考えるための道具箱

Thinking tool box

時間がとれたので本屋・古本屋を巡る。

2005-05-29 16:36:07 | ◎読
先週あたりから柴田元幸の『アメリカン・ナルシス』を迷っているんだけど、大阪の普段使いの店では在庫している由もなく、結論の出にくいムダな迷いを来週に先送りできた。なぜ、逡巡しているかというと、まずスチュワート・ダイベックや、スティーブン・ミルハウザーに比重がおかれているとすればちょっと関心外だなあとというのがひとつ。ダイベックは読書体験もじつは興味もないし、ミルハウザーも何冊か読んではいるが(というか邦訳は全部読んでるか)あえて偏愛リストにいれるほどの作家でもない。もうひとつは、柴田先生は本職に反してやはり翻訳の人であり、読書の愉しさを伝える人であって、アメリカ文学への愛が勝ちすぎる批評・論評のは新しい切り口がないかもしれないというインプリンティング。過去に書かれた論文を一冊にまとめた、というふれこみだが、このボリウムが全てだとしたら、いささか学業としてはこころもとなく(でもふつうの大学助教授なんてこんなもんか)、斜め読みする限りでは、過去のどこかのエッセイかなりなんなり(例えば『アメリカ文学のレッスン』『愛の見切り発車』)で目にしたことがあるような論が多そうなのも気になる。いっぽう、メルヴィルやポー、フォークナー、さらにはドライザーやサリンジャー、ピンチョンはもとより、オースター、エリクソンなどの十八番までにふれる網羅性はやはり魅力的である。とりわけカーヴァーについて章を費やしているのも興味深い。うーん、来週はきっとしかるべき書店で購入してしまうだろう。バース(ジョン)や、バーセルミ(ドナルド)(※)なんかにもまなざしが向けられていたら、言うことないんだけどなあ。

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ということで、まず京橋の紀伊國屋書店では、迷いもなく加藤典洋『僕が批評家になったわけ』。岩波の「ことばのために」シリーズの一冊で、高橋源一郎のやつはいつになるんだ、というのは置いておいて、こちらも心待ちな一巻ではあった。意外にも「内田樹」に多くのページを割いていたりしているし(電子時代に水を得た人として、また『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』への取り組みスタンスなど)、ヴァレリーの批評家としての小説『ムッシュー・テスト』を軸に小林秀雄、『徒然草』と次々に考えをハイパーリンクさせていくあたりはとても面白そうだ。加藤典洋は『言語表現法講義』以来、『敗戦後論』を経て、その論が正しいかどうかは別として、またいささか批評が謎解きレベルに堕していることは置いておいて、ぼくがわりと信頼している批評家である。『僕が批評家になったわけ』は、彼の批評家としてのバイオグラフィとディスコグラフィをまとめているようなところもあり、その点でも愉しみである。

愉しみな書を買えば、まずそれを読むことに時間を費やせばいいのだが、最近、もっぱら時間貧乏性になってしまっているため、少しでも時間ができた、このときとばかりに、北摂あたりの古書店や新古書店を車ではしごし買いだめをおこなう。江坂の天牛書店は、いつも無断でとめさせていただいていたショッピングビルの青空駐車場が、あろうことかわずか一ヶ月程度の空白を経て、TIMESの有料駐車場に様変わりしていた。観念してゲートをくぐるも、時間に迫られ古書店を鑑賞するのは、精神衛生上よいわけはなく、早々に退散。内田樹訳のレヴィナスの『タルムード四講話』(ポリロゴス叢書、国文社)といった珍しい本もあったのだが、レヴィナスのオリジナルはたぶん手に負えないだろうとあきらめる。それ以外は、じつは魅力的な本がなく、最近の天牛書店の打率の低さを嘆く。

変わって、最近、意外と高打率なのが新古書店「古本市場」。いわば子ども向けのブロックバスター古本屋なんだけど、北摂に限って言えば、同じ新古書店でも、膨大でムダな空振りが多い「BOOK OFF」に比べ、コンパクトなスイングにもかかわらず格段に効率よくヒットをかせぐ。たとえば、今回は(1)堀江敏幸『回送電車』、(2)柴崎友香『きょうのできごと』、(3)舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』(4)『ドカベン スーパースターズ編 2巻』。ぼくにしてみれば、サイクルヒットくらいの成果ではある。

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(1)じつは、いま『河岸忘日抄』を半分くらい読んだところなんだけど、これがかなり魅力的な小説になっている。堀江敏幸は、きっと別の堀江との対比で浮き彫りにする図式がわかりやすいのかもしれないが、じっくり生きること、迷い惑い思考すること、ささいな出来事や本を契機に考えを巡らせていくことの豊かさを描写する日常だけで一冊の小説になるとは驚きだ。『河岸忘日抄』については、もちろん中俣暁生が言うように係留されている船の上での移動可能性を孕んだ仮寓の「位置取り」について論を巡らせるという読み方もできるかもしれないが、ここはやはり、帯の惹句にあるように「停滞と逡巡の豊かさ」をごくシンプルに愉しむべきだろう。この愉しみを連鎖すべく堀江本(!)を探していたのだがエッセイ集『回送電車』が見事にヒットした。しばらく集中的に堀江敏幸を読んでみたい。その魅力についてすこし書き出してもいるので、またいつかエントリーしてみる。
(2)ずっと機会を逸していた柴崎友香をようやく。小説の推進力をエキセントリックな素材に求めるのではなく、描写と思考と会話の巧みさに求めるスタンスは、堀江敏幸同様であり、つまりは保坂和志同様ということなのだが、よこしまな分析欲をもたずに純粋に小説を愉しみたければ、やはりこういった言葉のたくらみに無心に身を委ねるのが正解ではある。なんの用事もオブセッションもない1日に、ゆっくり読んでみたいところだ。柴崎については、通読したのはちょっとした短編だけなので、評価は尚早すぎるが、冒頭を読む限りでは、ごくふだん使いの関西弁の巧さにより一気に小説世界に突入できた。
(3)いっぽうで読書を愉しむことが仕事の読み手としては、手に取る作品のバランスが必要ではある。静謐で遅滞する小説があるのなら一方でガジェット感とドライブ感のたっぷりの小説もあるわけで、2つを補完しながら読み進めると小説への飽くなき慈愛が持続できる。じっさい、いまぼくはいま、先に触れた『河岸忘日抄』と、マチーダ・コーの『告白』を交互に読む小説の日常を過ごしているのだが、表面的にはまったくことなる2つの小説を例えば日替わりで読み続けられることはおおいなる愉しみとなっている。じつはこの2つの物語の主人公は、そのためらい・停滞・思弁・繰言という点で深い共通点もありそんなことを考えながら読むのもまたいい。といったこともあり、堀江敏幸と舞城王太郎を対で買うというわけだ。
(4)最後は漫画。残すところ11巻のみとなった『のだめカンタービレ』『ハチクロ』を探索するも見つからず。せっかくなので『ドカベン』を。『ドカベン スーパースターズ編』は、ドカベンオールスターズが集まるにもかかわらずストーリーが安直で読んでいなかったのだが、最近の少年チャンピオンの誌上で真田一球が楽天に入団したことを知り、そんな展開なら、と単行本を集め始めた。少なくとも「プロ野球編」よりは面白い。御大の紫綬褒章にも敬意を表しつつ。

