考えるための道具箱

Thinking tool box

◎全ては繋がっている。

2008-01-31 22:55:14 | ◎書
▶昨日のジグソーパズルのピースの話で書き忘れたこと。まわりのピースで自分を再生・複製すると書いたけれど、逆に言えば、自分のピースでまわりの再生と複製を手助けることもできる。一歩間違えば、もとの話に戻って、「自分のピースにまわりを合わせさせる」ということにもなりかねないんだけれど、欠けたは1ピースは自分の意図だけで再生・複製されるのではなく、他の3辺・4方の影響も受けるわけだから、決して自分の思うままにはならない。

▶Hくんから『沿志奏逢 2』を借りた。「歌うたいのバラッド」を手放しで褒めたい。すでにネットで見ていたライブ音源よりも格段に力が入っている。もちろんオリジナルがすばらしいことは言うまでもないけれど、こちらはこちらで、新しい「歌うたいのバラッド」である。「関係」からよりよき新種が生まれている。

▶ようやくたどり着いた青山真治のブログと、偶然発見することができた『新潮』編集長の矢野さんのWEB日記を読んでいる。もちろん青山真治は映画であり、矢野さんは文芸が生活の幹にはなっているのだけれど、2人もそれ以外に中柱ともいえるような幹があることがわかる。そして、食べることへの記憶をかかさない。柱-中柱-食(飲)の間の刺戟や弁証のようなものが、それぞれの柱をより強力に滋味深くしていくのだろう。全ては繋がっている。

▶「月10,000円以上、本を買おう」というのは蓋し名言だ。字義どおりに受け取り「買う」だけでも意味はある。本を「買う」という行為は、まず問題意識を顕在化・構造化させるということだし、選ぶときにはリテラシーを発動させなければならず、それだけでじゅうぶん考えていることになる。毎月の習慣を繰り返すことで、最初はつたない課題化の思考技術やリテラシーも洗練されてくるだろう。もっと遡って、そもそも書店に「行く」だけでも意味はあるんじゃないだろうか。そこは高い頻度で更新される情報の抽斗だし、デザインのアンダーレイの倉庫である、と考えれば、自分の思考のよきパートナーになりえる。
こういった前提があるとして、では、どんな本を買って読めばよいのか。仕事という立ち位置で語る以上は、マーケティング、ターゲット、表現技法、WEBトレンド、デザインノウハウといった本であるていど基礎の部分をおさえることは必要だけれど、極論すればなんだっていい。小説はもとよりノンフィクション、人文思想、随筆、雑誌、漫画。きっと何かがどこかで繋がっている。学校の勉強と同じようなもので、直接的に役に立つことは少ないかもしれないが、勉強をしておくとトクになることが多いし、していないというデバイドで損をすることも少なくはない。なにがなんでも繋げてやろうといった、さもしい野心はいらないとは思うが、つねに繋がる可能性があることを自覚しておくことは大切だ。無意識に読んでいてピンときたところがあれば、それは、きっと何かに繋がるという信号なので、いったん本を置いてあれこれ思考をめぐらせてみる。そういったユーレカのためには、じつは様々なジャンルの本を並行して読み進めることが必要で、だからこそ10,000円が必要なのだろう。
そういった見方をするなら、あまりにも通俗的なベストセラーは避けた方がよいかもしれない。たとえば「ダディ」とか「宜保愛子の死後の世界」とか。べつにコンテンツを毀損するわけではない。どこかにちらっと書かれたダイジェストで充分なんだろうというのが大きいが、なにも自らマーケティング的な操作の成果に埋もれていく必要はないだろうし、どこかで漏れ聞く、定まってしまった評価を追認する読み方はどうも受動的になってしまい、いわばテレビを見るのと同じになってしまうからだ。

▶そもそも「本」以前に「新聞」についても言ってしかるべきかもしれない。「新s」なんかが始まっちゃったので、これを免罪符に、がますます加速するんじゃないかという懸念もあるが、年齢を問わず新聞の「購読をやめる」人の話をよく聞くようになってきた。WEBをリビングのモニターで家族全員でみているからそれだけで充分、といわれれば、充分な人には充分なんだろうなあとは思う。
新聞だって情報の上澄みでしかないわけだが、それでも、ページを捲りながら全紙面をスキャンすることで、自分の関心のない、だからこそ思いもよらないソースを発見できることがあるかもしれない。ネットニューズでこれをおこなおうとすればたいへんだし、そういった面倒をあきらめるということは、新聞各社の何かのフィルターがかかっているかもしれないトップページのニューズのしかも上澄みだけを目にすることになり思考の多面性を損ねることになる。「捲る」「折る」という身体感覚もなにかには寄与していると思う。
さらにいえば、情報を読むのではなく文章を読むという鍛錬にもなる。そう考えると記事下の書籍・雑誌広告だって貴重になってくる。ニュースサイトと新聞はやはり別もので、とりわけぼくたちのような仕事をしている人間にとってはどちらも必須ツールとなる。はずなんだけれどなあ。テレビジョン受像機は捨ててもいいけど新聞だけはなあ、とひとこと苦言を呈しておきたい。

◎関係についての観念メモ。

2008-01-31 01:15:39 | ◎書
ほんとは褒めたいんだけれど、あんまり手放しで賛同してあほうじゃねーかと思われるのも厭なので、ヘッジとして枕詞でいいがかりのような苦言を呈してみる。もしくは、ほんとは糞味噌に貶したいんだけれど、人格を疑われるのも厭なので、枕詞として慇懃無礼に栄誉を称えてみたりする。こういうコミュニケーションは歪んではいるとしても、対面の対話で表情の変化や身振り手振りをまじえて行うと、そのニュアンスや強調の具合によっては、かなり有効な潤滑油として働くこともある。うまくできれば、ものごとをより効果的に好感度高く、ソフトランディングで伝えるためのテクニックとしてかなり意味がある(もっとも、この場合の伝えたいことは、前者は「くそっ屈服。認めたくないけれど良いものとして認めざるをえない(と感じている)」で、後者は「長年積み重ねてきた、わたくしのすぐれた評価眼によると重大な瑕疵がある。(と感じている)」といったようなことなので、あまりおすすめできたものではないけれど)。

しかし、これを書き言葉でやられると、とたんに気分が悪くなる。もっとストレートに言えよ、と。

ええんやったらええで、手放しで褒める。あほうと思われたくなかったら違う見方を探してみて褒める。あかんかったらあかんで、いったん持ち上げるなんてことはせず、あかん理由を理解が得られやすいロジックとていねいさで指摘する。へんな言い訳や枕詞を考える労力を、こちらのほうに費やしたいもんだ。

つまりは、ものごとの中心を自他のどちらにおいているのか、つまり他者の心情をどこまで慮っているのか[※]、ということで、言ってみれば(良い意味での)ポジティブ教の話かもしれない。だから、先に述べたようなビヘイビアをとってしまうキャラクターは、「ポジティブ/ネガティブ」×「ふるまい/実のところ」=「4つの組み合わせ」のいずれかの場合にあてはまるんじゃないかと思い、あれこれと考えてみたけれど、うまくいかない。たとえば、ふるまいはポジティブだけれど、じつのこところ根はネガティブといった人はどうなのか。裏表なく根っからのオプティミストはどうなのか、とか。ほんの少し話しただけでいきなり人にラベルを貼ってしまうような人もいるけれど、そもそも人の類型なんてそんな簡単な話ではないのだと思う。
ただし、「わたしポジティブだからネガティブなこともポジティブに言うんですよ~」という人が、自分のキャラクターに無自覚に誤認があるようなケースは困りものだ。そんな場合は、往々にして「ネガティブだからポジティブなこともネガティブに言っている」ことが多い。もちろん帰納の精度は低い話だけれど。なら書くなっちゅうねん。

