先週あたりから柴田元幸の『アメリカン・ナルシス』を迷っているんだけど、大阪の普段使いの店では在庫している由もなく、結論の出にくいムダな迷いを来週に先送りできた。なぜ、逡巡しているかというと、まずスチュワート・ダイベックや、スティーブン・ミルハウザーに比重がおかれているとすればちょっと関心外だなあとというのがひとつ。ダイベックは読書体験もじつは興味もないし、ミルハウザーも何冊か読んではいるが(というか邦訳は全部読んでるか)あえて偏愛リストにいれるほどの作家でもない。もうひとつは、柴田先生は本職に反してやはり翻訳の人であり、読書の愉しさを伝える人であって、アメリカ文学への愛が勝ちすぎる批評・論評のは新しい切り口がないかもしれないというインプリンティング。過去に書かれた論文を一冊にまとめた、というふれこみだが、このボリウムが全てだとしたら、いささか学業としてはこころもとなく(でもふつうの大学助教授なんてこんなもんか)、斜め読みする限りでは、過去のどこかのエッセイかなりなんなり(例えば『アメリカ文学のレッスン』や『愛の見切り発車』)で目にしたことがあるような論が多そうなのも気になる。いっぽう、メルヴィルやポー、フォークナー、さらにはドライザーやサリンジャー、ピンチョンはもとより、オースター、エリクソンなどの十八番までにふれる網羅性はやはり魅力的である。とりわけカーヴァーについて章を費やしているのも興味深い。うーん、来週はきっとしかるべき書店で購入してしまうだろう。バース(ジョン)や、バーセルミ(ドナルド)(※)なんかにもまなざしが向けられていたら、言うことないんだけどなあ。
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ということで、まず京橋の紀伊國屋書店では、迷いもなく加藤典洋『僕が批評家になったわけ』。岩波の「ことばのために」シリーズの一冊で、高橋源一郎のやつはいつになるんだ、というのは置いておいて、こちらも心待ちな一巻ではあった。意外にも「内田樹」に多くのページを割いていたりしているし(電子時代に水を得た人として、また『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』への取り組みスタンスなど)、ヴァレリーの批評家としての小説『ムッシュー・テスト』を軸に小林秀雄、『徒然草』と次々に考えをハイパーリンクさせていくあたりはとても面白そうだ。加藤典洋は『言語表現法講義』以来、『敗戦後論』を経て、その論が正しいかどうかは別として、またいささか批評が謎解きレベルに堕していることは置いておいて、ぼくがわりと信頼している批評家である。『僕が批評家になったわけ』は、彼の批評家としてのバイオグラフィとディスコグラフィをまとめているようなところもあり、その点でも愉しみである。
愉しみな書を買えば、まずそれを読むことに時間を費やせばいいのだが、最近、もっぱら時間貧乏性になってしまっているため、少しでも時間ができた、このときとばかりに、北摂あたりの古書店や新古書店を車ではしごし買いだめをおこなう。江坂の天牛書店は、いつも無断でとめさせていただいていたショッピングビルの青空駐車場が、あろうことかわずか一ヶ月程度の空白を経て、TIMESの有料駐車場に様変わりしていた。観念してゲートをくぐるも、時間に迫られ古書店を鑑賞するのは、精神衛生上よいわけはなく、早々に退散。内田樹訳のレヴィナスの『タルムード四講話』(ポリロゴス叢書、国文社)といった珍しい本もあったのだが、レヴィナスのオリジナルはたぶん手に負えないだろうとあきらめる。それ以外は、じつは魅力的な本がなく、最近の天牛書店の打率の低さを嘆く。
変わって、最近、意外と高打率なのが新古書店「古本市場」。いわば子ども向けのブロックバスター古本屋なんだけど、北摂に限って言えば、同じ新古書店でも、膨大でムダな空振りが多い「BOOK OFF」に比べ、コンパクトなスイングにもかかわらず格段に効率よくヒットをかせぐ。たとえば、今回は(1)堀江敏幸『回送電車』、(2)柴崎友香『きょうのできごと』、(3)舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』(4)『ドカベン スーパースターズ編 2巻』。ぼくにしてみれば、サイクルヒットくらいの成果ではある。