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(※)この間、自宅の書棚を整理していたら、バーセルミの作品がたくさんでてきた。でも、これを一から読む気力はいまはないなあ。売ったらきっと高値がつくんだろうなあ。



棚から牡丹餅。

2005-05-25 00:26:41 | ◎聴
のっぴきならないファミリ・アフェアにより、娘と一緒に大江千里のライブにいくことになった。ぼくも娘も彼のことはよくわかっておらず、このふたりの参入により貴重なチケットが入手できなかった人には申しわけない、って殊勝なことは、当日券も残っていたので、あまり考えず、行った以上は行けなかった人のぶんまで楽しもうと臨んだわけです。

大江千里という人は、不動産評論家のようなことをしていたり、なんかようわからん番組の司会をしたりしているので、ようわからん人になっているけれど、じつは1983年のデビュー以来、山田洋次監督のものを初め数え切れないほどの映画に出演したり、NHKの連ドラは当然のことながら、そのほかのトレンディっぽいドラマで準主役を努めたり、超人気長寿番組「トップランナー」のパーソナリティーをつとめたり、家と不動産についての薀蓄本を書いたり、といった広範囲なマスコミ活動を旺盛にこなしつつ、その合間を縫って引田天功のスーパーイリュージョンの音楽プロデュースをしたり、NHK受信料徴収キャンペーンCM曲つくったり、光ゲンジやドラえもんのために曲をつくったりしていた、ほんとうにようわからん人なのだが、驚いたことに、さらにその合間を縫って、コンスタントに自分のためのアルバムを創作し続けている(どうやらこれが本職らしい)。そして、同時に、ライブツアーも毎年とはいわないまでも確実に遂行しており、よくよく考えてみれば、ものすごいおっさんではある。あいからわず見た目はおっさんではないけれど。近くで見ればおっさんか。

このマルチぶりに敬意を表して、「SENRI OE CONCERT TOUR “ゴーストライター ミーツ Senri”」のライブ評にしたいところだが、残念ながらわたしは書けるほど見識と経験がある輩ではない、つまりほざく資格はないので、ライブで拾った牡丹餅について。いや牡丹餅なんて言い方はたいへん失礼だ。

ライブじたいは、ギター、ベース、ドラム、キーボード兼コーラス兼パーカッションの4ピース+大江千里(vo.兼 key.兼 ものすごく長いMC)からなる構成で、新しいアルバムの『ゴーストライター』の曲が、plugedだがunplugedのようにシンプルにプレイされており(定番の盛り上げ曲をのぞく)、ムダに長いMCを除けば、それはそれで予想に反してよい感じではあった。しかし、そのよい感じを二の次にしてしまうようにステージの端できらりと光るものが、ぼくの目と耳を釘付けにしてしまった。

それが牡丹餅、ドラムスのパフォーマンスだ。いや牡丹餅なんて言い方はやっぱ問題だ。聞けばその男の名は坂東慧、弱冠21歳。坂東クンと呼んでもきっと失礼にはあたらないだろうマイルドで物腰柔らかいキャラクターからは想像もできないタイトで強いバチのさばきは、演奏開始早々、素人目にもなんだか凄いと気づかせてしまった。力強いだけでなく、バラードでのブラシの扱いにも情がこもる。それもそのはず、坂東クン、2004年からT-SQUAREの正ドラマーなのだそうだ。それもそのはずだわ。なんで、こんなとこにいるんだあ。

T-SQUAREとえいば去年か一昨年か、カシオペアとの合同ライブを聞いて以来で、そのときは(あいかわらずの神保のドラム以外)とくに感慨もなかったのだが、新加入した彼のことを知った以上は、ちょっと新しいアルバム『PASSION FLOWER』ってのを聴いてみたくなった。と思って、ソニーのサイトで試聴してみたが、聴ける曲を聴いた限りでは、正直よくわかんない。ドラムが前面にでた曲が収録されていることを期待しつつ、そして彼が牡丹餅であることを期待しつつ、まずTUTAYAを巡るか。



ちょっと最近更新が滞っておりますが、けっしてBLOGをやめたわけではないので、エクスキューズを。これまでは忙しくても、なんとか時間を見つけて書けるか、と思っていたんだけど、それは、本質的に忙しくなかったからであって、本質的に忙しくなると書けないということがわかりました。つまり、この1週間は本質的に忙しかったということで、いくつかテーマはあるんだけど、書き始めてみては、そこにまとまった時間がとれるのなら眠るべきということに気づき頓挫しておりました。いまの時季はもう夜中の3時くらいから明るいんだねえ、と感慨深くイラつく日々が続いていたわけです。
たぶん、この本質的な忙しさは今週一杯は続きそうなので、まとまったものは書けないと思います。ときには、こういったスタンスのアナウンスもあげつつ、なんとか時間が与えられることを祈りたいと思います。まあ、こんなエクスキューズなんて、そもそも必要ないのかもしれませんが。


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↓本読む時間をわけてください。
↓本&読書のblogランキングのみなさま。ああ。


Go!Go!コンビニライフ。

2005-05-18 00:12:02 | ◎読
ローソンなら「炙りチャーシュー丼」、「かに玉の黒酢あん」に「牛丼」。セブンならみち子の空弁「焼きさば寿司」。なによりワン&オンリーな「富しげ こだわりの柿ピー(※1)」。am/pmなら「とれたてキッチンおこめサンド」で最近気になるのは今日から発売の「銀座天國監修 大海老菜盛天重」、サンクスならいまは影を潜めた「豆パン」ほかシュガートーストなどの「ベーカリールネッサンス」に「銀座梅林カツサンド」。加えてコンビニ限定(※2)「ヘルシア緑茶&烏龍茶350mlボトル」常用……

わりと忙しい職場で、単身赴任のような生活をしているため、はっきりいってコンビニ漬け。だからといって辟易しているか?というと、そんなこともなくフリークでもある。先にあげた商品なんてじつはかなりのお気に入りだったりする。平均して日に2回ほど行く店内では、メンタルなビジネス・アフェアが浄化されたりするんじゃないかとも感じている。この歳になって情けない限りだけれど。

もちろんコンビニの中食は風評的には、身体にいいものなんてひとつもないと言われているわけだが(※3)、それでも、「野菜が採りたいのならコンビニでたんまりサラダ買えばいいじゃん」とか「外食より栄養バランスがとりやすい」などといいふらして、自己暗示にかけようとしているわけだ。

大阪の自宅に帰れば、ほんの近所に関西で2店目となる赤ローソン(※4)もオープンしたため、自己正当化にも拍車がかかる。「おい娘!むしろコンビニエンスストアのナチュラルのほうが進化しているのだよ。」とかなんとか。

しかし、こういった言動は強がりの虚勢なわけで、コンビニを常用しているという行動原則は、なんというか、そこはかとなく、誰にともなく後ろめたさが感じられてしまうのもまた事実ではある。依然として「コンビニ」といえば、極彩色のB級ヒールではある。

しかし、ようやく、その気まずさを払拭できるときがやってきた。あの天下の朝日新聞が発行する、『AERA』なる雑誌が、メインストリームとしてのコンビニを特集する増刊号を臨時に緊急発売したのだ。あの30代知的ビジネスウーマンに人気の高い『AERA』だ。題して『Go!Go!コンビニライフ』。一冊丸ごとコンビニライフ特集まるごと152ページ。よくぞやってくれた!もうこれからはコソコソ隠れてコンビニに行く必要もなくなるし、「毎晩、コンビニ弁当ですよ」と自嘲しなくてもよくなるし、胸をはってジャンクな香りいっぱいのカウンターフーズを買い食いできる!………って……書いててだんだん虚しくなってきたわ。こんなこと書いても、なんの意味もなんの価値もない。べつに『AERA』が取り上げたからといってとりたてて騒ぐことなんてまったくもってない。だいたい、ほとんど広告特集じゃねえか。そもそも、いまさらなんだよなあ。

