「本といっても小説なんかばかり読んでも仕方がない、ビジネス書を読まなければ」みたいなとてもイノセントでバイオレンスなことを言ってしまう人も多いけれど、逆こそが真であると思いたい。「ビジネス書ばかり読んでも仕方ない、もっと小説とかマンガとか人文書なんか……を読んだほうがいい」と。
しかし、そもそも何を言っているのか皆目わからない人もいるだろうし、理解してもらうためのストーリーをつくるのも一筋縄ではいかない。ほんとうに多くの言葉が必要になる。
ここで言いたいのは、仕事や生活の要素技術としてのリベラル・アーツの重要性だが、わたし自身がいずれかのジャンルのエキスパートだとういこともないし、たとえ学んだものがあったとしてもそれこそ雑学レベルの蓄積しかないため、いっさいの説得力がない。職場では、日頃なにかにつけ、ジョブズの言葉に仮託し、「TECHNOLGY & LIBERAL ARTS」こそが私たちの仕事の基盤、なんてことを言っているが、これもほとんど空虚な掛け声にすぎない。もうほとんど言葉遊びのレベルだ。
つねに援軍を求めていて、だからこそ、finalvent氏が『考える生き方』で語る、リベラル・アーツに触れる意義がなんともすばらしく、わたしが日頃言っているのはつまりこういうことだ、とそのまま剽窃したくなってしまった。「現代のリベラル・アーツというなら、人文学、社会科学、自然科学。」という整理に続き、finalvent氏は語る。
ほんとうは、この後に続く社会科学や自然科学にふれる意義もすばらしく、すべて引用したいところだけれど控えておく。
じっさいのところ、教養をたくわえたところで、日々の暮らしやとくに仕事にすぐに直接的に役立つことはないだろう。すぐにどころか、役に立つ場面なんて最後の最後まで訪れないことも多いにちがいない。
わたし自身もまあそういうものだろうと考えていたが、ここに来て、おもにコミュニケーション課題の解決において、ここいちばん踏んばれるのは、おそらく過去に文学で読んだ「思考のパターン」や思想家が考えた「構造化の手法」が土台として効いているのではないか、と思えることも増えてきた。リベラル・アーツとはまったく関係のない、単純な知識と経験の積み重ねの結果なのかもしれないが、少しぐらいは作用している可能性も皆無とはいえない。効いているか効いていないかわからない、でも少しずつは物ごとの見方と考え方が変化しているような気がする。きっと、リベラル・アーツを学ぶというのはそういうことなのだろう。
そして、なにより重要なのは、
ことだろう。日頃から「自分で考えよう、自由考えよう」、「代替の効かない人になろう」といったことを職場の訓示にすることも多いが、言っている自分もかなり難易度の高いことを言い放しにしているなあ、と反省しており、少しではあるが、補助線になるような勉強会を始めたりしている。
この下世話な話にリベラル・アーツを挿入すると、本旨がとっ散らかるかもしれないが、仕事においても自由な発想を生み出し、自由な意見を持つための基礎的なフレームワークとして、人文、社会科学の知見があるに越したことはないと思う。厳しい時代において、何か得体の知れないものに絡めとられないために、暴力に揺るぎなく抗える市民の基礎体力を高めるために、使えるものとして蓄えておくべき知はあるはずだ。
もちろん、仕事上の固有のノウハウをビジネス指南書で学習することは大切だけれど、ときにはその根っこの部分にある、歴史とともに積み重なってきた人文、社会、自然の知に目を向けることに損はない。なんとか仕事と結びつけようという小賢しい知恵を働かしたって別にかまわない。考える時間が短縮されたといったことでさえ、それはそれでひとつの成果だ。
とはいってもまあほとんどわかってもらえないとは思う。しかし、そのことついて、もうわたしがあまり話す必要もない。なぜなら、リベラル・アーツを仕事や生活に結びつけ、豊かさを手にいれているなによりのファクトが『考える生き方』に書かれているからだ。それを読めばいいだけの話だ。
しかし、そもそも何を言っているのか皆目わからない人もいるだろうし、理解してもらうためのストーリーをつくるのも一筋縄ではいかない。ほんとうに多くの言葉が必要になる。