ところで[※]については、他人を慮っているようにみせかけ、結局は自分のためにやっているという点では、曲げて言おうとストレートに言おうと、そんなには違いはない。むしろ、より入念に「自分のため」を迷彩しているストレート派のほうがたちが悪く、婉曲派のほうが脇が甘い、といえるかもしれない。けっしてドラマ的シナリオ発想ではなく、人は掛値なしに、いっさいの無我で他者に献身できるのか、とったことを、学問的に分解した理論なんてあるのだろうか。うん、この路線で少し話が広がりそうだ。

ここが昨日のエントリーにつながる。たとえば、「全ては繋がっている」という感覚。もしくは、ジグソーパズルにおいて、1ピースがあるからまわりが決まるというのではなく、まわりが決まれば必然的に1ピースが特定できるのだという考え方。『生物と無生物のあいだ』で示されている考えにのっとれば、まわりがあれば自己は再生・複製できる、ということになる。それは、単純にまわりに合わせたり、なびくのではなく、なんども再生と複製をくりかえしながら座りのよい形に、つまり、他者が気持ちいい、そして自分も気持ちいい形にまわりと自己を微調整しながら調和させていくことなのだろう。冒頭の話から思いもよらないところに着地したけれど、まあそういうことだ。もう少しあれこれ考えてみることにする。

◎買ったり、読んだり、聞いたり。

2008-01-30 00:24:09 | ◎読
[01]『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)
[02]「ケータイ小説は『作家』を殺すか」(『文學界 08年01月号』
[03]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)
[04]『組織を伸ばす人、潰す人』(柴田励司/PHP)
[05]「乳と卵」(『文學界 07年12月号』
[06]『In Rainbows』Radiohead
[07]『オン・ザ・ロード』(ジャック・ケルアック/河出世界文学全集)
[08]『国家の罠』(佐藤優/新潮文庫)
[09]『ヘルメスの音楽』(浅田彰/ちくま学芸文庫)
[10]『エセーⅡ 思考と表現』(モンテーニュ/中公クラッシクス)
[11]『犬身』(松浦理英子/朝日新聞社)
[12]『AERA '08.2.4』(朝日新聞社)
[13]「カフカ『城』ノート(1)――小説をめぐって(三十四)」(保坂和志/『新潮 07年11月号』)

▶ずいぶんと間があいてしまったので、その間に目を通していたものを列挙すると立派な読書家のように見えなくもない。でも、実際のところは、あいかわらず毎日8分間読書術。いや、もう少しは読んでいるか。世の中を震撼させている「とにかく効率!なにより効率アップ本」が1冊も入っていないので、ますます効率が悪くなるばかりだ。

▶しかし、たとえば[01][08]のような本は作者が巧みだし、新しい発見も多く、たとえ8分に毛の生えた程度の時間であっても、一気に150ページくらいまでは読み進めることができる。たいへん面白く、世の中のガイドラインに素直にしたがって、もっと早くに読んでおくべきだったなあ、と思う。たとえば、『生物と無生物のあいだ』のこんな発想は、さまざまな考えや行動に援用できる。

「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」(P163)

「つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである」(P167)

「抗うな。受け入れろ。全ては繋がっている」とは、『ザ・ワールド・イズ・マイン』のあまりにも有名な箴言だが、最近この考え方を、解釈を拡大しながら(もしくは収斂させながら)少しまじめに分解してみようと思っている。これは、きっと明日アップするエントリーにも関連した話かもしれない。そんなときに、福岡が言う生物学のファクトはよい補助線になる。

▶[02]は、テーマ同様、ペラペラな鼎談だ。全体的に話すこともあまりなく場が途切れているような印象を与える。本来であれば、鈴木謙介が気の利いた意見で場を混ぜ返すはずなのだろうけれど、いまいち真剣に論じる気もないようにみえる。これを読む限りは、また、たとえ東浩紀がいくら推奨したとしても、ケータイ小説を通読するということはネタにしか過ぎないように思えてくる。ジャンルとしてあることに異論はないけれど、鼎談でもかかれたように、「浪花節」であり「大衆演芸」であり、もうひとこと加えるなら「女性週刊誌」であるわけだから、だれもがこぞって是非を議論するものではないということだろう。つまり、ケータイ小説が流行っているから、同じような内容の月9の例の脚本家が再び降臨してきたと見えたとしても、そこにはあんまり関係性はないのである。

▶[03]は柄谷の「世界共和国」のくだりになって俄然面白くなってきた。少し遡って、議論・論争における「事実」「権利関係」の規定の大切さ(権利関係で争っても答えはでない)といったくだりなども、これはいわゆるインテリジェンスの初歩の初歩なんだろうけれど、言われてみれば納得がいく。先の[08]『国家の罠』と交互に読むと、ほとんど佐藤の思考に侵されてしまう。

▶本棚から[04]『組織を伸ばす人、潰す人』が落ちてきたので、端を折っていたページを再読してみる。やはり、いいことが書いてあるなあと思える、その理由は明らかで「いま、ワーカーはとてつもなく忙しい、忙しくなった」という前提に立っているからだ。おそらく自身がそうだったのだろう、その「とてつもなさ」に高いリアリティがある。「忙しさを伝染させてはいけない」といった提言は、そういった状況のなかにおいて唱えて初めて意味をもつし説得力をもつ。

▶働き通しの日曜日の夜に衝動的に[06]『In Rainbows』を。日本からのDLは面倒そうだったし、なにより、いくら?と問われても、相場感がないので、ネット購入はあきらめていた。相場感がわからないくらいのもんだから、曲の善し悪しもよくわからない、という感じになるか、と思っていたところ、意外に体になじみ、だから毎日夜中の30分の帰宅路で聞いている。あっという間に終わる短さが残念。

▶例によって、[07]~[10]は、書店の敵で購入。河出の世界文学全集には大きな興味をもっていなかったのだけれど、さすがに書店に並ぶと気になる。すでにリョサの『楽園への道』も古書店で見つけてはいたんだけれど、リョサなので踏み切れず(『楽園…』は面白いらしいけれど)、あくまでも新訳なので買う気もなかった『オン・ザ・ロード』を装丁と価格に負け購入。この調子で新古書を発見していけば全巻そろってしまうかもしれない。

▶[12]『AERA』が面白そうだったので久しぶりに買ってみた。「金融危機」は同時多発しているが、危機に向う最初のアクション(危機を決壊させた引き金ではなくあくまでエントロピーの初動)まで、同時多発というわけではないだろうから、そこまで遡って特定することは可能なのだろうか。たとえば、ゴールドマン・サックスの某が、クラシックなハンバーガーにがっつきながら、ケチャップで汚れたマーカーでホワイトボードに書きなぐったちょっとした思いつきがそもそも原因だとか。
しかし、証券化はともかく債権の証券化というのはわからない。あいかわらず金で金を買うという感覚にもついていけない。時間と情報の差益にしちゃあ度が過ぎていないか、と思うし、実物とか愛顧がないなかでの商売って始終不安と猜疑と嫌悪に苛まれているのではないか、と思うのだけれど、そうではないのかな。そうではないのだろうな。きっとエキサイティングなんだろうな。