と、いっても、そこは流石に『AERA』。あまたあるコンビニエンタメ雑誌とは、少しは異なる切り口で迫っている。ふんだんなテキスト量は読み物としてのコストパフォーマンスも高いし、エディトリアル(デザイン含む)も巧い。
メイン記事は『コンビニとわたし』で、「お題としてのコンビニ商材 →じつは隠れコンビニファン著名人の語りエッセイ →当該商材にのぞむ各社の心意気」で構成されているもの。たとえば「おにぎり →鳥越俊太郎 →セブン」、「麺 →ソニン →am/pm」、「お酒 →寺島しのぶ →アサヒビール(極、ワイン)」、「サンドイッチ →イッセー尾形 →セブン」、「カウンターフーズ →舞の海 →ファミリーマート」ってな感じ。そのほか間をぬって鈴木敏文はじめ各社『トップに聞く』、“着色料などの添加物がたっぷりなのでは?”とをはじめとした辛辣な『コンビニへの8つの疑問』、お笑い芸人による『30日間コンビニ食本当に生きていけるか』、仕入部隊の仕事をみる『こだわりの現場』などなど、総合コンビニエンターテイメント雑誌となっている。

吉本隆明、茂木健一郎の語り『私はコンビニをこう考える』なども愉しい。前者は吉本家のキッチンの歴史をユーモアをまじえながらひもときつつ、現在歩行が不自由になっている吉本が「300メートルほどのところにあるコンビニにたどりつけ」るようになったら、現在は食事制限もあるんだけど「キャラメルとか甘いお菓子を買って食べたい。もちろん家内には内緒で。それにうちのネコさんにはポテトチップを買ってあげたい。僕用のカロリー控えめの味のないクラッカーには見向きもしなくなっちゃたものでね」と、コンビニの愉しみを彼の不屈の精神をトレースしながらやわらかに語っている。茂木は、「セレンディピティ(偶然の発見)」、流通界のグーグル、消費行動の認知的不協和などの考えを提起しながらコンビニの現在をうまく定義している。

こうしてみると、コンビニには重層的な物語が発生しているようで、カルチュラル・スタディーズの対象としても輝いているわけではある。うそ。そこは、やはり企業のフォーマットというかマニュアルに則っているわけで、じつはあまり文化的な発展性がない。もっとも、『AERA』で紹介されているような「おもしろコンビニ」、アジアのコンビニ、根室のコンビニなど、亜種というか突然変異がでてくるとか、「書原」とか「ヴィレッジ・バンガード」みたいにあたかもフランチャイジーの(店主の)裁量が活かされているかのように見える店なんかがでてきて、そのことを売り物にしているチェーンなんかがでてくると面白い。高度なチェーンオペレーションがバックヤードで流れている駄菓子屋ってところか。いや面白くないか。まあいいや。

物語の場という側面としては、たとえば『アフターダーク』での携帯放置シーンや龍の『空港にて』(※5)、『ストレンジ・デイズ』などの小道具としてのコンビニを並べてみるってのも面白いかもしれない。そこに『四十日と四十夜のメルヘン』のスーパーマーケットとか、阿部和重の『新宿ヨドバシカメラ』なんかも対置したりして。面白くないか。まあいいや。

この巨大で、ある意味露悪的なB級ガジェットが、どこまでも悪趣味化することを、適当に願いつつ、本日はサンクスの新製品「親子重」。ここまでふんわり半熟っぽくできるなんて驚きだわ。味もOK!紅しょうがの使い道に困ったけど。


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(※1)ご存じ、亀田やでん六なんかけし飛んでしまうナンバーワン柿ピー。ピー柿か。
(※2)もちろん最近では駅売店でも入手可。しかし、依然として近所の偽コンビニ(ミニスーパー)には、卸してもらえないらしい。もうそろそろいいんじゃないか、と思うけど。
(※3)『AERA』によると、ほとんどのコンビニでは弁当に保存料や合成着色料を使っていないらしい。むしろそういったことに気をつかうぶんコンビニ弁当のほうが安心とも。また自己正当化のネタが増えた。
(※4)言うまでもなく「ナチュラルローソン」。これまでローソンといえば、店内に在庫のダンボールが放置されていたり、いっぽうで決定的な欠品が多かったりして、まさにダイエーの遺産を正しく引き継いでいたのだが、経営が三菱商事に変わりずいぶん改善されてきた。もっとも新浪社長に交代後、すぐに店頭が変革できたわけではなかったのは、なにかに絡め取られていたからか。多くの店舗が少なくとも「きれいに」なってきたのはごく最近だ。その極にあるのが「手作りパン工房つき」の「ナチュラルローソン」であり、(店員の多さは気になるとしても、また近畿の当該店に限って言えば)ある程度のホスピタリティは達成できている。高い集客力も維持できている。ただし、このモデルが関西でうまくいくかどうかは、同店(もう言ってしまいますが服部緑地店)の成功により判断できるものではない。なぜなら、服部緑地店はあらかじめ成功が約束されている立地であるという出来レースだからだ。分譲マンションが林立し続けているにもかかわらずナショナルなコンビニ不在。いわゆるスーパーは徒歩でいくにはほど遠い距離。近所に小学校・中学校・服部緑地。これ以上の場所はないのではないか、というくらいの好立地である(ディベロップと交渉には敬意を表す。ただしここを選んだのは、じつはローソンの第一号店が豊中市だった、というウエットな理由かもしれない)。近々、近くに別のコンビニが出店するらしいがもしこれが「ファミマ!」とかであれば、面白いんだけどなあ。「ファミマ!」のコンセプトなら住宅街という立地は厳しいんだけど、あのあたりがコンビニのテストマーケットゾーンになればフリークとしてはこのうえのない喜びであはある。
(※5)『どこにでもある場所とどこにもいない私』改題。たぶん改悪。


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↑僭越ながら「◎ブックガイド」カテゴリー
↑とさせていただきました。よって
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シティボーイズ・プレゼンツ。

2005-05-16 00:31:12 | ◎書
この店にないのは客、そしてパッション。パッションそれは激情、情熱!だからパッション・ショー!叫べ義太夫、踊れフラメンコ、はたけ手ぬぐい、まわれ回転寿司!パッション!パッション!ニコール・キッドマン・ショー!にチャーハンショー!そして燃える不動明王ショー!

スキル王とメンタル王のソリューション対決、堤防の決壊をとめるのはどちらだ!?……いくら入念に技術のシミュレーションを積み上げても本番に弱いスキル王、世の中はイメージトーレーニングにいかないメンタル王。さあ、溢れでる水をとめるのはどちらだ?そこにあらわれたのは猛り狂うトラ。さあ、旅人を救うのはどっち?