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(1)じつは、いま『河岸忘日抄』を半分くらい読んだところなんだけど、これがかなり魅力的な小説になっている。堀江敏幸は、きっと別の堀江との対比で浮き彫りにする図式がわかりやすいのかもしれないが、じっくり生きること、迷い惑い思考すること、ささいな出来事や本を契機に考えを巡らせていくことの豊かさを描写する日常だけで一冊の小説になるとは驚きだ。『河岸忘日抄』については、もちろん中俣暁生が言うように係留されている船の上での移動可能性を孕んだ仮寓の「位置取り」について論を巡らせるという読み方もできるかもしれないが、ここはやはり、帯の惹句にあるように「停滞と逡巡の豊かさ」をごくシンプルに愉しむべきだろう。この愉しみを連鎖すべく堀江本(!)を探していたのだがエッセイ集『回送電車』が見事にヒットした。しばらく集中的に堀江敏幸を読んでみたい。その魅力についてすこし書き出してもいるので、またいつかエントリーしてみる。
(2)ずっと機会を逸していた柴崎友香をようやく。小説の推進力をエキセントリックな素材に求めるのではなく、描写と思考と会話の巧みさに求めるスタンスは、堀江敏幸同様であり、つまりは保坂和志同様ということなのだが、よこしまな分析欲をもたずに純粋に小説を愉しみたければ、やはりこういった言葉のたくらみに無心に身を委ねるのが正解ではある。なんの用事もオブセッションもない1日に、ゆっくり読んでみたいところだ。柴崎については、通読したのはちょっとした短編だけなので、評価は尚早すぎるが、冒頭を読む限りでは、ごくふだん使いの関西弁の巧さにより一気に小説世界に突入できた。
(3)いっぽうで読書を愉しむことが仕事の読み手としては、手に取る作品のバランスが必要ではある。静謐で遅滞する小説があるのなら一方でガジェット感とドライブ感のたっぷりの小説もあるわけで、2つを補完しながら読み進めると小説への飽くなき慈愛が持続できる。じっさい、いまぼくはいま、先に触れた『河岸忘日抄』と、マチーダ・コーの『告白』を交互に読む小説の日常を過ごしているのだが、表面的にはまったくことなる2つの小説を例えば日替わりで読み続けられることはおおいなる愉しみとなっている。じつはこの2つの物語の主人公は、そのためらい・停滞・思弁・繰言という点で深い共通点もありそんなことを考えながら読むのもまたいい。といったこともあり、堀江敏幸と舞城王太郎を対で買うというわけだ。
(4)最後は漫画。残すところ11巻のみとなった『のだめカンタービレ』と『ハチクロ』を探索するも見つからず。せっかくなので『ドカベン』を。『ドカベン スーパースターズ編』は、ドカベンオールスターズが集まるにもかかわらずストーリーが安直で読んでいなかったのだが、最近の少年チャンピオンの誌上で真田一球が楽天に入団したことを知り、そんな展開なら、と単行本を集め始めた。少なくとも「プロ野球編」よりは面白い。御大の紫綬褒章にも敬意を表しつつ。
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(※)この間、自宅の書棚を整理していたら、バーセルミの作品がたくさんでてきた。でも、これを一から読む気力はいまはないなあ。売ったらきっと高値がつくんだろうなあ。
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ということで、まず京橋の紀伊國屋書店では、迷いもなく加藤典洋『僕が批評家になったわけ』。岩波の「ことばのために」シリーズの一冊で、高橋源一郎のやつはいつになるんだ、というのは置いておいて、こちらも心待ちな一巻ではあった。意外にも「内田樹」に多くのページを割いていたりしているし(電子時代に水を得た人として、また『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』への取り組みスタンスなど)、ヴァレリーの批評家としての小説『ムッシュー・テスト』を軸に小林秀雄、『徒然草』と次々に考えをハイパーリンクさせていくあたりはとても面白そうだ。加藤典洋は『言語表現法講義』以来、『敗戦後論』を経て、その論が正しいかどうかは別として、またいささか批評が謎解きレベルに堕していることは置いておいて、ぼくがわりと信頼している批評家である。『僕が批評家になったわけ』は、彼の批評家としてのバイオグラフィとディスコグラフィをまとめているようなところもあり、その点でも愉しみである。