▶[13]の『新潮』の去年の11月号をずっと東京の家に置きっぱなしにしていたためほとんどさらっぴんの状態だったのだけれど、大阪に持ち帰るタイミングで、ちらりと除いたらはまってしまった。いずれ発売される単行本に委ね、保坂の連載はほとんど斜め読みしかしていないのだが、これはしっかり読みきってしまった。いわゆるカフカの精読なのだけれど、言葉の並び方・使い方といったレベルの微細な表現技法にまで話がおよび(これは、『アメリカンスクール』の解説も同じ)、常人ではない人間の文章思考を浮き彫りしている。ルールに適用されない言葉の配列、微妙にズレた(誤った)用法。これらはテクニックではなく、言葉というものに対する感覚の違いであり、そこに音楽のような自由があることがわかる。このことが始めて実感できた。

◎部門目標。

2008-01-20 00:49:50 | ◎業
原稿をエントリーしておきます(一部割愛、加筆)。

●当部門の経営方針・戦略は「4・3・2・1」です。

●この「4321」に3つの意味を持たせています。
まず、ひとつめは、受注する仕事のカテゴリーの比率です。40%30%20%10%と考えていただき、まず、そのいちばん最初の40%にWEBの仕事を掲げたいと思います。すでに私たちの部門では、さまざまな形でWEBの仕事に取り組んでいますが、言うまでもなくまだまだ伸び代は大きいと思います。そこで、本年の大きな命題として、いまさらながらですが、あらためてWEBの仕事の拡大を大きな目標とします。現在、進行中の仕事でもその息吹が見えますが、ぜひ、コピーやコンセプトプランニングをなりわいとする当社ならではのWEBの仕事(したがって原点はContents is Kingです)をたくさん形にしていけるようお願いします。
●次の30%は従来のメディアの仕事です。依然として、大きな比重を占める部分でありかつ私たちの存在意義が発揮できる分野ではありますが、できれば構成力とファクト発見力・コピー技術をあわせた「編集発想」がレバレッジとなる仕事を増やしていきたいと考えます。
●そして20%は、いわゆる企画単体で成立する仕事です。戦略企画であれコンセプト企画であれ、それだけでクライアントからの信頼が得られるような仕事にも引き続き取り組み、モデルを盤石なものとしていきたいと思います。
●最後の10%は、「その他」と考えてもらってもよいのですが、できれば「自分がしたいその他」の仕事として位置づけ、この1年間で、他の仕事もやるけれど、じつはこれがいちばんやりたいんだ、というものを発見していただければ、と思います。また、いわゆる研究・開発のための10%と考えってもらってもよいかと思います。ですから、この「10%」というのがいちばん重要かもしれません。

●(2つめの「4321」は、割愛します)

●最後の「4321」は比率ではなく「掛け声」です。言うまでもなく、「4・3・2」と「タメ」をつくったうえで、大きく飛躍したい、していただきたいという思いをこめています。その「タメ」の原動力として、例えば「面白がる精神」であるとか「知的配慮のあるコミュニケーション」「コモディティ化への危機感」「勤勉」といったことを強く意識していただければと思います。「タメ」を支える要素については、ビジネスユニット内であらためてお話をさせていただけば、と思います。

●こういった考え型で、ビジネスユニット全体として4321を目指すためには、みなさんそれぞれが自分のものとして4321という考え方を意識していただく必要があります。ぜひ、この4321をひとつの尺度として、自分自身の思考と技術を整理してください。そして、こういったことを積み重ねることで、みなさんが少しでも幸せを感じることのできるような職場にしていきたいと思います。本年もよろしくお願いします。

※「面白がる精神」「知的配慮のあるコミュニケーション」「コモディティ化への危機感」「勤勉」については、これまでもそれに近いことを何度かも発信しているが、また場をあらためて伝えていきたいと思う。なにより、重要なのは「コミュニケーション」と「勤勉」だ。当社のような仕事をしていると、いわゆる基本性能や強点は、企画・制作技術のようなものと規定しがちだけれど、そのさらに前提となる要素技術があり、それが「コミュニケーション」と「勤勉」だと思う。ただし、それは巧みな話芸を目指すものでもなく、学校のようなかたちで勉強をすることでもない。ではいったいどういうものなのか。一度、考えてみてください。

◎川上未映子です。

2008-01-18 00:14:31 | ◎読
▶間違っても川上美映子なんて人はいなくて、いるのは川上未映子なのです。たとえいくつかある未映子のうちたったひとつが美映子であっても、ブログなんてものはどんどん検索にひっかかってくるわけで、ひっかかってしまったみなさまには、ほんとうに申し訳ないことをしました。だからといってはなんですが、『チチトラン』が掲載されているバックナンバーを取り寄せて読んでご紹介をしなければあかんなあと思っていたところ、なんとちょうど、当該の『文學界12月号』を殊勝にも100円で販売されているお店があったので、ああこれはきっと運命の糸だとあらぬ妄想を拡げながら、ワンコインの恋を買いました。

▶入手したもの
[1]『文學界 07年12月号』\100.-
[2]『文學界 08年01月号』\100.-
[3]『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)\300.-
[4]『アスペクト 08年1月号』\0.-

『乳と卵』は、かなりの要請によりずいぶん丸くなって、まあそのぶん、正しい凄みもでてきているわけだけれど、本来的には『アスペクト』に連載されている『お母さーんと叫ばなならんの、難しい』みたいなほうが、あったかくてうれしい感じはする。この連載は初めて読んだのでこれまでの経緯のようなものはまったくわからないけど、今回は「僕」が主人公ということらしいので、『イン歯ー』などとも違って、これもまたおもしろいトライアルかな、とも思う。

「色々な隙間がうるさいので、とうとうお金がなくなってしまいました。お金はなくなるものだから、仕方がないけれど、この場合お金がなくなるというのは、生活のための基本的な支払いを終えたあと、交通費を引いて、それからそのあまった中から一日の食事にかかる五百円を、生きてる日数だけ掛けて引くと、たとえば新しい靴下を買ってみようとか、まぐろの切れ端を食べてみたいとか、そういったふんわりした気持ちに、体をついてゆかせるだけの根拠というか、エネルギーがね、慢性的になくなってしまってることで、静かなのだね。僕の仕事はよくある登録制のアルバイト。アルバイトって、ドイツ語ではアルバイテンって、言うんだよ。…」

女町田といってしまえば、それまでだけれど、内容なんてまったくなくても、冒頭の、色々な隙間がうるさいから金がなくなる、といった抜けたロジックとか、「生活のための基本的な支払い」といったずれた言葉の感覚こそが、愉しみの泉だと思う。こういった、「痴にもっていける知」を書くノウハウは、卑下による韜晦にあり、ともすれば、嫌味な雰囲気をかもし出すリスクもあるわけだけれど、逆にこれがうまい人はやっぱりいい人なんだなあ、と感じてしまう。

▶読んでいるもの
[01]「倫理」「裏のアパート」「ピクニック」「大学勤め」(リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』/白水社)
[02]『大森荘蔵-哲学の見本』(野矢 茂樹/講談社)
[03]「小銃」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)
[04]「小説と評論の環境問題」(新潮2月号
[05]「四方田犬彦の月に吠える」(新潮2月号