覚えていますか?お台場で起こったあの素っ頓狂な事件。柱に追突した車から凶器をもって暴れ出て猛スピード追いかけてきた暴漢に思わず蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった警官たち。結局、逃げ切った先は、熱海の場末の温泉旅館。どのTVニュースでも流されるのは、自分たちの無様な逃げる見本のような映像。「ああ、俺たち、なんで逃げちゃったんだろう」。

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ご存じ恒例のシティーボーイズミックスが今年もやってまいりました。や、僕的にはほんとに恒例で、『愚者の代弁者、うっかり東へ』(1995)以降、『パパ・センブリチータ』(2002)をのぞく毎年ライブにいっているためかれこれ10年にもなる春の恒例行事なわけだ。

今年の『メンタル三兄弟の恋』は、なんでも今日の大阪公演(シアタードラマシティ)までにすでに東京で17公演も行っているらしいし、毎年のライブはWOWOWでも放映されるため、そういう意味ではまあ説明の必要はほとんどないとは思うけど、いちおう念のため「シティーボーイズ」という存在に対して80年代あたりで記憶がとまっている人のためにまとめておくと…。

大竹まこと、きたろう、斉木しげるからなる洗練されたコント集団。日常的にはそれぞれ別々の行動をしている。大竹はバラエティ派?なぜか「大阪ほんわかテレビ」なんかのレギュラー。きたろうは、バリエーション豊富で、クドカンのドラマに頻繁にでているし、このあいだなんかは、NHKの「名作平積み大作戦」なんかで芥川の「歯車」を推していた(今回の公演でも少し「歯車」のモチーフに触れていたし)。いっぽうの斉木は、というと、まあ一般的にはパチンコの斉木として知られているね。3人のなかでもっとも破天荒で大技、被り物好きの芸風はじつは人気が高い。しかし、こいつはちょっとこまったもんで自己破産なんか噂も出たりしていた(真相は知りません)。

で、この3人が、毎年いちど「シティボーイズプレゼンツ」という名の下に集結し、毎年代わりでゲストを加えて、シュールで不条理なコントライブを行っている。ゲストは、もうほとんどレギュラーとして4人目のシティボーイズとなっている中村有志のほか、いとうせいこう、YOU、五月女ケイ子、犬山犬子、野宮真貴、チョップリンなどベテランから新人まで。僕が唯一観ていない『パパ・センブリチータ』のときもそうだったんだけど、最近は、どうやらチケットが入手しにくくなっているようだ。

ちなみに、過去の作品は、(たぶん)すべてDVD化されている。

【1】 RETROSPECTIVE-CITYBOYS LIVE![BOX1]
『鍵のないトイレ』
『愚者の代弁者、西へ』
『ゴム脳市場』
【2】 RETROSPECTIVE-CITYBOYS LIVE![BOX2]
『愚者の代弁者、うっかり東へ』
『丈夫な足場』
『NOT FOUND』
【3】『真空報告官大運動会』
【4】『夏への無意識』
【5】『ウルトラシオシオハイミナール』
【6】『ラ ハッスルきのこショー』
【7】『パパ・センブリチータ』
【8】『NOTA~恙無き限界ワルツ』
【9】『だめな人の前をメザシ持って移動中』

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で、今年の『メンタル三兄弟の恋』はどうだったか、というと…。【以下、ネタばれ含む、ってもう全公演終わってるのかね】
冒頭にあげたプロットのほか、「妄想脅迫観念3兄弟――自分が振付師としてダンサーたちを指導しているという妄想を秘密にしている三男、自分の家をつっかえ棒として支えているサラリーマンがいるという妄想を秘密にしている次男、自分はホログラムではないかというオブセッションを秘密にしている長男」、「思いがけずあまった時間に、思いがけずあまった時間の使い方を議題にあげるサラリーマンのむなしい会議」、「武装サラリーマン川柳」、「3人の精神科カウンセラー」、「停止してしまったリフトで宙吊りになってしまった3人の詩人」、「巨大なホログラムになって富士の裾野で漫才をするふたり」……
といった具合に、コンセプトは相変わらず病的で狂気だ。

こう並べるともの凄く面白そうなのだが、じつは今年は、観念的になりすぎたのかどうか爆笑という感じではなかった。これまでの舞台を見続けている人であれば、バリエーションのひとつということで、じゅうぶんに許容範囲ではあるんだけど、もし今年初めてという人がいて、さまぁ~ずとかアンガールズのライブのようなものを期待していたとしたら物足りなさを感じたかもしれない。

じっさいに、ここまで秀逸なコンセプトが提起できたなら、もう少し深く、くどく突っ込んでくれてもよかったと思うのだが、まあコンセプトに敬意を表しましょう。恒例の斉木の被り物、不動明王は、赤いタイツでぼうぼう燃える炎をしょってるとこなんか、そうとうおバカだけど、昨年(一昨年?)の身体じゅうにホースをまきつけたホース親善大使に比べると賢く納まりすぎているか。でも、彼自身はカーテンコール後にワンマンショーの時間があったりして、かなり満足しているところでしょう。

あとは体力面ですかね。身体がついてこれないドタバタをフォローするために若き女性ダンス演芸集団「のろま会」などを投入するも、本質的にはやはり彼ら自身がぜいぜいやる、ふとん祭りなどのほうが楽しい。まあ、あれから10年15年って考えるとやっぱりきつく、これからもこういう武闘部門はだれかが担うことになるんだろうなあ。武闘といえば、「武装サラリーマン」における中村有志の鍛錬シーンは相変わらず凄まじい体力系なんだけど、本人によると、どうもそのまま自分の日常らしく、ここは来年も再来年も期待できそうだ。力みすぎで突然死しない限りは。

斉木が、「来年は日本でライブはやらないかもな。」とかいっているのでまあ来年もたのしみだわ。


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↑中学生の娘と行きましたが、
↑やっぱ少し観念的にすぎますかね。
↓文具や本&読書はまたいつか。


団塊/団塊ジュニアのほんとのところ。

2005-05-13 00:25:00 | ◎業
ほんとのところがどうか?というのはまあ別として、納得性の高い世代ラベリング2つ。
ひとつめは、5月11日付「日経流通新聞」の団塊ジュニアの調査から。よくよく読むと調査したのは『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)の三浦展氏のカルチャースタディーズ研究所で、同書で提起されたコンセプト(地方の郊外化)も、現実に照らし合わせたとき納得性が高かったけど、今回の団塊ジュニア調査も、これまでの分析に比べ、より現実的のような気がする。カルチャースタディーズ研究所のWEBサイトをみると、この調査は継続しているようなので、少し追跡してみたい。

調査の内容は、以下の3ポイントにまとめられている。
(1)団塊ジュニア男性の48%は自分の属する階層を「下」と認識
(2)「独身貴族」は過去の存在。ただしパラサイト女性だけは例外
(3)「自分らしさ」志向は低階層の特徴。このタイプの消費者を狙うのは危険な戦略。


これまで、団塊ジュニアに対して、とってしまいがちだったマーケティング戦略とは、わりと逆に近い分析といえるかもしれない。つまり「団塊ジュニアはこだわり層、好きなものには金を使う」とか、「自分らしくありたい、という意識を狙う」とか、「(こだわりの延長としての)シンプル志向」とか、「30代のパラサイトがターゲット」といった発想への安易さを戒める形となる。

とりわけ「自分らしさ」とか「わたしらしく」とかといったコミュニケーションの問題。調査によると、「あなたが生活全般で大事にしていることは何ですか」という設問に対しその選択は、
◎団塊jrの高階層→「ゆとり」「仲間・人間関係」、「活動的・アクティブ」、「創造性」
◎団塊jrの低階層→「個性・自分らしさ」
ということらしい。この部分の心理に、ある種のルサンチマン的なものが働いているのか、といったところは、今後調査を継続していただきたいところだが、結果そのものは興味深い。