ここで言いたいのは、仕事や生活の要素技術としてのリベラル・アーツの重要性だが、わたし自身がいずれかのジャンルのエキスパートだとういこともないし、たとえ学んだものがあったとしてもそれこそ雑学レベルの蓄積しかないため、いっさいの説得力がない。職場では、日頃なにかにつけ、ジョブズの言葉に仮託し、「TECHNOLGY & LIBERAL ARTS」こそが私たちの仕事の基盤、なんてことを言っているが、これもほとんど空虚な掛け声にすぎない。もうほとんど言葉遊びのレベルだ。
つねに援軍を求めていて、だからこそ、finalvent氏が『考える生き方』で語る、リベラル・アーツに触れる意義がなんともすばらしく、わたしが日頃言っているのはつまりこういうことだ、とそのまま剽窃したくなってしまった。「現代のリベラル・アーツというなら、人文学、社会科学、自然科学。」という整理に続き、finalvent氏は語る。
「文学が本当の意味をもつのは、むしろ仕事に脂がのる30代、40代からだ……若い日とは違う恋愛に出会うこともある。きれい事ばかりではすまない人生のなかで、ふと悪に手を染めることもある。友だちを裏切り、死に追い詰めることすらあるかもしれない。人間が生きている限り、どうしようもない問題と、その背後に潜む怪しいほどの美がある。それに真正面からぶつかっていくには、文学を深く理解する力が必要になる。安っぽい道徳や単純に信仰だけを強いるような宗教では乗り越えられはしない人生に残るのは、人間の学たる人文学である。
社会科学は、人の社会を広く見渡す力をあたえる。社会問題があるとき、ただ、それを単純な善悪の話にして正義に味方すればよいというような、日本の新聞社説のような安易な視点を冷やし……(P250)」
社会科学は、人の社会を広く見渡す力をあたえる。社会問題があるとき、ただ、それを単純な善悪の話にして正義に味方すればよいというような、日本の新聞社説のような安易な視点を冷やし……(P250)」
ほんとうは、この後に続く社会科学や自然科学にふれる意義もすばらしく、すべて引用したいところだけれど控えておく。
じっさいのところ、教養をたくわえたところで、日々の暮らしやとくに仕事にすぐに直接的に役立つことはないだろう。すぐにどころか、役に立つ場面なんて最後の最後まで訪れないことも多いにちがいない。
わたし自身もまあそういうものだろうと考えていたが、ここに来て、おもにコミュニケーション課題の解決において、ここいちばん踏んばれるのは、おそらく過去に文学で読んだ「思考のパターン」や思想家が考えた「構造化の手法」が土台として効いているのではないか、と思えることも増えてきた。リベラル・アーツとはまったく関係のない、単純な知識と経験の積み重ねの結果なのかもしれないが、少しぐらいは作用している可能性も皆無とはいえない。効いているか効いていないかわからない、でも少しずつは物ごとの見方と考え方が変化しているような気がする。きっと、リベラル・アーツを学ぶというのはそういうことなのだろう。
そして、なにより重要なのは、
「「リベラル・アーツ」は、自由市民の技芸だ。人に雇われてお金を得るための技術ではない(P246)」
ことだろう。日頃から「自分で考えよう、自由考えよう」、「代替の効かない人になろう」といったことを職場の訓示にすることも多いが、言っている自分もかなり難易度の高いことを言い放しにしているなあ、と反省しており、少しではあるが、補助線になるような勉強会を始めたりしている。
この下世話な話にリベラル・アーツを挿入すると、本旨がとっ散らかるかもしれないが、仕事においても自由な発想を生み出し、自由な意見を持つための基礎的なフレームワークとして、人文、社会科学の知見があるに越したことはないと思う。厳しい時代において、何か得体の知れないものに絡めとられないために、暴力に揺るぎなく抗える市民の基礎体力を高めるために、使えるものとして蓄えておくべき知はあるはずだ。
もちろん、仕事上の固有のノウハウをビジネス指南書で学習することは大切だけれど、ときにはその根っこの部分にある、歴史とともに積み重なってきた人文、社会、自然の知に目を向けることに損はない。なんとか仕事と結びつけようという小賢しい知恵を働かしたって別にかまわない。考える時間が短縮されたといったことでさえ、それはそれでひとつの成果だ。
とはいってもまあほとんどわかってもらえないとは思う。しかし、そのことついて、もうわたしがあまり話す必要もない。なぜなら、リベラル・アーツを仕事や生活に結びつけ、豊かさを手にいれているなによりのファクトが『考える生き方』に書かれているからだ。それを読めばいいだけの話だ。