▶きっと、勘違いしてますよね。最近のエントリーで、本をたくさん(に見えるように)列挙しているから、ああ結構、読んでいるじゃない、って。とんでもないです。偽装とかジェスチャーとまではいいませんが、読んでる時間は、毎日眠る前のほんの10分~17分ぐらい。今年はたくさんゆっくり水を飲む、なんて約束したもんだから、仕方なく軽量文庫本を携行していて、そこでプラス4分程度を稼いでいるといった体たらくであります。▶L.ディヴィスの小説はほんとうに面白い。前も書いたけれど、荒涼で殺伐とした寂寥感を、怒りや妬みの感情もなく、むしろ喜びのようにたんたんと綴る説話が、心に響く。こんなふうに感じるのは、なにも、クールダウンに入った半スリープ状態に適合するからという理由だけではないだろう。昨日を読んだ話で言うと「裏のアパート」がそれにあたる。表通りに面し裕福な人が住むアパートとその裏にあり満足ゆく暮らしがおくれているとはいえない人々が暮らしを寄せ合うアパート。それぞれの住民の確執とまではいかない牽制の具合を、裏のアパートの住民である主人公の視点で描いている。いくぶんかの非対称関係により感じていた「あちらさんはねえ」くらいのルサンチマンは、それまでは「お互いに知らぬふり」という形で均衡を保てていたのだが、あるひとつの事件をきっかけに破調をこす。2つの関係が崩れる、というより裏のアパートがその中だけで、まさに音や激しい動きもなく自滅するように崩壊していく。表と裏は、もっと疎遠になり、だから羨望関係もなくなり、住人たちは、徐々に自分たちが荒れていっていることを気づかないまま荒れていく。主人公はその呪術にとらわれる寸前に、自分を取り戻し、裏のアパートからのエクソダスの必要性に気づく。といった話が、ある種の諦念のなか綴られる。しかし、それが暗い話なのか、というとそういうわけでもない。いわゆるハードボイルドから憐憫をとりのぞいたような巧みなバランス。訳者の仕業といえるかもしれないが、翻訳でしか実感をつかめない私にとっては、そんなことはどうでもよく、コラボレーションのおおいなる成果として読みたいと思う。もちろん、そんな荒ぶれた話だけではなく、次のわずか2行の作品「ピクニック」なんかにも、その計算にかなり唸らされる。▶あいかわらず『アメリカン・スクール』の短篇も面白い。たぶん「小銃」は、なにかのアンソロジーで読んだはずだが、今回あらためて細部に着目すると、当事者として(気づくことはない)執着と拘泥から生まれる狂いの兆候が、いろいろな形で埋め込まれていてその巧さに驚いてしまう。保坂和志はもういいので、この小島信夫を村上春樹がどう感じていたのか思い出すために、『若い読者のための短篇小説案内』を読み直す必要があるよなあ。

◎青木淳悟と松浦理英子。

2008-01-14 12:55:13 | ◎読
[1]「書かれたことと書かせたもの-青木淳悟論」(古谷利裕新潮2月号
[2]『犬身』(松浦理英子/朝日新聞社)
[3]「耕論 今、論じることは」(高橋源一郎・渋谷陽一/朝日新聞)

このブログには、(1)と題し、いつか続きを書くと称していながら、そのあと、延々と放置プレイを続けているエントリーがたくさんある。その最たるものが「青木淳悟を考えてみる(1)」だ。『四十日と四十夜のメルヘン』の、とらえどころのないしかし何かすごい変なことを考えているに違いないというインプレッションを、瞬間的にまとめたきわめて本能的で感情的な一文なんだけれど、青木淳悟という、へんちくりんな書き手に言及する論考が少ないこともあって、グーグルではつねに上位を維持させてもらっている。だから、毎日のように「青木淳悟」で訪問していただいている人も多く、そんなアクセスログを見るにつけ申し訳ないなあと心を痛ませていた。
偽日記の古谷利裕の「書かれたことと書かせたもの-青木淳悟論」は、そもそもわかりにくい青木淳悟を解体しているだけあって、けっしてわかりやすい書き方にはなっていないけれど、青木淳悟の書く小説を「何かあるんだろうけれど、それが何か皆目わからない、でもまあ読んでるだけで面白いからいいか」という、謎の追求をあきらめた読み手にとって、うれしくそして蓋然性の高い解釈となっている。
とくに、『いい子は家で』でに所収されている3つの家族小説「いい子は家で」「ふるさと以外のことは知らない」「市街地の家」については、その視座の特定が難しいこともあり、「なんだかちょっと普通じゃない人(かどうかもわからない)の画角で描写されているよね。そこがいいね」で、終わってしまいそうなところを、大胆な仮説を試みていて読み応えがある。たとえば、「いい子は家で」で、主人公・孝裕が女ともだちの家で変体をとげる部分の解釈に排便不全を重ね合わせるところなんかはかなりもっともらしい慧眼。だから、言われてみれば「にむり、にむり」なんて異様な擬音をとることもなるほどと思える。
他人の家で、DBをするとか、逆に食事をいただくことについての違和感というか抵抗感というのは、誰にでもあって、青木はそのことをなんとか表現しようとしているというところまではおぼろげながらわかるのだれど、古谷は、そういった「感覚」が現実の裏側にはりついていて、ひとつのドライブとして物語を駆動させているのだというところまで論をすすめている。青木がそこまでの計算をもって書いたのか、それとも無意識にとり憑かれるままに筆が進んだのかはよくわからないところだけれど、こういった解釈により、ひとつの方向の見通しはずいぶんよくなった。
しかし、そういった古谷の分析をもって、再び青木淳悟の小説群に臨んだところで、またしても、それとは違う解釈への誘惑に駆られる可能性を孕んでいる。これが、青木のテキストの愉しみであり、そもそも小説というものの愉しみといえるかもしれない。

とはいえ、それはやはりリーダビリティを損ねているといわざるをえないところもある。さまざまな形でトラップを埋め込もうと苦慮すると文章はどうしてもリニアでなくなるし、均整のとれていない起伏があちこちに出現してしまうのは当然だ。しかし、最後にやすりをかけたほうがよいのかどうかは迷うところだ。

きっと松浦理英子には、そういったリーダビリティのためのやすりのようなスキルが、デフォルトとして備わっているのだろう。本の山に埋もれてしまいすっかり忘れていた『犬身』が発掘できたので「犬暁」あたりから再び読みはじめたのだけれど、リーダビリティにかけては天下一品だ。犬にも猫にも高い関心はなく、もし一緒に暮らすなら、少しは知恵の働くサルか、それとは逆に鼻くそくらいしか脳のないリスか、と思っているようなぼくにも、その言葉はすらすら頭と身体にはいっていくる、そのためもあって『犬身』は、通俗的ともみえるし、まあ実際に通俗的な話なのだろう。しかし、松浦の場合も、物語を駆動している狂気がしっかり裏側に貼りついているのであって、「絶対になんかあるよなあ」と思われない程度までやすりをしっかりかけて、「書かせたもの」を隠匿しているほうが怖いような気もする。それが本能的に行われているのならなおさらだ。

[3]は、結局はそういった言葉のわかりやすさとわかりにくさに敏捷に気づくことの大切さを論じているわけだが、いま、朝日を中途半端に1面とって話すような話題なのかなとも思う。きっと、紙面の都合で割愛された、与太話のほうに面白い話題があるんだろうなあ。

◎小島信夫。

2008-01-12 22:15:42 | ◎書
◎キッチンで夕はんの用意をしているウチの奥さんのところに寄っていって、キャバクでチンピラが絡むのをマネして、肩を組んでグハハとやっていたら、大きくあけた口を、米がたっぷり入った計量カップでふさがれた。おかげで口の中とか鼻の穴が米つぶだらけになり、さっきから涙目でカーッカーッとやっているのだが、どうやら鼻腔の奥に2~3粒残っているような感じで調子が悪い。だれかそういった場合の対処法を教えてくれませんか。