言ってしまえば、まあ金がないのはわかっていたが、「ほんとうに厳選した好きなものにしか金を使えない」、「金がないからシンプル」、「30代になってもパラサイトしている男性はプア」で、ほかを気にしてもしようがないから「自分らしく」あろうと思う、というところまでの理解の仕方に変換する必要があるということだろう。まあ、すくなくとも、これからは安易には団塊jr向け商品は開発できないだろうし、コミュニケーションに「わたしらしく」とかいったテクストを使うことに慎重になったほうがいいかもしれない(※1)。

いっぽうで、団塊世代においては逆に「高階層ほど個性・自分らしさ」志向が顕著らしい。つまり、備蓄を「個性的なもの」「自分がほしいもの、やりたいこと」に使えるということだろう。そうすれば、この2つの親子世代をうまい具合にくっつければいいいじゃん、という発想は容易に導きだせるわけだが、じつはこれも現実に即している。

親の世帯から子の世帯が、経済的支援を受けるというのは、ごく常態化しているということだ。大きなものでは住宅購入資金。小さなものでは、月1~2回の世帯揃っての外食。さらには、子の世帯ではプラズマなんて到底買えないけど親の家にいけばあるので、週末はDVDを見に行く、とか。

みんながうすうす気づいていたこのことを「平成拡大家族の近居」というコンセプトとして提起したのが電通(電通 消費者研究センター)の分析。数年前からコンセプト化していたものが、このたび『団塊と団塊ジュニアの家族学』(電通)にまとまった。これが納得性の高い世代ラベリングの2つめである。

同居はしないが近居。近居することによって互いいメリットを補足しあえるという新しい形の共生(共棲)ということだが、30-40代の世帯の方であれば、その親世帯の関係のなかで思い当たる方は多いかもしれない。じつは、わたしもそうだ。子どもの服を買ってもらったり、ときには旅行のオーナーになってもらったり。月に1~2度は、車で20分程度のところにある両実家に飯を食いに行く。場合によっては外食。これが、当家の特殊な事情かと思っていたらそうではないようで、マンションの近隣もそうとうな頻度で訪問しながら、実家との関係を濃密にしているようだ。

電通消費者研究センターによる「平成拡大家族」の条件は、
(1)親の世帯と近居していること
(2)30歳までに結婚し、30歳前後に第1子を出産していること
(3)親が健康で、子どもの世代よりも経済的に豊かであること
(4)共働きや出産など、親が近居して支援してくれなかったらできないかったようなことに挑戦していること


で、調査個票を「平成拡大家族」として識別した条件は
(1)子どもがひとり以上いる人
(2)実母がいる人
(3)自分の両親との距離が徒歩20分以内または電車や車で1時間以内の人
(4)自分の両親と近居していることを「良かった」と評価している人
(5)自分両親が自分の世帯よりも経済的なゆとりがあると答えた人


ということで、まあ簡単に言ってしまえば、これからは、「消費の単位をこの近居家族でみる」というパタンも必要だ、ということだが、先のプラズマディスプレイとか、住宅建築とか、高級ミニバンなどにおいては、現実的にこのターゲティングが行われていることだろう。「パラサイト“家族”」とか「スープの冷めない距離から、アイスクリームの溶けない距離へ」みたいなワーディングは、まあ面白い(後者は、いささか、どっちがどっち?という分かりにくさはあるけど)。

これまで団塊・団塊ジュニアの価値観・志向性の概観を知りたいときの書籍といえば、いつまでたっても『「団塊」家族 12のキーワードで読む団塊世代と団塊ジュニア』(読売広告社/(財)ハイライフ研究所、PHP研究所)しかなかったわけだけど、ようやく『団塊と団塊ジュニアの家族学』に代替わりですかね(※2)。さすが電通。


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(※1)では、三浦展氏自身の著書で「マーケティング戦略のねらい目はここだ」と称された『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』(中経出版)はどうなるか?と思うが、タイトルしか読んでいないのでなんともいえない。本文では警鐘を鳴らしているのかもしれないし、うわさでは「偽団塊jr」とか「真性団塊jr」といった概念化もあるようなので、じつは今回の調査の原点なのかもしれない。さいわい手元にあったので読んでみよっと。
(※2)『団塊と団塊ジュニアの家族学』は、「CFにみる家族像の変遷」といった手前勝手なコーナーもあったりするわけですが、「平成拡大家族」だけではなく「団塊世代」の価値観・志向性などもコンパクトにまとめていたりするので、全体像把握と仮説の仮説だてにはかなり有効です。


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↑たまにはマーケの材料も
↑あげとかないとね。
↓文具や本&読書はまたいつか。


DEVILS & DUST。

2005-05-11 16:19:15 | ◎聴
BRUCE SPRINGSTEENの『Devils & Dust』発売と浜田省吾のアリーナツアー『ON THE ROAD 2005 MY FIRST LOVE』告知。広告が奇遇にも11日付朝日新聞(東京・朝刊)の社会面記事下で並んでる。よく知らない人がみたら、マッチョなふたりが並んでいると勘違いされそうだなあ。

ブルースの惹句は「名盤『明日なき暴走』(※1)から30年、そして感動の初来日公演から20年目となる2005年。ブルース・スプリングスティーン通算20枚目となるオリジナル・ニューアルバム緊急発売!」。って、ちょっと迫力ありすぎ。これ見て、『DEVILS & DUST』で、初めてとか、久しぶりにブルースを聴いた人は、そのギャップにとまどうんじゃないだろうか。つまり、けっしてマッチョではないということだ。

『DEVILS & DUST』は、事前のアナウンスどおり、静かに囁くアルバムである。そして、その詞をダイレクトに理解できないかぎりは、本質的な良さがわからないものである。もちろん、僕はダイレクトに理解できないので、歌詞カードや翻訳や周辺情報(※)を首っ引きで、各国のチャート初登場1位のイメージを実感しようとしているわけだ。

よって、あまりたいした意見はいえないけれど、全体としては、たとえば『the ghost of tom joad』に比べると、楽曲・楽器のバリエーションが豊かで、かつそれぞれが効果的に使われているため、初聴から、いいアルバムだということが伝わってくる。オルガンやストリングス、リズム楽器のたくみな起用により、歌詞に沿った静かな力強さが如実に伝わるものや、いっぽうで、「wreck on the highway」のようにある種のカタルシスを感じさせる曲が多く収められている。「lift me up」以来のフルファルセットもあったりして、E street bandとのセッション並みに、曲の幅を愉しめる。

とうぜんのことながら、詞も思弁的かつ物語性にあふれていて、ブルースの発想の豊かさと、この世界に臨む抵抗が正しく表現でている。とりわけアルバムタイトル曲でもある「DEVILS & DUST」は、音もさることながら、詞についても『The Rising』の「PARADICE」のような物語と思想(自爆に向かうテロリストの心象)をうまく引き継ぎ、解のない問題に対峙して極限まで想像力を働かせることの大切さを表現した素晴らしいものである。

いずれにしても、ブルースのファンであれば、新聞広告の惹句そのままに心に残るアルバムであり、これを聴きながら、『the ghost of tom joad』、『NEBRASKA』に遡ると、それぞれの音楽としての凄さがよりわかりやすくなる。

