら時間というものがなくなってもらっては困るので、やっぱりがんばるべき球団にはがんばってもらいたい、おいてめえなんで借金なんかつくるんだ7月はなんとかしろよ、と激励しつつ、明日の朝が早いらしいので、今日はもうドリームチームのことを想像しながら心地よい眠りにつこう。野球のことは、もう少し書いてみたい。
なんのことはない。すべて野球のせいだ。なかんずく巨人のせいだ。そう、ぼくは野球好きの、紳士好きなのだ。いつかはこのことについて書いておかねばならないとは思っていたのだけれど、どうも具合が悪くなってきて、そういったことを書くことすら腹立たしく思うようになっていたところ、とき同じくして、なんだか世界中の人が球を蹴りだし始めたりしたので、それをいいことに、今年もなかったことにしようなんて思い始めていた。どうせ5.3%の人しかみていないんだし、WBCだって、結局、対処療法にしか過ぎなかったわけだし、開幕のときならともかく、みんなが、あれ?交流戦ってこんなに長かった?って欠伸しだしたときに、いまさら野球のこと書いてもねえ、とせっかく80枚くらい書いた野球論をちょうど昨日ゴミ箱に捨てたところにBさんだ。多くの野球好きが思っていながらもなかなか言葉にできない野球というスポーツの魅力のひとつの側面をうまい具合に言い当ててくれた。
もちろん、そこで語られている魅力は(1)ほとんど皆勤で球場に通い、場合によってはそのためにすべての人生を棒に振るような本気の○キチに聞かせれば、肋骨の一本くらいは覚悟しなければならないようないい加減な意見かもしれないし (2)間延びした時間のなかで、いろいろ思い考える余地がある、ということをもう少しスポーツ寄りに敷衍して考えたほうがいいかもしれないが、それでも観るスポーツとしての野球の緩さはBさんの指摘のとおりであり、そのことは、そこそこの野球好きが野球が好きな理由のある部分を確実に占める。そしてその「そこそこの野球好き」は、肋骨をもう一本覚悟のうえで言うならば、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところはるかに「野球というスポーツ好き」である。
いや、ちょっと断定的に過ぎる。肋骨だけではすまなさそうなので書き直すと、「そこそこの野球好きのぼくは、もちろんジャイアンツは好きではあるが、でもタイガースも嫌いではなく、つまり特定の球団に拘泥することなく、総体としての野球が好きであり、たとえば、この歳になっても、『ドカベン』や『大甲子園』はもとより『スーパースターズ編』までをしょっちゅう読み返しては「やっぱりドカベンの40巻は凄い」と感心するばかりでなく、常日頃、架空の超越球団を空想してプロと対峙するときの戦略を練ったりしている、という点で、また機会があれば実際にプレーしたいと常々思い続け、気がつけば無意識のうちにシャドウピッチングなり、ベルトラインの球を打ち返すバッティング・フォームなどを復習しているといった点で、ピンク色に着色されたホームのユニホームのまま忘我と熱狂だけを求めて球場に向かう人たちよりは、じつのところ少しくらいは“野球というスポーツが好き”であると言い切ってみても怒りだす人はあまりいないんじゃないか」ということになる。
で、なんだった?ああ、そういったレベルの野球好きにとっても肝要なのは、観戦時における緩さ(≒まどろっこしさ)ということだ。ぼくも観戦中に、プレーに集中することなくいろいろ考えたり、些事をすませたり、ときには試合運びのうえで大切な場面にもかかわらず、意識を失ったりすることもあるわけだが、重要なのは、意識を失う余地があるということと、意識を失う直前まで、朦朧としながらも、あれやこれや自分なりの作戦なんかを考えてみるという余地があるところだ。
なんのことはない、ようはだらだらやっているわけだから、だらだら観ても誰にも咎められることはないということだ。すべてが緊張であるという点ですべてが弛緩であり、すべてが弛緩であるという点ですべてが緊張である、という見方が許されることだ。
ただまあ、このあたりのことが世間的に許容されるのは、プロ野球の凋落さ加減があってのことかもしれず、そういった意味では、この程度の人気のほうがいいよねえ、という気もするが、だからといって、この気持ちの良いだらだら時間というものがなくなってもらっては困るので、やっぱりがんばるべき球団にはがんばってもらいたい、おいてめえなんで借金なんかつくるんだ7月はなんとかしろよ、と激励しつつ、明日の朝が早いらしいので、今日はもうドリームチームのことを想像しながら心地よい眠りにつこう。野球のことは、もう少し書いてみたい。