◎読んでる本
[1]『人間を守る読書』(四方田犬彦/文春新書)
[2]「燕京大学部隊」「小銃」「解説」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)

▶[1]を読んでいると、黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』に触れる部分があり、ああそういえば最近読んでいないなあと気づく。ウィキとか彼のブログをみてみると、どうも病気のようで活動を休止しているようだ。現在、月刊アフタヌーンで休載中といわれている『あたらしい朝』は「1930年代のドイツ。ナチスの政治資金をうっかりネコババしてしまった二人の不良青年・マックスとエリックは、ほとぼりを冷ますために兵役に就く。しかし折しも戦争が始まってしまい、二人の人生の歯車は大きく狂っていく。」といったプチ群像劇でかなり面白そうなんだけれどなあ。『人間を守る読書』では、黒田の直前に、岡崎京子の章もあったりするので、べつだん関係づける必要はないけれど、がんばって療養して欲しいと願うしだいである。▶寝どことか電車とかトイレとかこたつとかで[2]を少しずつしこしこ読んでいる。というか、やめられない。たとえば、「燕京…」の

“外出の前日、冬になった幸福すぎる林の中を、カモフラージュ用にウェブスター大辞典を借り出して図書館から帰ってくると、行く手に蹲っている兵隊の姿が見える。それは誰かの排便しているうしろ姿であったので、知らぬふりをして通り過ぎると、
「古兵どのではないですか。水くさいですよ。阿比川ですよ。声くらいかけてくださいよ」
「阿比川か」
「見られちゃった上からは男らしく声をかけました。もうすぐ終わりますから待ってて下さい」
「なぜこんなところでするのだい」
「古兵どの、そうなんですね。ここのところまでくるうちは、こんな気配はなかったんです。ここまでくると、どういうものか急にたのしいように催してきたというわけです。これはどういうわけでしょう」
「たぶん、きれいなものや、幸福なものや、手に入れたいものが、ふんだんに見せつけられると、刺戟するのだろうな。泥棒だって慣れた奴は仕事の前に家のまわりですますそうだよ」
「泥棒といっしょにされた形ですね。ひどいですよ」
「どっちにせよ、此の冬の日だまりの幸福には心がいたむね、流されどおしのおれたちは、何か外部に流れをくいとめてくれるものが起らないと、生きている気がせず、不安だね」
「ぜいたくですよ。古兵どの。そういったところ、まさに悩める騎士ですな。少しずんくりしすぎますがね。これは冗談です。ほんとうはこの林の中で阿比川はあちらの方も同時に催して困っていたのです。明日はいっしょに遊びに行きましょう。なあに、阿比川は日本人として死ぬ覚悟が出来ています。自分は自分を産んだ米人の父親には恨みがあるだけです。なあに玉砕しますよ、ねえ古兵どの」
 阿比川は云い終わると、ズボンを直しながら、汚い手で僕の頭に無雑作にふれて激励した。”


といったくだりなんかを読むと、その状況もさることながら、微妙にズレまくっている能天気で滑稽な台詞まわしに腰をくだかれ、こうして書き写しながらどうも、ぶははと笑ってしまう。そして、こういうのが普通に書けることの幸せを感じたいものだと思う。ビンゴではないにしろ「解説」で保坂和志がいっているのも、これに近い視座の持ち方ということだろう。その状況をその場にいる当事者以外の視線でみない書き方。こういうのはやっぱり狂っている人間しか書けないのだろうとも思う。

◎たのむぜ、キーチ。

2008-01-12 01:08:41 | ◎書
▶『ビックコミックスペリオール』1月25日号の『キーチvs』はひどい。あきらかに新井英樹が筆をおろしていてない。そこまで忙しいのなら、落としてもらったほうがましだ。もちろんネームは考えているのだろうけれど、今回の味のないポンチ絵をみるにつけ、ストーリーと絵はあわせ技であり、そのいずれかが欠けてもマンガは成立しないということがよくわかる。TWIMの(生産システムに)震撼しただけに、きわめて残念だ。こんなにひどいのは「サイボーグ009」の「高い城の男」以来だ。

▶会社の業務においては、もはや、後ろ向きのこととか、目的合理的ではないことにかかずっている余裕はない。というか、かかずると碌なことはない。だから無視する。おれは基本的にコミットメントを行動の基本にしようと思ってきたが、最近、無視したほうがいいことがあることもわかってきた。そういったことは、おおむね滝山で形成されたコミューンのような形であらわれる。直感的にイヤだなと感じた優等生的言動。これに対して、裸じゃねーか、という勇気を奮い立たせるのはなかなか難しいものがあるが、長期的にはその直感が正しいことが多い。少なくとも、うまく論理的なクッションをおくことができないため感覚的に諭すように優しく、その実、高圧的で傲慢なことを言っている、ということにはなんとしても気づく必要がある。わかりにくい話ですんません。

▶昨日、今日読んだもの
[1]「高畠素之の亡霊」(佐藤優/新潮2月号
[2]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)
[3]『地頭力を鍛える』(細谷功/東洋経済新報社)
[4]「燕京大学部隊」(小島信夫『アメリカン・スクール』/新潮文庫)

先月号は面白かったのに、とたんに「高畠素之の亡霊」にはついていけなくなった。いきなり各論に入りすぎてついていけない。労農派とか、感覚的にまったくわからない。だから『国家論』に戻り、ページを進める。すると、少しだけ右翼としての佐藤の立ち位置がわかってきた。その、国家をなくすという柄谷的発想には共感できる。新幹線のなかで[3]。あきらかに『問題解決プロフェッショナル』の焼き直しであり、「仮説・フレームワーク・抽象化(コンセプト)」=「結論・全体・単純」と見通しをよくしたということと、前提に知的好奇心があるととなえた以外の新しい発見はない。地頭の定義もちょっと無理やり感がある。ただし、『問題解決プロフェッショナル』をより饒舌に丁寧に語っているとはいえるので、もう少し追求してみる。いくら保坂和志が勧めても、近年の小島信夫についていくには、高度な読みのスキルが必要だ。というか正直面白くない。ただし、『アメリカン・スクール』の頃の小島信夫は抜群に面白い。カフカだといわれても充分に納得できる。たぶん、(小島と目される)主人公のいまいち空気を読めていない非力な強気が滑稽なんだろうな。いやあ面白い。

◎他責NG。

2008-01-11 00:44:24 | ◎書
▶20個話せば、1個くらいは正しいことをいえるかもしれない。また、自分で話す言葉で、話ながらなんかひらめくこともたまにはある。そんなふうに考えるととりあえず、思ったことを口に出すというのは間違っていない。ただし、たぶん、(1)口に出すコンテンツは、それなりのロジックが展開されているだけのある程度の長さが必要だろうし、(2)できるかぎり、思考にふさわしい言葉を使う必要があるだろう。瞬間芸みたいなことではだめだ。というか瞬間芸はできないわな。そっちの完成度を高めるほうがそうとうむずかしい。

「1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。」そうね、とうなづける部分は多いんだけれど、完成度が高いだけに下手すると、たんなるポジティブシンキングの呪文か、鬱の他人事診断か、自己啓発セミナーのテキストブックとして読んだ満足だけに終わってしまう可能性がある。ここで、たぶん重要視しなければならないのは、「他責のNG」と「非戦」じゃないかと思う。総じて「慮る心」ということかもしれない。