      ◆
一方の浜田。テクストのセンスの悪さはあいかわらずぴか一だなあ。「MY FIRST LOVE」って……困っちゃうね。もうちょっと思弁的に、もしくはコンセプチュアルに考えろよ、って感じですか。「愛の世代の前に」とか「Home bound」などの言葉は、時代性はあるとはいえ、まあよく考えられていたのに最近は安直だわ。それともさらにその先をいっているってことですかね。
ツアーまでに新しいアルバムはでるのだろうか。そのアルバムで提示される曲と詞が、これから浜田が、ブルースになれるかどうかの判断基準になりそうだ。まあ、もっとも彼はブルースになる気はないと思うが、ではジャクソン・ブラウンになれるか?ってとこですね。


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(※1)こちらも再発売、紙ジャケ仕様にリンクしています。
(※2)たとえばスターバックスが「Reno」の歌詞がわいせつだということで『DEVILS & DUST』を販売禁止にした、とかですね。確かに「Reno」の詞は日本語に訳すと、ものすごく直接的にわいせつです。She slipped me out of mouth,"You're ready,"she said. She took off her bra and panties, wet her finger,slipped inside her, … でしょ。ただし、この曲ももちろんただエロを表現してるわけではなく、正しく落としている。

【修正】上記で、浜田省吾の「MY FIRST LOVE」について、まったくなにも調べずに、いいかげんなことを書いてしまいましたが、これはなんと、新しいアルバムのタイトルのようです。しかも、ほんとうのところは前に「Rock'n Roll is …」をつけたい気持ちのようです。そのように書いてくれれば赤面しなくてすんだのになあ。ってわけじゃなく、それでも、もうひとひねりほしいのは言うまでもありません。一般的に、浜田は「love balladeの浜田」の側面ももっているわけですが、わたしとしては「R&B」もしくは「マイナーロック」の浜田を支援したいわけで、そうなると、やはり「love」と直截に言わないloveを期待してしまうわけです。少なくとも「It is a rock'n'roll that loved first. 」ぐらいのほうがいいんじゃないか。もしくはジョン・レノンじゃないけど「rock'n'roll」にしちゃうとか。まあいずれにしても、Rock'n Roll宣言はよいことではありますが。7月6日発売。

【さらに追記】「My First Love」(といっても上原多香子のシングルじゃありませんよ)のリスト。ぼくが浜田のテキスト方面のブレインをかってでましよう。いま、日本語の技はもう少し進んでいると思うんだけどなあ。「観覧車’82」とか「翼あるもの」とか「陽の訪れのように」とか「漂泊者(アウトロー)」とか……。けっこう難しいのかなあ。

01.光と影の季節 Flash and Shadow
02.この夜に乾杯! Cheers for Tonight
03.旅立ちの朝 Brand new Morning
04.Thank you
05.デスク越しの恋 Wink
06.誰かどこかで Somewhere not here
07.I am a father
08.花火 Hanabi
09.初恋 My First Love
10.君と歩いた道(album ver.) You are the one
11.ある晴れた夏の日の午後 One Fine Summer Day




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↓予告していた文具第2弾は、
↓次の機会に。
↓本&読書もまたいつか。


ミケリウス?ミケルリウス?ミケールリュウス?

2005-05-10 16:35:44 | ◎使
ほんとはなんて呼ぶんだろ。まあいいや。久しぶりに渋谷の伊東屋に寄ってみると、輸入ノートの特設コーナーができていてスペインのmiquelriusが充実していた。目新しいラインアップは、スパイラルノートの「DCK DISIGN」と「leather-look NB」。スパイラルノートのほうは、すでに他のステーショナリーショップでも出回っていたため購入済みだったが、leather-lookのシリーズの新タイプが登場したのは久しぶりだ。

文字どおり、合成皮革のような素材を表紙としたleather-lookノートブックは、これまでは、A5サイズのものと、ちょうど片手で掴んだとき(grasp!)しっくりくる大きさのものがラインナップされていた。とりわけ、後者はサイズ&質感が気持ちいいため見つけるたびに購入していた。手帳サイズではあるが、中身は方眼だけのシンプルなものなので、どちらかというとMOLESKINEのようなメモパッド的な使い方がいいのかもしれない。以前は、いくつかの店で販売されていたが、最近では銀座の伊東屋にあるかないか程度に輸入が先細っていたわけです(そもそも、miquelriusじたいが入手困難になりつつあった)。

今回、直輸入と銘打たれて登場したのは、leather-lookのオリジナルにDIVINAS PALABRSというデザイナーの手によるエスプリがふりかけられた手帳サイズのもの。写真をご覧いただけば分かるが、ブラック、ホワイト、レッド、イエロー、ブルーの5色が用意されていて、いちおう中のページデザインもすみ分けられている。写真のようなセット販売もあるが、もちろんバラでも買える。

秀逸なのは、それぞれの背表紙につけられたタイトル。たとえば、僕が買ったイエローには「★yellow pages」と印刷されている。だからといって、便利帖ような罫線がデザインされているわけでもなく、じゃあ用紙がイエローか、といえばそうでもなく、ごく普通のホワイトペーパー方眼。したがって、タイトルはっきりいってとくに意味はない。つまり気分。それぞれは以下のようになっている。

●ブラック→ ★black list →plain white paper
●ホワイト→ ★blank page →plain white paper
●イエロー→ ★yellow pages →5mm squared
●レッド→ ★red phone → alphabetical list
●ブルー→ ★never ending story →→5mm squared
(ブルーのみ2cm厚、他は1cm厚)

なかなかにおしゃれなタイトリング。数冊欲しくなっちゃうんだけど、自宅にこれまでのleather-lookを数冊在庫していることもあり、たくさん持っていてもしようがないか、と思い、伊東屋のメルシー券でタダで買える範囲のエキセントリックな「★yellow pages」のみを購入した次第。でも5冊揃ったギフトパッケージは魅力だなあ。

ちなみにスパイラルノートの「DCK DISIGN」は、じつはこちらも久々の「仕事のミーティングで出しても恥ずかしくない」デザインシリーズ。現在使っているの「NOTE BOOK ECO4」のページがそろそろ終わりに近づいているので、つぎのクールはいったんこちらを使ってみよう。

伊東屋さんには、これからも、ぜひ頑張って「直」輸入をしていただきたいものだなあ。あ、ひょっとして、銀座の本店ならもっとラインアップが充実しているかも。


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↓約5ヶ月ぶりの文具ネタ。
↓ちなみに、次も第2弾文具ネタ予定。
↓本&読書は、どうなる?


タカハシゲンイチロウ・グレーテストヒッツ!