愉しみな書を買えば、まずそれを読むことに時間を費やせばいいのだが、最近、もっぱら時間貧乏性になってしまっているため、少しでも時間ができた、このときとばかりに、北摂あたりの古書店や新古書店を車ではしごし買いだめをおこなう。江坂の天牛書店は、いつも無断でとめさせていただいていたショッピングビルの青空駐車場が、あろうことかわずか一ヶ月程度の空白を経て、TIMESの有料駐車場に様変わりしていた。観念してゲートをくぐるも、時間に迫られ古書店を鑑賞するのは、精神衛生上よいわけはなく、早々に退散。内田樹訳のレヴィナスの『タルムード四講話』(ポリロゴス叢書、国文社)といった珍しい本もあったのだが、レヴィナスのオリジナルはたぶん手に負えないだろうとあきらめる。それ以外は、じつは魅力的な本がなく、最近の天牛書店の打率の低さを嘆く。
変わって、最近、意外と高打率なのが新古書店「古本市場」。いわば子ども向けのブロックバスター古本屋なんだけど、北摂に限って言えば、同じ新古書店でも、膨大でムダな空振りが多い「BOOK OFF」に比べ、コンパクトなスイングにもかかわらず格段に効率よくヒットをかせぐ。たとえば、今回は(1)堀江敏幸『回送電車』、(2)柴崎友香『きょうのできごと』、(3)舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』(4)『ドカベン スーパースターズ編 2巻』。ぼくにしてみれば、サイクルヒットくらいの成果ではある。
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(1)じつは、いま『河岸忘日抄』を半分くらい読んだところなんだけど、これがかなり魅力的な小説になっている。堀江敏幸は、きっと別の堀江との対比で浮き彫りにする図式がわかりやすいのかもしれないが、じっくり生きること、迷い惑い思考すること、ささいな出来事や本を契機に考えを巡らせていくことの豊かさを描写する日常だけで一冊の小説になるとは驚きだ。『河岸忘日抄』については、もちろん中俣暁生が言うように係留されている船の上での移動可能性を孕んだ仮寓の「位置取り」について論を巡らせるという読み方もできるかもしれないが、ここはやはり、帯の惹句にあるように「停滞と逡巡の豊かさ」をごくシンプルに愉しむべきだろう。この愉しみを連鎖すべく堀江本(!)を探していたのだがエッセイ集『回送電車』が見事にヒットした。しばらく集中的に堀江敏幸を読んでみたい。その魅力についてすこし書き出してもいるので、またいつかエントリーしてみる。
(2)ずっと機会を逸していた柴崎友香をようやく。小説の推進力をエキセントリックな素材に求めるのではなく、描写と思考と会話の巧みさに求めるスタンスは、堀江敏幸同様であり、つまりは保坂和志同様ということなのだが、よこしまな分析欲をもたずに純粋に小説を愉しみたければ、やはりこういった言葉のたくらみに無心に身を委ねるのが正解ではある。なんの用事もオブセッションもない1日に、ゆっくり読んでみたいところだ。柴崎については、通読したのはちょっとした短編だけなので、評価は尚早すぎるが、冒頭を読む限りでは、ごくふだん使いの関西弁の巧さにより一気に小説世界に突入できた。
(3)いっぽうで読書を愉しむことが仕事の読み手としては、手に取る作品のバランスが必要ではある。静謐で遅滞する小説があるのなら一方でガジェット感とドライブ感のたっぷりの小説もあるわけで、2つを補完しながら読み進めると小説への飽くなき慈愛が持続できる。じっさい、いまぼくはいま、先に触れた『河岸忘日抄』と、マチーダ・コーの『告白』を交互に読む小説の日常を過ごしているのだが、表面的にはまったくことなる2つの小説を例えば日替わりで読み続けられることはおおいなる愉しみとなっている。じつはこの2つの物語の主人公は、そのためらい・停滞・思弁・繰言という点で深い共通点もありそんなことを考えながら読むのもまたいい。といったこともあり、堀江敏幸と舞城王太郎を対で買うというわけだ。
(4)最後は漫画。残すところ11巻のみとなった『のだめカンタービレ』と『ハチクロ』を探索するも見つからず。せっかくなので『ドカベン』を。『ドカベン スーパースターズ編』は、ドカベンオールスターズが集まるにもかかわらずストーリーが安直で読んでいなかったのだが、最近の少年チャンピオンの誌上で真田一球が楽天に入団したことを知り、そんな展開なら、と単行本を集め始めた。少なくとも「プロ野球編」よりは面白い。御大の紫綬褒章にも敬意を表しつつ。
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(※)この間、自宅の書棚を整理していたら、バーセルミの作品がたくさんでてきた。でも、これを一から読む気力はいまはないなあ。売ったらきっと高値がつくんだろうなあ。