どうにかこの仕事を続けいけそうだと感じたのは、なにも、ロジカルシンキングの要諦がつかめたと実感したときでもなく、フレームワークというものの使い方が身に染みて理解できたときでもなく、もちろん、パワーポイントの型を発見したときでもない。きっと、「他責」にしないとは、どういうことなのか?ということがわかったときだと思う。そして、みんなが得する「非戦」ないしは「負け方」がわかったときだと思う。

「他責」とは、いうまでもなく「他人ないしは他の責任」ということだけれど、言葉としては広辞苑にも新明解にも載っていない。ぼく自身は、この言葉を、クライアントの共感を超え尊敬できるマネージャーから与えられた。彼は自身のマネジメント・ポリシーの上位にこの「他責」の禁止をあげ、スタッフの「○○のせいです」といったような言動には聞く耳をもたないという。つきつめていえば、外的要因を理由になんだかんだ言い訳をすることに対する叱責ということであり、そういう意味では、何かを建設的に発展させていきたいときのごく基本的な行動原則にすぎない、ともいえる。

しかし、じゃあこれができているか?といえば、なかなか簡単な話ではない。もちろん、「納期が遅れたのは、あなたからの指示が遅かったからだ」といったような形で、あからさまに、責任を擦り付けているような人はほとんどいないと思う。しかし、少しフェイズをズラしてみたとき、言動やそもそもの発想が「他責」になっていないかどうかをチェックしてみる必要はある。たとえば…、

□「指示をいただけないと動けません」⇒先回りできないものかね
□「メールでは送っておいたんですけれど…」 ⇒確認しなかった自分の問題だよな
□「ぜんぜん理解してくれないんですよね」 ⇒説明の仕方が拙いんじゃない
□「ちょっと情報が少なすぎます」 ⇒じゃあ自分で集めようよ
□「いや、そういうふうに書いていたんで、そのままコピペしました」 ⇒そこに自分の考えは?

こうして並べてみると、自分では考えることを放棄し、体のよい言い方で、考えるという行為を他人に委ねてしまっているということが見えてくる。いわゆるライフハックの中には、上手く他人を使うという定石があるが、他人に委ねるとも、責任は自分にあるということは忘れてはならない。他人がくだしたデシジョンの根っこには、自分の責任がぶらさがっているということを忘れてはならない。もちろん正当に責任の所在を主張しなければならないときもある。でもそれはよほどの最終局面のことだ。いちど、すべての原因は自分にある、と思ってみる。ただし、これを重責とか自虐的とか感じているうちは、きっと上手くいかない。や、こっちのほうがなんだか上手くいくよね、自分でコントロールできるよね、という実感をもてるまで繰り返し思うことがポイントになるかもしれない。「非戦」についてはまた別途。まあだいたい似たような話かもしれないけれど。というか、「他責」の話も冴えないので書き直そ。

▶昨日読んだもの
[1]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)

結局、どうも小説という状態ではなかったので「かもめの日」は読まなかった。夜中の2時に読む本は、論理の補助線が明確なほうがよいわけで、だから『国家論』を選んだのだけれど、いまのところはどうも話のヘソみたいなものがつかめきれていない。いったい、佐藤のこの話は最終的にはどこに着地するのだろう。国家は暴力とか、がんばれ社会とか、新自由主義の寂しさといった話はくどいくらいわかるんだけれど、どうもそれだけではないような気がする。柄谷の世界共和国の話が出てきたあたりで、いろいろなものが繋がるのだろうか。いまだいたいスターリンの民族定義のあたりで、そういった断片は、博学の教科書という点では面白いんだけれどなあ。そんなことなので、このもやもやを断ち切るために、今日は佐藤の「新潮」連載の「高畠素之の亡霊」を読みそうな気がする。

◎しっかり水を飲むこと。

2008-01-09 20:57:30 | ◎書
▶今年は、ゆっくり水を飲む。場合によっては咀嚼しながら、反芻しながら。しかもたっぷり飲む。必然的に、ちょっとあいたわずかな時間に、たとえ少しであっても飲めるようにしておかなければならない。だから、つねに水を携帯する。もちろん、不味ければその場で吐き出す勇気も必要だ。

▶同じようにいえば、今年は、手と足を動かす。逆に言えば、手と足を動かしていなければ、眠っているのと同じ。そして、だから足跡をおとす。つねに道具をもつ。

▶昨日読んだもの
[1]「決壊」(平野啓一郎/新潮2月号
[2]「かもめの日」(黒川創/新潮2月号)
[3]「小説と評論の環境問題」(新潮2月号)
[4]『2015年の日本』(野村総研/東洋経済新報社)
[5]『住宅産業100+28のキーワード』(創樹社)
[6]『地頭力を鍛える』(細谷功/東洋経済新報社)

[1]TWIMのときに引き合いにだした平野啓一郎の「決壊」は、毎月、新しい展開と言説があり目が離せない。しかし、今回、沢野崇が悪魔に殺戮される弟・良介の記録DVDを観ている場面では、どうしてもTWIMとのダブってしまった。さすがのTWIMも、殺人者と一般人が対峙し、観念的な問答を繰り返しながらじわじわと死を見せ付けていくといった描写は描き切れていないため(たとえばトシが殺される現場を描いていれば、これに近いものになっていたかもしれないが、そんなマンガは正直みたくない)、そういった意味では、平野の勇気に感銘を受けるが、ある視点からみれば、TWIMと同じことをやっているんだよなあ、という感想は否めない。もっとも、全体を通してみれば、それは「決壊」を損ねるものではないが。[2]なんてのは、ふだんのビヘイビアでは、だいたい読まないことが多いのだけど、入り口が少し面白かったので読み始めてしまった。ただ、ヴォストーク6号テレシコワのくだりが終わったところで、急激に俗っぽく(下手に)なったので、とりあえずページを閉じ[3]の高橋源一郎、東浩紀、田中和生に移動した。今日の夜、もし同じページを開くところができて、テンションが持続したら読み続ける。ちなみに、黒川創という小説家のバックボーンはいっさい知らない。そんな知らない人の小説を読み出し、少し感じるものがあったのは久しぶりで、これはなにかの予兆かもしれない。仕事の都合上しかたなく[4]とか[5]なんかを調べてみるが、真新しい予測はないので、やや困ってしまう。仕事ぬきなら野村総研の予測は、網羅性もあってなかなか面白く読める。しかし仕事ぬきで読むことなんて小説でも書かない限りないなあ、と思ったところで、ならそういう視点で読めばいいじゃんと気づいた。ちなみに野村総研の予測シリーズには『2010年の日本』もあって、そのセグメントに頭が下がる。もっとも、10年版のほうはおもに「雇用形態」「国家財政」「団塊世代のセカンドライフ」「BRICs」の話なので、ぼくが直近で抱えている課題にはますます役立たない。[6]にある「フェルミ推定」なるものも、下手な予測の数を増やすだけで、ここでは決定的ではない。正直、予測はむなしい。

◎『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』

2008-01-07 23:02:32 | ◎読
年末から年始にかけて身体の中の水がおおむね出つくして、それと一緒になんだか、これまでいろいろ考えてきたり、なんとかためてきた知能のようなもすべて消失してしまった。まるで暗記パンを食べすぎて試験前日におなかをこわしてしまったのび太のようだ。

そんな素で無垢な状態で『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』なんて毒を一気読みしたものだから、完全にあてられてしまった。