2005-05-08 22:24:34 | ◎読
あの「ポラーノ」と、この「ポラーノ」はどう違うのか?たまたま整理中の本棚からちくま文庫の『宮沢賢治全集 7』が発掘されたので、読み比べてみた。でも、いっこうにわからない。たとえば、この「ポラーノ」は、あの「ポラーノ」のどこかの一文をモチーフにしていて、同じ一文がこの「ポラーノ」にもあるのだが、僕が見落としているだけなのか?もしくは、「ポラーノ」という言葉の印象だけでイメージを拡げた?たしかに「ポラーノ」って、言葉としては印象きつい。でも、ここまでイメージを拡げるには、きっとあの「ポラーノ」を何十回も読んだうえで、この「ポラーノ」を何十通りも書かないと、納得いくイメージどおりのものは完成しないだろう。いやいや、だいたいそもそも宮沢賢治ですら、何回も何回も改稿しているわけだから、なにがほんとうの「ポラーノの広場」のイメージか?っていう答えもない。それとも、「ポラーノの広場」が甘美な背徳の場所であるという寓意だけをひっぱってきたのか。他の話は、はどうだろう。たとえば、「セロ弾きのゴーシュ」「春と修羅」…。

いや、そんな共通点探しなんてどうでもいい。どうでもいいと思わせる凄さがこの作品にはある。高橋源一郎が『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』で行っている哲学はそうとうの手練だ。彼にはなにか言葉を生み出すトリガーが必要であって、たまたまピュアで狂気な宮沢賢治が目にかなったということかもしれない。

絶対的な基準や根拠が欠落した世の中において、なおも求めるべき拠り所はあるのか?言葉により、人に物事を伝えるとはいったいどういことなのか?伝えたところで何か変わることはあるのか?廃墟と化した世の中で奏でる言葉を誰かが拾ってくれるのか?
義のために人を殺めることは許されるのか?ならば、この義とあの義はどちらが義なのか?そもそも、義ってなんなのか?そして「死」とはなにか?「死」を待つ気持ちは?けっして体験できることのない「死」はどんな感じなのか?こういったことを、こういったことだけを考え続けるのは、ほかにも愉しいことがある世の中いおいて正しいことなのか?考え続けたほうが、「よりよい答え」がでるのか?

もちろん、これらの難題に対する答えはでない。というか答えはない。しかし答えはでないからといって、考えるのをやめてはならない。同時に、これらのことをこれ以上ないという正しい言葉で書き出すこともできない。どんな言葉でも完全ではないから。しかし、そこに言葉がある以上、僕たちに言葉がある以上、なにかを書き出せねばならない。なぜなら、僕たちには、そこに用意されているいかにももっともらしい答え、耳元で囁かれる正しいかどうかわからないような正しい言葉への耐力の準備が必要だからだ。ときに僕たちの大切なものを掠め取ってしまうような義や感動に対抗できる物語をつくるために、考え言葉にしてみることが大切なのだ。

『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』は、最近、高橋源一郎がずーっと考え続けていることを文学の言葉に翻訳/変換しようとした作品であり、そういった意味では、試行のスタディであるともいえる。彼はボロボロになりながらも、そして大量の試作を撒き散らしながらも、そして宮沢賢治を、いやそれだけではなく日本の文学者の言葉もどんどん参照しながら、「答え」を「言葉」にしようとしている。

たとえば、こんな感じ。

「『それは、おれたちもおまえたちも、たくさん殺し、たくさん殺されたからだ。けものも殺し、人も殺す。百億もの死んだ人間や死んだ熊にとって、正しいとか、正しくないとか、そんなことになんの意味があるだろう。そいつらは、冷たい光に満ちた、変に寂しい空の下で、大きな目を見開いて、黙ってこっちを見ているんだ。どんな立派な考えも、その目のことを思うと、なんだかどうでもいいような心持ちになってしまう。』」(「氷河鼠の毛皮」)

「『あなたの書いているものを読んでいると、あなたが、あらゆることを徹底して考えようとしていることがよくわかります。しかし、なにごとも徹底しすぎるのはよろしくありませんよ。なぜなら徹底して考えるということは、そのことばかりを考えるということで、一つのことを、他の関係の中で考える、ということができなくなってしまうからです。』『おことばですが』とわたしはいいました。」(「氷河鼠の毛皮」)

「いいんだゴーシュもう『セロ』なんかひかなくても。さあ外へ出よう。外は広い外は楽しい外はなんでもある。そんな古臭い『セロ』は棄て外の空気を吸いに出よう。…………
ゴーシュはちがうと叫んで目を閉じ耳を押さえた。だがいつまでも目を閉じたままでいるわけにはいかなかった。………やがてゴーシュは彼が知っているただ一つの武器である『セロ』を手にとりひきはじめた。」(「セロ弾きのゴーシュ」)

「自分が死んでいくのが、ヒロシにはわかった。自分は『死』を『経験』しているのだ、ヒロシは思った。だから?と思った。………
おれは遺書になんて書いたっけ、とヒロシは思った。それから、
底知れぬ叡智の閃きがヒロシを襲った。
その瞬間、すべてが闇に包まれた。歌声が聞こえていた。SMAPの。夜空ノムコウ。」(「飢餓陣営」)


試作であるため多少わかりやすいのはご愛嬌。また、ここで書かれたことは、形式や筋を変えどこかで書かれているのもご愛嬌。しかし、たとえば「死」を書いているにもかかわらず「死」を書かずにわかったように「死」を書く言葉、ないしはちょっとした綺麗な教訓の言葉と対置したとき、彼の排出する言葉は、なにかを考えなければならない、と思わせてしまう。なにか、はなにかわからないが、容易ではない、ということだ。

と、えらそうなこと書いてきたけど、まだ半分程度しか読めておらず、ほんとうにそうかどうかはわからない。あらかじめ謝っておきます。すみません。でも、朝日新聞の『死の棘日記』とか『四十日と四十夜のメルヘン』 (2005_04_24)の書評でも、いいこと書いてるしまあ間違いはないだろ。


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パリ、テキサス、浄化の映像。

2005-05-07 14:52:44 | ◎観
最近、筋より絵が気になるのはロゴス疲れ?『パリ、テキサス』は、もちろん、僕がいまさら言うまでもなく筋も圧巻なんだけど、今回は深夜のねむねむ状態でみたこともあってか、どうもカメラが気持ちいい。心地いい、って言い方のほうが正しいか。実際になんやかや用事しながら見ていたので、シナリオには完全に釘付けになっていなかった(もちろんラストの天才的な仕掛けには釘付けだったけれど)。それでも飽きさせず、あきらめさせず、最後まで見させてしまうのは、やっぱり絵(と音楽)なんだよなあ。そのシーンもっと続けてくれよい、って感じのがいっぱいあるよね。

まずは冒頭。テキサスの荒野を彷徨うトラヴィス。歩く歩く歩く歩く。ウォルトに捕捉されても、また逃げてとにかくてくてくてく歩く歩く歩く歩く歩く。メカニカルな歩き方が表現する無心さの先になにかしらの謎があるはずなんだけど、そんな謎は先送りにしてもらってもいいので、もっと歩かせてくれ、あんたが歩くのをもっと見続けたいよ、とパトスくんがつぶやくわけだ。「くりかえし」の心地よさかな。

あと、劇中8mmフィルムね。これもとって巧み。巧みに撮れてるから、このあと、初めは見ることすら渋っていたハンターくんが初めてパパって言うわけだ。けっして僕がホームビデオで撮ったってああはならないんだけど、ホームビデオで撮ったように見せるスレスレの偽装は僕を幸福の心地よさへと連れ去ってしまう。

さらには、スプリングスティーンの『NEBRASKA』(※)のジャケ写のように、運転席からフロントガラス越しにみる視線。そして雨粒。ありがちといえばありがちな風景なんだけど、こういうのを無心で見続けているとなんだか雑念が浄化されていい。年に1度や2度は、こんなカタルシスも必要だわ。

ほかにも、またぞろで申しわけないけれど、ヒューストンの空とかね。ヒューストンの高速道路でのチェイスもそうだし、のぞき部屋の建物の壁とか、ウォルトの庭からアンヌと見る深刻な夜景。あと。どこだっけかホテルにひとり残され、出窓にちょんと腰掛けたハンターくんの向こうにみえるヒューストンの市街とかね。細かいところいいだすときりがない。