そもそもTWIMとの出会いは、連載当時99年ごろに遡る。ちょうど東京で一人暮らしを始めたときで、会社からの帰り夜遅く自宅の近所のファミリーマートに立ち寄るのが日課となっていた。そこで毎週水曜日は早い売りの「ヤングサンデー」を立ち読み。ふだんなら、マンガ雑誌を立ち読みすることなんてなく、我慢してためて単行本を買う、というのがマンガに対する立ち位置だったのだが、『殺し屋1』だけは、どうも自分で買う気になれず、だけどストーリーだけは気になって覗いていたのだ。そのとき、もうひとつ気になってサッとだけ目を通していたこの世界への呪詛がTWIMだった。

そもそも、イチと同じように、仕事で疲れた一日の最後に新井英樹はキツいものがある(と当時は感じていた)。明日への活力を充填しなければならない深夜になにも好き好んでネガティブで観念的な言説にふれる必要なんてない。だから、TWIMはほんとにチラリとしか見ていなかった。そのチラリとみた絵が、あるときは凄惨な殺戮の場であったり、あるときは得体のしれない怪獣であったりして、1回の連載を読むだけでは、全体におけるその1号に描かれた狂気の位置づけはさっぱりわからないし、たまたま目にした内容が、この間みたものとまるっきり違っているものだから、あるとき、ついていくのをいっさいあきらめてしまった。

その後、マンガの世界という限定つきだが、TWIMはなにかと話題にはなっていたのだけれど、単行本を見かけることもなく、執心はなくなっていた。ただし、『キーチ!!』を読むたびに、「ああ、あれなあ」とは思い出してはいて、そんな程度だから、2006年に『真説…』が出たことも全く知らず、昨年の11月ごろに、青山ブックセンターの5巻平積みを、不意に見かけたときには「なんと新刊!」と小躍りするような無知蒙昧な人であった。

しかし、この季節はずれの平積みを見かけたのはABCだけで、その後、いくつかの書店をまわってみても、またヴィレッジ・ヴァンガードでも発見できず、ヴィレッジ・ヴァンガードでは、これも完全版『漂流教室』の誘惑に負けそうになるが、なんとかこらえて、でも山本直樹の『RED』には抗えず購って、これも耐力と前哨戦として読んでいるうちに(『RED』の話はまたいつか)、ようやく梅田のマンガ専門の書店にて、わかりにくい棚に眠っているTWIMを大人買い的に確保した次第である。

なぜ、もって回って、TWIMの思い出話のような埋め草をダラダラと書いているのかというと、いわゆる批評のような本論を順序だてて書く気がないからである。TWIMについては、もはやなにをどう言っても、それはどこかで書かれたことのある話であるだろうし、ぜひ読んでください、といえるような根拠はどう考えても発見できない。だから、本腰をいれて「論」的なものを書かない限りは、「読みましたよ」という以外に書くべきことはないわけだ。ただ、それはそれでせっかく読んだのに残念なので、少しだけ素っ頓狂な見方をしてみる。

[1]まず、驚嘆するのは、描かれた夥しい「ファクト」である。ファクトに準拠するのはかなり面倒な作業である。まず仮説を立てて取材をして、その結果、仮説を修正して、そこから有効なものだけを選別して、工数を度外視してていねいになぞらなければならない。また、選別するということは収集した大半のファクトは捨てるということで、ある意味で非対称で報われることのない活動を根気強くていねいに繰り返さなければならない。そのことは『真説…』の本編に挿入された取材ノートを読めばよくわかる。まったくもってストイックな作業だ。にもかかわらず、読者の多くは、そのファクトをなんの気にもとめず読み飛ばしてしまう。たとえば「背景」であり、「距離感」のようなものにいちいち見惚れてはいられない。政治家や官僚の「箴言」以外の台詞にだってそうだろう。またTWINにおいては、そのファクトはリアリティにすら作用していない。そこに荒唐無稽が載せられている以上、もうその時点で本物らしさは達成できないし、新井らしい蛇足の多い書き込みすぎのせいもあって、むしろリアリティを損ねているともいえる。
では、ここまで緻密なファクトは無駄なのか?たんに新井の偏執と拘泥による自己満足に過ぎないのか?その答えは、TWIMの絵から、立つキャラクターをすべて取り除いたときにわかるような気がする。そこに見えるのは、もし何も起らなければ、何もないふつうの冴えない日本の風景だし、冴えないおっさんだ。このなにもない日常が、読む私たちをよりいっそうイヤな気分にさせる。それが、新井のファクトの常套的な成果だ。

[2]新井は、ペラい「物語」に怒っている。また、誰かが覇権にものを言わせて無理やりつくろうとしている偽の「物語」に怒っている。しかし、ペラい「物語」、偽の「物語」に対抗するために、結局は道徳的だがペラい偽の「物語」を創らざるをえない。そして大きな物語をつくろうとして物の見事に失敗した。こんな見方は正しいのだろうか。確かに大きな物語として見れば、壮大な「ホラ話」と照れを隠してみても、やはり力みすぎて失敗しているといわざるをえない。しかし、結果として評価されるべきなのは、TWIMがなにも大きな物語ではなく、けっしてDBに回収されることのない小さな物語のコンプレックスであるということである。何の気なしに、ほぼなんの脈絡もなしにひとコマだけ挿入される市井の人々にすべて物語がある。飛ばした台詞の間にも物語はある。そういったストーリーの直線を断ち切る読みがたさのバックグラウンドを想像せよ、と新井は言う。言う以上は、新井自身もある程度想像しているのだろう。こんなバカ正直なマンガは皆無といっていい。
「全体として神話」みたいな安易なレッテルから逃れてみたときに、少し違った評価軸を立てることができるかもしれない。そういった点では、自ら神話化に向ったエンディングはやはり残念といわざるを得ない。またごく普通の世界に戻る、程度のものでよかった。

[3]こういうのは小説では書けないなあ。と一瞬、かく乱されたけれど、撤回する。平野啓一郎の『決壊』があるじゃないか。分量にして、『真説…』の厚みを超えるまで、今の思想で、小さい物語の集積を書き続けることができれば、確実にTWIMを超える(残念ながらそろそろ終わるらしいが)。殺戮がテーマのひとつになっているだけに、席を並べざるを得ないが、それでも拮抗できるだろう。小説もまだまだ捨てたものではない。『新潮 2月号』掲載分もなんだか面白そうだ。
しかし、たとえ『決壊』がTWIMを超えたとしても、世の中が電報堂的なるものにまみれている以上は、その話題は局所的なものにとどまるに違いない。世界は複雑なのに安易になりすぎた。