こういうのって、『ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ』にも共通するところがあって、それ考えると僕ってひょっとしてヴェンダースがかなり好きなんじゃない?それともライ・クーダー?うん!家で安直にBSなんか見てないで、『coffee & cigarette』見に行こう、と。

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(※)紙ジャケ仕様が再発売されるみたい。LPしかもってないので買おうっと。

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INDEX-4 2005年03月/04月

2005-05-02 22:52:40 | ◎目次
■この2ヶ月間のもくじです。どちらかというと「文学」BLOGに近くなってきていますが、だからといって現在のカテゴリーを閉鎖することなくだらだらやっていきたいと思います。でも、仕事方面への引力は働くかもしれません。仕事のスキル教育用のツールとしてのBLOGの可能性を少しは考えてみたいと思います。あと、仕事のプレゼンテーションとか。
■青木淳悟、舞城王太郎、町田康、高橋源一郎、そして今年活躍するといわれている村上春樹、さらに6月に『新潮』連載の小説論をまとめる保坂和志など、現代文学も目が離せません。多和田葉子、柴崎友香、堀江敏幸などにもトライしていきます。柴田元幸の5月の新刊も愉しみです。
■現代思想や人文系の本も読みためているので、うまい具合に「査読マラソン」などできればいいんですけれど。


◎INDEX
●INDEX-3 2005年01月/02月

◎マーケの材料
●テキストとデザインの良い関係。

◎買った本
●書店へ急げ。売り切れる前に。
●『半島を出よ』が、読み進まぬ。
●連休、本など日記。

◎ブックガイド
●読み終えた、このぶ厚い2冊をどうするか。
●世にも美しいことば入門。
●「日常」の切り出し方。
●東大のUP。
●文学理論。
●情報が伝わる階層。
●ユリイカ4月号、ブログ作法。
●『半島を出よ』は、「小説」か?
●『SIGHT』、究極のマンガ200冊(2)
●アメリカ文学を読みほどく。
●『SIGHT』、究極のマンガ200冊(1)
●村上春樹を愉しもう。
●青木淳悟を考えてみる(1)
●BRUTUSのコーヒー&タバコ特集。

◎No Music,No Life
●音楽について、いくつか。
●浜田省吾のやりたいことがわかった。
●ジャック・ジョンソン、くるり。

◎映画の記録
●ロスト・イン・トランスレーション、薄暮の東京。

◎どーでもいい話
●そろそろ、歴史小説を読んでみようか。
●傾向と対策。


※以下は、期間中エントリーのなかったカテゴリー
◎about
◎企画のフレーム
◎独りで現代思想
◎ステーショナリー



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ディスコ探偵水曜日。

2005-05-01 09:16:32 | ◎読
書く?ほんとに書く?書ける?無理じゃない?そもそも第1部しか終わってないわけだし、だいたいあなた『九十九十九』だって読んでないじゃない。でも…ってなに、そんなさびしそうな顔したってだめだよー。え、「時間」について?きたね、いきなり。高くない?ハードル。あ、あれだ。あそこに書いてある図解に反応したってことだね。あなた、とってもわかりやすいね。確かにあれは珍だよね。でもさあ。あの図って誰でも考えることじゃないの?おれは考えたよ。それも中学くらいで。え?ふつうは思っているだけの人が多くて、でもあれだけ整理された図解として書き出せる人はなかなかいないって?あなたに言われたくないよ。というか、時間ってこの話のメインテーマだよね?え?違うって?最初はそうかと思ったけど、読んでいるうちに舞城は遊んでいるだけじゃないかって思ったって?なんだかえらそうなこというじゃない。小説における時間のルールってのをまず壊してみた、って?ああ、普段は誰も疑うことなくそこにあると思っていたものを疑ってみたってわけだ。時間をぶっこわしてみたら人々はどう反応するのか、って。ふんふん、青木淳悟はそれをソフトランディングでやってみて、ふんふん、舞城は性格的にハードランディングせざるをえなかったって?ふーん。なんか面白そうね。ちょっと続き聞かせてみてよ?……えっ?それだけ?おい。だめじゃん。5行で終わってるじゃん。やっぱ、書けないじゃん。いやいや、すみませんって言われても。あなたが書きたいって言うからさあ。

え?ほかにも言いたいことはあるって?ふふふ。わかった、あれだろ?アイデンティティ。……ビンゴ?当たっちゃった?あなた、ほんとにわかりやすい・オブ・ザ・イヤーだね。いろいろ入れ替えてるもんね。こうだろ。A⇔A'⇔Bとか、C≒Dとか、ウェンズデイ=イーディー=踊り場、あと僕とか俺とかもね。まあ、確かに「ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ」って言っておきながら、単純な自分探しの問題に回収しないのは愉快だね。こういうのってフェイクなのかね?え、筆圧にまかせて書き放っただけじゃないかって?あ、先に言われたから怒ってんだ。へへへ。小説におけるアイデンティティのルールも壊してみたって?そうしたときにどんなケミストリーが起きるか?どんなシンクロニシティが尤もらしいかって?そんなややこしいこと考えてないんじゃないのかね。おれさあ、じつはたんなる推理小説、あライトノベルね、それの「新形式」に帰着させようと考えてんじゃないか、と思ってんだよ。え?あなたも同じ?だれがだれで、じつはだれなのかっていうところのテキストをしっかり読み取っておけば、最後のどんでんで臍を噛むこともないんじゃないかって?言うじゃない。で、だれがだれなの?……考え中?あんまり考えてないでしょ。鉛筆なめながらもう一回読み直してみたら?無理?そうだよねえ、読みにくいから面倒くさいもんね。時間もないし。ああ、あれだろ。今日うれしそうに買ってきた『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』も早く読みたいしねえ。わかるわかる。でもさあ。

覚悟がないんなら、書きたい書きたいっておねだりするなって、ことだよ。えっ?ピンチョンを2回読めっていったて嫌でしょう、ってか?あなたねえ。違うでしょうピンチョンとは。似てるのはガジェット感だけじゃない。ひょっとして例の物理的な図に反応してエントロピーとか思い出したんじゃない?ひえー浅すぎ。だめだよだめ。まあ、確かに『ヴァインランド』の系譜のような気がしないでもないけど、それならピンチョン風って言うより『ヴァインランド』風って言ったほうがいいかもね。……違う違う、そんなこと言ってんじゃなかったよ。覚悟だよ覚悟。ああ、第2部が出たときにもう一度読み直すって?じゃあ、そうすりゃいいじゃん。だから言ってるでしょ。いまはまだ書けないんじゃないかって。ほら、そろそろ『新潮』の6月号も出ることだし。まあ、でも第2部は載っていないか。っていうか、第2部ちゃんと書くんだろうな。まさか1年後に単行本とか言うんじゃないだろうな。あなたに言っても仕方ないけれど。

まあでもあなたの気概はわかったよ。第2部以降がでたときの期待大だね。たださあ…言っちゃっていい?結局は舞城がコメントしない限りは答えが出せないんだから、いくらあなたが立派な意見を書いても、なんて言うか…そう不毛だよね。違う?


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↑今回は調査報告っていうことでご容赦を。
↓いつか、「本&読書のblogランキング」を、
↓震撼させる書評を書くよ。いつかね、いつか。