◎年末

2008-01-01 17:28:41 | ◎書
■なにしてたっけ?→ご近所と焼肉→日曜日の夜なので控えようとしたけれど、結局、焼酎を何杯も→「ウコンの力」→気がついたら朝→バタバタと新幹線→急遽、降車駅変更命令→八重洲地下街で古本→収穫と発見(R.S.Books)→喫茶店で打合せ→地域商品企画基礎資料分析→エリアイベント社内打合せ→家電系商品プロモーション社内ミーティング→クライアント勉強会下打ち合わせ→地域商品開発会議→社内コンテンスト審査→妥当な線で合意・決定!→BU合同忘年会→27:00まで2次会→タンカレー、ハーパー→「ウコンの力」→確かに効くが睡眠不足には勝てず→短く終わろうと思ったけれど結局長くなってしまった社内会議→勉強会事前資料追加作成→クライアント商品市場予測→社内賞審査→意外とすんなり→えらイベント企画→7:30起床→横浜方面→走って帰社→元クライアント来社→クライアント提出用資料確認→持ち帰り資料準備→ティップネス→GAPでコート→BS『日本のフォーク&ロック大全集』→浜田省吾2回登場→「埠頭を渡る風」はやっぱりいい→元気つけるためウコンの力→再びクライアント商品市場予測→『たかじんのそこまで言って委員会』→勉強会準備→M-1→BS『肉眼夢記~実相寺昭雄・異界への招待~』→ブックオフで予定通りの収穫→今年3本目ののどスプレーとか→温泉→TUTAYAでチャットモンチーの『生命力』→シャンパンいっぱい飲んだので「ウコンの力」→勉強会出張の準備→6:30起床→7:20京都に向け出発→合同勉強会→夜、合同忘年会@祇園→部長の歌の巧さにひるむ→若手舞妓が唄うCD買うas土産→25:30→京都駅前のローソンで「ウコンの力」→法華クラブ→8:00起床→京都から新幹線→会社→クライアントブランド系打合せ→引き合い先に電話、コンペ?→ABC→新商品マニュアルドラフト→朝早いし荷物も多いので23:30に退社→帰宅→東京電力から督促→とりあえず寝る→6:30起床→茨城→商品プロモーション打合せ→駅のフードコートでカレー→ミニミーティング→レイアウト移動→年末の仕事の仕込み→自宅のそうじ→7:30起床→クライアント打合せ→新メンバー来社→働き方についてミーティング→ひさしぶりのもりそば4枚→社内会議→年末仕事の仕込み→芋羊羹→ティップネス→不調→ルル内服液→ふらふらと帰宅→パブロンS→38.0℃→ダメ→ルル内服液→おじや→熱さまシート→少し快調な起床→お茶漬け→コルゲンIB透明カプセル→ビオフェルミン→少しまし→『ダイハード4.0』→『M:I:Ⅲ』→こっちにもマギーQ→かにしゃぶ→腹がダメ→『スパイダーマン3』→これは面白かった→7:30起床→だいぶ良い→餅とか食べる→年賀状起案→昼飯→腹がだめ→激しい膨満感→ダメ→寝る→引き続き膨満感→年賀状の"アイデア"完成→年越しそば→体調悪化→ガキ使→あまりのトイレ通いに自分でもイライラしてくる→2008年→寝る→起きる→実家→おせち→あまり食べられない→復調の兆し→あけましておめでとうございます。


■なに買ったっけ→
[01]『ほとんど記憶のない女』(リディア・デイヴィス/白水社)
[02]『完全読解 ヘーゲル『精神現象学』』(竹田青嗣・西研/講談社選書メチエ)
[03]『謎とき村上春樹』(石原千秋/光文社新書)
[04]『BRUTUS 読書計画2008』(マガジンハウス)
[05]『爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ』(爆笑問題・野矢茂樹/講談社)
[06]『花の回廊』(宮本輝/新潮社)(古)
[07]『静かな大地』(池澤夏樹/朝日新聞社)(古)
[08]『人間を守る読書 』(四方田犬彦/文春新書)(古)
[09]『世界の終わりの終わり』(佐藤友哉/角川書店)(古)
[10]『佳人の奇遇』(島田雅彦/講談社((古)
[11]『滝山コミューン1974』(原武史/講談社)(古)
[12]『真鶴』(川上弘美/文芸春秋)(古)
[13]『下流指向』(内田樹/講談社)(古)
[14]『小林秀雄の恵み』(橋本治/新潮社)
[15]『アメリカン・スクール』(小島信夫/新潮文庫)
[16]『国家論』(佐藤優/NHKブックス)

▶ベーシックな部分で読みたい作家だとかテーマが固定されていて、もうそれだけで量的には満杯なので、ある日突然、だれかに推奨された新しいカテゴリーの本に食いつくことは、たとえそれが高橋源一郎であったとしてもあまりなくなってきた。ただし、[01]の『ほとんど記憶のない女』は違った。id:tokyocatさんのさりげない引用を夕方に読み、いてもたってもいられず、まず、ABCに行くが見つけられず。でもまったくあきらめきれず会社からの帰路、25時前、ABCにないぐらいだからと期待せず立ち寄った閉店間際の渋谷の文教堂で幸運なことに発見できた。繰り返すけれど、ここまで僕を執心させる本はめったにない。やはり予想に違わず好きな小説だった。まあなんかどうでもいいようなことに何回も何回も思考を重ねるさまを綴った乾いた文体。ユーモアのあるサドン・フィクションが取りざたされることがおおようだけれど、僕は「サン・マルタン」にみられるようなbleaknessを、窮乏と破綻を静かに淡々とただ語るだけ、といった話にひかれる。ちなみに岸本佐知子によるとこれはオースターとの同居の話であり、なるほど『トゥルー・ストーリーズ』を読み返してみると「赤いノートブック」に、「サン・マルタン」をなぞる話がある。しかし、オースターの話は、もう後がないというときに必ず突然友人のカメラマンが訪ねてくる、という得意の偶然ストーリーに無理やり収斂させた嫌があり、これに限っては圧倒的にデイヴィスに軍配をあげたい。(しかし、リディア・デイヴィスの『ほとんど記憶のない女』の中の「サン・マルタン」に強い関心をもった同じ月にオースターの『トゥルー・ストーリーズ』が文庫化されるとは、これも信じたくない偶然ではある)▶[02]『完全読解 ヘーゲル『精神現象学』』は、長く予告されていたもの。2人で新訳を進めているのかと、思っていたが、こうきたか。ノートのような書き方なのでフレームをつかむまでは読むのに時間がかかりそうだ。▶しかし、予想外に時間がかかるのが[05]『爆笑問題のニッポンの教養』で、これはやはり文字に落として読むものではないなと感じた。TVプログラムのその場の勢いで理解できることもあるんだろう。▶『世界の終わりの終わり』[09]が2002年、2003年、2004年ときて、その先に2006年の『1000の小説とバックベアード』がある。いちおう著しい成長がみられるわけだが、この文脈の小説をこれ以上書き続けてもどうしようもない。ところで佐藤友哉を特集しているといわれている『ファウスト』はやっぱりでなかったな。▶『滝山コミューン1974』[11]には、高橋源一郎の「感動した」という惹句があり、この手の本で感動するなんてこの人はまたいい加減に褒めているなあと思っていたのだけれど、確かに1ヶ所、ページをめくる手をとめ思わず天を仰いでしまうがあった。欺瞞に満ちたコミューンの中心となった6年5組の生徒も実は当時そのプレッシャーのためにボロボロになっていたということが晒されるくだりなのだが、この1点をドラマタイズするために『滝山コミューン1974』は書き進められたといっていいかもしれない。そういえば、滝山七小ほどではないにしろ、確かに自分の小学校にもなんともいえず、いやな結束を保つクラスがあったし、クラスの代表があつまるいわゆる児童会役員会で、けっして自らの声ではないなんとも優等生的な集団行動の教義を振りかざす女子もいた。原の時代より2年ほど後なので、おそらく特定組織による運動は終焉に向っていたのだろうけれど、同じニュータウンということを考えると残滓はあったのかもしれない。いつか「青山コミューン」を。しかし、原の記憶力には驚くし、小学生にしてあの思考力というのは信じがたいな。▶[14][15][16]と、年末ぎりぎりに良い本がでた。